百六
小野田は時々外廻りに歩いて、あとは大抵店で
裁
(
たち
)
をやっていたが、
隙
(
すき
)
がありさえすれば蓄音器を
弄
(
いじ
)
っていた。
楽遊
(
らくゆう
)
や
奈良丸
(
ならまる
)
の
浪華節
(
なにわぶし
)
に
聴惚
(
ききほ
)
れているかと思うと、いつかうとうと眠っているようなことが多かった。
しげしげ足を運んでくる
生花
(
はな
)
の先生は、小野田が段々好いお
顧客
(
とくい
)
へ
出入
(
ではい
)
りするようになったお島に習わせるつもりで、頼んだのであったが、一度も
花活
(
はないけ
)
の前に坐ったことのない彼女の代りに、自身二階で時々無器用な
手容
(
てつき
)
をして、ずんどのなかへ花を
挿
(
さ
)
しているのを、お島は見かけた。
もと人の妾などをしていたと云う不幸なその女は、どうかすると二時間も三時間も遊んで帰ることがあった。
上方
(
かみがた
)
に近い優しい口の利き方などをして、名古屋育ちの小野田とはうま
が合っていた。
「私だって
偶
(
たま
)
には
逆様
(
さかさ
)
にお花も
活
(
い
)
けてみとうございますよ」
外から帰って、ふと二階の
梯子
(
はしご
)
をあがって行くお島の耳に、その日も
午
(
ひる
)
から来て話込んでいたその
年増
(
としま
)
の
媚
(
なま
)
めかしい笑い声が
洩
(
も
)
れ聞えた。
嫉妬
(
しっと
)
と挑発とが、彼女の心に発作的におこって来た。
女が帰って行くとき、お島はいきなり帳場の方から顔を出して行った。
「お
気毒
(
きのどく
)
さまですがね、
宅
(
たく
)
はお花なんか習っている
隙
(
ひま
)
はないんですから、今日きり
私
(
わたくし
)
からお断りいたします」
お島は
硬
(
こわ
)
ばった神経を、
強
(
し
)
いておさえるようにして、そう言いながら謝礼金の包を前においた。
もう三十七八ともみえる女は、その時も綺麗に
小皺
(
こじわ
)
の寄った
荒
(
すさ
)
んだ顔に薄化粧などをして、古いお召の
被布姿
(
ひふすがた
)
で来ていたが、お島の権幕に
怯
(
お
)
じおそれたように、
悄々
(
すごすご
)
出ていった。
「この莫迦!」
二階へ
駈
(
かけ
)
あがって往ったお島は、いきなり小野田に浴せかけた。毎日
鬢
(
びん
)
や前髪を大きくふっくらと取った
丸髷
(
まるまげ
)
姿で出ていた彼女は、大きな紋のついた羽織もぬがずに、
外眦
(
めじり
)
をきりきりさせてそこに突立っていた。
「
髯
(
ひげ
)
なんかはやして、あんなものにでれでれしているなんて、お前さんも
余程
(
よっぽど
)
な
薄野呂
(
うすのろ
)
だね」
お島はそう言いながら、そこにあった
花屑
(
はなくず
)
を取あげて、のそりとしている小野田の顔へ
叩
(
たた
)
きつけた。
吊
(
つり
)
あがったような充血した目に、涙がにじみ出ていた。
「何をする」
小野田も怒りだして、そこにあった水差を取ってお島に投げつけた。彼女の御召の小袖から、水がだらだらと垂れた。
負けぬ気になって、お島も床の間に活かったばかりの花を
顛覆
(
ひっくらか
)
えして、へし折りへし折りして小野田に
投
(
ほう
)
りつけた。
劇
(
はげ
)
しい格闘が、
直
(
じき
)
に二人のあいだに初まった。小野田が力づよい手を
弛
(
ゆる
)
めたときには、彼女の
鬢
(
びん
)
がばらばらに
紊
(
ほつ
)
れていた。そうして二人は暫く甘い疲労に浸りながら、黙って壁の隅っこに向きあって坐っていた。