攝州合邦辻 (Sesshu Gappo ga tsuji) | ||
攝州合邦辻
安井前合邦庵室の場
- 役目==高安俊徳丸。
- 云ひ號け、淺香姫。
- 同奴、入平。
- 修行者、合邦。
- 同女房、おとく。
- 坪井平馬。
- 玉手御前。
皆々
南無阿彌陀佛。
百一
願爲宿得精一切、平等利益、南無阿彌陀佛/\。
百二
扨て皆の衆や、奇特によう勤めさつしやれた。見れば新しい戒名も貼つてあれど炬燵の櫓、あぶり籠の樣な字ばかりで一字も讀めぬが、このやうに馳走さんすは、大方身うちの佛であらう。誰れぢや知らぬが、南無阿彌陀佛/\。
百三
今夜は志しの佛があると聞いたゆゑ、念佛はわし等が大分精出したので、いつもより夜食も進みました。ナウ、長谷の婆さま。
婆
オヽそれ/\、麥飯にとろゝ汁、菎蒻の白あいで、いかな亡者もずる/\と、極樂へ辷り込まつしやるであらう。
皆々
ほんにさうでござるの。南無阿彌陀佛/\。
とく
モシ、皆さんえ、何はなくとも、たんと上がつて下さんせ。今夜の百萬遍は、ちつと退かれぬ佛の手向け。國を隔てゝ居る事ゆゑ、日も知らず、心ばかりの精進物、酒なと澤山上つて下さんせ。
百四
イヤ/\、遠慮なしに最前から詰め込んだので、腹が張つて、俯向いて辭儀さへ出來ぬ腹鹽梅ぢや。ナウ、皆の衆。
百一
さうとも/\、十分によばれた程に、これから腹ごなしに、片附け物を手傳ふてやりませう。
とく
イヤ/\、構はずと捨てゝ置いて下さりませ。
百二
そんならわし等はもう歸りませう。合邦どのに、よう云ふて
皆々
下されや。
とく
マア、ゆるりと話して下さりませ。
百一
イヤ、大ぶ馳走になりました。
婆
そんならお徳さま。
とく
御苦勞でござんしたな。
皆々
サア、行きませう。
[唄]
[utaChushin] 禮もそこ/\同行ども、打ち連れてこそ立ち歸る。跡に女房は御燈火の、灯は掻き立つれど晴れやらぬ、子ゆゑの闇の獨り言。合邦は一間を立ち出で
[ト書]
ト此うち百姓皆々、わや/\云ふて下手へ入る。お徳、行燈をよき所へ置き、燈明を掻き立て、こなし。合ひ方になり、奧より合邦、好みの拵へ、珠數を持ち、出て來り、邊りを見て
合邦
お徳、同行衆は歸られたか。
とく
アイ、よう禮云ふてくれと、今がた歸られましたわいの。
合邦
ムウ、さうか。俺も晝からの彼の客人で、ほつとしたわい。
とく
ほんにさうでござんせう。又今日の弔ひも、天にも地にも只一人の娘、道心者の娘で置いたら、非業の最期もさしはせまいに、なまなか河内の國の大名の、奧樣奧樣と云はしたも親の科。五年六年見ぬ親子、病ひでもある事か、死にやる時には、嘸や親々戀しいと、思ふたであらうわいなう。
[唄]
[utaChushin] 今際の念に引かされて、未來も迷ふてゐるであらう。
[とく]
可哀の者や。いぢらしい事しました。思へば不便にござるわいなう。
[唄]
[utaChushin] 身をひれ伏して泣き沈む。合邦は泣き目を隱し
合邦
コレ、お婆、又同じ事をめろ/\と、繰り返して泣き居るか。十年このかた頭は剃つても、心は昔の侍ひ氣質、一人の娘を高安どのへ腰元奉公、奧方に引き上げられても、親子とも名乘らぬは、かう云ふ淺間しい姿ゆゑ、我が子の肩身もすぼらうかと、折節の状通にも、必らず/\親一門もないものと云ひ募れと、くどい程云ふてやつたも、娘の庇で立身望むと、世上の人に云はるゝが面倒さ。潔白な親とは違ひ、子と名乘つてゐた俊徳さまに、無體な戀をしかけるのみか、後までを慕ひ廻り、大恩の夫を捨て、家出したいたづら女郎め、そのまゝにして濟まさうか。早速に追つ手をかけ、嬲り殺しになつたであらう。アヽ、不所存で命を捨てた奴、不愍ともいぢらしいとも思はねど、高安どのへ貢ぎの禮。又見ず知らずでも劍難で死んだ者は、弔ふてやるが頭の役。そなたも武士の娘だてら、見苦しいその泣き顏、ちと嗜みやいなう。
