草迷宮 泉鏡花 (Kusameikyu) | ||
三十六
声を聞いたより形を見れば、なお 確実 ( たしか ) に、飛石を這って 呻 ( うめ ) いていたのは、苦虫の仁右衛門であった。
月明 ( つきあかり ) に、まさしくそれと認めが着くと、 同一 ( おなじ ) 疑 ( うたがい ) の 中 ( うち ) にもいくらか 与易 ( くみしやす ) く思った処へ、明が 行燈 ( あんどう ) を提げて来たので、ますます力づいた宰八は、二人の指図に、思切って庭へ出たが、もうそれまでに 漕 ( こ ) ぎ着ければ、露に濡れる分は 厭 ( いと ) わぬ親仁。
さやさやと 葎 ( むぐら ) を分けて、おじいどうした、と 摺寄 ( すりよ ) ると、ああ、宰八か助けてくれ。この手を 引張 ( ひっぱ ) って、と拝むがごとく指出した。左の 腕 ( かいな ) を、ぐい、と 掴 ( つか ) んで、 獣 ( けもの ) にしては毛が少ねえ、おおおお 正真 ( しょうじん ) 正銘の仁右衛門だ、よく化けた、とまだそんな事を云いながら、肩にかけて 引立 ( ひった ) てると、飛石から離れるのが 泥田 ( どろだ ) を踏むような足取りで、せいせい 呼吸 ( いき ) を切って、しがみつくので、 咽喉 ( のど ) がしまる、と 呟 ( つぶや ) きながら、宰八も 疾 ( はや ) く 埒 ( らち ) を明けたさに、委細構わずずるずる 引摺 ( ひきず ) って縁側に来る間に、明はもう一枚、雨戸を開けて待構えて、気分はどう?まあ、こちらへ、と手伝って引入れた、仁右衛門の右の手は、 竹槍 ( たけやり ) を握っていたのである。
これは、と驚くと、 仔細 ( しさい ) ござります。水を一口、と云う舌も 硬 ( こわ ) ばり、唇は土気色。手首も冷たく 只戦 ( ひたわなな ) きに戦くので、ともかく座敷へ連れよう……何しろ危いから、こういうものはと、竹槍は明が預る。
引 ( ひっ ) そいだ 切尖 ( きっさき ) の 鋭 ( するど ) いのが、 法衣 ( ころも ) の袖を 掠 ( かす ) ったから、 背後 ( うしろ ) に立った僧は慌てて身を開いて、行燈は手前が、とこれが先へ立つ。
さあ 負 ( おぶ ) され、と蟹の甲を押向けると、いや、それには及ばぬ、と云った仁右衛門が、僧の 裾 ( すそ ) を 啣 ( くわ ) えた 体 ( てい ) に、膝で 摺 ( ず ) って縁側へ 這上 ( はいあが ) った。
あとへ、竹槍の青光りに艶のあるのを、柄長に取って、明が続く。
背後 ( うしろ ) で雨戸を閉めかけて、おじい、腰が抜けたか、弱い男だ、とどうやら 風向 ( かざむき ) が 可 ( よ ) さそうなので、宰八が 嘲 ( あざ ) けると、うんにゃ足の裏が血だらけじゃ、 歩行 ( あるく ) と 痕 ( あと ) がつく、と這いながら云ったので――イヤその音の 夥 ( おびただ ) しさ。がらりと閉め棄てに、明の 背 ( せな ) へ 飛縋 ( とびすが ) った。―― 真先 ( まっさき ) へ行燈が、坊さまの
あたり宙を 歩行 ( ある ) いて、血だらけだ、と云う苦虫が馬の 這身 ( はいみ ) 、竹槍が 後 ( しりえ ) を 圧 ( おさ ) えて、暗がりを蟹が通る。……広縁をこの 体 ( てい ) は、さてさて 尋常事 ( ただごと ) ではない。やがて座敷で介抱して、ようよう正気づくと、仁右衛門は 四辺 ( あたり ) を
※ ( みまわ ) し、あまたたび 口籠 ( くちごも ) りながら、相済みましねえ、お客様、御出家、宰八 此方 ( こなた ) にはなおの事、四十年来の 知己 ( ちかづき ) が、余り気心を知らんようで、面目もない次第じゃ。御主人鶴谷様のこの別宅、近頃の怪しさ不思議さ。余りの事に、これは 一 ( ひと ) 分別ある処と、三日 二夜 ( ふたよる ) 、口も利かずにまじまじと勘考した。はて 巧 ( たく ) んだり!てっきりこいつ 大詐欺 ( おおかたり ) に極まった。 汝等 ( うぬら ) が 謀 ( はか ) って、見事に 妖物邸 ( ばけものやしき ) にしおおせる。棄て置けば 狐狸 ( こり ) の 棲処 ( すみか ) 、さもないまでも乞食の宿、 焚火 ( たきび ) の火 沙汰 ( ざた ) も不用心、給金出しても人は住まず、持余しものになるのを見済まし、立腐れの柱を根こぎに、瓦屋根を踏倒して、 股倉 ( またぐら ) へ 掻込 ( かいこ ) む算段、図星図星。しゃ!明神様の 託宣 ( おつげ ) ――と 眼玉 ( まなこだま ) で 睨 ( にら ) んで見れば、どうやら近頃から 逗留 ( とうりゅう ) した渡りものの 書生坊 ( しょせっぽう ) 、悪く優しげな 顔色 ( つらつき ) も、絵草子で見た 自来也 ( じらいや ) だぞ、盗賊の張本ござんなれ。晩方 来 ( う ) せた旅僧めも、その同類、茶店の 婆 ( ばば ) も怪しいわ。手引した宰八も抱込まれたに相違ない。道理こそ化物沙汰に輪を 掛 ( かけ ) る。待て待て 狂人 ( きちがい ) の真似何でもない事、嘉吉も一升飲まされた―― 巫山戯 ( ふざけ ) た 奴等 ( やつら ) 、どこだと思う。秋谷村には甘え柿と、苦虫あるを知んねえか、とわざと臆病に見せかけて、宵に 遁 ( に ) げたは 真田幸村 ( さなだゆきむら ) 、やがてもり返して 盗賊 ( どろぼう ) の巣を 乗取 ( のっと ) る 了簡 ( りょうけん ) 。
いつものように 黄昏 ( たそがれ ) の軒をうろつく、嘉吉 奴 ( め ) を 引捉 ( ひっとら ) え、 確 ( しか ) と親元へ預け置いたは、屋根から 天蚕糸 ( てぐす ) に 鉤 ( はり ) をかけて、行燈を釣らせぬ分別。
かねて 謀計 ( はかりごと ) を 喋合 ( しめしあわ ) せた、同じく晩方 遁 ( に ) げる、と見せた、学校の訓導と、その筋の 諜者 ( ちょうじゃ ) を勤むる、 狐店 ( きつねみせ ) の親方を誘うて、この三人、十分に支度をした。
二人は表門へ立向い、仁右衛門はただ一人、怪しきものは突殺そう。狸に化けた人間を 打殺 ( ぶちころ ) すに仔細はない、と竹槍を 引 ( ひっ ) そばめて、木戸口から庭づたいに、月あかりを 辿 ( たど ) り辿り、雨戸をあてに近づいて、何か、手品の種がありはせぬか、と透かして屋根の 周囲 ( まわり ) をぐるりと見ると。……
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