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[chapter 1]

1.

初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとと きどき思つた。觀察してゐるとまだ三つにもならない彼の子供が彼を嫌がるからと云 つて、親父を嫌がる法があるかと云つて怒つてゐる。疊の上をよちよち歩いてゐるそ の子供がぱつたり倒れると、いきなり自分の細君を毆りつけながらお前が番をしてゐ て子供を倒すと云ふことがあるかと云ふ。見てゐるとまるで喜劇だが本人がそれで正 氣だから、反對にこれは狂人ではないのかと思ふのだ。少し子供が泣きやむともう直 ぐ子供を抱きかかへて部屋の中を馳け廻つてゐる四十男。此の主人はそんな に子供のことばかりにかけてさうかと云ふとさうではなく、 凡そ何事にでもそれ程な無邪氣さを持つてゐるので自然に細君が此の家の中心になつ て來てゐるのだ。家の中の運轉が細君を中心にして來ると細君系の人人がそれだけの びのびとなつて來るのももつともなことなのだ。從つてどちらかと云ふと主人の方に 關係のある私は、此の家の仕事のうちで一番人のいやがることばかりを引き受けねば ならぬ結果になつていく。いやな仕事、それは全くいやな仕事で、然もそのいやな部 分を誰か一人がいつもしてゐなければ家全體の生活が廻らぬと云ふ中心的な部分に私 がゐるので、實は家の中心が細君にはなく私にあるのだが、そんなことを云つたつて いやな仕事をする奴は使ひ道のない奴だからこそだとばかり思つてゐる人間の集りだ から、默つてゐるより仕方がないと思つてゐた。全く使ひ道のない人間と云ふものは 誰にも出來かねる箇所だけに不思議に使ひ道のあるもので、此のネームプレー ト製造所でもいろいろな藥品を使用せねばならぬ仕事の中 で私の仕事だけは特に劇藥ばかりで滿ちてゐて、わざわざ使ひ道のない人間を落し込 む穴のやうに出來上つてゐるのである。此の穴へ落ち込むと金屬を腐蝕させる鹽化鐵 で衣類や皮膚がだんだん役に立たなくなり、臭素の刺戟で咽喉を破壞し夜の睡眠がと れなくなるばかりでなく、頭腦の組織が變化して來て視力さへも薄れて來る。こんな 危險な穴の中へは有用な人間が落ち込む筈がないのであるが、此の家の主人も若いと きに人の出來ないこの仕事を覺え込んだのも恐らく私のやうに使ひ道のない人間だつ たからにちがひないのだ。しかし、私とてもいつまでもここで片輪になるために愚圖 ついてゐたのでは勿論ない。實は私は九州の造船所から出て來たのだがふと途中の汽 車の中で一人の婦人に逢つたのがこの生活の初めなのだ。婦人はもう五十歳あまりに なつてゐて主人に死なれ家もなければ子供もないので、東京の親戚の所で暫く厄介になつてから下宿屋でも始めるのだと云ふ。それなら 私も職でも見つかればあなたの下宿へ厄介になりたいと冗談のつもりで云ふと、それ では自分のこれから行く親戚へ自分といつてそこの仕事を手傳はないかとすすめてく れた。私もまだどこへ勤めるあてとてもないときだし、ひとつはその婦人の上品な言 葉や姿を信用する氣になつてそのままふらりと婦人と一緒にここの仕事場へ流れ込ん で來たのである。すると、ここの仕事は初めは見た目は樂だがだんだん藥品が勞働力 を根柢から奪つていくと云ふことに氣がついた。それで今日は出よう明日は出ようと 思つてゐるうちに、ふと今迄辛抱したからにはそれではひとつここの仕事の急所を全 部覺え込んでからにしようと云ふ氣にもなつて來て、自分で危險な仕事の部分に近づ くことに興味を持たうとつとめ出した。ところが私と一緒に働いてゐるここの職人の 輕部は、私が此の家の仕事の秘密を盗みに這入つて來たどこかの間者だと思ひ 込んだのだ。彼は主人の細君の實家の隣家から來てゐる男 なので何事にでも自由がきくだけにそれだけ主家が第一で、よくある忠實な下僕にな りすましてみることが道樂なのだ。彼は私が棚の毒藥を手に取つて眺めてゐるともう 眼を光らせて私を見詰めてゐる。私が暗室の前をうろついてゐるともうかたかたと音 を立てて自分がここから見てゐるぞと知らせてくれる。全く私にとつては馬鹿馬鹿し い事だが、それでも輕部にしては眞劍なんだから無氣味である。彼にとつては活動寫 眞が人生最高の教科書で從つて探偵劇が彼には現實とどこも變らぬものに見えてゐる ので、此のふらりと這入つて來た私がさう云ふ彼には、また好個の探偵物の材料にな つて迫つてゐるのも事實なのだ。殊に輕部は一生此の家に勤める決心ばかりではない。 此處の分家としてやがては一人でネームプレート製造所を起さうと思つてゐるだけに、 自分よりさきに主人の考案した赤色プレート製法の秘密を私に奪はれて了ふことは本望ではないにちがひない。しかし、私にしてみればただ 此の仕事を覺え込んでおくだけでそれで生活の活計を立てようなどとは謀んでゐるの では決してないのだが、そんなことを云つたつて輕部には分るものでもなし、また私 が此の仕事を覺え込んで了つたならあるひはひよつこりそれで生計を立てていかぬと も限らぬし、いづれにしても輕部なんかが何を思はふとただ彼をいらいらさせてみる のも彼に人間修養をさせてやるだけだとぐらゐに思つてをればそれで宜しい、さう思 つた私はまるで輕部を眼中におかずにゐると、その間に彼の私に對する敵意は急速な 調子で進んでゐて、此の馬鹿がと思つてゐたのも實は馬鹿なればこそこれは案外馬鹿 にはならぬと思はしめるやうにまでなつて來た。人間は敵でもないのに人から敵だと 思はれることは、その期間相手を馬鹿にしてゐられるだけ何となく樂しみなものであ るが、その樂しみが實はこちらの空隙になつてゐることにはなかなか氣付かぬもので、私が何の氣もなく椅子を動かしたり斷裁機を廻した りしかけると不意に金槌が頭の上から落つて來たり、地金の眞鍮板が積み重つたまま 足もとへ崩れて來たり、安全なニスとエーテルの混合液のザボンがいつの間にか危險 な重クロムサンの酸液と入れ換へられてゐたりしてゐるのが、初めは間はこちらの過 失だとばかり思つてゐたのにそれが盡く輕部の仕業だと氣付いた時には、考へれば考 へるほどこれは油斷をしてゐると生命まで狙はれてゐるのではないかと思はれて來て ひやりとさせられるやうにまでなつて來た。殊に輕部は馬鹿は馬鹿でも私よりも先輩 で劇藥の調合にかけては腕があり、お茶に入れておいた重クロム酸アンモニアを相手 が飮んで死んでも自殺になるぐらゐのことは知つてゐるのだ。私は御飯を食べる時で もそれから當分の間は黄色な物が眼につくとそれが重クロムサンではないかと思はれ て箸がその方へ動かなかつたが、私のそんな警戒心も暫くすると自分ながら滑稽になつて來てさう容易く殺されるものなら殺されてもみ ようと思ふやうにもなり、自然に輕部の事などは又私の頭から去つていつた。