[唄]
[utaChushin] 叱れば母は猶涙。
とく
可哀さうに、そのやうに酷たらしうは云はぬもの。片輪な子ほど不愍をかけるは世の習ひ。二十そこらの色盛り、年寄つた左衞門さまより、美しいお若衆さまなら、惚れいでなんとするものぞ。いたづら者よ不義者と叱るのは、生きてゐるうちの事、死んだ跡ではちつとばかり、可哀やと云ふたとて、佛の科にもなるまいと思ひますわいの。
[唄]
[utaChushin] 恨み歎けば父親も、心の底は子を思ふ、歎きを見せじと顏そむけ、かぶり打ち振り
合邦
アヽイヤ/\、たとへ我が子でも惡人を、不愍と思ふは天道への恐れ。坊主の役と一旦は弔ふたれど、畜生めがその戒名、引き破つてしまふなりと、そちらの事はそなた任せ。又香も切れたら盛るなりと、御燈火も消えぬやうにしやうと、勝手にしやれ、俺や構はぬ。滿更懇ろな他人の死んだ樣にも思はぬゆゑ、思はず涙が……アイヤ、涙は出ねど、年のせいか、この眼が霞んでうつとうしい。
[唄]
[utaChushin] 摺り赤めたる恩愛の、涙隱せど悲しさは、聲の曇りに現はれし、夫の心汲む妻は、手向けの水の哀れ氣に、せめて未來の助けにと、くゆらす香の薄煙り、思ひは富士の高根とも、袖は清見が堰き留めて、涙押へる鉦の音の
[唄]
[utaChushin] しん/\たる夜の道、戀の路には暗からねども、氣は烏羽玉の玉手御前、俊徳丸の御行くへ、尋ね兼ねたる人目をも、忍び兼ねたる頬冠り、隱み包せし親里も、今は心の頼みにて、馴れし故郷の門の口、立ち寄る後より入平が、御兩所の御行くへ、爰とは知れど奧方の、姿見るより樣子もと、戸脇に厚き藪疊み、身を潜めてぞ窺ひ居る。かくとは知らで玉手御前、干割れに洩るゝ細き聲。
[ト書]
ト此うち合邦は位牌に向ひ、鉦を叩き、回向をしてゐる。お徳は香盤の香を盛り、珠數を持ち、口の裡にて念佛を唱へ居る。よき程に向ふより、玉手御前、着流し、抱へ帶、片袖を引きちぎり、頬冠りにして出て來り、内の樣子を窺ふ。下部入平、旅形、一本差しにて出て來り、玉手御前を見て、思ひ入れあつて、そつと下手の藪疊の蔭へ忍ぶ。玉手御前、これを知らず、門口を覗き見て
玉手
申し、母さん/\。
[唄]
[utaChushin] 呼ぶは慥かに娘の聲。
[ト書]
トこれにて合邦、鉦を叩き乍ら、この聲を聞き、恟りして
合邦
ヤア、あの聲は正しく娘。ヤア、まだ死なぬな。アノ、殺されはせぬか。
[唄]
[utaChushin] と立ち上がりしが心附き、振り返り見る女房が方、鉦に紛れて聞こえぬは、これ幸ひと知らぬ顏。
玉手
母さん/\、爰明けて下さんせいなア。
[唄]
[utaChushin] 叩く戸の音聞き咎め
とく
コレ、合邦どの、今こなさんは何とぞ云ふてか。
合邦
イヽヤ、なんとも云やせぬわい。
とく
それでもどうやら
合邦
ハテ、そりやわが身の空耳であらうぞい。
とく
イヤ、空耳かは知らねども、ちらりと聞こえた娘の聲。
[唄]
[utaChushin] ハテ合點の行かぬと立ち上がる。
玉手
さう仰しやるは母樣か。ちやつと明けて下さんせ。娘の辻でござんすわいなア。
[唄]
[utaChushin] 聞いて恟り飛び立つ思ひ
とく
ナニ、娘が戻りやつたとな。夢ではないか。
[唄]
[utaChushin] 駈け出る袂を取つて引き留め
[ト書]
トお徳、こなしあつて、門口へ行かうとするを、合邦、引き留め
合邦
