城崎を憶ふ
泉鏡花 (Ki no saki o omou) | ||
城崎を憶ふ
泉鏡花
雨 ( あめ ) が、さつと 降出 ( ふりだ ) した、 停車場 ( ていしやば ) へ 着 ( つ ) いた 時 ( とき ) で―― 天象 ( せつ ) は 卯 ( う ) の 花 ( はな ) くだしである。 敢 ( あへ ) て 字義 ( じぎ ) に 拘泥 ( こうでい ) する 次第 ( しだい ) ではないが、 雨 ( あめ ) は 其 ( そ ) の 花 ( はな ) を 亂 ( みだ ) したやうに、 夕暮 ( ゆふぐれ ) に 白 ( しろ ) かつた。やゝ 大粒 ( おほつぶ ) に 見 ( み ) えるのを、もし 掌 ( たなごころ ) にうけたら、 冷 ( つめた ) く、そして、ぼつと 暖 ( あたゝか ) に 消 ( き ) えたであらう。 空 ( そら ) は 暗 ( くら ) く、 風 ( かぜ ) も 冷 ( つめ ) たかつたが、 温泉 ( ゆ ) の 町 ( まち ) の 但馬 ( たじま ) の 五月 ( ごぐわつ ) は、 爽 ( さわやか ) であつた。
俥 ( くるま ) は 幌 ( ほろ ) を 深 ( ふか ) くしたが、 雨 ( あめ ) を 灌 ( そゝ ) いで、 鬱陶 ( うつたう ) しくはない。 兩側 ( りやうがは ) が 高 ( たか ) い 屋並 ( やなみ ) に 成 ( な ) つたと 思 ( おも ) ふと、 立迎 ( たちむか ) ふる 山 ( やま ) の 影 ( かげ ) が 濃 ( こ ) い 緑 ( みどり ) を 籠 ( こ ) めて、 輻 ( や ) とともに 動 ( うご ) いて 行 ( ゆ ) く。まだ 暮果 ( くれは ) てず 明 ( あかる ) いのに、 濡 ( ぬ ) れつゝ、ちらちらと 灯 ( ひとも ) れた 電燈 ( でんとう ) は、 燕 ( つばめ ) を 魚 ( さかな ) のやうに 流 ( なが ) して、 靜 ( しづか ) な 谿川 ( たにがは ) に 添 ( そ ) つた。 流 ( ながれ ) は 細 ( ほそ ) い。 横 ( よこ ) に 二 ( ふた ) つ 三 ( み ) つ、 續 ( つゞ ) いて 木造 ( もくざう ) の 橋 ( はし ) が 濡色 ( ぬれいろ ) に 光 ( ひか ) つた、 此 ( これ ) が 旅行案内 ( りよかうあんない ) で 知 ( し ) つた 圓山川 ( まるやまがは ) に 灌 ( そゝ ) ぐのである。
此 ( こ ) の 景色 ( けしき ) の 中 ( なか ) を、しばらくして、 門 ( もん ) の 柳 ( やなぎ ) を 潛 ( くゞ ) り、 帳場 ( ちやうば ) の 入 ( い ) らつしやい――を 横 ( よこ ) に 聞 ( き ) いて、 深 ( ふか ) い 中庭 ( なかには ) の 青葉 ( あをば ) を 潛 ( くゞ ) つて、 別 ( べつ ) にはなれに 構 ( かま ) へた 奧玄關 ( おくげんくわん ) に 俥 ( くるま ) が 着 ( つ ) いた。 旅館 ( りよくわん ) の 名 ( な ) の 合羽屋 ( かつぱや ) もおもしろい。
へい、ようこそお 越 ( こ ) しで。 挨拶 ( あいさつ ) とともに 番頭 ( ばんとう ) がズイと 掌 ( てのひら ) で 押出 ( おしだ ) して、 扨 ( さ ) て 默 ( だま ) つて 顏色 ( かほいろ ) を 窺 ( うかゞ ) つた、 盆 ( ぼん ) の 上 ( うへ ) には、 湯札 ( ゆふだ ) と、 手拭 ( てぬぐひ ) が 乘 ( の ) つて、 上 ( うへ ) に 請求書 ( せいきうしよ ) 、むかし「かの」と 云 ( い ) つたと 聞 ( き ) くが 如 ( ごと ) き 形式 ( けいしき ) のものが 飜然 ( ひらり ) とある。おや/\ 前勘 ( まへかん ) か。 否 ( いな ) 、 然 ( さ ) うでない。…… 特 ( とく ) 、 一 ( いち ) 、 二 ( に ) 、 三等 ( さんとう ) の 相場 ( さうば ) づけである。 温泉 ( をんせん ) の 雨 ( あめ ) を 掌 ( たなごころ ) に 握 ( にぎ ) つて、 我 ( わ ) がものにした 豪儀 ( ごうぎ ) な 客 ( きやく ) も、ギヨツとして、 此 ( こ ) れは 悄氣 ( しよげ ) る…… 筈 ( はず ) の 處 ( ところ ) を…… 又 ( また ) 然 ( さ ) うでない。 實 ( じつ ) は 一昨年 ( いつさくねん ) の 出雲路 ( いづもぢ ) の 旅 ( たび ) には、 仔細 ( しさい ) あつて 大阪朝日新聞 ( おほさかあさひしんぶん ) 學藝部 ( がくげいぶ ) の 春山氏 ( はるやまし ) が 大屋臺 ( おほやたい ) で 後見 ( こうけん ) について 居 ( ゐ ) た。 此方 ( こつち ) も 默 ( だま ) つて、 特等 ( とくとう ) 、とあるのをポンと 指 ( ゆび ) のさきで 押 ( お ) すと、 番頭 ( ばんとう ) が 四五尺 ( しごしやく ) する/\と 下 ( さが ) つた。( 百兩 ( ひやくりやう ) をほどけば 人 ( ひと ) をしさらせる) 古川柳 ( こせんりう ) に 對 ( たい ) して 些 ( ち ) と 恥 ( はづ ) かしいが( 特等 ( とくとう ) といへば 番頭 ( ばんとう ) 座 ( ざ ) をしさり。)は 如何 ( いかん ) ? 串戲 ( じようだん ) ぢやあない。が、 事實 ( じじつ ) である。