或る日私は仕事場で仕事をしてゐると主婦が來て主人が地金を買ひにいくのだか ら私も一緒について行つて主人の金錢を絶えず私が持つてゐてくれるようにと云ふ。 それは主人は金錢を持つと殆ど必ず途中で落して了ふので主婦の氣使ひは主人に金錢 を渡さぬことが第一であつたのだ。いままでの此の家の悲劇の大部分も實に此の馬鹿 げたことばかりなんだがそれにしてもどうしてこんなにここの主人は金錢を落すのか 誰にも分らない。落して了つたものはいくら叱つたつて嚇したつて返つて來るもので もなし、それだからつて汗水たらして皆が働いたものを一人の神經の弛みのために盡 く水の泡にされて了つてそのまま泣き寢入に默つてゐるわけにもいかず、それが一度 や二度ならともかく始終持つたら落すと云ふことの方が確 實だと云ふのだから、此の家の活動も自然に鍛錬のされ方が普通の家とはどこか違つ て成長して來てゐるに違ひないのだ。いつたい私達は金錢を持つたら落すと云ふ四十 男をそんなに想像することは出來ない。譬へば財布を細君が紐でしつかり首から懷へ 吊しておいてもそれでも中の金錢だけはちやんといつも落してあると云ふのであるが、 それなら主人は金を財布から出すときか入れる時かに落すにちがひないとしてみても、 それにしても第一さう度度落す以上は今度は落すかもしれぬからと三度に一度は出す ときや入れるときに氣附く筈だ。それを氣附けば事實はそんなにも落さないのではな いかと思はれて考へやうによつては是は或ひは金錢の支拂ひを延ばすための細君の手 ではないかとも一度は思ふが、しかし間もなくあまりにも變つてゐる主人の擧動のた めに細君の宣傳もいつの間にか事實だと思つてしまはねばならぬほど、とにかく、主 人は變つてゐる。金を金とも思はぬと云ふ言葉は富者に 對する形容だが此處の主人の貧しさは五錢の白銅を握つて錢湯の暖簾をくぐる程度に 拘らず、困つてゐるものには自分の家の地金を買ふ金錢まで遣つてしまつて忘れてゐ る。かう云ふのをこそ昔は仙人と云つたのであらう。しかし、仙人と一緒にゐるもの は絶えずはらはらして生きていかねばならぬのだ。家のことを何一つ任しておけない ばかりではない、一人で濟ませる用事も二人がかりで出かけたり、その一人のゐるた めに周圍の者の勞力がどれほど無駄に費されてゐるか分らぬのだが、しかしそれはさ うにちがひないとしても此の主人のゐるゐないによつて得意先の此の家に對する人氣 の相異は格段の變化を生じて來る。恐らく此處の家は主人の爲に人から憎まれたこと がないに違ひなく主人を縛る細君の締りがたとひ惡評を立てたとしたところで、そん なにも好人物の主人が細君に縛られて小さく忍んでゐる樣子と云ふものはまた自然に 滑稽な風味があつて喜ばれ勝ちなものでもあり、その細 君の睨みの留守に脱兎の如く脱け出してはすつかり金錢を振り撒いて歸つて來る男と 云ふのも是また一層の人氣を立てる材料になるばかりなのだ。

そんな風に考へると此の家の中心は矢張り細君にもなく私や輕部にもない自ら主 人にあると云はねばならなくなつて來て私の傭人根性が丸出しになり出すのだが、ど こから見たつて主人が私には好きなんだから仕樣がない。實際私の家の主人はせいぜ い五になつた男の子をそのまま四十に持つて來た所を想像すると浮んで來る。私たち はそんな男を思ふと全く馬鹿馬鹿しくて輕蔑したくなりさうなものにも拘らずそれが 見てゐて輕蔑出來ぬと云ふのも、つまりはあんまり自分のいつの間にか成長して來た 年齡の醜さが逆に鮮かに浮んで來てその自身の姿に打たれるからだ。こんな自分への 反射は私に限らず輕部にだつて常に同じ作用をしてゐたと見えて、後で氣付いたこと だが、輕部が私への反感も所詮は此の主人を守らうとす る輕部の善良な心の部分の働きからであつたのだ。私が此處の家から離れがたなく感 じるのも主人のその此の上もない善良さからであり、輕部が私の頭の上から金槌を落 したりするのも主人のその善良さのためだとすると、善良なんて云ふことは昔から案 外良い働きをして來なかつたにちがひない。

さてその日主人と私は地金を買ひにいつて戻つて來るとその途中主人は私に今日 はかう云ふ話があつたと云つて云ふには、自分の家の赤色プレートの製法を五萬圓で 賣つてくれと云ふのだが賣つて良いものかどうだらうかと訊くので、私もそれには答 へられずに默つてゐると赤色プレートもいつまでも誰れにも考案されないものならと もかくもう仲間達が必死にこつそり研究してゐるので製法を賣るなら今の中だと云ふ。 それもさうだらうと思つても主人の長い苦心の結果の研究を私がとやかく云ふ權利も なし、さうかと云つて主人ひとりに任かしておいては主 人はいつの間にか細君の云ふままになりさうだし、細君と云ふものはまた目さきのこ とだけより考へないに決つてゐるのを思ふと私もどうかして主人のためになるやうに とそればかりがそれからの不思議に私の興味の中心になつて來た。家にゐても家の中 の動きや物品が盡く私の整理を待たねばならぬかのやうに映り出して來て輕部までが まるで私の家來のやうに見えて來たのは良いとしても、暇さへあれば覺えて來た辯士 の聲色ばかり唸つてゐる彼の樣子までがうるさくなつた。しかし、それから間もなく 反對に輕部の眼がまた激しく私の動作に敏感になつて來て仕事場にゐるときは殆ど私 から眼を放さなくなつたのを感じ出した。思ふに輕部は主人の仕事の最近の經過や赤 色プレートの特許權に關する話を主婦から聞かされたにちがひないのだが、主婦まで 輕部に私を監視せよと云ひつけたのかどうかは私には分らなかつた。しかし、私まで が主婦や輕部がいまにもしかするとこつそり主人の仕事 の秘密を盗み出して賣るのではないかと思はれて幾分の監視さへする氣持ちになつた ところから見てさへも、主婦や輕部が私を同樣に疑ふ氣持ちはそんなに誤魔化してゐ られるものではない。そこで私もそれらの疑ひを抱く視線に見られると不快は不快で も何となく面白くひとつどうすることか圖圖しくこちらも逆に監視を續けてやらうと 云ふ氣になつて來て困り出した。丁度さう云ふ時また主人は私に主人の續けてゐる新 しい研究の話をして云ふには、自分は地金を鹽化鐵で腐蝕させずにそのまま黒色を出 す方法を長らく研究してゐるのだがいまだに思はしくいかないので、お前も暇なとき 自分と一緒にやつてみてくれないかと云ふのである。