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放浪記以前

 私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

更けゆく秋の夜 旅の空の
佗しき思いに 一人なやむ
恋いしや古里 なつかし父母

 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の

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行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。私が生れたのはその下関の町である。――故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人である私は、この恋いしや古里の歌を、随分佗しい気持ちで習ったものであった。――八つの時、私の幼い人生にも、暴風が吹きつけてきたのだ。若松で、呉服物の糶売をして、かなりの財産をつくっていた父は、長崎の沖の天草から逃げて来た浜と云う芸者を家に入れていた。雪の降る旧正月を最後として、私の母は、八つの私を連れて父の家を出てしまったのだ。若松と云うところは、渡し船に乗らなければ行けないところだと覚えている。

 今の私の父は養父である。このひとは岡山の人間で、実直過ぎるほどの小心さと、アブノーマルな山ッ気とで、人生の半分は苦労で埋れていた人だ。私は母の連れ子になって、此の父と一緒になると、ほとんど住家と云うものを持たないで暮して来た。どこへ行っても木賃宿ばかりの生活だった。「お父つぁんは、家を好かんとじゃ、道具が好かんとじゃ……」母は私にいつもこんなことを云っていた。そこで、人生いたるところ木賃宿ばかりの思い出を持って、私は美しい山河も知らないで、養父と母に連れられて、九州一円を転々と行商をしてまわっていたのである。私がはじめて小学校へはいったのは長崎であった。ざっこく屋と云う木賃宿から、その頃流行のモスリン改良服と云うのをきせられて、南京町近くの小学校へ通って行った。それを振り出しにして、佐世保、久留米、下関、門司、戸畑、折尾と言った順に、四年の間に、七度も学校をかわって、私には親しい友達が一人も出来なかった。

「お父つぁん、俺アもう、学校さ行きとうなかバイ……」

 せっぱつまった思いで、私は小学校をやめてしまったのだ。私は学校へ行くのが厭になっていたのだ。それは丁度、直方の炭坑町に住んでいた私の十二の時であったろう。「ふうちゃんにも、何か売らせましょうたいなあ……」遊ばせてはモッタイナイ年頃であった。私は学校をやめて行商をするようになったのだ。

 直方の町は明けても暮れても煤けて暗い空であった。砂で漉した鉄分の多い水で舌がよれるような町であった。大正町の馬屋と云う木賃宿に落ちついたのが七月で、父達は相変らず、私を宿に置きっぱなしにすると、荷車を借りて、メリヤス類、足袋、新モス、腹巻、そういった物を行李に入れて、母が後押しで炭坑や陶器製造所へ行商に行っていた。

 私には初めての見知らぬ土地であった。私は三銭の小遣いを貰い、それを兵児帯に巻いて、毎日町に遊びに出ていた。門司のように活気のある街でもない。長崎のように美しい街でもない。佐世保のように女のひとが美しい町でもなかった。骸炭のザクザクした道をはさんで、煤けた軒が不透明なあくびをしているような町だった。駄菓子屋、うどんや、屑屋、貸布団屋、まるで荷物列車のような町だ。その店先きには、町を歩いている女とは正反対の、これは又不健康な女達が、尖った目をして歩いていた。七月の暑い陽ざしの下を通る女は、汚れた腰巻と、袖のない襦袢きりである。夕方になると、シャベルを持った女や、空のモッコをぶらさげた女の群が、三々五々しゃべくりながら長屋へ帰って行った。

 流行歌のおいとこそうだよの唄が流行っていた。

 私の三銭の小遣いは双児美人の豆本とか、氷饅頭のようなもので消えていた。――間もなく私は小学校へ行くかわりに、須崎町の粟おこし工場に、日給二十三銭で通った。その頃、笊をさげて買いに行っていた米が、たしか十八銭だったと覚えている。夜は近所の貸本屋から、腕の喜三郎横紙破り福島正則不如帰なさぬ仲渦巻などを借りて読んだ。そうした物語の中から何を教ったのだろうか? メデタシ、メデタシの好きな、虫のいい空想と、ヒロイズムとセンチメンタリズムが、海綿のような私の頭をひたしてしまった。私の周囲は朝から晩まで金の話である。私の唯一の理想は、女成金になりたいと云う事だった。雨が何日も降り続いて、父の借りた荷車が雨にさらされると、朝も晩も、かぼちゃ飯で、茶碗を持つのがほんとうに淋しかった。

 この木賃宿には、通称シンケイ(神経)と呼んでいる、坑夫上りの狂人が居て、このひとはダイナマイトで飛ばされて馬鹿になった人だと宿の人が云っていた。毎朝早く、町の女達と一緒にトロッコを押しに出かけて行く気立ての優しい狂人である。私はこのシンケイによく虱を取ってもらったものだ。彼は後で支柱夫に出世したけれど、外に、島根の方から流れて来ている祭文語り

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の義眼の男や、夫婦者の坑夫が二組、まむし酒を売るテキヤ
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、親指のない淫売婦、サーカスよりも面白い集団であった。

「トロッコで圧されて指を取った云いよるけんど、嘘ばんた、誰ぞに切られたっとじゃろ……」

 馬屋のお上さんは、片眼で笑いながら母にこう云っていたものだ。或る日、この指のない淫売婦と私は風呂に行った。ドロドロの苔むした暗い風呂場だった。この女は 腹をぐるりと一巻きにして、臍のところに朱い舌を出した蛇の文身をしていた。私は九州で初めてこんな凄い女を見た。私は子供だったから、しみじみ正視してこの薄青いこわい蛇の文身を見ていたものだ。

 木賃宿に泊っている夫婦者は、たいてい自炊で、自炊でない者達も、米を買って来て炊いてもらっていた。

  ほうろくのように焼けた暑い直方の町角に、そのころカチュウシャの絵看板が立つようになった。異人娘が、頭から毛布をかぶって、雪の降っている停車場で、汽車の窓を叩いている図である。すると間もなく、頭の真ん中を二つに分けたカチュウシャの髪が流行って来た。

カチュウシャ可愛いや 別れの辛さ
せめて淡雪 とけぬ間に
神に願いを ララかけましょうか。

 なつかしい唄である。この炭坑街にまたたく間に、このカチュウシャの歌は流行してしまった。ロシヤ女の純情な恋愛はよくわからなかったけれど、それでも、私は映画を見て来ると、非常にロマンチックな少女になってしまったのだ。浮かれ節(浪花節)より他に芝居小屋に連れて行ってもらえなかった私が、たった一人で隠れてカチュウシャの映画を毎日見に行ったものであった。当分は、カチュウシャで夢見心地であった。石油を買いに行く道の、白い夾竹桃の咲く広場で、町の子供達とカチュウシャごっこや、炭坑ごっこをして遊んだりもした。炭坑ごっこの遊びは、女の子はトロッコを押す真似をしたり、男の子は炭坑節を歌いながら土をほじくって行くしぐさである。

 そのころの私はとても元気な子供だった。

 一カ月ばかり勤めていた粟おこし工場の二十三銭也にもさよならをすると、私は父が仕入れて来た、扇子や化粧品を鼡色の風呂敷に背負って、遠賀川を渡り隧道を越して、炭坑の社宅や坑夫小屋に行商して歩くようになった。炭坑には、色々な行商人が這入り込んでいるのだ。

「暑うしてたまらんなア。」この頃私には、こうして親しく言葉をかける相棒が二人ばかりあった。「松ちゃん」これは香月から歩いて来る駄菓子屋で、可愛い十五の少女であったが、間もなく「青島」へ芸者に売られて行ってしまった。「ひろちゃん」干物屋の売り子で、十三の少年だけれど、彼の理想は、一人前の坑夫になりたい事だった。酒が呑めて、ツルハシを一寸高く振りかざせば人が驚くし、町の連鎖劇

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は無料でみられるし、月の出た遠賀川のほとりを、私はこのひろちゃんたちの話を聞きながら帰ったものだった。――その頃よく均一と云う言葉が流行っていたけれど、私の扇子も均一の十銭で、鯉の絵や、七福神、富士山の絵が描いてある。骨はがんじょうな竹が七本ばかりついている。毎日平均二十本位はかたづけていった。緑色のペンキのはげた社宅の細君よりも、坑夫長屋をまわった方がはるかに扇子はさばけていった。外にラッパ長屋と云って、一棟に十家族も住んでいる鮮人長屋もあった。アンペラの畳の上には玉葱をむいたような子供達が、裸で重なりあって遊んでいた。

 烈々とした空の下には、掘りかえした土が口を開けて、雷のように遠くではトロッコの流れる音が聞えている。昼食時になると、蟻の塔のように材木を組みわたした暗い坑道口から、泡のように湧いて出る坑夫達を待って、幼い私はあっちこっち扇子を売りに歩いた。坑夫達の汗は水ではなくて、もう黒い飴のようであった。今、自分達が掘りかえした石炭土の上にゴロリと横になると、バクバクまるで金魚のように空気を吸ってよく眠った。まるでゴリラの群のようだった。

 そうしてこの静かな景色の中に動いているものと云えば、棟を流れて行く昔風なモッコである。昼食が終るとあっちからもこっちからもカチュウシャの唄が流れて来ている。やがて夕顔の花のようなカンテラの灯が、薄い光で地を這って行くと、けたたましい警笛の音だ。国を出るときゃ玉の肌……何でもない唄声ではあるけれど、もうもうとした石炭土の山を見ていると何だか子供心にも切ないものがあった。

 扇子が売れなくなると、私は一つ一銭のアンパンを売り歩くようになった。炭坑まで小一里の道程を、よく休み休み私はアンパンをつまみ食いして行ったものだ。父はその頃、商売上の事から坑夫と喧嘩をして頭をグルグル手拭で巻いて宿にくすぼっていた。母は多賀神社のそばでバナナの露店を開いていた。無数に駅からなだれて来る者は、坑夫の群である。一山いくらのバナナは割によく売れて行った。アンパンを売りさばいて母のそばへ籠を置くと、私はよく多賀神社へ遊びに行った。そして大勢の女や男達と一緒に、私も馬の銅像に祈願をこめた。いい事がありますように。――多賀さんの祭には、きまって雨が降る。多くの露店商人達は、駅のひさしや、多賀さんの境内を行ったり来たりして雨空を見上げていたものだった。

 十月になって、炭坑にストライキがあった。街中は、ジンと鼻をつまんだように静かになると、炭坑から来る坑夫達だけが殺気だって活気があった。ストライキ、さりとは辛いね。私はこんな唄も覚えた。炭坑のストライキは、始終の事で坑夫達はさっさと他の炭坑へ流れて行くのだそうだ。そのたびに、町の商人との取引は抹殺されてしまうので、めったに坑夫達には品物を貸して帰れなかった、それでも坑夫相手の商売は、てっとり早くてユカイだと商人達は云っていた。

「あんたも、四十過ぎとんなはっとじゃけん、少しは身を入れてくれんな、仕様がなかもんなた……」

 私は豆ランプの灯のかげで一生懸命探偵小説のジゴマを読んでいた。裾にさしあって寝ている母が父に何時もこうつぶやいていた。外はながい雨である。

「一軒、家ちゅうもんを、定めんとあんた、こぎゃん時に困るけんな。」

「ほんにヤカマシかな。」

 父が小声で呶鳴ると、あとは又雨の音だった。――そのころ、指の無い淫売婦だけは、いつも元気で酒を呑んでいた。

「戦争でも始まるとよかな。」

 この淫売婦の持論はいつも戦争の話だった。この世の中が、ひっくりかえるようになるといいと云った。炭坑にうんと金が流れて来るといいと云っていた。「あんたは、ほんまによか生れつきな」母にこう云われると、指の無い淫売婦は、「小母っさんまで、そぎゃん思うとんなはると……」彼女は窓から何か投げては淋しそうに笑っていた。二十五だと云っていたが、労働者上りらしいプチプチした若さを持っていた。

 十一月の声のかかる時であった。

 黒崎からの帰り道、父と母と私は、大声で話しながら、軽い荷車を引いて、暗い遠賀川の堤防を歩いていた。

「お母さんも、お前も車へ乗れや、まだまだ遠いけに、歩くのはしんどいぞ……」

 母と私は、荷車の上に乗っかると、父は元気のいい声で唄いながら私達を引いて歩いた。

 秋になると、星が幾つも流れて行く。もうじき、街の入口である。後の方から、「おっさんよっ!」と呼ぶ声がした。渡り歩きの坑夫が呼んでいるらしかった。父は荷車を止めて「何ぞ!」と呼応した。二人の坑夫が這いながらついて来た。二日も食わないのだと云う。逃げて来たのかと父が聞いていた。二人共鮮人であった。折尾まで行くのだから、金を貸してくれと何度も頭をさげた。父は沈黙って五十銭銀貨を二枚出すと、一人ずつに握らせてやった。堤の上を冷たい風が吹いて行く。范々とした二人の鮮人の頭の上に星が光っていて、妙にガクガク私たちは慄えていたが、二人共一円もらうと、私達の車の後を押して長い事沈黙って町までついて来た。

 しばらくして父は祖父が死んだので、岡山へ田地を売りに帰って行った。少し資本をこしらえて来て、唐津物

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を糶売りをしてみたい、これが唯一の目的であった。何によらず炭坑街でてっとり早く売れるものは、食物である。母のバナナと、私のアンパンは、雨が降りさえしなければ、二人の食べる位は売れて行った。馬屋の払いは月二円二十銭で、今は母も家を一軒借りるより此方が楽だと云っていた。だが、どこまで行ってもみじめすぎる私達である。秋になると、神経痛で、母は何日も商売を休むし、父は田地を売ってたった四十円の金しか持って来なかった。父はその金で、唐津焼を仕入れると、佐世保へ一人で働きに行ってしまった。

「じき二人は呼ぶけんのう……」

 こう云って、父は陽に焼けた厚司

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一枚で汽車に乗って行った。私は一日も休めないアンパンの行商である。雨が降ると、直方の街中を軒並にアンパンを売って歩いた。

 このころの思い出は一生忘れることは出来ないのだ。私には、商売は一寸も苦痛ではなかった。一軒一軒歩いて行くと、五銭、二銭、三銭と云う風に、私のこしらえた財布には金がたまって行く。そして私は、自分がどんなに商売上手であるかを母に賞めてもらうのが楽しみであった。私は二カ月もアンパンを売って母と暮した。或る日、街から帰ると、美しいヒワ色の兵児帯を母が縫っていた。

「どぎゃんしたと?」

 私は驚異の眼をみはったものだ。四国のお父つぁんから送って来たのだと母は云っていた。私はなぜか胸が鳴っていた。間もなく、呼びに帰って来た養父と一緒に、私達三人は、直方を引きあげて、折尾行きの汽車に乗った。毎日あの道を歩いたのだ。汽車が遠賀川の鉄橋を越すと、堤にそった白い路が暮れそめていて、私の眼に悲しくうつるのであった。白帆が一ツ川上へ登っている、なつかしい景色である、汽車の中では、金鎖や、指輪や、風船、絵本などを売る商人が、長い事しゃべくっていた。父は赤い硝子玉のはいった指輪を私に買ってくれたりした。

(十二月×日)

さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき

 雪が降っている。私はこの啄木の歌を偶っと思い浮べながら、郷愁のようなものを感じていた。便所の窓を明けると、夕方の門燈が薄明るくついていて、むかし信州の山で見たしゃくなげの紅い花のようで、とても美しかった。

「婢やアお嬢ちゃんおんぶしておくれッ!」

 奥さんの声がしている。

 あああの百合子と云う子供は私には苦手だ。よく泣くし、先生に似ていて、神経が細くて全く火の玉を背負っているような感じである。――せめてこうして便所にはいっている時だけが、私の体のような気がする。

(バナナに鰻、豚カツに蜜柑、思いきりこんなものが食べてみたいなア。)

 気持ちが貧しくなってくると、私は妙に落書きをしたくなってくる。豚カツにバナナ、私は指で壁に書いてみた。

 夕飯の支度の出来るまで赤ん坊をおぶって廊下を何度も行ったり来たりしている。秋江氏

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の家へ来て、今日で一週間あまりだけれど、先の目標もなさそうである。ここの先生は日に幾度も梯子段を上ったり降りたりしている。まるで廿日鼡のようだ。あの神経には全くやりきれない。

「チャンチンコイチャン! よく眠ったかい!」

 私の肩を覗いては、先生は安心をしたようにじんじんばしょり

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して二階へ上って行く。

 私は廊下の本箱から、今日はチェーホフを引っぱり出して読んだ。チェーホフは心の古里だ。チェーホフの吐息は、姿は、みな生きて、黄昏の私の心に、何かブツブツものを云いかけて来る。柔かい本の手ざわり、ここの先生の小説を読んでいると、もう一度チェーホフを読んでもいいのにと思った。京都のお女郎さんの話なんか、私には縁遠い世界だ。

 夜。

 家政婦のお菊さんが、台所で美味しそうな五目寿司を拵えているのを見てとても嬉しくなった。

 赤ん坊を風呂に入れて、ひとしずまりすると、もう十一時である。私は赤ん坊と云うものが大嫌いなのだけれど、不思議な事に、赤ん坊は私の背中におぶさると、すぐウトウトと眠ってしまって、家の人達が珍らしがっている。

 お蔭で本が読めること――。年を取って子供が出来ると、仕事も手につかない程心配になるのかも知れない。反感がおきる程、先生が赤ん坊にハラハラしているのを見ると、女中なんて一生するものではないと思った。

  うまごやしにだって、可憐な白い花が咲くって事を、先生は知らないのかしら……。奥さんは野そだちな人だけれど、眠ったようなひとで、この家では私は一番好きなひとである。

(十二月×日)

  ひまが出るなり。

 別に行くところもない。大きな風呂敷包みを持って、汽車道の上に架った陸橋の上で、貰った紙包みを開いて見たら、たった二円はいっていた。二週間あまりも居て、金二円也。足の先から、冷たい血があがるような思いだった。――ブラブラ大きな風呂敷包みをさげて歩いていると、何だかザラザラした気持ちで、何もかも投げ出したくなってきた。通りすがりに蒼い瓦葺きの文化住宅の貸家があったので這入ってみる。庭が広くて、ガラス窓が十二月の風に磨いたように冷たく光っていた。

 疲れて眠たくなっていたので、休んで行きたい気持ちなり、勝手口を開けてみると、錆びた鑵詰のかんからがゴロゴロ散らかっていて、座敷の畳が泥で汚れていた。昼間の空家は淋しいものだ。薄い人の影があそこにもここにもたたずんでいるようで、寒さがしみじみとこたえて来る。どこへ行こうというあてもないのだ。二円ではどうにもならない。はばかりから出て来ると、荒れ果てた縁側のそばへ狐のような目をした犬がじっと見ていた。

「何でもないんだ、何でもありゃしないんだよ。」

 言いきかせるつもりで、私は縁側の上へ屹とつったっていた。

(どうしようかなア……、どうにもならないじゃないのッ!)

 夜。

 新宿の旭町の木賃宿へ泊った。石崖の下の雪どけで、道が餡このようにこねこねしている通りの旅人宿に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。

みんな嘘っぱちばかりの世界だった 甲州行きの終列車が頭の上を走ってゆく 百貨店の屋上のように寥々とした全生活を振り捨てて 私は木賃宿の布団に静脈を延ばしている 列車にフンサイされた死骸を 私は他人のように抱きしめてみた 真夜中に煤けた障子を明けると こんなところにも空があって月がおどけていた。
みなさまさよなら! 私は歪んだサイコロになってまた逆もどり ここは木賃宿の屋根裏です 私は堆積された旅愁をつかんで 飄々と風に吹かれていた。

 夜中になっても人が何時までもそうぞうしく出はいりをしている。

「済みませんが……」

 そういって、ガタガタの障子をあけて、不意に銀杏返しに結った女が、乱暴に私の薄い布団にもぐり込んで来た。すぐそのあとから、大きい足音がすると、帽子もかぶらない薄汚れた男が、細めに障子をあけて声をかけた。

「オイ! お前、おきろ!」

 やがて、女が一言二言何かつぶやきながら、廊下へ出て行くと、パチンと頬を殴る音が続けざまに聞えていたが、やがてまた外は無気味な、汚水のような寞々とした静かさになった。女の乱して行った部屋の空気が、仲々しずまらない。

「今まで何をしていたのだ! 原籍は、どこへ行く、年は、両親は……」

 薄汚れた男が、また私の部屋へ這入って来て、鉛筆を嘗めながら、私の枕元に立っているのだ。

「お前はあの女と知合いか?」

「いいえ、不意にはいって来たんですよ。」

 クヌウト・ハムスン

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だって、こんな行きがかりは持たなかっただろう――。刑事が出て行くと、私は伸々と手足をのばして枕の下に入れてある財布にさわってみた。残金は一円六十五銭也。月が風に吹かれているようで、歪んだ高い窓から色々な光の虹が私には見えてくる。――ピエロは高いところから飛び降りる事は上手だけれど、飛び上って見せる芸当は容易じゃない、だが何とかなるだろう、食えないと云うことはないだろう……。

(十二月×日)

 朝、青梅街道の入口の飯屋へ行った。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が駈け込むように這入って来て、

「姉さん! 十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。」

 大声で云って正直に立っている。すると、十五六の小娘が、

「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。

 労働者は急にニコニコしてバンコ

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腰をかけた。

 大きな飯丼。葱と小間切れの肉豆腐。濁った味噌汁。これ丈けが十銭玉一つの栄養食だ。労働者は天真に大口あけて飯を頬ばっている。涙ぐましい風景だった。天井の壁には、一食十銭よりと書いてあるのに、十銭玉一つきりのこの労働者は、すなおに大声で念を押しているのだ。私は涙ぐましい気持ちだった。御飯の盛りが私のより多いような気がしたけれども、あれで足りるかしらとも思う。その労働者はいたって朗かだった。私の前には、御飯にごった煮にお新香が運ばれてきた。まことに貧しき山海の珍味である。合計十二銭也を払って、のれんを出ると、どうもありがとうと女中さんが云ってくれる。お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつを交わして、十二銭なのだ。どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗かだと思う。だけど、あの四十近い労働者の事を思うと、これは又、十銭玉一ツで、失望、どんぞこ、墜落との紙一重なのではないだろうか――

 お母さんだけでも東京へ来てくれれば、何とかどうにか働きようもあるのだけれど……沈むだけ沈んでチンボツしてしまった私は難破船のようなものだ。飛沫がかかるどころではない。ザンブザンブ潮水を呑んで、結局私も昨夜の淫売婦と、そう変った考えも持っていやしない。あの女は三十すぎていたかも知れない。私がもしも男だったら、あのまま一直線にあの夜の女に溺れてしまって、今朝はもう二人で死ぬる話でもしていたかもしれない。

 昼から荷物を宿屋にあずけて、神田の職業紹介所に行ってみる。

 どこへ行っても砂原のように寥々とした思いをするので、私は胸がつまった。

(お前さんに使ってもらうんじゃないよ。)

 おたんちん!

 ひょっとこ!

 馬鹿野郎!

 何と冷たい、コウマンチキな女達なのだろう――。

 桃色の吸取紙のようなカードを、紹介所の受付の女に渡すと、

「月給三十円位ですって……」

 受付女史はこうつぶやくと、私の顔を見て、せせら笑っているのだ。

「女中じゃいけないの……事務員なんて、女学校出がうろうろしているんだから駄目よ、女中なら沢山あってよ。」

 後から後から美しい女の群が雪崩れて来ている。まことにごもっともさまなことです。

 少しも得るところなし。

 紹介状は、墨汁会社と、ガソリン嬢と、伊太利大使館の女中との三つだった。私のふところには、もう九十銭あまりしかないのだ。夕方宿へ帰ると、芸人達が、植木鉢みたいに鏡の前に並んで、鼡色のお白粉を顔へ塗りたくっている。

「昨夜は二分しか売れなかった。」

「藪睨みじゃア買手がねえや!」

「ヘン、これだっていいって人があるんだから……」

「ハイ御苦労様なことですよ。」

 十四五の娘同士のはなしなり。

(十二月×日)

 こみあげてくる波のような哀しみ、まるで狂人になるような錯覚がおこる。マッチをすって、それで眉ずみをつけてみた。――午前十時。麹町三年町の伊太利大使館へ行ってみた。

 笑って暮らしましょう。でも何だか顔がゆがみます。――異人の子が馬に乗って門から出てきた。門のそばにはこわれた門番の小屋みたいなものがあって、綺麗な砂利が遠い玄関までつづいている。私のような女の来るところではないように思えた。地図のある、赤いジュウタンの広い室に通された。白と黒のコスチュウム、異人のおくさんって美しいと思う。遠くで見ているとなおさら美しい。さっき馬で出て行った男の子が鼻を鳴らしながら帰って来た。男の異人さんも出て来たけれど、大使さんではなく、書記官だとかって云う事だった。夫婦とも背が高くてアッパクを感じる。その白と黒のコスチュウムをつけた夫人にコック部屋を見せてもらった。コンクリートの箱の中には玉葱がゴロゴロしていて、七輪が二つ置いてあった。この七輪で、女中が自分の食べるのだけ煮たきをするのだと云うことだ。まるで廃屋のような女中部屋である。黒い鎧戸がおりていて石鹸のような外国の臭いがしている。

 結局ようりょうを得ないままで門を出てしまった。豪壮な三年町の邸町を抜けて坂を降りると、吹きあげる十二月の風に、商店の赤い旗がヒラヒラしていて心にしみた。人種が違っては人情も判りかねる、どこか他をさがしてみようかしら。電車に乗らないで、濠ばたを歩いていると、何となく故郷へ帰りたくなって来た。目当もないのに東京でまごついていたところで結局はどうにもならないと思う。電車を見ていると死ぬる事を考えるなり。

 本郷の前の家へ行ってみる。小母さんつめたし。近松氏から郵便が来ていた。出る時に十二社の吉井さんのところに女中が入用だから、ひょっとしたらあんたを世話してあげようと云う先生の言葉だったけれど、その手紙は薄ずみで書いた断り状だった。

 文士って薄情なのかも知れない。

 夕方新宿の街を歩いていると、何と云うこともなく男の人にすがりたくなっていた。(誰か、このいまの私を助けてくれる人はないものかしら……)新宿駅の陸橋に、紫色のシグナルが光ってゆれているのをじっと見ていると、涙で瞼がふくらんできて、私は子供のようにしゃくりが出てきた。

 何でも当ってくだけてみようと思う。宿屋の小母さんに正直に話をしてみた。仕事がみつかるまで、下で一緒にいていいと言ってくれた。

 「あんた、青バス

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の車掌さんにならないかね、いいのになると七十円位這入るそうだが……」

 どこかでハタハタでも焼いているのか、とても臭いにおいが流れて来る。七十円もはいれば素敵なことだ。とにかくブラさがるところをこしらえなくてはならない……十燭の電気のついた帳場の炬燵にあたって、お母アさんへの手紙を書く。

 ――ビョウキシテ、コマッテ、イルカラ、三円クメンシテ、オクッテクダサイ。

 此間の淫売婦が、いなりずしを頬ばりながらはいって来た。

「おとついはひどいめに会った。お前さんもだらしがないよ。」

「お父つぁん怒ってた?」

 電気の下で見ると、もう四十位の女で、乾いたような崩れた姿をしていた。

「私の方じゃあんなのを梟と云って、色んな男を夜中に連れ込んで来るんだが、あんまり有りがたい客じゃあないんですよ。お父つぁん、油をしぼられてプンプン怒ってますよ。」

 人の好さそうな老けたお上さんは、茶を淹れながらあの女の事を悪く云っていた。

 夜、お上さんにうどんを御馳走になる。明日はここの小父さんのくちぞえで青バスの車庫へ試験をうけに行ってみよう。暮れぢかくになって、落ちつき場所のない事は淋しいけれど、クヨクヨしていても仕様のない世の中だ。すべては自分の元気な体をたのみに働きましょう。電線が風ですさまじく鳴っている。木賃宿の片隅に、この小さな私は、汚れた布団に寝ころんで、壁に張ってある大黒さんの顔を見ながら、雲の上の御殿のような空想をしている。

(国へかえってお嫁にでも行こうかしら……)

(四月×日)

 今日はメリヤス屋の安さんの案内で、地割り

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をしてくれるのだと云う親分のところへ酒を一升持って行く。

 道玄坂の漬物屋の路地口にある、土木請負の看板をくぐつて、綺麗ではないけれど、拭きこんだ格子を開けると、いつも昼間場所割りをしてくれるお爺さんが、火鉢の傍で茶を啜っていた。

「今晩から夜店をしなさるって、昼も夜も出しゃあ、今に銀行が建ちましょうよ。」

 お爺さんは人のいい高笑いをして、私の持って行った一升の酒を気持ちよく受取ってくれた。

 誰も知人のない東京なので、恥かしいも糞もあったものではない。ピンからキリまである東京だもの。裸になりついでに、うんと働いてやりましょう。私はこれよりももっと辛かった菓子工場の事を思うと、こんなことなんか平気だと気持ちが晴れ晴れとしてきた。

 夜。

 私は女の万年筆屋さんと、当のない門札を書いているお爺さんの間に店を出さして貰った。蕎麦屋で借りた雨戸に、私はメリヤスの猿股を並べて「二十銭均一」の札をさげると、万年筆屋さんの電気に透して、ランデの死を読む。大きく息を吸うともう春の気配が感じられる。この風の中には、遠い遠い憶い出があるようだ。舗道は灯の川だ。人の洪水だ。瀬戸物屋の前には、うらぶれた大学生が、計算器を売っていた。「諸君! 何万何千何百何に何千何百何十加えればいくらになる。皆判らんか、よくもこんなに馬鹿がそろったものだ。」

 沢山の群集を相手に高飛車に出ている、こんな商売も面白いものだと思う。

 お上品な奥様が、猿股を二十分も捻っていて、たった一ツ買って行った。お母さんが弁当を持って来てくれる。暖かになると、妙に着物の汚れが目にたってくる。母の着物も、ささくれて来た。木綿を一反買ってあげよう。

「私が少しかわるから、お前は御飯をお上り。」

 お新香に竹輪の煮つけが、瀬戸の重ね鉢にはいっていた。舗道に背中をむけて、茶も湯もない食事をしていると、万年筆屋の姉さんが、

「そこにもある、ここにもあると云う品物ではございません。お手に取って御覧下さいまし。」

 と大きい声で云っている。

 私はふっと塩っぱい涙がこぼれて来た。母はやっと一息ついた今の生活が嬉しいのか、小声で時代色のついた昔の唄を歌っていた。九州へ行っている義父さえこれでよくなっていたら、当分はお母さんの唄ではないが、たったかたのただろう。

(四月×日)

 水の流れのような、薄いショールを、街を歩く娘さん達がしている。一つあんなのを欲しいものだ。洋品店の四月の窓飾りは、金と銀と桜の花で目がくらむなり。

空に拡がった桜の枝に
うっすらと血の色が染まると
ほら枝の先から花色の糸がさがって
情熱のくじびき
食えなくてボードビルへ飛び込んで
裸で踊った踊り子があったとしても
それは桜の罪ではない。
ひとすじの情
ふたすじの義理
ランマンと咲いた青空の桜に
生きとし生ける
あらゆる女の
裸の唇を
するすると奇妙な糸がたぐって行きます。
貧しい娘さん達は
夜になると
果物のように唇を
大空へ投げるのですってさ
青空を色どる桃色桜は
こうしたカレンな女の
仕方のないくちづけなのですよ
そっぽをむいた唇の跡なのですよ。

 ショールを買う金を貯めることを考えたら、仲々大変なことなので割引の映画を見に行ってしまった。フイルムは鉄路の白バラ、少しも面白くなし。途中雨が降り出したので、小屋から飛び出して店に行った。お母さんは茣蓙をまとめていた。いつものように、二人で荷物を背負って駅へ行くと、花見帰りの金魚のようなお嬢さんや、紳士達が、夜の駅にあふれて、あっちにもこっちにも藻のようにただよい仲々賑かだ。二人は人を押しわけて電車へ乗った。雨が土砂降りだ。いい気味だ。もっと降れ、もっと降れ、花がみんな散ってしまうといい。暗い窓に頬をよせて外を見ていると、お母さんがしょんぼりと子供のようにフラフラして立っているのが硝子窓に写っている。

 電車の中まで意地悪がそろっているものだ。

 九州からの音信なし。

(四月×日)

 雨にあたって、お母さんが風邪を引いたので一人で夜店を出しに行く。本屋にはインキの新らしい本が沢山店頭に並んでいる。何とかして買いたいものだと思う。泥濘にて道悪し、道玄坂はアンコを流したような鋪道だ。一日休むと、雨の続いた日が困るので、我慢して店を出すことにする。色のベタベタにじんでいるような街路には、私と護謨靴屋さんの店きりだ。女達が私の顔を見てクスクス笑って通って行く。頬紅が沢山ついているのか知ら、それとも髪がおかしいのかしら、私は女達を睨み返してやった。女ほど同情のないものはない。

 いいお天気なのに道が悪い。昼から隣にかもじ屋さんが店を出した。場銭が二銭上ったと云ってこぼしていた。昼はうどんを二杯たべる。(十六銭也)学生が、一人で五ツも品物を買って行ってくれた。今日は早くしまって芝へ仕入れに行って来ようと思う。帰りに鯛焼を十銭買った。

「安さんがお前、電車にしかれて、あぶないちゅうが……」

 帰ると、母は寝床の中からこう云った。私は荷物を背負ったまま呆然としてしまった。昼過ぎ、安さんの家の者が知らせに来たのだと、母は書きつけた病院のあて名の紙をさがしていた。

 夜、芝の安さんの家へ行く。若いお上さんが、眼を泣き腫らして病院から帰って来たところだった。少しばかり出来上っている品物をもらってお金を置いて帰る。世の中は、よくもよくもこんなにひびだらけになっているものだと思う。昨日まで、元気にミシンのペタルを押していた安さん夫婦を思い出すなり。春だと云うのに、桜が咲いたと云うのに、私は電車の窓に凭れて、赤坂のお濠の燈火をいつまでも眺めていた。

(四月×日)

 父より長い音信が来る。長雨で、飢えにひとしい生活をしていると云う。花壺へ貯めていた十四円の金を、お母さんが皆送ってくれと云うので為替にして急いで送った。明日は明日の風が吹くだろう。安さんが死んでから、あんなに軽便な猿股も出来なくなってしまった。もう疲れきった私達は、何もかもがメンドくさくなってしまっている。

 十四円九州へ送った。

「わし達ゃ三畳でよかけん、六畳は誰ぞに貸さんかい。」

 かしま、かしま、かしま、私はとても嬉しくなって、子供のように紙にかしまと書き散らすと、鳴子坂の通りへそれを張りに出て行った。寝ても覚めても、結局は死んでしまいたい事に話が落ちるけれど、なにくそ! たまには米の五升も買いたいものだと思う。お母さんは近所の洗い張りでもしようかと云うし、私は女給と芸者の広告がこのごろめについて仕方がない。縁側に腰をかけて日向ぼっこをしていると、黒い土の上から、モヤモヤとかげろうがのぼっている。もうじき五月だ。私の生れた五月だ。歪んだガラス戸に洗った小切れをベタベタ張っていたお母さんは、フッと思い出した様に云った。

「来年はお前の運勢はよかぞな、今年はお前もお父さんも八方塞がりだからね……」

 明日から、この八方塞がりはどうしてゆくつもりか! 運勢もへちまもあったものじゃない。次から次から悪運のつながりではありませんかお母さん!

 腰巻も買いたし。

(五月×日)

 家のかしまはあまり汚い家なので誰もまだ借りに来ない。お母さんは八百屋が借してくれたと云って大きなキャベツを買って来た。キャベツを見るとフクフクと湯気の立つ豚カツでもかぶりつきたいと思う。がらんとした部屋の中で、寝ころんで天井を見ていると、鼡のように、小さくなって、色んなものを食い破って歩いたらユカイだろうと思った。夜、風呂屋で母が聞いて来たと云って、派出婦にでもなったらどんなものかと相談していた。それもいいかも知れないけれど、根が野性の私である。金持の家風にペコペコ頭をさげる事は、腹を切るより切ない事だ。母の佗し気な顔を見ていたら、涙がむしょうにあふれてきた。

  腹がへってもひもじゅうないとかぶりを振っている時ではないのだ。明日から、今から飢えて行く私達なのである。あああの十四円は九州へとどいたか知ら、東京が厭になった。早くお父さんが金持になってくれるといい。九州もいいな。四国もいいな。夜更け、母が鉛筆をなめなめお父さんにたよりを書いているのを見て、誰かこんな体でも買ってくれるような人はないかと思ったりした。

(五月×日)

 朝起きたらもう下駄が洗ってあった。

 いとしいお母さん! 大久保百人町の派出婦会に行ってみる。中年の女の人が二人、店の間で縫いものをしていた。人がたりなかったのであろうか、そこの主人は、添書のようなものと地図を私にくれた。行く先の私の仕事は、薬学生の助手だと云うことである。――道を歩いている時が、私は一番愉しい。五月の埃をあびて、新宿の陸橋をわたって、市電に乗ると、街の風景が、まことに天下タイヘイにござ候と旗をたてているように見えた。此街を見ていると苦しい事件なんか何もないようだ。買いたいものが何でもぶらさがっている。私は桃割れの髪をかしげて電車のガラス窓で直した。本村町で降りると、邸町になった路地の奥にそのうちがあった。

 「ごめん下さい。」

 大きな家だな、こんな大きい家の助手になれるか知ら……、戸口で私は何度かかえろうと思いながらぼんやり立っていた。

「貴女、派出婦さん! 派出婦会から、さっき出たって電話がかかって来たのに、おそいので坊ちゃん怒ってらっしゃるわ。」

 私が通されたのは、洋風なせまい応接室だった。壁には、色褪せたミレーの晩鐘の口絵が張ってあった。面白くもない部屋だ。腰掛けは得たいが知れない程ブクブクして柔かである。

「お待たせしました。」

 何でも此ひとの父親は日本橋で薬屋をしているとかで、私の仕事は薬見本の整理でわけのない仕事だそうだ。

「でもそのうち、僕の仕事が忙しくなると清書してもらいたいのですがね、それに一週間程したら、三浦三崎の方へ研究に行くんですが、来てくれますか。」

 此男は二十四五位かとも思う。私は若い男の年がちっとも判らないので、じっと背の高いその人の顔を見ていた。

「いっそ派出婦の方を止して、毎日来ませんか。」

 私も、派出婦のようないかにも品物みたいな感じのするところより、その方がいいと思ったので、一カ月三十五円で約束をしてしまった。紅茶と、洋菓子が出たけれど、まるで、日曜の教会に行ったような少女の日を思い出させた。

「君はいくつですか?」

「二十一です。」

「もう肩上げをおろした方がいいな。」

 私は顔が熱くなっていた。三十五円毎月つづくといいと思う。だがこれもまた信じられはしない。――家へ帰ると、母は、岡山の祖母がキトクだと云う電報を手にしていた。私にも母にも縁のないお祖母さんだけれどたった一人の義父の母だったし、田舎でさなだ帯の工場に通っているこのお祖母さんが、キトクだと云うことは可哀想だった。どんなにしても行かなくてはならないと思う。九州の父へは、四五日前に金を送ったばかりだし、今日行ったところへ金を借りに行くのも厚かましいし、私は母と一緒に、四カ月もためているのに家主のところへ相談に行ってみた。十円かりて来る。沢山利子をつけて返そうと思う。残りの御飯を弁当にして風呂敷に包んだ。――一人旅の夜汽車は佗しいものだ。まして年をとっているし、ささくれた身なりのままで、父の国へやりたくはないけれど、二人共絶体絶命のどんづまり故、沈黙って汽車に乗るより仕方がない。岡山まで切符を買ってやる。薄い灯の下に、下関行きの急行列車が沢山の見送り人を呑みこんでいた。

「四五日内には、前借りをしますから、そしたら、送りますよ。しっかりして行っていらっしゃい。しょぼしょぼしたら馬鹿ですよ。」

 母は子供のように涙をこぼしていた。

「馬鹿ね、汽車賃は、どんな事をしても送りますから、安心してお祖母さんのお世話をしていらっしゃい。」

 汽車が出てしまうと、何でもなかった事が急に悲しく切なくなって、目がぐるぐるまいそうだった。省線をやめて東京駅の前の広場へ出て行った。長い事クリームを顔へ塗らないので、顔の皮膚がヒリヒリしている。涙がまるで馬鹿のように流れている。信ずる者よ来れ主のみもと……遠くで救世軍の楽隊が聞えていた。何が信ずるものでござんすかだ。自分の事が信じられなくてたとえイエスであろうと、お釈迦さまであろうと、貧しい者は信ずるヨユウなんかないのだ。宗教なんて何だろう! 食う事にも困らないものだから、あの人達は街にジンタまで流している。信ずる者よ来れか……。あんなに陰気な歌なんか真平だ。まだ気のきいた春の唄があるなり。いっそ、銀座あたりの美しい街で、こなごなに血へどを吐いて、華族さんの自動車にでもしかれてしまいたいと思う。いとしいお母さん、今、貴女は戸塚、藤沢あたりですか。三等車の隅っこで何を考えています。どの辺を通っています……。三十五円が続くといいな。お濠には、帝劇の灯がキラキラしていた。私は汽車の走っている線路のけしきを空想してみた。何もかも何もかもあたりはじっとしている。天下タイヘイで御座候だ。

(十一月×日)

 浮世離れて奥山ずまい、こんなヒゾクな唄にかこまれて、私は毎日玩具のセルロイドの色塗りに通っている。日給は七十五銭也の女工さんになって今日で四カ月、私が色塗りをした蝶々のお垂げ止めは、懐かしいスヴニールとなって、今頃はどこへ散乱して行っていることだろう――。日暮里の金杉から来ているお千代さんは、お父つぁんが寄席の三味線ひきで、妹弟六人の裏家住いだそうだ。「私とお父つぁんとで働かなきゃあ、食えないんですもの……」お千代さんは蒼白い顔をかしげて、佗しそうに赤い絵具をベタベタ蝶々に塗っている。ここは、女工が二十人、男工が十五人の小さなセルロイド工場で、鉛のように生気のない女工さんの手から、キュウピーがおどけていたり、夜店物のお垂げ止めや、前芯帯や、様々な下層階級相手の粗製品が、毎日毎日私達の手から洪水の如く市場へ流れて行くのだ。朝の七時から、夕方の五時まで、私達の周囲は、ゆでイカのような色をしたセルロイドの蝶々や、キュウピーでいっぱいだ。文字通り護謨臭い、それ等の製品に埋れて仕事が済むまで、私達はめったに首をあげて窓も見られないような状態である。事務所の会計の細君が、私達の疲れたところを見計らっては、皮肉に油をさしに来る。

「急いでくれなくちゃ困るよ。」

 フンお前も私達と同じ女工上りじゃないか、「俺達ゃ機械じゃねえんだよっ。」発送部の男達がその女が来ると、舌を出して笑いあっていた。五時になると、二十分は私達の労力のおまけだった。日給袋の入った笊が回って来ると、私達は暫くは、激しい争奪戦を開始して、自分の日給袋を見つけ出す。――夕方、襷を掛けたまま工場の門を出ると、お千代さんが、後から追って来た。

「あんた、今日市場へ寄らないの、私今晩のおかずを買って行くのよ……」

 一皿八銭の秋刀魚は、その青く光った油と一緒に、私とお千代さんの両手にかかえられて、サンゼンと生臭い匂いを二人の胃袋に通わせてくれるのだ。

「この道を歩いている時だけ、あんた、楽しいと思った事ない?」

「本当にね、私吻とするのよ。」

「ああ、でもあんたは一人だからうらやましいと思うわ。」

 美しいお千代さんの束ねた髪に、白く埃がつもっているのを見ると、街の華やかな、一切のものに、私は火をつけてやりたいようなコウフンを感じてくる。

(十一月×日)

 なぜ?

 なぜ?

 私達はいつまでもこんな馬鹿な生き方をしなければならないのだろうか? いつまでたっても、セルロイドの匂いに、セルロイドの生活だ。朝も晩も、ベタベタ三原色を塗りたくって、地虫のように、太陽から隔離された歪んだ工場の中で、コツコツ無限に長い時間と青春と健康を搾取されている若い女達の顔を見ていると、私はジンと悲しくなってしまう。

 だが待って下さい。私達のつくっている、キュウピーや蝶々のお垂げ止めが、貧しい子供達の頭をお祭のように飾る事を思えば、少し少しあの窓の下では、微笑んでもいいでしょう――。

 二畳の部屋には、土釜や茶碗や、ボール箱の米櫃や行李や、そうして小さい机が、まるで一生の私の負債のようにがんばっている。ななめにひいた布団の上には、天窓の朝陽がキラキラ輝いていて、埃が縞のようになって私の顔の上へ流れて来る。いったい革命とは、どこを吹いている風なのだ……仲々うまい言葉を沢山知っている、日本の自由主義者よ。日本の社会主義者は、いったいどんなお伽噺を空想しているのでしょうか?

 あの生れたての、玄米パンよりもホヤホヤな赤ン坊達に、絹のむつきと、木綿のむつきと一たいどれ丈けの差をつけなければならないのだろう!

