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鏡餅
宮本百合子

 正面のドアを押して入ると、すぐのところで 三和土 たたき の床へ水をぶちまけ、シュッシュ、シュッシュと洗っている白シャツ、黒ズボンの若い男にぶつかりそうになった。サエは小使いだと思ったらそうではなく、そういう 風体 ふうてい でそのへんにハタキをかけたり、椅子を動かしたり動きまわっているのは、制服の上衣をぬいだ巡査であった。

 大きい包みを下げて二階へ上って見ると、ここもまたコンクリートの床は草履のふみどころもないほど水びしゃびしゃで、特高室のドアがあけはなされてある。

 入って行くと、テーブルの上に脚を空に向けて椅子が積んである。特高主任は禿げた頭に頬かぶりをし、鼻と口とを手拭いでつつんでいるし、もう一人別な背の高いのが、

「これもとっちゃった方がいいですね」

と云いながら顎を上向け、よごれた指のあとをつけまいと小指をピンとはねて自分のダブル・カラーをはずしかけている。特高室の誰も彼も上着をぬぎ、チョッキにワイシャツ姿である。

 その日は暮の三十一日で警察ではどこでもかしこでも正月の支度だった。

 サエは、

「おやおやわるいところへ来た」

 そう云いながら、室内に入り、

「――どうでしょう――まだ駄目ですか」

 もっている風呂敷包みを椅子の逆さにのっているテーブルの端に置いた。

「――本庁へきいて下さい。こっちでやったことじゃないんだからね。こっちじゃ分らないから――行きましたか」

「こっちできいて駄目だと云うとき、私の方でヤイヤイ云ってもききめがないと思うんです……もう五日も経つんだからいいんじゃないかしら――着物ですからね、口を利くわけじゃないし……」

 すると、わきから黒チョッキの男が、

「誰へ差入れたいんです?」

ときいた。

「石崎です」

「本庁へききなさい、本庁がやっていることで、こっちじゃわかりませんよ」

 急にパタパタ、サエの髪の近くでハタキをかけはじめた。夫の石崎が検束されたことを新聞でサエがはじめて知ったのは四日前の夜であった。直ぐその晩行ったが突きかえされ、翌日も突きかえされこれで三度目なのであった。

「じゃ、ちょっと待って下さい」

 主任が出て行った。あとの連中は盛に大掃除をはじめ、

「ヤ、御免」

とか、

「ごみがかかるよ」

とか、コートを着てそこに立っているサエのまわりをわざと邪魔そうにまわった。

 主任は間もなく帰って来て、

「どうして、なかなかそれどころじゃないということだから、私の方では何とも出来ない」

 目にこそ見えないが、両手で背中を押し出されるような風に、サエは特高室を出た。

 階段のおり口に窓があって、そこから警察の内庭と鉄格子のはまった留置場の三つの窓とが見下ろせた。包みを窓枠にのせ、それに胸をよせかけてサエは暫く下を眺めていた。内庭も大晦日気分であった。ハッピを着た職人が三四人で何かの空箱に腰かけ焚火をかこんで、昼休みをしている。上衣をぬいだ白シャツが一人その側に立って両手を焚火にかざしている。白エプロンをくるくるとまいて、下からメリンス友禅の派手な前垂を出した弁当屋の女中が、足は紫のコール天足袋だが、頭だけは艶々した島田で、留置場わきの小使室のところから出て来た。

 日光は暖く内庭に照って、焚火の焔をすき透らせている。しかし、留置場の鉄格子の前は、ちょうど はす かいに日かげで、窓の横に石炭置場と犬小屋がある。その辺の土は、朝の霜柱もとけきらずに凍っている。

 サエの目は、内庭の暖かそうな日向からいかにも寒げな日かげの方へと動き、そこで止って瞬きをするのも忘れたようになった。去年会社で争議が起ったとき、事務員であったサエは二ヵ月留置場へ入れられた。四月であったが寒さのためにリョーマチがついた。石の壁をとおし、床のうすべりをとおし、日光の射さない檻の中の寒さは専吉の膝の骨までしみとおっているであろう。その凍え工合がサエの肌身に感じられる。――

 サエが っと二階の窓から決して開くことのない留置場の窓に向って目を こら していると、下の内庭へピカピカ光った黒皮のゲートルを巻いた背の高い交通巡査が、裏の通用門の方から入って来た。

 股をひろげてこっちに顔を向け焚火に手をかざしていたが、やがて腰をかがめて何か 二語三語 ふたことみこと 云った。すると、すぐ隣のハッピの職人が首をあげてサエの立っている窓の方を見上げた。次の一人、またその次、皆順々に顔を動かしてサエの方を見た。真後を向いていた男はわざわざ空箱の上で上体をひねって、見た。サエは、そうやって一人一人に仰向いて見られることから、どんな感情も起らなかった。見上げた方の職人たちも、見あげはしたが誰も何とも云わずまた火の前で手をこすったり、地下足袋をパタパタやったりしている。