私はいかに主人がお人好しだか らと云つてそんな重大なことを他人に洩して良いものであらうかどうかと思ひながら も、全く私が根から信用されたこのことに對しては感謝をせずにはをれないのだ。い つたい人と云ふものは信用されて了つたらもうこちらの 負けで、だから主人はいつでも周圍の者に勝ち續けてゐるのであらうと一度は思つて みても、さう主人のやうに底拔けな馬鹿さにはなかなかなれるものではなく、そこが つまりは主人の豪いと云ふ理由になるのであらうと思つて私も主人の研究の手助けな ら出來るだけのことはさせて貰ひたいと心底から禮を述べたのだが、人に心底から禮 を述べさせると云ふことを一度でもしてみたいと思ふやうになつたのもそのときから だ。だが、私の主人は他人にどうかうされやうなどとそんなけちな考へなどはないの だからまた一層私の頭を下げさせるのだ。つまり私は暗示にかかつた信徒みたいに主 人の肉體から出て來る光りに射拔かれてしまつたわけだ。奇蹟などと云ふものは向う が奇蹟を行ふのではなく自身の醜さが奇蹟を行ふのにちがひない。それからと云ふも のは全く私も輕部のやうに何より主人が第一になり始め、主人を左右してゐる細君の 何に彼に反感をさへ感じて來て、どうしてかう云ふ婦人 が此の立派な主人を獨專して良いものか疑はしくなつたばかりではなく出來ることな ら此の主人から細君を追放してみたく思ふことさへときどきあるのを考へても輕部が 私に虐くあたつてくる氣持ちが手にとるやうに分つて來て、彼を見てゐると自然に自 分を見てゐるやうでますますまたそんなことにまで興味が湧いて來るのである。

或る日主人が私を暗室へ呼び込んだので這入つていくと、アニリンをかけた眞鍮 の地金をアルコールランプの上で熱しながらいきなり説明して云ふには、プレートの 色を變化させるには何んでも熱するときの變化に一番注意しなければならない、いま は此の地金は紫色をしてゐるがこれが黒褐色となりやがて黒色となるともうすでに此 の地金が次の試練の場合に鹽化鐵に敗けて役に立たなくなる約束をしてゐるのだから、 着色の工夫は總て色の變化の中段においてなさるべきだと教へておいて、私にその場でバーニングの試驗を出來る限り多くの藥品を使用して やつてみよと云ふ。それからの私は化合物と元素の有機關係を驗べることにますます 興味を向けていつたのだが、これは興味を持てば持つほど今迄知らなかつた無機物内 の微妙な有機的運動の急所を讀みとることが出來て來て、いかなる小さなことにも機 械のやうな法則が係數となつて實體を計つてゐることに氣附き出した私の唯心的な目 醒めの第一歩となつて來た。しかし輕部は前まで誰も這入ることを許されなかつた暗 室の中へ自由に這入り出した私に氣がつくと、私を見る顏色までが變つて來た。あん なに早くから一にも主人二にも主人と思つて來た輕部にも拘らず新參の私に許された ことが彼に許されないのだからいままでの私への彼の警戒も何の役にも立たなくなつ たばかりではない、うつかりすると彼の地位さへ私が自由に左右し出すのかもしれぬ と思つたにちがひないのだ。だから私は幾分彼に遠慮すべきだと云ふぐらゐは分つてゐても何もさういちいち輕部輕部と彼の眼の色ばか りを氣使はねばならぬほどの人でもなし、いつものやうに輕部の奴いつたいいまにど んなことをし出すかとそんなことの方が却つて興味が出て來てなかなか同情なんかす る氣にもなれないので、そのまま頭から見降ろすやうに知らぬ顏を續けてゐた。する と、よくよく輕部も腹が立つたと見えてあるとき輕部の使つてゐた穴ほぎ用のペルス を私が使はふとすると急に見えなくなつたので君がいまさきまで使つてゐたではない かと云ふと、使つてゐたつてなくなるものはなくなるのだ、なければ見附かるまで自 分で搜せば良いではないかと輕部は云ふ。それもさうだと思つて、私はペルスを自分 で搜し續けたのだがどうしても見附からないのでそこでふと私は輕部のポケツトと見 るとそこにちやんとあつたので默つて取り出さうとすると、他人のポケツトへ無斷で 手を入れる奴があるかと云ふ。他人のポケツトはポケツトでも此の作業場にゐる間は誰のポケツトだつて同じことだと云ふと、さう云ふ 考へを持つてゐる奴だからこそ主人の仕事だつて圖圖しく盗めるのだと云ふ。いつた い主人の仕事をいつ盗んだか、主人の仕事を手傳ふと云ふことが主人の仕事を盗むこ となら君だつて主人の仕事を盗んでゐるのではないかと云つてやると、彼は暫く默つ てぶるぶる唇をふるはせてから急に私に此の家を出ていけと迫り出した。それで私も 出るには出るがもう暫く主人の研究が進んでからでも出ないと主人に對してすまない と云ふと、それなら自分が先きに出ると云ふ。それでは君は主人を困らせるばかりで 何にもならぬから私が出るまで出ないやうにするべきだと云つてきかせてやつても、 それでも頑固に出ると云ふ。それでは仕方がないから出ていくよう、後は私が二人分 を引き受けようと云ふと、いきなり輕部は傍にあつたカルシユームの粉末を私の顏に 投げつけた。實は私は自分が惡いと云ふことを百も承知してゐるのだが惡と云ふものは何と云つたつて面白い。輕部の善良な心がいらだ ちながら慄へてゐるのをそんなにもまざまざと眼前で見せつけられると、私はますま す舌舐めずりをして落ちついて來るのである。これではならぬと思ひながら輕部の心 の少しでも休まるやうにと仕向けてはみるのだが、だいいち初めから輕部を相手にし てゐなかつたのが惡いので彼が怒れば怒るほどこちらが恐わさうにびくびくしていく と云ふことは餘程の人物でなければ出來るものではない。どうもつまらぬ人間ほど相 手を怒らすことに骨を折るもので、私も輕部が怒れば怒るほど自分のつまらなさを計 つてゐるやうな氣がして來て終ひには自分の感情の置き場がなくなつて來始め、ます ます輕部にはどうして良いのか分らなくなつて來た。全く私は此のときほどはつきり と自分を持てあましたことはない。まるで心は肉體と一緒にぴつたりとくつついたま まの存在とはよくも名付けたと思へる程心がただ默默と身體の大きさに從つて存在してゐるだけなのだ。暫くして私はそのまま暗室へ這入 ると仕かけておいた着色用のビスムチルを沈澱さすため、試驗管をとつてクロム酸加 里を燒き始めたのだが輕部にとつてはそれがまたいけなかつたのだ。私が自由に暗室 へ這入ると云ふことがすでに輕部の怨みを買つた原因だつたのにさんざん彼を怒らせ た擧句の果に直ぐまた私が暗室へ這入つたのだから彼の逆上したのも尤もなことであ る。彼は暗室のドアを開けると私の首を持つたまま引き摺り出して床の上へ投げつけ た。