ヤイ/\/\、狼狽者めが。肌は觸れても觸れいでも、我が子に不義をしかけた畜生、侍ひの身で高安どのが、娘を助けて置かつしやる樣はなければ、なんの今まで存命へて、うか/\爰へ何しに來やうや。アヽ、隱すより現はるゝはなしと、親はないと云はしても、ある事知つて娘が手から、度々の合力金、二人が命ながらへしは、皆高安どのが御厚恩。その夫の目を掠めし畜生の娘、たとへ無事で戻つたとて、門端も踏まされうか。元より娘は斬られて死んだぢやないか。今物を云ふたが娘なら、それこそ幽靈に違ひない。そなたは氣味が惡うはないか。肉縁の深いほど、死人になれば怖いもの。必らず門の戸明けまいぞ。
[唄]
[utaChushin] 云ふに女房は。
とく
イヤ/\、幽靈は愚か狐狸の化けたのでも、ま一度見たい娘の顏。若しや恐ろしい物であつて、目をまはして死んだら仕合せ。愛し可哀の子を先立て、生きて業を晒さうより、一目なりとも見たうござるわいなう。
[唄]
[utaChushin] 振り切り行くを猶も引き留め
合邦
ハテサテ、惡い合點。狐狸か幽靈なればまだしもの事。不義の娘なら高安どのへ義理の言譯、以前刀さいた役目、親の手にかけ殺さにやならぬ。それが厭さに留めるのぢやわいやい。
[唄]
[utaChushin] 泣かねど親の慈悲心を、聞く子や妻は内と外、顏と顏とは隔たれど、心の隔て泣き寄りの、眞身の誠ぞ哀れなる。娘は涙押し拭ひ、門の戸口に口を寄せ
玉手
父樣のお腹立ち
[唄]
[utaChushin] そのお憎しみは尤も乍ら
[玉手]
これには段々言譯あれど、人目を忍ぶこの身の上。マア、爰明けて下さんせいなア。
[唄]
[utaChushin] 泣く/\願へば母親は
とく
あれ聞いてか合邦どの、言譯があるといの。マア、聞いてやつて下さんせ。ハテ、娘と思へば義理も缺けるが、幽靈を内へ入れるに、誰れに遠慮はござんすまいぞえ。
合邦
何さま、婆の云ふ通り、この世は離れたものなれば、世間を憚る事もあるまい。そんなら早う呼び込んで、茶漬でも手向けてやりや。幽靈もさぞひだるからう。
[唄]
[utaChushin] 身を反むけるは涙百倍。母は悦び門口の、疾くや遲しと明くる間も、お懷かしや懷かしやと縋る娘の顏形、前後ろ見つ肌に手を入れても矢ツ張り本の娘。
[ト書]
ト此うちお徳、門口を明ける。玉手御前、内へ入り、お徳に取り附く。お徳、こなしあつて
とく
オヽ、嬉しや/\、まめでゐてくれたかいなう。さうとは知らず逆さま事
[唄]
[utaChushin] あた忌々しい百萬遍、弔ひした夜に不思議な顏。
[とく]
イヤ/\、ひよつと夢ではあるまいか。よう顏見せてくれいやい。
[唄]
[utaChushin] 抱き締めて嬉し泣き。父も程經る娘の顏、見たさに思はず立ち寄れど、以前の詞と世の義理を、思へばちやつと飛び退いて、手持ち惡いぞいぢらしき、母はやうやう心を鎭め
[とく]
世間の噂には、そなたはアノ俊徳さまとやらに戀をして、館を拔けて出やつたの、イヤ、不義者ぢやと惡うは云へど、そなたに限つて、よもやさう云ふ事はあるまい。定めて嘘であらうがな。さうか、嘘か/\。
[唄]
[utaChushin] と箸持つて、くゝめる樣な母の慈悲、面はゆげなる玉手御前
[ト書]
トこれを聞き、玉手御前、こなしあつて
玉手
母樣のお詞なれど、いかなる過去の因縁やら、俊徳さまの御事は、寢た間も忘れず、只戀しい/\と、思ひ切られぬ戀路の闇。
[唄]
[utaChushin] 思ひ餘つて打ちつけに、云ふても親子の道を立て、つれない返事堅いほど、猶いやまさる戀の淵。いつそ沈まばどこまでもと、跡を慕うてかちはだし、蘆の浦々難波潟、身をつくしたる心根を、不便と思うてとも%\に、俊徳樣の行くへを尋ね、女夫にして下さんすが、親のお慈悲。
[玉手]
コレ、手を合はして拜むわいなア。
[唄]
[utaChushin] 拜み廻れば母親も、今更呆れ我が子の顏、只うち守るばかりなり。父はとかうの詞なく、納戸のうちより昔の一腰引ツ提げ來て
[ト書]
