椙原品 (Sugi no kashihara) | ||
椙原品
一
私が 大礼 ( たいれい ) に参列するために京都へ立たうとしてゐる時であつた。私の加盟してゐる某社の雑誌が来たので、忙しい中にざつと目を通した。すると仙台に 高尾 ( たかを ) の 後裔 ( こうえい ) がゐると云ふ話が出てゐるのを見た。これは伝説の誤であつて、しかもそれが誤だと云ふことは、 大槻文彦 ( おほつきふみひこ ) さんがあらゆる方面から遺憾なく立証してゐる。どうして今になつてこんな誤が事新しく書かれただらうと云ふことを思つて見ると、そこには大いに考へて見て好い道理が存じてゐるのである。
誰でも著述に従事してゐるものは思ふことであるが、著述がどれ 丈 ( だけ ) 人に読まれるかは問題である。著述が世に 公 ( おほやけ ) にせられると、そこには人がそれを読み得ると云ふポツシビリテエが生ずる。しかし実にそれを読む人は少数である。一般の人に読者が少いばかりではない。読書家と称して好い人だつて、其読書力には際限がある。 沢山 ( たくさん ) 出る書籍を 悉 ( こと/″\ ) く読むわけには行かない。そこで某雑誌に書いたやうな、歴史に趣味を有する人でも、 切角 ( せつかく ) の大槻さんの発表に心附かずにゐることになるのである。
某雑誌の記事は 奥州話 ( あうしうばなし ) と云ふ書に本づいてゐる。あの書は仙台の 工藤平助 ( くどうへいすけ ) と云ふ人の 女 ( むすめ ) で、 只野伊賀 ( たゞのいが ) と云ふ人の妻になつた 文子 ( あやこ ) と云ふものゝ著述で、文子は滝沢馬琴に 識 ( し ) られてゐたので、多少名高くなつてゐる。しかし奥州話は大槻さんも知つてゐて、 弁妄 ( べんまう ) の筆を 把 ( と ) つてゐるのである。
文子の説によれば、 伊達綱宗 ( だてつなむね ) は新吉原の 娼妓 ( しやうぎ ) 高尾を 身受 ( みうけ ) して、仙台に連れて帰つた。高尾は仙台で老いて亡くなつた。墓は 荒町 ( あらまち ) の 仏眼寺 ( ぶつげんじ ) にある、其子孫が 椙原氏 ( すぎのはらうぢ ) だと云ふことになつてゐる。
これは 大 ( おほい ) に 錯 ( あやま ) つてゐる。伊達綱宗は 万治 ( まんぢ ) 元年に歿した父 忠宗 ( たゞむね ) の 跡 ( あと ) を継いだ。 踰 ( こ ) えて三年二月 朔 ( ついたち ) に小石川の 堀浚 ( ほりざらへ ) を幕府から命ぜられ、三月に仙台から江戸へ出て、工事を起した。 筋違橋 ( すぢかへばし ) 即ち今の 万世橋 ( まんせいばし ) から 牛込土橋 ( うしごめどばし ) までの間の工事である。これがために綱宗は 吉祥寺 ( きちじやうじ ) の裏門内に設けられた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は今 駒込 ( こまごめ ) にある寺で、当時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつたのである。この 往来 ( ゆきき ) の間に、綱宗は吉原へ通ひはじめた。これは当時の諸侯としては類のない事ではなかつたが、それが誇大に言ひ 做 ( な ) され、意外に早く幕府に聞えたには、綱宗を 陥 ( おとし ) れようとしてゐた人達の手伝があつたものと見える。綱宗は 不行迹 ( ふぎやうせき ) の 廉 ( かど ) を 以 ( もつ ) て、七月十三日にに 逼塞 ( ひつそく ) を命ぜられて、 芝浜 ( しばはま ) の屋敷から品川に 遷 ( うつ ) つた。