棟近 ( むねちか ) き 山 ( やま ) の 端 ( は ) かけて、 一陣 ( いちぢん ) 風 ( かぜ ) が 渡 ( わた ) つて、まだ 幽 ( かすか ) に 影 ( かげ ) の 殘 ( のこ ) つた 裏櫺子 ( うられんじ ) の 竹 ( たけ ) がさら/\と 立騷 ( たちさわ ) ぎ、 前庭 ( ぜんてい ) の 大樹 ( たいじゆ ) の 楓 ( かへで ) の 濃 ( こ ) い 緑 ( みどり ) を 壓 ( おさ ) へて 雲 ( くも ) が 黒 ( くろ ) い。「 風 ( かぜ ) が 出 ( で ) ました、もう 霽 ( あが ) りませう。」「これはありがたい、お 禮 ( れい ) を 言 ( い ) ふよ。」「ほほほ。」ふつくり 色白 ( いろじろ ) で、 帶 ( おび ) をきちんとした 島田髷 ( しまだまげ ) の 女中 ( ぢよちう ) は、 白地 ( しろぢ ) の 浴衣 ( ゆかた ) の 世話 ( せわ ) をしながら 笑 ( わら ) つたが、 何 ( なに ) を 祕 ( かく ) さう、 唯今 ( たゞいま ) の 雲行 ( くもゆき ) に、 雷鳴 ( らいめい ) をともなひはしなからうかと、 氣遣 ( きづか ) つた 處 ( ところ ) だから、 土地 ( とち ) ツ 子 ( こ ) の 天氣豫報 ( てんきよはう ) の、 風 ( かぜ ) 、 晴 ( はれ ) 、に 感謝 ( かんしや ) の 意 ( い ) を 表 ( へう ) したのであつた。
すぐ 女中 ( ぢよちう ) の 案内 ( あんない ) で、 大 ( おほき ) く 宿 ( やど ) の 名 ( な ) を 記 ( しる ) した 番傘 ( ばんがさ ) を、 前後 ( あとさき ) に 揃 ( そろ ) へて 庭下駄 ( にはげた ) で 外湯 ( そとゆ ) に 行 ( ゆ ) く。 此 ( こ ) の 景勝 ( けいしよう ) 愉樂 ( ゆらく ) の 郷 ( きやう ) にして、 内湯 ( うちゆ ) のないのを 遺憾 ( ゐかん ) とす、と 云 ( い ) ふ、 贅澤 ( ぜいたく ) なのもあるけれども、 何 ( なに ) 、 青天井 ( あをてんじやう ) 、いや、 滴 ( したゝ ) る 青葉 ( あをば ) の 雫 ( しづく ) の 中 ( なか ) なる 廊下 ( らうか ) 續 ( つゞ ) きだと 思 ( おも ) へば、 渡 ( わた ) つて 通 ( とほ ) る 橋 ( はし ) にも、 川 ( かは ) にも、 細々 ( こま/″\ ) とからくりがなく 洒張 ( さつぱ ) りして 一層 ( いつそう ) 好 ( い ) い。 本雨 ( ほんあめ ) だ。 第一 ( だいいち ) 、 馴 ( な ) れた 家 ( いへ ) の 中 ( なか ) を 行 ( ゆ ) くやうな、 傘 ( かさ ) さした 女中 ( ぢよちう ) の 斜 ( なゝめ ) な 袖 ( そで ) も、 振事 ( ふりごと ) のやうで 姿 ( すがた ) がいゝ。
―― 湯 ( ゆ ) はきび/\と 熱 ( あつ ) かつた。 立 ( た ) つと 首 ( くび ) ツたけある。 誰 ( たれ ) の?…… 知 ( し ) れた 事 ( こと ) 拙者 ( せつしや ) のである。 處 ( ところ ) で、 此 ( こ ) のくらゐ 熱 ( あつ ) い 奴 ( やつ ) を、と 顏 ( かほ ) をざぶ/\と 冷水 ( れいすゐ ) で 洗 ( あら ) ひながら 腹 ( はら ) の 中 ( なか ) で 加減 ( かげん ) して、やがて、 湯 ( ゆ ) を 出 ( で ) る、ともう 雨 ( あめ ) は 霽 ( あが ) つた。 持 ( もち ) おもりのする 番傘 ( ばんがさ ) に、 片手腕 ( かたてうで ) まくりがしたいほど、 身 ( み ) のほてりに 夜風 ( よかぜ ) の 冷 ( つめた ) い 快 ( こゝろよ ) さは、 横町 ( よこちやう ) の 錢湯 ( せんたう ) から 我家 ( わがや ) へ 歸 ( かへ ) る 趣 ( おもむき ) がある。 但 ( たゞ ) 往交 ( ゆきか ) ふ 人々 ( ひと/″\ ) は、 皆 ( みな ) 名所繪 ( めいしよゑ ) の 風情 ( ふぜい ) があつて、 中 ( なか ) には 塒 ( ねぐら ) に 立迷 ( たちまよ ) ふ 旅商人 ( たびあきうど ) の 状 ( さま ) も 見 ( み ) えた。
並 ( なら ) んだ 膳 ( ぜん ) は、 土地 ( とち ) の 由緒 ( ゆゐしよ ) と、 奧行 ( おくゆき ) をもの 語 ( がた ) る。 手 ( て ) を 突張 ( つツぱ ) ると 外 ( はづ ) れさうな 棚 ( たな ) から 飛出 ( とびだ ) した 道具 ( だうぐ ) でない。 藏 ( くら ) から 顯 ( あら ) はれた 器 ( うつは ) らしい。 御馳走 ( ごちそう ) は――
鯛 ( たひ ) の 味噌汁 ( みそしる ) 。 人參 ( にんじん ) 、じやが、 青豆 ( あをまめ ) 、 鳥 ( とり ) の 椀 ( わん ) 。 鯛 ( たひ ) の 差味 ( さしみ ) 。 胡瓜 ( きうり ) と 烏賊 ( いか ) の 酢 ( す ) のもの。 鳥 ( とり ) の 蒸燒 ( むしやき ) 。 松蕈 ( まつたけ ) と 鯛 ( たひ ) の 土瓶蒸 ( どびんむし ) 。 香 ( かう ) のもの。 青菜 ( あをな ) の 鹽漬 ( しほづけ ) 、 菓子 ( くわし ) 、 苺 ( いちご ) 。
所謂 ( いはゆる ) 、 貧僧 ( ひんそう ) のかさね 齋 ( どき ) で、ついでに 翌朝 ( よくてう ) の 分 ( ぶん ) を 記 ( しる ) して 置 ( お ) く。