ト合邦、こなしあつて、納戸口より一腰を持ち來り
合邦
ヤイ、畜生め、よく聞けよ。おのれにはまだ話さねど、元わが親は青砥左衞門藤綱と云ふてな、鎌倉の最明寺時頼公のお見出しに依つて、天下の政道を預かり、武士の鑑ぢやと云はれたお方ぢや。我が代になつても親の庇、大名の數にも入つたれど、今の相模入道どのの世に至つて、侫人どもに讒言せられ、浪人して早二十四年、世を見限つて捨て坊主、この形になつてもな、義を失はぬ合邦が子に、ようも/\おのれが樣な、女の道も人の道も、辨へぬ娘を持つたと思へば、無念で身節が碎けるわいやい。高安どのが今日まで、われを助けて置かつしやる、御心底を推量するに、元おのれは前奧方の腰元、後の奧にせんと云ひし折、たつて辭退し居つたを、無理矢理に奧方となし、それゆゑ今度の仕儀となり、殺さにやならぬ所なれど、皆高安どのがお身の上を顧て、親への義理に助けさつしやるを、有難い、恥かしいと思ふ心が芥子ほどでもあるなら、たとへどれ程惚れて居つても、思ひ切れぬと云ふ事はないわい。それになんぢや。そのざまになつても、まだ俊徳さまと女夫になりたい、親の慈悲に尋ねてくれとは、ドヽどの頬げたでぬかした。あつちから義理立てゝ助けて置かつしやる程、生け置いてはこつちも義理が立たぬ。今ぶち放す。覺悟せい。
[唄]
[utaChushin] はや拔きかくる刀の鯉口、母は取りつき
とく
コレ/\、合邦どの、そりや料簡が違ふた/\。
合邦
なんで違ふのぢや。
とく
サレバイノ、お慈悲で助けて下さる娘、お志しをむそくにして、殺して義理が立ちまするか。このうへは母がとつくり意見して、俊徳さまの事思ひ切らせ、命替りに尼法師、浮世を捨てれば死んだも同然、どこへの義理も立つ道理。
[唄]
[utaChushin] 奧へ指さし樣々と、宥めすかして母親は、我が子の側へすり寄つて
[とく]
コレ、娘、聞きやる通りの事なれば、どの樣に思やつても、そなたの戀は叶はぬ程に、ふつゝりと思ひ諦めて、早う尼になつてたもいなう。
[唄]
[utaChushin] 縹緻發明勝れた娘、尼になれと勸めるは、助けたいばつかりに、花の盛りを捨てさして、切らねばならぬその黒髮。
[とく]
百筋千筋と撫でしもの、剃らねば叶はぬこの仕儀は、こりやマアなんたる因果ぢやぞいなう。
[唄]
[utaChushin] なんの因果とばかりにて、縋りついて泣きゐたる。娘は飛び退き顏色變へ
[ト書]
ト玉手御前、こなしあつて、お徳を突き退け
玉手
エヽ、わつけもない事云はしやんすな。わしや尼になる事は厭ぢや/\。折角艶ようすき込んだこの髮が、どう酷たらしう剃られるものかいな。今までの屋敷風はもう取替へて
[唄]
[utaChushin] これからは色町風、隨分派手に身を持つて
[玉手]
俊徳さまに逢ふたらば、あつちからも惚れて貰ふ氣。怪我にも尼の坊主のと、そのやうな事云ひ出しても下さんすなえ。
[唄]
[utaChushin] 劍もほろゝの挨拶に、聞く父親はむくりをにやし
合邦
アレ、あの通りの胴ばり者め
[唄]
[utaChushin] もう料簡がと、父が身構へ母親は
とく
サア、お腹の立つは尤もでござんすが、夫婦になつて長の年月、只一度のわしが願ひ、暫しの間娘を、わしに預けて下されいなう。
[唄]
[utaChushin] 願へば是非も中の間へ、見返りもせず入り行く父親。母は意地張る娘の手、引立て/\無理矢理に、納戸へこそは入る月の。
[ト書]
ト合邦はこなしあつて、上手の障子のうちへ入る。お徳は玉手御前を無理に引立て、納戸口へ入る。
[唄]
[utaChushin] 影さへ見えぬ目無し鳥、番ひ放れぬ淺香姫、一間のうちより俊徳の、御手を引いて忍び出で
[ト書]
ト上手離れの障子屋體より、淺香姫、俊徳丸、癩病、好みの鬘、着流し、大小、病ひ鉢卷、眼病のこなしにて、手を引かれ、出て來り
