草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
六
「魅入られたようになりまして、ぐっすり寝込みました嘉吉の奴。浪の音は耳 馴 ( な ) れても、 磯近 ( いそぢか ) へ 舳 ( へさき ) が廻って、松の風に揺り起され、肌寒うなって目を覚ましますと、そのお前様…… 体裁 ( ていたらく ) 。
山へ 上 ( あが ) ったというではなし、たかだか船の中の車座、そんな事は平気な野郎も、酒樽の 三番叟 ( さんばそう ) 、とうとうたらりたらりには肝を 潰 ( つぶ ) して、(やい、 此奴等 ( こいつら ) 、)とはずみに 引傾 ( ひっかた ) がります船底へ、仁王立に 踏 ( ふみ ) ごたえて、 喚 ( わめ ) いたそうにござります。
騒ぐな。
騒ぐまいてや、やい、嘉吉、こう見た処で、二 歩 ( ぶ ) と一両、貴様に 貸 ( かし ) のない顔はないけれど、主人のものじゃ。 引負 ( ひきおい ) をさせてまで、勘定を合わしょうなんど 因業 ( いんごう ) な事は言わぬ。場銭を集めて一樽買ったら言分あるまい。代物さえ持って帰れば、どこへ売っても 仔細 ( しさい ) はない。
なるほど言われればその通り、言訳の出来ぬことはござりませぬわ、のう。
銭さえ払えば 可 ( い ) いとして、船頭やい、船はどうする、と嘉吉が云いますと、ばら銭を 掴 ( にぎ ) った 拳 ( こぶし ) を 向顱巻 ( むかうはちまき ) の上さ突出して、半だ半だ、何、船だ。船だ船だ、と夢中でおります。
嘉吉が、そこで、はい、 櫓 ( ろ ) を握って、ぎっちらこ。幽霊船の 歩 ( ぶ ) に取られたような顔つきで、 漕出 ( こぎだ ) したげでござりますが、酒の 匂 ( におい ) に我慢が出来ず……
御繁昌 ( ごはんじょう ) の 旦那 ( だんな ) から、一杯おみきを遣わされ、と 咽喉 ( のど ) をごくごくさして、口を開けるで、さあ、飲まっせえ、と 注 ( つ ) ぎにかかる、と 幾干 ( いくら ) か差引くか、と念を推したげで、のう、ここらは 確 ( たしか ) でござりました。
幡随院長兵衛じゃ、酒を振舞うて銭を取るか。しみったれたことを云うな、と勝った奴がいきります。
お 手渡 ( てわたし ) で下される儀は、皆の衆も御面倒、これへ、と云うて、あか 柄杓 ( びしゃく ) を突出いて、どうどうと受けました。あの 大面 ( おおづら ) が、お前様、片手で櫓を、はい、押しながら、その 馬柄杓 ( ばびしゃく ) のようなもので、片手で、ぐいぐいと 煽 ( あお ) ったげな。
酒は一樽 打抜 ( ぶちぬ ) いたで、ちっとも 惜気 ( おしげ ) はござりませぬ。海からでも湧出すように、大気になって、もう一つやらっせえ、丁だ、それ、心祝いに飲ますべい、代は要らぬ。
帰命頂礼 ( きみょうちょうらい ) 、 賽 ( さい ) ころ明神の 兀天窓 ( はげあたま ) 、光る光る、と 追従 ( ついしょう ) 云うて、あか柄杓へまた一杯、煽るほどに飲むほどに、 櫓拍子 ( ろびょうし ) が乱になって、船はぐらぐら大揺れ小揺れじゃ、こりゃならぬ、賽が 据 ( すわ ) らぬ。
ええ、気に入らずば代って 漕 ( こ ) げさ、と滅多押しに、それでも、 大崩壊 ( おおくずれ ) の鼻を廻って、出島の中へ漕ぎ入れたでござります。
さあ、 内海 ( うちうみ ) の青畳、座敷へ入ったも 同 ( おんな ) じじゃ、と心が緩むと、嘉吉 奴 ( め ) が、酒代を渡してくれ、勝負が済むまで内金を受取ろう、と櫓を離した手に 銭 ( おあし ) を握ると、懐へでも入れることか、片手に、あか 柄杓 ( びしゃく ) を持ったなりで、チョボ一の中へ飛込みましたが。
はて、 河童 ( かっぱ ) 野郎、 身投 ( みなげ ) するより始末の悪さ。こうなっては、お前様、もう浮ぶ瀬はござりませぬ。
取られて取られて、とうとう、のう、御主人へ持って 行 ( ゆ ) く、一樽のお代を 無 ( みな ) にしました。処で、 自棄 ( やけ ) じゃ、賽の目が 十 ( とお ) に見えて、わいらの頭が五十ある、浜がぐるぐる廻るわ廻るわ。さあ漕がば漕げ、殺さば殺せ、とまたふんぞった時分には、ものの一斗ぐらい嘉吉一人で飲んだであろ。七人のあたまさえ四斗樽、これがあらかた片附いて、浜へ樽を上げた時、重いつもりで両手をかけて、えい、と腰を切った拍子抜けに、向うへのめって、樽が、ばっちゃん、嘉吉がころり、どんとのめりましたきり、早や死んだも同然。
船はそれまで、ぐるりぐるりと長者園の浦を廻って、ちょうどあの、活動写真の難船見たよう、波風の音もせずに漂うていましたげな。 両膚脱 ( りょうはだぬぎ ) の胸毛や、 大胡坐 ( おおあぐら ) の脛の毛へ、夕風が 颯 ( さっ ) とかかって、 悚然 ( ぞっ ) として、 皆 ( みんな ) が少し正気づくと、一ツ星も見えまする。 大巌 ( おおいわ ) の崖が薄黒く、目の前へ 蔽被 ( おっかぶ ) さって、 物凄 ( ものすご ) うもなりましたので、 褌 ( ふんどし ) を 緊 ( し ) め直すやら、 膝小僧 ( ひざっこぞう ) を合わせるやら、お船頭が、ほういほうい、と鳥のような懸声で、浜へ船をつけまして、正体のない嘉吉を 撲 ( な ) ぐる。と、むっくり起きたが、その酒樽の軽いのに、本性 違 ( たが ) わず 気落 ( きおち ) がして、右の、倒れたものでござりますよ。はい。」
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