六十九
同じような仕事の続いて出ていた
三月
(
みつき
)
ばかりは、それでもまだどうか
恁
(
こう
)
かやって行けたが、月が四月へ入って、ミシンの音が途絶えがちになってしまってからは、お島が取かかった自分の仕事の興味が、段々裏切られて来た。職人の手間を差引くと、
幾許
(
いくら
)
も残らないような苦しい
三十日
(
みそか
)
が、
二月
(
ふたつき
)
も三月も続いた。家賃が滞ったり、順繰に時々で借りた
小
(
ちいさ
)
い借金が
殖
(
ふ
)
えて行ったりした。
「これじゃ
全然
(
まるで
)
私達が職人のために働いてやっているようなものです」お島は
遣切
(
やりきり
)
のつかなくなって来た生活の圧迫を感じて来ると、そう言って小野田を責めた。冬中
忙
(
せわ
)
しかった裁板の上が、綺麗に掃除をされて、職人の手を減した店のなかが、どうかすると吹払ったように寂しかった。
近頃電話を借りに行くこともなくなった大家の店には、酒の
空瓶
(
あきびん
)
にもう八重桜が
生
(
い
)
かっているような時候であった。そこの帳場に坐っている主人から、お島たちは、二度も三度も
立退
(
たちのき
)
の請求を受けた。
「洋服屋って、
皆
(
みん
)
なこんなものなの。私は大変な見込ちがいをして了った」
終
(
しまい
)
に工賃の滞っているために、身動きもできなくなって来た職人と、
店頭
(
みせさき
)
へ将棋盤などを持出していた小野田の、それにも気乗がしなくなって来ると、ぽかんとして女の話などをしている
暢気
(
のんき
)
そうな顔が、間がぬけたように見えたりして、一人で考え込んでいたお島はその傍へ行って、やきもきする自分を
強
(
し
)
いて抑えるようにして笑いかけた。
「
何
(
なあ
)
に、そうでもないよ」
小野田は顔を
顰
(
しか
)
めながら、仕事道具の
饅頭
(
まんじゅう
)
を枕に寝そべって、気の長そうな
応答
(
うけごたえ
)
をしていた。
お島はのろくさいその居眠姿が
癪
(
しゃく
)
にさわって来ると、そこにあった大きな型定規のような
木片
(
きぎれ
)
を取って、
縮毛
(
ちぢれげ
)
のいじいじした小野田の
頭顱
(
あたま
)
へ
投
(
なげ
)
つけないではいられなかった。
「こののろま野郎!」
お島は血走ったような目一杯に、涙をためて、肉厚な自分の
頬桁
(
ほおげた
)
を、厚い平手で打返さないではおかない小野田に
喰
(
く
)
ってかかった。猛烈な立ちまわりが、二人のあいだに始まった。
殺しても飽足りないような、暴悪な憎悪の念が、家を飛出して行く彼女の頭に
湧返
(
わきかえ
)
っていた。
暫くすると、例の女が間借をしている二階へ、お島は
真蒼
(
まっさお
)
になって上って行った。
「あの男と一緒になったのが、私の間違いです。私の
見損
(
みそこな
)
いです」お島は泣きながら話した。
「どうかして
一人前
(
いちにんまえ
)
の人間にしてやろうと思って、方々
駈
(
かけ
)
ずりまわって、金をこしらえて店を持ったり何かしたのが、私の見込ちがいだったのです」
お島は
口惜
(
くや
)
しそうにぼろぼろ涙を流しながら言った。
「どうしても私は別れます。あの男と一緒にいたのでは、私の女が立ちません」
荒い
歔欷
(
すすりなき
)
が、いつまで経っても
遏
(
や
)
まなかった。