芝浜の屋敷は今の新橋停車場の 真中程 ( まんなかほど ) であつたさうである。次いで八月二十五日に、嫡子 亀千代 ( かめちよ ) が家督した。此時綱宗は二十歳、亀千代は 僅 ( わづか ) に二歳であつた。堀浚は 矢張 ( やはり ) 伊達家で継続することになつたので、翌年工事を 竣 ( をは ) つた。そこで綱宗の吉原へ通つた時、何屋の誰の 許 ( もと ) へ通つたかと云ふと、それは京町の山本屋と云ふ家の 薫 ( かをる ) と云ふ女であつたらしい。それが決して三浦屋の高尾でなかつたと云ふ反証には、当時万治二年三月から七月までの間には、三浦屋に高尾と云ふ女がゐなかつたと云ふ事実がある。綱宗の通ふべき高尾と云ふ女がゐない上は、それを身受しやうがない。其上、綱宗は品川の屋敷に 蟄居 ( ちつきよ ) して以来、仙台へは往かずに、 天和 ( てんな ) 三年に四十四歳で 剃髪 ( ていはつ ) して 嘉心 ( かしん ) と号し、 正徳 ( しやうとく ) 元年六月六日に七十二歳で歿した。綱宗に身受せられた女があつた所で、それが仙台へ連れて行かれる 筈 ( はず ) がない。
文子は綱宗が高尾を身受して舟に載せて出て、 三股 ( みつまた ) で斬つたと云ふ俗説を 反駁 ( はんぱく ) する 積 ( つもり ) で、高尾が仙台へ連れて行かれて、子孫を 彼地 ( かのち ) に残したと書いたのだが、それは誤を以て誤に代へたのである。
二
然らば奥州話にある仏眼寺の墓の 主 ( ぬし ) は 何人 ( なんぴと ) かと云ふに、これは綱宗の 妾 ( せふ ) 品 ( しな ) と云ふ女で、初から 椙原氏 ( すぎのはらうぢ ) であつたから、子孫も椙原氏を称したのである。品は吉原にゐた女でもなければ、高尾でもない。
品は一体どんな女であつたか。私は品川に於ける綱宗を主人公にして一つの物語を書かうと思つて、余程久しい間、其結構を工夫してゐた。綱宗は凡庸人ではない。和歌を 善 ( よ ) くし、 筆札 ( ひつさつ ) を善くし、絵画を善くした。十九歳で家督をして、六十二万石の大名たること 僅 ( わづか ) に二年。二十一歳の時、叔父 伊達兵部少輔宗勝 ( だてひやうぶせういうむねかつ ) を中心としたイントリイグに陥いつて 蟄居 ( ちつきよ ) の身となつた。それから四十四歳で 落飾 ( らくしよく ) するまで、一子亀千代の 綱村 ( つなむら ) にだに面会することが出来なかつた。亀千代は寛文九年に十一歳で 総次郎綱基 ( そうじらうつなもと ) となり、 踰 ( こ ) えて十一年、兵部宗勝の嫡子 東市正宗興 ( いちのかみむねおき ) の表面上の 外舅 ( ぐわいきう ) となり、宗勝を 贔屓 ( ひいき ) した 酒井雅楽頭忠清 ( さかゐうたのかみたゞきよ ) が 邸 ( やしき ) での 原田甲斐 ( はらだかひ ) の 刃傷 ( にんじやう ) 事件があつて、 将 ( まさ ) に失はんとした本領を 安堵 ( あんど ) し、延宝五年に十九歳で綱村と 名告 ( なの ) つたのである。暗中の 仇敵 ( きうてき ) たる宗勝は、父子の対面に先だつこと四年、延宝七年に亡くなつてゐた。綱宗はこれより前も、これから後老年に至るまでも、幽閉の身の上でゐて、その 銷遣 ( せうけん ) のすさびに残した書画には、往々 知過必改 ( ちくわひつかい ) と云ふ印を用ゐた。綱宗の芸能は書画や和歌ばかりではない。 蒔絵 ( まきゑ ) を造り、陶器を作り、又刀剣をも 鍛 ( きた ) へた。