六日間(日記)
與謝野晶子 (Muikakan: Nikki) | ||
六日間(日記)
與謝野晶子
三月七日
机の前に坐ると藍色の 机掛 ( つくゑかけ ) の上に一面に髪の毛の這つて居るのが日影でまざまざと見えた。私はあさましくなつて、 何時 ( いつ ) の間にか私の髪がこんなに抜け 零 ( こぼ ) れて、さうして払つてもどうしても動かずに、魂のあるやうにかうして居るのかとじつと見て居た。さうすると落ち毛が皆一寸五分位の長さばかりであるのに気がついた。また 昨日 ( きのふ ) の朝八 峰 ( みね ) の人形の毛が抜けたと云つて 此処 ( ここ ) へ来て泣いて居たのを思ひ出した。頭が重い日である。源氏の藤の裏葉を七枚程書いた 処 ( ところ ) へ、画報社から写真を 撮 ( うつ ) しに来た。七瀬と八峰が厭がつたから私と 麟 ( りん ) とだけで撮つて貰つた。私は着物を 着更 ( きか ) へた 序 ( つい ) でであるし、頭も悪いのであるから買物にでも行つて来ようと思つた。高野豆腐の煮附と味附海苔で昼の食事をして私は家を出た。××新聞社に用があつたから数寄屋橋で電車を降りた。××さんが居なかつたから××新聞社へ行つたのは無駄だつた。有楽町の 河岸 ( かし ) を歩きながら、尼さんのやうなものをばかり食べて居るからこればかしの道でも苦しいのだと情けなく思つた。三越の二階で羽織を一枚染めるのを頼んだ。二三日前の 夜 ( よ ) ふと考へて面白がつた 酔興 ( すゐきよう ) のことも、いよ/\ 紫紺 ( しこん ) にしてくれと云ふ時にはもう 恥 ( はづか ) しくなつて 廃 ( や ) めようかと迄思つたのであつた。
『少しおはででは御座いませんでせうか。』
と云つた番頭さんに私は自分のぢやないと云つた。 紙入 ( かみいれ ) を一つと 布団 ( ふとん ) の裏地を一 疋 ( ぴき ) と 晒 ( さらし ) を二反買つて届けて貰ふ事にした。神保町の通りで近頃出来た 襟店 ( えりみせ ) が安物ばかり並べてあるのが何だか可哀相な気がして立つて見て居ると、小僧さんが何とかかとか云つてとうとう店の中へ私を入れてしまつた。元園町の女中に遣らうと思つて四十五銭と云ふ 紅入 ( べにいり ) のを一 掛 ( かけ ) 買つたが、外にも何か買はせようとする 熱誠 ( ねつせい ) と云ふものが主人と小僧さんの顔に満ちて居るので、気が弱くなつて鼠地に 蝶燕 ( てふつばめ ) の模様のある襟を私のに買つた。腹立だしい気がした。平出さんへ寄つた。 煙草 ( たばこ ) が 欲 ( ほ ) しいと云つたらエンチヤンテレスはないと笑はれた。私のために送別会をしてくれないやうに、着て出る着物がないから今からお頼みして置くのだと私は云つた。 昨日 ( きのふ ) も平野君がその話をして綺麗な自動車にあなたを載せて街を皆で歩かうかなどゝ云つて居たと平出さんは云つた。 玉川堂 ( ぎよくせんだう ) で短冊を買つて帰つた。子供等は持つて帰つた林檎をおいしさうに食べるのであつたが、私は一 片 ( き ) れも食べる気がしなかつた。 夕飯 ( ゆふはん ) の時に阪本さんが来た。留守の間に浅草の川上さんのお 使 ( つかひ ) が見えたさうである。
八日