蜆 ( しゞみ ) 、 白味噌汁 ( しろみそしる ) 。 大蛤 ( おほはまぐり ) 、 味醂蒸 ( みりんむし ) 。 並 ( ならび ) に 茶碗蒸 ( ちやわんむし ) 。 蕗 ( ふき ) 、 椎茸 ( しひたけ ) つけあはせ、 蒲鉾 ( かまぼこ ) 、 鉢 ( はち ) 。 淺草海苔 ( あさくさのり ) 。
大 ( おほき ) な 蛤 ( はまぐり ) 、 十 ( と ) ウばかり。( 註 ( ちう ) 、ほんたうは 三個 ( さんこ ) )として、 蜆 ( しゞみ ) も 見事 ( みごと ) だ、 碗 ( わん ) も 皿 ( さら ) もうまい/\、と 慌 ( あわ ) てて 瀬戸 ( せと ) ものを 噛 ( かじ ) つたやうに、 覺 ( おぼ ) えがきに 記 ( しる ) してある。 覺 ( おぼ ) え 方 ( かた ) はいけ 粗雜 ( ぞんざい ) だが、 料理 ( れうり ) はいづれも 念入 ( ねんい ) りで、 分量 ( ぶんりやう ) も 鷹揚 ( おうやう ) で、 聊 ( いさゝか ) もあたじけなくない 處 ( ところ ) が 嬉 ( うれ ) しい。
三味線 ( さみせん ) 太鼓 ( たいこ ) は、よその 二階三階 ( にかいさんがい ) の 遠音 ( とほね ) に 聞 ( き ) いて、 私 ( わたし ) は、ひつそりと 按摩 ( あんま ) と 話 ( はな ) した。 此 ( こ ) の 按摩 ( あんま ) どのは、 團栗 ( どんぐり ) の 如 ( ごと ) く 尖 ( とが ) つた 頭 ( あたま ) で、 黒目金 ( くろめがね ) を 掛 ( か ) けて、 白 ( しろ ) の 筒袖 ( つゝそで ) の 上被 ( うはつぱり ) で、 革鞄 ( かはかばん ) を 提 ( さ ) げて、そくに 立 ( た ) つて、「お 療治 ( れうぢ ) 。」と 顯 ( あら ) はれた。―― 勝手 ( かつて ) が 違 ( ちが ) つて、 私 ( わたし ) は 一寸 ( ちよつと ) 不平 ( ふへい ) だつた。が、 按摩 ( あんま ) は 宜 ( よろ ) しう、と 縁側 ( えんがは ) を 這 ( は ) つたのでない。 此方 ( こちら ) から 呼 ( よ ) んだので、 術者 ( じゆつしや ) は 來診 ( らいしん ) の 氣組 ( きぐみ ) だから 苦情 ( くじやう ) は 言 ( い ) へぬが 驚 ( おどろ ) いた。 忽 ( たちま ) ち、 縣下 ( けんか ) 豐岡川 ( とよをかがは ) の 治水工事 ( ちすゐこうじ ) 、 第一期 ( だいいつき ) 六百萬圓 ( ろつぴやくまんゑん ) 也 ( なり ) 、と 胸 ( むね ) を 反 ( そ ) らしたから、 一 ( ひと ) すくみに 成 ( な ) つて、 内々 ( ない/\ ) 期待 ( きたい ) した 狐狸 ( きつねたぬき ) どころの 沙汰 ( さた ) でない。あの、 潟 ( かた ) とも 湖 ( みづうみ ) とも 見 ( み ) えた…… 寧 ( むし ) ろ 寂然 ( せきぜん ) として 沈 ( しづ ) んだ 色 ( いろ ) は、 大 ( おほい ) なる 古沼 ( ふるぬま ) か、 千年 ( ちとせ ) 百年 ( もゝとせ ) ものいはぬ 靜 ( しづ ) かな 淵 ( ふち ) かと 思 ( おも ) はれた 圓山川 ( まるやまがは ) の 川裾 ( かはすそ ) には―― 河童 ( かつぱ ) か、 獺 ( かはうそ ) は?……などと 聞 ( き ) かうものなら、はてね、 然 ( さ ) やうなものが 鯨 ( くぢら ) の 餌 ( ゑさ ) にありますか、と 遣 ( や ) りかねない 勢 ( いきほひ ) で。 一 ( ひと ) つ 驚 ( おどろ ) かされたのは、 思 ( おも ) ひのほか、 魚 ( さかな ) が 結構 ( けつこう ) だ、と 云 ( い ) つたのを 嘲笑 ( あざわら ) つて、つい 津居山 ( つゐやま ) の 漁場 ( ぎよぢやう ) には、 鯛 ( たひ ) も 鱸 ( すゞき ) もびち/\ 刎 ( は ) ねて 居 ( ゐ ) ると、 掌 ( てのひら ) を 肩 ( かた ) で 刎 ( は ) ねた。よくせき 土地 ( とち ) が 不漁 ( しけ ) と 成 ( な ) れば、 佐渡 ( さど ) から 新潟 ( にひがた ) へ……と 聞 ( き ) いた 時 ( とき ) は、 枕返 ( まくらがへ ) し、と 云 ( い ) ふ 妖怪 ( ばけもの ) に 逢 ( あ ) つたも 同然 ( どうぜん ) 、 敷込 ( しきこ ) んだ 布團 ( ふとん ) を 取 ( と ) つて、 北 ( きた ) から 南 ( みなみ ) へ 引 ( ひつ ) くりかへされたやうに 吃驚 ( びつくり ) した。 旅 ( たび ) で 劍術 ( けんじゆつ ) は 出來 ( でき ) なくても、 學問 ( がくもん ) があれば 恁 ( か ) うは 駭 ( おどろ ) くまい。だから 學校 ( がくかう ) を 怠 ( なま ) けては 不可 ( いけな ) い、 從 ( したが ) つて 教 ( をそ ) はつた 事 ( こと ) を 忘 ( わす ) れては 不可 ( いけな ) い、 但馬 ( たじま ) の 圓山川 ( まるやまがは ) の 灌 ( そゝ ) ぐのも、 越後 ( ゑちご ) の 信濃川 ( しなのがは ) の 灌 ( そゝ ) ぐのも、 船 ( ふね ) ではおなじ 海 ( うみ ) である。