私は投げつけられたやうにして殆ど自分から倒れる氣持ちで倒れたのだが、私の やうなものを困らせるのには全くそのやうに暴力だけよりないのであらう。輕部は私 が試驗管の中のクロム酸加里がこぼれたかどうかと見てゐる間、どうしたものか一度 周章てて部屋の中を駈け廻つてそれからまた私の前へ戻つて來ると、駈け廻つたこと が何の役にもたたなかつたと見えてただ彼は私を睨みつけてゐるだけなのである。しかしもし私が少しでも動けば彼は手持ち無沙汰のた め私を蹴りつけるにちがひないと思つたので私はそのままいつまでも倒れてゐたのだ が、切迫したいくらかの時間でもいつたい自分は何をしてゐるのだと思つたが最後も うぼんやりと間の脱けて了ふもので、ましてこちらは相手を一度思ふさま怒らさねば 駄目だと思つてゐるときとてもう相手もすつかり氣の向くまで怒つて了つた頃であら うと思ふとつひ私も落ちついてやれやれと云ふ氣になり、どれほど輕部の奴がさきか ら暴れたのかと思つてあたりを見廻すと一番ひどく荒されてゐるのは私の顏でカルシ ユウムがざらざらしたまま唇から耳へまで這入つてゐるのに氣がついた。が、さて私 はいつ起き上つて良いものかそれが分らぬ。私は斷裁機からこぼれて私の鼻の先にう づ高く積み上つてゐるアルミニユームの輝いた斷面を眺めながらよくまア三日の間に これだけの仕事が自分に出來たと驚いた。それで輕部にもうつまらぬ爭ひはやめて早くニユームにザボンを塗らうではないかと云ふと、 輕部はもうそんな仕事はしたくはないのだ。それよりお前の顏を磨いてやらうと云つ て横たはつてゐる私の顏をアルミニユームの切片で埋め出し、その上から私の頭を洗 ふやうに搖り續けるのだが、街に並んだ家家の戸口に番號をつけて貼りつけられたあ の小さなネームプレートの山で磨かれてゐる自分の顏を想像すると、所詮は何が恐ろ しいと云つて暴力ほど恐るべきものはないと思つた。ニユームの角が搖れる度に顏面 の皺や窪んだ骨に刺さつてちくちくするだけではない。乾いたばかりの漆が顏にへば りついたまま放れないのだからやがて顏も膨れ上るにちがひないのだ。私ももうそれ だけの暴力を默つて受けてをれば輕部への義務も果したやうに思つたので起き上ると また暗室の中へ這入らうとした。すると輕部はまた私のその腕を持つて脊中へ捻ぢ上 げ、窓の傍まで押して來ると私の頭を窓硝子へぶちあてながら顏をガラスの突片で切らうとした。もうやめるであらうと思つてゐるのに 豫想とは反對にそんな風にいつまでも追つて來られると、今度はこの暴力がいつまで 續くのであらうかと思ひ出していくものだ。しかしさうなればこちらもたとへ惡いと は思つても謝罪する氣なんかはなくなるばかりでいままで隙があれば仲直りをしよう と思つてゐた表情さへますます苦苦しくふくれて來て更に次の暴力を誘ふ動因を作り 出すだけとなつた。が、實は輕部ももう怒る氣はそんなになくただ仕方がないので怒 つてゐるだけだと云ふことは分つてゐるのだ。それで私は輕部が私を窓の傍から劇藥 の這入つてゐる腐蝕用のバツトの傍まで連れていくと、急に輕部の方へ向き返つて、 君は私をそんなに虐めるのは君の勝手だが私がいままで暗室の中でしてゐた實驗は他 人のまだしたことのない實驗なので、もし成功すれば主人がどれほど利益を得るかし れないのだ。君はそれも私にさせないばかりか苦心の末に作つたビスムチルの溶液までこぼしてしまつたではないか。拾へ、と云ふと輕 部はそれならなぜ自分にもそれを一緒にさせないのだと云ふ。させるもさせないもな いだいたい化學方程式さへ讀めない者に實驗を手傳はせたつて邪魔になるだけなのだ が、そんなことも云へないので少しいやみだと思つたが暗室へ連れていつて化學方程 式を細く書いたノートを見せて説明し、これらの數字に從つて元素を組み合せてはや り直してばかりゐる仕事が君に面白いならこれから毎日でも私に代つてして貰はふと 云ふと、輕部は初めてそれから私に負け始めた。

輕部との爭ひも當分の間は起らなくなつて私もいくらか前よりゐやすくなると暫 くして、仕事が急激に輕部と私に増して來た。ある市役所からその全町のネームプ レート五萬枚を十日の間にせよと云つて來たので喜んだのは主婦だが私たちはそのた め殆ど夜さへ眠れなくなるのは分つてゐるのだ。それで主人は同業の友人の製作所か ら手のすいた職人を一人借りて來て私たちの中へ混へな がら仕事を始めることにした。初めの間は私たちは何の氣もなくただ仕事の量に壓倒 されてしまつて働いてゐたのだが、そのうちに新しく這入つて來た職人の屋敷と云ふ 男の樣子が何となく私の注意をひき始めた。不器用な手つきといひ人を見るときの鋭 い眼つきといひ職人らしくはしてゐるがこれは職人ではなくてもしかしたら製作所の 秘密を盗みに來た廻し者ではないかと思つたのだ。しかし、そんなことを口にでも出 して饒舌つたら輕部は屋敷をどんな目に逢はすかしれないので暫く默つて彼の樣子を 見てゐることにしてゐると、屋敷の注意はいつも輕部の槽の搖り方にそそがれてゐる のを私は發見した。屋敷の仕事は眞鍮の地金をカセイソーダの溶液中に入れて輕部の すませて來た鹽化鐵の腐蝕藥と一緒にそのとき用ひたニスやグリユーを洗ひ落す役目 なのだが、輕部の仕事の部分は此處の製作所の二番目の特長の部分なので、他の製作 所では眞似することは出來ないのだからそこに見入る屋 敷とて當然なことは當然だとしても疑つてゐるときのこととてその當然なことがなほ 一層疑はしい原因になるのである。しかし、輕部は屋敷に見入られてゐるとますます 得意になつて調子をとりつつ槽の中の鹽化鐵の溶液を搖するのだ。いつものことなら 私を疑り出したやうに輕部とて一應は屋敷を疑はねばならぬ筈だのにそれが事もあら うか輕部は屋敷に槽の搖り方を説明して、地金に書かれた文字と云ふものはいつもか うしてうつ伏せにするもので、すべて金屬と云ふものは金屬それ自身の重みのために 負けるのだから文字以外の部分はそれだけ早く鹽化鐵に侵されて腐つていくのだと誰 に聞いたものやらむづかしい口調で説明して屋敷に一度バツトを搖すつてみよとまで 云ふ。私は初めはひやひやしながら默つて輕部の饒舌つてゐることを聞いてゐたのだ がしまひには私は私で誰がどんな仕事の秘密を知らうと知らせるだけ良いのではない かと思ひ出し、それからはもう屋敷への警戒もしないこ とに決めて了つたが、すべて秘密と云ふものはその部分に働く者の慢心から洩れるの だと氣がついたのはそのときの何よりの私の收穫であつたであらう。それにしても輕 部がそんなにうまく秘密を饒舌つたのも彼のそのときの調子に乘つた慢心だけではな い。確に彼にそんなにも饒舌らせた屋敷の風