 なお暫くそうやっていて、サエは包の上から胸を起した。 不図 ふと うしろをふり向いた。椅子を運び出しながら特高の主任がこっちを見ていた。サエが振向くより前から、そこで窓にむいているサエの後姿を見ていた。それを感じ、サエは包をもって、つと窓際を離れた。階段の方へ三足ばかり歩いた。そしたら鼻の中を急につめたいものが流れた。サエは、下げている重い包のためぎごちない動作でコートの中でたたまっている袂からハンカチーフを出し、音高く鼻をかんだ。それは洟ではなかった。涙であった。

 サエはこのとき、いつかきき覚えていた「口惜しい涙は耳からなりと出るならば」という義太夫のさわりの文句を、はっきりと思い出した。そして、口惜しい涙は耳からは出ない、鼻から出る。サエは強くそう思った。そう思いながら、門松の笹の葉が 注連 しめ と一緒に風にざわめいている交通のはげしい大晦日の往来へ出た。

 夜に入ってからサエは、佐太郎夫婦の家へ行ってこの年を越す気になった。

 暗い梯子を軋ませて二階へあがり、唐紙をあけたら、火鉢をかこんでカリンの机の前に主人の佐太郎のほかにサワ子と進などという、会社の争議でクビをきられた時代からの親しい仲間がやって来ていた。

 佐太郎は、火鉢へ炭をついでいるところであったが、入ってゆくサエを見ると、直ぐ、癖で激しく瞬きをしながら、胸を張った坐りようで、

「どうしたかね、差入れ、受けつけた?」

ときいた。

「まだまだそれどころじゃないってさ」

 サエは立ったまま襟巻とコートを古風な箪笥の前へぬぎ、火鉢のそばへわりこみながら答えた。

「――五日ぐらいすりゃ、大抵いいもんだがな」

 洋服の背中を窓際によせかけ、立てた両膝を抱えた進がゆっくり云った。

「――正月は休むからね……その調子だと七日ぐらいまで駄目かも知れないね」

 佐太郎は組合の関係でやられ、今は病気で保釈中なのであった。

「おまささんは?」

「正月の御馳走を買いに行ったよ。――予定よりあまして帰れば、それで俺が散髪に行けるんだがな」

 皆して喋っているうちに、サエは丸い顔をしかめ足袋の踵を片手でおさえながら、

「あんたのところにメンソレない?」

と云った。

「どうしたんだね」

あかぎれがポッポして……」

 サエは体をねじって片足だけ足袋をぬぎ、踵のあかぎれへ丁寧にメンソレータムをぬりこんだ。頬などの色艶はいいサエの顔にあわせ、そのあかぎれは大きくて、痛々しかった。

 サワ子が、それを見て、

「あれ」

と羽織の袖口で口のはたを被うような恰好をした。

「どうしてまたそんなになるんだろ……」

 サエは、

「毎晩お湯に行ければましなんだけれど……」

と答えながら、足袋のコハゼをかけた。あかぎれの原因はお湯に入るひまがないばかりではなかった。佐太郎しか知らないが、サエは一日のうちに、のべにするとどっさりの距離を歩かなければならないような種類の活動をもしているのであった。

 間もなく、下で、

「おまち遠さま――おばあさん、どうかお風呂に行って下さい」

 そういうまさの声が聞え、

「ああくたびれた」

 二階へ来て、ぺたりと火鉢の前へ坐った。

「とてもひどい人でね――あのひとをかきわけるだけでもいい加減くたびれるわ。ネ」

 そう云いながら一緒に行って帰って来た満子が、手編のベレ帽をとって、外套のまま坐った膝におき、寒さで赧くなった手の先を火鉢に出した。

「どうしたい? 俺、散髪に行けるかい?」

 佐太郎が目ばたきしながら訊いた。まさはよっぽどくたびれたと見え、絣の羽織のわきあけから懐手をしたまま、首をたれ黙って合点をしている。

 進がやっぱり、窓際にもたれたままその様子を見て、

「大分悪戦苦闘したらしいね」

と云ったので、皆がドッと笑った。すると、ぐったりしていたようなまさが自分から大きな声で面白そうに笑い出し、満子と二人で、やすいものを買おうと頭をひねった様子を話してきかせた。

 一休みして、満子がメリンスの風呂敷包みから、派手な藍色の毛糸を出し、それを編みはじめた。まさも下から黒と赤の混ざったスコッチの赤坊靴下のあみかけをもって来て編みはじめた。

 サエとサワ子はわきから顔を近くよせて自分もやって見たそうに眺め、進は居心地よさそうにはまりこんだ元の場所から、佐太郎はカリンの机の前から、二人の女の、速い、むらのない編棒の動きを見ている。

 半分カサがこわれながらも、明るい電燈の光が人のつまった狭い六畳の端から端までを暖く照している。この電燈の下に、こういう顔ぶれが集ることはよくあった。しかし、今夜のように、まさまで編みものをとり出しているのは、全く珍しい光景であった。