私 ( わたし ) は 佐渡 ( さど ) と 云 ( い ) ふ 所 ( ところ ) は、 上野 ( うへの ) から 碓氷 ( うすひ ) を 越 ( こ ) えて、 雪 ( ゆき ) の 柏原 ( かしはばら ) 、 關山 ( せきやま ) 、 直江津 ( なほえつ ) まはりに 新潟邊 ( にひがたへん ) から、 佐渡 ( さど ) は 四十五里 ( しじふごり ) 波 ( なみ ) の 上 ( うへ ) 、と 見 ( み ) るか、 聞 ( き ) きかするものだ、と 浮 ( うつか ) りして 居 ( ゐ ) た。 七日前 ( なぬかぜん ) に 東京驛 ( とうきやうえき ) から 箱根越 ( はこねごし ) の 東海道 ( とうかいだう ) 。―― 分 ( わか ) つた/\―― 逗留 ( とうりう ) した 大阪 ( おほさか ) を、 今日 ( けふ ) 午頃 ( ひるごろ ) に 立 ( た ) つて、あゝ、 祖母 ( おばあ ) さんの 懷 ( ふところ ) で 昔話 ( むかしばなし ) に 聞 ( き ) いた、 栗 ( くり ) がもの 言 ( い ) ふ、たんばの 國 ( くに ) 。 故 ( わざ ) と 下 ( お ) りて 見 ( み ) た 篠山 ( さゝやま ) の 驛 ( えき ) のプラツトホームを 歩行 ( ある ) くのさへ、 重疊 ( ちようでふ ) と 連 ( つらな ) る 山 ( やま ) を 見 ( み ) れば、 熊 ( くま ) の 背 ( せ ) に 立 ( た ) つ 思 ( おもひ ) がした。 酒顛童子 ( しゆてんどうじ ) の 大江山 ( おほえやま ) 。 百人一首 ( ひやくにんいつしゆ ) のお 孃 ( ぢやう ) さんの、「いくのの 道 ( みち ) 」もそれか、と 辿 ( たど ) つて、はる/″\と 來 ( き ) た 城崎 ( きのさき ) で、 佐渡 ( さど ) の 沖 ( おき ) へ 船 ( ふね ) が 飛 ( と ) んで、キラリと 飛魚 ( とびうを ) が 刎出 ( はねだ ) したから、きたなくも 怯 ( おびや ) かされたのである。―― 晩 ( ばん ) もお 總菜 ( さうざい ) に 鮭 ( さけ ) を 退治 ( たいぢ ) た、 北海道 ( ほくかいだう ) の 産 ( さん ) である。 茶 ( ちや ) うけに 岡山 ( をかやま ) のきび 團子 ( だんご ) を 食 ( た ) べた 處 ( ところ ) で、 咽喉 ( のど ) に 詰 ( つま ) らせる 法 ( はふ ) はない。これしかしながら 旅 ( たび ) の 心 ( こゝろ ) であらう。――
夜 ( よ ) はやゝ 更 ( ふ ) けた。はなれの 十疊 ( じふでふ ) の 奧座敷 ( おくざしき ) は、 圓山川 ( まるやまがは ) の 洲 ( す ) の 一處 ( ひとところ ) を 借 ( か ) りたほど、 森閑 ( しんかん ) ともの 寂 ( さび ) しい。あの 大川 ( おほかは ) は、いく 野 ( の ) の 銀山 ( ぎんざん ) を 源 ( みなもと ) に、 八千八谷 ( はつせんやたに ) を 練 ( ね ) りに 練 ( ね ) つて 流 ( なが ) れるので、 水 ( みづ ) は 類 ( たぐひ ) なく 柔 ( やはら ) かに 滑 ( なめらか ) だ、と 又 ( また ) 按摩 ( あんま ) どのが 今度 ( こんど ) は 聲 ( こゑ ) を 沈 ( しづ ) めて 話 ( はな ) した。 豐岡 ( とよをか ) から 來 ( く ) る 間 ( あひだ ) 、 夕雲 ( ゆふぐも ) の 低迷 ( ていめい ) して 小浪 ( さゝなみ ) に 浮織 ( うきおり ) の 紋 ( もん ) を 敷 ( し ) いた、 漫々 ( まん/\ ) たる 練絹 ( ねりぎぬ ) に、 汽車 ( きしや ) の 窓 ( まど ) から 手 ( て ) をのばせば、 蘆 ( あし ) の 葉越 ( はごし ) に、 觸 ( さは ) ると 搖 ( ゆ ) れさうな 思 ( おもひ ) で 通 ( とほ ) つた。 旅 ( たび ) は 樂 ( たのし ) い、 又 ( また ) 寂 ( さび ) しい、としをらしく 成 ( な ) ると、 何 ( なに ) が、そんな 事 ( こと ) 。……ぢきその 飛石 ( とびいし ) を 渡 ( わた ) つた 小流 ( こながれ ) から、お 前 ( まへ ) さん、 苫船 ( とまぶね ) 、 屋根船 ( やねぶね ) に 炬燵 ( こたつ ) を 入 ( い ) れて、 美 ( うつく ) しいのと 差向 ( さしむか ) ひで、 湯豆府 ( ゆどうふ ) で 飮 ( の ) みながら、 唄 ( うた ) で 漕 ( こ ) いで、あの 川裾 ( かはすそ ) から、 玄武洞 ( げんぶどう ) 、 對居山 ( つゐやま ) まで、 雪見 ( ゆきみ ) と 云 ( い ) ふ 洒落 ( しやれ ) さへあります、と 言 ( い ) ふ。 項 ( うなじ ) を 立 ( た ) てた 苫 ( とま ) も 舷 ( ふなばた ) も 白銀 ( しろがね ) に、 珊瑚 ( さんご ) の 袖 ( そで ) の 搖 ( ゆ ) るゝ 時 ( とき ) 、 船 ( ふね ) はたゞ 雪 ( ゆき ) を 被 ( かつ ) いだ 翡翠 ( ひすゐ ) となつて、 白 ( しろ ) い 湖 ( みづうみ ) の 上 ( うへ ) を 飛 ( と ) ぶであらう。 氷柱 ( つらゝ ) の 蘆 ( あし ) も 水晶 ( すゐしやう ) に――
金子 ( かね ) の 力 ( ちから ) は 素晴 ( すば ) らしい。
私 ( わたし ) は 獺 ( かはうそ ) のやうに、ごろんと 寢 ( ね ) た。
而 ( さう ) して 夢 ( ゆめ ) に 小式部 ( こしきぶ ) を 見 ( み ) た。
嘘 ( うそ ) を 吐 ( つ ) け!
