University of Virginia Library

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 そもそも、その「女らしさ」という物の正体は何でしょう。我国では女子が外輪に歩くと「女らしくない」といって批難されます。また女子が活溌な遊戯でもすると「女らしくない」といって笑われます。そうすると、内輪に歩くということ、人形のように 温順 おとな しくしているということなどが「女らしさ」の一つの条件であることは確かです。しかし日本ではそうでしょうけれども、欧米の女子は ことごと く外輪で歩いています。また我国でも多くの女学生が唯今は靴を 穿 いて外輪に歩きます。また欧米では、戦後に一層女子の体育が盛んになり、女学生の帽や服装に男子と同じものを用いてまで、活溌な運動に適するように努力しています。そうして、それがために「女らしさ」を失ったという批難が欧米において起らないのを見ると、論者の有難がる「女らしさ」というものは、全人類に通用しない、日本人だけのものであるように思われますがどうでしょうか。

 論者は、「男子のすることを女子がすると、女らしさを失う」というのですが、人間の活動に、男子のする事、女子のする事という風に、先天的に決定して賦課されているものがあるでしょうか。私は女子が「妊娠する」という一事を除けば、男女の性別に由って宿命的に課せられている分業というものを見出すことが出来ません。

 紫式部の日記を読むと、この 稀有 けう の女流文豪が 儕輩 せいはい の批難を怖れて、平生は「一」という文字すらどうして書くか知らないような風を装い、 中宮 ちゅうぐう のために 楽府 がふ を講じるにも人目を避けてそっと秘密に講じています。女子の学問著述が男子の領分を侵している事のように、その同性の間においてさえ誤解されていて、紫式部がそれを はばか ったのは、生意気だとして憎まれるからであったのですが、しかしこれがために紫式部を「女らしさ」を欠いた人間であるとは昔も今も言わないようです。

 政治や軍事は昔から男子の専任のように思っていますけれども、我国の歴史を見ただけでも、女帝があり、女子の政治家があり、女兵があり、幕末の勤王婦人等があって、それが「女子の中性化」の実例として批難されていないのみならず、 神功 じんぐう 皇后は神として 奉祀 ほうし され、その他の女子も倫理的の価値を以て、それぞれ国民の尊敬を受けています。また現在の世界には、女子の代議士、知事、市長、学者、芸術家、社会改良家、教師、評論家、新聞雑誌記者、飛行家、運転手、車掌、官公吏、事務員等があって、従来は男子の領域であるとされていた活動に多数の女子が従事しています。殊に最近の世界大戦には、英国の軍需省附属の工場だけでも二百万の女子が家庭を離れて、戦時のあらゆる勤務に服し、戦場で用いられた弾丸の九分までを女子の手で製造するような空前の活動を示して、平和克復の日に軍需大臣が議会において女子に対する感謝演説を試みた中に、「英国が勝利を得た原因の半は女子にあることを拒むことが出来ない」と述べたほどでした。

 して見ると、男子のする事を女子もするからといって、「女らしさ」を失うという批難は当らないことになります。もし男女の性別に由って歴史的に定まった分業の領域が永久に封鎖されているものなら、男子が裁縫師となり、料理人となり、洗濯業者となり、紡績工となることは、女子の領域を侵すものとして、「男子の中性化」が論じられなければならないはずです。「女のする日記というもの」を書いた 紀貫之 きのつらゆき も、同じ理由から、その「男らしさ」を失った人間として批難されねばなりませんが、歌人として、また国語を以て文章を書いた先覚者として尊敬されているのはどうした訳でしょうか。