淺香
今の樣子を聞くにつけ、もう暫らくもこのうちに、あなたはどうも置かれませぬ。いづくへなりともお供せん。サア、お起し遊ばせ。
[唄]
[utaChushin] 手を引立つれば俊徳丸
俊徳
アヽ、わが業滿てず母上に、かくまで思はれ參らするも、身の罪障とは云ひ乍ら、館を出でし頃には増り、兩眼盲ひたるそのうへに
[唄]
[utaChushin] かゝる見にくき姿をば、お目にかけなば母上の
[俊徳]
愛着心の切れもやせん。今一度お目にかゝつたそのうへにて、入平夫歸も尋ね來ば、召し連れて立ち退かん。
[唄]
[utaChushin] のたまふ聲を聞き取る門口。
[ト書]
トこの以前より、入平、下の藪疊みの蔭より出て、門口に窺ひゐて
入平
アイヤ、入平め、最前より、始終の樣子を承りました。
[ト書]
トうちへ入る。
[入平]
一刻も早くお供の仕らん。
淺香
オヽ、さう云やるは入平か。
入平
姫君には、お心丈夫に思し召せ。
俊徳
入平、よい所へ來やつたの。
入平
サア、ちつとも早く、お立ちあられませう。
[唄]
[utaChushin] 氣を急く折しも納戸より、早駈け出づる玉手御前。
[ト書]
トこの時、納戸口より、玉手御前、走り出て
玉手
なう懷しや俊徳さま。
淺香
ヤア、玉手さまか
俊徳
母上には、どうしてこの家へ
玉手
お前に逢ひたいばつかりに、幾世の苦勞物案じ、心を盡した甲斐あつて、やうやうお目にかゝつたわいなう。
[唄]
[utaChushin] 縋り給へば身を摺り退け
[ト書]
ト取りつくを、振り放し
俊徳
チエヽ、お情ない母上さま、館にても申す如く、同氏さへ嫁取らぬは君子の戒め。ましてや親子の仲々に、戀の色のと斯程まで、慕ひ給ふはお身ばかり。宿業深き俊徳に、まだ%\罪を重ねよとか。見る目いぶせきこの癩病、兩眼盲いて淺間しき、姿はお目にかゝらぬか。これでも愛想が盡きませぬか。道も恥をも知り給へ。
[唄]
[utaChushin] 涙と共に恥しむれば
玉手
ホヽヽヽヽ、愚かな事を仰しやるよな。そのお姿もわたしが業、むさいとも穢ないとも、なんの思はう、思やせぬ。自らゆゑに難病に、苦しみ給ふと思ふ程
[唄]
[utaChushin] いや増す戀の種となり
[玉手]
一倍いとしうござんすわいなア。
俊徳
ムウ、この業病を母上の、業と仰しやるその仔細は。
玉手
サア、去年の霜月住吉で、神酒と僞りコレ
[ト書]
ト袱紗冠みの鮑貝を出し
[玉手]
この鮑ですゝめて神酒は、祕法の毒藥。
俊淺
エヽヽヽヽ。
[ト書]
ト皆々恟りする。
玉手
サア、癩病發する奇藥の力。中に隔てを仕かけの銚子。母が呑んだは常の酒。お前の顏を醜うして、淺香姫に愛想をつかさせ、この身の戀を叶へんため。前世の惡業消滅と、出家ありしは丁度幸ひ、跡を慕ふてお行くへを、方々尋ぬるそのうちにも、君が記念のこの盃
[唄]
[utaChushin] 肌身放さす抱き締めて
[玉手]
いつか鮑の
[唄]
[utaChushin] 片思ひ、つれないわいなと御膝に、身を投げ臥して口説き泣き。樣子を聞いて俊徳丸、無念と思へど義理の親、恨みも云はず兎に角に、我が身の不運と御落涙。姫はいつそ涙も出ず、腹立ち紛れに取つて突き退け
[ト書]
ト玉手、俊徳に寄り添ひ、泣き伏す。俊徳、口惜しきこなし。淺香姫、玉手を隔てゝ
淺香
チエヽ、あなた樣はなア。聞けば聞く程、あんまりぢや/\わいなア。俊徳さまを、ようあの樣なお顏になされましたなア。
[唄]
[utaChushin] 母御の身として子に戀慕、人間とは思はねど、道ならぬ事も程がある。
[淺香]
サア、元の通りにして返しや/\。
[唄]
[utaChushin] 恨み給へば入平も
入平