ピイロロロピイ――これは 夜 ( よ ) が 明 ( あ ) けて、 晴天 ( せいてん ) に 鳶 ( とび ) の 鳴 ( な ) いた 聲 ( こゑ ) ではない。 翌朝 ( よくてう ) 、 一風呂 ( ひとふろ ) キヤ/\と 浴 ( あ ) び、 手拭 ( てぬぐひ ) を 絞 ( しぼ ) つたまゝ、からりと 晴 ( は ) れた 天氣 ( てんき ) の 好 ( よ ) さに、 川 ( かは ) の 岸 ( きし ) を 坦々 ( たん/\ ) とさかのぼつて、 來日 ( くるひ ) ヶ 峰 ( みね ) の 方 ( かた ) に 旭 ( ひ ) に 向 ( むか ) つて、 晴々 ( はれ/″\ ) しく 漫歩 ( ぶらつ ) き 出 ( だ ) した。 九時頃 ( くじごろ ) だが、 商店 ( しやうてん ) は 町 ( まち ) の 左右 ( さいう ) に 客 ( きやく ) を 待 ( ま ) つのに、 人通 ( ひとどほ ) りは 見掛 ( みか ) けない。 靜 ( しづか ) な 細 ( ほそ ) い 町 ( まち ) を、 四五間 ( しごけん ) ほど 前 ( まへ ) へ 立 ( た ) つて、 小兒 ( こども ) かと 思 ( おも ) ふ 小 ( ちひ ) さな 按摩 ( あんま ) どのが 一人 ( ひとり ) 、 笛 ( ふえ ) を 吹 ( ふ ) きながら 後形 ( うしろむき ) で 行 ( ゆ ) くのである。ピイロロロロピイーとしよんぼりと 行 ( ゆ ) く。トトトン、トトトン、と 間 ( ま ) を 緩 ( ゆる ) く、 其處等 ( そこら ) の 藝妓屋 ( げいしやや ) で、 朝稽古 ( あさげいこ ) の 太鼓 ( たいこ ) の 音 ( おと ) 、ともに 何 ( なん ) となく 翠 ( みどり ) の 滴 ( したゝ ) る 山 ( やま ) に 響 ( ひゞ ) く。
まだ 羽織 ( はおり ) も 着 ( き ) ない。 手織縞 ( ておりじま ) の 茶 ( ちや ) つぽい 袷 ( あはせ ) の 袖 ( そで ) に、 鍵裂 ( かぎざき ) が 出來 ( でき ) てぶら 下 ( さが ) つたのを、 腕 ( うで ) に 捲 ( ま ) くやうにして 笛 ( ふえ ) を 握 ( にぎ ) つて、 片手 ( かたて ) 向 ( むか ) うづきに 杖 ( つゑ ) を 突張 ( つツぱ ) つた、 小倉 ( こくら ) の 櫂 ( かひ ) の 口 ( くち ) が、ぐたりと 下 ( さが ) つて、 裾 ( すそ ) のよぢれ 上 ( あが ) つた 痩脚 ( やせずね ) に、ぺたんことも 曲 ( ゆが ) んだとも、 大 ( おほ ) きな 下駄 ( げた ) を 引摺 ( ひきず ) つて、 前屈 ( まへかゞ ) みに 俯向 ( うつむ ) いた、 瓢箪 ( へうたん ) を 俯向 ( うつむき ) に、 突 ( つ ) き 出 ( で ) た 出額 ( おでこ ) の 尻 ( しり ) すぼけ、 情 ( なさけ ) を 知 ( し ) らず 故 ( ことさ ) らに 繪 ( ゑ ) に 描 ( か ) いたやうなのが、ピイロロロピイと 仰向 ( あふむ ) いて 吹 ( ふ ) いて、すぐ、ぐつたりと 又 ( また ) 俯向 ( うつむ ) く。 鍵 ( かぎ ) なりに 町 ( まち ) を 曲 ( まが ) つて、 水 ( みづ ) の 音 ( おと ) のやゝ 聞 ( き ) こえる、 流 ( ながれ ) の 早 ( はや ) い 橋 ( はし ) を 越 ( こ ) すと、 又 ( また ) 道 ( みち ) が 折 ( を ) れた。 突當 ( つきあた ) りがもうすぐ 山懷 ( やまふところ ) に 成 ( な ) る。 其處 ( そこ ) の 町屋 ( まちや ) を、 馬 ( うま ) の 沓形 ( くつがた ) に 一廻 ( ひとまは ) りして、 振返 ( ふりかへ ) つた 顏 ( かほ ) を 見 ( み ) ると、 額 ( ひたひ ) に 隱 ( かく ) れて 目 ( め ) の 窪 ( くぼ ) んだ、 頤 ( あご ) のこけたのが、かれこれ四十ぐらゐな 年 ( とし ) であつた。
うか/\と、あとを 歩行 ( ある ) いた 方 ( はう ) は 勝手 ( かつて ) だが、 彼 ( かれ ) は 勝手 ( かつて ) を 超越 ( てうゑつ ) した 朝飯前 ( あさめしまへ ) であらうも 知 ( し ) れない。 笛 ( ふえ ) の 音 ( ね ) が 胸 ( むね ) に 響 ( ひゞ ) く。
私 ( わたし ) は 欄干 ( らんかん ) に 彳 ( たゝず ) んで、 返 ( かへ ) りを 行違 ( ゆきちが ) はせて 見送 ( みおく ) つた。おなじやうに、 或 ( あるひ ) は 傾 ( かたむ ) き、また 俯向 ( うつむ ) き、さて 笛 ( ふえ ) を 仰 ( あふ ) いで 吹 ( ふ ) いた、が、やがて、 來 ( き ) た 道 ( みち ) を 半 ( なか ) ば、あとへ 引返 ( ひきかへ ) した 處 ( ところ ) で、 更 ( あらた ) めて 乘 ( の ) つかる 如 ( ごと ) く 下駄 ( げた ) を 留 ( とゞ ) めると、 一方 ( いつぱう ) 、 鎭守 ( ちんじゆ ) の 社 ( やしろ ) の 前 ( まへ ) で、ついた 杖 ( つゑ ) を、 丁 ( ちやう ) と 小脇 ( こわき ) に 引 ( ひき ) そばめて 上 ( あ ) げつゝ、 高々 ( たか/″\ ) と 仰向 ( あふむ ) いた、さみしい 大 ( おほき ) な 頭 ( あたま ) ばかり、 屋根 ( やね ) を 覗 ( のぞ ) く 來日 ( くるひ ) ヶ 峰 ( みね ) の 一處 ( ひとところ ) を 黒 ( くろ ) く 抽 ( ぬ ) いて、 影法師 ( かげぼふし ) を 前 ( まへ ) に 落 ( おと ) して、 高 ( たか ) らかに 笛 ( ふえ ) を 鳴 ( な ) らした。
――きよきよらツ、きよツ/\きよツ!