「あんたは、今日は工場は休みなのかい?」

 小母さんが障子を叩きながら呶鳴っている。私は舌打ちをすると、妙に重々しく頭の下に両手を入れて、今さら重大な事を考えたけれど、涙が出るばかりだった。

 母の音信一通。

 たとえ五十銭でもいいから送ってくれ、私はリュウマチで困っている。此家にお前とお父さんが早く帰って来るのを、楽しみに待っている。お父さんの方も思わしくないと云う便りだし、お前の暮し向きも思う程でないと聞くと生きているのが辛いのです。――たどたどしいカナ文字の手紙である。最後に上様ハハよりと書いてあるのを見ると、母を手で叩きたい程可愛くなってくる。

「どっか体でも悪いのですか。」

 この仕立屋に同じ間借りをしている、印刷工の松田さんが、遠慮なく障子を開けてはいって来た。背丈が十五六の子供のようにひくくて髪を肩まで長くして、私の一等厭なところをおし気もなく持っている男だった。天井を向いて考えていた私は、クルリと背をむけると布団を被ってしまった。此人は有難い程親切者である。だが会っていると、憂鬱なほど不快になって来る人だ。

「大丈夫なんですか!」

「ええ体の節々が痛いんです。」

 店の間では商売物の菜っ葉服を小父さんが縫っているらしい。ジ……と歯を噛むようなミシンの音がしている。「六十円もあれば、二人で結構暮せると思うんです。貴女の冷たい心が淋しすぎる。」

 枕元に石のように坐った松田さんは、苔のように暗い顔を伏せて私の上にかぶさって来る。激しい男の息づかいを感じると、私は涙が霧のようにあふれて来た。今までこんなに、優しい言葉を掛けて私を慰めてくれた男が一人でもあっただろうか、皆な私を働かせて煙のように捨ててしまったではないか。此人と一緒になって、小さな長屋にでも住って、世帯を持とうかしらとも思う。でもあんまりそれも淋しすぎる話だ。十分も顔を合せていたら、胸がムカムカして来る松田さんだった。

「済みませんが、私は体の工合が悪いんです。ものを云うのが、何だかおっくうですの、あっちい行ってて下さい。」「当分工場を休んで下さい。その間の事は僕がしますよ。たとえ貴女が僕と一緒になってくれなくっても、僕はいい気持ちなんです。」

 まあ何てチグハグな世の中であろうと思う――。

 夜。

 米を一升買いに出る。ついでに風呂敷をさげたまま逢初橋の夜店を歩いてみた。剪花屋、ロシヤパン、ドラ焼屋、魚の干物屋、野菜屋、古本屋、久々で見る散歩道だ。

(十二月×日)

 へエ、街はクリスマスでございますか。救世軍の慈善鍋も飾り窓の七面鳥も、新聞も雑誌も一斉に街に氾濫して、ビラも広告旗も血まなこになっているようだ。

 暮だ、急行列車だ、あの窓の風があんなに動いている。能率を上げなくてはと、汚れた壁の黒板には、二十人の女工の色塗りの仕上げ高が、毎日毎日数字になって、まるで天気予報みたいに私達をおびやかすようになってきた。規定の三百五十の仕上げが不足の時は、五銭引き、十銭引きと、日給袋にぴらぴらテープのような伝票が貼られて来る。

「厭んなっちゃうね……」

 女工はまるで、ササラ

[_]
[13]
のように腰を浮かせて御製作なのだ。同じ絵描きでも、これは又あまりにもコッケイな、ドミエの漫画のようではないか。

「まるで人間を芥だと思ってやがる。」

 五時の時計が鳴っても、仕事はドンドン運ばれて来るし、日給袋は仲々廻りそうにもない。工場主の小さな子供達を連れて、会計の細君が、四時頃自動車で街へ出掛けて行ったのを、一番小さいお光ちゃんが便所の窓から眺めていて、女工達に報告すると、芝居だろうと云ったり、正月の着物でも買いに行ったのだろうと云ったり、手を働かせながら、女工達の間にはまちまちの論議が噴出した。

 七時半。

 朝から晩まで働いて、六十銭の労働の代償をもらってかえる。土釜を七輪に掛けて、机の上に茶碗と箸を並べると、つくづく人生とはこんなものだったのかと思った。ごたごた文句を言っている人間の横ッ面をひっぱたいてやりたいと思う。御飯の煮える間に、お母さんへの手紙の中に長い事して貯めていた桃色の五十銭札五枚を入れて封をする。たった今、何と何がなかったら楽しいだろうと空想して来ると、五円の間代が馬鹿らしくなってきた。二畳で五円である。一日働いて米が二升きれて平均六十銭だ。又前のようにカフェーに逆もどりでもしようかしらともおもい、幾度も幾度も、水をくぐって、私と一緒に疲れきっている壁の銘仙の着物を見ていると、全く味気なくなって来る。何も御座無く候だ。あぶないぞ! あぶないぞ! あぶない不精者故、バクレツダンを持たしたら、喜んでそこら辺へ投げつけるだろう。こんな女が一人うじうじ生きているよりも、いっそ早く、真二ツになって死んでしまいたい。熱い御飯の上に、昨夜の秋刀魚を伏兵線にして、ムシャリと頬ばると、生きている事もまんざらではない。沢庵を買った古新聞に、北海道にはまだ何万町歩と云う荒地があると書いてある。ああそう云う未開の地に私達の、ユウトピヤが出来たら愉快だろうと思うなり。鳩ポッポ鳩ポッポと云う唄が出来るかも知れない。皆で仲よく飛んでこいと云う唄が流行るかも知れない。――風呂屋から帰りがけに、暗い路地口で松田さんに会った。私は沈黙って通り抜けた。

(十二月×日)

「何も変な風に義理立てをしないで、松田さんが、折角借して上げると云うのに、あなたも借りたらいいじゃないの、実さい私の家は、あんた達の間代を当にしているんですからねえ。」

 髪毛の薄い小母さんの顔を見ていると、私はこのまま此家を出てしまいたい程くやしくなってくる。これが出掛けの戦争だ。急いで根津の通りへ出ると、松田さんが酒屋のポストの傍で、ハガキを入れながら私を待っていた。ニコニコして本当に好人物なのに、私はどうしてなのかこのひとにはムカムカして仕様がない。

「何も云わないで借りて下さい。僕はあげてもいいんですが、貴女がこだわると困るから。」

 そう云って、塵紙にこまかく包んだ金を松田さんは私の帯の間に挾んでくれている。私は肩上げのとってない昔風な羽織を気にしながら、妙にてれくさくなってふりほどいて電車に乗ってしまった。――どこへ行く当もない。正反対の電車に乗ってしまった私は、寒い上野にしょんぼり自分の影をふんで降りた。狂人じみた口入屋の高い広告燈が、難破船の信号みたように風にゆれていた。

「お望みは……」

 牛太郎

[_]
[14]
のような番頭にきかれて、まず私はかたずを呑んで、商品のような求人広告のビラを見上げた。

「辛い事をやるのも一生、楽な事をやるのも一生、姉さん良く考えた方がいいですよ。」

 肩掛もしていない、このみすぼらしい女に、番頭は目を細めて値ぶみを始めたのか、ジロジロ私の様子を見ている。下谷の寿司屋の女中さんの口に紹介をたのむと、一円の手数料を五十銭にまけてもらって公園に行った。今にも雪の降って来そうな空模様なのに、ベンチの浮浪人達は、朗かな鼾声をあげて眠っている。西郷さんの銅像も浪人戦争

[_]
[15]
の遺物だ。貴方と私は同じ郷里なのですよ。鹿児島が恋しいとはお思いになりませんか。霧島山が、桜島が、城山が、熱いお茶にカルカンの甘味しい頃ですね。

 貴方も私も寒そうだ。

 貴方も私も貧乏だ。

 昼から工場に出る。生きるは辛し。

(十二月×日)

 昨夜、机の引き出しに入れてあった松田さんの心づくし。払えばいいのだ借りておこうかしら? 弱き者よ、汝の名は貧乏なり。

家にかへる時間となるを
ただ一つ待つことにして
今日も働けり。

 啄木はこんなに楽しそうに家にかえる事を歌っているけれど、私は工場から帰ると棒のようにつっぱった足を二畳いっぱいに延ばして、大きなアクビをしているのだ。それがたった一つの楽しさなのだ。二寸ばかりのキュウピーを一つごまかして来て、茶碗の棚の上にのせて見る。私の描いた眼、私の描いた羽根、私が生んだキュウピーさん、冷飯に味噌汁をザクザクかけてかき込む淋しい夜食です。――松田さんが、妙に大きいセキをしながら窓の下を通ったとおもうと、台所からはいって来て声をかける。

「もう御飯ですか、少し待っていらっしゃい、いま肉を買って来たんですよ。」

 松田さんも私と同じ自炊生活である。仲々しまった人らしい。石油コンロで、ジ……と肉を煮る匂いが、切なく口を濡らす。「済みませんが、此葱切ってくれませんか。」昨夜、無断で人の部屋の机の引き出しを開けて、金包みを入れておいたくせに、そうして、たった十円ばかりの金を貸して、もう馴々しく、人に葱を刻ませようとしている。こんな人間に図々しくされると一番たまらない……。遠くで餅をつく勇ましい音が聞えている。私は沈黙ってポリポリ大根の塩漬を噛んでいたけれど、台所の方でも佗しそうに、コツコツ葱を刻み出しているようだった。「ああ刻んであげましょう。」沈黙っているにはしのびない悲しさで、障子を開けて、私は松田さんの庖丁を取った。

「昨夜はありがとう。五円を小母さんに払って、五円残ってますから五円お返ししときますわ。」

 松田さんは沈黙って竹の皮から滴るように紅い肉片を取って鍋に入れていた。ふと見上げた歪んだ松田さんの顔に、小さい涙が一滴光っている。奥では弄花が始まったのか、小母さんの、いつものヒステリー声がピンピン天井をつき抜けて行く。松田さんは沈黙ったまま米を磨ぎ出した。

「アラ、御飯はまだ炊かなかったんですか。」

「ええ貴女が御飯を食べていらっしたから、肉を早く上げようと思って。」

 洋食皿に分けてもらった肉が、どんな思いで私ののどを通ったか。私は色んな人の姿を思い浮べた。そしてみんなくだらなく思えた。松田さんと結婚をしてもいいと思った。夕食のあと、初めて松田さんの部屋へ遊びに行ってみる。

 松田さんは新聞をひろげてゴソゴソさせながら、お正月の餅をそろえて笊へ入れていた。あんなにも、なごやかにくずれていた気持ちが、又前よりもさらに凄くキリリッと弓をはってしまい、私はそのまま部屋へ帰ってきた。

「寿司屋もつまらないし……」

 外は嵐が吹いている。キュウピーよ、早く鳩ポッポだ。吹き荒さめ、吹き荒さめ、嵐よ吹雪よ。

(四月×日)

 地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえと、呶鳴ったところで私は一匹の鳥猫だ。世間様は横目で、お静かにお静かにとおっしゃっている。又いつもの淋しい朝の寝覚めなり。薄い壁に掛った、黒い洋傘をじっと見ていると、その洋傘が色んな形に見えて来る。今日もまた此男は、ほがらかな桜の小道を、我々同志よなんて、若い女優と手を組んで、芝居のせりふを云いあいながら行く事であろう。私はじっと背中を向けてとなりに寝ている男の髪の毛を見ていた。ああこのまま布団の口が締って、出られないようにしたらどんなものだろう……。このひとにピストルを突きつけたら、此男は鼡のようにキリキリ舞いをしてしまうだろう。お前は高が芝居者じゃないか。インテリゲンチャのたいこもちになって、我々同志よもみっともないことである。私はもうあなたにはあいそがつきてしまいました。あなたのその黒い鞄には、二千円の貯金帳と、恋文が出たがって、両手を差し出していましたよ。

「俺はもうじき食えなくなる。誰かの一座にでもはいればいいけれど……俺には俺の節操があるし。」

 私は男にはとても甘い女です。

 そんな言葉を聞くと、さめざめと涙をこぼして、では街に出て働いてみましょうかと云ってみるのだ。そして私はこの四五日、働く家をみつけに出掛けては、魚の腸のように疲れて帰って来ていたのに……この嘘つき男メ! 私はいつもあなたが用心をして鍵を掛けているその鞄を、昨夜そっと覗いてみたのですよ。二千円の金額は、あなたが我々プロレタリアと云っているほど少くもないではありませんか。私はあんなに美しい涙を流したのが莫迦らしくなっていた。二千円と、若い女優があれば、私だったら当分は長生きが出来る。

(ああ浮世は辛うござりまする。)

 こうして寝ているところは円満な御夫婦である。冷たい接吻はまっぴらなのよ。あなたの体臭は、七年も連れそった女房や若い女優の匂いでいっぱいだ。あなたはそんな女の情慾を抱いて、お勤めに私の首に手を巻いている。

 ああ淫売婦にでもなった方がどんなにか気づかれがなくて、どんなにいいか知れやしない。私は飛びおきると男の枕を蹴ってやった。嘘つきメ! 男は炭団のようにコナゴナに崩れていった。ランマンと花の咲き乱れた四月の明るい空よ、地球の外には、颯々として熱風が吹きこぼれてオーイオーイと見えないよび声が四月の空に弾けている。飛び出してお出でよッ! 誰も知らない処で働きましょう。茫々とした霞の中に私は神様の手を見た。真黒い神様の腕を見た。

(四月×日)

一度はきやすめ二度は嘘
三度のよもやにひかされて……
憎らしい私の煩悩よ、私は女でございました。やっぱり切ない涙にくれまする。
鶏の生胆に
花火が散って夜が来た
東西! 東西!
そろそろ男との大詰が近づいて来た
一刀両断に切りつけた男の腸に
メダカがぴんぴん泳いでいる。
臭い臭い夜だ
誰も居なけりゃ泥棒にはいりますぞ!
私は貧乏故男も逃げて行きました。
ああ真暗い頬かぶりの夜だよ。

 土を凝視めて歩いていると、しみじみと佗しくなってきて、病犬のように慄えて来る。なにくそ! こんな事じゃあいけないね。美しい街の舗道を今日も私は、私を買ってくれないか、私を売ろう……と野良犬のように彷徨してみた。引き止めても引き止まらない切れたがるきずなならば此男ともあっさり別れてしまうより仕方がない……。窓外の名も知らぬ大樹のたわわに咲きこぼれた白い花には、小さい白い蝶々が群れていて、いい匂いがこぼれて来る。夕方、お月様で光っている縁側に出て男の芝居のせりふを聞いていると、少女の日の思い出が、ふっと花の匂いのように横切ってきて、私も大きな声でどっかにいい男はないでしょうかとお月様に呶鳴りたくなってきた。此ひとの当り芸は、かつて芸術座の須磨子のやったと云う「剃刀」と云う芝居だった。私は少女の頃、九州の芝居小屋で、此ひとの「剃刀」と云う芝居を見た事がある。須磨子のカチウシャもよかった、あれからもう大分時がたっている。此男も四十近い年だ。「役者には、やっぱり役者のお上さんがいいんですよ。」一人稽古をしている灯に写った男の影を見ていると、やっぱり此ひとも可哀想だと思わずにはいられない。紫色のシェードの下に、台本をくっている男の横顔が、絞って行くように、私の目から遠くに去ってしまう。

「旅興行に出ると、俺はあいつと同じ宿をとった、あいつの鞄も持ってやったっけ……でもあいつは俺の目を盗んでは、寝巻のままよその男の宿へ忍んで行っていた。」

「俺はあの女を泣かせる事に興味を覚えていた。あの女を叩くと、まるで護謨のように弾きかえって、体いっぱい力を入れて泣くのが、見ていてとてもいい気持ちだった。」

 二人で縁側に足を投げ出していると、男は灯を消して、七年も連れ添っていた別れた女の話をしている。私は圏外に置き忘れられた、たった一人の登場人物だ、茫然と夜空を見ていると此男とも駄目だよと誰かが云っている。あまのじゃくがどっかで哄笑っている、私は悲しくなってくると、足の裏が掻ゆくなるのだ。一人でしゃべっている男のそばで、私はそっと、月に鏡をかたぶけて見た。眉を濃く引いた私の顔が渦のようにぐるぐる廻ってゆく、世界中が月夜のような明るさだったらいいだろう――。

「何だか一人でいたくなったの……もうどうなってもいいから一人で暮したい。」

 男は我にかえったように、太い息を切ると涙をふりちぎって、別れと云う言葉の持つ淋しい言葉に涙を流して私を抱こうとしている。これも他愛のないお芝居なのか、さあこれから忙しくなるぞ、私は男を二階に振り捨てると、動坂の町へ出て行った。誰も彼も握手をしましょう、ワンタンの屋台に首をつっこんで、まず支那酒をかたぶけて、私は味気ない男の旅愁を吐き捨てた。

(四月×日)

 街の四ツ角で、まるで他人よりも冷やかに、私も男も別れてしまった。男は市民座と云う小さい素人劇団をつくっていて、滝ノ川の稽古場に毎日通っているのだ。

 私も今日から通いでお勤めだ。男に食わしてもらう事は、泥を噛んでいるよりも辛いことです。体のいい仕事よりもと、私のさがした職業は牛屋の女中さん。「ロースあおり一丁願いますッ。」梯子段をトントンと上って行くと、しみじみと美しい歌がうたいたくなってくる。広間に群れたどの顔も面白いフイルムのようだ。肉皿を持って、梯子段を上ったり降りたりして、私の前帯の中も、それに並行して少しずつお金でふくらんで来る。どこを貧乏風が吹くかと、部屋の中は甘味しそうな肉の煮える匂いでいっぱいだ。だけど、上つたり降りたりで、私はいっぺんにへこたれてしまった。「二三日すると、すぐ馴れてしまうわ。」女中頭の髷に結ったお杉さんが、物かげで腰を叩いている私を見て慰めてくれたりした。

 十二時になっても、此店は素晴らしい繁昌ぶりで、私は家へ帰るのに気が気ではなかった。私とお満さんをのぞいては、皆住み込みのひとなので、平気で残っていて客にたかっては色々なものをねだっている。

「たあさん、私水菓子ね……」

「あら私かもなんよ……」

 まるで野性の集りだ、笑っては食い、笑っては食い、無限に時間がつぶれて行きそうで私は焦らずにはいられなかった。私がやっと店を出た時は、もう一時近くで、店の時計がおくれていたのか、市電はとっくになかった。神田から田端までの路のりを思うと、私はがっかりして坐ってしまいたい程悲しかった。街の灯はまるで狐火のように一つ一つ消えてゆく。仕方なく歩き出した私の目にも段々心細くうつって来る。上野公園下まで来ると、どうにも動けない程、山下が恐ろしくて、私は棒立ちになってしまった。雨気を含んだ風が吹いていて、日本髪の両鬢を鳥のように羽ばたかして、私は明滅する仁丹の広告灯にみいっていた。どんな人でもいいから、道連れになってくれる人はないかと私はぼんやり広小路の方を見ていた。

 こんなにも辛い思いをして、私はあのひとに真実をつくさなければならないのだろうか? 不意にハッピを着て自転車に乗った人が、さっと煙のように目の前を過ぎて行った。何もかも投げ出したいような気持ちで走って行きながら、「貴方は八重垣町の方へいらっしゃるんじゃあないですかッ!」と私は大きい声でたずねてみた。

「ええそうです。」

「すみませんが田端まで帰るんですけれど、貴方のお出でになるところまで道連れになって戴けませんでしょうか?」

 今は一生懸命である。私は尾を振る犬のように走って行くと、その職人体の男にすがってみた。

「私も使いがおそくなったんですが、もしよかったら自転車にお乗んなさい。」

 もう何でもいい私はポックリの下駄を片手に、裾をはし折ってその人の自転車の後に乗せてもらった。しっかりとハッピのひとの肩に手を掛けて、この奇妙な深夜の自転車乗りの女は、不図自分がおかしくなって涙をこぼしている。無事に帰れますようにと私は何かに祈らずにはいられなかった。

 夜目にも白く染物とかいてあるハッピの字を眺めて、吻と安心すると、私はもう元気になって、自然に笑い出したくなっている。根津の町でその職人さんに別れると、又私は飄々と歌を唱いながら路を急いだ。品物のように冷たい男のそばへ……。

(四月×日)

 国から汐の香の高い布団を送って来た。お陽様に照らされている縁側の上に、送って来た布団を干していると、何故だか父様よ母様よと口に出して唱いたくなってくる。

 今晩は市民座の公演会だ。男は早くから化粧箱と着物を持って出かけてしまった。私は長いこと水を貰わない植木鉢のように、干からびた熱情で二階の窓から男のいそいそとした後姿を眺めていた。夕方四谷の三輪会館に行ってみると場内はもういっぱいの人で、舞台は例の「剃刀」である。男の弟は目ざとく私を見つけると目をまばたきさせて、姉さんはなぜ楽屋に行かないのかとたずねてくれる。人のいい大工をしている此弟の方は、兄とは全く別な世界に生きているいい人だった。

 舞台は乱暴な夫婦喧嘩の処だった。あああの女だ。いかにも得意らしくしゃべっているあのひとの相手女優を見ていると、私は初めて女らしい嫉妬を感じずにはいられなかった。男はいつも私と着て寝る寝巻を着ていた。今朝二寸程背中がほころびていたけれど私はわざとなおしてはやらなかったのだ。一人よがりの男なんてまっぴらだと思う。

 私はくしゃみを何度も何度もつづけると、ぷいと帰りたくなってきて、詩人の友達二三人と、暖かい戸外へ出ていった。こんなにいい夜は、裸になって、ランニングでもしたらさぞ愉快だろうと思うなり。

(四月×日)

「僕が電報を打ったら、じき帰っておいで。」と云ってくれるけれど、此ひとはまだ嘘を云ってるようだ。私はくやしいけれど十五円の金をもらうと、なつかしい停車場へ急いだ。

 汐の香のしみた私の古里へ私は帰ってゆくのだ。ああ何もかも逝ってしまってくれ、私には何にも用はない。男と私は精養軒の白い食卓につくと、日本料理でささやかな別宴を張った。

「私は当分あっちで遊ぶつもりよ。」

「僕はこうして別れたって、きっと君が恋しくなるのはわかっているんだ。只どうにも仕様のない気持ちなんだよ今は、ほんとうにどうせき止めていいかわからない程、呆然とした気持ちなんだよ。」

 汽車に乗ったら私は煙草でも吸ってみようかと思った。駅の売店で、青いバットを五ツ六ツも買い込むと私は汽車の窓から、ほんとうに冷たい握手をした。

「さようなら、体を大事にしてね。」

「有難う……御機嫌よう……」

 固く目をとじて、パッと瞼を開けてみると、せき止められていた涙が一時にあふれている。明石行きの三等車の隅ッこに、荷物も何もない私は、足を伸び伸びと投げ出して涙の出るにまかせていた。途中で面白そうな土地があったら降りてみようかしらとも思っている。私は頭の上にぶらさがった鉄道地図を、じっと見上げて駅の名を一つ一つ読んでいた。新らしい土地へ降りてみたいなと思うなり。静岡にしようか、名古屋にしようか、だけど何だかそれも不安で仕方がない。暗い窓に凭れて、走っている人家の灯を見ていると、暗い窓にふっと私の顔が鏡を見ているようにはっきり写っている。

男とも別れだ!
私の胸で子供達が赤い旗を振っている
そんなによろこんでくれるか
もう私はどこへも行かず
皆と旗を振って暮らそう。
皆そうして飛び出しておくれ、
そして石を積んでくれ
そして私を胴上げして
石の城の上に乗せておくれ。
さあ男とも別れだ泣かないぞ!
しっかりしっかり旗を振ってくれ
貧乏な女王様のお帰りだ。

 外は真暗闇だ。切れては走る窓の風景に、私は目も鼻も口も硝子窓に押しつけて、塩辛い干物のように張りついて泣いていた。

 私は、これからいったい何処へ行こうとしているのかしら……駅々の物売りの声を聞くたびに、おびえた心で私は目を開けている。ああ生きる事がこんなにむずかしいものならば、いっそ乞食にでもなって、いろんな土地土地を流浪して歩いたら面白いだろうと思う。子供らしい空想にひたっては泣いたり笑ったり、おどけたり、ふと窓を見ると、これは又奇妙な私の百面相だ。ああこんなに面白い生き方もあったのかと、私は固いクッションの上に坐りなおすと、飽きる事もなく、なつかしくいじらしい自分の百面相に凝視ってしまった。

(五月×日)

私はお釈迦様に恋をしました
仄かに冷たい唇に接吻すれば
おおもったいない程の
痺れ心になりまする。
もったいなさに
なだらかな血潮が
逆流しまする。
心憎いまでに落ちつきはらった
その男振りに
すっかり私の魂はつられてしまいました。
お釈迦様!
あんまりつれないではござりませぬか
蜂の巣のようにこわれた
私の心臓の中に
お釈迦様
ナムアミダブツの無常を悟すのが
能でもありますまいに
その男振りで
炎のような私の胸に
飛びこんで下さりませ
俗世に汚れた
この女の首を
死ぬ程抱きしめて下さりませ
ナムアミダブツのお釈迦様!

 妙に佗しい日だ。気の狂いそうな日だ。天気のせいかも知れない。朝から、降りどおしだった雨が、夜になると風をまじえて、身も心も、突きさしそうに実によく降っている。こんな詩を書いて、壁に張りつけてみたものの私の心はすこしも愉しくはない。

 ――スグコイカネイルカ

 蒼ぶくれのした電報用紙が、ヒラヒラと私の頭に浮かんで来るのは妙だ。

 馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿を千も万も叫びたいほど、いまは切ない私である。高松の宿屋で、あのひとの電報を本当に受取った私は、嬉し涙を流していた。そうして、はち切れそうな土産物を抱いて、いま、この田端の家へ帰って来たはずだのに――。半月もたたないうちに又別居だとはどうした事なのだろう。私は男に二カ月分の間代を払ってもらうと、体のいい居残りのままだったし、男は金魚のように尾をヒラヒラさせて、本郷の下宿に越して行ってしまった。昨日も出来上った洗濯物を一ぱい抱えて、私はまるで恋人に会いにでも行くようにいそいそと男の下宿の広い梯子段を上って行ったのだ。ああ私はその時から、飛行船が欲しくなりました。灯のつき始めたすがすがしい部屋に、私の胸に泣きすがったあのひとが、桃割に結ったあの女優とたった二人で、魚の様にもつれあっているのを見たのです。暗い廊下に出て、私は眼にいっぱい涙をためていました。顔いっぱいが、いいえ体いっぱいが、針金でつくった人形みたいに固くなってしまって、切なかったけれども……。

「やあ……」私は子供のように天真に哄笑して、切ない眼を、始終机の足の方に向けていた。あれから今日へ掛けての私は、もう無茶苦茶な世界へのかけ足だ。「十五銭で接吻しておくれよ!」と、酒場で駄々をこねたのも胸に残っている。

 男と云う男はみんなくだらないじゃあないの! 蹴散らして、踏みたくってやりたい怒りに燃えて、ウイスキーも日本酒もちゃんぽんに呑み散らした私の情けない姿が、こうしていまは静かに雨の音を聞きながら床の中にじっとしている。今頃は、風でいっぱいふくらんだ蚊帳の中で、あのひとは女優の首を抱えていることだろう……そんな事を思うと、私は飛行船にでも乗って、バクレツダンでも投げてやりたい気持ちなのです。

 私は宿酔いと空腹で、ヒョロヒョロしている体を立たせて、ありったけの米を土釜に入れて井戸端に出て行った。階下の人達は皆風呂に出ていたので私はきがねもなく、大きい音をたてて米をサクサク洗ってみたのです。雨に濡れながら、只一筋にはけて行く白い水の手ざわりを一人で楽しんでいる。

(六月×日)

 朝。

 ほがらかな、よいお天気なり。雨戸を繰ると白い蝶々が雪のように群れていて、男性的な季節の匂いが私を驚かす。雲があんなに、白や青い色をして流れている。ほんとにいい仕事をしなくちゃいけないと思う。火鉢にいっぱい散らかっていた煙草の吸殻を捨てると、屋根裏の女の一人住いも仲々いいものだと思った。朦朧とした気持ちも、この朝の青々とした新鮮な空気を吸うと、ほんとうに元気になって来る。だけど楽しみの郵便が、質屋の流れを知らせて来たのにはうんざりしてしまった。四円四十銭の利子なんか抹殺してしまえだ。私は縞の着物に黄いろい帯を締めると、日傘を廻して幸福な娘のような姿で街へ出てみた。例の通り古本屋への日参だ。

「小父さん、今日は少し高く買って頂戴ね。少し遠くまで行くんだから……」この動坂の古本屋の爺さんは、いつものように人のいい笑顔を皺の中に隠して、私の出した本を、そっと両の手でかかえて見ている。

「一番今流行る本なの、じき売れてよ。」

「へえ……スチルネルの自我経

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[16]
ですか、一円で戴きましょう。」

 私は二枚の五十銭銀貨を手のひらに載せると、両方の袂に一ツずつそれを入れて、まぶしい外に出た。そしていつものように飯屋へ行った。

 本当にいつになったら、世間のひとのように、こぢんまりした食卓をかこんで、呑気に御飯が食べられる身分になるのかしらと思う。一ツ二ツの童話位では満足に食ってはゆけないし、と云ってカフェーなんかで働く事は、よれよれに荒んで来るようだし、男に食わせてもらう事は切ないし、やっぱり本を売っては、瞬間瞬間の私でしかないのであろう。夕方風呂から帰って爪をきっていたら、画学生の吉田さんが一人で遊びにやって来た。写生に行ったんだと云って、十号の風景画をさげて、絵の具の匂いをぷんぷんただよわせている。詩人の相川さんの紹介で知った切りで、別に好きでも嫌いでもなかったけれど、一度、二度、三度と来るのが重なると、一寸重荷のような気がしないでもない。紫色のシェードの下に、疲れたと云って寝ころんでいた吉田さんは、ころりと起きあがると、

瞼、瞼、薄ら瞑った瞼を突いて、
きゅっと抉って両眼をあける。
長崎の、長崎の
人形つくりはおそろしや!

「こんな唄を知っていますか、白秋の詩ですよ。貴女を見ると、この詩を思い出すんです。」

 風鈴が、そっと私の心をなぶっていた。涼しい縁端に足を投げ出していた私は、灯のそばにいざりよって男の胸に顔を寄せた。悲しいような動悸を聞いた。悩ましい胸の哀れなひびきの中に、しばし私はうっとりとしていた。切ない悲しさだ。女の業なのだと思う。私の動脈はこんなひとにも噴水の様なしぶきをあげて来る。吉田さんは慄えて沈黙っていた。私は油絵具の中にひそむ、油の匂いを此時程悲しく思った事はなかった。長い事、私達は情熱の克服に努めていた。軈て、背の高い吉田さんの影が門から消えて行くと、私は蚊帳を胸に抱いたまま泣き出していた。ああ私には別れた男の思い出の方が生々しかったもの……私は別れた男の名を呼ぶと、まるで手におえない我まま娘のようにワッと声を上げて泣いているのだ。

(六月×日)

 今日は隣の八畳の部屋に別れた男の友達の、五十里さんが越して来る日だ。私は何故か、あの男の魂胆がありそうな気がして不安だった。――飯屋へ行く路、お地蔵様へ線香を買って上げる。帰って髪を洗い、さっぱりした気持ちで団子坂の静栄さん

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[17]
の下宿へ行ってみた。「二人」と云う私達の詩のパンフレットが出ている筈だったので元気で坂をかけ上った。窓の青いカーテンをめくって、いつものように窓へ凭れて静栄さんと話をした。この人はいつ見ても若い。房々した断髪をかしげて、しめっぽい瞳を輝かしている。夕方、静栄さんと印刷屋へパンフレットを取りに行った。たった八頁だけれど、まるで果物のように新鮮で好ましかった。帰りに南天堂によって、皆に一部ずつ送る。働いてこのパンフレットの長くつづかせたいものだと思う。冷たいコーヒーを飲んでいる肩を叩いて、辻さん
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[18]
が鉢巻をゆるめながら、讃辞をあびせてくれた。「とてもいいものを出しましたね、お続けなさいよ。」飄々たる辻潤の酔体に微笑を送り、私も静栄さんも幸福な気持ちで外へ出た。

(六月×日)

 種まく人

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たちが、今度文芸戦線
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と云う雑誌を出すからと云うので、私はセルロイド玩具の色塗りに通っていた小さな工場の事を詩にして、「工女の唄える」と云うのを出しておいた。今日は都新聞に別れた男への私の詩が載っている。もうこんな詩なんか止めましょう。くだらない。もっと勉強して立派な詩を書こうと思う。夕方から銀座の松月と云うカフェーへ行った。ドンの詩の展覧会がここであるからだ。私の下手な字が麗々しく先頭をかざっている。橋爪氏
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[21]
に会う。

(六月×日)

 雨が細かな音をたてて降っている。

陽春二三月
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   楊柳斉作花

春風一夜入閨闥 楊花飄蕩落南家
含情出戸脚無力 拾得楊花涙沾臆
秋去春来双燕子 願銜楊花入

 灯の下に横坐りになりながら、白花を恋した胡太后の詩を読んでいると、つくづく旅が恋しくなってきた。五十里さんは引っ越して来てからいつも帰りは夜更けの一時過ぎなり。階下の人は勤め人なので九時頃には寝てしまう。時々田端の駅を通過する電車や汽車の音が汐鳴りのように聞える丈けで、此辺は山住いのような静かさだった。つくづく一人が淋しくなった。楊白花のように美しいひとが欲しくなった。本を伏せていると、焦々して来て私は階下に降りて行くのだ。

「今頃どこへゆくの?」階下の小母さんは裁縫の手を休めて私を見ている。

「割引なのよ。」

「元気がいいのね……」

 蛇の目の傘を拡げると、動坂の活動小屋に行ってみた。看板はヤングラジャと云うのである。私は割引のヤングラジャに恋心を感じた。太湖船の東洋的なオーケストラも雨の降る日だったので嬉しかった。だけど所詮はどこへ行っても淋しい一人身なり。小屋が閉まると、私は又溝鼡のように部屋へ帰って来る。「誰かお客さんのようでしたが……」小母さんの寝ぼけた声を背中に、疲れて上って来ると、吉田さんが紙を円めながらポケットへ入れている処だった。

「おそく上って済みません。」

「いいえ、私活動へ行って来たのよ。」

「あんまりおそいんで、置き手紙をしてたところなんです。」

 別に話もない赤の他人なのだけれど、吉田さんは私に甘えてこようとしている。鴨居につかえそうに背の高い吉田さんを見ていると、私は何か圧されそうなものを感じている。

「随分雨が降るのね……」

 この位白ばくれておかなければ、今夜こそどうにか爆発しそうで恐ろしかった。壁に背を凭せて、彼の人はじっと私の顔を凝視めて来た。私は此男が好きで好きでたまらなくなりそうに思えて困ってしまう。だけど、私はもう色々なものにこりこりしているのだ。私は温なしく両手を机の上にのせて、灯の光りに眼を走らせていた。私の両の手先きが小さく、慄えている。一本の棒を二人で一生懸命に押しあっている気持ちなり。

「貴女は私を嬲っているんじゃないんですか?」

「どうして?」

 何と云う間の抜けた受太刀だろう。私の生々しい感傷の中へ巻き込まれていらっしゃるきりではありませんか……私は口の内につぶやきながら、此ひとをこのままこさせなくするのも一寸淋しい気がしていた。ああ友達が欲しい。こうした優しさを持ったお友達が欲しいのだけれども……私は何時か涙があふれていた。

 いっその事、ひと思いに死にたいとも思う。彼の人は私を睨み殺すのかも知れない。生唾が舌の上を走った。私は自分がみじめに思えて仕方がなかった。別れた男との幾月かを送ったこの部屋の中に、色々な夢がまだ泳いでいて私を苦しくしているのだ。――引っ越さなくてはとてもたまらないと思う。私は机に伏さったまま郊外のさわやかな夏景色を頭に描いていた。雨の情熱はいっそう高まって来て、苦しくて仕方がない。「僕を愛して下さい。だまって僕を愛して下さい!」

「だからだまって、私も愛しているではありませんか……」せめて手を握る事によってこの青年の胸が癒されるならば………。私はもう男に迷うことは恐ろしいのだ。貞操のない私の体だけども、まだどこかに私の一生を託す男が出てこないとも限らないもの。でも此人は新鮮な血の匂いを持っている。厚い胸、青い眉、太陽のような眼。ああ私は激流のような激しさで泣いているのだ。

(六月×日)

 淋しく候。くだらなく候。金が欲しく候。北海道あたりの、アカシヤの香る並樹道を一人できままに歩いてみたいものなり。

「もう起きましたか……」

 珍らしく五十里さんの声が障子の外でしている。

「ええ起きていますよ。」

 日曜なので五十里さんと静栄さんと三人で久しぶりに、吉祥寺の宮崎光男さんのアメチョコハウスに遊びに行ってみる。夕方ポーチで犬と遊んでいたら、上野山と云う洋画を描く人が遊びに来た。私は此人と会うのは二度目だ。私がおさない頃、近松さんの家に女中にはいっていた時、此人は茫々としたむさくるしい姿で、牛の画を売りに来たことがあった。子供さんがジフテリヤで、大変佗し気な風采だったのをおぼえている。靴をそろえる時、まるで河馬の口みたいに靴の底が離れていたものだった。私は小さい釘を持って来ると、そっと止めておいてあげた事がある。きっと此人は気がつかなかったかも知れない。上野山さんは飄々と酒を呑みよく話している。夜、上野山氏は一人で帰って行った。

地球の廻転椅子に腰を掛けて
ガタンとひとまわりすれば
引きずる赤いスリッパが
片っ方飛んでしまった。
淋しいな……
オーイと呼んでも
誰も私のスリッパを取ってはくれぬ
度胸をきめて
廻転椅子から飛び降り
飛んだスリッパを取りに行こうか
臆病な私の手はしっかり
廻転椅子にすがっている
オーイ誰でもいい
思い切り私の横顔を
はりとばしてくれ
そしてはいてるスリッパも飛ばしてくれ
私はゆっくり眠りたいのだ。

 落ちつかない寝床の中で、私はこんな詩を頭に描いた。下で三時の鳩時計が鳴っている。

(六月×日)

 世界は星と人とより成る。エミイル・ヴァルハアレン

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[23]
の「世界」と云う詩を読んでいるとこんな事が書いてあった。何もかもあくびばかりの世の中である。私はこの小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。人よ。攀じ難いあの山がいかに高いとても、飛躍の念さえ切ならば、恐れるなかれ不可能の、金の駿馬をせめたてよ。――実につまらない詩だけれども、才子と見えて実に巧い言葉を知っている。金の駿馬をせめたてよか……。窓を横ぎって紅い風船が飛んで行く。呆然たり、呆然たり、呆然たりか……。何と住みにくい浮世でございましょう。

 故郷より手紙が来る。

 ――現金主義になって、自分の口すぎ位はこっちに心配をかけないでくれ。才と云うものに自惚れてはならない。お母さんも、大分衰えている。一度帰っておいで、お前のブラブラ主義には不賛成です。――父より五円の為替。私は五円の為替を膝において、おありがとうござります。私はなさけなくなって、遠い故郷へ舌を出した。

(六月×日)

 前の屍室には、今夜は青い灯がついている。又兵隊が一人死んだのだろう。青い窓の灯を横ぎって通夜をする兵隊の影が二ツぼんやりうつっている。

「あら! 螢が飛んどる。」

 井戸端で黒島伝治

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[24]
さんの細君がぼんやり空を見上げていた。

「ほんとう?」

 寝そべっていた私も縁端に出てみたけれど、もう螢も何も見えなかった。

 夜。隣の壺井夫婦

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[25]
、黒島夫婦遊びに見える。

 壺井さん曰く。

「今日はとても面白かったよ。黒島君と二人で市場へ盥を買いに行ったら、金も払わないのに、三円いくらのつり銭と盥をくれて一寸ドキッとしたぜ。」

「まあ! それはうらやましい。たしか、クヌウト・ハムスンの『飢え』と云う小説の中にも蝋燭を買いに行って、五クローネルのつり銭と蝋燭をただでもらって来るところがありましたね。」

 私も夫も、壺井さんの話は一寸うらやましかった。――泥沼に浮いた船のように、何と淋しい私達の長屋だろう。兵営の屍室と墓地と病院と、安カフェーに囲まれたこの太子堂の暗い家もあきあきしてしまった。

「時に、明日はたけのこ飯にしないかね。」

「たけのこ盗みに行くか……」

 三人の男たちは路の向うの竹藪を背戸に持っている、床屋の二階の飯田さんをさそって、裏の丘へたけのこを盗みに出掛けて行った。女達は久しぶりに街の灯を見たかったけれども、あきらめて太子堂の縁日を歩いてみた。竹藪の小路に出した露店のカンテラの灯が噴水のように薫じていた。

(六月×日)

 美しい透きとおった空なので、丘の上の緑を見たいと云って、久し振りに貧しい私達は散歩に出る話をした。鍵を締めて、一足おそく出て行ってみると、どっちへ行ったものか、夫の影はその辺に見えなかった。焦々して陽照りのはげしい丘の路を行ったり来たりしてみたけれど随分おかしな話である。待ちぼけを食ったと怒ってしまった夫は、私の背をはげしく突き飛ばすと閉ざした家へはいってしまった。又おこっている。私は泥棒猫のように台所から部屋へはいると、夫はいきなり束子や茶碗を私の胸に投げつけて来た。ああ、この剽軽な粗忽者をそんなにも貴方は憎いと云うのですか……私は井戸端に立って蒼い雲を見ていた。右へ行く路が、左へまちがっていたからと云っても、「馬鹿だねえ」と云う一言ですむではありませんか。私は自分の淋しい影を見ていると、小学生時代に、自分の影を見ては空を見ると、その影が、空にもうつっていたあの不思議な世界のあった頃を思い出してくるのだ。青くて高い空を私はいつまでも見上げていた。子供のように涙が湧きあふれて来て、私は地べたへしゃがんでしまうと、カイロの水売りのような郷愁の唄をうたいたくなった。

 ああ全世界はお父さんとお母さんでいっぱいなのだ。お父さんとお母さんの愛情が、唯一のものであると云う事を、私は生活にかまけて忘れておりました。白い前垂を掛けたまま、竹藪や、小川や洋館の横を通って、だらだらと丘を降りると、蒸汽船のような工場の音がしていた。ああ尾道の海! 私は海近いような錯覚をおこして、子供のように丘をかけ降りて行った。そこは交番の横の工場のモーターが唸っているきりで、がらんとした原っぱだった。三宿の停留場に、しばらく私は電車に乗る人か何かのように立ってはいたけれど、お腹がすいてめがまいそうだった。

「貴女! 随分さっきから立っていらっしゃいますが、何か心配ごとでもあるのではありませんか。」

 今さきから、じろじろ私を見ていた二人の老婆が、馴々しく近よって来ると私の身体をじろじろ眺めている。笑いながら涙をふりほどいている私を連れて、この親切なお婆さんは、ゆるゆる歩きだしながら信仰の強さで足の曲った人が歩けるようになったことだとか、悩みある人が、神の子として、元気に生活に楽しさを感じるようになったとか、色々と天理教の話をしてくれるのであった。

 川沿いのその天理教の本部は、いかにも涼しそうに庭に水が打ってあって、楓の青葉が、爽かに塀の外にふきこぼれていた。二人の婆さんは広い神前に額ずくと、やがて両手を拡げて、異様な踊を始めだした。

「お国はどちらでいらっしゃいますか?」

 白い着物を着た中年の神主が、私にアンパンと茶をすすめながら私の佗しい姿を見てたずねた。

「別に国と云って定まったところはありませんけれど、原籍は鹿児島県東桜島です。」

「ホウ……随分遠いんですなあ……」

 私はもうたまらなくなって、うまそうなアンパンを一つ摘んで食べた。一口噛むと案外固くって粉がボロボロ膝にこぼれ落ちている。――何もない。何も考える必要はない。私はつと立って神前に額ずくと、そのまま下駄をはいて表へ出てしまった。パン屑が虫歯の洞穴の中で、ドンドンむれていってもいい。只口に味覚があればいいのだ。――家の前へ行くと、あの男と同じように固く玄関は口をつぐんでいる。私は壺井さんの家へ行くと、ゆっくりと足を投げ出してそこへ寝かしてもらった。

「お宅に少しばかりお米はありませんか?」

 人のいい壺井さんの細君も、自分達の生活にへこたれてしまっているのか、私のそばに横になると、一握りの米を茶碗に入れたのを持ってきて、生きる事が厭になってしまったわと云う話におちてしまっている。

「たい子

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[26]
さんとこは、信州から米が来たって云っていたから、あそこへ行って見ましょうか。」

「そりゃあ、ええなあ……」

 そばにいた伝治さんの細君は、両手を打って子供のように喜んでいる。ほんとうに素直な人だ。

(六月×日)

 久し振りに東京へ出て行った。新潮社で加藤武雄さんに会う。文章倶楽部の詩の稿料を六円戴く。いつも目をつぶって通る神楽坂も、今日は素敵に楽しい街になって、店の一ツ一ツを私は愉しみに覗いて通った。

隣人とか
肉親とか
恋人とか
それが何であろう
生活の中の食うと云う事が満足でなかったら
描いた愛らしい花はしぼんでしまう
快活に働きたいと思っても
悪口雑言の中に
私はいじらしい程小さくしゃがんでいる。
両手を高くさしあげてもみるが
こんなにも可愛い女を裏切って行く人間ばかりなのか
いつまでも人形を抱いて沈黙っている私ではない
お腹がすいても
職がなくっても
ウオオ! と叫んではならないのですよ
幸福な方が眉をおひそめになる。
血をふいて悶死したって
ビクともする大地ではないのです
陳列箱に
ふかしたてのパンがあるけれど
私の知らない世間は何とまあ
ピアノのように軽やかに美しいのでしょう。
そこで初めて
神樣コンチクショウと呶鳴りたくなります。

 長いあいだ電車にゆられていると私は又何の慰めもない家へ帰らなければならないのがつまらなくなってきた。詩を書く事がたった一つのよき慰めなり。夜、飯田

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[27]
さんとたい子さんが唄いながら遊びに見えた。

俺んとこの
あの美しい
ケッコ ケッコ鳴くのが
ほしんだろう……。

 二人はそんな唄をうたっている。

 壺井さんのとこで、青い豆御飯を貰った。

(六月×日)

 今夜は太子堂のおまつりで、家の縁側から、前の広場の相撲場がよく見えるので、皆背のびをして集まって見る。「西! 前田河ア

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[28]
」と云う行司の呼び声に、縁側へ爪先立っていた私たちはドッと吹き出して哄笑した。知った人の名前なんかが呼ばれるととてもおかしくて堪らない。貧乏をしていると、皆友情以上に、自分をさらけ出して一つになってしまうものとみえる。みんなはよく話をした。怪談なんかに話が飛ぶと、たい子さんも千葉の海岸で見た人魂の話をした。この人は山国の生れなのか非常に美しい肌をもっている。やっぱり男に苦労をしている人なり。夜更け一時過ぎまで花弄をする。

(六月×日)

 萩原

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[29]
さんが遊びにみえる。

 酒は呑みたし金はなしで、敷布団を一枚屑屋に一円五十銭で売って焼酎を買うなり。お米が足りなかったのでうどんの玉を買ってみんなで食べた。

平手もて
吹雪にぬれし顔を拭く
友共産を主義とせりけり。
酒呑めば鬼のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ。

 ああ若い私達よ、いいじゃありませんか、いいじゃないか、唄を知らない人達は、啄木を高唱してうどんをつつき焼酎を呑んでいる。その夜萩原さんを皆と一緒におくって行って、夫が帰って来ると蚊帳がないので私達は部屋を締め切って蚊取り線香をつけて寝につくと、

「オーイ起きろ起きろ!」と大勢の足音がして、麦ふみのように地ひびきが頭にひびく。

「寝たふりをするなよォ……」

「起きているんだろう。」

「起きないと火をつけるぞ!」

「オイ! 大根を抜いて来たんだよ、うまいよ起きないかい……」

 飯田さんと萩原さんの声が入りまじって聞えている。私は笑いながら沈黙っていた。

(七月×日)

 朝、寝床の中ですばらしい新聞を読んだ。

 本野子爵夫人が、不良少年少女の救済をされると云うので、円満な写真が大きく新聞に載っていた。ああこんな人にでもすがってみたならば、何とか、どうにか、自分の行く道が開けはしないかしら、私も少しは不良じみているし、まだ二十三だもの、私は元気を出して飛びおきると、新聞に載っている本野夫人の住所を切り抜いて麻布のそのお邸へ出掛けて行ってみた。

 折目がついていても浴衣は浴衣なのだ。私は浴衣を着て、空想で胸をいっぱいふくらませて歩いている。

「パンをおつくりになる、あの林さんでいらっしゃいましょうか?」

 女中さんがそんな事を私にきいた。どういたしまして、パンを戴きに上りました林ですと心につぶやきながら、

「一寸お目にかかりたいと思いまして……」と云ってみる。

「そうですか、今愛国婦人会の方へ行っていらっしゃいますけれど、すぐお帰りですから。」

 女中さんに案内をされて、六角のように突き出た窓ぎわのソファに私は腰をかけて、美しい幽雅な庭に見いっていた。青いカーテンを透かして、風までがすずやかにふくらんではいって来る。

「何う云う御用で……」

 やがてずんぐりした夫人は、蝉のように薄い黒羽織を着て応接間にはいって来た。

「あのお先にお風呂をお召しになりませんか……」

 女中が夫人にたずねている。私は不良少女だと云う事が厭になってきて、夫が肺病で困っていますから少し不良少年少女をお助けになるおあまりを戴きたいと云ってみた。

「新聞で何か書いたようでしたが、ほんのそう云う事業に手助けをしているきりで、お困りのようでしたら、九段の婦人会の方へでもいらっして、仕事をなさってはいかがですか……」

 私は程よく埃のように外に出されてしまったけれど、――彼女が眉をさかだててなぜあの様な者を上へ上げましたと、いまごろは女中を叱っているであろう事をおもい浮べて、ツバキをひっかけてやりたいような気持ちだった。へエー何が慈善だよ、何が公共事業だよだ。夕方になると、朝から何も食べていない二人は、暗い部屋にうずくまって当てのない原稿を書いた。

「ねえ、洋食を食べない?」

「ヘエ?」

「カレーライス、カツライス、それともビフテキ?」

「金があるのかい?」

「うん、だって背に腹はかえられないでしょう。だから晩に洋食を取れば、明日の朝までは金を取りにこないでしょう。」

 洋食をとって、初めて肉の匂いをかぎ、ずるずるした油をなめていると、めまいがしそうに嬉しくなってくる。一口位は残しておかなくちゃ変よ。腹が少し豊かになると、生きかえったように私達は私達の思想に青い芽を萠やす。全く鼡も出ない有様なのだから仕方もない――。

 私は蜜柑箱の机に凭れて童話のようなものをかき始める。外は雨の音なり。玉川の方で、絶え間なく鉄砲を打つ音がしている。深夜だと云うのに、元気のいい事だ。だが、いつまでこんな虫みたいな生活が続くのだろうか、うつむいて子供の無邪気な物語を書いていると、つい目頭が熱くなって来るのだ。

 イビツな男とニンシキフソクの女では、一生たったとて白い御飯が食えそうにもありません。

(七月×日)

 胸に凍るような佗しさだ。夕方、頭の禿げた男の云う事には、「俺はこれから女郎買いに行くのだが、でもお前さんが好きになったよ、どうだい?」私は白いエプロンをくしゃくしゃに円めて、涙を口にくくんでいた。

「お母アさん! お母アさん!」

 何もかも厭になってしまって、二階の女給部屋の隅に寝ころんでいる。鼡が群をなして走っている。暗さが眼に馴れてくると、雑然と風呂敷包みが石塊のように四囲に転がっていて、寝巻や帯が、海草のように壁に乱れていた。煮えくり返るようなそうぞうしい階下の雑音の上に、おばけでも出て来そうに、女給部屋は淋しいのだ。ドクドクと流れ落ちる涙と、ガスのように抜けて行く悲しみの氾濫、何か正しい生活にありつきたいと思うなり。そうして落ちついて本を読みたいものだ。

しふねく強く
家の貧苦、酒の癖、遊怠の癖
みなそれだ。
ああ、ああ、ああ、
切りつけろそれらに
とんでのけろ はねとばせ
私が何べん叫びよばった事か、苦しい、
血を吐くやうに芸術を吐き出して狂人のやうに踊りよろこばう。

 槐多

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[30]
はかくも叫びつづけている。こんなうらぶれた思いの日、チェーホフよ、アルツイバアセフよ、シュニッツラア、私の心の古里を読みたいものだと思う。働くと云う事を辛いと思った事は一度もないけれど、今日こそ安息がほしいと思う。だが今はみんなお伽話のようなことだ。

 薄暗い部屋の中に、私は直哉の「和解」を思い出していた。こんなカフェーの雑音に巻かれていると、日記をつける事さえおっくうになって来ている。――まず雀が鳴いているところ、朗かな朝陽が長閑に光っているところ、陽にあたって青葉の音が色が雨のように薫じているところ、槐多ではないけれど、狂人のように、一人居の住居が恋しくなりました。

 十方空しく御座候だ。暗いので、私は只じっと眼をとじているなり。

「オイ! ゆみちゃんはどこへ行ったんだい?」

 階下でお上さんが呼んでいる。

「ゆみちゃん居るの? お上さんが呼んでてよ。」

「歯が痛いから寝てるって云って下さい。」

 八重ちゃんが乱暴に階下へ降りて行くと、漠々とした当のない痛い気持ちが、いっそ死んでしもうたならと唄い出したくなっている。メフィストフェレス

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[31]
がそろそろ踊り出して来たぞ! 昔おえらいルナチャルスキイ
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[32]
となん申します方が、――生活とは何ぞや? 生ける有機体とは何ぞや? と云っている。ルナチャルスキイならずとも、生活とは何ぞや! 生ける有機体とは何ぞやである。落ちたるマグダラのマリヤ
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[33]
よ、自己保存の能力を叩きこわしてしまうのだ。私は頭の下に両手を入れると死ぬる空想をしていた。毒薬を呑む空想をした。「お女郎を買いに行くより、お前が好きになった。」何と人生とはくだらなく朗かである事だろう。どうせ故郷もない私、だが一人の母のことを考えると切なくなって来る。泥棒になってしまおうかしら、女馬賊になってしまおうかしら……。別れた男の顔が、熱い瞼に押して来る。

「オイ! ゆみちゃん、ひとが足りない事はよく知ってんだろう、少々位は我慢して階下へ降りて働いておくれよ。」

 お上さんが、声を尖らせて梯子段を上って来た。ああ何もかも一切合財が煙だ砂だ泥だ。私はエプロンの紐を締めなおすと、陽気に唄を唄いながら、海底のような階下の雑沓の中へ降りて行った。

(七月×日)

 朝から雨なり。

 造ったばかりのコートを貸してやった女は、とうとう帰って来なかった。一夜の足留りと、コートを借りて、蛾のように女は他の足留りへ行ってしまった。

「あんたは人がいいのよ、昔から人を見れば泥棒と思えって言葉があるじゃないの。」

 八重ちゃんが白いくるぶしを掻きながら私を嘲笑っている。

「ヘエ! そんな言葉があったのかね。じゃ私も八重ちゃんの洋傘でも盗んで逃げて行こうかしら。」

 私がこんなことを云うと、寝ころんでいた由ちゃんが「世の中が泥棒ばかりだったら痛快だわ……」と云っている。由ちゃんは十九で、サガレンで生れたのだと白い肌が自慢だった。八重ちゃんが肌を脱いでいる栗色の皮膚に、窓ガラスの青い雨の影が、細かく写っている。

「人間ってつまらないわね。」

「でも木の方がよっぽどつまらないわ。」

「火事が来たって、大水が来たって木だったら逃げられないわよ……」

「馬鹿ね!」

「ふふふふ、誰だって馬鹿じゃないの――」

 女達のおしゃべりは夏の青空のように朗かである。ああ私も鳥か何かに生れて来るとよかった。電気をつけて、みんなで阿弥陀を引いた。私は四銭、女達はアスパラガスのように、ドロドロと白粉をつけたまま皆だらしなく寝そべって蜜豆を食べている。雨がカラリと晴れて、窓から涼しい風が吹きこんでくる。

「ゆみちゃん、あんたいい人があるんじゃない? 私そう睨んだわ。」

「あったんだけれど遠くへ行っちゃったのよ。」

「素敵ね!」

「あら、なぜ?」

「私は別れたくっても、別れてくんないんですもの。」

 八重ちゃんは空になったスプーンを嘗めながら、今の男と別れたいわと云っている。どんな男のひとと一緒になってみても同じ事だろうと私が云うと、

「そんな筈ないわ。石鹸だって、十銭のと五十銭のじゃ随分品が違ってよ。」と云うなり。

 夜。酒を呑む。酒に溺れる。もらいは二円四十銭、アリガタヤ、カタジケナヤ。

(七月×日)

 心が留守になっているとつまずきが多いものだ。激しい雨の中を、私の自動車は八王子街道を走っている。

 もっと早く!