昨夜 ( きのふ ) は雅子さんの夢を見た。雅子さんに手紙を書かうかなどゝ朝の 床 ( とこ ) の中では考へた。川上さんの女の書生さんが見え、 吉小神 ( きこがみ ) さんが来た。昨日の続きの仕事をして居たが昼頃から少し頭痛がし出した。湯にでも 入 ( はい ) つて来ようと思つて、七瀬と八峰を 伴 ( つ ) れて湯屋へ行つた。帰つて来て髪を解いたがいよいよ頭痛が 烈 ( はげ ) しくなつて 身体 ( からだ ) の節々も痛くてならなくなつて来た。 修 ( しう ) さんが来て短冊を 欲 ( ほ ) しいと云ふので五枚書いて渡した。来月の末に加藤大使が英国へ帰任するのにシベリヤ鉄道で 行 ( ゆ ) くから、同行を頼んでやらうかと役所で云つてくれた人があつたが、船に決めたと云つて断つたと聞いて私は残念でならなかつた。新潮社の中村さんが来た。何度逢つても例のやうな私には覚える事の出来憎い顔であるなどと話しながら思つて居た。 夕飯 ( ゆふはん ) を味噌漬の 太刀魚 ( さんま ) で食べた。 光 ( みつ ) が煮しめばかり食べて 魚 ( うを ) を余り食べなかつたからソツプを飲ませた。玄関の土間の暗くなつた頃に平野さんが来た。これから暁星の夜学に 行 ( ゆ ) くのだと云つて
腰を掛けた儘で話した。先刻聞いた加藤大使の話をすると、さうして汽車に乗つて行つたら 好 ( い ) い。免状なんか書き替へて貰へば 好 ( い ) いと例の調子で云つてくれた。然しその話が 外 ( ほか ) から来たのではなし、汽車の旅を大反対の 修 ( しう ) さんの持つて来た話なのであるから、私は苦しんで居るのだ、出来さうにないわけだと私は思つて居た。茶の間へ来ると、『 母様 ( かあさま ) は面白い人ね、平野さんのお 父 ( とう ) さんと話してたのでせう、平野さんぢやない人と話をするなんか。』
と七瀬が云つた。平野さんだと云ふと、
『さう、やつぱし平野さんの子供の方なの。』
と驚いたやうに云つて居た。子供の 床 ( とこ ) をとつて居るうちに倒れる程頭が痛んで来た。私は昼の着物を着たまゝで子供の寝る時刻から 床 ( とこ ) に 入 ( い ) つて居た。私は眠りさうなのであるが桃が 明日 ( あした ) の買物に 行 ( ゆ ) くと云ふのを 留 ( と ) めるのも何だと思つて、
『ああ。』
と云つて出してやつた。桃は玄関の戸を閉め寄せて行つた。 恐 ( こは ) い夢を見て目を開くと九時であつた。桃を呼んで見たがまだ帰らないらしい。風が戸に当つて気味の悪い音を立てゝ居た。私は今見た夢の中の心持ちの続きも交つて居て恐しさにどうすれば 好 ( い ) いかなどゝ思つて居た。十五分程して桃が帰つて来たので嬉しかつた。頭痛はもう 癒 ( なほ ) つて居た。私は桃を寝させてからまた仕事をしだした。十一時頃に藤の裏葉を書いてしまつて、それから 巴里 ( ぱりー ) へ送る手紙を書いた。
九日
六時頃まで眠つたり 覚 ( さ ) めたりして居たが 今日 ( けふ ) も 身体 ( からだ ) は 怠 ( だる ) い。 昨日 ( きのふ ) 送る筈だつた某誌の選歌をしようと思つて出しながら気が進まないので火鉢にじつと当つて居る 処 ( ところ ) へ 金尾 ( かねを ) さんが来た。源氏の再版の 祝 ( いはひ ) だと云つて 煙草 ( たばこ ) を十二 色 ( いろ ) 交ぜて持つて来てくれた。嬉しくてならなく思つた。飲むのよりも珍しもの 好 ( ず ) きの私が見たこともないやうないろいろの色をして交つた 包 ( つゝみ ) だの小箱だのが私の所有になつたのが嬉しいのである。土曜日であるから 光 ( ひかる ) と 秀 ( ひいづ ) は午後一人は木下さんへ、一人は本多さんへ遊びに行つた。三時過ぎにやつと選歌の原稿が出来た。もう一つこの仕事があると思ふと一層 身体 ( からだ ) が 怠 ( だ ) るいやうに思はれて、机にもたれて風の吹き廻る庭を見て居た。 古尾谷 ( こをたに ) さんが見えた 処 ( ところ ) へ 摩文仁 ( まぶに ) さんも来た。