八千八谷 ( はつせんやたに ) を 流 ( なが ) るゝ、 圓山川 ( まるやまがは ) とともに、 八千八聲 ( はつせんやこゑ ) と 稱 ( とな ) ふる 杜鵑 ( ほとゝぎす ) は、ともに 此地 ( このち ) の 名物 ( めいぶつ ) である。それも 昨夜 ( さくや ) の 按摩 ( あんま ) が 話 ( はな ) した。 其時 ( そのとき ) 、 口 ( くち ) で 眞似 ( まね ) たのが 此 ( これ ) である。 例 ( れい ) の(ほぞんかけたか)を 此 ( こ ) の 邊 ( へん ) では、(きよきよらツ、きよツ/\)と 聞 ( き ) くらしい。
ひと 聲 ( こゑ ) 、 血 ( ち ) に 泣 ( な ) く 其 ( そ ) の 笛 ( ふえ ) を 吹 ( ふ ) き 落 ( おと ) すと、 按摩 ( あんま ) は、とぼ/\と 横路地 ( よころぢ ) へ 入 ( はひ ) つて 消 ( き ) えた。
續 ( つゞ ) いて 其處 ( そこ ) を 通 ( とほ ) つたが、もう 見 ( み ) えない。
私 ( わたし ) は 何故 ( なぜ ) か、ぞつとした。
太鼓 ( たいこ ) の 音 ( おと ) の、のびやかなあたりを、 早足 ( はやあし ) に 急 ( いそ ) いで 歸 ( かへ ) るのに、 途中 ( とちう ) で 橋 ( はし ) を 渡 ( わた ) つて 岸 ( きし ) が 違 ( ちが ) つて、 石垣 ( いしがき ) つゞきの 高塀 ( たかべい ) について、 打 ( ぶ ) つかりさうに 大 ( おほき ) な 黒 ( くろ ) い 門 ( もん ) を 見 ( み ) た。 立派 ( りつぱ ) な 門 ( もん ) に 不思議 ( ふしぎ ) はないが、くゞり 戸 ( ど ) も 煽 ( あふ ) つたまゝ、 扉 ( とびら ) が 夥多 ( おびたゞ ) しく 裂 ( さ ) けて 居 ( ゐ ) る。 覗 ( のぞ ) くと、 山 ( やま ) の 根 ( ね ) を 境 ( さかひ ) にした 廣々 ( ひろ/″\ ) とした 庭 ( には ) らしいのが、 一面 ( いちめん ) の 雜草 ( ざつさう ) で、 遠 ( とほ ) くに 小 ( ちひ ) さく、 壞 ( こは ) れた 四阿 ( あづまや ) らしいものの 屋根 ( やね ) が 見 ( み ) える。 日 ( ひ ) に 水 ( みづ ) の 影 ( かげ ) もさゝぬのに、 其 ( そ ) の 四阿 ( あづまや ) をさがりに、 二三輪 ( にさんりん ) 、 眞紫 ( まむらさき ) の 菖蒲 ( あやめ ) が 大 ( おほき ) くぱつと 咲 ( さ ) いて、 縋 ( すが ) つたやうに、 倒 ( たふ ) れかゝつた 竹 ( たけ ) の 棹 ( さを ) も、 池 ( いけ ) に 小船 ( こぶね ) に 棹 ( さをさ ) したやうに 面影 ( おもかげ ) に 立 ( た ) つたのである。
此 ( こ ) の 時 ( とき ) の 旅 ( たび ) に、 色彩 ( いろ ) を 刻 ( きざ ) んで 忘 ( わす ) れないのは、 武庫川 ( むこがは ) を 過 ( す ) ぎた 生瀬 ( なませ ) の 停車場 ( ていしやぢやう ) 近 ( ちか ) く、 向 ( むか ) う 上 ( あが ) りの 徑 ( こみち ) に、じり/\と 蕊 ( しん ) に 香 ( にほひ ) を 立 ( た ) てて 咲揃 ( さきそろ ) つた 眞晝 ( まひる ) の 芍藥 ( しやくやく ) と、 横雲 ( よこぐも ) を 眞黒 ( まつくろ ) に、 嶺 ( みね ) が 颯 ( さつ ) と 暗 ( くら ) かつた、 夜久野 ( やくの ) の 山 ( やま ) の 薄墨 ( うすずみ ) の 窓 ( まど ) 近 ( ちか ) く、 草 ( くさ ) に 咲 ( さ ) いた 姫薊 ( ひめあざみ ) の 紅 ( くれなゐ ) と、―― 此 ( こ ) の 菖蒲 ( しやうぶ ) の 紫 ( むらさき ) であつた。
ながめて 居 ( ゐ ) る 目 ( め ) が、やがて 心 ( こゝろ ) まで、うつろに 成 ( な ) つて、あツと 思 ( おも ) ふ、つい 目 ( め ) さきに、 又 ( また ) うつくしいものを 見 ( み ) た。 丁 ( ちやう ) ど 瞳 ( ひとみ ) を 離 ( はな ) して、あとへ 一歩 ( ひとあし ) 振向 ( ふりむ ) いた 處 ( ところ ) が、 川 ( かは ) の 瀬 ( せ ) の 曲角 ( まがりかど ) で、やゝ 高 ( たか ) い 向岸 ( むかうぎし ) の、 崖 ( がけ ) の 家 ( うち ) の 裏口 ( うらぐち ) から、 巖 ( いは ) を 削 ( けづ ) れる 状 ( さま ) の 石段 ( いしだん ) 五六段 ( ごろくだん ) を 下 ( お ) りた 汀 ( みぎは ) に、 洗濯 ( せんたく ) ものをして 居 ( ゐ ) た 娘 ( むすめ ) が、 恰 ( あたか ) もほつれ 毛 ( げ ) を 掻 ( か ) くとて、すんなりと 上 ( あ ) げた 眞白 ( まつしろ ) な 腕 ( うで ) の 空 ( そら ) ざまなのが 睫毛 ( まつげ ) を 掠 ( かす ) めたのである。
ぐらり、がたがたん。
「あぶない。」
「いや、これは。」
すんでの 處 ( ところ ) 。―― 落 ( お ) つこちるのでも、 身投 ( みなげ ) でも、はつと 抱 ( だ ) きとめる 救手 ( すくひて ) は、 何 ( なん ) でも 不意 ( ふい ) に 出 ( で ) る 方 ( はう ) が 人氣 ( にんき ) が 立 ( た ) つ。すなはち 同行 ( どうかう ) の 雪岱 ( せつたい ) さんを、 今 ( いま ) まで 祕 ( かく ) しておいた 所以 ( ゆゑん ) である。