 もっと早く!

 たまに自動車に乗るといい気持ちなり。雨の町に燈火がつきそめている。

「どこへ行く?」

「どこだっていいわ、ガソリンが切れるまで走ってよ。」

 運転台の松さんの頭が少し禿げかけている。若禿げかしら。――午後からの公休日を所在なく消していると、自分で車を持っている運転手の松さんが、自動車に乗せてやろうと云ってくれる。田無と云う処まで来ると、赤土へ自動車がこね上ってしまって、雨の降る櫟木の小道に、自動車はピタリと止ってしまった。遠くの、眉程の山裾に、灯がついているきりで、ざんざ降りの雨にまじって、地鳴りのように雷鳴がして稲妻が光りだした。雷が鳴るとせいせいしていい気持ちだけれど、シボレーの古自動車なので、雨がガラス窓に叩かれるたび、霧のようなしぶきが車室にはいってくる。そのたそがれた櫟の小道を、自動車が一台通ったきりで、雨の怒号と、雷と稲妻。

「こんな雨じゃア道へ出る事も出来ないわね。」

 松つぁんは沈黙って煙草を吸っている。こんな善良そうな男に、芝居もどきのコンタンはあり得ない。雨は冷たくていい気持ちだった。雷も雨も破れるような響きをしている。自動車は雨に打たれたまま夜の櫟林にとまってしまった。

 私は何かせっぱつまったものを感じた。機械油くさい松さんの菜っぱ服をみていると、私はおかしくもない笑いがこみ上げて来て仕方がない。十七八の娘ではないもの。私は逃げる道なんか上手に心得ている。

 私がつくろって言った事は、「あんたは、まだ私を愛してるとも云わないじゃないの……暴力で来る愛情なんて、私は大嫌いよ。私が可愛かったら、もっとおとなしくならなくちゃア厭!」

 私は男の腕に狼のような歯形を当てた。涙に胸がむせた。負けてなるものか。雨の夜がしらみかけた頃、男は汚れたままの顔をゆるめて眠っている。

 遠くで青空をつげる鶏の声がしている。朗かな夏の朝なり。昨夜の汚い男の情熱なんかケロリとしたように、風が絹のように音をたてて流れてくる。此男があの人だったら……コッケイな男の顔を自動車に振り捨てたまま、私は泥んこの道に降り歩いた。紙一重の昨夜のつかれに、腫れぼったい瞼を風に吹かせて、久し振りに私は晴々と郊外の路を歩いていた。――私はケイベツすべき女でございます! 荒みきった私だと思う。走って櫟林を抜けると、ふと松さんがいじらしく気の毒に思えてくる。疲れて子供のように自動車に寝ている松さんの事を考えると、走って帰っておこしてあげようかとも思う。でも恥かしがるかもしれない。私は松さんが落ちついて、運転台で煙草を吸っていた事を考えると、やっぱり厭な男に思え、ああよかったと晴々するなり。誰か、私をいとしがってくれる人はないものかしら……遠くへ去った男が思い出されたけれども、ああ七月の空に流離の雲が流れている。あれは私の姿だ。野花を摘み摘み、プロヴァンスの唄でもうたいましょう。

(八月×日)

 女給達に手紙を書いてやる。

 秋田から来たばかりの、おみきさんが鉛筆を嘗めながら眠りこんでいる。酒場ではお上さんが、一本のキング オブ キングスを清水で七本に利殖しているのだ。埃と、むし暑さ、氷を沢山呑むと、髪の毛が抜けると云うけれど、氷を飲まない由ちゃんも、冷蔵庫から氷の塊を盗んで来ては、一人でハリハリ噛んでいる。

「一寸! ラブレターって、どんな書出しがいいの……」

 八重ちゃんが真黒な眼をクルクルさせて赤い唇を鳴らしている。秋田とサガレンと、鹿児島と千葉の田舎女達が、店のテーブルを囲んで、遠い古里に手紙を書いているのだ。

 今日は街に出てメリンスの帯を一本買うなり。一円二銭――八尺求める――。何か落ちつける職業はないものかと、新聞の案内欄を見てみるけれどいい処もない。いつもの医専の学生の群れがはいって来る、ハツラツとした男の体臭が汐のように部屋に流れて来て、学生好きの、八重ちゃんは、書きかけのラヴレターをしまって、両手で乳をおさえてしなをつくっている。

 二階では由ちゃんが、サガレン時代の業だと云って、私に見られたはずかしさに、プンプン匂う薬をしまってゴロリと寝ころんでいた。

「世の中は面白くないね。」

「ちっともね……」

 私はお由さんの白い肌を見ていると、妙に悩ましい気持ちだった。

「私は、これでも子供を二人も産んだのよ。」

 お由さんはハルビンのホテルの地下室で生れたのを振り出しに、色んなところを歩いて来たらしい。子供は朝鮮のお母さんにあずけて、新らしい男と東京へ流れて来ると、お由さんはおきまりの男を養うためのカフェー生活だそうだ。

「着物が一二枚出来たら、銀座へ乗り出そうかしらと思っているのよ。」

「こんなこと、いつまでもやる仕事じゃないわね、体がチャチになってよ。」

 春夫の東窓残月の記を読んでいると、何だか、何もかも夢のようにと一言眼を射た優しい柔かい言葉があった。何もかも夢のように……、落ちついてみたいものなり。キハツで紫の衿をふきながら、「ゆみちゃん! どこへ行ってもたよりは頂戴ね。」と、由ちゃんが涙っぽく私へこんなことを云っている。何でもかでも夢のようにね……。

「そんなほん面白いの。」

「うん、ちっとも。」

「いいほんじゃないの……私高橋おでんの小説読んだわ。」

「こんなほんなんか、自分が憂鬱になるきりよ。」

(八月×日)

 よそへ行って外のカフェーでも探してみようかと思う日もある。まるでアヘンでも吸っているようにずるずるとこの仕事に溺れて行く事が悲しい。毎日雨が降っている。

 ――ここに吾等は芸術の二ツの道、二ツの理解を見出す。人間が如何なる道によって進むか。夢想! 美の小さなオアシスの探求の道によってか、それとも能動的に創造の道によってかは、勿論、一部分理想の高さに関係する。理想が低ければ低い程、それだけ人間は実際的であり、この理想と現実との間の深淵が彼にはより少く絶望的に思われる、けれども主として、それは人間の力の分量に、エネルギイの蓄積に、彼の有機体が処理しつつある栄養の緊張力に関係する。緊張せる生活はその自然的な補いとして創造、争闘の緊張、翹望を持つ――女達が風呂に出はらった後の昼間の女給部屋で、ルナチャルスキイの「実証美学の基礎」を読んでいると、こんな事が書いてあった。――ああどうにも動きのとれない今の生活と、感情の落ちつきなさが、私を苦しめるなり。私は暗くなってしまう。勉強をしたいと思うあとから、とてつもなくだらしのない不道徳な野性が、私の体中を駆りまわっている。みきわめのつかない生活、死ぬるか生きるか二ツの道……。夜になれば、白人国に買われた土人のような淋しさで埒もない唄をうたっている。メリンスの着物は汗で裾にまきつくと、すぐピリッと破けてしまう。実もフタもないこの暑さでは、涼しくなるまで、何もかもおあずけで生きているより仕方もない。

 何の条件もなく、一カ月三十円もくれる人があったら、私は満々としたいい生活が出来るだろうと思う。

(十月×日)

 一尺四方の四角な天窓を眺めて、初めて紫色に澄んだ空を見たのだ。秋が来た。コック部屋で御飯を食べながら、私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。秋はいいな。今日も一人の女が来ている。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女なり。ああ厭になってしまう、なぜか人が恋しい。――どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいい私は雑誌を読む真似をして、じっと色んな事を考えていた。やり切れない。なんとかしなくては、全く自分で自分を朽ちさせてしまうようなものだ。

(十月×日)

 広い食堂の中を片づけてしまって初めて自分の体になったような気がした。真実にどうにかしなければならぬ。それは毎日毎晩思いながら、考えながら、部屋に帰るのだけれども、一日中立ってばかりいるので、疲れて夢も見ずにすぐ寝てしまうのだ。淋しい。ほんとにつまらない。住み込みは辛いと思う。その内、通いにするように部屋を探したいと思うけれども何分出る事も出来ない。夜、寝てしまうのがおしくて、暗い部屋の中でじっと眼を開けていると、溝の処だろう虫が鳴いている。

 冷たい涙が腑甲斐なく流れて、泣くまいと思ってもせぐりあげる涙をどうする事も出来ない。何とかしなくてはと思いながら、古い蚊帳の中に、樺太の女や、金沢の女達と三人枕を並べているのが、私には何だか小店に曝された茄子のようで佗しかった。

「虫が鳴いているわよ。」そっと私が隣のお秋さんにつぶやくと、「ほんとにこんな晩は酒でも呑んで寝たいわね。」とお秋さんが云う。

 梯子段の下に枕をしていたお俊さんまでが、「へん、あの人でも思い出したかい……」と云っていた。――皆淋しいお山の閑古鳥だ。うすら寒い秋の風が蚊帳の裾を吹いた。十二時だ。

(十月×日)

 少しばかりのお小遣いが貯ったので、久し振りに日本髪に結ってみる。日本髪はいいな。キリリと元結を締めてもらうと眉毛が引きしまって、たっぶりと水を含ませた鬢出しで前髪をかき上げると、ふっさりと前髪は額に垂れて、違った人のように私も美しくなっている。鏡に色目をつかったって、鏡が惚れてくれるばかり。こんなに綺麗に髪が結えた日には、何処かへ行きたいと思う。汽車に乗って遠くへ遠くへ行ってみたいと思う。

 隣の本屋で銀貨を一円札に替えてもらって田舎へ出す手紙の中に入れておいた。喜ぶだろうと思う。手紙の中からお札が出て来る事は私でも嬉しいもの。

 ドラ焼を買って皆と食べた。

 今日はひどい嵐なり。雨がとてもよく降っている。こんな日は淋しい。足が石のように固く冷える。

(十月×日)

 静かな晩だ。

「お前どこだね国は?」

 金庫の前に寝ている年取った主人が、此間来た俊ちゃんに話しかけていた。寝ながら他人の話を聞くのも面白いものだ。

「私でしか……樺太です。豊原って御存知でしか?」

「へえ樺太から? お前一人で来たのかね?」

「ええ……」

「あれまあ、お前はきつい女だねえ。」

「長い事、函館の青柳町にもいた事があります。」

「いい所に居たんだね、俺も北海道だよ。」

「そうでしょうと思いました。言葉にあちらの訛がありますもの。」

 啄木の歌を思い出して私は俊ちゃんが好きになった。

函館の青柳町こそ悲しけれ
友の恋歌
矢車の花。

 いい歌だと思う。生きている事も愉しいではありませんか。真実に何だか人生も楽しいもののように思えて来た。皆いい人達ばかりである。初秋だ、うすら冷たい風が吹いている。佗しいなりにも何だか生きたい情熱が燃えて来るなり。

(十月×日)

 お母さんが例のリュウマチで、体具合が悪いと云って来た。もらいがちっとも無い。

 客の切れ間に童話を書いた。題「魚になった子供の話」十一枚。何とかして国へ送ってあげよう。老いて金もなく頼る者もない事は、どんなに悲惨な事だろう。可哀想なお母さん。ちっとも金を無心して下さらないので余計どうしていらっしゃるかと心配しています。

 と思う。

「その内お前さん、俺んとこへ遊びに行かないか、田舎はいいよ。」

 三年も此家で女給をしているお計ちゃんが男のような口のききかたで私をさそってくれた。

「ええ……行きますとも、何時でも泊めてくれて?」

 私はそれまで少し金を貯めようと思う。こんな処の女達の方がよっぽど親切で思いやりがあるのだ。

「私はねえ、もう愛だの恋だの、貴郎に惚れました、一生捨てないでねなんて馬鹿らしい事は真平だよ。こんな世の中でお前さん、そんな約束なんて何もなりはしないよ。私をこんなにした男はねえ、代議士なんてやってるけれど、私に子供を生ませるとぷいさ。私達が私生児を生めば皆そいつがモダンガールだよ、いい面の皮さ……馬鹿馬鹿しい浮世じゃないの? 今の世は真心なんてものは薬にしたくもないのよ。私がこうして三年もこんな仕事をしてるのは、私の子供が可愛いからなのさ……」

 お計さんの話を聞いていると、焦々した気持ちが、急に明るくなってくる。素敵にいい人だ。

(十月×日)

 ガラス窓を眺めていると、雨が電車のように過ぎて行った。今日は少しかせいだ。俊ちゃんは不景気だってこぼしている。でも扇風機の台に腰を掛けて、憂鬱そうに身の上話をしていたが、正直な人と思った。浅草の大きなカフェーに居て、友達にいじめられて出て来たんだけれど、浅草の占師に見てもらったら、神田の小川町あたりがいいって云ったので来たのだと云っていた。

 お計さんが、「おい、ここは錦町になってるんだよ。」と云ったら、「ああそうかしら……」とつまらなそうな顔をしていた。此家では一番美しくて、一番正直で、一番面白い話を持っていた。

(十月×日)

 仕事を終ってから湯にはいるとせいせいする気持ちだ。広い食堂を片づけている間に、コックや皿洗い達が先湯をつかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、私達はいつ迄も風呂を楽しむ事が出来た。湯につかっていると、朝から一寸も腰掛けられない私達は、皆疲れているのでうっとりとしてしまう。秋ちゃんが唄い出すと、私は茣蓙の上にゴロリと寝そべって、皆が湯から上ってしまうまで、聞きとれているのだ。――貴方一人に身も世も捨てた。私しゃ初恋しぼんだ花よ。――何だか真実に可愛がってくれる人が欲しくなった。だけど、男の人は嘘つきが多いな。金を貯めて呑気な旅でもしましょう。

 この秋ちゃんについては面白い話がある。

 秋ちゃんは大変言葉が美しいので、昼間の三十銭の定食組の大学生達は、マーガレットのように秋ちゃんをカンゲイした。秋ちゃんは十九で処女で大学生が好きなのだ。私は皆の後から秋ちゃんのたくみに動く眼を見ていたけれど、眼の縁の黒ずんだ、そして生活に疲れた衿首の皺を見ていると、けっして十九の女の持つ若さではないと思える。

 その来た晩に、皆で風呂にはいる時だった、秋ちゃんは佗しそうにしょんぼり廊下の隅に何時までも立っていた。「おい! 秋ちゃん、風呂へはいって汗を流さないと体がくさってしまうよ。」

 お計さんは歯ブラシを使いながら大声で呼びたてると、やがて秋ちゃんは手拭で胸を隠しながら、そっと二坪ばかりの風呂へはいって来た。

「お前さんは、赤ん坊を生んだ事があるんだろう?」お計ちゃんがそんな事を訊いている。

 庭は一面に真白だ!

 お前忘れやしないだろうね。ルューバ? ほら、あの長い並木道が、まるで延ばした帯皮のように、何処までも真直ぐに長く続いて、月夜の晩にはキラキラ光る。

 お前覚えているだろう? 忘れやしないだろう?

 …………

 そうだよ。この桜の園まで借金のかたに売られてしまうのだからね、どうも不思議だと云って見た処で仕方がない……。と、桜の園のガーエフの独白を、別れたあのひとはよく云っていたものだ。私は何だか塩っぽい追憶に耽っていて、歪んだガラス窓の大きい月を見ていた。お計さんが甲高い声で何か云っていた。

「ええ私ね、二ツになる男の子があるのよ。」

 秋ちゃんは何のためらいもなく、乳房を開いて勢いよく湯煙をあげて風呂へはいった。

「うふ、私、処女よもおかしなものさね。私しゃお前さんが来た時から睨んでいたのよ。だがお前さんだって何か悲しい事情があって来たんだろうに、亭主はどうしたの。」

「肺が悪くて、赤ん坊と家にいるのよ。」

 不幸な女があそこにもここにもうろうろしている。

「あら! 私も子供を持った事があるのよ。」

 肥ってモデルのようにしなしなした手足を洗っていた俊ちゃんがトンキョウに叫んだ。

「私のは三月目でおろしてしまったのよ。だって癪にさわるったらないの。私は豊原の町中でも誰も知らない者がないほど華美な暮しをしていたのよ。私がお嫁に行った家は地主だったけど、とてもひらけていて、私にピアノをならわせてくれたのよ。ピアノの教師っても東京から流れて来たピアノ弾き。そいつにすっかり欺されてしまって、私子供を孕んでしまったの。そいつの子供だってことは、ちゃんと判っていたから云ってやったわ。そしたら、そいつの云い分がいいじゃないの――旦那さんの子にしときなさい――だってさ、だから私口惜しくて、そんな奴の子供なんか産んじゃ大変だと思って芥子を茶碗一杯といて呑んだわよ。ふふふ、どこまで逃げたって追っかけて行って、人の前でツバを引っかけてやるつもりよ。」

「まあ……」

「えらいね、あんたは……」

 仲間らしい讃辞がしばし止まなかった。お計さんは飛び上って風呂水を何度も何度も、俊ちゃんの背中にかけてやっていた。私は息づまるような切なさで感心している。弱い私、弱い私……私はツバを引っかけてやるべき裏切った男の頭を考えていた。お話にならない大馬鹿者は私だ! 人のいいって云う事が何の気安めになるだろうか――。

(十月×日)

 偶と目を覚ますと、俊ちゃんはもう支度をしていた。

「寝すぎたよ、早くしないと駄目だわよ。」

 湯殿に二人の荷物を運ぶと、私はホッとしたのだ。博多帯を音のしないように締めて、髪をつくらうと、私は二人分の下駄を店の土間からもって来た。朝の七時だと云うのに、料理場は鼡がチロチロしていて、人のいい主人の鼾も平らだ。お計さんは子供の病気で昨夜千葉へ帰って留守だった。――私達は学生や定食の客ばかりではどうする事も出来なかった。止めたい止めたいと俊ちゃんと二人でひそひそ語りあったものの、みすみす忙がしい昼間の学生連と、少い女給の事を思うと、やっぱり弱気の二人は我慢しなければならなかったのだ。金が這入らなくて道楽にこんな仕事も出来ない私達は、逃げるより外に方法もない。朝の誰もいない広々とした食堂の中は恐ろしく森閑としていて、食堂のセメントの池には、赤い金魚が泳いでいる。部屋には灰色に汚れた空気がよどんでいた。路地口の窓を開けて、俊ちゃんは男のようにピョイと地面へ飛び降りると、湯殿の高窓から降ろした信玄袋を取りに行った。私は二三冊の本と化粧道具を包んだ小さな包みきりだった。

「まあこんなにあるの……」

 俊ちゃんはお上りさんのような恰好で、蛇の目の傘と空色のパラソルを持ってくる。それに樽のような信玄袋を持っていて、これはまるで切実な一つの漫画のようだった。小川町の停留所で四五台の電車を待ったけれど、登校時間だったせいか来る電車はどれも学生で満員だった。往来の人に笑われながら、朝のすがすがしい光りをあびていると顔も洗わない昨夜からの私達は、薄汚く見えただろう。たまりかねて、私達二人はそばやに飛び込むと初めてつっぱった足を延ばした。そば屋の出前持ちの親切で、円タクを一台頼んでもらうと、二人は約束しておいた新宿の八百屋の二階へ越して行った。自動車に乗っていると、全く生きる事に自信が持てなかった。ぺしゃんこに疲れ果ててしまって、水がやけに飲みたかった。

「大丈夫よ!あんな家なんか出て来た方がいいのよ。自分の意思通りに動けば私は後悔なんてしない事よ。」

「元気を出して働くわねえ。あんたは一生懸命勉強するといいわ……」

 私は目を伏せていると、涙があふれて仕方がなかった。たとえ俊ちゃんの言った事が、センチメンタルな少女らしい夢のようなことであったとしても、今のたよりない身には只わけもなく嬉しかった。ああ! 国へ帰りましょう。……お母さんの胸の中へ走って帰りましょう……自動車の窓から朝の健康な青空を見上げた。走って行く屋根を見ていた。鉄色にさびた街路樹の梢に雀の飛んでいるのを私は見ていた。

うらぶれて異土のかたゐ
[_]
[34]
とならうとも

古里は遠きにありて思ふもの……

 かつてこんな詩を何かで読んで感心した事があった。

(十月×日)

 秋風が吹くようになった。俊ちゃんは先の御亭主に連れられて樺太に帰ってしまった。

「寒くなるから……」と云って、八端のドテラをかたみに置いて俊ちゃんは東京をたってしまった。私は朝から何も食べない。童話や詩を三ツ四ツ売ってみた所で白い御飯が一カ月のどへ通るわけでもなかった。お腹がすくと一緒に、頭がモウロウとして来て、私は私の思想にもカビを生やしてしまうのだ。ああ私の頭にはプロレタリヤもブルジョアもない。たった一握りの白い握り飯が食べたいのだ。

「飯を食わせて下さい。」

 眉をひそめる人達の事を思うと、いっそ荒海のはげしいただなかへ身を投げましょうか。夕方になると、世俗の一切を集めて茶碗のカチカチと云う音が階下から聞えて来る。グウグウ鳴る腹の音を聞くと、私は子供のように悲しくなって来て、遠く明るい廓の女達がふっと羨ましくなってきた。私はいま飢えているのだ。沢山の本も今はもう二三冊になってしまって、ビール箱には、善蔵の「子を連れて」だの、「労働者セイリョフ」、直哉の「和解」がささくれているきりなり。

「又、料理店でも行ってかせぐかな。」

 切なくあきらめてしまった私は、おきゃがりこぼしのだるまのように、変にフラフラした体を起して、歯ブラシや石鹸や手拭を袖に入れると、私は風の吹く夕べの街へ出て行った。

 女給入用のビラの出ていそうなカフェーを次から次へ野良犬のように尋ねて、只食う為めに、何よりもかによりも私の胃の腑は何か固形物を欲しがっているのだ。ああどんなにしても私は食わなければならない。街中が美味しそうな食物で埋っているではないか! 明日は雨かも知れない。重たい風が飄々と吹く度に、興奮した私の鼻穴に、すがすがしい秋の果実店からあんなに芳烈な匂いがしてくる。

(十月×日)

 焼栗の声がなつかしい頃になった。廓を流して行く焼栗屋のにぶい声を聞いていると、妙に淋しくなってしまって、暗い部屋の中に私は一人でじっと窓を見ている。私は小さい時から、冬になりかけるとよく歯が痛んだものだ。まだ母親に甘えている時は、畳にごろごろして泣き叫び、ビタビタと梅干を顔一杯塗って貰っては、しゃっくりをして泣いている私だった。だが、ようやく人生も半ば近くに達し、旅の空の、こうした佗しいカフェーの二階に、歯を病んで寝ていると、じき故郷の野や山や海や、別れた人達の顔を思い出してくる。

 水っぽい眼を向けてお話をする神様は、歪んだ窓外の飄々としたあのお月様ばかりだ……。

「まだ痛む?」

 そっと上って来たお君さんの大きいひさし髪が、月の光りで、くらく私の上におおいかぶさる。今朝から何も食べない私の鼻穴に、プンと海苔の香をただよわせて、お君さんは枕元に寿司皿を置いた。そして黙って、私の目を見ていた。優しい心づかいだと思う。わけもなく、涙がにじんできて、薄い布団の下から財布を出すと、君ちゃんは「馬鹿ね!」と、厚紙でも叩くような軽い痛さで、お君さんは、ポンと私の手を打った。そして、布団の裾をジタジタとおさえて、そっと又、裏梯子を降りて行くのだ。ああなつかしい世界である。

(十月×日)

 風が吹いている。

 夜明近く水色の細い蛇が、スイスイと地を這っている夢を見た。それにとき色の腰紐が結ばれていて、妙に起きるときから胸さわぎがして仕方がない。素敵に楽しい事があるような気がする。朝の掃除がすんで、じっと鏡を見ていると、蒼くむくんだ顔は、生活に疲れ荒んで、私はああと長い溜息をついた。壁の中にでもはいってしまいたかった。今朝も泥のような味噌汁と残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思う。私は何も塗らないぼんやりとした自分の顔を見ていると、急に焦々してきて、唇に紅々とべにを引いてみた。――あの人はどうしているかしら、切れ掛かった鎖をそっと掴もうとしたけれども、お前達はやっぱり風景の中の並樹だよ……神経衰弱になったのか、何枚も皿を持つ事が恐ろしくなっている。

  のれん越しにすがすがしい三和土の上の盛り塩を見ていると、女学生の群に蹴飛ばされて、さっと散っては山がずるずるとひくくなって行っている。私が此家に来て丁度二週間になる。もらいはかなりあるのだ。朋輩が二人。お初ちゃんと言う女は、名のように初々しくて、銀杏返しのよく似合うほんとに可愛い娘だった。

「私は四谷で生れたのだけれど、十二の時、よその小父さんに連れられて、満州にさらわれて行ったのよ。私芸者屋にじきに売られたから、その小父さんの顔もじき忘れっちまったけれど……私そこの桃千代と云う娘と、広いつるつるした廊下を、よくすべりっこしたわ、まるで鏡みたいだったの。内地から芝居が来ると、毛布をかぶって長靴をはいて見にいったのよ。土が凍ってしまうと下駄で歩けるの。だけどお風呂から上ると、鬢の毛がピンとして、とてもおかしいわよ。私六年ばかりいたけど、満州の新聞社の人に連れて帰ってもらったの。」

 客が飲み食いして行った後の、こぼれた酒で、テーブルに字を書きながら、可愛らしいお初ちゃんは、重たい口で、こんな事を云った。もう一人私より一日早くはいったお君さんは背の高い母性的な、気立のいい女だった。廓の出口にある此店は、案外しっとり落ちついていて、私は二人の女達ともじき仲よくなれた。こん処に働いている女達は、初めはどんなに意地悪くコチコチに用心しあっていても、仲よくなんぞなってくれなくっても、一度何かのはずみで真心を見せ合うと、他愛もなくすぐまいってしまって、十年の知己のように、姉妹以上になってしまうのだ。客が途絶えてくると、私達はよくかたつむりのようにまあるくなって話した。

(十一月×日)

 どんよりとした空である。君ちゃんとさしむかいで、じっとしていると、むかあしどこかでかいだ事のある花の匂いがする。夕方、電車通りの風呂から帰って来ると、いつも呑んだくれの大学生の水野さんが、初ちゃんに酒をつがして呑んでいた。「あんたはとうとう裸を見られたんですってよ。」お初ちゃんが笑いながら鬢窓

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に櫛を入れている私の顔を鏡越しに覗いてこう云った。

「あんたが風呂に行くとすぐ水野さんが来て、あんたの事訊いたから、風呂って云ったの。」

 呑んだくれの大学生は、風のように細い手を振りながら、頭をトントン叩いていた。

「嘘だよ!」

「アラ! 今そう云ったじゃないの……水野さんてば、電車通りへいそいで行ったから、どうしたのかと思ってたら、帰って来て、水野さんてば、女湯をあけたんですって、そしたら番台でこっちは女湯ですよッ……て云ってたってさ、そしたら、ああ病院とまちがえましたってじっとしてたら丁度あんたが、裸になった処だって、水野さんそりゃあ大喜びなの……」

「へん! 随分助平な話ね。」

 私はやけに頬紅を刷くと、大学生は薄い蒟蒻のような手を合せて、「怒った? かんにんしてね!」と云っている。何云ってるの、裸が見たけりゃ、お天陽様の下で真裸になって見せますよ! 私は大きな声で呶鳴ってやりたかった。一晩中気分が重っくるしくって、私はうで卵を七ツ八ツ卓子へぶっつけて破った。

(十一月×日)

 秋刀魚を焼く匂いは季節の呼び声だ。夕方になると、廓の中は今日も秋刀魚の臭い、お女郎は毎日秋刀魚ばかりたべさせられては、体中にうろこが浮いてくるだろう。夜霧が白い。電信柱の細いかげが針のような影を引いている。のれんの外に出て、走って行く電車見ていると、なぜか電車に乗っているひとがうらやましくなってきて鼻の中が熱くなった。生きる事が実際退屈になった。こんな処で働いていると、荒んで、荒んで、私は万引でもしたくなる。女馬賊にでもなりたくなる。

若い姉さんなぜ泣くの
薄情男が恋しいの……。

 誰も彼も、誰も彼も、私を笑っている。

「キング・オブ・キングスを十杯飲んでごらん、十円のかけだ!」

 どっかの呑気坊主が、厭に頭髪を光らせて、いれずみのような十円札を、卓子にのせた。

「何でもない事だわ。」私はあさましい姿を白々と電気の下に晒して、そのウイスキーを十杯けろりと呑み干してしまった。キンキラ坊主は呆然と私を見ていたけれども、負けおしみくさい笑いを浮べて、おうように消えてしまった。喜んだのはカフェーの主人ばかりだ。へえへえ、一杯一円のキング・オブを十杯もあの娘が呑んでくれたんですからね……ペッペッペッと吐きだしそうになってくる。――眼が燃える。誰も彼も憎らしい奴ばかりなり。ああ私は貞操のない女でございます。一ツ裸踊りでもしてお目にかけましょうか、お上品なお方達よ、眉をひそめて、星よ月よ花よか! 私は野そだち、誰にも世話にならないで生きて行こうと思えば、オイオイ泣いてはいられない。男から食わしてもらおうと思えば、私はその何十倍か働かねばならないじゃないの。真実同志よと叫ぶ友達でさえ嘲笑っている。

歌うをきけば梅川よ
しばし情を捨てよかし
いずこも恋にたわぶれて
それ忠兵衛の夢がたり

 詩をうたって、いい気持ちで、私は窓硝子を開けて夜霧をいっぱい吸った。あんな安っぽい安ウイスキー十杯で酔うなんて……あああの夜空を見上げて御覧なさい、絢爛な、虹がかかった。君ちゃんが、大きい目をして、それでいいのか、それで胸が痛まないのか、貴女の心をいためはせぬかと、私をグイグイ掴んで二階へ上って行った。

やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るるその姿

 好きな歌なり。ほれぼれと涙に溺れて、私の体と心は遠い遠い地の果てにずッとあとしざりしだした。そろそろ時計のねじがゆるみ出すと、例の月はおぼろに白魚の

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声色屋のこまちゃくれた子供が来て、「ねえ旦那! おぼしめしで……ねえ旦那おぼしめしで……」とねだっている。

 もうそんな影のうすい不具者なんか出してしまいなさい! 何だかそんな可憐な子供達のささくれた白粉の濃い顔を見ていると、たまらない程、私も誰かにすがりつきたくなる。

(十一月×日)

 奥で三度御飯を食べると、主人のきげんが悪いし、と云って客におごらせる事は大きらいだ。二時がカンバンだって云っても、遊廓がえりの客がたてこむと、夜明けまでも知らん顔をして主人はのれんを引っこめようともしない。コンクリートのゆかが、妙にビンビンして動脈がみんな凍ってしまいそうに肌が粟立ってくる。酸っぱい酒の匂いが臭くて焦々する。

「厭になってしまうわ。……」

 初ちゃんは袖をビールでビタビタにしたのを絞りながら、呆然とつっ立っていた。

「ビール!」

 もう四時も過ぎて、ほんとになつかしく、遠くの方で鶏の鳴く声がしている。新宿駅の汽車の汽笛が鳴ると、一番最後に、私の番で銀流し

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みたいな男がはいって来た。

「ビールだ!」

 仕方なしに、私はビールを抜いて、コップになみなみとついだ。厭にトゲトゲと天井ばかりみていた男は、その一杯のビールをグイと呑み干すと、いかにも空々しく、「何だ! えびすか、気に喰わねえ。」と、捨ぜりふを残すと、いかにもあっさりと、霧の濃い舗道へ出て行ってしまった。唖然とした私は、急にムカムカしてくると、残りのビールびんをさげて、その男の後を追って行った。銀行の横を曲ろうとしたその男の黒い影へ私は思い切りビールびんをハッシと投げつけた。

「ビールが呑みたきゃ、ほら呑まして上げるよッ。」

 けたたましい音をたてて、ビールびんは、思い切りよく、こなごなにこわれて、しぶきが飛んだ。

「何を!」

「馬鹿ッ!」

「俺はテロリストだよ。」

「へえ、そんなテロリストがあるの……案外つまんないテロリストだね。」

 心配して走って来たお君ちゃんや、二三人の自動車の運転手達が来ると、面白いテロリストはあわてて路地の中へ消えて行ってしまった。こんな商売なんて止めてしまいたいと思う……。それでも、北海道から来たお父さんの手紙には、今は帰る旅費もないから、少しでもよい送ってくれと云う長い手紙だ。寒さには耐えられないお父さん、どうしても四五十円は送ってあげなければならぬ。少し働いたら、私も北海道へ渡って、お父さん達といっそ行商してまわってみようかしらとも思う。おでん屋の屋台に首を突っ込んで、箸につみれを突きさした初ちゃんが店の灯を消して一生懸命茶飯をたべていた。私も興奮した後のふるえを沈めながら、エプロンを君ちゃんにはずしてもらうと、おでんを肴に、酒を一本つけて貰った。

(十二月×日)

 浅草はいい処だ。

 浅草はいつ来てもよいところだ……。テンポの早い灯の中をグルリ、グルリ、私は放浪のカチュウシャです。長いことクリームを塗らない顔は瀬戸物のように固くなって、安酒に酔った私は誰もおそろしいものがない。ああ一人の酔いどれ女でございます。酒に酔えば泣きじょうご、痺れて手も足もばらばらになってしまいそうなこの気持ちのすさまじさ……酒でも呑まなければあんまり世間は馬鹿らしくて、まともな顔をしては通れない。あの人が外に女が出来たと云って、それがいったい何でしょう。真実は悲しいのだけれど、酒は広い世界を知らんと云う。町の灯がふっと切れて暗くなると、活動小屋の壁に歪んだ顔をくっつけて、荒んだ顔を見ていると、あああすから私は勉強をしようと思う。夢の中からでも聞えて来るような小屋の中の楽隊。あんまり自分が若すぎて、私はなぜかやけくそにあいそがつきて腹をたててしまうのだ。

 早く年をとって、年をとる事はいいじゃないの。酒に酔いつぶれている自分をふいと反省すると、大道の猿芝居じゃないけれど全く頬かぶりをして歩きたくなってくる。

 浅草は酒を呑むによいところ。浅草は酒にさめてもよいところだ。一杯五銭の甘酒、一杯五銭のしる粉、一串二銭の焼鳥は何と肩のはらない御馳走だろう。金魚のように風に吹かれている芝居小屋の旗をみていると、その旗の中にはかつて私を愛した男の名もさらされている。わっは、わっは、あのいつもの声で私を嘲笑している。さあ皆さん御きげんよう。何年ぶりかで見上げる夜空の寒いこと、私の肩掛は人絹がまじっているのでございます。他人が肩に手をかけたように、スイスイと肌に風が通りますのよ。

(十二月×日)

 朝の寝床の中でまず煙草をくゆらす事は淋しがりやの女にとっては此上もないなぐさめなのです。ゆらりゆらり輪を描いて浮いてゆくむらさき色のけむりは愉しい。お天陽様の光りを頭いっぱい浴びて、さて今日はいい事がありますように……。赤だの黒だの桃色だの黄色だのの、疲れた着物を三畳の部屋いっぱいぬぎちらして、女一人のきやすさに、うつらうつら私はひだまりの亀の子のようだ。カフェーだの、牛屋だの、めんどくさい事よりも、いっそ屋台でも出しておでん屋でもしようかと思う。誰が笑おうと彼が悪口を云おうと、赤い尻からげで、あら、えっさっさだ! 一ツ屋台でも出して何とか此年のけじめをつけてみたいものだ。コンニャク、がんもどき、竹輪につみれ、辛子のひりりッとしたのに、口にふくむような酒をつかって、青々としたほうれん草のひたしですか、元気を出しましょう。だが、あるところまで来ると私はペッチャンコに崩れてしまう。たとえそれがつまらない事であっても、そんな事の空想は、子供のようにうれしくなるものだ。

 貧乏な父や母にすがるわけにはゆかないし、と云って転々と働いたところで、月に本が一二冊買えるきりだ。わけもなく飲んで食ってそれで通ってしまう。三畳の部屋をかりて最小限度の生活はしても貯えもかぼそくなってしまった。こんなに生活方針がたたなく真暗闇になるとほんとうに泥棒にでもはいりたくなってくる。だが目が近いのでいっぺんにつかまってしまう事を思うと、ふいとおかしくなってしまって、冷たい壁に私の嗤いがはねかえる。何とかして金がほしい。私の濁った錯覚は、他愛もなく夢に溺れていて、夕方までぐっすり眠ってしまった。

(十二月×日)

 お君さんが誘いに来て、二人は又何かいい商売をみつけようと、小さい新聞の切抜きをもって横浜行きの省線に乗った。今まで働いていたカフェーが寂れると、お君さんも一緒にそこを止めてしまって、お君さんは、長い事板橋の御亭主のとこへ帰っていたのだ。お君さんの御亭主はお君さんより三十あまりも年が上で、初めて板橋のその家へたずねて行った時、私はその男のひとをお君さんのお父さんなのかと間違えてしまっていた。お君さんの養母やお君さんの子供や、何だかごたごたしたその家庭は、めんどくさがりやの私にはちょいと判りかねる。お君さんもそんな事はだまって別に話もしない。私もそんな事を訊くのは胸が痛くなるのだ。二人共だまって、電車から降りると、青い海を見はらしながら丘へ出てみた。

「久し振りよ、海を見るのは……」

「寒いけれど、いいわね海は……」

「いいとも、こんなに男らしい海を見ていると、裡になって飛びこんでみたいわね。まるで青い色がとけてるようじゃないの。」

「ほんと! おっかないわ……」

 ネクタイをひらひらさせた二人の西洋人が雁木

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に腰をかけて波の荒い景色にみいっていた。

「ホテルってあそこよ!」

 目のはやい君ちゃんがみつけたのは、白い家鴨の小屋のような小さな酒場だった。二階の歪んだ窓には汚点だらけな毛布が太陽にてらされている。

「かえりましょうよ!」

「ホテルってこんなの……」

 朱色の着物を着た可愛らしい女が、ホテルのポーチで黒い犬をあやして一人でキャッキャッと笑っていた。

「がっかりした……」

 二人共又押し沈黙って向うの寒い茫漠とした海を見ている。烏になりたい。小さいカバンでもさげて旅をするといいだろうと思う。君ちゃんの日本風なひさし髪が風に吹かれていて、雪の降る日の柳のようにいじらしく見えた。

(十二月×日)

風が鳴る白い空だ!
冬のステキに冷たい海だ
狂人だってキリキリ舞いをして
目のさめそうな大海原だ
四国まで一本筋の航路だ。
毛布が二十銭お菓子が十銭
三等客室はくたばりかけたどじょう鍋のように
ものすごいフットウだ
しぶきだ雨のようなしぶきだ
みはるかす白い空を眺め
十一銭在中の財布を握っていた。
ああバットでも吸いたい
オオ! と叫んでも
風が吹き消して行くよ。
白い大空に
私に酢を呑ませた男の顔が
あんなに大きく、あんなに大きく
ああやっぱり淋しい一人旅だ!

 腹の底をゆすぶるように、遠くで蒸汽の音が鳴っている。鉛色によどんだ小さな渦巻が幾つか海のあなたに一ツ一ツ消えて行って、唸りをふくんだ冷たい十二月の風が、乱れた私の銀杏返しの鬢を頬っぺたにくっつけるように吹いてゆく。八ツ口に両手を入れて、じっと柔かい自分の乳房をおさえていると、冷たい乳首の感触が、わけもなく甘酸っぱく涙をさそってくる。――ああ、何もかもに負けてしまった。東京を遠く離れて、青い海の上をつっぱしっていると、色々に交渉のあった男や女の顔が、一ツ一ツ白い雲の間からもやもやと覗いて来るようだ。

 あんまり昨日の空が青かったので、久し振りに、古里が恋しく、私は無理矢理に汽車に乗ってしまった。そうして今朝はもう鳴門の沖なのだ。

「お客さん!御飯ぞなッ!」

 誰もいない夜明けのデッキの上に、ささけた私の空想はやっぱり古里へ背いて都へ走っている。旅の古里ゆえ、別に綿を飾って帰る必要もないのだけれども、なぜか佗しい気持ちがいっぱいだった。穴倉のように暗い三等船室に帰って、自分の毛布の上に坐っていると丹塗りのはげた膳の上にはヒジキの煮たのや味噌汁があじきなく並んでいた。薄暗い燈火の下には大勢の旅役者やおへんろさん

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や、子供を連れた漁師の上さんの中に混って、私も何だか愁々とした旅心を感じている。私が銀杏返しに結っているので、「どこからおいでました?」と尋ねるお婆さんもあれば「どこまで行きゃはりますウ?」と問う若い男もあった。二ツ位の赤ん坊に添い寝をしていた若い母親が、小さい声で旅の古里でかつて聞いた事のある子守唄をうたっていた。

ねんねころ市
おやすみなんしょ
朝もとうからおきなされ
よいの浜風ア身にしみますで
夜サは早よからおやすみよ。

 あの濁った都会の片隅で疲れているよりも、こんなにさっぱりした海の上で、自由にのびのびと息を吸える事は、ああやっぱり生きている事もいいものだと思う。

(十二月×日)

 真黄ろに煤けた障子を開けて、消えかけては降っている雪をじっと見ていると、何もかも一切忘れてしまう。

「お母さん! 今年は随分雪が早いね。」

「ああ。」

「お父さんも寒いから難儀しているでしょうね。」

 父が北海道へ行ってから、もう四カ月あまりになる。遠くに走りすぎて商売も思うようになく、四国へ帰るのは来春だという父のたよりが来て、こちらも随分寒くなった。屋並の低い徳島の町も、寒くなるにつれて、うどん屋のだしを取る匂いが濃くなって、町を流れる川の水がうっすらと湯気を吐くようになった。泊る客もだんだん少くなると、母は店の行燈へ灯を入れるのを渋ったりしている。

「寒うなると人が動かんけんのう……」

 しっかりした故郷というものをもたない私達親子三人が、最近に落ちついたのがこの徳島だった。女の美しい、川の綺麗なこの町隅に、古ぼけた旅人宿を始め出して、私は徳島での初めての春秋を迎えたけれど、だけどそれも小さかった時の私である。今はもうこの旅人宿も荒れほうだいに荒れて、いまは母一人の内職仕事になってしまった。父を捨て、母を捨て、東京に疲れて帰ってきた私にも、昔のたどたどしい恋文や、ひさし髪の大きかった写真を古ぼけた箪笥の底にひっくり返してみると懐しい昔の夢が段々蘇って来る。長崎の黄ろいちゃんぽんうどんや、尾道の千光寺の桜や、ニユ川で覚えた城ケ島の唄やああみんななつかしい。絵をならい始めていた頃の、まずいデッサンの幾枚かが、茶色にやけていて、納戸の奥から出て来るとまるで別な世界だった私を見る。夜、炬燵にあたっていると、店の間を借りている月琴ひき

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の夫婦が飄々と淋しい唄をうたっては月琴をひびかせていた。外は音をたててみぞれまじりの雪が降っている。

(十二月×日)

 久し振りに海辺らしいお天気なり。二三日前から泊りこんでいる浪花節語りの夫婦が、二人共黒いしかん巻を首にまいて朝早く出て行くと、煤けた広い台所には鰯を焼いている母と私と二人きりになってしまう。ああ田舎にも退屈してしまった。

「お前もいいかげんで、遠くへ行くのを止めてこっちで身をかためてはどうかい。お前をもらいたいと云う人があるぞな……」

「へえ……どんなひとですか?」

「実家は京都の聖護院の煎餅屋でな、あととりやけど、今こっちい来て市役所へ勤めておるがな……いい男や」

「…………」

「どやろ?」

「会うてみようかしら、面白いなア……」

 何もかもが子供っぽくゆかいだった。田舎娘になって、初々しく顔を赤めてお茶を召し上れか、車井戸のつるべを上げたり下げたりしていると、私も娘のように心がはずんで来る。ああ情熱の毛虫、私は一人の男の血をいたちのように吸いつくしてみたいような気がする。男の肌は寒くなると蒲団のように恋しくなるものだ。

 東京へ行きましょう。夕方の散歩に、いつの間にか足が向くのは駅への道だ。駅の時間表を見ていると涙がにじんで来て仕方がない。

(十二月×日)

 赤靴のひもをといてその男が座敷へ上って来ると、妙に胃が悪くなりそうで、私は真正面から眉をひそめてしまった。

「あんたいくつ?」

「僕ですか、二十二です。」

「ホウ……じゃ私の方が上だわ。」

 げじげじ眉で、唇の厚いその顔は、私は何故か見覚えがあるようであったが、考え出せなかった。ふと、私は明るくなって、口笛でも吹きたくなった。

 月のいい夜だ、星が高く光っている。

「そこまでおくってゆきましょうか……」

 此男は妙によゆうのある風景だ。入れ忘れてしまった国旗の下をくぐって、月の明るい町に出てゆくと、濁った息をフッと一時に吐く事が出来た。一丁歩いても二丁歩いても、二人共だまって歩いている。川の水が妙に悲しく胸に来て私自身が浅ましくなってきた。男なんて皆火を焚いて焼いてしまえだ。私はお釈迦様にでも恋をしましょう。ナムアミダブツのお釈迦様は、妙に色ッぽい目をして、私の此頃の夢にしのんでいらっしゃる。

「じゃアさよなら、あなたいいお嫁さんおもちなさいね。」

「ハア?」

 いとしい男よ、田舎の人は素朴でいい。私の言葉がわかったのかわからないのか、長い月の影をひいて隣の町へ行ってしまった。明日こそ荷づくりをして旅立ちましょう……。久し振りに家の前の燈火のついたお泊り宿の行燈を見ていると、不意に頭をなぐられたように母がいとしくなってきて、私はかたぶいた梟の眼のような行燈をみつめていた。

「寒いのう……酒でも呑まんかいや。」

 茶の間で母と差しむかいで一合の酒にいい気持ちになっている。親子はいいものだと思う。こだわりのない気安さで母の顔を見た。鼠の多い煤けた天井の下に、又母を置いて去るのは、いじらしく可哀想になってしまう。

「あんなひとは厭だわねえ。」

「気立はいい男らしいがな……」

 淋しい喜劇である。ああ、東京の友達がみんな懐しがってくれるような手紙をいっぱい書こう。

(一月×日)

海は真白でした
東京へ旅立つその日
青い蜜柑の初なりを籠いっぱい入れて
四国の浜辺から天神丸に乗りました。
海は気むずかしく荒れていましたが、
空は鏡のように光って
人参燈台の紅色が眼にしみる程あかいのです。
島での悲しみは
すっぱり捨ててしまおうと
私は冷たい汐風をうけて
遠く走る帆船をみました。
一月の白い海と
初なりの蜜柑の匂いは
その日の私を
売られて行く女のようにさびしくしました。

(一月×日)

 暗い雪空だった。朝の膳の上には白い味噌汁に高野豆腐に黒豆がならんでいる。何もかも水っぽい舌ざわりだ。東京は悲しい思い出ばかりなり。いっそ京都か大阪で暮してみようかと思う……。天保山の安宿の二階で、何時までも鳴いている猫の声を寂しく聞きながら、私は呆んやり寝そべっていた。ああこんなにも生きる事はむずかしいものなのか……私は身も心も困憊しきっている。潮臭い蒲団はまるで、魚の腸のようにズルズルに汚れていた。風が海を叩いて、波音が高い。