私は此人が政治の上に発揮することの出来なかつた精力を、芸術の方面に傾注したのを面白く思ふ。面白いのはこゝに 止 ( とゞ ) まらない。綱宗は 籠居 ( ろうきよ ) のために意気を 挫 ( くじ ) かれずにゐた。品川の屋敷の障子に、当時まだ珍しかつた 硝子板 ( がらすいた ) 四百余枚を 嵌 ( は ) めさせたが、その大きいのは一枚七十両で買つたと云ふことである。その 豪邁 ( がうまい ) の気象が 想 ( おも ) ひ 遣 ( や ) られるではないか。かう云ふ人物の綱宗に仕へて、其晩年に至るまで愛せられてゐた品と云ふ女も、恐らくは尋常の女ではなかつただらう。
綱宗には表立つた正室と云ふものがなかつた。その 側 ( そば ) にかしづいてゐた主な女は、亀千代を生んだ 三沢初子 ( みさははつこ ) と品との二人で、初子は寛永十七年生れで綱宗と同年、品は十六年生れで綱宗より一つ年上であつたらしい。二人の中で初子は家柄が好いのと後見があつたのとで、綱宗はそれを 納 ( い ) れる時正式の婚礼をした。只幕府への届が妻になつてゐなかつただけである。これは綱宗が家督する三年前で、綱宗も初子も十六歳の時であつた。それから四年目の万治二年三月八日に亀千代が生れた。 堀浚 ( ほりざらへ ) の命が伊達家に下つた一年前である。品は初子が亀千代を生んだ年に二十一歳で浜屋敷に仕へることになつて、 直 ( すぐ ) に綱宗の 枕席 ( ちんせき ) に 侍 ( じ ) したらしい。 或 ( あるひ ) は初子の産前産後の時期に 寵 ( ちよう ) を受けはじめたのではなからうか。
三
品に 先 ( さきだ ) つて綱宗に仕へた初子は、其 世系 ( せいけい ) が立派である。六孫王 経基 ( つねもと ) の四子 陸奥守満快 ( むつのかみまんくわい ) の八世の孫飯島三郎 広忠 ( ひろたゞ ) が 出雲 ( いづも ) の三沢を領して、其曾孫が三沢六郎 為長 ( ためなが ) と 名告 ( なの ) つた。為長の十世の孫 左京亮為虎 ( さきやうのすけためとら ) が初め 尼子義久 ( あまこよしひさ ) に、後 毛利輝元 ( もうりてるもと ) に属して、 長門 ( ながと ) の府中に移つた。為虎の長男 頼母助為基 ( たのものすけためもと ) が父と争つて近江に 奔 ( はし ) つた。為基に男女の子があつて、兄 権佐清長 ( ごんのすけきよなが ) は 美濃大垣 ( みのおほがき ) の城主 氏家広定 ( うぢいへひろさだ ) の養子になつてゐるうちに、関が原の役に際会して養父と共に 細川忠興 ( ほそかはたゞおき ) に預けられ、妹 紀伊 ( きい ) は忠興の世話で、幕府の奥に仕へ、家康の養女 振姫 ( ふりひめ ) の侍女になつた。紀伊が 奥勤 ( おくづとめ ) をしてゐると、 元和 ( げんな ) 三年に振姫が 伊達忠宗 ( だてたゞむね ) に 嫁 ( か ) したので、紀伊も 輿入 ( こしいれ ) の供をした。此間に紀伊の兄清長は流浪して、 因幡 ( いなば ) 鳥取に往つてゐて、 朽木宣綱 ( くつきのぶつな ) の 女 ( むすめ ) の腹に初子が出来た。初子は叔母紀伊に引き取られて、伊達家の奥へ来た。
振姫は実は 池田輝政 ( いけだてるまさ ) の子で、家康の二女 督姫 ( かうひめ ) が生んだのである。それを家康が養女にして忠宗に嫁せしめた。綱宗は忠宗の側室 貝姫 ( かひひめ ) の腹に出来たのを振姫が養ひ取つて、嫡出の子として届けたのである。貝姫は 櫛笥左中将隆致 ( くしげさちゆうじやうたかむね ) の女で、 後西院 ( ごさいゐん ) 天皇の生母 御匣局 ( みくしげのつぼね ) の妹である。