私 ( わたし ) は 踏 ( ふ ) んだ 石 ( いし ) の、 崖 ( がけ ) を 崩 ( くづ ) れかゝつたのを、 且 ( か ) つ 視 ( み ) て 苦笑 ( くせう ) した。 餘 ( あま ) りの 不状 ( ぶざま ) に、 娘 ( むすめ ) の 方 ( はう ) が、 優 ( やさし ) い 顏 ( かほ ) をぽつと 目瞼 ( まぶた ) に 色 ( いろ ) を 染 ( そ ) め、 膝 ( ひざ ) まで 卷 ( ま ) いて 友禪 ( いうぜん ) に、ふくら 脛 ( はぎ ) の 雪 ( ゆき ) を 合 ( あ ) はせて、 紅絹 ( もみ ) の 影 ( かげ ) を 流 ( ながれ ) に 散 ( ち ) らして 立 ( た ) つた。
さるにても、 按摩 ( あんま ) の 笛 ( ふえ ) の 杜鵑 ( ほとゝぎす ) に、 拔 ( ぬ ) かしもすべき 腰 ( こし ) を、 娘 ( むすめ ) の 色 ( いろ ) に 落 ( お ) ちようとした。 私 ( わたし ) は 羞 ( は ) ぢ 且 ( か ) つ 自 ( みづか ) ら 憤 ( いきどほ ) つて 酒 ( さけ ) を 煽 ( あふ ) つた。――なほ 志 ( こゝろざ ) す 出雲路 ( いづもぢ ) を、 其日 ( そのひ ) は 松江 ( まつえ ) まで 行 ( ゆ ) くつもりの 汽車 ( きしや ) には、まだ 時間 ( じかん ) がある。 私 ( わたし ) は、もう 一度 ( いちど ) 宿 ( やど ) を 出 ( で ) た。
すぐ 前 ( まへ ) なる 橋 ( はし ) の 上 ( うへ ) に、 頬被 ( ほゝかぶり ) した 山家 ( やまが ) の 年増 ( としま ) が、 苞 ( つと ) を 開 ( ひら ) いて、 一人 ( ひとり ) 行 ( ゆ ) く 人 ( ひと ) のあとを 通 ( とほ ) つた、 私 ( わたし ) を 呼 ( よ ) んで、 手 ( て ) を 擧 ( あ ) げて、「 大 ( おほき ) な 自然薯 ( じねんじよ ) 買 ( か ) うておくれなはらんかいなア。」……はおもしろい。 朝 ( あさ ) まだきは、 旅館 ( りよくわん ) の 中庭 ( なかには ) の 其處 ( そこ ) 此處 ( こゝ ) を、「 大 ( おほ ) きな 夏蜜柑 ( なつみかん ) 買 ( か ) はんせい。」…… 親仁 ( おやぢ ) の 呼聲 ( よびごゑ ) を 寢 ( ね ) ながら 聞 ( き ) いた。 働 ( はたら ) く 人 ( ひと ) の 賣聲 ( うりごゑ ) を、 打興 ( うちきよう ) ずるは 失禮 ( しつれい ) だが、 旅人 ( たびびと ) の 耳 ( みゝ ) には 唄 ( うた ) である。
漲 ( みなぎ ) るばかり 日 ( ひ ) の 光 ( ひかり ) を 吸 ( す ) つて、 然 ( しか ) も 輕 ( かる ) い、 川添 ( かはぞひ ) の 道 ( みち ) を 二町 ( にちやう ) ばかりして、 白 ( しろ ) い 橋 ( はし ) の 見 ( み ) えたのが 停車場 ( ていしやば ) から 突通 ( つきとほ ) しの 處 ( ところ ) であつた。 橋 ( はし ) の 詰 ( つめ ) に、―― 丹後行 ( たんごゆき ) 、 舞鶴行 ( まひづるゆき ) ―― 住 ( すみ ) の 江丸 ( えまる ) 、 濱鶴丸 ( はまづるまる ) と 大看板 ( おほかんばん ) を 上 ( あ ) げたのは 舟宿 ( ふなやど ) である。 丹後行 ( たんごゆき ) 、 舞鶴行 ( まひづるゆき ) ―― 立 ( た ) つて 見 ( み ) たばかりでも、 退屈 ( たいくつ ) の 餘 ( あま ) りに 新聞 ( しんぶん ) の 裏 ( うら ) を 返 ( かへ ) して、バンクバー、シヤトル 行 ( ゆき ) を 睨 ( にら ) むが 如 ( ごと ) き、 情 ( じやう ) のない、 他人 ( たにん ) らしいものではない。―― 蘆 ( あし ) の 上 ( うへ ) をちら/\と 舞 ( ま ) ふ 陽炎 ( かげろふ ) に、 袖 ( そで ) が 鴎 ( かもめ ) になりさうで、 遙 ( はるか ) に 色 ( いろ ) の 名所 ( めいしよ ) が 偲 ( しの ) ばれる。 手輕 ( てがる ) に 川蒸汽 ( かはじようき ) でも 出 ( で ) さうである。 早 ( は ) や、その 蘆 ( あし ) の 中 ( なか ) に 並 ( なら ) んで、 十四五艘 ( じふしごさう ) の 網船 ( あみぶね ) 、 田船 ( たぶね ) が 浮 ( う ) いて 居 ( ゐ ) た。
どれかが、 黄金 ( わうごん ) の 魔法 ( まはふ ) によつて、 雪 ( ゆき ) の 大川 ( おほかは ) の 翡翠 ( ひすゐ ) に 成 ( な ) るらしい。 圓山川 ( まるやまがは ) の 面 ( おもて ) は 今 ( いま ) 、こゝに、 其 ( そ ) の、のんどりと 和 ( なご ) み 軟 ( やはら ) いだ 唇 ( くちびる ) を 寄 ( よ ) せて、 蘆摺 ( あしず ) れに 汀 ( みぎは ) が 低 ( ひく ) い。 彳 ( たゝず ) めば、 暖 ( あたゝか ) く 水 ( みづ ) に 抱 ( いだ ) かれた 心地 ( こゝち ) がして、 藻 ( も ) も、 水草 ( みづくさ ) もとろ/\と 夢 ( ゆめ ) が 蕩 ( とろ ) けさうに 裾 ( すそ ) に 靡 ( なび ) く。おゝ、 澤山 ( たくさん ) な 金魚藻 ( きんぎよも ) だ。 同町内 ( どうちやうない ) の 瀧君 ( たきくん ) に、ひと 俵 ( たはら ) 贈 ( おく ) らうかな、…… 水上 ( みなかみ ) さんは 大 ( おほき ) な 目 ( め ) をして、 二七 ( にしち ) の 縁日 ( えんにち ) に 金魚藻 ( きんぎよも ) を 探 ( さが ) して 行 ( ゆ ) く。……