 からっぽの女は私でございます。……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなければ、生きてゆく美しさもない。さて残ったものは血の気の多い体ばかりだ。私は退屈すると、片方の足を曲げて、鶴のようにキリキリと座敷の中をまわってみる。長い事文字に親しまない目には、御一泊一円よりと壁に張られた文句をひろい読みするばかりだった。

 夕方から雪が降って来た。あっちをむいても、こっちをむいても旅の空なり。もいちど四国の古里へ逆もどりしようかとも思う。とても淋しい宿だ。「古創や恋のマントにむかい酒」お酒でも愉しんでじっとしていたい晩なり。たった一枚のハガキをみつめて、いつからか覚えた俳句をかきなぐりながら、東京の沢山の友達を思い浮べていた。皆どのひとも自分に忙がしい人ばかりの顔だ。

 汽笛の音を聞いていると、私は窓を引きあけて雪の夜の沈んだ港をながめている。青い灯をともした船がいくつもねむっている。お前も私もヴァガボンド

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。雪が降っている。考えても見た事のない、遠くに去った初恋の男が急に恋しくなって来た。こんな夜だった。あの男は城ケ島の唄をうたっていた。沈鐘の唄もうたった。なつかしい尾道の海はこんなに波が荒くなかった。二人でかぶったマントの中で、マッチをすりあわして、お互に見あった顔、あっけない別離だった。一直線に墜落した女よ! と云う最後のたよりを受取ってもう七年にもなる。あの男は、ピカソの画を論じ、槐多の詩を愛していた。私は頭を殴りつけている強い手の痛さを感じた。どっかで三味線の音がしている。私は呆然と坐り、いつまでも口笛を吹いていた。

(一月×日)

 さあ! 素手でなにもかもやりなおしだ。市の職業紹介所の門を出ると、天満行きの電車に乗った。紹介された先は毛布の問屋で、私は女学校卒業の女事務員です。どんより走る街並を眺めながら私は大阪も面白いと思った。誰も知らない土地で働く事もいいだろう。枯れた河岸の柳の木が、腰をもみながら大風にゆれている。

 毛布問屋は案外大きい店だった。奥行の深い、間口の広いこの店は、何だか貝殻のように暗くて、働いている七八人の店員達は病的に蒼い顔をして忙がしく立ち働いていた。随分長い廊下だった。何もかもピカピカと手入れの行きとどいた、大阪人らしいこのみのこぢんまりした座敷に、私は初めて老いた女主人と向きあって坐った。

「東京からどうしてこっちへお出やしたん?」

 出鱈目の原籍を東京にしてしまった私は、一寸どう云っていいのかわからなかった。

「姉がいますから……」

 こんな事を云ってしまった私は、又いつものめんどくさい気持になってしまい、断られたら断られたまでの事だと思った。女中が、美しい菓子皿とお茶を運んで来た。久しくお茶にも縁が無く、甘いものも口にしたことがない。世間にはこうしたなごやかな家もあるなり。

「一郎さん!」

 女主人が静かに呼ぶと、隣の部屋から息子らしい落ちつきのある二十五六の男が、棒のようにはいって来た。

「この人が来ておくれやしたんやけど……」

 役者のように細々としたその若主人は光った目で私を見た。

 私はなぜか恥をかきに来たような気がして、手足が痺れて来るおもいだった。あまりに縁遠い世界だ。私は早く引きあげたい気持ちでいっぱいになる。――天保山の船宿へ帰った時は、もう日が暮れて、船が沢山はいっていた。東京のお君ちゃんからのハガキが来ている。

 ――何をぐずぐずしていますか、早くいらっしゃい。面白い商売があります。――どんなに不幸な目にあっていても、あの人は元気がいい。久し振りに私もハツラツとなる。

(一月×日)

 駄目だと思っていた毛布問屋にいよいよ勤めることになった。

 五日振りに天保山の安宿をひきあげて、バスケット一つの飄々とした私は、もらわれて行く犬の仔のように、毛布問屋へ住み込む事になった。

 昼でも奥の間には、音をたててガスの燈火がついている。広いオフィスの中で、沢山の封筒を書きながら、私はよくわけのわからない夢を見た。そして何度もしくじっては自分の顔を叩いた。ああ幽霊にでもなりそうだ。青いガスの燈火の下でじっと両手をそろえてみていると爪の一ツ一ツが黄色に染って、私の十本の指は蚕のように透きとおって見える。三時になるとお茶が出て、八ツ橋が山盛り店へ運ばれて来る。店員は皆で九人いた。その中で小僧が六人配達に出て行くので、誰が誰やらまだ私にはわからない。女中は下働きのお国さんと上女中のお糸さんの二人きりである。お糸さんは昔の御殿女中みたいに、眠ったような顔をしていた。関西の女は物ごしが柔かで、何を考えているのだかさっぱり判らない。

「遠くからお出やして、こんなとこしんきだっしゃろ?」

 お糸さんは引きつめた桃割れをかしげて、キュキュと糸をしごきながら、見た事もないようなきれいな布を縫っていた。若主人の一郎さんには、十九になるお嫁さんがある事もお糸さんが教えてくれた。そのお嫁さんは市岡の別宅の方にお産をしに行っているとかで、家はなにか気が抜けたように静かだった。――夜の八時にはもう大戸を閉めてしまって、九人の番頭や小僧達が皆どこへ引っこむのか一人一人いなくなってしまう。のりのよくきいた固い蒲団に、伸び伸びといたわるように両足をのばして天井を見上げていると、自分がしみじみあわれにみすぼらしくなって来る。お糸さんとお国さんの一緒の寝床に高下駄のような感じの黒い箱枕がちゃんと二ツならんで、お糸さんの赤い胴抜きのしてある長襦袢が、蒲団の上に投げ出されてあった。私はまるで男のような気持ちで、その赤い長襦袢をいつまでも見ていた。しまい湯をつかっている二人の若い女は笑い声一つたてないでピチャピチャと湯音をたてている。あの白い生毛のあるお糸さんの美しい手にふれてみたい気がする。私はすっかり男になりきった気持ちで、赤い長襦袢を着たお糸さんを愛していた。沈黙った女は花のようにやさしい匂いを遠くまで運んで来るものだ。泪のにじんだ目をとじて、まぶしい燈火に私は額をそむけた。

(一月×日)

 毎朝の芋がゆにも私は馴れてしまった。

 東京で吸う赤い味噌汁はなつかしい。里芋のコロコロしたのを薄く切って、小松菜と一緒にたいた味噌汁はいいものだ。新巻き鮭の一片一片を身をはがして食べるのも甘味い。

 大根の切り口みたいな大阪のお天陽様ばかりを見ていると、塩辛いおかずでもそえて、甘味い茶漬けでも食べて見たいと、事務を取っている私の空想は、何もかも淡々しく子供っぽくなって来る。

 雪の頃になると、いつも私は足指に霜やけが出来て困った。――夕方、沢山荷箱を積んである蔭で、私は人に隠れて思い切り足を掻いていた。指が赤くほてって、コロコロにふくれあがると、針でも突きさしてやりたい程切なくて仕様がなかった。

「ホウえらい霜やけやなあ。」

 番頭の兼吉さんが驚いたように覗いた。

「霜やけやったら煙管でさすったら一番や。」

 若い番頭さんは元気よくすぽんと煙草入れの筒を抜くと、何度もスパスパ吸っては火ぶくれしたような赤い私の足指を煙管の頭でさすってくれた。銭勘定の話ばかりしているこんな人達の間にもこんな親切がある。

(二月×日)

「お前は金の性で金は金でも、金屏風の金だから小綺麗な仕事をしなけりゃ駄目だよ。」

 よく母がこんな事を云っていたけれど、こんなお上品な仕事はじきに退屈してしまう。あきっぽくて、気が小さくて、じき人にまいってしまって、ひとになじめない私の性格がいやになってくる。ああ誰もいないところで、ワァッ! と叫びあがりたいほど焦々するなり。

 只一冊のワイルド・プロフォンディス

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[42]
にも愉しみをかけて読むなり。

 ――私は灰色の十一月の雨の中を嘲り笑うモッブ

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[43]
にとり囲まれていた。

 ――獄中にある人々にとっては涙は日常の経験の一部分である。人が獄中にあって泣かない日は、その人の心が堅くなっている日で、その人の心が幸福である日ではない。――夜々の私の心はこんな文字を見ると、まことに痛んでしまう。お友達よ! 肉親よ! 隣人よ! わけのわからない悲しみで正直に私を嘲笑う友人が恋しくなった。お糸さんの恋愛にも祝福あれ、夜、風呂にはいってじっと天窓を見ていると、沢山星がこぼれていた。忘れかけたものをふっと思い出すように、つくづく一人ぼっちで星を見上げている。

 老いぼれたような私の心に反比例して、この肉体の若さよ。赤くなった腕をさしのべて風呂いっぱいに体を伸ばすと、ふいと女らしくなって来る。結婚をしようと思う。

 私はしみじみと白粉の匂いをかいだ。眉もひき、唇紅も濃くぬって、私は柱鏡のなかの姿にあどけない笑顔をこしらえてみる。青貝色の櫛もさして、桃色のてがらもかけて髷も結んでみたい。弱きものよ汝の名は女なり、しょせんは世に汚れた私で厶います。美しい男はないものか……。なつかしのプロヴァンスの歌

[_]
[44]
でもうたいましょうか、胸の燃えるような思いで私は風呂桶の中に魚のようにやわらかくくねってみた。

(二月×日)

 街は春の売り出しで赤い旗がいっぱいひらひらしている。――女学校時代のお夏さんの手紙をもらって、私は何もかも投げ出して京都へ行きたくなっていた。

 ――随分苦労なすったんでしょう……という手紙を見ると、いいえどういたしまして、優しいお嬢さんのたよりは男でなくてもいいものだと思う。妙に乳くさくて、何かぷんぷんいい匂いがしている。これが一緒に学校を出たお夏さんのたよりだ。八年間の年月に、二人の間は何百里もへだたってしまっているはずだのに、お嫁に行かないで、じっと日本画家のお父さんのいい助手をして孝行をしているお夏さん、泪の出るようないい手紙だった。ちっとでも親しい人のそばに行って色々の話をしたいと思う。

 お店から一日ひまをもらうと、寒い風に吹かれて京都へ発って行った。――午後六時二十分京都着。お夏さんは黒いフクフクとした肩掛に蒼白い顔を埋めてむかえに出てくれていた。

「わかった?」

「ふん。」

 二人は沈黙って冷たい手を握りあった。

 私にはお夏さんの姿は意外だった。まるで未亡人か何かのように、何もかも黒っぽい色で、唇だけがぐいと強く私の目を射た。

 椿の花のように素敵にいい唇だ。二人は子供のようにしっかり手をつなぎあって、霧の多い京都の街を、わけのわからない事を話しあって歩いた。京極は昔のままだった。京極の何とかと云う店には、かつて私達の胸をさわがした美しい封筒が飾窓に出ている。だらだらと京極の街を降りると、横に切れた路地の中に、菊水と云ううどんやを見つけて私達は久し振りに明るい灯の下に顔を見合わせた。私は一人立ちしていても貧乏だし、お夏さんは親のすねかじりで勿論お小遣いもそんなにないので、二人は財布を見せあいながら、狐うどんを食べた。女学生らしいあけっぱなしの気持ちで、二人は帯をゆるめてはお替りをして食べた。

「貴女ぐらい住所の変る人はないわね、私の住所録を汚して行くのはあんた一人よ。」

 お夏さんは黒い大きな目をまたたきもさせないで私を見ている。甘えたい気持ちでいっぱいなり。

 丸山公園の噴水のそばを二人はまるで恋人のようによりそって歩いた。

「秋の鳥辺山はよかったわね。落葉がしていて、ほら二人でおしゅん伝兵衛

[_]
[45]
の墓にお参りした事があったわね……」

「行ってみましょうか!」

 お夏さんは驚いたように眼をみはった。

「貴女はそれだから苦労するのよ。」

 京都はいい街だ。夜霧がいっぱいたちこめた向うの立樹のところで、夜鳥が鳴いている。――下加茂のお夏さんの家の前が丁度交番になっていて、赤い燈火がついていた。門の吊燈籠の下をくぐって、そっと二階へ上ると、遠くの寺でゆっくり鐘を打つのが響いて来る。メンドウな話をくどくどするより沈黙っていましょう……お夏さんが火を取りに階下に降りて行くと、私は窓に凭れて、しみじみと大きいあくびをした。

(七月×日)

丘の上に松の木が一本
その松の木の下で
じっと空を見ていた私です。
真蒼い空に老松の葉が
針のように光っていました
ああ何と云う生きる事のむずかしさ
食べる事のむずかしさ。
そこで私は
貧しい袂を胸にあわせて
古里にいた頃の
あのなつかしい童心で
コトコト松の幹を叩いてみました。

 この老松の詩をふっと思い出すと、とても淋しくて、黒ずんだ緑の木立ちの間を、私はむやみに歩くのだ。――久し振りに、私の胸にエプロンもない。白粉もうすい。日傘をくるくる廻しながら、私は古里を思い出し、丘のあの老松の木を思い浮べた。――下宿にかえってくると、男の部屋には、大きな本箱が置いてあった。女房をカフェーに働かして、自分はこんな本箱を買っている。いつものように二十円ばかりの金を、原稿用紙の下にいれておくと、誰もいないきやすさに、くつろいだ気持ちで、押入れの汚れものを探してみる。

「あの、お手紙でございます。」そう云って、下宿の女中が手紙を持って来た。六銭切手をはったかなり厚い女の封書である。私は妙な気持ちで爪を噛みながら、只ならぬ淋しさに、胸がときめいてしまった。私は自分を嘲笑しながら、押入れの隅に隠してあった、かなり厚い女の手紙の束をみつけ出したのだ。

 ――やっぱり温泉がいいわね、とか。

 ――あなたの紗和子より、とか。

 ――あの夜泊ってからの私は、とか。

 私は歯の浮くような甘い手紙に震えながらつっ立ってしまった。――温泉行きの手紙では、私もお金を用意しますけれども貴方も少しつくって下さいと書いてあるのを見ると、私はその手紙を部屋中にばらまいてやりたくなっている。原稿用紙の下にした二十円の金を袂に入れると、私はそのまま戸外に出てしまった。

 あの男は、私に会うたびに、お前は薄情だとか、雑誌にかく詩や小説は、あんなに私を叩きつけたものばかりではなかったか……。私は肺病で狂人じみている、その不幸な男の為めに、あのランタンの下で、「貴方一人に身も世も捨てた……」と、唄わなくてはならなかったのだ。夕暮れの涼しい風をうけて、若松町の通りを歩いていると、新宿のカフェーにかえる気もしなかった。ヘエ! 使い果して二分残るか、ふっとこんな言葉が思い出されるなり。

「貴方、私と一緒に温泉に行かない。」

 私があんまり酔っぱらっているので、その夜時ちゃんは淋しい眼をして私を見ていた。

(七月×日)

 ああ人生いたるところに青山ありだよ、男から詫びの手紙が来る。

 夜。

 時ちゃんのお母さんが裏口へ来ている。時ちゃんに五円貸すなり。チュウインガムを噛むより味気ない世の中、何もかもが吸殻のようになってしまった。貯金でもして、久し振りに母の顔でもみてこようかしらと思う。私はコック場へ行くついでにウイスキーを盗んで飲んだ。

(七月×日)

 魚屋の魚のように淋しい寝ざめなり。四人の女は、ドロドロに崩れた白い液体のように、一切を休めて眠っている。私は枕元の煙草をくゆらしながら、投げ出された時ちゃんの腕を見ていた。まだ十七で肌が桃色だ。――お母さんは雑色で氷屋をしていたが、お父つぁんが病気なので、二三日おきに時ちゃんのところへ裏口から金を取りに来た。カーテンもない青い空を映した窓ガラスを見ると、西洋支那料理の赤い旗が、まるで私のように、ヘラヘラ風に膨らんでいる。カフェーに勤めるようになると、男に抱いていたイリュウジョンが夢のように消えてしまって、皆一山いくらに品がさがってみえる。別にもうあの男に稼いでやる必要もない故、久し振りに古里の汐っぱい風を浴びようかしら。ああ、でも可哀想なあの人よ。

それはどろどろの街路であった
こわれた自動車のように私はつっ立っている
今度こそは身売りをして金をこしらえ
皆を喜ばせてやろうと
今朝はるばると幾十日目で又東京へ帰って来たのではないか。
どこをさがしたって買ってくれる人もないし
俺は活動を見て五十銭のうな丼を食べたらもう死んでもいいと云った。
今朝の男の言葉を思い出して
私はさめざめと涙をこぼしました
男は下宿だし
私が居れば宿料がかさむし
私は豚のように臭みをかぎながら
カフェーからカフェーを歩きまわった。
愛情とか肉親とか世間とか夫とか
脳のくさりかけた私には
みんな縁遠いような気がします
叫ぶ勇気もない故
死にたいと思ってもその元気もない
私の裾にまつわってじゃれていた小猫のオテクサンはどうしたろう
時計屋のかざり窓に私は女泥棒になった目つきをしてみようと思いました。
何とうわべばかりの人間がうろうろしている事よ!
肺病は馬の糞汁を呑むとなおるって
辛い辛い男に呑ませるのは
心中ってどんなものだろう
金だ金だ金が必要なのだ!
金は天下のまわりものだって云うけど
私は働いても働いてもまわってこない。
何とかキセキはあらわれないものか
何とかどうにか出来ないものか
私が働いている金はどこへ逃げて行くのだろう
そして結局は薄情者になり
ボロカス女になり
死ぬまでカフェーだの女中だのボロカス女になり果てる
私は働き死にしなければならないのだろうか!
病にひがんだ男は
お前は赤い豚だと云います。
矢でも鉄砲でも飛んでこい
胸くその悪い男や女の前に
芙美子さんの腸を見せてやりたい

 かつて、貴方があんまり私を邪慳にするので、私はこんな詩を雑誌にかいて貴方にむくいた事がある。浮いた稼ぎなので、あなたは私に焦々しているのだと善意にカイシャクしていた大馬鹿者の私です。そうだ、帰れる位はあるのだから、汽車に乗ってみましょう。あの快速船のしぶきもいいじゃないの、人参燈台の朱色や、青い海、ツツンツンだ。夜汽車、夜汽車、誰も見送りのない私は、お葬式のような悲しさで、何度も不幸な目に逢って乗る東海道線に乗った。

(七月×日)

「神戸にでも降りてみようかしら、何か面白い仕事が転がっていやしないかな……」

 明石行きの三等車は、神戸で降りてしまう人たちばかりだった。私もバスケットを降ろしたり、食べ残りのお弁当を大切にしまったりして何だか気がかりな気持ちで神戸駅に降りてしまった。

「これで又仕事がなくて食えなきゃあ、ヒンケルマン

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[46]
じゃないけれど、汚れた世界の罪だよ。」

 暑い陽ざしだった。だが私には、アイスクリームも、氷も買えない。ホームでさっぱりと顔を洗うと、生ぬるい水を腹いっぱい呑んで、黄いろい汚れた鏡に、みずひき草のように淋しい自分の顔を写して見た。さあ矢でも鉄砲でも飛んで来いだ。別に当もない私は、途中下車の切符を大事にしまうと、楠公さんの方へブラブラ歩いて行ってみた。

古ぼけたバスケットひとつ。
骨の折れた日傘。
煙草の吸殻より味気ない女。
私の捨身の戦闘準備はたったこれだけなのでございます。

 

[_]
[A]砂ぽこり
のなかの楠公さんの境内は、おきまりの鳩と絵ハガキ屋が出ている。私は水の涸れた六角型の噴水の石に腰を降ろして、日傘で風を呼びながら、晴れた青い空を見ていた。あんまりお天陽様が強いので、何もかもむき出しにぐんにゃりしている。

 何年昔になるだろう――十五位の時だったかしら、私はトルコ人の楽器屋に奉公をしていたのを思い出した。ニイーナという二ツになる女の子のお守りで黒いゴム輪の腰高な乳母車に、よくその子供を乗っけてはメリケン波止場の方を歩いたものだった。――鳩が足元近く寄って来ている。人生鳩に生れるべし。私は、東京の生活を思い出して涙があふれた。

 一生たったとて、いったい何時の日には、私が何千円、何百円、何十円、たった一人のお母さんに送ってあげる事が出来るのだろうか……、私を可愛がって下さる、行商をしてお母さんを養っている気の毒なお義父さんを慰めてあげる事が出来るのだろうか……、何も満足に出来ない私である。ああ全く考えてみれば、頭が痛くなる話だ。「もし、あんたはん! 暑うおまっしゃろ、こっちゃいおはいりな……」噴水の横の鳩の豆を売るお婆さんが、豚小屋のような店から声をかけてくれた。私は人なつっこい笑顔で、お婆さんの親切に報いるべく、頭のつかえそうな、アンペラ張りの店へはいって行った。文字通り、それは小屋のような処で、バスケットに腰をかけると、豆くさいけれども、それでも涼しかった。ふやけた大豆が石油鑵の中につけてあった。ガラスの蓋をした二ツの箱には、おみくじや、固い昆布がはいっていて、それらの品物がいっぱいほこりをかぶっている。

「お婆さん、その豆一皿くださいな。」

 五銭の白銅を置くと、しなびた手でお婆さんは私の手をはらいのけた。

「ぜぜなぞほっときや。」

 このお婆さんにいくつですと聞くと、七十六だと云っていた。虫の食ったおヒナ様のようにしおらしい。

「東京はもう地震はなおりましたかいな。」

 歯のないお婆さんはきんちゃくをしぼったような口をして、優しい表情をする。

「お婆さんお上りなさいな。」

 私がバスケットからお弁当を出すと、お婆さんはニコニコして、口をふくらまして私の玉子焼を食べた。

「お婆さん、暑うおまんなあ。」

 お婆さんの友達らしく、腰のしゃんとしたみすぼらしい老婆が店の前にしゃがむと、

「お婆はん、何ぞええ、仕事ありまへんやろかな、でもな、あんまりぶらぶらしてますよって会長はんも、ええ顔しやはらへんのでなあ。なんぞ思うてまんねえ……」

「そうやなあ、栄町の宿屋はんやけど、蒲団の洗濯があるというてましたけんど、なんぼう二十銭も出すやろか……」

「そりゃええなあ、二枚洗うてもわて食えますがな……」

 こだわりのない二人のお婆さんを見ていると、こんなところにもこんな世界があるのかと、淋しくなった。

 とうとう夜になってしまった。港の灯のつきそめる頃はどこにも行きばのない気持ちになってしまう。朝から汗でしめっている着物の私は、ワッと泣きたい程切なかった。これでもへこたれないか! これでもか! 何かが頭をおさえつけているようで、私はまだまだへこたれるものかと口につぶやきながら、当もなく軒をひらって歩いていると、バスケット姿が、オイチニイの薬屋

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[47]
よりもはかなく思えた。お婆さんに聞いた商人宿はじきにわかった。全く国へ帰っても仕様のない私なのだ。お婆さんが、御飯炊きならあると云ったけれど、海岸通りに出ると、チッチッと舌を鳴らして行く船員の群れが多かった。

 船乗りは意気で勇ましくていいものだ。私は商人宿とかいてある行燈をみつけると、耳朶を熱くしながら、宿代を聞きにはいった。親切そうなお上さんが帳場にいて、泊りだけなら六十銭でいいと、旅心をいたわるように、「おあがりやす」と云ってくれた。三畳の壁の青いのが変に淋しかったが、朝からの着物を浴衣にきかえると、私は宿のお上さんに教わって近所の銭湯に行った。旅と云うものはおそろしいようでいて肩のはらないものだ。女達はまるで蓮の花のように小さい湯槽を囲んで、珍らしい言葉でしゃべっている。旅の銭湯にはいって、元気な顔はしているのだけれど、あの青い壁に押されて寝る今夜の夢を思うと、私はふっと悲しくなってきた。

(七月×日)

 坊さん簪買う云うた……窓の下を人夫たちが土佐節を唄いながら通って行く。爽かな朝風に、波のように蚊帳が吹き上っていて、まことに楽しみな朝の寝ざめなり、郷愁をおびた土佐節を聞いていると、高松のあの港が恋しくなってきた。私の思い出に何の汚れもない四国の古里よ。やっぱり帰りたいと思う……。ああ御飯炊きになっていたとこで仕様もないではありませんか。

 別れて来た男のバリゾウゴンを、私は唄のように天井に投げとばして、せいいっぱい息を吸った。「オーイ、オーイ」と船員達が窓の下で呼びあっている。私は宿のお上さんに頼んで、岡山行きの途中下車の切符を、除虫菊の仲買の人に一円で買ってもらうと、私は兵庫から高松行きの船に乗る事にした。

 元気を出して、どんな場合にでも、弱ってしまってはならない。小さな店屋で、瓦煎餅を一箱買うと、私は古ぼけた兵庫の船宿で高松行の切符を買った。やっぱり国へかえりましょう。――透徹した青空に、お母さんの情熱が一本の電線となって、早く帰っておいでと私を呼んでいる。私は不幸な娘でございます。汚れたハンカチーフに、氷のカチ割りを包んで、私は頬に押し当てていた。子供らしく子供らしく、すべては天真ランマンに世間を渡りましょう。

(十月×日)

 呆然として梯子段の上の汚れた地図を見ていると、夕暮れの日射しのなかに、地図の上は落莫とした秋であった。寝ころんで煙草を吸っていると、訳もなく涙がにじんで、何か佗しくなる。地図の上ではたった二三寸の間なのに、可哀想なお母さんは四国の海辺で、朝も夜も私の事を考えて暮らしているのでしょう――。風呂から帰って来たのか、階下で女達の姦しい声がする。妙に頭が痛い。用もない日暮れだ。

寂しければ海中にさんらんと入ろうよ、
さんらんと飛び込めば海が胸につかえる泳げば流るる、
力いっぱい踏んばれ岩の上の男。

 秋の空気があんまり青いので、私は白秋のこんな唄を思い出した。ああこの世の中は、たったこれだけの楽しみであったのだろうか。ヒイフウ……私は指を折って、ささやかな可哀想な自分の年齢を考えてみた。「おゆみさん! 電気つけておくれッ。」お上さんの癇高い声がする。おゆみさんか、おゆみとはよくつけたものなり。私の母さんは阿波の徳島十郎兵衛

[_]
[48]
。夕御飯のおかずは、いつもの通りに、するめの煮たのに、コンニャク、そばでは、出前のカツレツが物々しい示威運動で黄いろく揚っている。私の食欲はもう立派な機械になりきってしまって、するめがそしゃくされないうちに、私は水でそれをゴクゴク咽喉へ流し込むのだ。二十五円の蓄音器は、今晩もずいずいずっころばし、ごまみそずいだ。公休日で朝から遊びに出ていた十子が帰って来る。

「とても面白かったわ、新宿の待合室で四人も私を待っていたわよ、私は知らん顔をして見ててやったの……」

 その頃女給達の仲間には、何人もの客に一日の公休日を共にする約束をしては一つの場所に集合をさせてすっぽかす事が流行っていた。

「私、今日は妹を連れて映画を見たのよ、自腹だから、スッテンテンになってしまったわ、かせがなくちゃ場銭も払えない。」

 十子は汚れたエプロンを胸にかけ、皆にお土産の甘納豆をふるまっている。

 今日は月の病気、胸くるしくって、立っている事が辛い。

(十月×日)

 折れた鉛筆のように、女達は皆ゴロゴロ眠っている。雑記帳のはじにこんな手紙をかいてみる。――生きのびるまで生きて来たという気持ちです。随分長い事会いませんね、神田でお別れしたきりですもの……。もう、しゃにむに淋しくてならない、広い世の中に可愛がってくれる人がなくなったと思うと泣きたくなります。いつも一人ぼっちのくせに、他人の優しい言葉をほしがっています。そして一寸でも優しくされると嬉し涙がこぼれます。大きな声で深夜の街を唄でもうたって歩きたい。夏から秋にかけて、異状体になる私は働きたくっても働けなくなって弱っています故、自然と食べる事が困難です。金が欲しい。白い御飯にサクサクと歯切れのいい沢庵でもそえて食べたら云う事はありませんのに、貧乏をすると赤ん坊のようになります。明日はとても嬉しいんですよ。少しばかりの稿料がはいります。それで私は行けるところまで行ってみたいと思います。地図ばかり見ているんですが、ほんとに、何の楽しさもないこのカフェーの二階で、私を空想家にするのは梯子段の上の汚れた地図ばかりなのです。ひょっとしたら、裏日本の市振と云う処へ行くかも知れません。生きるか死ぬるか、兎に角旅へ出たいと思っております。

 弱き者よの言葉は、そっくり私に頂戴出来るんですけれど、それでいいと思います。野性的で行儀作法を知らない私は、自然へ身を投げかけてゆくより仕方がありません。此儘の状態では、国への仕送りも出来ないし、私の人に対して済まない事だらけです。私はがまん強く笑って来ました。旅へ出たら、当分田舎の空や土から、健康な息を吹きかえすまで、働いて来るつもりです。体が悪いのが、何より私を困らせます。それに又、あの人も病気ですし、厭になってしまう。金がほしいと思います。伊香保の方へ下働きの女中にでもと談判をしたのですが、一年間の前借百円也ではあんまりだと思います。――何のために旅をするとお思いでしょうけれど、兎に角、此儘の状態では、私はハレツしてしまいますよ。人々の思いやりのない悪口雑言の中に生きて来ましたが、もう何と云われたっていいと思います。私はへこたれてしまいました。冬になったら、十人力に強くなってお目にかかりましょう。とにかく行くところまで行きます。私の妻であり夫であるたった一ツの真黄な詩稿を持って、裏日本へ行って来ます。お体を大切に、さようなら――

 フッツリ御無沙汰をしていてすみません。

 お体は相変らずですか、神経がトゲトゲしているあなたにこんな手紙を差し上げるとあなたは、ひねくれた笑いをなさるでしょう。私、実さい涙がこぼれるのです。いくら別れたと云っても、病気のあなたのことを考えると、佗しくなります。困った事や、嬉しかった思い出も、あなたのひねくれた仕打ちを考えると、恨めしく味気なくなります。一円札二枚入れて置きました。怒らないで何かにつかって下さい。あの女と一緒にいないんですってね、私が大きく考え過ぎたのでしょうか。秋になりました。私の唇も冷たく凍ってゆきます。あなたとお別れしてから……。たいさんも裏で働いています。

 ――オカアサン。

 オカネ、オクレテ、スミマセン。

 アキニ、ナッテ、イロイロ、モノイリガ、シテオクレマシタ。

 カラダハ、ゲンキデショウカ、ワタシモ、ゲンキデス。コノアイダ、オクッテ、クダサッタ、ハナノクスリ、オツイデノトキニ、スコシオクッテクダサイ。センジテノムト、ノボセガ、ナオッテ、カオリガヨロシイ。

 オカネハ、イツモノヨウニ、ハンヲ、オシテ、アリマスカラ、コノママキョクヘ、トリニユキナサイ。

 オトウサンノ、タヨリアリマスカ、ナニゴトモ、トキノクルマデ、ノンキニシテイナサイ、ワタシモ、コトシハ、アクネンユエ、タダジットシテイマス。

 ナニヨリモ、カラダヲ、タイセツニ、イノリマス。フウトウヲ、イレテオキマス、ヘンジヲクダサイ。

 私は顔中を涙でぬらしてしまった。せぐりあげても、せぐりあげても泣き声が止まない。こうして一人になって、こんな荒さんだカフェーの二階で手紙を書いていると、一番胸に来るのは、老いた母のことばかりである。私がどうにかなるまで死なないでいて下さい。此儘であの海辺で死なせるのはみじめすぎると思う。あした局へ行って一番に送ってあげよう。帯芯の中には、ささけた一円札が六七枚もたまっている。貯金帳は出たりはいったりでいくらもない。木枕に頭をふせているとくるわの二時の拍子木がカチカチ鳴っていた。

(十月×日)

 窓外は愁々とした秋景色である。小さなバスケット一つに一切をたくして、私は興津行きの汽車に乗っている。土気を過ぎると小さなトンネルがあった。

サンプロンむかしロオマの巡礼の
知らざる穴を出でて南す。

 私の好きな万里の歌である。サンプロンは、世界最長のトンネルだと聞いていたけれど、一人のこうした当のない旅でのトンネルは、なぜかしんみりとした気持ちになる。海へ行く事がおそろしくなった。あの人の顔や、お母さんの思いが、私をいたわっている。海まで走る事がこわくなった。――三門で下車する。燈火がつきそめて駅の前は桑畑。チラリホラリ藁屋根が目についてくる。私はバスケットをさげたままぼんやり駅に立っていた。

「ここに宿屋がありますでしょうか?」

「この先の長者町までいらっしゃるとあります。」

 私は日在浜を一直線に歩いていた。十月の外房州の海は黒くもりあがっていて、海のおそろしいまでな情熱が私をコウフンさせてしまった。只海と空と砂浜ばかりだ。それもあたりは暮れそめている。この大自然を見ていると、なんと人間の力のちっぽけな事よと思うなり。遠くから、犬の吠える声がする。かすりの半纏を着た娘が、一匹の黒犬を連れて、歌いながら急いで来た。波が大きくしぶきすると犬はおびえたようにキリッと首をもちあげて海へ向って吠えた。遠雷のような海の音と、黒犬の唸り声は何かこわい感じだ。

「此辺に宿屋はありませんか?」

 この砂浜にたった一人の人間であるこの可憐な少女に私は呼びかけてみた。

「私のうちは宿屋ではないけれど、よかったらお泊りなさい。」

 何の不安もなく、その娘は私を案内してくれた。うすむらさきのなぎなたほおずきを、器用に鳴らしながら、娘は私を連れて家へ引返してくれた。

 日在浜のはずれで、丁度長者町にかかった砂浜の小さな破船のような茶屋である。この茶屋の老夫婦は、気持ちよく風呂をわかしてくれたりした。こんな伸々と自然のままな姿で生きていられる世界もある。私は、都会のあの荒れた酒場の空気を思い出すさえおそろしく思った。天井には、何の魚なのか、魚の尻尾の乾いたのが張りつけてある。

 この部屋の電気も暗ければ此旅の女の心も暗い。あんなに憧憬れていた裏日本の秋は見る事が出来なかったけれども、この外房州は裏日本よりも豪快な景色である。市振から親不知へかけての民家の屋根には、沢庵石のようなのが沢山置いてあった。線路の上まで白いしぶきのかかるあの蒼茫たる町、崩れた崖の上にとげとげと咲いていたあざみの花、皆、何年か前のなつかしい思い出である。私は磯臭い蒲団にもぐり込むと、バスケットから、コロロホルムのびんを出して一二滴ハンカチに落した。このまま消えてなくなりたい今の心に、じっと色々な思いにむせている事がたまらなくなって、私は厭なコロロホルムの匂いを押し花のように鼻におし当てていた。

(十一月×日)

 遠雷のような汐鳴りの音と、窓を打つ瀟々たる雨の音に、私がぼんやり目を覚ましたのは十時頃だったろうか、コロロホルムの酢のような匂いが、まだ部屋中に流れているようで、私はそっと窓を開けた。入江になった渚には蒼く染ったような雨が煙っていた。しっとりとした朝である。母屋でメザシを焼く匂いがする。――昼からあんまり頭が痛むので、娘と二人で黒犬を連れて、日在浜の方へ散歩に出て見た。渚近い漁師の家では、女や子供たちが三々五々群れていて、生鰯を竹串につきさしていた。竹串にさされた生鰯が、むしろの上にならんで、雨あがりの薄陽がその上に銀を散らしている。娘は馬穴にいっぱい生鰯を入れてもらうとその辺の雑草を引き抜いてかぶせた。

「これで十銭ですよ。」帰り道、娘は重そうに馬穴を私の前に出してこう云った。

 夜は生鰯の三バイ酢に、海草の煮つけに生玉子の御馳走だった。娘はお信さんと云って、お天気のいい日は千葉から木更津にかけて魚の干物の行商に歩くのだそうである。店で茶をすすりながら、老夫婦にお信さんと雑談をしていると、水色の蟹が敷居の上をゴソゴソ這って行く。生活に疲れ切った私は、石ころのように動かないこの人達の生活を見ていると、何となく羨ましくなって来る。風が出たのか、雨戸が難破船のようにゆれて、チエホフの小説にでもありそうな古風な浜辺の宿なり。十一月にはいると、こんへんではもう足の裏がつめたい。

(十一月×日)

富士を見た
富士山を見た
赤い雪でも降らねば
富士をいい山だと賞めるには当らない。
あんな山なんかに負けてなるものか
汽車の窓から何度も思った回想
尖った山の心は
私の疲れた生活を脅かし
私の眼を寒々と見下ろす。
富士を見た
富士山を見た
烏よ
あの山の尾根から頂上へと飛び越えて行け
真紅な口でひとつ嘲笑ってやれ
風よ!
富士は雪の大悲殿だ
ビュン、ビュン吹きまくれ
富士山は日本のイメージーだ
スフィンクスだ
夢の濃いノスタルジヤだ
魔の住む大悲殿だ。
富士を見ろ
富士山を見ろ
北斎の描いたかつてのお前の姿の中に
若々しいお前の火花を見たけれど
今は老い朽ちた土まんじゅう
ギロギロした眼をいつも空にむけているお前
なぜ不透明な雪の中に逃避しているのだ
烏よ風よ
あの白々とさえかえった
富士山の肩を叩いてやれ
あれは銀の城ではない
不幸のひそむ雪の大悲殿だ
富士山よ!
お前に頭をさげない女がここにひとり立っている
お前を嘲笑している女がここにいる。
富士山よ富士よ
颯々としたお前の火のような情熱が
ビュンビュン唸って
ゴウジョウな此女の首を叩き返すまで
私はユカイに口笛を吹いて待っていよう。

 私はまた元のもくあみだ。胸にエプロンをかけながら二階の窓をあけに行くと、遠い向うに薄い富士山が見えた。あああの山の下を私は幾度か不幸な思いをして行き帰りした事である。でもたとえ小さな旅でも、二日の外房州のあの寥々たる風景は、私の魂も汚れのとれた美しいものにしてくれた。野中の一本杉の私は、せめてこんな楽しみでもなければやりきれない。明日から紅葉デーで、私達は狂人のような真紅な着物のおそろいだそうである。都会の人間はあとからあとから、よくもこんなはずかしくもない、コッケイな趣向を思いつくものだと思う。又新らしい女が来ている。今晩もお面のように白粉をつけて、二重な笑いでごまかしか……うきよとはよくも云い当てしものかな――。留守中、母から、さらしの襦袢が二枚送って来ていた。

(一月×日)

 カフェーで酔客にもらった指輪が思いがけなく役立って、十三円で質に入れると私と時ちゃんは、千駄木の町通りを買物しながら歩いた。古道具屋で箱火鉢と小さい茶ブ台を買ったり、沢庵や茶碗や、茶呑道具まで揃えると、あとは半月分あまりの間代をいれるのがせいいっぱいだった。十三円の金の他愛なさよ。

 寒い息を吐きながら、二人が重い荷物を両方から引っぱって帰った時は、丁度十時近かった。

「一寸! 前のうちねえ、小唄の師匠さんよ、ホラ……いいわね。」

傘さして
かざすや廓の花吹雪
この鉢巻は過ぎしころ
紫におう江戸の春

 目と鼻の路地向うの二階屋から、沈んだ三味線の音〆がきこえている。細目にあけた雨戸の蔭には、お隣の灯の明るい障子のこまかいサンが見える。

「お風呂は明日にして寝ましょう、上蒲団は借りたのかしら?」

 時ちゃんはピシャリと障子を締めた。――敷蒲団はたいさんと私と一緒の時代のがたいさんが小堀さんのところへお嫁に行ったので残っていた。あの人は鍋も庖丁も敷蒲団も置いて行ってしまった。一番なつかしく、一番厭な思い出の残った本郷の酒屋の二階を私は思い出していた。同居の軍人上りや二階でおしめを洗ったその細君や、人のいい酒屋の夫婦や、用が片づいたら、あの頃の日記でも出して読みましょう。

「どうしたかしら、たい子さん?」

「あのひとも、今度こそは幸福になったでしょう。小堀さん、とても、ガンジョウないい人だそうだから、誰が来ても負けないわ……」

「いつか遊びに連れて行ってね。」

 二人は、階下の小母さんから借りた上蒲団をかぶって寝た。日記をつける。

 一、拾参円の内より

茶ブ台   壱円。 箱火鉢   壱円。 シクラメン一鉢   参拾五銭。 飯茶わん   弐拾銭。   二個。 吸物わん   参拾銭。   二個。 ワサビヅケ   五銭。 沢庵   拾壱銭。 箸   五銭。   五人前。 茶呑道具盆つき   壱円拾銭。 桃太郎の蓋物   拾五銭。 皿   弐拾銭。   二枚。 間代日割り   六円。(三畳九円) 火箸   拾銭。 餅網   拾弐銭。 ニュームのつゆ杓子   拾銭。 御飯杓子   参銭。 鼻紙一束   弐拾銭。 肌色美顔水   弐拾八銭。 御神酒   弐拾五銭。一合。 引越し蕎麦   参拾銭。階下へ。

 一、壱円拾六銭 残金。

「たったこれだけじゃ、心細いわねえ……」

 私は鉛筆のしんで頬っぺたを突つきながら、つんと鼻の高い時ちゃんの顔をこっちに向けて日記をつけた。

「炭はあるの?」

「炭は、階下の小母さんが取りつけの所から月末払いで取ってやるって云ったわ。」

 時ちゃんは安心したように、銀杏がえしのびんを細い指で持ち上げて、私の背中に凭れている。

「大丈夫ってばさ、明日からうんと働くから元気を出して勉強してね。浅草を止めて、日比谷あたりのカフェーなら通いでいいだろうと思うの、酒の客が多いんだって、あの辺は……」

「通いだと二人とも楽しみよねえ、一人じゃ御飯もおいしくないじゃないの。」

 私は煩雑だった今日の日を思った。――萩原さんとこのお節ちゃんに、お米も二升もらったり、画描きの溝口さんは、折角北海道から送って来たと云う餅を、風呂敷に分けてくれたり、指輪を質屋へ持って行ってくれたりした。

「当分二人で一生懸命働こうね、ほんとに元気を出して……」

「雑色のお母さんのところへは、月に三十円も送ればいいんだから。」

「私も少し位は原稿料がはいるんだから、沈黙って働けばいいのよ。」

 雪の音かしら、窓に何かササササと当っている音がしている。

「シクラメンって厭な匂いだ。」

 時ちゃんは、枕元の紅いシクラメンの鉢をそっと押しやると、簪も櫛も枕元へ抜いて、「さあ寝んねしましょう。」と云った。暗い部屋の中では、花の匂いだけが強く私達をなやませた。

(二月×日)

積る淡雪積ると見れば
消えてあとなき儚なさよ
柳なよかに揺れぬれど
春は心のかわたれに……。

 時ちゃんの唄声でふっと目を覚ますと、枕元に白い素足がならんでいた。

「あら、もう起きたの。」

「雪が降ってるのよ。」

 起きると湯もわいていて、窓外の板の上で、御飯がグツグツ白く吹きこぼれていた。

「炭はもう来たのかしら?」

「階下の小母さんに借りたのよ。」

 いつも台所をした事のない時ちゃんが、珍らしそうに、茶碗をふいていた。久し振りに猫の額程の茶ブ台の上で、幾年にもない長閑なお茶を呑むなり。

「やまと館の人達や、当分誰にもところを知らさないでおきましょうね。」

 時ちゃんはコックリをして、小さな火鉢に手をかざしている。

「こんなに雪が降っても出掛ける?」

「うん。」

「じゃあ私も時事新聞の白木さんに会ってこよう。童話が行ってるから。」

「もらえたら、熱いものをこしらえといて、あっちこっち行って見るから、私はおそくなることよ。」

 初めて、隣の六畳の古着屋さん夫婦にもあいさつをする。鳶の頭をしていると云う階下のお上さんの旦那にも会う。皆、歯ぎれがよくて下町人らしい人達だ。

「此家も前は道路に面していたんですよ。でも火事があってねえ。こんなところへ引っこんじゃって……うちの前はお妾さん、路地のつきあたりは清元でこれは男の師匠でしてね、やかましいには、やかましゅうござんすがね……」

 私はおはぐろで歯をそめているお上さんを珍らしく見ていた。

「お妾さんか、道理で一寸見たけどいい女だったわよ。」

「でも階下の小母さんがあんたの事を、この近所には一寸居ない、いい娘ですってさ。」

 二人は同じような銀杏返しをならべて雪の町へ出て行った。雪はまるで、気の抜けた泡のように、目も鼻もおおい隠そうとする程、やみくもに降っている。

「金もうけは辛いね。」雪よドンドン降ってくれ、私が埋まる程、私はえこじに傘をクルクルまわして歩いた。どの窓にも灯のついている八重洲の大通りは、紫や、紅のコートを着た勤めがえりの女の人達が、雪にさからって歩いている。コートも着ない私の袖は、ぐっしょり濡れてしまって、みじめなヒキ蛙のようだ。――白木さんはお帰りになった後か、そうれ見ろ! これだから、やっぱりカフェーで働くと云うのに、時ちゃんは勉強をしろと云うなり。新聞社の広い受付に、このみじめな女は、かすれた文字をつらねて困っておりますからとおきまりの置手紙を書いた。

 だが時事のドアは面白いな。クルリクルリ、まるで水車のようだ。クルリと二度押すと、前へ逆もどりしている。郵便屋が笑っていた。何と小さな人間たちよ。ビルディングを見上げると、お前なんか一人生きてたって、死んだって同じじゃないかといっているようだ。だけど、あのビルディングを売ったら、お米も間代も一生はらえて、古里に長い電報が打てるだろう。成金になるなんて云ってやったら邪けんな親類も、冷たい友人もみんな、驚くことだろう。あさましや芙美子よ、消えてしまえ。時ちゃんは、かじかんでこの雪の中を野良犬のように歩いているんだろうに――。

(二月×日)

 ああ今晩も待ち呆け、箱火鉢で茶をあたためて時間はずれの御飯をたべる。もう一時すぎなのに――。昨夜は二時、おとといは一時半、いつも十二時半にはきちんと帰っていた人が、時ちゃんに限ってそんな事もないだろうけれど……。茶ブ台の上には書きかけの原稿が二三枚散らばっている。もう家には十一銭しかないのだ。

 きちんきちんと、私にしまわせていた十円たらずのお金を、いつの間にか持って出てしまって、昨日も聞きそこなってしまったけれど、いったいどうしたのかしらと思う。

 蒸してはおろし蒸してはおろしするので、うむし釜の御飯はビチャビチャしていた。蛤鍋の味噌も固くなってしまった。私は原稿も書けないので、机を鏡台のそばに押しやって、淋しく床をのべる。ああ髪結さんにも行きたいものだ。もう十日あまりも銀杏返しをもたせているので、頭の地がかゆくて仕方がない。帰って来る人が淋しいだろうと、電気をつけて、紫の布をかけておく。

 三時。

 下のお上さんのブツブツ云う声に目を覚ますと、時ちゃんが酔っぱらったような大きな跫音で上って来た。酔っぱらっているらしい。

「すみません!」

 蒼ざめた顔に髪を乱して、紫のコートを着た時ちゃんが、蒲団の裾にくず折れると、まるで駄駄ッ子のように泣き出してしまった。私は言葉をあんなに用意してまっていたのだけれど、一言も云えなくなってしまって沈黙っていた。

「さようならア時ちゃん!」

 若々しい男の声が窓の下で消えると、路地口で間抜けた自動車の警笛が鳴っていた。

(二月×日)

 二人共面伏せな気持ちで御飯をたべた。

「此頃は少しなまけているから、あなたは梯子段を拭いてね、私は洗濯するから……」

「ええ私するから、ここほっといていいよ。」

 寝ぶそくなはれぼったい時ちゃんの瞼を見ていると、たまらなくいじらしくなって来る。

「時ちゃん、その指輪はどうして?」

 かぼそい薬指に、白い石が光って台はプラチナだった。

「その紫のコートはどうしたのよ?」

「…………」

「時ちゃんは貧乏がいやになってしまったのねえ?」

 私は階下の小母さんに顔を合せる事は肌が痛いようだった。

「姉さん! 時坊は少しどうかしてますよ。」

 水道の水と一緒に、小父さんの言葉が痛く胸に来た。

「近所のてまえがありまさあね、夜中に自動車をブウブウやられちゃあね、町内の頭なんだから、一寸でも風評が立つと、うるさくてね……」

 ああ御もっとも様で、洗いものをしている背中にビンビン言葉が当って来る。

(二月×日)

 時ちゃんが帰らなくなって今日で五日である。ひたすら時ちゃんのたよりを待っている。彼女はあんな指輪や紫のコートに負けてしまっているのだ。生きてゆくめあてのないあの女の落ちて行く道かも知れないとも思う。あんなに、貧乏はけっして恥じゃないと云ってあるのに……十八の彼女は紅も紫も欲しかったのだろう。私は五銭あった銅銭で駄菓子を五ツ買って来ると、床の中で古雑誌を読みながらたべた。貧乏は恥じゃあないと云ったもののあと五ツの駄菓子は、しょせん私の胃袋を済度

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してはくれぬ。手を延ばして押入れをあけて見る。白菜の残りをつまみ、白い御飯の舌ざわりを空想するなり。

 何もないのだ。涙がにじんで来る。電気でもつけましょう……。駄菓子ではつまらないと見えて腹がグウグウ辛気に鳴っている。隣の古着屋さんの部屋では、秋刀魚を焼く強烈な匂いがしている。

 食欲と性慾! 時ちゃんじゃないが、せめて一碗のめしにありつこうかしら。

 食欲と性慾! 私は泣きたい気持ちで、この言葉を噛んでいた。

(二月×日)

何にも云わないでかんにんして下さい。指輪をもらった人に脅迫されて、浅草の待合に居ます。このひとにはおくさんがあるんですけれど、それは出してもいいって云うんです。笑わないで下さいね。その人は請負師で、今四十二のひとです。 着物も沢山こしらえてくれましたの、貴女の事も話したら、四十円位は毎月出してあげると云っていました。私嬉しいんです。

 読むにたえない時ちゃんの手紙の上に私はこんな筈ではなかったと涙が火のように溢れていた。歯が金物のようにガチガチ鳴った。私がそんな事をいつたのんだのだ! 馬鹿、馬鹿、こんなにも、こんなにも、あの十八の女はもろかったのかしら……目が円くふくれ上って、何も見えなくなる程泣きじゃくっていた私は、時ちゃんへ向って心で呼んで見た。

 所を知らせないで。浅草の待合なんて何なのよッ。

 四十二の男なんて!