モシ、奧樣。あなたはお氣ばし狂ひはなされませぬか。誰れあらう高安左衞門さまの奧方と、敬はれるお身であり乍ら、御子息の俊徳さまを戀ひ慕ふとは、いかなる天魔が見入りしか。數なりませぬ下郎めが、御意見申すもお身の上を思ふがゆゑ。何卒戀慕の念を斷ちしと、たつた一言仰しやつて下さりませ。モシ、奧樣、お慈悲お情でござりまする。すりや、斯程までに御意見申しても、アノ、お聞入れはござりませぬか。エヽ、さりとは道も法も辨へぬ、あたな樣はなア。
[唄]
[utaChushin] 忠義一途な入平が、諫めの言葉耳にも入れず、玉手はすつくと立ち上がり
玉手
ヤア、戀路の闇に迷ふた我が身、道も法も聞く耳持たぬ。もう此うへは俊徳さま、何くへなりと連れて退き、戀の一念通さで置かうか。邪魔しやつたら免さぬぞ。
[唄]
[utaChushin] 飛びかゝつて俊徳の、御手を取つて引立てる。あら穢らはしやと振り切るを、放れじやらじと追ひ廻し、支へる姫を突き退け刎ね退け、怒る目もとは薄紅梅、逆立つ髮は青柳の、姿も亂るゝ嫉妬の亂行。門には入平身に冷汗、たえ兼ねて駈け出る合邦、娘が髻ひつ掴み、ぐつと貫く氷の切先、あつと魂切る聲に恟り、戸をめり/\駈け込む入平、驚く夫婦。
[ト書]
ト此うち玉手、俊徳を連れ行かんとする。入平、淺香姫、支へる。玉手、入平を表へ突き出し、門口をしめる。よき程に、奧より合邦、刀を持ち、出て來り、この體を見て、玉手の髻を取つて引き寄せ、脇腹へ刀を突つ込む。これにて玉手、あつと倒れる。この聲に驚き、入平、門口を打ち破り、こちへ入る。お徳、納戸口より走り出て
とく
ヤア、こりや娘を
俊徳
こりや早まつた事
皆々
致されたなア。
[唄]
[utaChushin] 取り附き歎けば、合邦は怒りの顏色、筋骨立て
合邦
ヤア、何吠える事がある。コリヤ、女房、そちが泣いては高安さま、俊徳さま御夫婦へ、心の義理が立つまいがな。このやうな念の入つた大惡人を、まだわりや子ぢやと思ふか。ヤイ、俺や憎うて/\たまらぬゆゑ、十年この方虱一匹殺さぬ手で、現在の子を殺すは、浮世の義理とは云ひ乍ら、これが坊主のあらう事か。コリヤヤイ、おのればかりかこの親まで、佛の教へを背かして、無間地獄の釜焦げに、ようマアおのれは仕居つたなア。アノ、爰な魔王めが。
[唄]
[utaChushin] ゑぐる拳を押へる手負ひ。
玉手
アモシ、父さん、道理ぢや/\。これには深い樣子のある事。物語りする間、この手を緩めて下さりませ。
[唄]
[utaChushin] 苦しき息をほつと吐き
[ト書]
ト誂への合ひ方になり
[玉手]
樣子と云ふは外ならず。御妾腹の次郎丸さま、年かさに生れ乍ら、後に生れた俊徳さまに、御家督繼がすを無念に思ひ、坪井平馬と心を合はせ、お世繼ぎの俊徳さまを、殺さうと云ふ兼ねての工み、委しい樣子を立ち聞きして、南無三寶、義理ある仲のお子と云ひ、元は主君の若殿樣、殺させては道立たず、このうへは俊徳さまが、御家督さへお繼ぎにならねば、次郎さまの惡心も、自然とやんでお命に、別條ないと思案を極め、心にもない不義いたづら。
[唄]
[utaChushin] 云ふもうるさや穢らはしや。
[玉手]
妹背の固めと毒酒を勸め、御難病に苦しめたは、お命助けうばかりの計略。又戀でないとの言譯は、肌身放さぬこの盃。
[唄]
[utaChushin] 母の心を子は知らぬ、片思ひと云ふ心の誓ひ。
[玉手]
繼子繼母の義を立てゝも
[唄]
[utaChushin] 嘸や我が夫道俊さま、根が賤しい玉手ゆゑ
[玉手]
いたづら者とお蔑みを受けるのが、黄泉の障りになりまする。
[唄]
[utaChushin] 云へど合邦あざ笑ひ
合邦
