University of Virginia Library

 諷刺は、極めて現実的である。

 対象と主体との相異対立がはっきり認識され、それを積極的に批評し、評価結論を下したところに、諷刺が現れる。対象を批評するときには、当然暴露がついて来る。

 しかも、暴露の材料一々の具体性が分析される。従って対象と主体の置かれている一定の時代、階級というものを無視することは絶対に不可能である。

 諷刺は攻撃的だ。率直だ。動的で、生活的だ。

 活溌な闘争にしたがう世界のプロレタリアートは、だから一方にはブルジョア社会への攻撃の武器として、他方には自己批判の武器として、諷刺をアレゴリーとはくらべものにならない効果で利用しているわけなのである。

 プロレタリア文学の形式の多様化の一つとして、われわれに求められているのは、愉快な階級的哄笑を爆発させるプロレタリア諷刺劇、又は諷刺小説、詩である。

 例えば、左翼劇場で上演した「銅像」を、みんなどんなによろこんで観、あとまでその印象をもっているか。

 ところが、諷刺は元来非常に活々した社会性をもっているものだけに、諷刺の対象が時代の影響をうけて変遷するばかりではない。諷刺するもの、そのものの属している階級の力のもりあがりと密接な関係をもって、諷刺の態度が時代によって違う。

 よく例にとられるチェホフの諷刺的短篇を見よう。

 チェホフは小市民的卑俗さ、愚劣な伝習というようなものを常に鋭く諷刺し、その下らなさ加減を興味深い短篇の中へ素敵な技術でもり込んでいる。然し、チェホフの諷刺は、どこまでも、自由主義人道主義的インテリゲンチアの諷刺だ。というのは、チェホフは、しまいにはいつだって、高みから見下したような憫笑で、諷刺の対象を許してしまっている。

 下らぬもの、卑しいものに対して、勝利する新しい世界観というものを明瞭に把握してわれわれに示してはくれない。

 そこに、彼の生きたロシアの革命的沈滞期の社会が明かに反映しているのである。

 もっと後の時代でも、例えばドイツの漫画家グロッスの仕事を見ると、彼の諷刺家としての階級性がよく分る。グロッスの貪婪なブルジョア、冷酷な淫猥なブルジョア女、圧迫されながらしばられ不具にされたプロレタリアートの描写は、その辛辣な暴露で漫画界に一つのスタイルを創った。

 ぞろぞろ手法の模倣者が出た位鋭いものを持ってはいたが、本当に闘争するボルシェビックなプロレタリアートはしんからグロッスの漫画を好きになれなかった。

 グロッスはアナーキスト的な世界観で、階級的醜と悪とを暴露したのはいいが、暴露しっぱなしだ。このざまは何だ? それっきりでつっぱなしている。

 現実に新社会を建設しようとしているプロレタリアの意志、プロレタリアートの情熱の輝きは、グロッス漫画のどこにも光っていない。

 世界の階級闘争がひろい文化戦線にわたって激化されるようになってから、敵の陣営=ブルジョアを攻撃し、笑殺する武器としてのプロレタリア諷刺は、弁証法的な形で扱われるようになって来た。

 対手の悪と醜とを暴露し、やっつけるぎりの消極的諷刺から、諷刺する主体、プロレタリアートの逆襲的勝利、社会的価値の再認識ということまでを含めて扱うところまで進歩して来た。

 日本でも、まだ数こそ少ないが、この方面で面白いプロレタリア漫画、諷刺文学は出はじめているのである。