 きもの、きもの。

 指輪もきものもなんだろう。信念のない女よ!

 ああ、でも、野百合のように可憐であったあの可愛い姿、きめの柔かい桃色の肌、黒髪、あの女はまだ処女だったのに。何だって、最初のベエゼをそんな浮世のボオフラのような男にくれてしまったのだろう……。愛らしい首を曲げて、春は心のかわたれに……私に唄ってくれたあの少女が、四十二の男よ呪われてあれだ!

「林さん書留ですよッ!」

 珍らしく元気のいい小母さんの声に、梯子段に置いてある封筒をとり上げると、時事の白木さんからの書留だった。金二十三円也! 童話の稿料だった。当分ひもじいめをしないでもすむ。胸がはずむ、ああうれしい。神さま、あんまり幸福なせいか、かえって淋しくて仕様がない。神様神様、嬉しがってくれる相棒が四十二の男に抱かれているなんて……。

 白木さんのいつものやさしい手紙がはいっている。いつも云う事ですが、元気で御奮闘御精励を祈りまつる。――私は窓をいっぱいあけて、上野の鐘を聞いた。晩はおいしい寿司でも食べましょう。

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[B]

(一月×日)

私は野原へほうり出された赤いマリ
力強い風が吹けば
大空高く
鷲の如く飛びあがる
おお風よ叩け
燃えるような空気をはらんで
おお風よ早く
赤いマリの私を叩いてくれ

(一月×日)

 雪空。

 どんな事をしてでも島へ行ってこなくてはいけない。島へ行ってあのひとと会って来よう。

「こっちが落目になったけん、馬鹿にしとるとじゃろ。」

 私が一人で島へ行く事をお母さんは賛成をしていない。

「じゃア、今度島へお母さん達が行くときには連れて行って下さい。どうしても会って話して来たいもの……」

 私に「サーニン」

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を送ってよこして、恋を教えてくれた男じゃないか、東京へ初めて連れて行ったのもあの男、信じていいと云ったあのひとの言葉が胸に来る。――波止場には船がついたのか、低い雲の上に、船の煙がたなびいていた。汐風が胸の中で大きくふくらむ。

「気持ちのなくなっているものに、さっちついて行く事もないがの……サイナンと思うてお母さん達と一緒に又東京へ行った方がええ。」

「でも、一度会うて話をして来んことには、誰だって行き違いと云う事はあるもの……」

「考えてみなさい、もう去年の十一月からたよりがないじゃないかの、どうせ今は正月だもの、本気に考えがあれば来るがの、あれは少し気が小さいけん仕様がない。酉年はどうもわしはすかん。」

 私は男と初めて東京へ行った一年あまりの生活を思い出した。

 晩春五月のことだった。散歩にいった雑司ケ谷の墓地で、何度も何度もお腹をぶっつけては泣いた私の姿を思い出すなり。梨のつぶてのように、私一人を東京においてけぼりにすると、いいかげんな音信しかよこさない男だった。あんなひとの子供を産んじゃア困ると思った私は、何もかもが旅空でおそろしくなって、私は走って行っては墓石に腹をドシンドシンぶっつけていたのだ。男の手紙には、アメリカから帰って来た姉さん夫婦がとてもガンコに反対するのだと云っている。家を出てでも私と一緒になると云っておいて、卒業あと一年間の大学生活を私と一緒にあの雑司ケ谷でおくったひとだのに、卒業すると自分一人でかえって行ってしまった。あんなに固く信じあっていたのに、お養父さんもお母さんも忘れてこんなに働いていたのに、私は浅い若い恋の日なんて、うたかたの泡より果敢ないものだと思った。

「二三日したら、わしも商売に行くけん、お前も一度行って会うて見るとええ。」

  そろばんを入れていたお養父さんはこう云ってくれたりした。尾道の家は、二階が六畳二間、階下は帆布と煙草を売るとしより夫婦が住んでいる。

「随分此家も古いのね。」

「あんたが生れた頃、此家は建ったんですよ。十四五年も前にゃア、まだ此道は海だったが、埋立して海がずっと向うへ行きやんした。」

 明治三十七年生れのこの煤けた浜辺の家の二階に部屋借りをして、私達親子三人の放浪者は気安さを感じている。

「汽車から見て、この尾道はとても美しかったもんのう。」

 港の町は、魚も野菜もうまいし、二度目の尾道帰りをいつもよろこんでいて、母は東京の私へ手紙をよこしていた。帰ってみると、家は違っていても、何もかもなつかしい。行李から本を出すと、昔の私の本箱にはだいぶ恋の字がならんでいる。隣室は大工さん夫婦、お上さんはだるま上り

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の白粉の濃い女だった。今晩、町は、寒施行なので、暗い寒い港町には提燈の火があっちこっち飛んでいた。赤飯に油揚げを、大工さんのお上さんは白粉くさい手にいっぱいこんなものを持って来てくれた。

「おばさんは、二三日うち島へ行きなさるな?」

「この十五日が工場の勘定日じゃけん、メリヤスを少し持って行こうと思ってますけに……」

「私のうちも船の方じゃあ仕事が日がつまんから、何か商売でもしたら云うて、繻子足袋の再製品を聞いたんじゃけど、どんなもんだろうな?」

「そりゃアよかろうがな、職工は此頃景気がよかとじゃけん、品さえよけりゃ買うぞな、商売は面白かもん私と行ってみなさい、これに手伝わせてもええぞな。」

「そいじゃ、おばさんと一緒にお願い申しましょう。」

 船大工もこのごろ工賃が安くて人が多いし、寒い浜へ出るのは引きあわない話だそうな。

 夕方。

 ドックに勤めている金田さんが、「自然と人生」

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と云う本を持って来てくれる。金田さんは私の小学校友達なり。本を読む事が好きな人だ。桃色のツルツルしたメクリがついていて、表紙によしの芽のような絵が描いてあった。

 ――勝てば官軍、負けては賊の名をおわされて、降り積む雪を落花と蹴散し。暗くなるまで波止場の肥料置場でここを読む。紫のひふを着た少女の物語り、雨後の日の夜のあばたの女の物語など、何か、若い私の胸に匂いを運んでくれる。金田さんは、みみずのたわごとが面白いと云っていた。十時頃、山の学校から帰って来ると、養父さんが、弄花をしに行ってまだ帰らないのだと母は心配していた。こんな寒い夜でもだるま船が出るのか、お養父さんを迎えに町へ出てみると、雁木についたランチから白い女の顔が人魂のようにチラチラしていた。いっそ私も荒海に身を投げて自殺してあの男へ情熱を見せてやろうかしらとも思う。それともひと思いに一直線に墜落して、あの女達の群にはいってみようかと思う。

(一月×日)

 島で母達と別れると、私は磯づたいに男の村の方へ行った。一円で買った菓子折を大事にかかえて因の島の樋のように細い町並を抜けると、一月の寒く冷たい青い海が漠々と果てもなく広がっていた。何となく胸の焼ける思いなり。あのひととはもう三カ月も会わないのだもの、東京での、あの苦しかった生活をあのひとはすぐ思い出してくれるだろう……。丘の上は一面の蜜柑山、実のなったレモンの木が、何か少女時代の風景のようでとてもうれしかった。

 牛二匹。腐れた藁屋根。レモンの丘。チャボが花のように群れた庭。一月の太陽は、こんなところにも、霧のような美しい光芒を散らしていた。畳をあげた表の部屋には、あのひとの羽織がかけてあった。こんな長閑な住居にいる人達が、どうして私の事を、馬の骨だの牛の骨だのなんかと云うのだろうか、沈黙って砂埃のしている縁側に腰をかけていると、あの男のお母さんなのだろう、煤けて背骨のない藁人形のようなお婆さんが、鶏を追いながら裏の方から出て来た。

「私、尾道から来たんでございますが……」

「誰をたずねておいでたんな。」

 声には何かトゲトゲとした冷たさがあった。私は誰を尋ねて来たかと訊かれると、少女らしく涙があふれた。尾道でのはなし、東京でのはなし、私は一年あまりのあのひととの暮しを物語って見た。

「私は何も知らんけん、そのうち又誰ぞに相談しときましょう。」

「本人に会わせてもらえないでしょうか。」

 奥から、あのひとのお父さんなのか、六十近い老人が煙管を吹き吹き出て来る。結局は、アメリカから帰った姉さん夫婦が反対の由なり。それに本人も此頃造船所の庶務課に勤めがきまったので、あんまり幸福を乱さないでくれと云う事だった。こんな煤けたレモンの山裾に、数万円の財産をお守りして、その日その日の食うものもケンヤクしている百姓生活。あんまり人情がないと思ったのか、あのひとのお父さんは、今日は祭だから、飯でも食べて行けと云った。女は年を取ると、どうして邪ケンになるものだろう。お婆さんはツンとして腰に縄帯を巻いた姿で、牛小屋にはいって行った。真黒いコンニャクの煮〆と、油揚げ、里芋、雑魚の煮つけ、これだけが祭の御馳走である。縁側で涙をくくみながらよばれていると、荒れた水田の小道を、なつかしい顔が帰って来ている。

 私を見ると、気の弱い男は驚いて眼をタジタジとさせていた。

「当分は、一人で働きたいと云っとるんじゃから、帰ってもおこらんで、気ながに待っておって下さい。何しろあいつの姉の云う事には、一軒の家もかまえておらん者の娘なんかもらえんと云うのだから……」

 お父さんの話だ。あのひとは沈黙って首をたれていた。――どう煎じ詰めても、あんなにも勇ましいと思っていた男が沈黙っていて一言も云ってくれないのでは、私が百万べん云っても動いてくれるような親達ではない。私は初めて空漠とした思いを感じた。男と女の、あんなにも血も肉も焼きつくような約束が、こんなにたあいもなく崩れて行くものだろうかと思う。私は菓子折をそこへ置くと、蜜柑山に照りかえった黄いろい陽を浴びて村道に出た。あの男は、かつてあの口から、こんなことを云ったことがある。

「お前は、長い間、苦労ばかりして来たのでよく人をうたがうけれども、子供になった気持ちで俺を信じておいで……」

 一月の青く寒く光っている海辺に出ると、私はぼんやり沖を見ていた。

「婆さんが、こんなものをもらう理由はないから、返して来いと云うんだよ。」

 私に追いすがった男の姿、お話にならないオドオドした姿だった。

「もらう理由がない? そう、じゃ海へでもほかして下さい。出来なければ私がします。」

 男から菓子折を引き取ると、私はせいいっぱいの力をこめてそれを海へ投げ捨てた。

「とても、あの人達のガンコさには勝てないし、家を出るにも、田舎でこそ知人の世話で仕事があるんだが、東京なんかじゃ、大学出なんか食えないんだからね。」

 私は沈黙って泣いていた。東京での一年間、私は働いて此男に心配かけないでいた心づかいを淋しく思い出した。

「何でもいいじゃありませんか、怒って私が菓子折を海へ投げたからって、貴方に家を出て下さいなんて云うんじゃありませんもの。私はそのうち又ひとりで東京へ帰ります。」

 砂浜の汚い藻の上をふんで歩いていると、男も犬のように何時までも沈黙って私について来た。

「おくってなんかくれなくったっていいんですよ。そんな目先きだけの優しさなんてよして下さい。」

 町の入口で男に別れると、体中を冷たい風が吹き荒れるような気がした。会ったらあれも云おう、これも云おうと思っていた気持ちが、脆く叩き毀されている。東京で描いていたイメージイが愚にもつかなかったと思えて、私はシャンと首をあげると、灰色に蜿蜒と続いた山襞を見上げた。

 造船所の入口には店を出したお養父さんとお母さんが、大工のお上さんともう店をしまいかけていた。

「オイ、この足袋は紙でこしらえたのかね、はいたと思ったらじき破れたよ。」

 薬で黒く色染めしてあるので、はくとすぐピリッと破れるらしい。

「おばさん! 私はもう帰りますよ。皆おこって来そうで、おそろしいもん……」大工のお上さんは、再製品のその繻子足袋を一足七十銭に売っているんだからとても押しが太かった。大工の上さんが一船先へ帰ると云うので、私も連れになって、一緒に船着場へ行く。

「さあ、船を出しますで!」

 船長さんが鈴を鳴らすと、利休下駄をカラカラいわせていた大工の上さんは、桟橋と船に渡した渡し子をわたるとき、まだ半分も残っていた足袋の風呂敷包みを、コロリと海の中へ落してしまった。

「あんまり高いこと売りつけたんで、罰が当ったんだでな。」

 上さんはヤレヤレと云いながら、棒の先で風呂敷包みをすくい取っていた。

 皆、何も彼も過ぎてしまう。船が私の通った砂浜の沖に出ると、灯のついたようなレモンの山が、暮色にかすんでしまっていた。三カ月も心だのみに空想を描いていた私だのに、海の上の潮風にさからって、いつまでも私は甲板に出ていた。

(一月×日)

「お前は考えが少しフラフラしていかん!」

 養父さんは、東京行きの信玄袋をこしらえている私の後から云った。

「でもなお父さん、こんなところへおっても仕様のない事じゃし、いずれわし達も東京へ行くんだから、早くやっても、同じことじゃがな。」

「わし達と一緒に行くのならじゃが、一人ではあぶないけんのう。」

「それに、お前は無方針で何でもやらかすから。」

 御もっとも様でございます。方針なんて真面目くさくたてるだけでも信じられないじゃありませんか。方針なんてたてようもない今の私の気持ちである。大工のお上さんがバナナを買ってくれた。「汽車の中で弁当代りにたべなさいよ。」停車場の黒いさくに凭れて母は涙をふいていた。ああいいお養父さん! いいお母さん! 私はすばらしい成金になる空想をした。

「お母さん! あんたは、世間だの義理だの人情だのなんてよく云い云いしているけれども、世間だの義理だの人情だのが、どれだけ私達を助けてくれたと云うのです? 私達親子三人の世界なんてどこにもないんだからナニクソと思ってやって下さい。もうあの男ともさっぱり別れて来たんですからね。」

「親子三人が一緒に住めん云うてのう……」

「私は働いて、うんとお金持ちになりますよ、人間はおそろしく信じられないから、私は私一人でうんと身を粉にして働きますよ。」

 いつまでも私の心から消えないお母さん、私は東京で何かにありついたらお母さんに電報でも打ってよろこばせてやりたいと思った。――段々陽のさしそめて来る港町をつっきって汽車は山波の磯べづたいに走っている。私の思い出から、たんぽぽの綿毛のように色々なものが海の上に飛んで行った。海の上には別れたひとの大きな姿が虹のように浮んでいた。

(六月×日)

 烈々とした太陽が、雲を裂き空を裂き光っている。帯の間にしまった二通の履歴書は、ぐっしょり汗ばんでしまった。暑い。新富河岸の橋を曲線しながら、電車は新富座に突きささりそうに朽ちた本橋を渡って行く。坂本町で降りると、汚い公園が目の前にあった。金でもあれば氷のいっぱいも呑んで行くのだけれど、ああこのジトジトした汗の体臭はけいべつされるに違いない。石突きの長いパラソルの柄に頬をもたせて、公園の汚れたベンチに私は涼風をもとめてすずんでいた。

「オイ! 姉さん、五銭ほど俺にくんないかね……」

 驚いて振り返って見ると、垢まぶれな手拭を首に巻いた浮浪者が私の後に立っていた。

「五銭? 私二銭しか持たないんですよ、電車切符一枚と、それきり……」

「じゃア二銭おくれよ。」

 三十も過ぎているだろうこのガンジョウな男が、汗ばんだ二銭を私からもらうと、共同便所の方へ行ってしまった。あの人に二銭あげてあの人はあんなに喜んで行ったんだから、私にもきっといい事があるに違いない。玩具箱をひっくり返したような公園の中には、樹とおんなじように埃をかぶった人間が、あっちにもこっちにもうろうろしている。

 茅場町の交差点から一寸右へはいったところに、イワイと云う株屋がみつかった。薄暗い鉄格子のはまった事務室には遊び人風な男や、忙がし気に走りまわっている小僧やまるで人種の違ったところへ来た感じだった。

「月給は弁当つき三十五円でしてね、朝は九時から、ひけは四時です。ところで玉づけ

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が出来ますかね。」

「玉づけって何です?」

「簿記ですよ。」

「少しぐらいは出来ようと思います。」

 まあ、月給が弁当つき三十五円なんて! 何とすばらしい虹の世界だろう――。三十五円、これだけあれば、私は親孝行も出来る。

 お母さんや!

 お母さんや!

 あなたに十円位も送れたらあんたは娘の出世に胸がはちきれて、ドキドキするでしょうね。

「ええ玉づけだって、何だってやります。」

「じゃアやって見て下さい、そして二三日してからきめましょう――」

 白い絹のワイシャツを、帆のように扇風機の風でふくらましたこの頭の禿げた男は、私を事務机の前に連れて行ってくれた。大きな、まるで岩のような事務机を前にすると、三十五円の憂鬱が身にしみて、玉づけだって出来ますと云った事が、おそろしく思えてきた。小僧が持って来た大きい西洋綴りの帳面を開くと、それは複式簿記で、私の一寸知っている簿記とは、はるかに縁遠いものだった。目がくらみそうに汗が出る。生れてかつて見た事もないような、長い数字の行列、数字を毎日書き込んだり、珠算を入れるとなると、私は一日で完全に、キチガイになってしまうだろう。でも私は珠算をいかにもうまそうにパチパチ弾きながら子供の頃、算術で丙ばかりもらっていた事を思い出して、胸が冷たくなるような気がした。これだけの長い数字が、どれだけ我々の人生に必要なのだろうか、ふっと頭を上げると小僧が氷あずきをおやつに持って来てくれている。私は浅ましくてもううれし涙がこぼれそうだった。氷と数字、赤や青の直線、簿記棒でコツコツやりながら、でたらめな数字を書き込んだのが恐ろしくなっている。

 帰ってみたら電報が来ていた。

 シュッシャニオヨバズ。

 えへだ! あんなに大きい数字を毎日加えてゆかなくちゃならない世界なんて、こっちから行きたくもありませんよだ。成金になりたい理想も、あんな大きな数字でへこたれるようでは一生駄目らしい。

(六月×日)

 二階から見ると、赤いカンナの花が隣の庭に咲いている。

 昨夜、何かわけのわからない悲しさで、転々ところがりながら泣いた私の眼に、白い雲がとてもきれいだった。隣の庭のカンナの花を見ていると、昨夜の悲しみが又湧いて来て、カンナの花を見ていると、熱い涙が流れる。いまさら考えて見るけれど、生活らしいことも、恋人らしい好きなひとも、勉強らしい勉強も出来なかった自分のふがいなさが、凪の日の舟のように佗しくなってくる。こんどはとても好きなひとが出来たら、眼をつぶってすぐ死んでしまいましょう。こんど、生活が楽になりかけたら、幸福がズルリと逃げないうちにすぐ死んでしまいましょう。

 カンナの花の美しさは、瞬間だけの美しさだが、ああうらやましいお身分だよだ。またのよには、こんな赤いカンナの花にでも生れかわって来ましょう。昼から、千代田橋ぎわの株屋へ行ってみる。

 ――12345678910――

 これだけの数字を何遍も書かせられると、私は大勢の応募者達と戸外へ出ていった。女事務員入用とあったけれど、又、簿記をつけさせるのかしら、でも、沢山の応募者達を見ると、当分私は風の子供だ。

 明石の女もメリンスの女も、一歩外に出ると、睨みあいを捨ててしまっている。

「どちらへお帰りですの?」

 私はこの魚群のような女達に別れて、銀座まで歩いてみた。銀座を歩いていると、なぜか質屋へ行くことを考えている。とある陳列箱の中の小さな水族館では、茎のような細い鮎が、何尾も泳いでいた。銀座の舗道が河になったら面白いだろうと思う。銀座の家並が山になったらいいな、そしてその山の上に雪が光っていたらどんなにいいだろう……。赤煉瓦の舗道の片隅に、二銭のコマを売っている汚れたお爺さんがいた。人間って、こんな姿をしてまでも生きていなくてはならないのかしら、宿命とか運命なんて、あれは狐つきの云う事でしょうね、お爺さん! ナポレオンのような戦術家になって、そんな二銭のコマで停滞する事は止めて下さい。コマ売りの老人の同情を強いる眼を見ていると、妙に嘲笑してやりたくなる。あんなものと私と同族だなんて、ああ汚れたものと美しいものとけじめのつかない錯覚だらけのガタガタの銀座よ……家へかえったら当分履歴書はお休みだ。

空と風と
河と樹と
みんな秋の種子
流れて 飛んで

 夜。

 電気を消して畳に寝転んでいると、雲のない夜の空に大きい月が出ている。歪んだ月に、指を円めて覗き眼鏡していると、黒子のようなお月さん! どこかで氷を削る音と風鈴が聞える。

「こんなに私はまだ青春があるのです。情熱があるんですよお月さん!」両手を上げて何か抱き締めてみたい佗しさ、私は月に光った自分の裸の肩を此時程美しく感じた事はない。壁に凭れると男の匂いがする。ヅシンと体をぶっつけながら、何か口惜しさで、体中の血が鳴るように聞える。だが呆然と眼を開くと、血の鳴る音がすっと消えてお隣でやっている蓄音機のマズルカ

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の、ピジカット
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の沢山はいった嵐の音が美しく流れてくる。大陸的なそのヴァイオリンの音を聞いていると、明日のない自分ながら、生きなくては嘘だと云う気持ちが湧いて来るのだった。

(六月×日)

 おとつい行った株屋から速達が来た。×日より御出社を乞う。私は胸がドキドキした。今日から株屋の店員さんだ。私は目の前が明るくなった様な気がした。パラソルを二十銭で屑屋に売った。

 日立商会、これが私のこれからお勤めするところなり。隣が両替屋、前が千代田橋、横が鶏肉屋、橋の向うが煙草屋、電車から降りると、私は色んなものが豊かな気持ちで目についた。荻谷文子、これが私の相棒で、事務机に初めて差しむかいになると、二人共笑ってしまった。

「御縁がありましたのねイ。」

「ええ本当に、どうぞよろしくお願いします。」

 此人は袴をはいて来ているが、私も袴をはかなくちゃいけないのか知ら……。二人の仕事はおトクイ様に案内状を出す事と、カンタンな玉づけをならって行く事だった。相棒の彼女は、岐阜の生れで小学校の教師をしていたとかで、ネーと云う言葉が非常に強い。「そうしてねイ!」二人の小僧が真似をしては笑う。お昼の弁当も美味し、鮭のパン粉で揚げたのや、いんげんの青いの、ずいきのひたし、丹塗りの箱を両手にかかえて、私は遠いお母さんの事を思い出していた。

  ニイカイ サンヤリ

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[56]

 自転車で走って小僧がかえって来ると、店の人達は忙がしそうにそれを黒板に書きつけたり電話をしている。

「奥のお客さんにお茶を一ツあげて下さい。」

 重役らしい人が私の肩を叩いて奥を指差す。茶を持ってドアをあけると、黒眼鏡をかけた色の白い女のひとが、寒暖計の表のような紙に、赤鉛筆でしるしをつけていた。

「オヤ! これはありがとう、まあ、ここには女の人もいるのね、暑いでしょう……」

 黒ずくめの恰好をした女のひとは、帯の間から五十銭銀貨二枚を出すと、氷でも召し上れと云って、私の掌にのせてくれた。

 こんなお金を月給以外にもらっていいのか知ら……前の重役らしい人に聞くと、くれるものはもらっておきなさいと云ってくれた。社の帰り、橋の上からまだ高い陽をながめて、こんなに楽な勤めならば勉強も出来ると思った。

「貴女はまだ一人なの?」

 袴をはいて靴を鳴らしている彼女は、気軽そうに口笛を吹いて私にたずねた。

「私二十八なのよ、三十五円くらいじゃ食えないわね。」

 私は黙って笑っていた。

(七月×日)

 大分仕事も馴れた。朝の出勤はことに楽しい。電車に乗っていると、勤めの女達が、セルロイドの円い輪のついた手垂げ袋を持っている。月給をもらったら私も買いたいものだ。階下の小母さんは此頃少し機嫌よし。――社へ行くと、まだ相棒さんは見えなくて、若い重役の相良さんが一人で、二階の広い重役室で新聞を読んでいた。

「お早うございます。」

「ヤア!」

 事務服に着かえながら、ペンやインキを机から出していると、

「ここの扇風機をかけて。」と呼んでいる。

 私は屑箱を台にすると、高いかもいのスイッチをひねった。白い部屋の中が泡立つような扇風機の音、「アラ?」私は相良さんの両手の中にかかえられていた。心に何の用意もない。私の顔に大きい男の息がかかって来ると、私は両足で扇風機を突き飛ばしてやった。

「アッハヽヽヽヽいまのはじょうだんだよ。」

 私は梯子段を飛びおりると、薄暗いトイレットの中でジャアジャア水を出した。頬を強く押した男の唇が、まだ固くくっついているようで、私は鏡を見ることがいやらしかった。

「いまのはじょうだんだよ……」

 何度顔を洗ってもこの言葉がこびりついている。

「怒った! 馬鹿だね君は……」

 ジャアジャア水を出している私を見て、降りて来た相良さんは笑って通り過ぎた。

 昼。

 黒い眼鏡の夫人と一緒に

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場の中へ行ってみる。高いベランダのようなところから拍子木が鳴ると、若い背ビロの男が、両手を拡げてパンパン手を叩いている。「買った! 買った!」ベランダの下には、芽をもむような人の頭、夫人は黒眼鏡をズリ上げながら、メモに何か書きつける。

 夫人を自動車のあるところまでおくると、また、小さなのし袋に一円札のはいったのをもらう。何だかこんな幸運も亦ズルリと抜けてゆきそうだ。帰ると、合百師達

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や小僧が丁半でアミダ
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を引いていた。

「ねイ林さん! 私達もしない? 面白そうよ。」

 茶碗を伏せては、サイコロを振って、皆で小銭を出しあっていた。

「おい、姉さん! はいんなよ……」

「…………」

「はいるといいものを見せてやるぜ。生れて初めてだわって、嬉しがる奴を見せてやるがどうだい。」

 羽二重のハッピをゾロリと着ながした一人の合百師が、私の手からペンを取って向うへ行ってしまった。

「アラ! そんないいもの……じゃアはいるわ、お金そんなにないから少しね。」

「ああ少しだよ、皆でおいなりさん買うんだってさ……」

「じゃ見せて!」

 相棒はぺンを捨てて皆のそばへ行くと、大きいカンセイがおきる。

「さあ! 林さんいらっしゃいよ。」

 私も声につられて店の間へ行って見る。ハッピの裏いっぱいに描いた真赤な絵に私は両手で顔をおおうた。

「意気地がねえなア……」

 皆は逃げ出している私の後から笑っていた。

 夜。

 ひとりで、新宿の街を歩いた。

(七月×日)

「ああもしもし寿々の家ですか? こちらは須崎ですがねイ、今日は一寸行かれませんから、明日の晩いらっしゃるそうです。よしさんにそう云って下さいねイ。」

 又、重役が、どっか芸者屋へ電話をかけさせているのだろう。荻谷さんのねイがビンビンひびいている。

「ねイ! 林さん、今晩須崎さんがねイ、浅草をおごってくれるんですって……」

 私達は事務を早目に切りあげると、小僧一人を連れて、須崎と荻谷と私と四人で自動車に乗った。この須崎と云う男は上州の地主で、古風な白い浜縮緬の帯を腰いっぱいぐるぐる巻いて、豚のように肥った男だった。

「ちんやにでも行くだっぺか!」

 私も荻谷も吹き出して笑った。肉と酒、食う程に呑む程に、この豚男の自惚話を聞いて、卓子の上は皿小鉢の行列である。私は胸の中がムンムンつかえそうになった。ちんやを出ると、次があらえっさっさの帝京座だ。私は頭が痛くなってしまった。赤いけだしと白いふくらっぱぎ、群集も舞台もひとかたまりになって何かワンワン唸りあっている。こんな世界をのぞいた事もない私は、妙に落ちつかなかった。小屋を出ると、ラムネとアイスクリーム屋の林立の浅草だ。上州生れのこの重役氏は、「ほう! お祭のようだんべえ。」とあたりをきょろきょろながめていた。

 私は頭が痛いので、途中からかえしてもらう。荻谷女史は妙に須崎氏と離れたがらなかった。

「二人で待合へでも行くつもりでしょう。」

 小僧は須崎氏からもらった、電車の切符を二枚私に裂いてくれた。

「さよなら、又あした。」

 家へかえると、八百屋と米屋と炭屋のつけが来ていた。日割でもらっても少しあまるし、来月になったら国へ少し送りましょう。階下でかたくりのねったのをよばれる。床へはいったのが十一時、今夜も隣のマズルカが流れて来る。コウフンして眠れず。

(九月×日)

 今日も亦あの雲だ。

 むくむくと湧き上る雲の流れを私は昼の蚊帳の中から眺めていた。今日こそ十二社に歩いて行こう――そうしてお父さんやお母さんの様子を見てこなくちゃあ……私は隣の信玄袋に凭れている大学生に声を掛けた。

「新宿まで行くんですが、大丈夫でしょうかね。」

「まだ電車も自動車もありませんよ。」

「勿論歩いて行くんですよ。」

 この青年は沈黙って無気味な暗い雲を見ていた。

「貴方はいつまで野宿をなさるおつもりですか?」

「さあ、この広場の人達がタイキャクするまでいますよ、僕は東京が原始にかえったようで、とても面白いんですよ。」

 この生齧りの哲学者メ。

「御両親のところで、当分落ちつくんですか……」

「私の両親なんて、私と同様に貧乏で間借りですから長くは居りませんよ。十二社の方は焼けてやしないでしょうかね。」

「さあ、郊外は朝鮮人が大変だそうですね。」

「でも行って来ましょう。」

「そうですか、水道橋までおくってあげましょうか。」

 青年は土に突きさした洋傘を取って、クルクルまわしながら雲の間から霧のように降りて来る灰をはらった。私は四畳半の蚊帳をたたむと、崩れかけた下宿へ走った。宿の人達は、みんな荷物を片づけていた。

「林さん大丈夫ですか、一人で……」

 皆が心配してくれるのを振りきって、私は木綿の風呂敷を一枚持って、時々小さい地震のしている道へ出て行った。根津の電車通りはみみずのように野宿の群がつらなっていた。青年は真黒に群れた人波を分けて、くるくる黒い洋傘をまわして歩いている。

 私は下宿に昨夜間代を払わなかった事を何だかキセキのように考えている。お天陽様相手に商売をしているお父さん達の事を考えると、この三十円ばかりの月給も、おろそかにはつかえない。途中一升一円の米を二升買った。外に朝日を五つ求める。

 干しうどんの屑を五十銭買った。母達がどんなに喜んでくれるだろうと思うなり。じりじりした暑さの中に、日傘のない私は長い青年の影をふんで歩いた。

「よくもこんなに焼けたもんですね。」

 私は二升の米を背負って歩くので、はつか鼠くさい体臭がムンムンして厭な気持ちだった。

「すいとんでも食べましょうか。」

「私おそくなるから止しますわ。」

 青年は長い事立ち止って汗をふいていたが、洋傘をくるくるまわすとそれを私に突き出して云った。

「これで五十銭貸して下さいませんか。」

 私はお伽話的なこの青年の行動に好ましい微笑を送った。そして気持ちよく桃色の五十銭札を二枚出して青年の手にのせてやった。

「貴方はお腹がすいていたんですね……」

「ハッハッ……」青年はそうだと云ってほがらかに哄笑していた。

「地震って素敵だな!」

 十二社までおくってあげると云う青年を無理に断って、私は一人で電車道を歩いた。あんなに美しかった女性達が、たった二三日のうちに、みんな灰っぽくなってしまって、桃色の蹴出しなんかを出して裸足で歩いているのだ。

 十二社についた時は日暮れだった。本郷からここまで四里はあるだろう。私は棒のようにつっぱった足を、父達の間借りの家へ運んだ。

「まあ入れ違いですよ。今日引っ越していらっしたんですよ。」

「まあ、こんな騒ぎにですか……」

「いいえ私達が、ここをたたんで帰国しますから。」

 私は呆然としてしまった。番地も何も聞いておかなかったと云う関西者らしい薄情さを持った髪のうすい此女を憎らしく思った。私は堤の上の水道のそばに、米の風呂敷を投げるようにおろすと、そこへごろりと横になった。涙がにじんできて仕方がない。遠くつづいた堤のうまごやしの花は、兵隊のように皆地べたにしゃがんでいる。

 星が光りだした。野宿をするべく心をきめた私は、なるべく人の多いところの方へ堤を降りて行くと、とっつきの歪んだ床屋の前にポプラで囲まれた広場があった。そこには、二三の小家族が群れていた。私がそこへ行くと、「本郷から、大変でしたね……」と、人のいい床屋のお上さんは店からアンペラを持って来て、私の為めに寝床をつくってくれたりした。高いポプラがゆっさゆっさ風にそよいでいる。

「これで雨にでも降られたら、散々ですよ。」

 夜警に出かけると云う、年とった御亭主が鉢巻をしながら空を見てつぶやいていた。

(九月×日)

 朝。

 久し振りに鏡を見てみた。古ぼけた床屋さんの鏡の中の私は、まるで山出しの女中のようだ。私は苦笑しながら髪をかきあげた。油っ気のない髪が、ばらばら額にかかって来る。床屋さんにお米二升をお礼に置いた。

「そんな事をしてはいけませんよ。」

 お上さんは一丁ばかりおっかけて来て、お米をゆさゆさ抱えて来た。

「実は重いんですから……」

 そう云ってもお上さんは二升のお米を困る時があるからと云って、私の背中に無理に背負わせてしまった。昨日来た道である。相変らず、足は棒のようになっていた。若松町まで来ると、膝が痛くなってしまった。すべては天真ランマンにぶつかってみましょう。私は、罐詰の箱をいっぱい積んでいる自動車を見ると、矢もたてもたまらなくなって大きい声で呼んでみた。

「乗っけてくれませんかッ。」

「どこまで行くんですッ!」

 私はもう両手を罐詰の箱にかけていた。順天堂前で降ろされると、私は投げるように、四ツの朝日を運転手達に出した。

「ありがとう。」

「姉さんさよなら……」

 みんないい人達である。

 私が根津の権現様の広場へ帰った時には、大学生は例の通り、あの大きな蝙蝠傘の下で、気味の悪い雲を見上げていた。そして、その傘の片隅には、シャツを着たお父さんがしょんぼり煙草をふかして私を待っていたのだ。

「入れ違いじゃったそうなのう……」と父が云った。もう二人とも涙がこぼれて仕方がなかった。

「いつ来たの? 御飯たべた? お母さんはどうしています?」

 矢つぎ早やの私の言葉に、父は、昨夜朝鮮人と間違えられながらやっと本郷まで来たら、私と入れ違いだった事や、疲れて帰れないので、学生と話しながら夜を明かした事など物語った。私はお父さんに、二升の米と、半分になった朝日と、うどんの袋をもたせると、汗ばんでしっとりとしている十円札を一枚出して父にわたした。

「もらってええかの?……」

 お父さんは子供のようにわくわくしている。

「お前も一しょに帰らんかい。」

「番地さえ聞いておけば大丈夫ですよ、二三日内に又行きますから……」

 道を、叫びながら、人を探している人の声を聞いていると、私もお父さんも切なかった。

「産婆さんはお出になりませんかッ……どなたか産婆さん御存知ではありませんか!」

 と、産婆を探して呼んでいる人もいた。

(九月×日)

 街角の電信柱に、初めて新聞が張り出された。久しぶりになつかしいたよりを聞くように、私も大勢の頭の後から新聞をのぞきこんだ。

 ――灘の酒造家より、お取引先に限り、酒荷船に大阪まで無料にてお乗せいたします。定員五十名。

 何と云う素晴らしい文字だろう。ああ私の胸は嬉しさではち切れそうだった。私の胸は空想でふくらんだ。酒屋でなくったってかまうものかと思った。

 旅へ出よう。美しい旅の古里へ帰ろう。海を見て来よう――。

 私は二枚ばかりの単衣を風呂敷に包むと、それを帯の上に背負って、それこそ飄然と、誰にも沈黙って下宿を出てしまった。万世橋から乗合の荷馬車に乗って、まるでこわれた羽子板のようにガックンガックン首を振りながら長い事芝浦までゆられて行った。道中費、金七十銭也。高いような安いような気持ちだった。何だか馬車を降りた時は、お尻が痺れてしまっていた。すいとん――うであずき――おこわ――果物――こうした、ごみごみと埃をあびた露店の前を通って行くと、肥料くさい匂いがぷんぷんしていて、芝浦の築港には鴎のように白い水兵達が群れていた。

「灘の酒船の出るところはどこでしょうか?」と人にきくと、ボートのいっぱい並んでいる小屋のそばの天幕の中に、その事務所があるのがわかった。

「貴女お一人ですか……」

 事務員の人達は、みすぼらしい私の姿をジロジロ注視ていた。

「え、そうです。知人が酒屋をしてまして、新聞を見せてくれたのです。是非乗せて戴きたいのですが……国では皆心配してますから。」

「大阪からどちらです。」

「尾道です。」

「こんな時は、もう仕様おまへん。お乗せしますよってに、これ落さんように持って行きなはれ……」

 ツルツルした富久娘のレッテルの裏に、私の東京の住所と姓名と年齢と、行き先を書いたのを渡してくれた。これは面白くなって来たものだ。何年振りに尾道へ行く事だろう。あああの海、あの家、あの人、お父さんや、お母さんは、借金が山ほどあるんだから、どんな事があっても、尾道へは行かぬように、と云っていたけれど、少女時代を過したあの海沿いの町を、一人ぼっちの私は恋のようにあこがれている。「かまうもんか、お父さんだって、お母さんだって知らなけりゃ、いいんだもの?」鴎のような水兵達の間をくぐって、酒の匂いのする酒荷船へ乗り込むことが出来た。――七十人ばかりの乗客の中に、女といえば、私と取引先のお嬢さんであろう水色の服を着た娘と、美しい柄の浴衣を着た女と三人きりである。その二人のお嬢さん達は、青い茣蓙の上に始終横になって雑誌を読んだり、果物を食べたりしていた。

 私と同じ年頃なのに、私はいつも古い酒樽の上に腰をかけているきりで、彼女達は、私を見ても一言も声を掛けてはくれない。「ヘエ! お高く止っているよ。」あんまり淋しいんで、声に出してつぶやいてみた。

 女が少ないので船員達が皆私の顔を見ている。ああこんな時こそ、美しく生れて来ればよかったと思う。私は切なくなって船底へ降りてゆくと、鏡をなくした私は、ニッケルのしゃぼん箱を膝でこすって、顔をうつしてみた。せめて着物でも着替えましょう。井筒の模様の浴衣にきかえると、落ちついた私の耳のそばでドッポンドッポンと波の音が響く。

(九月×日)

 もう五時頃であろうか、様々な人達の物凄い寝息と、蚊にせめられて、夜中私は眠れなかった。私はそっと上甲板に出ると、吻と息をついた。美しい夜あけである。乳色の涼しいしぶきを蹴って、この古びた酒荷船は、颯々と風を切って走っている。月もまだうすく光っていた。

「暑くてやり切れねえ!」

 機関室から上って来たたくましい船員が、朱色の肌を拡げて、海の涼風を呼んでいる。美しい風景である。マドロスのお上さんも悪くはないなと思う。無意識に美しいポーズをつくっているその船員の姿をじっと見ていた。その一ツ一ツのポーズのうちから、苦しかった昔の激情を呼びおこした。美しい夜あけであった。清水港が夢のように近づいて来た。船乗りのお上さんも悪くはない。

 午前八時半、味噌汁と御飯と香の物で朝食が終る。お茶を呑んでいると、船員達が甲板を叫びながら走って行った。

「ビスケットが焼けましたから、いらっして下さい!」

 上甲板に出ると、焼きたてのビスケットを私は両の袂にいっぱいもらった。お嬢さん達は貧民にでもやるように眺めて笑っている。あの人達は私が女である事を知らないでいるらしい。二日目であるのに、まだ、一言も声をかけてはくれない。此船は、どこの港へも寄らないで、一直線に大阪へ急いで走っているのだから嬉しくて仕方がない。

 料理人の人が「おはよう!」と声をかけてくれたので、私は昨夜蚊にせめられて寝られなかった事を話した。

「実は、そこは酒を積むところですから蚊が多いんですよ。今日は船員室でお寝みなさい。」

 この料理人は、もう四十位だろうけれど、私と同じ位の背の高さなのでとてもおかしい。私を自分の部屋に案内してくれた。カーテンを引くと押入れのような寝室がある。その料理人は、カーネエションミルクをポンポン開けて私に色んなお菓子をこしらえてくれた。小さいボーイがまとめて私の荷物を運んで来ると、私はその寝室に楽々と寝そべった。一寸頭を上げると枕もとの円い窓の向うに大きな波のしぶきが飛んでいる。今朝の美しい機関士も、ビスケットをボリボリかみながら一寸覗いて通る。私は恥かしいので寝たふりをして顔をふせていた。肉を焼く美味しそうな油の匂いがしていた。

「私はね、外国航路の厨夫だったんですが、一度東京の震災を見度いと思いましてね、一と船休んで、こっちに連れて来て貰ったんですよ。」

 大変丁寧な物云いをする人である。私は高い寝台の上から、足をぶらさげて、御馳走を食べた。

「後でないしょでアイスクリームを製ってあげますよ。」本当にこの人は好人物らしい、神戸に家があって、九人の子持ちだとこぼしていた。

 船に灯がはいると、今晩は皆船底に集まってお酒盛りだと云う。料理人の人達はてんてこ舞いで忙がしい。――私は灯を消して、窓から河のように流れ込む潮風を吸っていた。フッと私は、私の足先に、生あたたかい人肌を感じた。人の手だ! 私は枕元のスイッチを捻った。鉄色の大きな手が、カーテンの外に引っこんで行くところである。妙に体がガチガチふるえてくる。どうしていいのかわからないので、私は大きなセキをした。

 やがて、カーテンの外に呶鳴っている料理人の声がした。

「生意気な! 汚い真似をしよると承知せんぞ!」

 サッとカーテンが開くと、料理庖丁のキラキラしたのをさげて、料理人のひとが、一人の若い男の背中を突いてはいって来た。そのむくんだ顔に覚えはないけれど、鉄色の手にはたしかに覚えがあった。何かすさまじい争闘が今にもありそうで、その料理庖丁の動く度びに、私は冷々とした思いで、私は幾度か料理人の肩をおさえた。

「くせになりますよッ!」

 機関室で、なつかしいエンジンの音がしている。手をはなしながら、私は沈黙ってエンジンの音を聞いていた。

(二月×日)

 ああ何もかも犬に食われてしまえである。寝転んで鏡を見ていると、歪んだ顔が少女のように見えてきて、体中が妙に熱っぽくなって来る。

 こんなに髪をくしゃくしゃにして、ガランス

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のかった古い花模様の蒲団の中から乗り出していると、私の胸が夏の海のように泡立って来る。汗っぽい顔を、畳にべったり押しつけてみたり、むき出しの足を鏡に写して見たり、私は打ちつけるような激しい情熱を感じると、蒲団を蹴って窓を開けた。――思いまわせばみな切な、貧しきもの、世に疎きもの、哀れなるもの、ひもじきもの、乏しく、寒く、物足らぬ、果敢なく、味気なく、よりどころなく、頼みなきもの、捉えがたく、あらわしがたく、口にしがたく、忘れ易く、常なく、かよわなるもの、詮ずれば仏ならねど此世は寂し。――チョコレート色の、アトリエの煙を見ていると、白秋のこんな詩をふっと思い出すなり。まことに頼みがいなきは人の世かな。三階の窓から見降ろしていると、川端画塾
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のモデル女の裸がカーテンの隙間から見える。青ペンキのはげた校舎裏の土俵の日溜りでは、ルバシカの紐の長い画学生達が、これは又野放図もなく長閑な角力遊びだ。上から口笛を吹いてやると、カッパ頭が皆三階を見上げた。さあ、その土俵の上にこの三階の女は飛び降りて行きますよッって呶鳴ったら、皆喜んで拍手をしてくれるだろう――川端画塾の横の石屋のアパートに越して来て、今日でもう十日あまり、寒空には毎日チョコレート色のストーヴの煙があがっている。私は二十通あまりも履歴書を書いた。原籍を鹿児島県、東桜島、古里、温泉場だなんて書くと、あんまり遠いので誰も信用をしてくれないのです。だから東京に原籍を書きなおすと、非常に肩が軽くて、説明もいらない。

 障子にバラバラ砂ッ風が当ると、下の土俵場から、画学生達はキャラメルをつぶてのように、三階へ投げてくれる。そのキャラメルの美味しかったこと……。隣室の女学生が帰って来る。

「うまくやってるわ!」

 私のドアを乱暴に蹴って、道具をそこへほうり出すと、私の肩に手をかけて、

「ちょいと画描きさん、もっとほうってよ、も一人ふえたんだから……」と云った。

 下からは遊びに行ってもいいかと云うサインを画学生達がしている。すると、この十七の女学生は指を二本出してみせた。

「その指何の事よ。」

「これ! 何でもないわ、いらっしゃいって云う意味にも取っていいし、駄目駄目って事だっていいわ……」

 この女学生は不良パパと二人きりでこのアパートに間借りをしていて、パパが帰って来ないと私の蒲団にもぐり込みに来る可愛らしい少女だった。

「私のお父さんはさくらあらいこの社長なのよ。」

 だから私は石鹸よりも、このあらいこをもらう事が多い。

「ね、つまらないわね、私月謝がはらえないので、学校を止してしまいたいのよ。」

 火鉢がないので、七輪に折り屑を燃やして炭をおこす。

「階下の七号に越して来た女ね、時計屋さんの妾だって、お上さんがとてもチヤホヤしていて憎らしいったら……」

 彼女の呼名はいくつもあるので判らないのだけれど、自分ではベニがねと云っていた。ベニのパパはハワイに長い事行っていたとかで、ビール箱でこしらえた大きいベッドにベニと寝ていた。何をやっているのか見当もつかないのだけれど、桜あらいこの空袋が沢山部屋へ持ちこまれる事がある。

「私んとこのパパ、あんなにいつもニコニコ笑ってるけれど、ほんとはとても淋しいのよ。あんたお嫁さんになってくれない。」

「馬鹿ね! ベニさんは、私はあんなお爺さんは大嫌いよ。」

「だってうちのパパはね、あなたの事を一人でおくのはもったいないって、若い女が一人でゴロゴロしている事は、とてもそんだってさア。」

 三階だてのこのガラガラのアパートが、火事にでもならないかしら。寝転んで新聞を見ていると、きまって目の行くところは、芸者と求妻と、貸金と女中の欄が目についてくる。

「お姉さん! こんど常盤座へ行ってみない、三館共通で、朝から見られるわよ、私、歌劇女優になりたくって仕様がないのよ。」

 ベニは壁に手の甲をぶっつけながら、リゴレット

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[62]
を鼻の先で器用に唄っていた。

 夜。

 松田さんが遊びに来る。私は、此人に十円あまりも借りがあって、それを払えないのがとても苦しいのだ。あのミシン屋の二畳を引きはらって、こんな貧乏なアパートに越して来たものの、一つは松田さんの親切から逃げたい為めであった。

「貴女にバナナを食べさせようと思って持って来たのです。食べませんか。」

 此人の言う事は、一ツ一ツが何か思わせぶりな云いかたにきこえてくる。本当はいい人なのだけれども、けちでしつこくて、する事が小さい事ばかり、私はこんなひとが一番嫌いだ。

「私は自分が小さいから、結婚するんだったら、大きい人と結婚するわ。」

 いつもこう云ってあるのに、此人は毎日のように遊びに来る。さよなら! そう云ってかえって行くと、非常にすまない気持ちで、こんど会ったら優しい言葉をかけてあげようと思っていても、こうして会ってみると、シャツが目立って白いのなんかも、とてもしゃくだったりする。

「いつまでもお金が返せないで、本当にすまなく思っています。」

 松田さんは酒にでも酔っているのか、わざとらしくつっぶして溜息をしていた。さくらあらいこの部屋へ行くのは厭だけれども、自分の好かない場違いの人の涙を見ている事が辛くなってきたので、そっとドアのそばへ行く。ああ十円と云う金が、こんなにも重苦しい涙を見なければならないのかしら、その十円がみんな、ミシン屋の小母さんのふところへはいっていて、私には素通りをして行っただけの十円だったのに……。セルロイド工場の事。自殺した千代さんの事。ミシン屋の二畳でむかえた貧しい正月の事。ああみんなすぎてしまった事だのに、小さな男の後姿を見ていると、同じような夢を見ている錯覚がおこる。

「今日は、どんなにしても話したい気持ちで来たんです。」

 松田さんのふところには、剃刀のようなものが見えた。

「誰が悪いんです! 変なまねは止めて下さい。」

 こんなところで、こんな好きでもない男に殺される事はたまらないと思った。私は私を捨てて行った島の男の事が、急に思い出されて来ると、こんなアパートの片隅で、私一人が辛い思いをしている事が切なかった。

「何もしません、これは自分に云いきかせるものなのです。死んでもいいつもりで話しに来たのです。」

 ああ私はいつも、松田さんの優しい言葉には参ってしまう。

「どうにもならないんじゃありませんか、別れていても、いつ帰ってくるかも知れないひとがあるんですよ。それに私はとても変質者だから、駄目ですよ。お金も借りっぱなしで、とても苦しく思っていますが、四五日すれば何とかしますから……」

 松田さんは立ちあがると、狂人のようにあわただしく梯子段を降りて帰って行ってしまった。――夜更け、島の男の古い手紙を出して読んだ。皆、これが嘘だったのかしらとおもう。ゆすぶられるような激しい風が吹く。詮ずれば、仏ならねどみな寂し。

(三月×日)

 花屋の菜の花の金色が、硝子窓から、広い田舎の野原を思い出させてくれた。その花屋の横を折れると、産園××とペンキの板がかかっていた。何度も思いあきらめて、結局は産婆にでもなってしまおうと思って、たずねて来た千駄木町の××産園。歪んだ格子を開けると玄関の三畳に、三人ばかりの女が炬燵にゴロゴロしていた。

「何なの……」

「新聞を見て来たんですけども……助手見習生入用ってありましたでしょう。」

「こんなにせまいのに、ここではまだ助手を置くつもりかしら……」

 二階の物干には、枯れたおしめが半開きの雨戸にバッタンバッタン当っていた。

「ここは女ばかりですから、遠慮はないんですのよ、私が方々へ出ますから、事務を取って戴けばいいんです。」

 このみすぼらしい産園の主人にしては美しすぎる女が、私に熱い紅茶をすすめてくれた。階下の女達が、主人と云ったのがこの女のひとなのだろうか……高価な香水の匂いが流れていて、二階のこの四畳半だけは、ぜいたくな道具がそろっていた。

「実はね、階下にいる女達は、皆素性が悪くて、子供でも産んでしまえば、それっきり逃げ出しそうなのばかりなんですよ。だから今日からでも、私の留守居をしてもらいたいんですが、御都合いかが?」

 あぶらのむちむちして白い柔かい手を頬に当てて、私を見ている此女の眼には、何かキラキラした冷たさがあった。話ぶりはいかにも親しそうにしていて、眼は遠くの方を見ている。そのはるかなものを見ている彼女の眼には空もなければ山も海も、まして人間の旅愁なんて何もない。支那人形の眼のような、冷々と底知れない野心が光っていた。

「ええ、今日からお手伝いをしてもよろしゅうございますわ。」

 昼。

 黒いボア

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[63]
に頬を埋めて女主人が出て行った。小女が台所で玉葱を油でいためている。

「一寸! 厭になっちゃうね、又玉葱にしょっぺ汁かい?」

「だって、これだけしか当てがって行かねえんだもの!……」

「へん! 毎日五十銭ずつ取ってて、まるで犬ころとまちがえてるよ。」

 ジロジロ睨みあっている瞳を冷笑にかえると、彼女達は煙草をくゆらしながら、「助手さん! 寒いから汚いでしょうけど、ここへ来て当りませんか!」と云ってくれた。私は何か底知れない気うつさを感じながら襖をあけると、雑然とした三畳の玄関に、女が六人位も坐っていた。こんなに沢山の妊婦達はいったいどこから来たのかしら……。

「助手さん! 貴女はお国どこです?」

「東京ですの。」

「おやおや、そうでございますの、一寸こりゃごまめだわよ。」

 女達は、あはあは笑いながら何か私のことに就いて話しあっていた。昼の膳の上は玉葱のいためたのに醤油をかけたのが出る。そのほかには、京菜の漬物に薄い味噌汁、八人の女が、猿のように小さな卓子を囲んで、箸を動かせる。

「子供だ子供だと云って、一日延ばしに私から金を取る事ばかり考えているのよ、そして栄養食ヴィタミンBが必要ですとさ、淫売奴のくせに!」

 女給が三人、田舎芸者が一人、女中が一人、未亡人が一人と云う素性の女達が去ったあと、小女が六人の女たちの説明をしてくれた。

「うちの先生は、産婆が本業じゃないのよ、あの女の人達は、前からうちの先生のアレの世話になってんですの、世話料だけでも大したものでしょう。」

 淫売奴、と云い散らした女の言葉が判ると、自分が一直線に落ち込んだような気がして急にフッと松田さんの顔が心に浮んで来た。不運な職業にばかりあさりつく私だ。もう何も云わないであの人と一緒になろうかしらとも思う。何でもない風をよそおい、玄関へ出る。

「どうしたの、荷物を持ったりして、もう帰るの……」

「ちょいと、先生がかえるまでは帰っちゃ駄目だわ……私達が叱られるもの、それにどんなもん持って行かれるか判らないし。」

 何と云うすくいがたなき女達だろう。何がおかしいのか皆は目尻に冷笑を含んで、私が消えたら一どきに哄笑しそうな様子だった。いつの間に誰が来たのか、玄関の横の庭には、赤い男の靴が一足ぬいであった。

「見て御らんなさいな、本が一冊と雑記帳ですよ、何も盗りゃしませんよ。」

「だって沈黙って帰っちゃ、先生がやかましいよ。」

 女中風な女が、一番不快だった。腹が大きくなると、こんなにも、女はひねくれて動物的になるものか、彼女達の眼はまるで猿のようだった。

「困るのは勝手ですよ。」

 戸外の暮色に押されて花屋の菜の花の前に来ると、初めて私は大きい息をついたのだ。ああ菜の花の咲く古里。あの女達も、この菜の花の郷愁を知らないのだろうか……。だが、何年と、見きわめもつかない生活を東京で続けていたら、私自身の姿もあんな風になるかも知れないと思う。街の菜の花よ、清純な気持ちで、まっすぐに生きたいものだと思う。何とかどうにか、目標を定めたいものだ。今見て来た女達の、実もフタもないザラザラした人情を感じると、私を捨てて去って行った島の男が呪わしくさえ思えて、寒い三月の暮れた街に、呆然と私はたちすくんでいる。玉葱としょっぺ汁。共同たんつぼのような悪臭、いったいあの女達は誰を呪って暮しているのかしら……。

(三月×日)

 朝、島の男より為替を送って来た。母のハガキ一通あり。――当にならない僕なんか当にしないで、いい縁があったら結婚をして下さい。僕の生活は当分親のすねかじりなのだ。自分で自分がわからない。君の事を思うとたまらなくなるが、二人の間は一生絶望状態だろう――。男の親達が、他国者の娘なんか許さないと云ったことを思い出すと、私は子供のように泣けて来た。さあ、この十円の為替を松田さんに返しましょう、そしてせいせいしてしまいたいものだ。

 オトウサンガ、キュウシュウヘ、ユクノデ、ワタシハ、オマエノトコロヘ、ユクカモシレマセン、タノシミニ、マッテイナサイ――母よりの手紙。

 せいいっぱい声をはりあげて、小学生のような気持ちで本が読みたい。

 ハト、マメ、コマ、タノシミニマッテイナサイか!