私 ( わたし ) は 海 ( うみ ) の 空 ( そら ) を 見 ( み ) た。 輝 ( かゞや ) く 如 ( ごと ) きは 日本海 ( につぽんかい ) の 波 ( なみ ) であらう。 鞍掛山 ( くらかけやま ) 、 太白山 ( たいはくざん ) は、 黛 ( いれずみ ) を 左右 ( さいう ) に 描 ( ゑが ) いて、 來日 ( くるひ ) ヶ 峰 ( みね ) は 翠 ( みどり ) なす 額髮 ( ひたひがみ ) を 近々 ( ちか/″\ ) と、 面 ( おも ) ほてりのするまで、じり/\と 情熱 ( じやうねつ ) の 呼吸 ( いき ) を 通 ( かよ ) はす。 緩 ( ゆる ) い 流 ( ながれ ) は 浮草 ( うきぐさ ) の 帶 ( おび ) を 解 ( と ) いた。 私 ( わたし ) の 手 ( て ) を 觸 ( ふ ) れなかつたのは、 濡 ( ぬ ) れるのを 厭 ( いと ) つたのでない、 波 ( なみ ) を 恐 ( おそ ) れたのでない。 圓山川 ( まるやまがは ) の 膚 ( はだ ) に 觸 ( ふ ) れるのを 憚 ( はゞか ) つたのであつた。
城崎 ( きのさき ) は―― 今 ( いま ) も 恁 ( かく ) の 如 ( ごと ) く 目 ( め ) に 泛 ( うか ) ぶ。
こゝに 希有 ( けう ) な 事 ( こと ) があつた。 宿 ( やど ) にかへりがけに、 客 ( きやく ) を 乘 ( の ) せた 俥 ( くるま ) を 見 ( み ) ると、 二臺三臺 ( にだいさんだい ) 、 俥夫 ( くるまや ) が 揃 ( そろ ) つて 手 ( て ) に 手 ( て ) に 鐵棒 ( かなぼう ) を 一條 ( ひとすぢ ) づゝ 提 ( さ ) げて、 片手 ( かたて ) で 楫 ( かぢ ) を 壓 ( お ) すのであつた。―― 煙草 ( たばこ ) を 買 ( か ) ひながら 聞 ( き ) くと、 土地 ( とち ) に 數 ( かず ) の 多 ( おほ ) い 犬 ( いぬ ) が、 俥 ( くるま ) に 吠附 ( ほえつ ) き 戲 ( ざ ) れかゝるのを 追拂 ( おひはら ) ふためださうである。 駄菓子屋 ( だぐわしや ) の 縁臺 ( えんだい ) にも、 船宿 ( ふなやど ) の 軒下 ( のきした ) にも、 蒲燒屋 ( かばやきや ) の 土間 ( どま ) にも 成程 ( なるほど ) 居 ( ゐ ) たが。―― 言 ( い ) ふうちに、 飛 ( とび ) かゝつて、 三疋四疋 ( さんびきしひき ) 、 就中 ( なかんづく ) 先頭 ( せんとう ) に 立 ( た ) つたのには、 停車場 ( ていしやば ) 近 ( ぢか ) く 成 ( な ) ると、 五疋 ( ごひき ) ばかり、 前後 ( ぜんご ) から 飛 ( と ) びかゝつた。 叱 ( しつ ) 、 叱 ( しつ ) 、 叱 ( しつ ) ! 畜生 ( ちくしやう ) 、 畜生 ( ちくしやう ) 、 畜生 ( ちくしやう ) 。 俥夫 ( くるまや ) が 鐵棒 ( かなぼう ) を 振舞 ( ふりまは ) すのを、 橋 ( はし ) に 立 ( た ) つて 見 ( み ) たのである。
其 ( そ ) の 犬 ( いぬ ) どもの、 耳 ( みゝ ) には 火 ( ひ ) を 立 ( た ) て、 牙 ( きば ) には 火 ( ひ ) を 齒 ( は ) み、 焔 ( ほのほ ) を 吹 ( ふ ) き、 黒煙 ( くろけむり ) を 尾 ( を ) に 倦 ( ま ) いて、 車 ( くるま ) とも 言 ( い ) はず、 人 ( ひと ) とも 言 ( い ) はず、 炎 ( ほのほ ) に 搦 ( から ) んで、 躍上 ( をどりあが ) り、 飛蒐 ( とびかゝ ) り、 狂立 ( くるひた ) つて 地獄 ( ぢごく ) の 形相 ( ぎやうさう ) を 顯 ( あらは ) したであらう、と 思 ( おも ) はず 身 ( み ) の 毛 ( け ) を 慄立 ( よだ ) てたのは、 昨 ( さく ) 、 十四年 ( じふよねん ) 五月 ( ごぐわつ ) 二十三日 ( にじふさんにち ) 十一時 ( じふいちじ ) 十分 ( じつぷん ) 、 城崎 ( きのさき ) 豐岡 ( とよをか ) 大地震 ( おほぢしん ) 大火 ( たいくわ ) の 號外 ( がうぐわい ) を 見 ( み ) ると 同時 ( どうじ ) であつた。
地方 ( ちはう ) は 風物 ( ふうぶつ ) に 變化 ( へんくわ ) が 少 ( すくな ) い。わけて 唯 ( たゞ ) 一年 ( いちねん ) 、もの 凄 ( すご ) いやうに 思 ( おも ) ふのは、 月 ( つき ) は 同 ( おな ) じ 月 ( つき ) 、 日 ( ひ ) はたゞ 前後 ( ぜんご ) して、―― 谿川 ( たにがは ) に 倒 ( たふ ) れかゝつたのも 殆 ( ほとん ) ど 同 ( おな ) じ 時刻 ( じこく ) である。 娘 ( むすめ ) も 其處 ( そこ ) に 按摩 ( あんま ) も 彼處 ( かしこ ) に――
其 ( そ ) の 大地震 ( おほぢしん ) を、あの 時 ( とき ) 既 ( すで ) に、 不氣味 ( ぶきみ ) に 按摩 ( あんま ) は 豫覺 ( よかく ) したるにあらざるか。 然 ( しか ) らば 八千八聲 ( はつせんやこゑ ) を 泣 ( な ) きつゝも、 生命 ( せいめい ) だけは 助 ( たす ) かつたらう。 衣 ( きぬ ) を 洗 ( あら ) ひし 娘 ( むすめ ) も、 水 ( みづ ) に 肌 ( はだ ) は 焦 ( こが ) すまい。
當時 ( たうじ ) 寫眞 ( しやしん ) を 見 ( み ) た―― 湯 ( ゆ ) の 都 ( みやこ ) は、たゞ 泥 ( どろ ) と 瓦 ( かはら ) の 丘 ( をか ) となつて、なきがらの 如 ( ごと ) き 山 ( やま ) あるのみ。 谿川 ( たにがは ) の 流 ( ながれ ) は、 大 ( おほ ) むかでの 爛 ( たゞ ) れたやうに…… 其 ( そ ) の 寫眞 ( しやしん ) も 赤 ( あか ) く 濁 ( にご ) る…… 砂煙 ( すなけむり ) の 曠野 ( くわうや ) を 這 ( は ) つて 居 ( ゐ ) た。
木 ( き ) も 草 ( くさ ) も、あはれ、 廢屋 ( はいをく ) の 跡 ( あと ) の 一輪 ( いちりん ) の 紫 ( むらさき ) の 菖蒲 ( あやめ ) もあらば、それがどんなに、と 思 ( おも ) ふ。
―― 今 ( いま ) は、 柳 ( やなぎ ) も 芽 ( めぐ ) んだであらう―― 城崎 ( きのさき ) よ。
城崎を憶ふ
泉鏡花 (Ki no saki o omou) | ||