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が輕部の心をそのとき浮き上らせてしまつたのに違ひないのだ。屋敷の眼 光は鋭いがそれが柔ぐと相手の心を分裂させてしまふ不思議な魅力を持つてゐるので ある。その彼の魅力は絶えず私へも言葉を云ふ度に迫つて來るのだが何にせよ私はあ まりに急がしくて朝早くから瓦斯で熱した眞鍮へ漆を塗りつけては乾かしたり重クロ ムサンアンモニアで塗りつめた金屬板を日光に曝して感光させたりアニリンをかけて みたり、その他バーニングから炭とぎからアモアピカルから斷裁までくるくる廻つて し續けねばならぬので屋敷の魅力も何もあつたものでは ないのである。すると五日目頃の夜中になつてふと私が眼を醒すとまだ夜業を續けて ゐた筈の屋敷が暗室から出て來て主婦の部屋の方へ這入つていつた。今頃主婦の部屋 へ何の用があるのであらうと思つてゐるうちに惜しいことにはもう私は仕事の疲れで 眠つて了した。翌朝また眼を醒すと私に浮んで來た第一のことは昨夜の屋敷の樣子で あつた。しかし、困つたことには考へてゐるうちにそれは私の夢であつたのか現實で あつたのか全く分らなくなつて來たことだ。疲れてゐるときには今までとてもときど き私にはそんなことがあつたのでなほ此度の屋敷のことも私の夢かもしれないと思へ るのだ。しかし屋敷が暗室へ這入つた理由は想像出來なくはないが主婦の部屋へ這入 つていつた彼の理由は私には分らない。まさか屋敷と主婦とが私たちには分らぬ深い 所で前から交渉を持ち續けてゐたとは思へないのだしこれは夢だと思つてゐる方が確 實であらうと思つてゐると、その日の正午になつて不意 に主人が細君に昨夜何か變つたことがなかつたかと笑ひながら訊ね出した。すると細 君は、お金をとつたのはあなただぐらゐのことはいくら寢坊の私だつて知つてゐるの だ。盗るのならもつと上手にとつて貰ひたいと澄まして云ふと主人は一層大きな聲で 面白さうに笑ひ續けた。それでは昨夜主婦の部屋へ這入つていつたのは屋敷ではなく 主人だつたのかと氣がついたのだがいくらいつも金錢を持たされないからと云つて夜 中自分の細君の枕もとの財布を狙つて忍び込む主人も主人だと思ひながら私もをかし くなり、暗室から出て來たのもそれではあなたかと主人に訊くと、いやそれは知らぬ と主人は云ふ。では暗室から出て來たのだけは矢張り屋敷であらうかそれともその部 分だけは夢なのであらうかとまた私は迷ひ出した。しかし、主婦の部屋へ這入り込ん だ男が屋敷でなくて主人だと云ふことだけは確に現實だつたのだから暗室から出て來 た屋敷の姿も全然夢だとばかりも思へなくなつて來て、 一度消えた屋敷への疑ひも反對にまただんだん深く進んで來た。しかしさう云ふ疑ひ と云ふものはひとり疑つてゐたのでは結局自分自身を疑つていくだけなので何の役に もたたなくなるのは分つてゐるのだ。それより直接屋敷に訊ねて見れば分るのだが、 もし訊ねてそれが本當に屋敷だつたら屋敷の困るのも決つてゐる。此の場合私が屋敷 を困らしてみたところで別に私の得になるではなしと云つて捨てておくには事件は興 味があり過ぎて惜しいのだ。だいいち暗室の中には私の苦心を重ねた蒼鉛と珪酸ジル コニウムの化合物や、主人の得意とする無定形セレニウムの赤色塗の秘法が化學方程 式となつて隱されてゐるのである。それを知られてしまへば此處の製作所にとつては 莫大な損失であるばかりではない、私にしたつていままでの秘密は秘密ではなくなつ て生活の面白さがなくなるのだ。向うが秘密を盗まうとするならこちらはそれを隱し たつてかまはぬであらう。と思ふと私は屋敷を一途に賊 のやうに疑つていつてみようと決心した。前には私は輕部からそのやうに疑はれたの だが今度は自分が他人を疑ふ番になつたのを感じると、あのとき輕部をその間馬鹿に してゐた面白さを思ひ出してやがては私も屋敷に絶えずあんな面白さを感じさすので あらうかとそんなことまで考へながら、一度は人から馬鹿にされてもみなければとも 思ひ直したりしていよいよ屋敷へ注意をそそいでいつた。ところが屋敷は屋敷で私の 眼が光り出したと氣附いたのであらうかそれから殆ど私と視線を合さなくてすませる 方向ばかりに向き始めた。あまり今から窮屈な思ひをさせては却つて今の中に屋敷を 逃がしてしまひさうだしするので、なるだけのんきにしなければならぬと柔いでみる のだが眼と云ふものは不思議なもので、同じ認識の高さでうろついてゐる視線と云ふ ものは一度合すると底まで同時に貫き合ふのだ。そこで私はアモアピカルで眞鍮を磨 きながらよもやまの話をすすめ眼だけで彼にもう方程式 は盗んだかと訊いてみると向うでまだまだと應へるかのやうに光つて來る。それでは 早く盗めば良いではないかと云ふとお前にそれを知られては時間がかかつてしやうが ないと云ふ。ところが俺の方程式は今の所まだ間違ひだらけで盗つたつて何の役にも 立たぬぞといふとそれなら俺が見て直してやらうと云ふ。さう云ふ風に暫く屋敷と私 は仕事をしながら私自身の頭の中で默つて會話を續けてゐるうちにだんだん私は一家 のうちの誰よりも屋敷に親しみを感じ出した。前に輕部を有頂天にさせて秘密を饒舌 らせてしまつた彼の魅力が私へも次第に乘り移つて來始めたのだ。私は屋敷と新聞を 分け合つて讀んでゐても共通の話題になると意見がいつも一致して進んでいく。化學 の話になつても理解の速度や遲度が拮抗しながら滑らかにすべつていく。政治に關す る見識でも社會に對する希望でも同じである。ただ私と彼との相違してゐる所は他人 の發明を盗み込まうとする不道徳な行爲に關しての見解 だけだ。だが、それとて彼には彼の解釋の仕方があつて發明方法を盗むと云ふことは 文化の進歩にとつては別に不道徳なことではないと思つてゐるにちがひない。實際、 方法を盗むといふことは盗まぬ者より良い行爲をしてゐるのかもしれぬのだ。現に主 人の發明方法を暗室の中で隱さうと努力してゐる私と盗まうと努力してゐる屋敷とを 比較してみると屋敷の行爲の方がそれだけ社會にとつては役立つことをしてゐる結果 になつていく。それを思ふとさうしてそんな風に私に思はしめて來た屋敷を思ふと、 なほますます私には屋敷が親しく見え出すのだが、さうかと云つて私は主人の創始し た無定形セレニウムに關する染色方法だけは知らしたくはないのである。それ故絶え ず一番屋敷と仲好くなつた私が屋敷の邪魔もまた自然に誰より一番し續けてゐるわけ にもなつてゐるのだ。