この若い琉球の詩人と話すのに是非出さなければならない高い声が出さうに今日は思はれないから、前に話さないで本を出して古尾谷さんにふらんす語を教へて貫つて居た。摩文仁さんは帰つた。覚え憎いので 今日 ( けふ ) の稽古は見合せて貰つた。こんな頭の悪い時に習字でもして置かうと思つて自分の名だの良人の名だのを書いて居た。古尾谷さんに 今朝 ( けさ ) 貰つた 煙草 ( たばこ ) を一 包 ( つゝみ ) 上げた。 昨日 ( きのふ ) 程ではないがまだ頭痛がして来たので七時頃に横になつた。 直 ( す ) ぐ眠つてしまつて九時に目が 覚 ( さ ) めてまた十一時まで眠つた。起きてソツプを飲んでそれからこれをつけた。これから選歌をするのである。
十日
午前一時半に 床 ( とこ ) へ 入 ( はい ) つて、五時に目が 覚 ( さ ) めて六時過ぎに起きた。 日々 ( にち/\ ) に送る歌を読まうとしたが娘さん達の来る頃だと思ふと何だか気が落ち着かなくて一つより歌が出来なかつた。女の子の二人は元園町へ遊びに行つた。送つて行つた 秀 ( ひいづ ) は帰つて来るとまた 直 ( す ) ぐ藤島さんへ行く 光 ( みつ ) と、水道橋の停車 場 ( ぢやう ) まで一緒に行つた。天野さんが来て 夫 ( それ ) からお 照 ( てる ) さんが来た。桃の母親が仕立物を持つて来てくれた。私は大急ぎでつもり物を六枚分 拵 ( こしら ) へてまた渡した。神保町で買つた襟をこの人に遣つた。二階へ行つて話して居る 処 ( ところ ) へ松本さんが来た。お照さんは歌を二つより持つて来なかつた。 今日 ( けふ ) は菊五郎 格子 ( がうし ) の着物も着て来なかつた。お納戸地のあらい井桁の羽織を着て居た。可愛い顔をした人だと 今日 ( けふ ) も思つた。松本さんは 入 ( はい ) つて来た時に大きい背丈の人だと 今日 ( けふ ) も思つた。 昨日 ( きのふ ) の仮装会の帰りだと云つて阪本さんが車夫姿で来たから驚いた。 良人 ( をつと ) の手紙が配達された。 謝肉祭 ( カイニバル ) のことなどが書いてあつて、それから写真が着いたと云つて子供の顔がよく写つて居ない、私の 焼鏝 ( やきこて ) を当てた髪を下宿の細君が 賞 ( ほ ) めた、桃をふらんす人が美くしいと皆 賞 ( ほ ) めるなどゝ書いてあつた。午後私は車に乗つて本郷へ行つた。 生田 ( いくた ) さんへ最初に行つたが生田さんはお留守であつた。奥様とお話して一時間程でお 暇 ( いとま ) した。庭からお座敷へ通る時の気持の 好 ( い ) い家だけれど、夢の中でよく 入 ( はい ) つて 行 ( ゆ ) く家のやうな暗い玄関は忘れたい気がする。千駄木町の平野さんの家へ行つて老夫婦に逢つた。大連 行 ( ゆ ) きの支度で忙しさうであつた。森さんへ伺つて二階のお座敷で一時間程先生とお話をした。曙町の藤島さんへ行つたらもう 光 ( ひかる ) の帰つた 後 ( のち ) であつた。隠居さんの御病気はもう 癒 ( なほ ) つて 今日 ( けふ ) から起きたと云つておいでになつた。お雛様の前で隠居さんとお話をして居る 処 ( ところ ) へ奥様は御馳走を運んでおいでになつた。先生が画室から帰つておいでになつた。 紅梅 ( こうばい ) が美くし