忠宗は世を去る三年前に、紀伊の連れてゐる初子の美しくて賢いのに目を附けて、子綱宗の 妾 ( せふ ) にしようと云ふことを、紀伊に話した。しかし紀伊は自分達の家世を語つて、 姪 ( めひ ) を妾にすることを辞退した。そこで綱宗と初子とは、明暦元年の正月に浜屋敷で婚礼をしたのである。
初子の美しかつたことは、其木像を見ても想像せられる。短冊や、消息、自ら書写した 法華経 ( ほけきやう ) を見るに、能書である。和歌をも解してゐた。 容 ( かたち ) が美しくて心の優しい女であつたらしい。それゆゑ忠宗が婚礼をさせてまで、妻の侍女の姪を子綱宗の配偶にしたのであらう。
此初子が嫡男まで生んでゐる所へ、側から入つて来た品が、綱宗の寵を得たには、両性問題は 容易 ( たやす ) く理を以て 推 ( すゐ ) すべからざるものだとは云ひながら、品の人物に何か特別なアトラクシヨンがなくては
※ ( かな ) はぬやうである。それゆゑ私は、単に品が高尾でないと云ふ事実、即ち 疾 ( と ) うの昔に大槻さんが遺憾なく立証してゐる事実を、再び書いて世間に出さうと云ふためばかりでなく、 椙原品 ( すぎのはらしな ) と云ふ女を一の問題としてこゝに提供したのである。四
品の家世はどうであるか。 播磨 ( はりま ) の赤松家の一族に、 椙原伊賀守賢盛 ( すぎのはらいがのかみかたもり ) と云ふ人があつた。後に 薙髪 ( ちはつ ) して 宗伊 ( そうい ) と云つた人である。それが椙原を 名告 ( なの ) つたのは、住んでゐた播磨の土地の名に本づいたのである。賢盛の後裔に 新左衛門守範 ( しんざゑもんもりのり ) と云ふ人があつた。守範は赤松氏の 亡 ( ほろ ) びた時に浪人になつて江戸に出て、明暦三年の大火に怪我をして死んださうである。赤松氏の亡びた時とは、恐らくは 赤松則房 ( あかまつのりふさ ) が 阿波 ( あは ) で一万石を 食 ( は ) んでゐて、関が原の役に大阪に 与 ( くみ ) し、戦場を逃れて人に殺された時を 謂 ( い ) つたものであらうか。 若 ( も ) しさうなら、仮に当時守範は十五歳の少年であつたとしても、品の生まれる年には、五十三歳になつてゐる筈である。 兎 ( と ) に 角 ( かく ) 品は守範が流浪した後、年が寄つてから出来た 女 ( むすめ ) であらう。品を生んだ守範の妻が、 麻布 ( あざぶ ) の 盛泰寺 ( せいたいじ ) の 日道 ( にちだう ) と云ふ日蓮宗の僧の女であつたと云ふ所から考へても、守範は江戸の浪人でゐて、妻を 娶 ( めと ) つたものと思はれる。守範には二人の子があつて、姉が品で、弟を 梅之助 ( うめのすけ ) と云つたが、此梅之助は 夭折 ( えうせつ ) した。そこで守範の死んだ時には、十九歳になる品が一人残つて、盛泰寺に引き取られた。
それから中一年置いて、万治二年に品は浜屋敷の女中に抱へられて、間もなく妾になつたらしい。妾になつてから綱宗が品を厚く寵遇したと云ふことは、偶然伝へられてゐる一の事実で察せられる。それは万治三年に綱宗が罪を 獲 ( え ) て、品川の屋敷に 遷 ( うつ ) つた時、品は附いて往つて、綱宗に請うて一日の 暇 ( いとま ) を得て、日道を始、親戚故旧を会して 馳走 ( ちそう ) し、 永 ( なが ) の 訣別 ( けつべつ ) をしたと云ふ事実である。これは一切の係累を絶つて、不幸なる綱宗に一身を捧げようと云ふ趣意であつた。綱宗もそれを喜んで、品に 雪薄 ( ゆきすゝき ) の紋を 遣 ( や ) つたさうである。