あるとき私は屋敷に自分がここへ這入つて來た當時輕部から間者だと疑はれて危險な目に逢はされたことを話してみた。すると屋敷はそ れなら輕部が自分にさう云ふことをまだしない所から察すると多分君を疑つて懲り懲 りしたからであらうと笑ひながら云つて、しかしそれだから君は僕を早くから疑ふ習 慣をつけたのだと彼は揶揄つた。それでは君は私から疑はれたとそれほど早く氣附く からには君も這入つて來るなり私から疑はれることに對してそれ程警戒する練習が出 來てゐたわけだと私が云ふと、それはさうだと彼は云つた。しかし、彼がそれはさう だと云つたのは自分は方法を盗みに來たのが目的だと云つたのと同樣なのにも拘らず、 それをさう云ふ大膽さには私とて驚かざるを得ないのだ。もしかすると彼は私を見拔 いてゐて、彼がさう云へば私は驚いて了つて彼を忽ち尊敬するにちがひないと思つて ゐるのではないかと思はれて、此奴、と暫く屋敷を見詰めてゐたのだが、屋敷は屋敷 でもう次の表情に移つて了つて上から逆に冠さつて來ながら、こんな製作所へかう云ふ風に這入つて來るとよく自分たちは腹に一物あ つての仕事のやうに思はれ勝ちなものであるが君も勿論知つてのとほりそんなことな んかなかなかわれわれには出來るものではなく、しかし辯解がましいことを云ひ出し てはこれまた一層をかしくなつて困るので仕方がないから人人の思ふやうに思はせて 働くばかりだと云つて、一番困るのは君のやうに痛くもない所を刺して來る眼つきの 人のゐることだと私をひやかした。さう云はれると私だつてもう彼から痛い所を刺さ れてゐるので彼も丁度いつも今の私のやうに私から絶えずちくちくやられたのであら うと同情しながら、さう云ふことをいつも云つてゐなければならぬ仕事なんかさぞ面 白くはなからうと私が云ふと、屋敷は急に雁首を立てたやうに私を見詰めてからふツ ふと笑つて自分の顏を濁してしまつた。それから私はもう屋敷が何を謀んでゐやうと 捨てておいた。多分屋敷程の男のことだから他人の家の暗室へ一度這入れば見る必要のある重要なことはすつかり見て了つたにちがひな いのだし、見て了つた以上は殺害することも出來ない限り見られ損になるだけでどう しやうも追つつくものではないのである。私としてはただ今はかう云ふ優れた男と偶 然こんな所で出逢つたと云ふことを寧ろ感謝すべきなのであらう。いや、それより私 も彼のやうに出來得る限り主人の愛情を利用して今の中に仕事の秘密を盗み込んでし まふ方が良いのであらうとまで思ひ出した。それで私は彼にあるときもう自分もここ に永くゐるつもりはないのだがここを出てからどこか良い口はないかと訊ねてみた。 すると彼はそれは自分の訊ねたいことだがそんなことまで君と自分とが似てゐるやう では君だつて豪さうなことも云つてゐられないではないかと云ふ。それで私は君がさ う云ふのも尤もだがこれは何も君をひつかけてとやかうと君の心理を掘り出すためで はなく、却つて私は君を尊敬してゐるのでこれから實は弟子にでもして貰ふつもりで頼むのだと云ふと、弟子かと彼は一言いつて輕蔑し たやうに苦笑してゐたが、俄に眞面目になると一度私に、周圍が一町四方全く草木の 枯れてゐる鹽化鐵の工場へ行つて見て來るやう萬事がそれからだと云ふ。何がそれか らなのか私には分らないが屋敷が私を見た最初から私を馬鹿にしてゐた彼の態度の原 因がちらりとそこから見えたやうに思はれると、いつたい此の男はどこまで私を馬鹿 にしてゐたのか底が見えなくなつて來てだんだん彼が無氣味になると同時に、それな ら屋敷をひとつこちらから輕蔑してかかつてやらうとも思ひ出したのだが、それがな かなか一度彼に魅せられてしまつてからはどうも思ふやうに藥がきかなくただ滑稽に なるだけで、優れた男の前に出るとかうもこつちが慘めにぢりぢり修業をさせられる ものかと歎かはしくなつてくるばかりなのである。ところが、急がしい市役所の仕事 が漸く片附きかけた頃のこと、或る日輕部は急に屋敷を仕事場の斷裁機の下へ捻ぢ伏せてしきりに白状せよ白状せよと迫つてゐるのだ。 思ふに屋敷はこつそり暗室へ這入つたところを輕部に見附けられたのであらうが私が 仕事場へ這入つていつたときは丁度輕部が押しつけた屋敷の上へ馬乘りになつて後頭 部を毆りつけてゐるところであつた。とうとうやられたなと私は思つたが別に屋敷を 助けてやらうと云ふ氣が起らないばかりではない。日頃尊敬してゐた男が暴力に逢ふ とどんな態度をとるものかとまるでユダのやうな好奇心が湧いて來て冷淡にぢつと歪 む屋敷の顏を眺めてゐた。屋敷は床の上へ流れ出したニスの中へ片頬を浸したまま起 き上らうとして慄へてゐるのだが、輕部の膝骨が屋敷の背中を突き伏せる度毎にまた 直ぐべたべたと崩れてしまつて着物の捲れあがつた太つた赤裸の兩足を不恰好に床の 上で藻掻かせてゐるだけなのだ。私は屋敷が輕部に少なからず抵抗してゐるのを見 ると馬鹿馬鹿しくなつたがそれより尊敬してゐる男が苦痛のために醜い顏をしてゐるのは心の醜さを表してゐるのと同樣なやうに思はれて 不快になつて困り出した。私が輕部の暴力を腹立たしく感じたのもつまりはわざわざ 他人にそんな醜い顏をさせる無禮さに對してなので、實は輕部の腕力に對してではな い。しかし、輕部は相手が醜い顏をしやうがしまいがそんなことに頓着してゐるもの ではなくますます上から首を締めつけて毆り續けるのである。私はしまひに默つて他 人の苦痛を傍で見てゐると云ふ自身の行爲が正當なものかどうかと疑ひ出したが、そ のぢつとしてゐる私の位置から少しでも動いてどちらかへ私が荷擔をすればなほ私の 正當さはなくなるやうにも思はれるのだ。それにしてもあれほど醜い顏をし續けなが らまだ白状しない屋敷を思ふといつたい屋敷は暗室から何か確實に盗みとつたのであ らうかどうかと思はれて、今度は屋敷の混亂してゐる顏面の皺から彼の秘密を讀みと ることに苦心し始めた。彼は突つ伏しながらも時時私の顏を見るのだが彼と視線を合はす度に私は彼へだんだん勢力を與へるためにやに や輕蔑したやうに笑つてやると、彼もそれには參つたらしく急に奮然とし始めて輕部 を上から轉がさうとするのだが輕部の強いと云ふことにはどうしやうもない、ただ屋 敷は奮然とする度に強くどしどし毆られていくだけなのだ。しかし、私から見てゐる と私に笑はれて奮然とするやうな屋敷がだいいちもうぼろを見せ たので困つたどん詰りと云ふものは人は動けば動くほどぼろを出 すものらしく、屋敷を見ながら笑ふ私もいつの間にかすつかり彼を輕蔑してしまつて 笑ふことも出來なくなつたのもつまりは彼が何の役にも立たぬときに動いたからなの だ。