ムウ、それ程知れた次郎丸さまの惡事、なぜ道俊さまへは申し上げぬ。たつた一言云ひさへすりやア、癩病にする事も、又不義者にもならぬわえ。口利口に云ひ廻したとて、今となつてそんな暗い言譯を、食ふ樣な親ぢやないわえ。
玉手
イエ/\、それは父さんの料簡違ひ、その樣子を我が夫へ申し上げなば
[唄]
[utaChushin] 道理正しい左衞門さま、お怒りあつて次郎丸さまは切腹か、お手討ちは知れた事。
[玉手]
次郎丸さまも俊徳さまも、わたしが爲には同じ繼子、義理ある仲に變りはない。惡人なれど殺しては
[唄]
[utaChushin] 過ぎ去り給ふ母御前が、草葉の蔭で嘸やお歎き。
[玉手]
隔つた仲ゆゑ訴人して、殺したと思はれては、世間の手前義理立たず。道俊さまも我が子の事、なんのお心よからうぞ。あなたこなたを思ひやり
[唄]
[utaChushin] 繼子二人の命をば、我が身一つに引き受けて
[玉手]
不義者と指さゝれても、繼子が大切、夫の御恩、せめて報ずる百分一。
[唄]
[utaChushin] 言譯聞いて人々は、扨てはさうかと疑ひの、晴れる程猶母の歎き、合邦も涙にむせび
合邦
コリヤ、娘、その心根で、なぜ俊徳さまの跡追ふて、家出したが合點が行かぬ。
玉手
尤もなお咎めなれど、いづくまでも行くへを尋ね、あなたのお目にかゝらねば、いたはしやあの癩病、御本腹はござんせぬわいなア。
[唄]
[utaChushin] 聞いて入平不審顏
入平
なんと仰しやる。奧樣がお側に附いてござれば、御本腹なさるゝとは
玉手
サレバイノ、典藥法眼に樣子を打ち明け、毒酒の調合さす折柄、本腹の治法委しく尋ねし所、胎内より受けたる癩病ならず、毒にて發する病ひなれば、寅の年の年月時日、揃ふて誕生したる女の、肝の臟の生血を取り、毒酒を盛りたる器にて呑まする時は、即座に本腹疑ひなしと、聞いた時のその嬉しさ。それゆゑにこの盃。
[唄]
[utaChushin] 肌身放さず持ち歩るき、お行くへ搜す自らが、心の割符。
[玉手]
父さん、疑ひ晴らして下さりませ。
合邦
フム、すりや、そちが誕生の月日が、妙藥に合ふたゆゑ、一旦は癩病にしてお命助け、又身を捨てゝ本腹させんため、それで毒酒を進ぜたのぢやな。
玉手
アイ、父樣、疑ひは晴れましたか。
合邦
オヽ、出かし居つた/\。コリヤ、娘、もう/\なんにも云はぬ。堪忍してくれ。日本は扨て置き唐天竺にも、較べる者なき貞女な者を、畜生の惡人のと、憎て口云ふばかりか、親の手にかけ酷い最期。コヽこの親が愚鈍からぢや。赦してくれ、堪忍してくれいやい。
[唄]
[utaChushin] 赦してくれとどうと伏し、悔み涙ぞ道理なる。始終を聞いて俊徳丸、探り寄つて繼母の手を取り、押し戴き押し戴き。
[ト書]
ト合邦、泣き伏す。後徳丸、玉手の側へ探り寄つて、こなしあつて
俊徳
生さぬ仲の義理を重んじ、身を捨てゝの御慈愛、誠の親とも命の親とも、詞には盡し難き御高恩。
[唄]
[utaChushin] 身を百千に碎くとも、なんと報じつくすべき
[俊徳]
ハツ、有難や忝なや。
[唄]
[utaChushin] 頭を疊に附け給へば、姫も共々縋り附き
淺香
そのお心とは露知らず、勿體ない道知らずと、蔑んだのが恐ろしい。お赦しなされて下さりませ。
[唄]
[utaChushin] 兩手を合す姫の詫び。
入平
ハツ、遖れ女の鑑とも云はるお身に、惡名受けたるおいたわしさ。
[唄]
[utaChushin] 入平も悲歎の涙。母は正體涙にくれ
とく
コレ、娘、持つて生れた不運とは云ひ乍ら、思へば不愍や可愛やなア。
[唄]
[utaChushin] 歎けば道理と一座の涙、逢坂増井の名水に、龍骨車かけたる如くなり。手負ひは顏を振り上げて
[ト書]
ト皆々、愁ひこなしよろしくあつて玉手、顏を上げ
玉手
コレ、父さん、早う肝の臟の生血を取り、この鮑に入れ、早う/\。