品は初一念を 翻 ( ひるがへ ) さずに、とう/\二十で情交を結んだ綱宗が七十二の 翁 ( おきな ) になつて歿するまで、忠実に仕へて、綱宗が歿した時尼になつて、浄休院と呼ばれ、仙台に往つて享保元年に七十八歳で死んだ。
此間に品が四十五歳の時、綱宗が 薙髪 ( ちはつ ) し、品が四十八歳の時、初子が歿した。綱宗入道嘉心は此後二十五年の久しい年月を、品と二人で暮したと云つても大過なからう。これは別に証拠はないが、私は 豪邁 ( がうまい ) の気象を以て不幸の境遇に耐へてゐた嘉心を慰めた品を、 啻 ( たゞ ) 誠実であつたのみでなく、気骨のある 女丈夫 ( ぢよぢやうふ ) であつたやうに想像することを禁じ得ない。
品は晩年に中塚十兵衛茂文と云ふ人の 女 ( むすめ ) 石を養女にして、 熊谷斎直清 ( くまがいいつきなほきよ ) と云ふ人に 嫁 ( とつ ) がせて置いたので、品の亡くなつた跡を、直清の二男 常之助 ( つねのすけ ) が立てることになつた。椙原氏は此椙原常之助から出てゐるのである。
五
綱宗が万治三年七月二十六日に品川の屋敷に 遷 ( うつ ) つてから、これを端緒として、 所謂 ( いはゆる ) 仙台騒動が発展して、寛文十一年三月二十七日に、酒井忠清の屋敷で、原田甲斐が 伊達安芸 ( だてあき ) を斬つたと云ふ絶頂まで到達した。それを綱宗は純粋な受動的態度で傍看しなくてはならなかつた。品川の屋敷と云ふのは、品川の南大井村にあつた手狭な家を、寺や百姓家を取り払はせて建て拡げたのである。綱宗は家老一人を附けられて、そこに住んだ。当時 姉婿 ( あねむこ ) 花忠茂が 密 ( ひそか ) に 遣 ( や ) つた手紙に、「御やしき 中 ( うち ) 忍びにて御ありきはくるしからぬ儀と存じ候」と云つて、 丁寧 ( ていねい ) に謹慎を勧めてゐる。邸内を歩くにも忍びに歩かなくてはならぬと云ふ拘束を豪邁な 性 ( さが ) を有してゐる壮年の身に受けて、綱宗は 穉 ( をさな ) い亀千代の身の上を 気遣 ( きづか ) ひ、仙台の政治を憂慮した。その時附けられてゐた家老大町備前は、さしたる人物でなかつたらしいから、綱宗が 抑鬱 ( よくうつ ) の情を打明けて語ることを得たのは、初子のみであつただらう。それに事によつたら、品も 与 ( あづか ) つたのではあるまいか。
綱宗の 夢寐 ( むび ) の間に 想 ( おもひ ) を 馳 ( は ) せた亀千代は、万治三年から寛文八年二月まで浜屋敷にゐた。此年の二月の火事に、浜屋敷は 愛宕下 ( あたごした ) の上屋敷と共に焼けた。伊達家では上屋敷を 廉立 ( かどた ) つた時に限つて使つたものらしく、綱宗の代には上屋敷が桜田にあつて、丁度今の日比谷公園東北隅の所であつたが、綱宗は上使を受ける時などに、浜屋敷から出向いたものである。亀千代は火事に逢つて、麻布 白金台 ( しろかねだい ) に移つた。これは万治元年に桜田を幕府から召上げられた時に賜はつた 替地 ( かへち ) である。其時これまで中屋敷と云つてゐた愛宕下を、伊達家では上屋敷にした。それも浜屋敷と共に焼けたのである。それから火事のあつた年の十二月に愛宕下上屋敷の普請が出来て、亀千代はそこへ移つた。これから伊達家では 不断 ( ふだん ) 上屋敷に住むことになつたのである。
此間に亀千代は、万治三年八月に二歳で家督し、寛文四年六月には六歳で徳川家綱に謁見し、愛宕下に移つてから、同九年十二月に十一歳で元服して、総次郎 綱基 ( つなもと ) と 名告 ( なの ) り、後延宝五年正月に綱村と改名した。