それで私は屋敷とて別にわれわれと變つた人物でもなく平凡な男だと知ると、輕 部にもう毆ることなんかやめて口で云へば足りるではないかと云つてやると、輕部は 私を埋めたときのやうにまた屋敷の頭の上から眞鍮板の切片をひつ冠せて一蹴り蹴り つけながら、立てといふ。屋敷は立ち上るとまだ何か輕 部にせられるものと思つたのか恐わさうにぢりぢり後方の壁へ脊中をつけて輕部の姿 勢を防ぎながら、暗室へ這入つたのは地金の裏のグリユーがカセイソーダでは取れな かつたからアンモニアを搜しにいつたのだと早口に云ふ。しかし、アンモニアが入用 ならなぜ云はぬか、ネームプレート製作所にとつて暗室ほど大切な所はないことぐら ゐ誰だつて知つてゐるではないかと云つてまた輕部は毆り出した。私は屋敷の辯解が 出鱈目だとは分つてゐたが毆る輕部の掌の音があまり激しいのでもう毆るのだけはや めるが良いと云ふと、輕部は急に私の方を振り返つて、それでは二人は共謀かと云ふ。 だいたい共謀かどうかかう云ふことは考へれば分るではないかと私は云はふとしてふ と考へると、なるほどこれは共謀だと思はれないことはないばかりではなくひょつと すると事實は共謀でなくとも共謀と同じ行爲であることに氣がついた。全く屋敷に悠 悠と暗室へなど入れさしておいて主人の仕事の秘密を盗 まぬ自身の方が却つて惡い行爲をしてゐると思つてゐる私である以上は共謀と同じ行 爲であるにちがひないので、幾分どきりと胸を刺された思ひになりかけたのをわざと 圖太く構へ共謀であらうとなからうとそれだけ人を毆ればもう充分であらうと云ふと 今度は輕部は私にかかつて來て、私の顎を突き突きそれでは貴樣が屋敷を暗室へ入れ たのであらうと云ふ。私は最早や輕部がどんなに私を毆らうとそんなことよりも今ま で毆られてゐた屋敷の眼前で彼の罪を引受けて毆られてやる方が屋敷にこれを見よと 云ふかのやうで全く晴れ晴れとして氣持ちが良いのだ。しかし私はさうして輕部に毆 られてゐるうちに今度は不思議にも輕部と私とが示し合せて彼に毆らせてでもゐるや うでまるで反對に輕部と私とが共謀して打つた芝居みたいに思はれだすと、却つてこ んなにも毆られて平然としてゐては屋敷に共謀だと思はれはすまいかと懸念され始め、 ふと屋敷の方を見ると彼は毆られたものが二人であるこ とに滿足したものらしく急に元氣になつて、君、毆れ、と云ふと同時に輕部の背後か ら彼の頭を續けさまに毆り出した。すると、私も別に腹は立ててはゐないのだが今迄 毆られてゐた痛さのために毆り返す運動が愉快になつてぽかぽかと輕部の頭を毆つて みた。輕部は前後から毆り出されると主力を屋敷に向けて彼を毆りつけやうとしたの で私は輕部を背後へ引いて邪魔をすると、その暇に屋敷は輕部を押し倒して馬乘りに なつてまた毆り續けた。私は屋敷のそんなにも元氣になつたのに驚いたが幾分私が理 由もなく毆られたので私が腹を立てて彼と一緒に輕部に向つてかかつていくにちがひ ないと思つたからであらう。しかし、私はもうそれ以上は輕部に復讎する要もないの でまた默つて毆られてゐる輕部を見てゐると輕部は直ぐ苦もなく屋敷をひつくり返し て上になつて反對に彼を前より一層激しく毆り出した。さうなると屋敷は一番最初と 同じことでどうすることも出來ないのだ。だが輕部は暫 く屋敷を毆つてゐてから私が背後から彼を襲ふだらうと思つたのか急に立上ると私に 向つて突つかかつて來た。輕部と一人同志の毆り合ひなら私が負けるに決つてゐるの でまた私は默つて屋敷の起き上つて來るまで毆らせてゐてやると、起き上つて來た屋 敷は不意に輕部を毆らずに私を毆り出した。一人でも困るのに二人一緒に來られては 私ももう仕方がないので床の上に倒れたまま二人のするままにさせてやつたが、しか し私はさきからそれほどもいつたい惡行をして來たのであらうか、私は兩腕で頭をか かへてまん丸くなりながら私のしたことが二人から毆られねばならぬそれ程も惡いか どうかを考へた。なるほど私は事件の起り始めたときから二人にとつては意表外の行 爲ばかりをし續けてゐたにちがひない。しかし、私以外の二人も私にとつては意外な ことばかりをしたではないか。だいいち私は屋敷から毆られる理由はない。たとへ私 が屋敷と一緒に輕部にかからなかつたからとは云へ私を もそんなときにかからせてやらうなどと思つた屋敷自身が馬鹿なのだ。さう思つては みても結局二人から、同時に毆られなかつたのは屋敷だけで一番毆られるべき責任の ある筈の彼が一番うまいことをしたのだから私も彼を一度毆り返すぐらゐのことはし ても良いのだがとにかくもうそのときはぐつたり私たちは疲れてゐた。實際私たちの 此の馬鹿馬鹿しい格鬪も原因は屋敷が暗室へ這入つたことからだとは云へ五萬枚の ネームプレートを短時日の間に仕上げた疲勞がより大きな原因になつてゐたに決つて ゐるのだ。殊に眞鍮を腐蝕させるときの鹽化鐵の臭素はそれが多量に續いて出れば出 るほど神經を疲勞させるばかりではなく人間の理性をさへ混亂させてしまふのだ。そ の癖本能だけはますます身體の中で明瞭に性質を表して來るのだから此のネームプ レート製作所で起る事件に腹を立てたりしてゐてはきりがないのだがそれにしても屋 敷に毆られたことだけは相手が屋敷であるだけに私は忘 れることは出來ない。私を毆つた屋敷は私にどう云ふ態度をとるであらうか、彼の出 方でひとつ彼を赤面させてやらうと思つてゐるといつ終つたとも分らずに終つた事件 の後で屋敷が云ふにはどうもあのとき君を毆つたのは惡いと思つたが君をあのとき毆 らなければいつまで輕部に自分が毆られるかもしれなかつたから事件に終りをつける ために君を毆らせて貰つたのだ、赦してくれと云ふ。實際私も氣附かなかつたのだが あのとき一番惡くない私が二人から毆られなかつたなら事件はまだまだ續いてゐたに ちがひないのだ。それでは私はまだ矢つ張りこんなときにも屋敷の盗みを守つてゐた のかと思つて苦笑するより仕方がなくなりせつかく屋敷を赤面させてやらうと思つて ゐた樂しみも失つてしまつてますます屋敷の優れた智謀に驚かされるばかりとなつた ので、私も忌忌しくなつて來て屋敷にそんなにうまく君が私を使つたからには暗室の 方も定めしうまくいつたのであらうと云ふと、彼は彼で 手馴れたもので君までそんなことを云ふやうでは輕部が私を毆るのだつて當然だ、輕 部に火を點けたのは君ではないのかと云つて笑つてのけるのだ。なるほどさう云はれ れば輕部に火を點けたのは私だと思はれたつて辯解の仕樣もないのでこれはひよつと すると屋敷が私を毆つたのも私と輕部が共謀したからだと思つたのではなからうかと 思はれ出し、いつたい本當はどちらがどんな風に私を思つてゐるのかますます私には 分らなくなり出した。