かつた。帰りに画室にお寄りしていろいろの 画 ( ゑ ) を見せて貰つた。こんな部屋が 欲 ( ほ ) しいなどゝ 珈琲 ( こーひ ) を飲みながら思つて居た。 壁画 ( かべゑ ) に書いておいでになる桃の花が暖い息を吹いて居るやうにも思つた。弓町の江南さんへも寄つた。二階から降りて来た時秋子さんの片一方の八ツ口から紫の襦袢の袖が皆出て居た。人が道具の中に沈没して居るやうな座敷である。古い原稿紙で障子が張つてあつた。平出さんにも 一寸 ( ちよつと ) 玄関で用事を云つて帰らうと思つて寄つたが留守だつたから奥様に頼んで置いた。 古尾谷 ( こをたに ) さんが私の出た 後 ( あと ) へ来て下すつたさうである。某々二氏の 土産 ( みやげ ) のお菓子を桃が見せた。 光 ( ひかる ) の 今日 ( けふ ) 描 ( か ) いて来たのは 男雛 ( をとこひな ) の 画 ( ゑ ) であつた。十一日
床 ( とこ ) を上げたり座敷の掃除をして居るうちに急に 今日 ( けふ ) は人並な 朝飯 ( あさはん ) を食べて見ようかと云ふ気になつた。オートミルを火に掛けるのを 廃 ( や ) めさせて子供と一緒に暖い御飯を食べた。文士の決闘を書いたと云ふ 良人 ( をつと ) の原稿はまだ新聞に出て居なかつた。防水剤の話が丁度その欄に載つて居たので読みながら買つて見ようかなどゝ思つた。 日々 ( にち/\ ) の歌を詠んで 万朝報 ( まんてうはう ) の歌を選んだ。昼の白魚の吸物がおいしくなかつた。朝に御飯を食べたせいかも知れない。源氏の原稿を清書して居る 処 ( ところ ) へ廣川さんが来た。話しながら私は去年の五月の初めにこの人などと一緒にした旅が 頻 ( しき ) りに思ひ出された。 煙草 ( たばこ ) をすゝめるとクロノースを二本廣川さんは飲んだ。 光 ( ひかる ) と 秀 ( ひいづ ) が帰つてから女の子を 伴 ( つ ) れて湯屋へ行つた。醜い 盲目 ( めくら ) の娘さんが連れの娘さんにおしろいを附けて貰つて居た。帰り 途 ( みち ) で、
『 母様 ( かあさん ) 目の見えない人が居ましたね。』
『あの人のお友達は親切でせう。』
『顔も綺麗な綺麗な人ね、 母様 ( かあさん ) 。』
こんな問答を七瀬とした。 夕飯 ( ゆふはん ) を済ませて明るいうちに 床 ( とこ ) を敷いてしまつた。麟に狐の子供と鳩ぽつぽのお伽噺をして聞かせた。金尾さんが来た。 蒲原 ( かんばら ) さんへ行つた帰りださうである。道に迷つて線路の上の 脆 ( もろ ) い土の所で落ちようとした時汽車が通つた。浅草の観音様の守つて下すつたのだなどゝ云ふ話をするのであつた。江南さんと秋子さんが来た。結婚届に印を押してくれと云ふことだつたから、 良人 ( をつと ) の名や 生月 ( せいげつ ) を書いて印を押した。原籍地には 大字 ( おほあざ ) から 小字 ( こあざ ) まであるのであるから私が覚えて居る筈もない。 書附 ( かきつけ ) を見ながら書いたのである。三人が帰ると急に寒い気がしだした。服部 嘉香 ( よしか ) さんへ書く返事を 明日 ( あす ) に 延 ( のば ) して寝た。
十二日
良人 ( をつと ) の手紙が着いた。船に乗る事は万一の時の事にして必ず汽車で来るようにとまた書いて来た。夏の日に熱帯地を通るのは困難でもあらうが顔色が黒くなるだらうと私はそんな事も厭に思つて居る。午後 生田 ( いくた ) さんが見えた。 煙草 ( たばこ ) のいろいろあるのを私と同じ程面白がつて飲んで下すつた。 良人 ( をつと ) の異父兄の 大都城 ( だいとじやう ) さんが 修 ( しう ) さんと一緒に来た。二階へ 上 ( あが ) つた時今度空いた向ひの 小 ( ちひさ ) い家へ移ることを修さんに 諷 ( ふう ) された。古尾谷さんに教へて貰つたが 今日 ( けふ ) はよく覚えられた。
六日間(日記)
與謝野晶子 (Muikakan: Nikki) | ||