そして 此 ( この ) 公生涯の裏面に、綱宗の 気遣 ( きづか ) ふも無理ならぬ、暗黒なる事情が埋伏してゐた。それは前後二回に行はれた 置毒 ( ちどく ) 事件である。
初のは寛文六年十一月二十七日の出来事である。是より先には亀千代は寛文二年九月に 疱瘡 ( はうさう ) をしたより外、無事でゐた。 側 ( そば ) には 懐守 ( だきもり ) と云つて、数人の侍が勤めてゐたが、十歳に足らぬ小児の事であつて見れば、実際世話をしたのは女中であらう。その 主立 ( おもだ ) つたものは 鳥羽 ( とば ) と云ふ女であつたらしい。これは江戸浪人 榊田六左衛門重能 ( さかきだろくざゑもんしげよし ) と云ふものゝ 女 ( むすめ ) で、振姫の侍女から初子の侍女になり、遂に亀千代附になつたのである。此年には四十七歳になつてゐた。
当日亀千代の前に出る 膳部 ( ぜんぶ ) は、例によつて鬼番衆と云ふ近臣が試食した。それが二三人即死した。米山兵左衛門、千田平蔵などと云ふものである。そこで、 中間 ( ちゆうげん ) 一人、犬二頭に食はせて見た。それも皆死んだ。後見 伊達兵部少輔 ( だてひやうぶせういう ) は 報 ( しらせ ) を聞いて、熊田治兵衛と云ふものを浜屋敷に遣つて、医師 河野 ( かうの ) 道円と其子三人とを殺させた。同時に膳番以下七八人の男と女中十人 許 ( ばかり ) とも殺されたさうである。此時女中鳥羽は毒のあつた膳部の周囲を立ち廻つてゐたとかのために、仙台へ遣つて 大条玄蕃 ( だいでうげんば ) に預けられた。鳥羽は道円に舟で 饗応 ( きやうおう ) せられたことなどがあるから、果して道円が毒を盛つたとすると、鳥羽に疑はしい 節 ( ふし ) がないでもないが、後に仙台で 扶持 ( ふち ) を受けて優遇せられてゐたことを思へば罪の有無が明かでなくなる。又道円を殺させた兵部が毒を盛らせたとすると、其目的はどこにあつただらうか。亀千代が死んでも、初子の生んだ亀千代の弟があるから、兵部の子 東市正 ( いちのかみ ) に 宗家 ( そうけ ) を 襲 ( つ ) がせることは出来まい。然らば宗家の 封 ( ほう ) を削らせて、我家の禄を増させようとでもしたのだらうか。これは亀千代が八歳の時の出来事である。
六
二度目の置毒事件は寛文八年に白金台の屋敷で起つた。亀千代が浜屋敷で火事に逢つて移つて来てから、愛宕下の新築に入るまでの間の出来事である。頃は八月某日に原田甲斐の世話で 小姓 ( こしやう ) になつてゐた塩沢丹三郎と云ふものが、 鱸 ( すゞき ) に毒を入れて置いて、それを自ら食つて死んだ。原田に命ぜられて入れは入れたが、主に 薦 ( すゝ ) めるに忍びないで自ら食つたと云ふのである。此事は丹三郎が前晩に母に打明けて置いたので、母も 刄 ( やいば ) に伏したさうである。亀千代はもう十歳になつてゐた。丁度綱宗の漁色事件に高尾が無いやうに、此置毒事件にも終始俗説の浅岡に相当する女が無い。
亀千代のかう云ふ危い境遇を見て、初子は子のため、又品は主のため、保護しようとしたかも知れない。 就中 ( なかんづく ) 初子は亀千代の屋敷に往来した 形迹 ( けいせき ) があるが、惜むらくは何事も伝はつてゐない。