 郵便局から帰って来ると、お隣のベニの部屋には刑事が二人も来ていて何か探していた。窓を開けると、三月の陽を浴びて、画学生達が相撲を取ったり、壁に凭れたり、あんなに長閑に暮せたら愉しいだろう。私も絵を描いた事がありますよ。ホラ! ゴオガンだの、デイフイだの、好きなのですけれど、重苦しくなる時があります。ピカソに、マチィス、この人達の絵を見ていると、生きていたいと思います。

「そこのアパートに空間はありませんか?」

 新鮮な朗かな青年達の笑い声がはじけると、一せいに男の眼が私を見上げた。その眼には、空や、山や海や、旅愁が、キラキラ水っぽく光って美しかった。

「二間あいてるんですか!」

 私はベニの真似をして二本の指を出して見せた。ベニの部屋では、何か家宅捜索されているらしい。ビール箱のベッドを動かしている音がしている。

 焦心。女は辛し。生きるは辛し。

(三月×日)

 階下の台所に降りて行くと、誰が買って来たのか、アネモネの花の咲いた小さな鉢が窓ぶちに置いてあった。汚い台所の小窓に、スカートをいっぱい拡げた子供のような可愛い花の姿である。もう四月が来ると云うのに、雪でも降りそうなこの寒い空、ああ、今日は何か温かいものが食べたいものなり。

「お姉さんいますか?」

 敷きっぱなしの蒲団の上で内職に白樺のしおりの絵を描いていると、学校から帰って来たベニがドアを開けてはいって来た。

「一寸! とてもいい仕事がみつかったわ。見てごらんなさいよ……」

 ベニは小さく折った新聞紙を私の前に拡げると、指を差して見せた。

 ――地方行きの女優募集、前借可……。

「ね、いいでしょう、初め田舎からみっちり修行してかかれば、いつだって東京へ帰れるじゃないの、お姉さんも一緒にやらない。」

「私? 女優って、あんまり好きな商売じゃないもの、昔、少し素人芝居をやった事があるけど、私の身に添わないのよ、芝居なんて……時に、あんたがそんな事をすれば、パパが心配しないかしら?」

「大丈夫よ、あんな不良パパ、此頃は、七号室のお妾さんにあらいこをやったりなんかしてるわ。」

「そんな事はいいけど、パパも刑事が来たりなんかしちゃいけないわね。」

 お昼、ベニの履歴書を代筆してやる。下の一番隅っこの暗い部屋を借りている大工さんの子供が、さつま芋を醤油で炊いたのを持って来てくれた。

 ベニのパパが紹介をしてくれた白樺のしおり描きはとても面白い仕事だ。型を置いては、泥絵具をベタベタ塗りさえすればいいのである。クロバーも百合もチュウリップも三色菫も御意のままに、この春の花園は、アパートの屋根裏にも咲いて、私の胃袋を済度してくれます。激しい恋の思い出を、激しい友情を、この白樺のしおり達はどこへ持って行くのだろうか……三畳の部屋いっぱい、すばらしいパラダイスです。

 夜。

 春日町の市場へ行って、一升の米袋を買って来る。階下まで降りるのがめんどくさいので、三階の窓でそっと炊いた。石屋のお上さんは、商売物の石材のように仲々やかましくて朝昼晩を、アパートを寄宿舎のようにみまわっているのだ。四十女ときたら、爪の垢まで人のやることがしゃくにさわるのかも知れない。フン、こんな風来アパートなんて燃えてなくなれだ! 出窓で、グズグズ御飯を炊いていると、窓下の画塾では、夜学もあるのか、カーテンの蔭から、コンテ

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[64]
を動かしている女の人の頭が見える。自分の好きな勉強の出来る人は羨ましいものだ。同じ画描きでも私のは個性のないペンキ屋さんです。セルロイドの色塗りだってそうだったし……。明日は、いいお天気だったら、蒲団を干してこのだらしのない花園をセイケツにしましょう。

(三月×日)

 昨夜、夜更けまで内職をしたので、目が覚めたのが九時ごろだった。蒲団の裾にハガキが二通来ている。病気をして入院をしていると云う松田さんのと、来る×日、万世橋駅にお出向きを乞う、白いハンカチを持っていて下さると、好都合ですと云った風な私宛のハガキだった。心当りが少しもないので、色々考えた末、不図、ベニの事を思いついた。パパにも知れないように、一人者の私の名前を利用したのかもしれないと思う。手に白いハンカチを持っていて下されば好都合ですか……淫売にでも叩きうられるのが関の山かも知れない。かつて、本郷の街裏で見た、女アパッシュ

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[65]
の群れ達の事が胸に浮んできた。ベニは粗野で、生のままの女だから、あんな風な群れに落ちればすさまじいものだと思う。

 今日は風強し、上野の桜は咲いたかしら……桜も何年と見ないけれど、早く若芽がグングン萌えてくれるといい。夕方ベニのパパが街から帰ってくる。

「林さん! 坊やはどこへ行きましたでしょうね。」

「さあ、何だか、今日は方々を歩くんだと云ってましたが……」

「しょうがないな、寒いのに。」

「ベニちゃんは、もう学校を止したんですか、小父さん。」

 外套をぬぎぬぎ私のドアをあけたベニのパパは、ずるそうに笑いながら、

「学校は新学期から止さしますよ。どうも落ちつかない子供だから……」

「おしいですわね、英語なんか出来たんですのに……」

「母親がないからですよ、一ツ林さんマザーになって下さい。」

「小父さんと年をくらべるより、ベニちゃんとくらべた方が早いんですからね。いやアーよ。」

「だってお半長右衛門

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[66]
だってあるじゃありませんか。」

 私はいやらしいので沈黙ってしまった。こんな仕事師にかかっては口を動かすだけ無駄かも知れない。やがてベニが、鼻を真紅にして帰って来る。

「お姉さん! うどん玉、沢山買って来たから上げるわ。」

「ええありがとう、パパ早く帰って来たわよ。」

 ベニは片目をとじてクスリと笑うと、立ちあがって、壁越しに「パパ!」と呼んだ。

「ハガキが来ていてよ、白いハンカチを持ってって書いてあるわ、香水ぐらいつけて行くといいわよ……」

「あらひどい!」

 七号室ではお妾さんが三味線を鳴らしている。河のそばを子供達が、活動芝居をいましめてなんて、日曜学校の変なうたをうたって通った。仕事、二百六十枚出来る。松田さん、どんな病気で入院をしているのかしら、遠くから考えると、涙の出るようないいひとなのだけれども、会うとムッとする松田さんの温情主義

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[67]
、こいつが一番苦手なのだ。その内、何か持って見舞いに行こうと思う。夜、竜之介の「戯作三昧」を読んだ。魔術
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[68]
、これはお伽噺のようにセンチメンタルなものだった。印度人の魔術、日本の竹薮と雨の夜か……。霧つよく、風が静かになる、ベニは何か唄っている。

(四月×日)

 ベニの帰らない日が続く。

「別に心配してくれるなって、坊やからハガキが来ましたが、もう四日ですからね。」

 ベニのパパは心配そうに目をしょぼしょぼさせていた。

 今日は陽気ないいお天気である。もう病院を出たかも知れないと思いながら、植物園裏の松田さんの病院へ行った。そこは外科医院だった。工場のかえり、トラックにふれたのだと云って、松田さんは肩と足を大きくほうたいをしていた。

「三週間位でなおるんだそうです。根が元気だから何でもないんです。」

 松田さんは、由井正雪みたいに髪を長くしていて、寒気がする程、みっともない姿だった。昔昔、毒草と云う映画を見たけれど、あれに出て来るせむし男にそっくりだと思った。ちょいとした感傷で、此人と一緒になってもいいと云うことを、よく考えた事だが厭だった。外の事でも真実は返せる筈だ、蜜柑をむいてあげる。

 病院から帰って来ると、ベニが私の万年床に寝ころがっていた。帯も足袋もぬぎ散らかしている。ベニは果敢なげに天井を見ていた。疲れているようだ。彼女は急速度に変った女の姿をしている。

「パパには沈黙っててね。」

「御飯でもたべる?」

 ベニは自分の部屋には誰もいないのに、妙に帰るのをおっかながっていた。

 夕刊にはもう桜が咲いたと云うニュースが出ていた。尾道の千光寺の桜もいいだろうとふっと思う。あの桜の並木の中には、私の恋人が大きい林檎を噛んでいた。海沿いの桜並木、海の上からも、薄紅い桜がこんもり見えていた。私は絵を描くその恋人を大変恋していたのだけれど、私が早い事会いに行けないのを感違いして、そのひとは町の看護婦さんと一緒になってしまった。ベニのように、何でもガムシャラでなくてはおいてけぼりを喰ってしまう。桜はまた新らしい姿で咲き始めている。――やがてベニはパパが帰って来たので、帯と足袋を両手にかかえると、よその家へ行くようにオズオズ帰って行った。別に呶鳴り声もきこえては来ない。あのパパは、案外ケンメイなのかも知れないと思う。ベニが捨てて行った紙屑を開いてみたら、宿屋の勘定がきだった。

 十四円七十三銭也。八ツ山ホテル、品川へ行ったのかしら、二人で十四円七十銭、しかもこれが四日間の滞在費、八ツ山ホテルと云う歪んだ風景が目に浮んでくる。

(四月×日)

 ひからびた、鈴蘭もチュウリップも描き飽きてしまった。白樺のしおりを鼻にくっつけると、香ばしい山の匂いがする。山の奥深いところにこの樹があるのだと云うけれど、その葉っぱはどんなかたちをしているのかしら……粛々としたその姿を胸に描きながら、私は毎日こうして、泥絵具をベタベタ塗りたくっているのだ。

 軒一つの境いで、風景や静物や裸体を描いている画学生と、型の中へ泥絵具を流してはそれで食べている女と、――新聞を見ると、アルスの北原

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[69]
という人の家で女中が欲しいと出ている、勉強をさせてくれるかしらとも思う、もっとうんと叩かれたい。方針のない生活なんて、本当はたまらないのだから……明日は行ってみよう。午後、ベニが風呂へ行った留守に、白いハンカチの男が私をたずねて来た。ベニはどんな風に云っているのかしら、階下へ降りてゆくと、頭を油で光らせて、眼鏡をかけた男がつったっていた。「私がそうですが。」部屋に通ると、背の高い男はすぐひざを組んで煙草に火をつけ出した。

「ホウ絵をお描きになるんですね。」

「いいえ内職ですのよ。」

 およそこんな男は大きらいだ。此男の眼の中には、人を馬鹿にしたところがある。内職をする女の姿が、チンドン屋みたいに写っているのかも知れない。

「昨夜、信越の旅から来たのですが、東京はあたたかですね。」

「そうですか。」

 新劇はとてもうけると云う話だった。ベニ、外出先からすぐ帰って来る。彼女は女らしく、まるで鳴らないほおずきみたいに円くかしこまって返事をしていた。

「貴女も、芝居をなすったそうですが、芝居の方を少し手伝って戴けませんか、女優が足りなくって弱っているんです。」

「女優なんて、とても柄じゃアありませんよ。自分だけの事でもやっと生きてますのに、舞台に立つなんて私にはメンドクサクてとても出来ません。」

「仲々貴女は面白い事を云いますね。」

「そうですかね。」

「これから、しょっちゅう遊びに来させてもらいます。いいですか。」

 十七八の娘って、どうしてこうシンビ眼がないのだろう。きたない男の前で、ベニはクルクルした眼をして沈黙っているのだ。夜、ベニは私の部屋に泊ると云う、パパは帰って来ない。あまり淋しいのでチエホフの「かもめ」

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[70]
を読んだ……。

 ベニは寝床の中から「面白いわね。」と云っている。

「自分で後悔しなきゃ、何やってもいいけれど、取るにたらないような感傷に溺れて、取りかえしのつかない事になるのは厭ね、ベニちゃんは、とても生一本で面白い人だけれど、案外貴女の生一本は内べんけいじゃなかったの、色んな事に目が肥えるまでは用心はした方がいいと思ってよ。」

 彼女は薄っすらと涙を浮べて、まぶしそうに電気を見つめていた。

「だって逃げられなかったのよ。」

「八ツ山ホテルってところでしょう。」

「うん。」

 ベニはけげんな顔をしていた。

「男の払った勘定書を持って来るのいやだわ、赤ちゃんみたいねえ、――十四円七十三銭って、こんなもの落してみっともないわよ。」

「あの男、花柳はるみを知ってるだの何だのってでたらめばかり云うのよ、からかってやるつもりだったの……」

「貴女がからかわれたんでしょう、御馳走さま。」

 パパのいないベニは淋しそうだった。河水の音を聞いて、コドクを感じたものか、ベニは指を噛んで泣いている。

(四月×日)

 朝。

 東中野と云うところへ新聞を見て行ってみた。近松さんの家にいた事をふっと思い出した。こまめそうな奥さんが出てくる。お姑さんが一人ある由。

「別に辛い事もないけれど、風呂水がうちじゃ大変なんですよ。」

 暗い感じの家だった。北原白秋氏の弟さんの家にしては地味な構えである。行ってみる間は何か心が燃えながら、行ってみるとどかんと淋しくなる気持ちはどうした事だろう。所詮、私と云う女はあまのじゃくかも知れないのだ。柳は柳。風は風。

 ベニのパパ、詐欺横領罪で引っぱられて行ったとの事だった。帰ってみると、一人の刑事が小さな風呂敷包みをこしらえていた。ベニは呆然としてそれを見ている。アパート中の内儀さん達が、三階のベニの部屋の前に群れてべちゃくちゃ云っている。人情とは、なぜかくも薄きものか、部屋代はとるだけ取って、別にこのアパートには迷惑も掛けていないと云うのに、あらゆる末梢的な事を大きくネツゾウして、お上さん達は口々に何かつぶやいているのだ。刑事が帰って行くと、台所はアパートじゅうの女が口から泡を飛ばしているようだった。お妾さんは平然と三味線を弾いている、スッとした女なり。

「お姉さん! 私金沢へ帰るのよ、パパからの言伝けなの、そこはねえ、皆他人なんですのよ、だってまだ見ない親類なんて、他人より困るわねえ、本当はかえりたくないのよ。」

「そうね、こっちにいられるといいのにね。」

「アパートじゃ、じき立ちのいてくれって云うし……」

 夜、ベニと貧しい別宴を張った。

「忘れないわ、二三年あっちでくらして、ぜひ東京へ来ようと思うの、田舎の生活なんて見当がつかないわ。」二人は、時間を早めに上野駅へ行く。

「桜でも見に行きましょうか?」

 二人は公園の中を沈黙って歩いている。こんなに肩をくっつけて歩いている女が、もう二時間もすれば金沢へ行く汽車の中だなんて、本当にこのベニコがみじめでありませんようにと私は神様に祈っている。私はオールドローズの毛糸の肩掛をベニの肩にかけてやった。

「まだ寒いからこれをあげるわ。」

 上野の桜、まだ初々たり。

(七月×日)

 ちっとも気がつかない内に、私は脚気になってしまっていて、それに胃腸も根こそぎ痛めてしまったので、食事もこの二日ばかり思うようになく、魚のように体が延びてしまった。薬も買えないし、少し悲惨な気がしてくる。店では夏枯れなので、景気づけに、赤や黄や紫の風船玉をそろえて、客を呼ぶのだそうである――。じっと売り場に腰を掛けていると、眠りが足らないのか、道の照りかえしがギラギラ目を射て頭が重い。レースだの、ボイルのハンカチだの、仏蘭西製カーテンだの、ワイシャツ、カラー、店中はしゃぼんの泡のように白いものずくめである。薄いものずくめである。閑散な、お上品なこんな貿易店で、日給八十銭の私は売り子の人形だ。だが人形にしては汚すぎるし、腹が減りすぎる。

「あんたのように、そう本ばかり読んでいても困るよ。お客様が見えたら、おあいそ位云って下さい。」

 酸っぱいものを食べた後のように、歯がじんと浮いてきた。本を読んでいるんじゃないんです。こんな婦人雑誌なんか、私の髪の毛でもありはしない。硝子のピカピカ光っている鏡の面を一寸覗いて御覧下さい。水色の事務服と浴衣が、バックと役者がピッタリしないように、何とまあおどけた厭な姿なのでしょう……。顔は女給風で、それも海近い田舎から出て来たあぶらのギラギラ浮いた顔、姿が女中風で、それも山国から来たコロコロした姿、そんな野生の女が、胸にレースを波たたせた水色の事務服を着ているのです。ドミエの漫画ですよこれは……。何とコッケイな、何とちぐはぐな牝鶏の姿なのでしょう。マダム・レースやミスター・ワイシャツや、マドモアゼル・ハンカチの衆愚に、こんな姿をさらすのが厭なのです。それに、サーヴィスが

[_]
[C]下手だおっしゃる
貴方の目が、いつ私をくびきるかも判らないし、なるべく、私と云う売り子に関心を持たれないように、私は下ばかりむいているのです。あまりに長いニンタイは、あまりに大きい疲れを植えて、私はめだたない人間にめだたない人間に訓練されていますのよ。あの男は、お前こそめだつ人間になって闘争しなくちゃ嘘だと云うのです。あの女は、貴女はいつまでもルンペンではいけないと云うのです。そして勇ましく戦っているべき、彼も彼女もいまはどこへ行っているのでしょう。彼や彼女達が、借りものの思想を食いものにして、強権者になる日の事を考えると、ああそんなことはいやだと思う。宇宙はどこが果てなんだろうと考えるし、人生の旅愁を感じる。歴史は常に新らしく、そこで燃えるマッチがうらやましくなった。

 夜――九時。省線を降りると、道が暗いのでハーモニカを吹きながら家へ帰った。詩よりも小説よりも、こんな単純な音だけれど音楽はいいものです。

(七月×日)

 青山の貿易店も、いまは高架線のかなたになった。二週間の労働賃金十一円也、東京での生活線なんてよく切れたがるもんだ。隣のシンガーミシンの生徒? さんが、歯をきざむように、ギイギイとしっきりなしにミシンのペダルを押している。毎日の生活断片をよくうったえる秋田の娘さんである。古里から十五円ずつ送金してもらって、あとはミシンでどうやら稼いでいる、縁遠そうな娘さんなり。いい人だ。彼女に紹介状をもらって、新興女性新聞社に行く。本郷の追分で降りて、ブリキの塀をくねくね曲ると、緑のペンキの脱落した、おそろしく頭でっかちな三階建の下宿屋の軒に、螢程の小さい字で社名が出ていた。まるで心天を流すよりも安々と女記者になりすました私は、汚れた緑のペンキも最早何でもないと思った。

 昼。

 下宿の中食をもらって舌つづみを打つと、女記者になって二三時間もたたない私は、鉛筆と原稿紙をもらって談話取りだ。四畳半に尨大な事務机が一ツ、薄色の眼鏡をかけた中年の社長と、新興女性新聞発行人の社員が一人、私を入れて三人の新興女性新聞。チャチなものなり。又、生活線が切れるんじゃないかと思ったけれど、兎に角私は街に出てみたのだ。訪問先は秋田雨雀氏

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[71]
のところだった。此頃の御感想は……私はこの言葉を胸にくりかえしながら、雑司ケ谷の墓地を抜けて、鬼子母神のそばで番地をさがした。本郷のごみごみした所からこの辺に来ると、何故か落ちついた気がしてくる。一二年前の五月頃、漱石の墓にお参りした事もあった……。秋田氏は風邪を引いていると云って鼻をかみながら出ていらした。まるで少年のようにキラキラした眼、やさしそうな感じの人である。お嬢さんは千代子さんと云って、初めて行った私を十年のお友達のように話して下すった。厚いアルバムが出ると、一枚一枚繰って説明して下さる。この役者は誰、この女優は誰、その中に別れた男のプロマイドも張ってあった。

「女優ってどんなのが好きですか、日本では……」

「私判らないけど、夏川静江

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[D]なんが
好きだわ。」

 私はいまだかつて私をこんなに優しく遇してくれた女の人を知らない。二階の秋田さんの部屋には黒い手の置物があった。高村光太郎さんの作で、有島武郎さんが持っていらっしたのだとかきいた。部屋は実に雑然と古本屋の観があった。談話取りが談話がとれなくて、脂汗を流していると、秋田さんは二三枚すらすらと私のノートへ手を入れて下すった。お寿司を戴く。来客数人あり。暮れたのでおくって戴く。赤い月が墓地に出ていた。火のついた街では氷を削るような音がしている。

「僕は散歩が好きですよ。」

 秋田氏は楽し気にコツコツ靴を鳴らしている。

「あそこがすずらんと云うカフェーですよ。」

 舞台の様なカフェーがあった。変ったマダムだって誰かに聞いたことがある。秋田氏はそのまま銀座へ行かれた。

 私は何か書きたい興奮で、沈黙って江戸川の方へ歩いて行った。

(七月×日)

 階下の旦那さんが二日程国へ行って来ますと云って、二階の私達へ後の事を頼みに今朝上ってみえたのに、社から帰ってみると、隣のミシンの娘さんが、帯をときかけている私を襖の間から招いた。

「あのね一寸!」

 低声なので、私もそっといざりよると、

「随分ひどいのよ、階下の奥さんてば外の男と酒を飲んでるのよ……」

「いいじゃあないの、お客さんかも知れないじゃないですか。」

「だって、十八やそこいらの女が、あんなにデレデレして夫以外の男と酒を飲めるか知ら……」

 帯を巻いて、ガーゼの浴衣をたたんで、下へ顔洗いに行くと、腰障子の向うに、十八の花嫁さんは、平和そうに男と手をつなぎあって転がっていた。昔の恋人かも知れないと思う。只うらやましいだけで、ミシンの娘さんのような興味もない。夜は御飯を炊くのがめんどうだったので、町の八百屋で一山十銭のバナナを買って来てたべた。女一人は気楽だとおもうなり。糊の抜けた三畳づりの木綿の蚊帳の中に、伸び伸びと手足を投げ出してクープリンの「ヤーマ」

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[72]
を読む。したたか者の淫売婦が、自分の好きな男の大学生に、非常な清純な気持ちを見せる。尨大な本だ、頭がつかれる。

「一寸起きてますか?」

 もう十時頃だろうか、隣のシンガーミシンさんが帰って来たらしい。

「ええまだねむれないでいます。」

「一寸! 大変よ!」

「どうしたんです。」

「呑気ねッ、階下じゃ、あの男と一緒に蚊帳の中へはいって眠っててよ。」

 シンガーミシン嬢は、まるで自分の恋人でも取られたように、眼をギロギロさせて、私の蚊帳にはいって来た。いつもミシンの唄に明け暮れしている平和な彼女が、私の部屋になんかめったにはいって来ない行儀のいい彼女が、断りもしないで私の蚊帳へそっともぐり込んで来るのだ。そして大きい息をついて、畳にじっと耳をつけている。

「随分人をなめているわね、旦那さんがかえって来たら皆云ってやるから、私よか十も下なくせに、ませてるわね……」

 ガードを省線が、滝のような音をたてて走った。一度も縁づいた事のない彼女が、嫉妬がましい息づかいで、まるで夢遊病者のような変な狂態を演じようとしている。

「兄さんかも知れなくってよ。」

「兄さんだって、一ツ蚊帳には寝ないや。」

 私はなんだか淋しく、血のようなものが胸に込み上げて来た。

「眼が痛いから電気を消しますよ。」と云うと、彼女はフンゼンとして沈黙って出ていった。やがて梯子段をトントン降りて行ったかと思うと、「私達は貴女を主人にたのまれたのですよ。こんな事知れていいのですかッ!」と云う声がきこえている。切れ切れに、言葉が耳にはいってくる。一度も結婚をしないと云う事は、何と云う怖ろしさだ。あんなにも強く云えるものかしら……。私は蒲団を顔へずり上げて固く瞼をとじた。何も彼もいやいやだ。

(七月×日)

 ――ビョウキスグカエレタノム

 母よりの電報。本当かも知れないが、また嘘かも知れないと思った。だけど嘘の云えるような母ではないもの……、出社前なので、急いで旅支度をして旅費を借りに社へ行く。社長に電報をみせて、五円の前借りを申し込むと、前借は絶対に駄目だと云う。だが私の働いた金は取ろうと思えば十五円位はある筈なのだ。不安になって来る。廊下に置いたバスケットが妙に厭になってきた。大事な時間を「借りる!」と云う事で、それも正当な権利を主張しているのに、駄目だと云われて悄気てしまう。これは、こんなところでみきわめをつけた方がいいかも知れない。

「じゃ借りません! その代り止めますから今迄の報酬を戴きます。」

「自分で勝手に止されるのですから、社の方では、知りませんよ。満足に勤めて下すっての報酬であって、まだ十二三日しかならないじゃありませんか!」

 黄色にやけたアケビのバスケットをさげて、私は又二階裏へかえって来た。ミシン嬢は、あれから階下の細君と気持ちが凍って、引っ越しをするつもりでいたらしかったが、帰って見ると、どこか部屋がみつかったらしく、荷物を運び出している処だった。彼女の唯一の財産である、ミシンだけが、不恰好な姿で、荷車の上に乗っかっていた。全てはああ空しである。

(七月×日)

 駅には、山や海への旅行者が白い服装で涼し気だった。下の細君に五円借りた。尾道まで七円くらいであろう。やっと財布をはたいて切符を買うと、座席を取ってまず指を折ってみた。何度目の帰郷だろうと思う。

露草の茎
粗壁に乱れる
万里の城

 いまは何かしらうらぶれた感じが深い。昔つくった自分の詩の一章を思い出した。何もかも厭になってしまうけれど、さりとて、自分の世界は道いまだ遠しなのだ。この生ぐさきニヒリストは腹がなおると、じき腹がへるし、いい風景を見ると呆然としてしまうし、良い人間に出くわすと涙を感じるし、困った奴なり。バスケットから、新青年の古いのを出して読んだ。面白き笑話ひとつあり――。

 ――囚人曰く、「あの壁のはりつけの男は誰ですか?」

 ――宣教師答えて、「我等の父キリストなり。」

 囚人が出獄して病院の小使いにやとわれると、壁に立派な写真が掛けてある。

 ――囚人、「あれは誰のです?」

 ――医師、「イエスの父なり。」

 囚人、淫売婦を買って彼女の部屋に、立派な女の写真を見て――

 ――囚人、「あの女は誰だね。」

 ――淫売婦、「あれはマリヤさ、イエスの母さんよ。」

 そこで囚人嘆じて曰く、子供は監獄に父親は病院に、お母さんは淫売婦にああ――。私はクツクツ笑い出してしまった。のろい閑散な夜汽車に乗って退屈していると、こんなにユカイなコント

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[73]
がめっかった。眠る。

(七月×日)

 久し振りで見る高松の風景も、暑くなると妙に気持ちが焦々してきて、私は気が小さくなってくる。どことなく老いて憔悴している母が、第一番に云った言葉は、「待っとったけん! わしも気が小さくなってねえ……」そう云って涙ぐんでいた。今夜は海の祭で、おしょうろ流し

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[74]
の夜だ。夕方東の窓を指さして、母が私を呼んだ。

「可哀そうだのう、むごかのう……」

 窓の向うの空に、朝鮮牛がキリキリぶらさがっている。鰯雲がむくむくしている波止場の上に、黒く突き揚った船の起重機、その起重機のさきには一匹の朝鮮牛が、四足をつっぱって、哀れに唸っている。

「あんなのを見ると、食べられんのう……」

 雲の上にぶらさがっているあの牛は、二三日の内には屠殺されてしまって、紫の印を押されるはずだ。何を考えているのか知ら……。船着場には古綿のような牛の群れが唸っていた。

 鰯雲がかたくりのように筋を引いてゆくと、牛の群れも何時か去ってゆき、起重機も腕を降ろしてしまった。月の仄かな海の上には、もう二ツ三ツおしょうろ船が流れていた。火を燃やしながら美しい紙船が、雁木を離れて沖の方へ出ていた。港には古風な伝馬船が密集している。そのあいだを火の紙船が月のように流れて行った。

「牛を食ったりおしょうろを流したり、人間も矛盾が多いんですねお母さん。」

「そら人間だもん……」

 母は呆んやりした顔でそんな事を云っている。

(八月×日)

 海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。汽車が尾道の海へさしかかると、煤けた小さい町の屋根が提燈のように拡がって来る。赤い千光寺の塔が見える、山は爽かな若葉だ。緑色の海向うにドックの赤い船が、帆柱を空に突きさしている。私は涙があふれていた。

 貧しい私達親子三人が、東京行きの夜汽車に乗った時は、町はずれに大きい火事があったけれど……。「ねえ、お母さん! 私達の東京行きに火が燃えるのは、きっといい事がありますよ。」しょぼしょぼして隠れるようにしている母達を、私はこう云って慰めたものだけれど……だが、あれから、あしかけ六年になる。私はうらぶれた体で、再び旅の古里である尾道へ逆もどりしているのだ。気の弱い両親をかかえた私は、当もなく、あの雑音のはげしい東京を放浪していたのだけれど、ああ今は旅の古里である尾道の海辺だ。海沿いの遊女屋の行燈が、椿のように白く点点と見えている。見覚えのある屋根、見覚えのある倉庫、かつて自分の住居であった海辺の朽ちた昔の家が、六年前の平和な姿のままだ。何もかも懐しい姿である。少女の頃に吸った空気、泳いだ海、恋をした山の寺、何もかも、逆もどりしているような気がしてならない。

 尾道を去る時の私は肩上げもあったのだけれど、今の私の姿は、銀杏返し、何度も水をくぐった疲れた単衣、別にこんな姿で行きたい家もないけれど、兎に角もう汽車は尾道にはいり、肥料臭い匂いがしている。

 船宿の時計が五時をさしている。船着場の待合所の二階から、町の燈火を見ていると、妙に目頭が熱くなってくるのだった。訪ねて行こうと思えば、行ける家もあるのだけれど、それもメンドウクサイことなり。切符を買って、あと五十銭玉一ツの財布をもって、私はしょんぼり、島の男の事を思い出していた、落書だらけの汽船の待合所の二階に、木枕を借りて、つっぷしていると、波止場に船が着いたのか、汽笛の音がしている。波止場の雑音が、フッと悲しく胸に聞えた。「因の島行きが出やすんで……」歪んだ梯子段を上って客引が知らせに来ると、陽にやけた縞のはいった蝙蝠と、小さい風呂敷包みをさげて、私は波止場へ降りて行った。

「ラムネいりやせんか!」

「玉子買うてつかアしゃア。」

 物売りの声が、夕方の波止場の上を行ったり来たりしている。紫色の波にゆれて因の島行きのポッポ船が白い水を吐いていた。漠々たる浮世だ。あの町の灯の下で、「ポオルとヴィルジニイ」

[_]
[75]
を読んだ日もあった。借金取りが来て、お母さんが便所へ隠れたのを、学校から帰ったままの私は、「お母さんは二日程、糸崎へ行って来る云うてであった……」と嘘をついて母が、佗し気にほめてくれた事もあった。あの頃、町には城ケ島の唄や、沈鐘の唄が流行っていたものだ。三銭のラムネを一本買った。

 夜。

「皆さん、はぶい着きやんしたで!」

 船員がロープをほどいている。小さな船着場の横に、白い病院の燈火が海にちらちら光っていた。この島で長い事私を働かせて学校へはいっていた男が、安々と息をしているのだ。造船所で働いているのだ。

「此辺に安宿はありませんでしょうか。」

 運送屋のお上さんが、私を宿屋まで案内して行ってくれた。糸のように細い町筋を、古着屋や芸者屋が軒をつらねている。私は造船所に近い山のそばの宿へついた。二階の六畳の古ぼけた床の上に風呂敷包みをおくと、私は雨戸を開けて海を眺めた。明日は尋ねて行ってみようとおもう。私は財布を袂に入れると、ラムネ一本のすきばらのまま潮臭い蒲団に長く足を延ばした。耳の奥の方で、蜂の様なブンブンと云う喚声があがっている。

(八月×日)

 枕元をごそごそと水色の蟹が這っている。町にはストライキの争議があるのだそうだ。

「会いに行きなさるというても、大変でごじゃんすで、それよりも、社宅の方へおいでんさった方が……」女中がそう云っている。私は心細くかまぼこを噛んでいた。社員達は全部書類を持って倶楽部へ集まっていると云うことだ。食事のあと、私はぼんやりと戸外へ出てみた。万里の城のように、うねうねとコンクリートの壁をめぐらしたドックの建物を山の上から見下ろしていると、旗を押したてて通用門みたいなところに黒蟻のような職工の群れが唸っていた。山の小道を子供を連れたお上さんやお婆さんが、点々と上って来る。六月の海は銀の粉を吹いて光っているし、縺れた樹の色は、爽かな匂いをしていた。

「尾道から警官がいっぱい来たんじゃと。」

 髪を後になびかせた若いお上さん達が、ドックを見下ろして話しあっていた。

「しっかりやれッ!」

「負けなはんな!」

「オーイ……」真昼間の、裸の職工達の肌を見ていると、私も両手をあげて叫んだ。旅の古里の言葉で「しっかりやってつかアしゃア。」

「御亭主があそこにおってんな? うちの人は、こうなったら、もう死んでもええつもりでやる云いよりやんした。」

 私はわけもなく涙があふれていた。事務員をしたりしてあんなにつくした私の男が、大学を出ると、造船所の社員になって、すました生活をしている、ここから見ていると、あんな門位はすぐ崩れてしまうようにもろく見えているのに……。

「職工は正直でがんすけん、皆体で打っつかって行きやんさアね。」

 とうとう門が崩れた。蜂が飛ぶように黒点が散った。光った海の上を、小舟が無数に四散して行っている。

潮鳴の音を聞いたか!
茫漠と拡がった海の上の叫喚を聞いたか!
煤けたランプの灯を女房達に託して
島の職工達は磯の小石を蹴散らし
夕焼けた浜辺へ集まった。
遠い潮鳴の音を聞いたか!
何千と群れた人間の声を聞いたか!
ここは内海の静かな造船港だ
貝の蓋を閉じてしまったような
因の島の細い町並に
油で汚れたズボンや菜っぱ服の旗がひるがえっている
骨と骨で打ち破る工場の門の崩れる音
その音はワァン、ワァンと
島いっぱいに吠えていた。
青いペンキ塗りの通用門が勢いよく群れた肩に押されると
敏活なカメレオン達は
職工達の血と油で色どられた清算薄をかかえて
雪夜の狐のようにランチへ飛び乗って行ってしまう
表情の歪んだ固い職工達の顔から
怒りの涙がほとばしって
プチプチ音をたてているではないか
逃げたランチは
投網のように拡がった巡警の船に横切られてしまうと
さてもこの小さな島の群れた職工達と逃げたランチの間は
只一筋の白い水煙に消されてしまう。
歯を噛み額を地にすりつけても
空は――昨日も今日も変りのない平凡な雲の流れだ
そこで頭のもげそうな狂人になった職工達は
波に呼びかけ海に吠え
ドックの破船の中に渦をまいて雪崩れていった。
潮鳴の音を聞いたか!
遠い波の叫喚を聞いたか!
旗を振れッ!
うんと空高く旗を振れッ
元気な若者達が
光った肌をさらして
カララ カララ カララ
破れた赤い帆の帆綱を力いっぱい引きしぼると
海水止の堰を食い破って
帆船は風の唸る海へ出て行った
それ旗を振れッ
勇ましく歌を唄えッ!
朽ちてはいるが元気に風を孕んだ帆船は
白いしぶきを蹴って海へ出てゆく
寒冷な風の吹く荒神山の上で呼んでいる
波のように元気な叫喚に耳をそばだてよ!
可哀想な女房や子供達が
あんなにも背伸びをして
空高く呼んでいるではないか!
遠い潮鳴の音を聞いたか!
波の怒号するのを聞いたか
山の上の枯木の下に
枯木と一緒に双手を振っている女房子供の目の底には
火の粉のように海を走って行く
勇ましい帆船がいつまでも眼に写っていたよ。

 宿へ帰ったら、蒼ざめた男の顔が、ぼんやり煙草を吸って待っていた。

「宿の小母さんが迎いに来て、ビックリしちゃった。」

「…………」

 私は子供のように涙が溢れた。何の涙でもない。白々とした考えのない涙が、あとからあとからあふれて、沈黙ってしきいの所に立って長いこと泣いていた。

「ここへ来るまでは、すがれたらすがってみようと思って来たけれど、宿の小母さんの話では、奥さんも子供もあるって聞きましたよ。それに、町のストライキを見たら、どうしても、貴方に会って、はっきりとすがらなくてはいけないと思いました。」

 沈黙っている二人の耳に、まだ喚声が遠く聞えて来る。

「今晩町の芝居小屋で、職工達の演説があるから、一寸覗いてみなくては……」男は、自分の腕時計を床の上に投げると、そそくさと町へ出てしまった。私は、ぼんやりと部屋で、しゃっくりを続けながら、高価な金色の腕時計をそっと自分の腕にはめてみた。涙があふれた。東京で苦労した事や、裸で門を壊していた昼間の職工達の事が、グルグルしていて、時計の白い腹を見ていると目が廻りそうだった。

(八月×日)

 宿の娘と連れだって浜を歩いた。今日でここへ来て一週間にもなる。

「くよくよおしんさんな。」私は何もかもつまらなくなって呆然としていると、宿の娘は私を心配してくれている。何も考えてやしない。何も考えようがないのだ。昨日は高松のお母さんへ電報ガワセを送ったし、私はこうして海の息を吸っているし、男がハラハラしようとしまいと、それはお勝手なのだ。私から何もかもむさぼり取ったひとなのだから、この位の事がいったい何だろうと思う。――尾道の海辺で、波止場の石垣に、お腹を打ちつけては、あのひとの子供を産む事をおそれていたけれど、今はそれもいじらしいお伽話になってしまった。昨日の電報ガワセで義父や母が一息ついてくれればいいと思うなり。浜辺を洗髪をなびかせながら歩いていると、町で下駄屋をしているあのひとの兄さんが、私をオーイオーイと後から呼びかけて来た。久し振りに見る兄さん、尾道の私の家に、枝になった蜜柑や、オレンジを持って来てくれたあの姿そのままで笑いかけている。

「わしに、何も云わんもんじゃけん、苦労させやした。」

 海が青く光っている。宿の娘をかえして、兄さんと二人で町はずれの兄さんの家へ歩いて行った。海近くまで、田が青々していて蜜柑山がうっそうと風に鳴っていた。

「あいつが気が弱いもんじゃけん。」

 陽にやけた佗し気な顔をして兄さんは私をなぐさめてくれるなり。家では嫂さんが、米をついていた。牛が一匹優しい眼をして私を見ている。私は、どうしてもはいりたくなかったのだ。何だか、こんなところへ来た事さえも淋しくなっている。白い道のつづいている浜路を、私はあとしざりをするように、宿へ帰って行った。

(八月×日)

 朝風をあびて、私は島へさよならとハンカチを振っている。どこへ行っても、どこにも仕様のない事だらけなのだ。東京へ帰ろう。私の財布は五六枚の十円札でふくらんでいた。兄さんの家でもらったお金とデベラの青籠と、風呂敷包みをかかえて、私は板子を渡って尾道行きの船へ乗った。

「気をつけてのう……」

「ええ! 兄さん、もうストライキはすんだんですか。」

「職工の方が折れさせられて手打ちになったが、太いもんにゃかなわないよ。」

 あのひとも寝ぶそくな目をさせて波止場へ降りてきてくれていた。「体が元気だったら、又いつか会えるからね。」そんなことを小さい声で云った。船の中には露に濡れた野菜がうずたかく積んであった。

 ああ何だか馬鹿になったような淋しさである。私は口笛を吹きながら遠く走る島の港を見かえっていた。岸に立っている二人の黒点が見えなくなると、静かなドックの上には、ガァン、ガァンと鉄を打つ音がひびいていた。尾道についたら、半分高松へ送ってやりましょう。東京へかえったら、氷屋もいいな、せめて暑い日盛りを、ウロウロと商売をさがして歩かないように、この暮は楽に暮したいものだ。私は体を延ばして走る船の上から波に手をひたしていた。手を押しやるようにして波が白くはじけている。五本の指に藻がもつれた糸のようにからまって来る。

「こんどのストライキは、えれえ短かかったなあ――」

「ほんまに、どっちも不景気だけんな。」

 船員達が、ガラス窓を拭きながら話している。私はもう一度ふりかえって、青い海の向うの島を眺めていた。

(四月×日)

――その夜
カフェーの卓子の上に
盛花のような顔が泣いた
何のその
樹の上にカラスが鳴こうとて
――夜は辛い
両手に盛られた
わたしの顔は
みどり色の白粉に疲れ
十二時の針をひっぱっていた。

 横浜に来て五日あまりになる。カフェー・エトランゼの黒い卓子の上に、私はこんな詩を書いてみた。「俺くらいだよ、お前と一緒にいるのは……誰がお前のような荒んでボロボロに崩れるような女を愛すものか。」

 あの東京の下宿で、男は私に思い知れ、思い知れと云う風な事を云うのです。泊るところも、たよる男も、御飯を飯べるところもないとしたら、……私は小さな風呂敷包みをこしらえながら、どこにも行き場のない気持ちであった。そう云って別れてしまった男なのに、「お前が便利のように云ってやったんだよ、俺から離れいいようにね。」男は私を抱き伏せると、お前も俺と同じような病気にしてやるのだ、そう云って、肺の息をフウフウ私の顔に吐きかけてくる。あの夜以来、私は男の下宿代をかせぐために、こんなところまで流れて来たのです。

「国へかえってみましょう、少し位は出来るかも知れませんから……」

 こんなことをして金をこしらえる事を私は貞女だとでも思っているのでしょうか神様!