しかし事實がそんなに不明瞭な中で屋敷も輕部も二人ながらそ れぞれ私を疑つてゐると云ふことだけは明瞭なのだ。だが此の私ひとりにとつて明瞭 なこともどこまでが現實として明瞭なことなのかどこでどうして計ることが出來るの であらう。それにも拘らず私たちの間には一切が明瞭に分つてゐるかのごとき見えざ る機械が絶えず私たちを計つてゐてその計つたままにまた私たちを押し進めてくれて ゐるのである。さうして私達は互に疑ひ合ひながらも翌 日になれば全部の仕事が出來上つて樂樂となることを豫想し、その仕上げた賃金を貰 ふことの樂しみのためにもう疲勞も爭ひも忘れてその日の仕事を終へて了ふと、いよ いよ翌日となつてまた誰もが全く豫想しなかつた新しい出來事に逢はねばならなかつ た。それは主人が私たちの仕上げた製作品とひき換へに受け取つて來た金額全部を歸 りの途に落してしまつたことである。全く私たちの夜の目もろくろく眠らずにした勞 力は何の役にも立たなくなつたのだ。然も金を受け取りにいつた主人と一緒に私を此 の家へ紹介してくれた主人の姉があらかじめ主人が金を落すであらうと豫想してつい ていつたと云ふのだから、このことだけは豫想に違はず事件は進行してゐたのにちが ひないが、ふと久し振りに大金を儲けた樂しさからたとへ一瞬の間でも良い儲けた金 額を持つてみたいと主人が云つたのでつひ油斷をして同情してしまひ、主人に暫 くの間その金を持たしたのだと云ふ。その間に一つの缺 陷が是も確實な機械のやうに働いてゐたのである。勿論落した金額がもう一度出て來 るなどと思つてゐる者はゐないから警察へ屆けはしたものの一家はもう青ざめ切つて 了つて言葉など云ふものは誰もなく、私たちは私たちで賃金も貰ふことが出來ないの だから一時に疲れが出て來て仕事場に寢そべつたまま動かうともしないのだ。輕部は 手當り次第に乾板をぶち碎いて投げつけると急に私に向つて何ぜお前はにやにやして ゐるのかと突きかかつて來た。私は別ににやにやしてゐたと思はないのだがそれがそ んなに輕部に見えたのなら或ひは笑つてゐたのかしれない。確にあんまり主人の頭は 奇怪だからだ。それは鹽化鐵の長年の作用の結果なのかもしれないと思つてみても頭 の缺陷ほど恐るべきものはないではないか。さうしてその主人の缺陷がまた私たちを ひき附けてゐて怒ることも出來ない原因になつてゐると云ふことはこれは何と云ふ 珍奇な構造の廻り方なのであらう。しかし、私はそんな ことを輕部に聞かせてやつても仕方がないので默つてゐると突然私を睨みつけてゐた 輕部が手を打つて、よしツ酒を飮まうと云ひ出すと立ち上つた。丁度それは輕部が云 はなくても私たちの中の誰かがもう直ぐ云ひ出さねばならない瞬間に偶然輕部が云つ ただけなので、何の不自然さもなく直ぐすらすらと私たちの氣分は酒の方へ向つてい つたのだ。實際さう云ふ時には若者達は酒でも飮むより仕方のないときなのだがそれ が此の酒のために屋敷の生命までが亡くならうとは屋敷だつて思はなかつたにちがひ ない。

その夜私たち三人は仕事場でそのまま車座になつて十二時過ぎまで飮み續けたの だが、眼が醒めると三人の中の屋敷が重クロム酸アンモニアの殘つた溶液を水と間違 へて土瓶の口から飮んで死んでゐたのである。私は彼を此の家へ送つた製作所の者達 が云ふやうに輕部が屋敷を殺したのだとは今でも思はな い。勿論私が屋敷の飮んだ重クロム酸アンモニアを使用するべきグリユー引きの部分 にその日も働いてゐたとは云へ、彼に酒を飮ましたのが私でない以上は私よりも一應 輕部の方がより多く疑はれるのは當然であるが、それにしても輕部が故意に酒を飮ま してまで屋敷を殺さうなどと深い謀みの起らうほど前から私たちは酒を飮みたくなつ てゐたのではないのである。酒を飮みたくなつたときより私が重クロム酸アンモニア を造つておいた時間の方が前なのだから疑ひ得られるとすると私なのにも拘らず、そ れが輕部が疑はれたと云ふのも輕部の先ずひと目で誰からも暴力を好むことを見破ら れる逞ましい相貌から來てゐるのであらう。しかし、私とても勿論輕部が全然屋敷を 殺したのではないと斷言するのではない。私の知り得られる程度のことは彼が屋敷を 殺したのではないと云ひ得られるほどのことであるより仕方がないのだ。もともと輕 部は屋敷が暗室へ忍び込んだのを見てゐるからは、彼を 殺害する以外に彼に秘密を知られぬ方法はないと一度は私のやうに思つたであらうか ら。さうして私が屋敷を殺害するのなら酒を飮ましておいてその上重クロム酸アンモ ニアを飮ますより仕方がないと思つたことさへあることから考へても、彼もそのやう に一度は思つたにちがひないであらうから。だが、酒に醉つてゐたのは私と屋敷だけ ではなくて輕部とて同樣に醉つてゐたのだから彼がその劇藥を屋敷に飮まさうなどと したのではないであらう。よしたとへ日頃考へてゐたことが無意識に醉の中に働いて 彼が屋敷に重クロム酸アンモニアを飮ましたのだとするならそれなら或ひは屋敷にそ れを飮ましたのは同樣な理由によつて私かもしれないのだ。いや、全く私とて彼を殺 さなかつたとどうして斷言することが出來るであらう。輕部より誰よりもいつも一番 屋敷を恐れたものは私ではなかつたか。日夜彼のゐる限り彼の暗室へ忍び込むのを一 番注意して眺めてゐたのは私ではなかつたか。いやそれ より私の發見しつつある蒼鉛と珪酸ジルコニウムの化合物に關する方程式を盗まれた と思ひ込みいつも一番激しく屋敷を怨んでゐたのは私ではなかつたか。さうだ。もし かすると屋敷を殺害したのは私かもしれぬのだ。私は重クロム酸アンモニアの置き場 を一番良く心得てゐたのである。私は醉ひの廻らぬまでは屋敷が明日からどこへいつ てどんなことをするのか彼の自由になつてからの行動ばかりが氣になつてならなかつ たのである。しかも彼を生かしておいて損をするのは輕部よりも私ではなかつたか。 いや、もう私の頭もいつの間にか主人の頭のやうに早や鹽化鐵に侵されて了つてゐる のではなからうか。私はもう私が分らなくなつて來た。私はただ近づいて來る機械の 鋭い先尖がぢりぢり私を狙つてゐるのを感じるだけだ。誰かもう私に代つて私を審い てくれ。私が何をして來たかそんなことを私に聞いたつて私の知つてゐやう筈がない のだから。

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[1] This kanji in the copy-text is Nelson 77 or New Nelson 27.