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「魅入られたようになりまして、ぐっすり寝込みました嘉吉の奴。浪の音は耳 れても、 磯近 いそぢか へさき が廻って、松の風に揺り起され、肌寒うなって目を覚ましますと、そのお前様…… 体裁 ていたらく

 山へ あが ったというではなし、たかだか船の中の車座、そんな事は平気な野郎も、酒樽の 三番叟 さんばそう 、とうとうたらりたらりには肝を つぶ して、(やい、 此奴等 こいつら 、)とはずみに 引傾 ひっかた がります船底へ、仁王立に ふみ ごたえて、 わめ いたそうにござります。

 騒ぐな。

 騒ぐまいてや、やい、嘉吉、こう見た処で、二 と一両、貴様に かし のない顔はないけれど、主人のものじゃ。 引負 ひきおい をさせてまで、勘定を合わしょうなんど 因業 いんごう な事は言わぬ。場銭を集めて一樽買ったら言分あるまい。代物さえ持って帰れば、どこへ売っても 仔細 しさい はない。

 なるほど言われればその通り、言訳の出来ぬことはござりませぬわ、のう。

 銭さえ払えば いとして、船頭やい、船はどうする、と嘉吉が云いますと、ばら銭を にぎ った こぶし 向顱巻 むかうはちまき の上さ突出して、半だ半だ、何、船だ。船だ船だ、と夢中でおります。

 嘉吉が、そこで、はい、 を握って、ぎっちらこ。幽霊船の に取られたような顔つきで、 漕出 こぎだ したげでござりますが、酒の におい に我慢が出来ず……

  御繁昌 ごはんじょう 旦那 だんな から、一杯おみきを遣わされ、と 咽喉 のど をごくごくさして、口を開けるで、さあ、飲まっせえ、と ぎにかかる、と 幾干 いくら か差引くか、と念を推したげで、のう、ここらは たしか でござりました。

 幡随院長兵衛じゃ、酒を振舞うて銭を取るか。しみったれたことを云うな、と勝った奴がいきります。

 お 手渡 てわたし で下される儀は、皆の衆も御面倒、これへ、と云うて、あか 柄杓 びしゃく を突出いて、どうどうと受けました。あの 大面 おおづら が、お前様、片手で櫓を、はい、押しながら、その 馬柄杓 ばびしゃく のようなもので、片手で、ぐいぐいと あお ったげな。

 酒は一樽 打抜 ぶちぬ いたで、ちっとも 惜気 おしげ はござりませぬ。海からでも湧出すように、大気になって、もう一つやらっせえ、丁だ、それ、心祝いに飲ますべい、代は要らぬ。

  帰命頂礼 きみょうちょうらい さい ころ明神の 兀天窓 はげあたま 、光る光る、と 追従 ついしょう 云うて、あか柄杓へまた一杯、煽るほどに飲むほどに、 櫓拍子 ろびょうし が乱になって、船はぐらぐら大揺れ小揺れじゃ、こりゃならぬ、賽が すわ らぬ。

 ええ、気に入らずば代って げさ、と滅多押しに、それでも、 大崩壊 おおくずれ の鼻を廻って、出島の中へ漕ぎ入れたでござります。

 さあ、 内海 うちうみ の青畳、座敷へ入ったも おんな じじゃ、と心が緩むと、嘉吉 が、酒代を渡してくれ、勝負が済むまで内金を受取ろう、と櫓を離した手に おあし を握ると、懐へでも入れることか、片手に、あか 柄杓 びしゃく を持ったなりで、チョボ一の中へ飛込みましたが。

 はて、 河童 かっぱ 野郎、 身投 みなげ するより始末の悪さ。こうなっては、お前様、もう浮ぶ瀬はござりませぬ。

 取られて取られて、とうとう、のう、御主人へ持って く、一樽のお代を みな にしました。処で、 自棄 やけ じゃ、賽の目が とお に見えて、わいらの頭が五十ある、浜がぐるぐる廻るわ廻るわ。さあ漕がば漕げ、殺さば殺せ、とまたふんぞった時分には、ものの一斗ぐらい嘉吉一人で飲んだであろ。七人のあたまさえ四斗樽、これがあらかた片附いて、浜へ樽を上げた時、重いつもりで両手をかけて、えい、と腰を切った拍子抜けに、向うへのめって、樽が、ばっちゃん、嘉吉がころり、どんとのめりましたきり、早や死んだも同然。

 船はそれまで、ぐるりぐるりと長者園の浦を廻って、ちょうどあの、活動写真の難船見たよう、波風の音もせずに漂うていましたげな。 両膚脱 りょうはだぬぎ の胸毛や、 大胡坐 おおあぐら の脛の毛へ、夕風が さっ とかかって、 悚然 ぞっ として、 みんな が少し正気づくと、一ツ星も見えまする。 大巌 おおいわ の崖が薄黒く、目の前へ 蔽被 おっかぶ さって、 物凄 ものすご うもなりましたので、 ふんどし め直すやら、 膝小僧 ひざっこぞう を合わせるやら、お船頭が、ほういほうい、と鳥のような懸声で、浜へ船をつけまして、正体のない嘉吉を ぐる。と、むっくり起きたが、その酒樽の軽いのに、本性 たが わず 気落 きおち がして、右の、倒れたものでござりますよ。はい。」