「もう店をしまって下さい。」

 マダム・ロアの鼻の頭が油で光っている。ここは十二時にはカンバンにするのであるらしい。桃割れに結ったお菊さんと、お君さんと私、バラックの女給部屋には、重い潮風が窓から吹きこんでくる。

「ね、東京にかえりたくなったわ。」

 お君さんは子供の事を思い出したのか、手拭で顔をふきながら、大きい束髪に風を入れていた。――ここのマダム・ロアは、独逸人で、御亭主は東京に独逸ビールのオフィスを持っている人だった。何時も土曜日には帰って来るのだそうである。一度チラとやせた背の高い姿を見たきり。マダム・ロアは、古風なスカートのように肥って沈黙った女だった。私はお君さんの御亭主の紹介で来たものの、ここはあまり収入もないのだ。コックも日本人なので、外人客は料理は食べないで、いつもビールばかり呑んで行った。

「私、あんたんとこの人に紹介されて来たので、本当は東京へ帰りたいんだけれど、遠慮をしていたのよ。」

「浜へ行ったら金になるなんて云って、結局はあの女と一緒になりたかったからでしょうよ。」

 お君さんの御亭主は、お君さんと親子ほども年が違っているのに妾を持っていた。

「実際、私達は男の為めに苦労して生きてるようなものなのね。」

 お君さんは波止場の青い灯を見ながら、着物もぬがないでぼんやり部屋に立っている。私はふっと、去年のいまごろ、寒い日にお君さんと、この浜へ来た事を思い出した。あれから半年あまり、もうお君さんとは会えないと思いながら、どっちからともなく尋ねあって行き来している事を思うと、ほほ笑ましくなって来る。――十三の時に子供を産んだと云うお君さんは、「私はまだほんとうの恋なんてした事がないのよ。」と云うなり。いまは二十二で、九ツの子供のあるお君さんは、子供が恋人だとも云っていた。ふしあわせなお君さんである。養母の男であったのが、今の御亭主になって十年もお君さんは其男の為めに働いて来たのだと云う。十年も働きあげたその上で、カフェーの女給を妾に引き入れてみたり、家の中は一人の男をめぐって、彼女に妾に養母さんと云った不思議な生活だった。彼女は「私、本当に目をおおいたくなる時があってよ。」と涙ぐむ時がある。どんなにされても、一人の子供の為めに働いているお君さんの事を考えると、私の苦しみなんて、彼女から云えばコッケイな話かも知れない。

「電気を消して下さい!」

 独逸人はしまり屋だと云うけれど、マダム・ロアが水色の夜の着物を着て私達の部屋を覗きにくるのだ。電気の消えたせまい部屋の中で、私はまるでお伽話のような蛙の声を聞いた。東京の生活の事、お母さんの事、これからさきの事、なかなか眠れない。

(四月×日)

 九つになるお君さんの上の子供が一人でお君さんをたずねて来た。港では船がはいって来たのか、自動車がしっきりなしに店の前を走って行く。

 朝。

 マダム・ロアは裏のペンキのはげたポーチで編物をしていた。「お菊さんに店をたのんで一寸波止場へ行ってみない? 子供に見せたいのよ。」冷たいスープを呑んでいる私の傍で、お君さんは長い針を動かせて、子供の肩上げをたくし上げては縫ってやっていた。

「お君さんの弟かい!」

 船乗り上りの年をとったコックが、煙草を吸いながら、子供をみていた。

「いいえ私の子供なのよ……」

「ホー、いくつだい? よく一人で来られたね。」

「…………」

 歯の皓い少年は、沈黙って佗し気に笑っていた。私たち三人は手をつなぎあって波止場の山下公園の方へ行ってみる。赤い吃水線の見える船が、沖にいくつも碇泊していた。インド人が二人、呆んやり沖を見ている。蒼い四月の海は、西瓜のような青い粉をふいて光っていた。

「ホラ! お船だよ、よく見ておおき、あれで外国へ行くんだよ。あれは起重機ね、荷物が空へ上って行ったろう。」

 お君さんの説明をきいて、板チョコを頬ばりながら、子供はかすんだような嬉しい眼をして海を見ている。桟橋から下を見ると深い水の色がきれいで、ずるずると足を引っぱられそうだった。波止場には煙草屋だの、両替店、待合所、なんかが並んでいる。

「母さん、僕、水のみたい。」

 ひざ小僧を出したお君さんの子供が、白い待合所の水道の方へ走って行くと、お君さんは袂からハンカチを出して子供のそばへ歩いて行く。

「さあ、これでお顔をおふきなさい。」

 ああ何と云う美しい風景だろう。その美しい母子風景が、思い思いな苦しみに打ちのめされてはきりっと立ちあがっては前進してゆくのだ。少年が母をたずねて、この浜辺までひとりで辿って来た情熱を考えると、泣き出したいだろうお君さんの気持ちが胸に響くなり。

「あの子と一緒に間借りでもしようかとも思うのよ、でも折角、父親がいて離すのもいけないと思って我慢はしてるのだけれど、私、働き死にをしに生れて来たようで、厭になる時があるわよ。」

「ね、小母さん! ホテルって何?」

 フッと見ると波止場のそばの橋の横に、何時か見たホテルと云う白い文字が見えた。

「旅をする人が泊るところよ。」

「そう……」

「ね、坊や! 皆うちにまだいるの?」

「うん、お父さん家にいるよ、お婆ちゃんも、小母ちゃんも銀座の方に此頃通って、とても夜おそいの、だから僕だの父ちゃんが、かわりばんこに駅へむかいに行くんだよ……」

 お君さんはおこったように沈黙って海の方を見ていた。

 昼は伊勢佐木町に出て、三人で支那蕎麦を食べた。

「ね、あんた、私、写真を取りたいのよ、一緒に写ってくれない。」

「私もそう思ってたの、いつまた離ればなれになるかも判らないんですもの、丁度いいわ、坊やも一緒に取りましょう。」

 中華の軍人のような感じの電車に乗って、浜近い写真館に行った。

「三人で取ると、誰かが死ぬんだって、だから犬ころでもいいから借りましょうよ。」

 お君さんが、不恰好なはりこの犬をひざに抱いて、坊やと私とが立っている姿を撮ってもらう。バックは、波止場の桟橋、林立した古風な帆柱が見えます。

「坊や! 今日は母ちゃんとこへ寝んねしていらっしゃいね。」

「一緒に帰るの……」

 お君さんは淋しそうに、一人でスヴニールのレコードをかけていた。マダム・ロアは今日は東京へ外出していない。椅子を二つ並べてコックはぐうぐう眠っている。もらい一円たらず、私も坊や達と東京へ帰ろうと思う。

(四月×日)

「こんな旅が一生続いたらユカイよ。」

 エトランゼの裏口から、一ツずつ大きい荷物を持った私たち二人の女を、マダム・ロアは気の毒そうにみて、一週間あまりしかいない私達へ給料を十円ずつ封筒へ入れてくれた。

「また来て下さい、夏はいいんですよ。」

 お君さんと違って家のない私は、又ここへ逆もどりしたいなつかしい気持ちで、マダム・ロアを振り返った。沈黙った女ってしっかりしているものだ。背広を着た彼女が、二階から私達を何時までも見送ってくれていた。

「よかったら家へいらっしゃいよ。雑居だけどいいじゃないの……そしてゆっくりさがせば。」

 駅でバナナをむきながら、お君さんがこう云ってくれた。東京へ行ったところで、ひねくれたあの男は、私を又殴ったり叩いたりするのかも知れない。いっそお君さんの家にでもやっかいになりましょう。サンドウィッチを買って汽車に乗った。汽車の中には桜のマークをつけたお上りさんの人達がいっぱいあふれていた。

「桜時はこれだから厭ね……」

 一つの腰掛けをやっと見つけると、三人で腰を掛ける。

「子供との汽車の旅なんて何年にもない事だわ。」

 夕方、お君さんの板橋の家へ着いた。

「随分、一人でやるのは心配したけれど、一人で行きたいって云うから、あたしがやったんだよ。」

 髪を蓬々させたお婆さんが寝転んで煙草を吸っていた。

「此間は失礼しました。今日は何だか一緒にかえりたくなってついて来ましたのよ。」

 長屋だてのギシギシした板の間をふんで、お君さんの御亭主が出て来た。

「こんなところでよければ、いつまででもいらっしゃい。またそのうちいいところがありますよ。」と云ってくれる。

 部屋の中には、若い女の着物がぬぎ散らかしてあった。

 夜更け。フッと目が覚めると、

「子供なんかを駅へむかいにやる必要はないじゃありませんか、貴方が行っていらっしゃい、貴方が厭だったら私が行って来ます。」

 お君さんの癇走った声がしている。やがて、土間をあける音がして、御亭主が駅へお妾さんをむかいに出て行った。

「オイお君! お前もいいかげん馬鹿だよ、なめられやがって……」

 向うのはじに寝ていたお婆さんが口ぎたなくお君さんをののしっている。ああ何と云う事だろう、何と云う家族なのだろうと思う。硝子窓の向うには春の夜霧が流れていた。一緒に眠っている人達の、思い思いの苦しみが、夜更けの部屋に満ちていて、私はたった一人の部屋がほしくなっていた。

(四月×日)

 雨。終日坊やと遊ぶ。妾はお久さんと云って頬骨の高い女だった。お君さんの方がずっと柔かくて美しいひとだのに、縁と云うものは不思議なものだと思う。男ってどうしてこんななのだろう……。

「フンそんなに浜は不景気かね。」

 肌をぬいで、髪に油を塗りながら、お久さんは髪をすいていた。

「何だよお前さんのその云いかたは……」

 お婆さんが台所で釜を洗いながらお久さんに怒っていた。雨が降っている。うっとうしい四月の雨だ。路地のなかの家の前に、雨に濡れながら野菜売りが車を引いて通る。

 神様以上の気持ちなのか、お君さんは笑って、八百屋とのんびり話をしていた。

「いまは丁度何でも美味しい頃なのね。」と云っている。

 雨の中を、夕方、お久さんと御亭主とが街へ仕事に出て行った。婆さんと、子供とお君さんと私と四人で卓子を囲んで御飯をたべる。

「随分せいせいするよ、おしめりはあるし、二人は出て行ったし。」

 お婆さんがいかにもせいせいしたようにこんなことを云った。

(五月×日)

 新宿の以前いた家へ行ってみた。お由さんだけがのこっていて古い女達は皆いなくなってしまっていた。新らしい女が随分ふえていて、お上さんは病気で二階に臥せっていた。――又明日から私は新宿で働くのだ。まるで蓮沼に落ちこんだように、ドロドロしている私である。いやな私なり。牛込の男の下宿に寄ってみる。不在。本箱の上に、お母さんからの手紙が来ていた。男が開いてみたのか、開封してあった。養父の代筆で、――あれが肺病だって云って来たが本当か、一番おそろしい病気だから用心してくれ、たった一人のお前にうつると、皆がどんなに心配するかわからない、お母さんはとても心配して、此頃は金光様をしんじんしている、一度かえって来てはどうか、色々話もある。――まあ! 何と云う事だろう、そんなにまでしなくても別れているのに、古里の私の両親のもとへ、あの男は自分が病気だからって云ってやったのかしら……よけいなおせっかいだと思った。宿の女中の話では、「よく女の方がいらっしてお泊りになるんですよ。」と云っている。ブドウ酒を買って来た、いままでのなごやかな気持ちが急にくらくらして来る。苦労をしあった人だのに何と云うことだろう。よくもこんなところまで辿って来たものだと思う。街を吹く五月のすがすがしい風は、秋のように身にしみるなり。

 夜。

 ここの子供とかるめらを焼いて遊ぶ。

(五月×日)

 六時に起きた。

 昨夜の無銭飲食の奴のことで、七時には警察へ行かなくてはならない。眠くって頭の芯がズキズキするのをこらえて、朝の街に出てゆくと、汚い舗道の上に、散らしの黄や赤が、露にベトベト濡れて陽に光っていた。四谷までバスに乗る。窓硝子に紫の鹿の子を掛けた私の結い綿の頭がぐらぐらしていて、まるでお女郎みたいな姿だった。私はフッと噴き出してしまう。こんな女なんて……どうしてこんなに激しくゆられ、ゆすぶられても、しがみついて生きていなくてはならないのだろう! 何とコッケイなピエロの姿よ。勇ましくて美しい車掌さん! 笑わないで下さいね。なまめかしく繻子の黒襟を掛けたりしているのですが、私だって、貴女みたいにピチピチした車掌さんになろうとした事があったんですよ。貴女と同じように、植物園、三越、本願寺、動物園なんて試験を受けた事があるんです。近眼ではねられてしまったんだけれど、私は勇ましい貴女の姿がうらやましくて仕方がない。――神宮外苑の方へゆく道の、一寸高い段々のある灰色の建物が警察だった。八ツ手の葉にいっぱい埃がかぶさったまま露がしっとりとしていて、洞穴のような留置場の前へはいって行くと、暗い刑事部屋には茶を呑んでいる男、何か書きつけている男、疲れて寝ころんでいる男、私はこんなところへまで、昨夜の無銭飲食者に会いにこなければならないのかしらと厭な気持ちだった。ここまで取りに来なければ十円近くの金は、私が帳場に取りかえなければならないし、転んでも只では起きないカフェーのからくりを考えると厭になる。結局は客と女給の一騎打ちなのだ。ああ金に引きずりまわされるのがとても胸にこたえてくる。店の女達が、たかるだけたかっておいて、勘定になると、裏から逃げ出して行った昨夜の無銭飲食者の事を思うと、わけのわからないおかしさがこみ上げて来て仕方がなかった。

「代書へ行って届書をかいて来い、アーン!」

 あぶくどもメ! 昨夜の無銭飲食者が、ここではすばらしい英雄にさえ思える。

 代書屋に行って書いてもらったのが、一時間あまりもかかった。茶が出たり塩せんべいが出たり、金を払うだんになると、二枚並べた塩せんべいの代金まではいっている。全く驚いてしまった。届書を渡して、引受人のような人から九円なにがしかをもらって外に出ると、もうお昼である。規律とか規則とかと云うものに、私はつばきを引っかけてけいべつしてやりたくなった。

 帰って帳場に金を渡して二階へ上ると、皆はおきて蒲団をたたんでいる処だった。掃除をすっぽかして横になる。五月の雲が真綿のように白く伸びて行くのに、私は私の魂を遠くにフッ飛ばして、棒のように石のように私は横になって目をとじているのだ。悲しや、おいたわしやお芙美さん、一ツ手拍子をそろえて歌でも唄いましょう。

陸の果てには海がある
白帆がゆくよ。

(五月×日)

 時ちゃんが、私に自転車の乗りかたを教えてくれると云うので、掃除が済むと、店の自転車を借りて、遊廓の前の広い道へ出て行った。朝の陽をいっぱい浴びて、並んだ女郎屋の二階のてすりには、蒲団の行列、下の写真棚には、お葬式のビラのような初店の女の名前を書いた白い紙がピラピラ風に吹かれていた。朝帰りの男の姿が、まるで雨の日のこうもりがさのようだと、時ちゃんは冷笑しながら、勇ましく大通りで自転車を乗りまわしている。桃割れにゆった女が自転車で廓の道を流しているので、男も女も立ちどまっては見て行くなり。

「さあ、ゆみちゃんお乗りよ、後から押してやるから。」

 馬鹿げた朗かさで、ドン・キホーテの真似をする事も面白い。二三回乗っているうちにペダルが足について来て、するするとハンドルでかじが取れるようになった。

キング・オブ
[_]
[76]
を十杯呑ませてくれたら

私は貴方に接吻を一ツ投げましょう
おお哀れな給仕女よ
青い窓の外は雨の切子硝子
ランタンの灯の下で
みんな酒になってしまった
カクメイとは北方に吹く風か!
酒はぶちまけてしまったんです。
卓子の酒の上に真紅な口を開いて
火を吐いたのです
青いエプロンで舞いましょうか
金婚式、それともキャラバン
今晩の舞踏曲は……
さあまだあと三杯もある
しっかりしているかって
ええ大丈夫よ
私はお悧巧な人なのに
本当にお悧巧なひとなのに
私は私の気持ちを
つまらない豚のような男達へ
おし気もなく花のように
ふりまいているんです
ああカクメイとは北方に吹く風か――

 さてさてあぶない生胆取り、ああ何もかも差しあげてしまいますから、二日でも三日でも誰か私をゆっくり眠らせて下さい。私の体から、何でも持って行って下さい。私は泥のように眠りたい。石鹸のようにとけてなくなってしまって、下水の水に、酒もビールも、ジンもウイスキーも、私の胃袋はマッチの代用です。さあ、私の体が入用だったらタダで差し上げましょう。なまじっかタダでプレゼントした方があとくされがなくてせいせいするでしょう。酔っぱらって椅子と一緒に転んだ私を、時ちゃんは馬のように引きおこしてくれた。そうして耳に口をつけて云った事は、

「新聞を上からかぶせとくから、少しつっぷして眠んなさい、酔っぱらって仕様がないじゃないの……」

 私の蒲団は新聞で沢山なのですよ、私は蛆虫のような女ですからね、酔いだってさめてしまえばもとのもくあみ、一日がずるずると手から抜けて行くのですもの、早く私のカクメイでもおこさなくちゃなりません。

(六月×日)

 太宗寺で、女給達の健康診断がある日だ。雨の中を、お由さんと時ちゃんと三人で行った。古風な寺の廊下に、紅紫とりどりの疲れた女達が、背景と二重写しみたいに、そぐわないモダンさで群れている。一寸した屏風がたててあるのだけれども、おえんま様も映画の赤い旗もみんなまる見えだ。上半身を晒して、店ざらしのお役人の前に、私達は口をあけたり胸を押されたりしている。匂いまで女給になりきってしまった私は、いまさら自分を振りかえって見返してみようにもみんな遠くに飛んでしまっている。お由さんは肺が悪いので、診てもらうのを厭がっていた。時ちゃんを待ちながら、寺の庭を見ているとねむの花が桃色に咲いて、旅の田舎の思い出がふっと浮んできた。

 夜、鼠花火を買って来て燃やす。

 チップ一円二十銭也。

(六月×日)

 昼、浴衣を一反買いたいと思って街に出てみると、肩の薄くなった男に出会う。争って別れた二人だけれども、偶然にこんなところで会うと、二人共沈黙って笑ってしまう。あのひとは鰻がたべたいと云う。二人で鰻丼をたべにはいる。何か心楽し。浴衣の金を皆もたせてやる。病人はいとしや。――母より小包み来る。私が鼻が悪いと云ってやったので、ガラガラに乾してある煎じ薬と足袋と絞り木綿の腰巻を送って来た。カフェーに勤めているなんて云ってやろうものなら、どんなにか案じるお母さん、私は大きいお家の帳場をしていると嘘の手紙を書いて出した。

 夜。

 お君さんが私の処へたずねて来た。これから質屋に行くのだと云って大きい風呂敷包みを持っていた。

「こんな遠い処の質屋まで来るの?」

「前からのところなのよ。板橋の近所って、とても貸さないのよ……」

 相変らず一人で苦労をしているらしいお君さんに同情するなり。

「ね、よかったらお蕎麦でも食べて行かない、おごるわよ。」

「ううんいいのよ、一寸人が待ってるから、又ね。」

「じゃア質屋まで一緒に行く、いいでしょう。」

 その後銀座の方に働いていたと云うお君さんには若い学生の恋人が出来ていた。

「私はいよいよ決心したのよ、今晩これから一寸遠くへ都落ちするつもりで、実は貴女の顔を見に来たの。」

 こんなにも純情なお君さんがうらやましくて仕方がない。何もかも振り捨てて私は生れて初めて恋らしい恋をしたのだわ。ともお君さんは云うなり。

「子供も捨てて行くの?」

「それが一番身に応えるんだけれども、もうそんな事をとても云ってはおられなくなってしまったのよ。子供の事を思うと空おそろしくなるけれど、私とても、勝てなくなってしまったの。」

 お君さんの新らしい男の人は、あんまり豊かでもなさそうだったけれど、若者の持つりりしい強さが、あたりを圧していた。

「貴女も早く女給なんてお止しなさい、ろくな仕事じゃアありませんよ。」

 私は笑っていた。お君さんのように何もかも捨てさる情熱があったならば、こんなに一人で苦しみはしないとおもう。お君さんのお養母さんと、御亭主とじゃ、私のお母さんの美しさはヒカクになりません。どんなに私の思想の入れられないカクメイが来ようとも、千万人の人が私に矢をむけようとも、私は母の思想に生きるのです。貴方達は貴方達の道を行って下さい。私はありったけの財布をはたいて、この勇ましく都落ちする二人に祝ってあげたい。私のゼッタイのものが母であるように、お君さんの唯一の坊やを、私は蔭で見てやってもいいと思えた。

 街では星をいっぱい浴びて、ラジオがセレナーデを唄っている。

 私の袂には、エプロンがまるまってはいっている。

 夜の曲。都会の夜の曲。メカニズム化したセレナーデよ、あんなに美しい唄を、ラジオは活字のように街の空で唸っている。雑音化した夜の曲。人間がキカイに食われる時代、私は煙草屋のウインドオの前で白と赤のマントを拡げたマドリガルと云う煙草が買いたかったのだ。すばらしい享楽、すばらしい溺酔、マドリガルの甘いエクスタシイ、嘘でも云わなければこの世の中は馬鹿らしくって歩けないじゃありませんか――。さあ、みんなみんな、私は何でも彼でもほしいんですよ。

 時ちゃんは文学書生とけんかしていた。

「何だいドテカボチャ、ひやけの茄子! もう五十銭たしゃ横丁へ行けるじゃないか!」

 酔っぱらった文学書生がキスを盗んだというので、時ちゃんが、ソーダ水でジュウジュウ口をすすぎながら呶鳴っていた。お上さんは病気で二階に寝ている。何時も女給達の生血を絞っているからろくな事がないのよ。しょっちゅう病気してるじゃないの……こう云ってお由さんはお上さんの病気を気味よがっていた。

(六月×日)

 お上さんはいよいよ入院してしまった。出前持ちのカンちゃんが病院へ行って帰ってこないので、時ちゃんが自転車で出前を持って行く。べらぼうな時ちゃんの自転車乗りの姿を見ていると、涙が出る程おかしかった。兎に角、この女は自分の美しさをよく知っているからとても面白い。――夕方風呂から帰って着物をきかえていると、素硝子の一番てっぺんに星が一つチカチカ光っていた。ああ久しく私は夜明けと云うものを見ないけれど、田舎の朝空がみたいものだ。表に盛塩してレコードをかけていると、風呂から女達が順々に帰って来る。

「もうそろそろ自称飛行家が来る頃じゃないの……」

 この自称飛行家は奇妙な事に支那そば一杯と、老酒いっぱいで四五時間も駄法螺を吹いて一円のチップをおいて帰って行く。別に御しゅうしんの女もなさそうだ。

 三番目。

 私の番に五人連れのトルコ人がはいって来た。ビールを一ダース持って来させると、順々に抜いてカンパイしてゆくあざやかな呑みぶりである。白い風呂敷包みの中から、まるでトランクのように大きい風琴を出すと、風琴の紐を肩にかけて鳴らし出す。秋の山の風でも聞いているような、風琴の音色、皆珍らしがってみていた。ボクノヨブコエワスレタカ。何だと思ったらかごの鳥の唄だった。帽子の下に、もう一つトルコ帽をかぶって、仲々意気な姿だった。

「ニカイ、アガリマショウ。」

 若いトルコ人が私をひざに抱くと、二階をさかんに指差している。

「ニカイノ アルトコロコノヨコチョウデス。」

「ヨコチョウ? ワカラナイ。」

 私達を淫売婦とでもまちがえているらしい。

「ワタシタチ トケイヤ。」

 若いのが遠い国で写したのか、珍らしい樹の下で写した小さい写真を一枚ずつくれるなり。

「ニカイ アガリマショウ、ワタシ アヤシクナイ。」

「ニカイ アリマセン。ミンナ カヨイデス。」

「ニカイ アリマセン?」

 またビール一ダースの追加、一人がコールドビーフを注文すると、お由さんが気に入っていたのか、何かしきりに皿を指さしている。

「困ったわ、私英語なんか知らないんですもの、ゆみちゃん何を云ってんのか聞いてみてよ……」

「あの、飛行機屋さんにおききなさいよ、知ってるかも知れないわ。」

「冗談じゃない、発音がちがうから判らないよ。」

「あら飛行機屋さんにも判らないの、困っちゃうわね。」

「ソースじゃなさそうね。」

 何だか辛子のようにも思えるんだけれど、生憎、からしかと訊く事を知らない私は、

「エロウ・パウダ?」

 顔から火の出る思いで聞いてみた。

「オオエス! エス!」

 辛子をキュウキュウこねて持って行くと、みんな手の指を鳴らして喜んでいた。

 自称飛行家はコソコソ帰っていった。

「トルコの天子さん何て云うの?」

 時ちゃんが、エロウ・パウダ氏にもたれて聞いている。

「テンシサンなんて判るもんですか。」

「そう、私はこの人好きだけど通じなきゃ仕方がないわ。」

 酒がまわったのか、風琴は遠い郷愁を鳴らしている。ニカイ アガリマショウの男は、盛んに私にウィンクしていた。日本人とよく似た人種だと思う、トルコってどんなところだろう。私は笑いながら聞いた。

「アンタの名前、ケマルパシヤ

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[77]
?」

 五人のトルコ人は皆で私にエスエスと首を振っていた。

(九月×日)

 古い時間表をめくってみた。どっか遠い旅に出たいものだと思う。真実のない東京にみきりをつけて、山か海かの自然な息を吸いに出たいものなり。私が青い時間表の地図からひろった土地は、日本海に面した直江津と云う小さい小港だった。ああ海と港の旅情、こんな処へ行ってみたいと思う。これだけでも、傷ついた私を慰めてくれるに違いない。だけど今どき慰めなんて言葉は必要じゃアない。死んでは困る私、生きていても困る私、酌婦にでもなんでもなって、お母さん達が幸福になるような金がほしいのだ。なまじっかガンジョウな血の多い体が、色んな野心をおこします。ほんとに金がほしいのだ!

 富士山――暴風雨

 停車場の待合所の白い紙に、いま富士山は大あれだと書いてある。フン! あんなものなんか荒れたってかまいはしない。風呂敷包み一つの私が、上野から信越線に乗ると、朝の窓の風景は、いつの間にか茫々とした秋の景色だった。あまりすっかり秋になっている。窓を区切ってゆく、玉蜀黍の葉は、骨のようにすがれてしまっていた。人生はすべて秋風万里、信じられないものばかりが濁流のように氾濫している。爪の垢ほどにも価しない私が、いま汽車に乗って、当もなくうらぶれた旅をしている。私は妙に旅愁を感じると瞼が熱くふくらがって来た。便所臭い三等車の隅ッこに、銀杏返しの鬢をくっつけるようにして、私はぼんやりと、山へはいって行く汽車にゆられていた。

古里の廐は遠く去った
花がみんなひらいた月夜
港まで走りつづけた私であった
朧な月の光りと赤い放浪記よ
首にぐるぐる白い首巻をまいて
汽船を恋した私だった。

 一切合切が、何時も風呂敷包み一ツの私である。私は心に気弱な熱いものを感じながら、古い詩稿や、放浪日記を風呂敷包みから出しては読みかえしてみた。体が動いているせいか、瞼の裏に熱いものがこみあげて来ても、詩や日記からは、何もこみ上げて来る情熱がこない。たったこれだけの事だったのかと思う。馬鹿らしい事ばかりを書きつぶして溺れている私です。

 汽車が高崎に着くと、私の周囲の空席に、旅まわりの芸人風な男女が四人で席を取った。私はボンヤリ彼等を見ていた。彼達は、私とあまり大差のないみすぼらしい姿である。上の網棚には、木綿の縞の風呂敷でくるんだ古ぼけた三味線と、煤けたバスケットが一つ、彼達の晒された生活を物語っていた。

「姐御はこっちに腰掛けたら……」

 同勢四人の中の、たった一人の女である姐御と呼ばれた彼女は、つぶしたような丸髷に疲れた浴衣である。もう三十二三にはなっているのだろう、着崩れた着物の下から、何か仇めいた匂いがして窶れた河合武雄

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と云ってもみたい女だった。その女と並んで、私の向う横に腰かけたつれの男は額がとても白い。紺縮みの着物に、手拭のように細いくたびれた帯をくるくる巻いて、かんしょうに爪をよく噛んでいた。

「ああとてもひでえ目にあったぜ。」

 目玉のグリグリした小さい方が、ひとわたり四囲をみまわして大きい方につぶやくと、汽車は逆もどりしながら、横川の駅に近くなった。この芸人達は、寄席芸人の一行らしいのだ。向うの男と女は、時々思い出したようにボソボソ話しあっていた。「アレ! 何だね、俺ア気味が悪いでッ。」突然トンキョウな声がおこると、田舎者らしい子供連れのお上さんが、網棚の上を見上げた。お上さんの目を追うと、芸人達の持ちものである網棚のバスケットから、黒ずんだ赤い血のようなものが、ボトボトしたたりこぼれていた。

「血じゃねえかね!」

「旅のお方! お前さんのバスケットじゃねえかね。」

 背中あわせの、芸人の男女に、田舎女の亭主らしいのが、大きい声で呶鳴ると、ボンヤリと当もなく窓を見ていた男と女は、あたふたと、恐れ入りながら、バスケットを降ろして蓋をあけている。――ここにもこれだけの生活がある。私は頬の上に何か血の気の去るのを感じる思いだった。そのバスケットの中には、ふちのかけた茶碗や、朱のはげた鏡や、白粉や櫛や、ソースびんが雑然と入れてあった。

「ソースの栓が抜けたんですわ……」

 女はそう一人ごとを云いながら、自分の白い手の甲にみみずのように流れているソースの滴をなめた。その佗し気なバスケット物語が、トヤについた

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この人達の幾日かの生活をものがたっている。女のひとはバスケットを棚へ上げると、あとは又汽車の轟々たる音である。私の前の弟子らしい男達は、眠ったような顔をしていた。

「ああ俺アつまらねえ、東京へ帰って、いまさんの座にでもへえりていや、いつまでこうしてたって、寒くなるんだしなア……」

 弟子たちの此話が耳にはいったのか、紺縮みの男は、キラリと眼をそらすと、

「オイ! たんちゃん、横川へついたら、電報一ツたのんだぜ。」

 と、云った。四人共白けている。夫婦でもなさそうな二人のものの云いぶりに、私は此男と女が妙に胸に残っていた。

 夜。

 直江津の駅についた。土間の上に古びたまま建っているような港の駅なり。火のつきそめた駅の前の広場には、水色に塗った板造りの西洋建ての旅館がある。その旅館の横を切って、軒の出っぱった煤けた街が見えている。嵐もよいの愁々とした潮風が強く吹いていて、あんなにあこがれて来た私の港の夢はこっぱみじんに叩きこわされてしまった。こんなところも各自の生活で忙がしそうだ。仕方がないので私は駅の前の旅館へひきかえす。硝子戸に、いかやと書いてあった。

(九月×日)

 階下の廊下では、そうぞうしく小学生の修学旅行の群がさわいでいた。

 洗面所で顔を洗っていると、

「俺ア鰯をもういっぺん食べてえなア。」

 山国の小学生の男の子達が魚の話を珍らしげに話していた。私は二円の宿代を払って、外へ散歩に出てみた。雲がひくくかぶさっている。街をゆく人達は、家々の深いひさしの下を歩いている。芝居小屋の前をすぎると長い木橋があった。海だろうか、河なのだろうか、水の色がとても青すぎる。ぼんやり立って流れを見ていると、目の下を塵芥に混って鳩の死んだのがまるで雲をちぎったように流れていっていた。旅空で鳩の流れて行くのを見ている私。ああ何も此世の中からもとめるもののなくなってしまったいまの私は、別に私のために心を痛めてくれるひともないのだと思うと、私はフッと鳩のように死ぬる事を考えているのだ。何か非常に明るいものを感じる。木橋の上は荷車や人の跫音でやかましく鳴っている。静かに流れて行く鳩の死んだのを見ていると、幸福だとか、不幸だとか、もう、あんなになってしまえば空の空だ。何もなくなってしまうのだと思った。だけど、鳥のように美しい姿だといいんだが、あさましい死体を晒す事を考えると佗しくなってくる。駅のそばで団子を買った。

「この団子の名前は何と云うんですか?」

「ヘエ継続だんごです。」

「継続だんご……団子が続いているからですか?」

 海辺の人が、何て厭な名前をつけるんでしょう、継続だんごだなんて……駅の歪んだ待合所に腰をかけて、白い継続だんごを食べる。あんこをなめていると、あんなにも死ぬる事に明るさを感じていた事が馬鹿らしくなってきた。どんな田舎だって人は生活しているんだ。生きて働かなくてはいけないと思う。田舎だって山奥だって私の生きてゆける生活はあるはずだ。私のガラスのような感傷は、もろくこわれやすい。田舎だの、山奥だの、そんなものはお伽噺の世界だろう。煤けた駅のベンチで考えた事は、やっぱり東京へかえる事であった。私が死んでしまえば、誰よりもお母さんが困るのだもの……。

 低迷していた雲が切れると、灰をかぶるような激しい雨が降ってきた。汐くさい旅客と肩をあわせながら、こんなところまで来た私の昨日の感傷をケイベツしてやりたくなった。昨夜の旅館の男衆がこっちを見ている。銀杏返しに結っているから、酌婦かなんかとでも思っているのかも知れない。私も笑ってやる。

 長い夜汽車に乗った。

(九月×日)

 又カフェーに逆もどり、めちゃくちゃに狂いたい気持だった。めちゃくちゃにひとがこいしい……。ああ私は何もかもなくなってしまった酔いどれ女でございます。叩きつけてふみたくって下さい。乞食と隣りあわせのような私だ。家もなければ古里も、そしてたった一人のお母さんをいつも泣かせている私である。誰やらが何とか云いましたって……、酒を飲むと鳥が群れて飛んで来ます。樹がざわざわ鳴っているような不安で落ちつけない私の心、ヘエ! 淋しいから床を蹴って心臓が唄います事に、凭りどころなきうすなさけ、ても味気ないお芙美さん……。誰かが、めちゃくちゃに酔っぱらった私の唇を盗んで行きました。声をたてて泣いている私の声、そっと眼を挙げると、女達の白い手が私の肩に鳥のように並んでいました。

「飲みすぎたのね、此人は感情家だから。」

 サガレンのお由さんが私のことを誰かに云っている。私は血の上るようなみっともなさを感じると、シャンと首をもたげて鏡を見に立って行った。私の顔が二重に写っている鏡の底に、私を睨んでいる大きな眼、私は旅から生きてかえった事がうれしくなっていた。こんな甘いものだらけの世の中に、自分だけが真実らしく死んで見せる事は愚かな至りに御座候だ。継続だんごか! 芝居じみた眼をして、心あり気に睨んでいる男の顔の前で、私はおばけの真似でもしてみせてやりたいと思う。……どんな真実そうな顔をしていたって、酒場の男の感傷は生ビールよりはかないのですからね。私がたくさん酒を呑んだって帳場では喜んでいる、蛆虫メ!

「酔っぱらったからお先に寝さしてもらいます。」

 芙美子は強し。

(十月×日)

 秋風が吹く頃になりました。わたしはアイーダー

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[80]
を唄っています。

「ね! ゆみちゃん、私はどうも赤ん坊が出来たらしいのよ、厭になっちまうわ……」

 沈黙って本を読んでいる私へ、光ちゃんが小さい声でこんな事を云った。誰も居ないサロンの壁に、薔薇の黄いろい花がよくにおっていた。

「幾月ぐらいなの?」

「さあ、三月ぐらいだとおもうけれど…」

「どうしたのよ……」

「いま私んとこ子供なんか出来ると困るのよ……」

 二人はだまってしまった。おでんを食べに行った女達がぞろぞろかえって来る。

 私のいやな男が又やって来る。えてして芝居もどきな恰好で、女を何とかしようと云うものに、ろくなのはいない。こんなお上品な男の前では、大口をあけて、何かムシャムシャ食べているに限ります。私はうで玉子を卓子の角で割りながら、お由さんと食べる。

「おゆみさんいらっしゃいよ。」

 酔いどれ女の芸当がまだ見たいんですか、私は表に出てゆくと、街を吹く秋の風を力いっぱい吸った。エプロンをはずして、私もこの人混の中にはいってみたいと思った。露店が雨のようにならんでいる。

「一寸おたずねしますが、お宅は女給さん要らないでしょうか?」

 昔のスカートのように、いっぱいふくらんだ信玄袋を持った大きい女が、人混から押されて私の前に出て来た。

「さあ、いま四人もいるのですけれど、まだ要ると思いますよ、聞いてあげましょうか、待っていらっしゃい。」

 ドアを押すと、あの男は酔いがまわったのか、お由さんの肩を叩いて云っていた。

「僕はどうも気が弱くてね。」

 御もっとも様でございますよ。――連れて来てごらんと云うお上さんの言葉で、台所からまわって、私は信玄袋の女をまねくと、急に女は泣きだして云った。「私は田舎から出て来たばかりで、初めてなんですが、今晩行くところがないから、どうしてもつかって下さい、一生懸命働きます。」と云っている。うすら冷たい風に、メリンスの単衣がよれよれになって寒そうだった。どうせ、こんなカフェーなんて、女でありさえすればいいのだもの、此女だって、信玄袋をとれば鏡をみつめ出すにわかっています。

「お上さん、とても店には女がたりないんですからおいてあげて下さいよ。」

 上州生れで、繭のように肥った彼女は、急な裏梯子から信玄袋をかついで二階の女給部屋に上って行った。「お蔭様でありがとうございます。」暗がりにうずくまっている女の首が太く白く見えた。

「あなた、いくつ?」

「十八です。」

「まあ若い……」

 女が着物をぬいで不器用な手つきで支度をしているのをそばでじっと見ていると、私は何かしら眼頭が熱くなって来た。ああ暗がりってどうしてこんなにいいものなのだろう、埃のいっぱいしている暗い燈火の下で、唇を毒々しくルウジュで塗った女達が、せいいっぱいな唄をうたっている。おお神様いやなことです。

「ゆみちゃん! あの人がいらっしゃってよ。」

 いつまでもこの暗がりで寝転がっていたいのに、由ちゃんが何か頬ばりながら二階へ上ってきた。新らしくきた女のひとにエプロンを貸してやる。妙にガサガサ荒れた手をしていた。

「私、一度世帯を持った事がありましてね。」

「…………」

「これから一生懸命に働きますから、よろしくお願いいたします。」

「ここにいる人達は、皆同じことをして来た人達なんだから、皆同じようにしていりゃいいのよ。場銭が十五銭ね、それから、店のものはこわさないようになさい、三倍位には取られてしまうのよ、それから、この部屋で、お上さんも旦那も、女給もコックも一緒に寝るんだから、その荷物は棚へでもあげておおきなさい。」

「まあこんなせまいところにねるのですか。」

「ええそうなのよ。」

 階下へ降りると、例の男がよろよろ歩いて私にいった。

「どっか公休日に遊びに行きませんか!」

「公休日? ホッホヽヽヽ私とどっかへ行くと、とても金がかかりますよ。」

 そうして私は帯を叩いて云ってやった。

「私赤ん坊がいるから当分駄目なんですよ。」

(十二月×日)

「飯田がね、鏝でなぐったのよ……厭になってしまう……」

 飛びついて来て、まあよく来たわね、と云ってくれるのを楽しみにしていた私は、長い事待たされて、暗い路地の中からしょんぼり出て来たたい子さんを見ると、不図自動車や行李や時ちゃんが何か非常に重荷になってきてしまって、来なければよかったんじゃないかと思えて来た。

「どうしましょうね、今さらあのカフェーに逆もどりも出来ないし、少し廻って来ましょうか、飯田さんも私に会うのはバツが悪いでしょうから……」

「ええ、ではそうしてね。」

 私は運転手の吉さんに行李をかついでもらうと、酒屋の裏口の薬局みたいな上りばなに行李を転がしてもらって、今度は軽々と、時ちゃんと二人で自動車に乗った。

「吉さん! 上野へ連れて行っておくれよ。」

 時ちゃんはぶざまな行李がなくなったので、陽気にはしゃぎながら私の両手を振った。

「大丈夫かしら、たい子さんって人、貴女の親友にしちゃあ、随分冷たい人ね、泊めてくれるかしら……」

「大丈夫よ、あの人はあんな人だから、気にかけないでもいいのよ、大船に乗ったつもりでいらっしゃい。」

 二人はお互に淋しさを噛み殺していた。

「何だか心細くなって来たわね。」

 時ちゃんは淋しそうに涙ぐんでいる。

「もうこれ位でいいだろう、俺達も仕事しなくちゃいけないから。」

 十時頃だった、星が澄んで光っている。十三屋の櫛屋のところで自動車を止めてもらうと、時ちゃんと私は、小さい財布を出して自動車代を出した。

「街中乗っけてもらったんだから、いくらかあげなきゃあ悪いわ。」

 吉さんは、私達の前に汚れた手を出すと、

「馬鹿! 今日のは俺のセンベツだよ。」と云った。

 吉さんの笑い声があまり大きかったので、櫛屋の人達もビックリしてこっちを見ている。

「じゃ何か食べましょう、私の心がすまないから。」

 私は二人を連れると、広小路のお汁粉屋にはいった。吉さんは甘いもの好きだから。ホラお汁粉一杯上ったよ! ホラも一ツ一杯上ったよ! お爺さんのトンキョウな有名な呼び声にも今の淋しい私には笑えなかった。「吉さん! 元気でいてね。」時ちゃんは吉さんの鳥打帽子の内側をかぎながら、子供っぽく目をうるませていた。――歩いて私達が本郷の酒屋の二階へ帰って行った時はもう十二時近かった。夜更けの冷たい舗道の上を、支那蕎麦屋の燈火が通っているきりで、二人共沈黙って白い肩掛を胸にあわせた。

 酒屋の二階に上って行くと、たいさんはいなくて、見知らない紺がすりの青年が、火の気のない火鉢にしょんぼり手をかざしていた。何をする人なのかしら……私は妙に白々としたおもいだった。寒い晩である。歯がふるえて仕方がない。

「たい子さんと云うひとが帰らなければ私達は寝られないの?」

 時ちゃんは、私の肩にもたれて、心細げに聞いている。

「寝たっていいのよ、当分ここにいられるんだもの、蒲団を出してあげましょうか。」

 押入れをあけると、プンと淋しい女の一人ぐらしの匂いをかいだ。たい子さんだって淋しいのだ。大きなアクビにごまかして、袖で眼をふきながら、蒲団を敷いて時ちゃんをねせつけてやる。

「貴女は林さんでしょう……」

 その青年はキラリと眼鏡を光らせて私を見た。

「僕、山本です。」

「ああそうですか、たいさんに始終聞いていました。」

 なあんだ、私がしびれの切れた足を急に投げだすと、寒いですねと云う話から、二人の気持ちはほぐれて来た。色々話をしていると、段々この青年のいい所が目について来る。私は一生懸命あいつを愛しているんですがと云って、山本さんは涙ぐんでいる。そして、火鉢の灰をじっとかきならしていた。

 たい子さんは幸福者だと思う。私は別れて間もない男の事を考えていた。あんなに私をなぐってばかりいたひとだったけれど、このひとの純情が十分の一でもあったらと思う。時ちゃんはもういびきをかいて眠っていた。「では僕は帰りますから、明日の夕方にでも来るように云って下さいませんか。」もう二時すぎである。青年は下駄を鳴らして帰って行った。たい子さんは、あの人との子供の骨を転々と持って歩いていたけれど、いまはどうしてしまったかしら、部屋の中には折れた鏝が散乱していた。

(十二月×日)

 雨が降っている。夕方時ちゃんと二人で風呂に行った。帰って髪をときつけていると、飯田さんが来る。私は袖のほころびを縫いながら、このごろおぼえた唄をフッとうたいたくなっていた。ああ厭になってしまう。別れてまでノコノコと女のそばへ来るなんて、飯田さんもおかしい人だと思う。たい子さんは沈黙っている。

「こんなに雨が降るのに行くの?」

 たい子さんは佗しそうに、ふところ手をして私達を見ていた。

 二人で浅草へ来た時は夕方だった。激しい雨の降る中を、一軒一軒、時ちゃんの住み込みよさそうな家をさがしてまわった。やがてきまったのはカフェー世界と云う家だった。

「どっかへ引っ越す時は知らしてね、たい子さんによろしく云ってね。」

 時ちゃんはほんとうに可愛い娘だ。野性的で、行儀作法は知らないけれども、いいところのある女なり。

「久し振りで、二人で、別れのお酒もりでもしましょうか……」

「おごってくれる?」

「体を大事にして、にくまれないようにね。」

 浅草の都寿司にはいると、お酒を一本つけてもらって、私達はいい気持ちに横ずわりになった。雨がひどいので、お客も少いし、バラック建てだけれども、落ちついたいい家だった。

「一生懸命勉強してね。」

「当分会えないのね時ちゃんとは……私、もう一本呑みたい。」

 時ちゃんはうれしそうに手を鳴らして女中を呼んだ。やがて、時ちゃんをカフェーに置いて帰ると、たい子さんは一生懸命何か書きものをしていた。九時頃山本さんみえる。

 私は一人で寝床を敷いて、たい子さんより先に寝についた。

(十二月×日)

 フッと眼を覚ますと、せまい蒲団なので、私はたい子さんと抱きあってねむっていた。二人とも笑いながら背中をむけあう。

「起きなさい。」

「私いくらでも眠りたいのよ……」

 たい子さんは白い腕をニュッと出すと、カーテンをめくって、陽の光りを見上げた。――梯子段を上って来る音がしている。たい子さんは無意識に、手を引っこめると、

「寝たふりをしてましょう、うるさいから。」と云った。

 私とたいさんは抱きあって寝たふりをしていた。やがて襖があくと、寝ているの? と呼びかけながら山本さんがはいって来る。山本さんは私達の枕元になれなれしく坐ったので、私は一寸不快になる。しかたなく目をさました。たい子さんは、

「こんな朝早くから来てまだ寝てるじゃありませんか。」

「でも勤め人は、朝か夜かでなきゃあ来られないよ。」

 私はじっと目をとじていた。どうしたらいいのか、たいさんのやり方も手ぬるいと思った。厭なら厭だと、はっきりことわればいいのだ。

 今日から街はりょうあん

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[81]
である。昼からたい子さんと二人で銀座の方へ行ってみた。

「私はね、原稿を書いて、生活費位は出来るから、うるさいあそこを引きはらって、郊外に住みたいと思っているのよ……」

 たいさんは茶色のマントをふくらませて、電気スタンドの美しいのをショーウインドに眺めながら、そのスタンドを買うのが唯一の理想のように云った。歩ける丈け歩きましょう。銀座裏の奴寿司で腹が出来ると、黒白の幕を張った街並を足をそろえて二人は歩いていた。朝でも夜でも牢屋はくらい

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[82]
、いつでも鬼メが窓からのぞく。二人は日本橋の上に来ると、子供らしく欄干に手をのせて、飄々と飛んでいる白い鴎を見下ろしていた。

一種のコウフンは私達には薬かも知れない。
二人は幼稚園の子供のように
足並をそろえて街の片隅を歩いていた。
同じような運命を持った女が、
同じように眼と眼とみあわせて淋しく笑ったのです。
なにくそ!
笑え! 笑え! 笑え!
たった二人の女が笑ったとて
つれない世間に遠慮は無用だ
私達も街の人達に負けないで
国へのお歳暮をしましょう。
鯛はいいな
甘い匂いが嬉しいのです
私の古里は遠い四国の海辺
そこには父もあり母もあり
家も垣根も井戸も樹木も
ねえ、小僧さん!
お江戸日本橋のマークのはいった
大きな広告を張って下さい
嬉しさをもたない父母が
どんなに喜んで遠い近所に吹ちょうして歩く事でしょう
――娘があなた、お江戸の日本橋から買って送って呉れましたが、まあ一ツお上りなして
ハイ…………。
信州の山深い古里を持つかの女も
茶色のマントをふくらませ
いつもの白い歯で叫んだのです。
――明日は明日の風が吹くから、ありったけの銭で買って送りましょう……。
小僧さんの持っている木箱には
さつまあげ、鮭のごまふり、鯛の飴干し
二人は同じような笑いを感受しあって
日本橋に立ちました。
日本橋! 日本橋!
日本橋はよいところ
白い鴎が飛んでいた。
二人はなぜか淋しく手を握りあって歩いたのです。
ガラスのように固い空気なんて突き破って行こう。
二人はどん底の唄をうたいながら
気ぜわしい街ではじけるように笑いあいました。

 私はなつかしい木箱の匂いを胸に抱いて、国へのお歳暮を愉しむ思いだった。

(十二月×日)

「今夜は、庄野さんが遊びに来てよ、ひょっとすると、貴女の詩集位は出してくれるかもわからないわね。新聞をやっているひとの息子ですってよ……」

 たいさんがそんなことを云った。たいさんと二人で夕飯を食べ終ると、二人は隣の部屋の、軍人上りの株屋さんだと云う、子持ちの夫婦者のところへまねかれて遊びに行く。「貴女達は呑気ですね。」たいさんも私もニヤニヤ笑っている。お茶をよばれながら、三十分も話していると庄野さんがやって来た。インバネスを着て、ぞろりとした恰好だ。此人は酔っぱらっているんじゃないかと思う程クニャクニャした体つきをしていた。でも人の良さそうな坊ちゃんである。こんな人に詩集を出して貰ったって仕様がない。私は菓子を買って来た。炬燵にあたって三人で雑談をする。やがて、飯田さんと山本さん二人ではいって来る、ただならない空気だ。

 飯田さんがたい子さんにおこっている。飯田さんは、たい子さんの額にインキ壺を投げつけた。唾が飛ぶ。私は男への反感がむらむらと燃えた。「何をするんですッ。又、たい子さんもどうしたのッ、これは……」たいさんは、流れる涙をせぐりあげながら話した。「飯田にいじめられていると、山本のいいところが浮んで来るの、山本のところへ行くと、山本がものたりなくなるのよ。」「どっちをお前は本当に愛しているのだ?」私は二人の男がにくらしかった。

「何だ貴方達だって、いいかげんな事をしてるじゃないのッ!」

「なにッ!」

 飯田さんは私を睨む。

「私は飯田を愛しています。」

 たい子さんはキッパリ云い切ると、飯田さんをジロリと見上げていた。私はたいさんが何故か憎らしかった。こんなにブジョクされてまでもあんなひとがいいのかしら……山本さんは溝へ落ちた鼠のようにしょんぼりすると、蒲団は僕のものだから持ってかえると云い出した。すべてが渦のようである。――やがて何時の間にか、たい子さんはいち早く山田清三郎氏

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[83]
のところへ逃げて行った。私はブツブツ云いながら三人の男たちと外に出た。カフェーにはいって、酒を呑む程に酔がまわる程に、四人はますますくだらなく落ちこんで来る。庄野さんは私に下宿に泊れと云った。蒲団のない寒さを思うと、私は何時の間にか庄野さんと自動車に乗っていた。舌たらずのギコウにまけてなるものか。私は酒に酔ったまねは大変上手です。二人はフトンの上に、二等分に帯をひっぱって寝た。

「山本君だって飯田君だってたいさんだって、あとで聞いたら関係があると云うかも知れないね。」

「云ったっていいでしょう。貴方も公明正大なら、私も公明正大ね、一夜の宿をしてくれてもいいでしょう。蒲団がなけりゃ仕様がないもの。」

 私は、私に許された領分だけ手足をのばして目をとじた。たいさんも宿が出来たかしら……目頭に熱い涙が湧いてくる。

「庄野さん! 明日起きたら、御飯を食べさせて下さいね、それからお金もかしてね、働いて返しますから……」

 私は朝まで眠ってはならないと思った。男のコウフン状態なんて、政治家と同じようなものだ、駄目だと思ったらケロリとしている。明日になったら、又どっかへ行くみちをみつけなくてはいけないと思う。