次に綱宗の憂慮した仙台の政治はどうであるか。仙台騒動の此方面の中心人物は綱宗の叔父にして亀千代の後見の一人たる伊達兵部少輔であつた。兵部に結べば功なきも賞せられ、兵部に抗すれば罪なきも罰せられたと云ふわけで、 秕政 ( ひせい ) の眼目は 濫賞濫罰 ( らんしやうらんばつ ) にあつたらしい。仙台にゐて 之 ( これ ) を行つた首脳は渡辺金兵衛で、寛文三年頃から目附の地位にゐて権勢を 弄 ( ろう ) しはじめ、四年に 小姓頭 ( こしやうがしら ) になつてから、 愈々 ( いよ/\ ) 専横を極めた。後に伊達安芸が重罪を 被 ( かうむ ) つたもの百二十人の名を挙げてゐるのを見ても、渡辺等の横暴を察することが出来る。其中で最も際立つて見えるのは、 伊東釆女 ( いとううねめ ) が事と、伊達安芸が事とである。伊東采女は、寛文三年に病中国老になつて、間もなく歿した伊東新左衛門の養子で、それが幽閉せられて死ぬることになるのは、席次の争が本であつた。寛文七年に幕府から来た目附を饗応する時、先例は家老、 評定役 ( ひやうぢやうやく ) 、著座、 大番頭 ( おおばんがしら ) 、 出入司 ( しゆつにふづかさ ) 、小姓頭、目附役の順序を以て、幕府の目附に謁し、杯を受けるのであるに、著座と称する家柄の采女が 劫 ( かへ ) つて目附役の次に出された。これは渡辺金兵衛等の 勧 ( すゝめ ) によつて原田甲斐が取り計らつたのである。伊達安芸は 遠田 ( とほだ ) 郡を領して 涌谷 ( わくや ) に住んでゐたが、其北隣の 登米 ( とよま ) 郡は伊達式部が領して、これは寺池に住んでゐた。然るに遠田郡の北境 小里 ( をさと ) 村と、登米郡 赤生津 ( あかふづ ) 村とに地境の争があつた。安芸は此時地を式部に譲つて無事に済ませた。これは寛文五年の事である。次いで七年に又 桃生 ( ものふ ) 郡の西南にある式部が領分の飛地と、これに隣接してゐる遠田郡の安芸が領地とにも地境の争が起つた。これは寛文七年の事で、八年に安芸がこれを国老に訴へ九年に検使が出張して分割したが、其結果は安芸のために頗る不利であつた。安芸はこれを 憤 ( いきどほ ) つて、十一年に死を決して江戸に上つて訴へることになつた。それゆゑこの地境の争も、采女が席次の争と同じく、 原来 ( ぐわんらい ) 権利の主張ではあるが、采女も安芸も、これを機縁として渡辺等の 秕政 ( ひせい ) に反抗したのである。中にも安芸は主君のために、暴虐の臣を 弾劾 ( だんがい ) することを主とし、領分の境を正すことを従とした。これが安芸の成功した 所以 ( ゆゑん ) である。渡辺は 伊達宮内少輔 ( だてくないせういう ) に預けられて絶食して死んだ。
私は此伊達騒動を傍看してゐる綱宗を書かうと思つた。外に向つて発動する力を全く絶たれて、純客観的に傍看しなくてはならなかつた綱宗の心理状態が、私の興味を誘つたのである。私は其周囲にみやびやかにおとなしい初子と、 怜悧 ( れいり ) で気骨のあるらしい品とをあらせて、此三角関係の間に静中の動を成り立たせようと思つた。しかし私は創造力の不足と平生の歴史を尊重する習慣とに妨げられて、此 企 ( くはだて ) を 抛棄 ( はうき ) してしまつた。
私は去年五月五日に、仙台新寺小路 孝勝寺 ( かうしやうじ ) にある初子の墓に 詣 ( まう ) でた。世間の人の浅岡の墓と云つて参るのがそれである。古色のある 玉垣 ( たまがき ) の中に、新しい 花崗石 ( くわかうせき ) の柱を立てゝ、それに三沢初子之墓と題してある。それを見ると、近く亡くなつた女学生の墓ではないかと云ふやうな感じがする。あれは 脇 ( わき ) へ寄せて建てゝ欲しかつた。仏眼寺の品が墓へは、私は往かなかつた。
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