[唄]
[utaChushin] と氣を煎る娘。
合邦
憎いと思ふ張合ひなりやこそ、切りも突きもなつたもの、今では心底可愛い娘、どうマア酷たらしう……コレ、入平とやら、大儀乍ら頼みます。
入平
これは又迷惑千萬、御主人同樣の玉手さま、どうマア刃が當てられませう。こればかりは御免なされて下さりませ。
玉手
エヽ、未練な容赦、もう人頼みには及びませぬ。
[唄]
[utaChushin] 懷劔逆手に取り直せば
[ト書]
ト玉手、こなしあつて、懷劔にて突かんとする。
合邦
アヽ、マヽ、待つてくれ。とても死ぬるそちが命、臨終正念未來成佛、佛力頼む百萬遍、この念珠で繰る珠數の輪の中で、往生してくれいやい。
[唄]
[utaChushin] 云ひつゝ擴げる数珠の輪の、中に玉手は氣丈の身構へ、俊徳丸を膝元へ、右に懷劔左に盃、外には父の親つぶが、導師の役と鉦撞木、母は涙に目も明かず
[唄]
[utaChushin] 南無阿彌陀佛/\、うちに難なく切り裂く鳩尾、自身に盃受けたる盃、差し附くる手もわな/\/\、俊徳丸は押し戴き、只一息に呑み干し給へば
[ト書]
トこの淨瑠璃のうち、皆々、玉手を介抱する。合邦、壁にかけ置きし衣を、玉手に着せる。お徳は百萬遍の珠數を持ち來り、よろしくあつて、玉手は鮑貝に血汐を入れ、奇藥を調合する。合邦、手傳ひ俊徳に呑ませる。ドロ/\になり、俊徳、氣を失ふ。よき程に下手平馬、旅形、大小にて出て來り、一寸窺ひ、門を開け
平馬
ヤア/\、この家のうちに淺香姫、忍び居る事慥かに知つて、次郎丸さまの仰せを受け、捕手に向ひし坪井平馬、きり/\姫を渡してしまへ。
[ト書]
トこれにて皆々、俊徳、姫を圍ふ。入平、こなしあつて
入平
ヤア、人非人たる坪井平馬、この入平が附添ひ居れば、やわか汝に渡さうや。
平馬
ヤア、下部の分際として、妨げいたさば命がないぞ。
入平
何を小癪な。
[唄]
[utaChushin] と互ひに拔き合ひ、渡り合ふ。透を窺ひ入平が、切り込む刀を受け損じ、二つになつて死してんけり。
[ト書]
ト門口の外にて、兩人、立廻つて、トヾ入平、平馬を斬り倒し、溝の中へ蹴込む。この時薄ドロ/\になり、俊徳丸、蘇生る。皆々、介抱する。
[唄]
[utaChushin] 不思議や忽ち兩眼開き、昔の姿に返り咲き。
[ト書]
ト此うち俊徳丸の顏、仕掛けにて、常の顏となる。皆皆見て
皆々
ヤア、御本腹遊ばしたか。
[唄]
[utaChushin] 花のかんばせ見る手負ひ、苦しき片頬に笑ひ顏、はや斷末魔の四苦八苦、鉦も早めて責め念佛、俊徳丸は勇み立ち
後徳
チエヽ、忝ない。廣大無邊の繼母の恩、せめて少しは報ずるため、出世の後はこの邊に、一宇の寺院を建立し、母上樣の住家とせん。
[唄]
[utaChushin] 繼母は貞女の鑑とも、曇らぬ心は澄みの江に、月を宿せし操を直ぐに、
[俊徳]
月江寺と名づくべし。
[唄]
[utaChushin] 仰せは今も尼寺と、常念佛の鉦の音に昔の哀れや殘るらん。父は常々勸進の、自力他力にこの佛體
合邦
閻魔堂を建立には、我が住家をそのまゝに
[唄]
[utaChushin] 辻堂として營むも諸寺利益。
[合邦]
東門中心極樂へ、娘を往生なし給へ。
[唄]
[utaChushin] 願ふ心は後世のため。現世の名殘り數々は
俊徳
百八煩惱夢さめて
淺香
涅槃の峰に浮む瀬と
入平
紀念に殘る盃の
とく
逆さま事も善智識。
合邦
佛法最初の天王寺。
俊徳
西門通り
皆々
一筋に
[唄]
[utaChushin] 玉手の水や合邦が辻と、古跡を
[ト書]
ト皆々、玉手を見て、愁ひの思ひ入れ。玉手、次第に落入る。三重、送りにて
幕
攝州合邦辻 (Sesshu Gappo ga tsuji) | ||