(十二月×日)

 ゆかいな朝である。一人の男に打ち勝って、私は意気ようようと酒屋の二階へ帰ってきた。たいさんも帰っていた。畳の上では何か焼いた跡らしく、点々と畳が焦げていて、たいさんの茶色のマントが、見るもむざんに破られていた。

「庄野さんとこへ昨夜泊ったのよ。」

 たいさんはニヤリと笑っていた。いやな笑いかたである。思うように思うがいいだろう。私はもう捨てばちであった。たいさんはいいひとが出来たと云った。そして結婚をするかも知れないと云っている。うらやましくて仕様がない。今は只沈黙っていたいと云っていた。淋しかったが、たいさんの顔は何か輝いていて幸福そうだ。みじめな者は私一人じゃないか。私はくず折れた気持ちで、片づけているたい子さんの白い手を呆んやりながめていた。

(二月×日)

 黄水仙の花には何か思い出がある。窓をあけると、隣の家の座敷に燈火がついていて、二階から見える黒い卓子の上には黄水仙が三毛猫のように見えた。階下の台所から夕方の美味しそうな匂いと音がしている。二日も私は御飯を食べない。痺れた体を三畳の部屋に横たえている事は、まるで古風なラッパのように埃っぽく悲しくなってくる。生唾が煙になって、みんな胃のふへ逆もどりしそうだ。ところで呆然としたこんな時の空想は、まず第一に、ゴヤの描いたマヤ夫人

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[84]
の乳色の胸の肉、頬の肉、肩の肉、酸っぱいような、美麗なものへ、豪華なものへの反感が、ぐんぐん血の塊のように押し上げて来て、私の胃のふは旅愁にくれてしまった。いったい私はどうすれば生きてゆけるのだ。

 外へ出てみる。町には魚の匂いが流れている。公園にゆくと夕方の凍った池の上を、子供達がスケート遊びをしていた。固い御飯だって関いはしないのに、私は御飯がたべたい。荒れてザラザラした唇には、上野の風は痛すぎる。子供のスケート遊びを見ていると、妙に切ぱ詰った思いになって涙が出た。どっかへ石をぶっつけてやりたいな。耳も鼻も頬も紅くした子供の群が、束子でこするようにキュウキュウ厭な音をたてて、氷の上をすべっていた。――一縷の望みを抱いて百瀬さんの家へ行ってみる。留守なり。知った家へ来て、寒い風に当る事は、腹がへって苦しいことだ。留守居の爺さんに断って家へ入れて貰う。古呆けて妖怪じみた長火鉢の中には、突きさした煙草の吸殻が葱のように見えた。壁に積んである沢山の本を見ていると、なぜだか、舌に唾が湧いて来て、この書籍の堆積が妙に私を誘惑してしまう。どれを見ても、カクテール製法の本ばかりだった。一冊売ったらどの位になるのかしら、支那蕎麦に、てん丼に、ごもく寿司、盗んで、すいている腹を満たす事は、悪い事ではないように思えた。火のない長火鉢に、両手をかざしていると、その本の群立が、大きい目玉をグリグリさせて私を嗤っているように見える。障子の破れが奇妙な風の唄をうたっていた。ああ結局は、硝子一重さきのものだ。果てしもなく妙に溺れた私の食慾は、風のビンビン吹きまくる公園のベンチに転がるより仕ようがない。へへッ兎に角、二々が四である。たった一枚のこっている、二銭銅貨が、すばらしく肥え太ったメン鶏にでも生れかわってくれないかぎり、私の胃のふは永遠の地獄だ。歩いて池の端から千駄木町に行った。恭ちゃんの家に寄ってみる。がらんどうな家の片隅に、恭ちゃんも節ちゃんも凸坊も火鉢にかじりついていた。這うような気持ちで御飯をよばれる。口一杯に御飯を頬ばっている時、節ちゃんが、何か一言優しい言葉をかけてくれたのでやみくもに涙が溢れて困ってしまった。何だか、胸を突き上げる気持ちだった。口のなかの飯が、古綿のように拡がって、火のような涙が噴きこぼれてきた。塩っぱい涙をくくみながら、声を挙げて泣き笑いしていると、凸坊が驚いて玩具をほうり出し一緒に泣き出してしまった。

「オイ! 凸坊! おばちゃんに負けないでもっともっと大きい声で泣け、遠慮なんかしないで、汽笛の様な大きな声で泣くんだよ。」

 恭ちゃんが凸坊の頭を優しく叩くと、まるで町を吹き流してくるじんたのクラリオネットみたいに、凸坊は節をつけて大声をあげて泣いた。私の胸にはおかしく温かいものが矢のように流れてくる。

「時ちゃんて娘どうして?」

「月初めに別れちゃったわ、どこへ行ったんだか、仕合せになったでしょう……」

「若いから貧乏に負けっちまうのよ。」

 私は赤い毛糸のシャツを二枚持っているから、一枚を節ちゃんに上げようと思った。節ちゃんの肌が寒そうだった。寝転んで、天井を睨んでいた恭ちゃんが此頃つくった詩だといって、それを大きい声で私に朗読してくれた。激しい飛び散るようなその詩を聞いていると、私一人の飢えるとか飢えないとかの問題が、まるでもう子供の一文菓子のようにロマンチックで、感傷的で、私の浅い食慾を嘲笑しているようである。正しく盗む事も不道徳ではないと思えた。帰って今夜はいいものを書こう。コウフンしながら、楽しみに私は夜風の冷たい町へ出て行った。

星がラッパを吹いている。
突きさしたら血が吹きこぼれそうだ。
破れ靴のように捨てられた白いベンチの上に
私はまるで淫売婦のような姿態で
無数の星の冷たさを眺めている。
朝になれば
あんな光った星は消えてしまうじゃありませんか
誰でもいい!
思想も哲学もけいべつしてしまった、白いベンチの女の上に
臭い接吻でも浴びせて下さいな
一つの現実は
しばし飢えを満たしてくれますからね。

 家に帰る事が、むしょうに厭になってしまった。人間の生活とは、かくまでも佗しいものなのか? ベンチに下駄をぶらさげたまま横になっていると、星があんまりまぶしい。星は何をして生きているのだろう。

 星になった女! 星から生れた女! 頭がはっきりする事は、風が筒抜けで馬鹿のように悲しくなるだけだ。夜更け、馬に追いかけられた夢を見た。隣室の唸り声頭痛し。

(二月×日)

 朝から雪混りの雨が降っている。寝床で当にならない原稿を書いていると、十子が遊びに来てくれた。

「私、どこへも行く所がなくなったのよ、二三日泊めてくれない?」

 羽根のもげたこおろぎのような彼女の姿態から、押花のような匂いをかいだ。

「二三日泊めることは安いことだけれど、お米も何もないのよ、それでよかったら何日でも泊っていらっしゃい。」

「カフェーのお客って、みんなジュウ

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みたいね、鼻のさきばかり赤くしていて、真実なんかと云うものは爪の垢ほどもありゃしないんだから……」

「カフェーのお客でなくったって、いま時、物々交換でなくちゃ………この世の中はせち辛いのよ。」

「あんなところで働くのは、体より神経の方が先に参っちゃうわね。」

 十子は、帯を昆布巻きのようにクルクル巻くと、それを枕のかわりにして、私の裾に足を伸ばして蒲団へもぐり込んで来た。「ああ極楽! 極楽!」すべすべと柔かい十子のふくらはぎに私の足がさわると、彼女は込み上げて来る子供の様な笑い声で、何時までもおかしそうに笑っていた。

 寒い夜気に当って、硝子窓が音を立てている。家を持たない女が、寝床を持たない女が、可愛らしい女が、安心して裾にさしあって寝ているのだ。私はたまらなくなって、飛びおきるなり火鉢にドンドン新聞をまるめて焚いた。

「どう? 少しは暖かい?」

「大丈夫よ……」

 十子は蒲団を頬迄ずり上げると、静かに息を殺して泣き出していた。

 午前一時。二人で戸外へ出て支那そばを食べた。朝から何もたべていなかった私は、その支那そばがみんな火になってしまうようなおいしい気持ちがした。炬燵がなくても、二人で蒲団にはいっていると、平和な気持ちになってくる。いいものを書きましょう、努力しましょう……。

(二月八日)

 朝六枚ばかりの短篇を書きあげる。この六枚ばかりのものを持って、雑誌社をまわることは憂鬱になって来た。十子は食パンを一斤買って来てくれる。古新聞を焚いて茶をわかしていると、暗澹とした気持ちになってきて、一切合切が、うたかたの泡より儚なく、めんどくさく思えて来る。

「私、つくづく家でも持って落ちつきたくなったのよ、風呂敷一ツさげて、あっちこっち、カフェーやバーをめがけて歩くのは心細くなって来たの……」

「私、家なんかちっとも持ちたくなんぞならないわ。このまま煙のように呆っと消えられるものなら、その方がずっといい。」

「つまらないわね。」

「いっそ、世界中の人間が、一日に二時間だけ働くようになればいいとおもうわ、あとは野や山に裸で踊れるじゃないの、生活とは? なんて、めんどくさい事考えなくてもいいのにね。」

 階下より部屋代をさいそくされる。カフェー時代に、私に安ものの、ヴァニティケース

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をくれた男があったけれど、あの男にでも金をかりようかしらと思う。

「あーあの人? あの人ならいいわ、ゆみちゃんに参っていたんだから……」

 ハガキを出してみる、神様! こんな事が悪い事だとお叱り下さいますな。

(二月×日)

 思いあまって、夜、森川町の秋声氏

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のお宅に行ってみた。国へ帰るのだと嘘を云って金を借りるより仕方がない。自分の原稿なんか、頼む事はあんまりはずかしい気持ちがするし、レモンを輪切りにしたような電気ストーヴが赤く愉しく燃えていて、部屋の中の暖かさは、私の心と五百里位は離れている。犀と云う雑誌の同人だと云う、若い青年がはいって来た。名前を紹介されたけれども、秋声氏の声が小さかったので聞きとれなかった。金の話も結局は駄目になって、後で這入って来た順子さん
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の華やかな笑い声に押されて、青年と私と秋声氏と順子さんと四人は戸外に散歩に出て行った。

「ね、先生! おしるこでも食べましょうよ。」

 順子さんが夜会巻き風な髪に手をかざして、秋声氏の細い肩に凭れて歩いている。私の心は鎖につながれた犬のような感じがしないでもなかったけれど、非常に腹がすいていたし、甘いものへの私の食慾はあさましく犬の感じにまでおちこんでしまっていたのだ。誰かに甘えて、私もおしる粉を一緒に食べる人をさがしたいものだ。四人は、燕楽軒の横の坂をおりて、梅園と云う待合のようなおしる粉屋へはいる。黒い卓子について、つまみのしその実を噛んでいると、ああ腹いっぱいに茶づけが食べてみたいと思った。しる粉屋を出ると、青年と別れて私達三人は、小石川の紅梅亭と云う寄席に行った。賀々寿々の新内と、三好の酔っぱらいに一寸涙ぐましくなっていい気持ちであった。少しばかりの金があれば、こんなにも楽しい思いが出来るのだ。まさか紳士と淑女に連れそって来た私が、お茶づけを腹いっぱい食いたい事にお伽噺のような空想を抱いていると、いったい誰が思っているだろう。順子さんは寄席も退屈したと云う。三人は細かな雨の降る肴町の裏通りを歩いていた。

「ね、先生! 私こんどの女性の小説の題をなんてつけましょう? 考えて見て頂戴な。流れるままには少しチンプだから……」

 順子さんがこんな事を云った。団子坂のエビスで紅茶を呑んでいると、順子さんは、寒いから、何か寄鍋でもつつきたいと云う。

「あなた、どこか美味しいところ知ってらっしゃる?」

 秋声氏は子供のように目をしぱしぱさせて、そうねとおっしゃったきりだった。やがて、私は、お二人に別れた。二人に別れて、やがて小糠雨を羽織に浴びながら、団子坂の文房具屋で原稿用紙を一帖買ってかえる。――八銭也―― 体中の汚れた息を吐き出しながら、まるで尾を振る犬みたいな女だったと、私は私を大声をあげて嘲笑ってやりたかった。帰ったら部屋の火鉢に、切り炭が弾けていて、カレーの匂いがぐつぐつ泡をふいていた。見知らない赤いメリンスの風呂敷包みが部屋の隅に転がっていて、新らしい蛇の目の傘がしっとりと濡れたまま縁側に立てかけてあった。隣室では又今夜も秋刀魚だ。十ちゃんの羽織を壁にかけていると、十ちゃんが笑いながら梯子段を上って来て、「お芳ちゃんがたずねて来てね、二人でいま風呂へ行ったのよ。」と云った。皆カフェーの友達である。此女はどこか、英百合子に似ていて、肌の美しい女だった。「十ちゃんも出てしまうし、面白くないから出て来ちゃったわ、二日程泊めて下さいね。」まるで綿でも詰っているかの様に大きな髷なしの髪をセルロイドの櫛でときつけながら、「女ばかりもいいものね……時ちゃんに此間逢ってよ。どうも思わしくないから、又カフェーへ逆もどりしようかって云ってたわ。」お芳さんが米も煮えているカレーも買ってくれたんだと云って、十子がかいがいしく茶ブ台に茶碗をそろえていた。久し振りに明るい気持ちになる。敷蒲団がせまいので、昼夜帯

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をそばに敷いて、私が真中、三人並んで寝る事にした。何だか三畳の部屋いっぱいが女の息ではち切れそうな思いだった。高いところからおっこちるような夢ばかり見るなり。

(二月×日)

 新聞社に原稿をあずけて帰って来ると、ハガキが一枚来ていた。今夜来ると云う、あの男からの速達だった。十ちゃんも芳ちゃんも仕事を見つけに行ったのか、部屋の中は火が消えたように淋しかった。あんな男に金を貸してくれなんて云えたものではないではないか……、十ちゃんに相談をしてみようかと思う……、妙に胸がさわがしくなってきた。あのヴァニティケースだってほてい屋の開業日だって云うので、物好きに買って来た何割引かのものなのだ。そうして、偶然に私の番だったので、くれたようなものであろう。路傍の人以外に何でもありはしないではないの。あんなハガキ一本で来ると云う速達をみて気持ち悪し。その人はもうかなりな年であったし、私は歯がズキズキする程胸さわがしくなってしまった。夜。――霰まじりの雪が降っていた。女達はまだ帰って来ない。雪を浴びた林檎の果実籠をさげて、ヴァニティケースをくれた男が来る。神様よ笑わないで下さい。私の本能なんてこんなに汚れたものではないのです。私は沈黙って両手を火鉢にかざしていた。「いい部屋にいるんだね。」此男は、まるで妾の家へでもやって来たかの如く、オーヴァをぬぐと、近々と顔をさしよせて、「そんなに困っているの……」と云った。

「十円位ならいつでも貸してあげるよ。」

 暗いガラス戸をかすめて雪が降っている。私の両手を、男は自分の大きい両手でパンのようにはさむと、アイマイな言葉で「ね!」と云った。私はたまらなく汚れた憎しみを感じると、涙を振りほどきながら、男に云ったのだ。

「私はそんなンじゃないんですよ。食えないから、お金だけ貸してほしかったのです。」

 隣室で、細君のクスクス笑う声が聞えている。

「誰です! 笑っているのは……笑いたければ私の前で笑って下さい! 蔭でなぞ笑うのは止して下さい!」

 男の出て行った後、私は二階から果物籠を地球のように路地へほうり投げてしまった。

(二月×日)

 私は私がボロカス女だと云うことに溺れないように用心をしていた。街を歩いている女を見ると、自分のみっともなさも感じないけれども、何日も食えないで、じっと隣室の長閑な笑い声を聞いていると、私は消えてなくなりたくなるのだ。死んだって生きていたって不必要な人間なんだと考え出してくると、一切合切がグラグラして来て困ってしまう。つかみどころなき焦心、私の今朝の胃のふが、葉っぱ漬けだけのように、私の頭もスカスカとさみしい風が吹いている。極度の疲労困憊は、さながら生きているミイラのようだ。古い新聞を十度も二十度も読みかえして、じっと畳に寝ころんでいる姿を、私はそっと遠くに離れて他人ごとのように考えている。私の体はいびつ、私のこころもいびつなり。とりどころもない、燃えつくした肉体、私はもうどんなに食えなくなってもカフェーなんかに飛び込む事は止めましょう。どこにも入れられない私の気持ちに、テラテラまがいものの艶ぶきんをかけて笑いかける必要はないのだ。どこにも向きたくないのなら、まっすぐ向うを向いていて飢えればいいのだ。

 夜。

 利秋君が、富山の薬袋に米を一升持って来てくれる。この男には、何度も背負い投げを食わしたけれど、私はこんなアナキストは嫌いなのだ。「貴女が死ぬほど好きだ。」と云ってくれたところで、大和館でのように、朝も晩も朝も晩も遠くから私を看視している状態なんて、私の好かないところです。

「もう当分御飯を食べる事を休業しようかと思っていますのよ。」

 私は固く扉を閉ざしてかぎをかけた。少しばかり腹を満たしたいために、不用な渦を吸いたくなかった。頭の頂天まで飢えて来ると鉄板のように体がバンバン鳴っているようで、すばらしい手紙が書きたくなってくる。だが、私はやっぱり食べたいのです。ああ私が生きてゆくには、カフェーの女給とか女中だなんて! 十本の指から血がほとばしって出そうなこの肌寒さ……さあカクメイでも何でも持って来い。ジャンダークなんて吹っ飛ばしてしまおう。だが兎に角、何も彼もからっぽなのだ。階下の人達が風呂へ行ってる隙に味噌汁を盗んで飲む。神よ嗤い給え。あざけり給えかし。

 あああさましや芙美子消えてしまえである。

 働いていても、自分には爪の垢ほども食べるたしにはならないなんて、今までの生活むきは、細く長くだった。ああ一円の金で私は五日も六日も食べていった事があった。死ぬる事なんていつも大切に取っておいたのだけれど、明日にも自殺しようかと考えると、私はありったけのぼろ屑を出して部屋にばらまいてやった。生きている間の私の体臭、なつかしやいとしや、疲れてドロドロに汚れた黒いメリンスの衿に、垢と白粉が光っている。私は子供のように自分の匂いをかぎました。この着物で、むかし、私はあのひとに抱かれたのです。あの思い! この思い! 蒼ざめて血の上って来る孤独の女よ、むねを抱いた両手の中には、着物や帯や半衿のあらゆる汚れから来る体臭のモンタージュ

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[90]
なり。

 私はこのすばらしいエクスタシイを前にして、誰に最後の嘲笑さるべき手紙を書こうかと思った。Aにか、Bにか、Cにか……。シャックリの出る私の人生観を一寸匂わしてね。面白い興奮だと思う。「ね、こんなに、私は貴方を愛しているのに……」古新聞の上に散らかった広告の上には、一寸面白いサラダとビフテキのような名前がのっていた。三上於莵吉

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なんて一寸エネルギッシュでビフテキみたいだが、これも面白い。吉田絃二郎
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なんて、菜っぱと小鳥みたいなエトランゼ。私は二人へ同じ文章を書いてみようと思った。

海ぞいの黍畑に
何の願いぞも
固き葉の颯々と吹き荒れて
二十五の女は
真実命を切りたき思いなり
真実死にたき思いなり
伸びあがり伸び上りたる
玉蜀黍は儚なや実が一ツ

 ああこんな感傷を手紙の中にいれる事は止めましょう。イザベラ皇后様

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がコロンブス
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を見つけた興奮で、私のペン先はもうしどろもどろなのだ。ああソロモンの百合の花
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[95]
に、ドブドブと墨汁をなすりつけ給え!

(二月×日)

 朝、冷たい霧雨が降っていた。晩あたりは雪になるかも知れない。久しく煙草も吸わない。この美しい寝ざめを、ああ石油の匂いのプンプンする新しい新聞が読みたいものだと思う。

 隣室のにぎやかな茶碗の音、我に遠きものあり。昨夜書いた二通の手紙、私は薄っすりとした笑いを心に感じると、何も彼も、馬鹿くさい気がしてしまった。だけどまあ、人生なんてどっちを見ても薄情なものだ。真実めかして……ところで、問題は私の懐中に三銭の銅貨があることである。この三銭のお金にセンチメンタルを送ってもらうなんて事は、向う様に対してボウトクだけれど、十銭玉で七銭おつりを取るヨユウがあったら、私はこの二通の手紙を書かないで済んだかも知れないのだ――。日本綴りのボロボロになった「一茶句集」

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を出して読むなり。

きょうの日も棒ふり虫よ翌日も又
故郷は蠅まで人をさしにけり
思うまじ見まじとすれど我家かな

 一茶は徹底した虚無主義者だ。だけど、いま私は飢えているのです。この本がいくらにでも売れないかしら――。寝たっきりなので、体をもち上げるとポキポキ骨が鳴ってくる。指で輪をこしらえて、私の首を巻いてみると、おいたわしや私の動脈は別に油をさしてやらないのに、ドクドク澄んだ音で血が流れを登っている。尊しや。

 二通の手紙。ドッチヲサキニダシマショウカ。何と他愛もない事なのだろう。吉田氏へ手紙を出す事にきめる。さて、音のしなくなった足をふみしめて街に出てみるなり。

 湯島天神に行ってみた。お爺さんが車をぶんぶんまわして、桃色の綿菓子をつくっていた。あるかなきかの桃色の泡が真鍮の桶の中から湧いて出てくると、これが霧のような綿菓子になる。長い事草花を見ない私の眼には、まるでもう牡丹のように写ります。「おじいさん! 二銭頂戴。」子供の頭ぐらいの大きい綿菓子を私はそっと抱いた。誰もいない石のベンチでこれを食べよう。綿菓子を頬ばって、思うまじ見まじとすれど我家かな、漠然とこんな孤独を愛する事もいいではありませんか。

「おじいさん、三銭下さいな。」

 あえなくも菜っぱと小鳥の感傷が、桃色の甘い綿菓子に変ってしまった。何と愛すべき感傷であろう。私の連想は舌の上で涙っぽい砂糖に変ってしまった。しっかりと目をつぶって、切手をはらない吉田氏への手紙をポストに投げる。新潮社気付で送ったけれど、一笑されるかもしれない。三上氏への手紙は破る。とても華やかに暮している人に、こんな小さな現実なんて、消えてなくなるかも知れないもの――。身近にある人の事なんか妙にかすんでしまってくる。綿菓子のじいさんは、この寒空に雨が煙っているのに、何時までもガラガラと真鍮の車をまわしていた。ベンチに腰をかけて雨を灰のようにかぶって綿菓子をなめている女、その女の眼には遠い古里と、お母さんと男のことと、私のかんがえなんて、こんなくだらない郷愁しかないのだ!

(三月×日)

 昼夜帯と本を二三冊売って二円十銭つくる。本屋さんが家までついて来て云う事には、「お家さえ判っておりませば、又頂きに上ります。」どういたしまして、私の押入れの中はマニア作家の頭のように、がらくたばかりですよ。

 昼。

 浅草へ行った。浅草はちっぽけな、都心から離れた楽土です。そんなことをどっかの屋根裏作家が云いました。浅草は下品で鼻もちがならぬとね。どのお方も一カ月せっせと豚のように食っているものだから、頭ばかり厖大になって、シネマとシャアロー

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[97]
とエロチックか、顔を鏡にてらしあわせてとっくりとよくお考えの程を……ところで浅草のシャアローは帽子を振って云いました。「地上のあらゆるものを食いあきたから、こんどは、空を食うつもりです。」浅草はいい処だと思うなり。灯のつき始めた浅草の大提燈の下で、私の思った事は、この二円十銭で朗かな最後をつくしましょう。と云うことだ……何だか春めかしい宵なり、線香と女の匂いが薫じて来ます。雑沓の流れ。――公園劇場の前に出てみると、水谷八重子の一座の旗の中に、別れたひとの青い旗が出ている。これは面白い。他人よりも上品にかぎの締ったあの男と私の間、すべてはお静かにお静かにと永遠に歳月が流れています。裏口からまわって、楽屋口の爺さんに尋ねてみるとつんけんした面がまえだった。廊下はいっぱい食物の皿小鉢で、お姫様も女学生も雑居のありさまなり。歪んだ硝子窓に立てかけた鏡が二ツ、何年か前の見覚えのある黒い鞄が転がっていた。

「ヤア!」

 楽屋へ坐っていると、下男風な丁髷をのっけた男がはいって来た。

「随分御無沙汰しています。」

「お元気でしたか。」

 浅草の真中の劇場の中で久し振りに、私は別れた男の声を聞いた。

「芝居でも見ていらっしゃい、一役すんだら私のは済むんだからお茶でも飲みましょう!」

「ええありがとう、奥さんもいま一緒に何か演っているんですか?」

「あああれ! 死にましたよ、肺炎で。」

 あんなにも憎しみを持って別れた女優の顔が、遠くに浮んで、私はしばらくは信じられなかった。この男はとても真面目な顔をして嘘をついたから……。

「嘘でしょう。」

「貴女に嘘なんかついたって仕様がないもの、前々から体は弱かったのね。」

「本当ですか? 気の毒な……顔をつくって下さいな、私初めて貴方の楽屋を見たの。楽屋の中って随分淋しいもんね。」

 男と話していると、背の高い若侍が、両刀をたばさんではいって来る。

「ああ紹介しましょう、この人は宮島資夫君

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[98]
の弟さんでやっぱり宮島さんと云うひとです。」

 このひとはきっちりと肉のしまった、青年らしい肩つきをしていた。――随分、この男も年をとったとも思えるし、鞄の中から詩稿なぞを出しているのを見ると、此人が役者である事が場違いのような気がして仕方がない。体だって肥っているし、それに年をとって、若い渋味のない声だし、こんな若い人達ばかりの間に混って芝居なんかしているのが、気の毒に思えて仕方がなかった。私は此男と田端に家を持った時、初めて肩上げをおろしたのを覚えている。「僕の芝居を見て下さい、そして昔のように又悪口たたかれるかな。」私は名刺をもらうと楽屋口から外へ出た。今さらあの男の芝居を見たところでしょうがないし、だが、大きな雨がひとしずく私の頬にかかってきたので、あわてて小屋へはいるなり。舞台はバテレン

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[99]
信徒を押し込めてある牢屋の場面で、八重子の華魁や、牢番や、侍が並んでいる。桜がランマンと舞台に咲いている。そして舞台には小鳥が鳴いていた。長い愚にもつかない芝居である。私は舞台を眺めながら色んなことを考えていた。「バテレンよ、ゼウス
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[100]
よ!」あのひとは一寸声が大きすぎる。私は耳をふさいであの男の牢屋のなかの話を聞いていた。八重子の美しい華魁が牢の外に出ると、観客は湧き立って拍手を送っていた。美しい姿ではあるけれども、何か影のない姿である。私は退屈して外へ出てしまった。あのひとは「お茶でも一緒に飲みましょう。」と云ったけれど、縁遠いものをいつまでも見ていなくてはならないなんて、渦は一切吸わぬ事だ――。薬屋をみつけては、小さいカルモチンの箱を一ツずつ買う。死ねないのならば、それでもいいし、少し長く眠れるなんて、幸福な逃げ道ではないか、すべては直線に朗かに。

(三月×日)

 五色のテープがヒラヒラ舞っていた。

 どこかで爆竹

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[101]
の弾ける音がすさまじく耳のそばでしている。飛行機かしら、モーターボートかしら……私の錯覚から、白い泡を飛ばしている海の風景が空の上に見えてきました。銀色の燈台が眼の底に胡麻粒程に見えたかと思うと、こんどはまるで象の腹のようなものが眼の中じゅうに拡がって、私はずしんずしん地の底に体をゆりさげられているようだった。十子が私の裸の胸に手拭を当ててくれている。私はどうしても死にたくないと思った。眼をあけると、瞼に弾力がなくて、扇子をたたむようにくぼんで行く。私は死にたくない……。「若布とかまぼこのてんぷらと、お金が五円きていますよ。」私は瞼を締める事が出来なかった。耳の中へゴブゴブ熱い涙がはいって行く。枕元で、鋏をつかいながら十子が、母さんのところから送って来た小包をあけてくれた。お母さんが五円送ってくれるなんて、よっぽどの事だと思う。階下の叔母さんがかゆをたいて持って来てくれた。気持ちがよくなったら、この五円を階下へあげて、下谷の家を出ようと思う。

「洗濯屋の二階だけれどいいところよ、引越さない?」

 私は生きていたい。死にそくないの私を、いたわってくれるのは男や友人なんかではなかった。この十子一人だけが、私の額をなでていてくれている。私は生きたい。そして、何でもいいから生きて働く事が本当の事だと思う。――。

 私は生きる事が苦しくなると、故郷というものを考える。死ぬる時は古里で死にたいものだとよく人がこんなことも云うけれども、そんな事を聞くと、私はまた故郷と云うものをしみじみと考えてみるのだ。

 毎年、春秋になると、巡査がやって来て原籍をしらべて行くけれど、私は故郷というものをそのたびに考えさせられている。「貴女のお国は、いったいどこが本当なのですか?」と、人に訊かれると、私はぐっと詰ってしまうのだ。私には本当は、古里なんてどこでもいいのだと思う。苦しみや楽しみの中にそだっていったところが、古里なのですもの。だから、この「放浪記」も、旅の古里をなつかしがっているところが非常に多い。――思わず年を重ね、色々な事に旅愁を感じて来ると、ふとまた、本当の古里と云うものを私は考えてみるのだ。私の原籍地は、鹿児島県、東桜島、古里温泉場となっています。全く遠く流れ来つるものかなと思わざるを得ません。私の兄弟は六人でしたけれど、私は生れてまだ兄達を見た事がないのです。一人の姉だけには、辛い思い出がある。――私は夜中の、あの地鳴りの音を聞きながら、提燈をさげて、姉と温泉に行った事を覚えているけれど、野天の温泉は、首をあげると星がよく光っていて、島はカンテラをその頃とぼしていたものだ。「よか、ごいさ。」と云ってくれた村の叔母さん達は、皆、私を見て、他国者と結婚した母を蔭でののしっていたものだ。もうあれから十六七年にはなるだろう。

 夏になると、島には沢山青いゴリ

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[102]
がなった。城山へ遠足に行った時なんか、弁当を開くと、裏で出来た女竹の煮たのが三切れはいっていて、大阪の鉄工場へはいっていた両親を、どんなにか私は恋しく思った事です。――冬に近い或る夜、私は一人で門司まで行った記憶もあります。大阪から父が門司までむかいに来てくれると云う事でしたけれど、九ツの私は、五銭玉一ツを帯にくるくる巻いてもらって、帯に門司行きの木札をくくって汽車に乗ったものです。

 肉親とはかくもつれなきものかな! 花が何も咲いていなかったせいか、私は門を出がけに手にさわった柊の枝を折って、門司まで持って行ったのを覚えています。門司へ着くまで、その柊の枝はとても生々していました。門司から汽船に乗ると、天井の低い三等船室の暗がりで、父は水の光に透かしては、私の頭の虱を取ってくれた。鹿児島は私には縁遠いところである。母と一緒に歩いていると、時々少女の頃の淋しかった自分の生活を思い出して仕方がない。

「チンチン行きもんそかい。」

「おじゃったもはんか。」

 などと云う言葉を、母は国を出て三十年にもなるのに、東京の真中で平気でつかっているのだ。――長い事たよりのなかった私達に、姉が長い手紙をくれて云う事には、「お母さん! お元気ですか、いつもお案じ申しています。私はこの春、男の子を産みましたけれど、この五月は初のせっくです。華やかに祝ってやりたくぞんじます。」私はその手紙を見て、どんなにか厭な思いであった。そうして私の心は固く冷たかった。「お母さん! 義理だとか人情だとか、そんな考えだけは捨てて下さい。長い間、私達はどれだけの義理にすがって生きていたでしょうか、人情にすがっていたのでしょうか、いつも蹴とばされ、はねられどおしで三人はこれまで来たのですよ。私は赤ん坊に祝ってやる事をおしんでいるのではないのですけれども、覚えていますかお母さん!」困って、最後に、凭りすがった気持ちで、私は昔姉に借金の手紙を出した事がある。すると姉からの返事は、私はお前を妹だとは思ってやしない。私をそだててくれもしない母親なんてありようがないのだし、私はお前にどんな事をする義務があるのです。遠い旅空で、たった十円ばかりの金に困る貴女達親子の苦しみは、それは当り前のことですよ。故郷や、子供を捨てて行く親の事を思うと、私は鬼だと思っているくらいです。以後たよってはくれぬように――。それ以後、この世の中はお父さんとお母さんと私の三人きりの世界だと思った。どんなに落ちぶれ果てても、幼い私と母を捨てなかったお父さんの真実を思うと、私はせいいっぱいの事をして報いたく思っている。姉の気持ち、私の気持ち、これは問題にするまでもなく数千里の距離のある事だ。だのに、華やかに赤ん坊を祝ってほしい何年ぶりかの姉の手紙をみて、母は何か送って祝ってやりたいようであった。――だが私は今でもあの姉の手紙を憎んでいる。どんなにか憎まずにはいられないのだ。本当に憎んでいるのだ。――いまだかつて温かい言葉一つかけられなかった古里の人たちに、そうして姉に、いまの母は何かすばらしい贈物をして愕かせたいと思っているらしい。「お母さん! この世の中で何かしてみせたい、何か義理を済ませたいなんて、必要ではないではありませんか。」と私はおこっているのであった。ああだけど、母のこの小さな願いをかなえてやりたいと思う。私は何と云うひねくれ者であろうか、長い間のニンタイが、私を何も信じさせなくしてしまいました。肉親なんて犬にでも喰われろと云った激しい気持ちになっている。

ああ二十五の女心の痛みかな
遠く海の色透きて見ゆる
黍畑に立ちたり二十五の女は
玉蜀黍よ、玉蜀黍
かくばかり胸の痛むかな
二十五の女は海を眺めて只呆然となり果てぬ。
一ツ二ツ三ツ四ツ
玉蜀黍の粒々は、二十五の女の佗しくも物ほしげなる片言なり
蒼い海風も
黄いろなる黍畑の風も
黒い土の吐息も
二十五の女心を濡らすかな。
海ぞいの黍畑に立ちて
何の願いぞも
固き葉の颯々と吹き荒れるを見て
二十五の女は
真実命を切りたき思いなり
真実死にたき思いなり
伸びあがり伸びあがりたる
玉蜀黍は儚なや実が一ツ
ここまでたどりつきたる二十五の女の心は
真実男はいらぬもの
そは悲しくむずかしき玩具ゆえ
真実世帯に疲れるとき
生きようか、死のうか
さても佗しきあきらめかや
真実友はなつかしけれど一人一人の心故……
黍の葉の気ぜわしいやけなそぶりよ
二十五の女心は
一切を捨て走りたき思いなり
片眼をつむり片眼をひらき
あ、術もなし男も欲しや旅もなつかし
ああもしようと思い
こうもしようと思う……
おだまきの糸つれづれに
二十五の呆然と生き果てし女は
黍畑の畝に寝ころび
いっそ深々と眠りたき思いなり
ああかくばかりせんもなき
二十五の女心の迷いかな。

 これだけがせいいっぱいの、私のいまの生きかたなのです。そして此頃の私は、火のような懊悩が、心を焼いている。さあ! もっと殴って、もっと私をぶちのめして下さい。私は土の崩れるような大きな感情がよせて来ると、何もかもが一切虚しくなりはてて、死ぬる事や、古里の事を考え出してくる。だけど、ナニクソ! たまには一升の米も買いたいと云っていたあの頃の事を考えると、私は自分をほろぼすような悪念を克服してゆく事に努力をしなければなりません。この「放浪記」は、私の表皮にすぎない。私の日記の中には、目をおおいたい苦しみがかぎりなく書きつけてある。

 これからの私は、私の仕事に一生懸命に没入しようと思っている。子供のような天真な心で生きて行きたいと思うけれども、この四五年の私の生活は、体の放浪や、旅愁なんかと云うなまやさしいものではなかった。行くところもないようないまだに苦しい生活の連続でした。私はうんうん唸ってすごして来ました。どこまでが真実なのか、どこまでが嘘なのか、見当もつかない色色なからくりを見て、むかしの何か愉しいものが、もういまは、ほんとうに何もなかったのだと云う淋しさ――。空へのあこがれ、土へのあこがれ、沈黙って遠い姉にも、何か祝ってやってもいいではないかとも思っています。母の弱い気持ちもなごむにちがいないのです。愚にもつかない私のひねくれた気持ちを軽蔑するがいい。黍畑のあぜに寝ころび、いっそ深々と眠りたき思いなりです。そこで、この頃の私はじっと口をつぐんで、しっかり自分の仕事に没入してゆきたい事がたった一ツの念願であり、ただ一筋の私の行くべき道だと思うようになりました。

 林芙美子と云う名前は、少々私には苦しいものになって来ました。甘くて根気がなくて淋しがりやで。私は一度、この名前をこの世の中からほんとうになくしてしまいたいとさえ考えています。道を歩いている時、雑誌のポスターの中に、「林芙美子」と云う文字を見出す時がある。いったい林芙美子とはどこの誰なのだろうと考えています。街を歩いている私は、街裏の女よりも気弱で、二三年も着古した着物を着て、石突きの長い雨傘を持って、ポクポク道を歩いている。昔の私は、着る浴衣もなくて、紅い海水着一枚で蟄居していた事もある。少しばかり原稿がうれだして来ると、「三万円もたまりましたか?」と訊くひとが出て来たけれども、全くこれは動悸のする話でした。私の家の近くにあぶらやと云う質屋があるけれども、ここのおやじさんだけは、林芙美子と云うのは案外貧乏文士だねと苦笑しているに違いない。

 小都会の港町に生れた赤毛の娘は、そのおいたちのままで、労働者とでも連れ添っていた方が、私にはどんなにか幸福であったかも知れない。今の生活は、私と云うものを、広告のようにキリキザンで方々へ吹き飛ばしているようなものでしょう。生活がまるで中途半端であり、生活が中途半端だからよけいに苦しい。――少しばかり生活が楽になった故、義父も母も呼びよせてはみたけれども、貧しく、あのように一つに共同しあっていた者達の気持ちが、一軒の家に集まってみると、一人一人の気持ちが東や西や南へてんでに背を向けているのでした。皆、円陣をつくって、こちらへ向いて下さいと願っても、一人一人が一国一城の主になりすぎているのです。かわやへなぞ這入っていると、思わず涙が溢れる事がある。長い間親達から離れていると、血を呼ぶ愛情はあっても、長い間一ツになって生活しあわないせいか、その愛情と云うものが妙に薄くなってしまっているのを感じている。

 放牧の民のようであった私の一族と云うものが、いまは、一定の土地に落ちついて、私の云う半安住生活に落ちついている異民族的な集りになりましたけれど、そして、皆々東や西や南へ向って行く気持ちは解るのだけれども、そこに暗雲が渦をなして流れて行くのは、何としてもいなみがたい事だろうと思える。私はなるたけいい生活をして行きたいと思いました。善良な人達である故に、その善良な人達を苦しめたくないと思い、この二三年、幾度となく離れたり集まってみたりもしてみました。打ち割って云えば、母と二人だけで簡素な生活に這入れる事が、ほんとうは一番の理想なのだけれども、仲々そうもゆかない。私の母はフイリップ型の女で、気弱なくせに勝気でその日その日だ。私は長い間、この母親の姿だけを恋い求めていたようです、義父は母よりも若いひとで、色々な曲折はあったけれども二十年もこの養父は母と連れ添っていました。私は自分の作品の中に、この義父の事を大変思いやり深くは書いているけれども、十七八の頃は、この義父をあまり好かなかったようです。だけど、いまは、私もあれから十年も年齢をとりました。私もひとかどの分別がついて来ると、好きとか嫌いと云うよりもまずこの父を気の毒な人であったと思い始め、養父に就いてそんなに心苦しくも思わないのだけれども、母親に対するような愛情のないのは何としても仕方がないと思っています。私は十二三歳の頃から働いていました。両親に送金を始めたのは十七八歳の頃からであったでしょう。不思議にキモノ一つ欲しいとも思わなかったせいか、働くことはあたりまえの事だと思ってわずかながらも私は送金をしていました。

 現在になって、私はどうやら両親を遊ばせておける位になったのだけれども、その日その日を働いて日銭をもうけて来ている人達なので、仲々私につきそって隠居をして来ようとはしない。私から商売の資本を貰っては、今だに小商売を始めて、四五日とたたないですぐ失敗をしているのです。私はこんなことにくたびれ始めました。隠居をして草でもむしっていてくれている方が、私にはうれしいのだけれども、何としても仕方がないのです。皆が別な意味で私をたよりきっているとも云えます。収入と云えば私の「書く」と云う事だけのことで、別にしっかりした安定もないのだ。世に知れている私と云うものは、ふてぶてしくあるかも知れない。酒呑みのようにきこえているかも知れない。だが、私はほんとうは酒も煙草もきらいだ。酒をのむことで気持ちを誤魔化していられるうちは楽だけれども、いまはそんなもので誤魔化しきれなくなってしまいました。皆々あまり善良すぎる人達故に。――私はまた七年前にひそやかながら現在の夫と結婚をしている。義父には亦母親がいるし、私から云えば義理の祖母なのだけれども、この祖母の持論は、「お前のお母さんの為めに、私の息子が二十年間も子供もなく、男の一生が台なしになってしまった。」と云うのであった。だから、結局は恩と云うものを忘れてくれるなと云う事なのだろうけれども、この祖母には月々わずかながら隠居費と云うものも私は送っている。妙に私と云うものが固く皆にたよられているのです。やりきれないとは思いながら、私は自分に出来る間はとも考えて弱くなっています。けれど、私の仕事はマッチ箱を張るのやミシンの内職とも違うし、机の前に坐ってさえおれば原稿が金にでもなるようにも思っているらしい家族達に、私のいまの気持ちを正直に云ったところでどうにも始まった事でもないだろうと思います。いっそ、ミシンのペダルでも押して内職した方が楽しみかも知れないのだけれど……。長い間不幸な境遇にあった人達であっただけに、私はこの人達を愛してゆこうと思いました。そうして愛していました。だけど、一旦この小家族の中で波がおきると、母は父の方へよりそって行ってしまって、私はまるであってもなくてもいい存在になってしまう。思いあうよりもまず憎みあう気持ちを淋しく考えます。頭が痛いと云えば薬を飲めばなおってしまうと思っている人達である。

 朝起きて、小さな女中を相手に食膳をととのえ、昼は昼、夜は夜の食事から、米味噌の気づかい、自分の部屋の掃除、洗濯、来客、仲々私の生活も忙がしい。その間に自分のものも書いて行かなければならないのです。自分の作品の批評についても、私は仲々気にかかるし、反省もし、勉強も続けてはいるけれども、時々空虚なものが私を噛みます。梅雨時はとくにうっとうしいせいか、思いきりよく果ててしまいたい気も時にするときがあります。このまま消えてしまったならばせいせいするだろうと云った気持ちが切なのです。だけど、私がいなくなってしまえば、凧の糸が切れたように、家族の者達がキリキリ舞いをしてしまう事を考え始めるとそれも出来ないような思いである。目標を定めたいと思って、頃日禅と云うものをやりだしたのだけれども、まだそれも未詳の境地で、自分だけのほんとうの悟りを展くには仲々前途はるかなものがあります。此頃の心のやりばにして、私はウオルター・ペイター

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[103]
を読んでいます。「ウオルター・ペイターは少数の中の特異な芸術家で、我々は彼の生活の中に芸術に対する芸術家の生活の極度の謙譲の例を見出す。彼の生活は、宛も多量の潮を容れるために平かになった満潮時の海のように心の経験が深くなればなる程かえって静まった。」と云う一節があったけれども、心の経験がペイターの日蔭であるならば、ペイターも案外ロマンチストに違いない。だが、そんなところが魅力なのか、ペイター研究は仲々愉しい。ペイターはまた美しく大きな仕事を残して早世した人達を愛し同情していたと云う事でもあるけれど、それにはひどく同感だ。

 何の雑誌であったか、最近松井須磨子

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の写真を見ました。実に美しかった。精練の美がにじみ出ていた。此ひとの老いた顔を、この写真から想像する事は出来ない。霜のように烈々とした美しい写真であった。天才肌の此様な女の死はひどく勿体なさを感じるけれど、仲々悧巧なひとであったとも考えられる。とくに此ひとが女優であるが故に。――私は、松井須磨子のような美貌を持っていなければ、まして天才でもないのだ。だけど、私は、何かしら老いて行く事をひどく恐れはじめています。肉体のおとろえもさる事ながら、作品の上のおとろえはこれは敗惨と云うにはあまりに辛すぎる気持ちでしょう。

 私はまた一面には台所をたいへん愛しています。家族の者達を愛していることは勿論。そうして自らこの中で安心して老い朽ちて行く自分を私は瞼をとじて観念しているのだ。

「お前の仕事なぞ大したもンじゃないじゃないか。」言葉の行きがかりで夫の口から時に此様なことも聞くけれど、あんまり当り過ぎている事を、あまり身近な人間からきかされるので、痛いと云うよりも冷汗が出る思いでした。私の仕事と云えば、色々な夾雑物ばかりのもので、本当はこれとして澄んだものが一つもない。実際ここまでは来たけれど、ここから道が切れてしまった感じなのです。

 過去に、私はまた一つの恋愛を持っていたこともあるけれど、これにはプレイトニズムではないけれど、私の芸術の中に、「恋をするものの密かな気息であり、天上の星の音楽である。」と云う言葉のようなものがありました。実に一瞬ではあったけれど、私の絶々な気持ちによく笞打ってくれるものがありました。その恋愛は、私との愛情がまだ終りをつげないうちにほろんで亡くなってしまいました。この恋愛に破れた時は、生きる自信がなくなってしまったような気持ちでした。だけど、その小さな事件も亦私の過去の月日の中へ流れて行ってしまいましたけれども、私はチェホフの可愛い女のように、何かに寄りすがらなければ生きて行けない女であるらしい。――私は肉親と云うものには信を置かない。他人よりも始末が悪いからだ。働きものだと云うので愛されている事は苦しいことである。苦しいはずだのに、結局はこの人達によりそって大根を刻み人参を刻んでいるのです。私は最近本を三四冊出しました。一冊は本屋がつぶれて半分しか印税がもらえず、あと三冊の印税は、これで少し雑文を止めて一年位は勉強をしなおすために取っておこうと考えていたのだけれども、外国時代の借金や、「これが最後だから」と云う義父の言葉に、小喫茶店位は出せる程のものを分けていたら、またそろそろ私は机の前に坐らなければならなくなりました。税務署からは税金のお達しも来ました。仲々忙がしい私です。自分でもこの気持ちや生活を排斥していながら、死にでもしなければ改正出来そうもないありさまに呆れている。嫌な女の部類です。生活が中途半端だけでなく、心までが中途半端で、自分で自分の気持ちにやりきれなくなる時がある。いまは馬鹿馬鹿しく大きい家にいますけれども、これも私の或る一面の気持ちかも知れません、少し清算して奥床しい家に引越したいものとも考えています。

 私は、書けるだけ書こう。体は割合丈夫だ。その丈夫さがいとわしいのだけれど、仕事をするには、体が健全でなければならないと思っています。果てる時は果てる時だと思っている。大熊長次郎

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と云う人の歌にこのようなのがある。

静にぞねむらせたまえ
人間の
命死にゆく時のおわりに

 これは、ほのぼのとした歌で、強がっている私を妙に悲しがらせる。実際悲しい時がある。勉強も字を書く事も嫌になってしまう時がある。芝居や映画も久しく疎遠だ。白々しい時は、唇に両手をあててじっとしているに限る。媒介物によって身を終ってしまいたいような、そんな焦々した日も多いのだけれども、ほんとうはこれからいい仕事をしたいと思っています。「大した仕事じゃないじゃないか。」と云う、その私の大した事でもない仕事に、私はいまなお拘泥して生きているのです。何も大道の真中を行くのばかりが小説でもないと思っている。片隅の小道を通るような、私なりに小さくつつましいものが書きたいと思います。

 どうも、私は此頃恐怖症にかかっているのかも知れない。人がみなおそろしく思える。訪ねてくれる人より外、私は私の方からは訪ねて行かない。夢をみてもおそろしい。現でいても時に後に誰か立っているような錯覚をおこしている。大きな心でいたわりあってくれるものと云えば、もう犬ぐらいのものです。月夜、石の段々に腰をかけていると、犬だけが、私によりそって来ている。私の手からはもう何もなくなってしまいました。本当は月夜の自分の影さえもなつかしいのだけれど……。私の頭の中はいま真空だ。危急なものが流れこんで来そうに思える。その危急なものをまとめてみたいと日夜考えているのだけれども、その正体をつかむまでに至らない。ここまで書いて来て、何度となく此様なぶちまけを書く事に私は嫌悪をもよおして来たのだけれど……。まアいいとしましょう。

 人にあれこれ云われなくても反省しすぎる位、反省して私は自分の事をさらけだしているつもりだ。この上何の思い出だろう。過去の事は、苛められる笞にしかすぎない。

 今は、両親とも別居してしまいました。広い家には私と女中と二人で気抜けしたように呆んやりしているけれど、愛してほしいと云う気持ちの母親が、まるで子供みたいに遠くに離れていっていますし。――新聞を見ると毎日身上相談と云うものがある。実際女と云うものの身上が、いかに大根がなくて弱々しいのかと笑っていたけれども、私も段々笑えなくなり始めました。

 只、力を出して仕事に熱中し努力したいと思っています。それより他には私には何もなくなったのだ。何かもっと云いたい気もするけれども、心が鬱々としている時、何かはっきり云えない気持ちなのです。――静かな観照、素材の純化、孤独な地域、この様な作品を長年憶っています。そして私の反省は死ぬまで私を苦しめることでしょう。

――了――