 一ヵ年余の未決生活の後、どんな心持で佐太郎はこの大晦日の夜の刻々を感じ、うけとっているであろう。サエは正月に向って五日前専吉が検挙されている今の自分の感情の逆な場合として自然そのことを思い、佐太郎とまさの気持がまざまざと分るように感じるのであった。

 両方とも飾編を終って、まさが紐に白テープをとおしはじめると、佐太郎がちょっとせきこんだような持前の喋りぐせで、

「そりゃ、黒いテープの方がいい」

と云った。

「――本当にね」

 素直にまさが同感し、手をやめて眺めていたが、やがて、

「いいよ、どうせじきに黒くなっちゃうから」

 そして、さっさとすっかり白テープをとおし、結んで、手のひらの上に両方揃えてのせた。

「いいじゃないの?」

 可愛い、むく犬の仔のような靴下である。サエは、順坊によく似合うとほめながら、

「何て、あんたがた夫婦らしいやりとりなんだろう!」

と愉快そうに笑った。

 去年佐太郎がやられたとき、まさは臨月であった。生れた赤ん坊の順子という名は、佐太郎が警察の中からつけてよこしたのであった。

 藍色の毛糸で大人の足袋カ

[_]
[1]※ァー
をあんでいる満子が、 上気 のぼ せたような頬で、

「――少しきれいすぎたわね、これじゃ商品になっちゃう」

 自分の体から編みものを離して眺めた。

「じゃ、そうしちゃいなさいよ」

「だめよ、色がこんな派手じゃ」

 サエは、今夜特別の気持で、編物をする二人の手元に眺め入った。満子は、編物の内職で自身の生計をたてているのであるが、去年の暮は豊多摩刑務所におかれている夫の悌二に上下つづいた毛糸のパジャマを編んで入れてやっていた。そのことをサエは思い起しているのであった。

 十時すぎて、年越しそばを食べようと云うことになった。

「いいねえ」

「何? かけ?」

「かけ?――やすくて美味いたねもんないかしら……」

「きつねがいい、うまいよ」

「じゃ、きつね! きつね七つ」

「わたし、云ってきます」

 サワ子が部屋の中から襟巻を口のところまでまいて出て行った。

 小一時間も経った時分、台所で、

「こんばんはァ」

と呼んでいる声をききつけサエが急いで下りて行って見たら、それは荒物屋の若衆であった。箒、まな板、ザル、庖丁。そんなものがところせまく並べてある前に、いかにもよくあったまった湯あがりらしい色ざしのおばあさんが小さく坐り、

「まさちゃんが見んけにャ……」

と云っている。まさの後から佐太郎も足音高く下りて来た。まな板と庖丁、箒などを夫婦で見て買った。

「まあ、何年ぶりじゃろ……よう辛抱しとったものなあ」

 サエは、袂を胸の前にかき合わせ、傍にしゃがんで買物を見ていたが、

「押しきりがやっと庖丁になったね」

と笑った。

「ほんと!」

 上り端の箪笥の上に鏡台がのっていた。サエがそこの電燈をひねり、鏡をみながら髪をかきつけていると、向い側の家の障子にもパッと燈かげが溢れ、人声がする。ポンプをもむ音も聞える。日頃は早寝の界隈も、今夜はざわめいている。ザーと勢よく水をつかう音がし、

「なんて、いいんでしょう!」

 台所でまさが新しい 爼板 まないた で何かきりながら、感動のこもった優しい声で云っているのがサエに聞えた。

「なんて、いいんでしょう! きずをつけるのが何だかこわいみたいだ!」

 その台所口からも、隣りの家の明るい風呂場のガラス窓の上に黒く人影が動くのが見え微かに石炭の煙の匂いが漂って来る。かれこれもう十二時であった。――

「そば、忘れちゃったんじゃないか」

 進が待ちかねたように云い出した。

「いや」

 目をしばたたきつつ、

「今夜は、待たせることをむこうじゃ勘定にいれてるんだ」

 佐太郎が説明したが、サワ子は自分が云って来た責任上当惑そうに、

「わからなかったんでしょうか」

と、皆の顔を見まわした。

「きつねを、たぬきとでもきいたんであるまいか」

「サワ子さんたら!」

 満子が編物をとり落すほど笑いこけた。サワ子は、プリントの仕事などさせられると粒の揃った細かい字が書けないで先ず閉口するたちであった。いつかもこういうことがあった。

 或る仲間が、もしかすると検挙される危険があるという場所へ出かけ、遂にやられた。そのとき、安否を見とどけるために別の仲間が一人ほんのちょっとはなれたところまで行っていたということがあとで知れた。その話をきいたとき、まさもサエも、

「何だろう! ただ見とどけたって、あとの祭りじゃないか」

と残念がった。ちょうどそこにサワ子も居合わせた。彼女は腹立たしそうに胸を張って、

「安否を見とどけるって――変ですわね、見とどけて、ああこれは じゃわ、とそのままかえったんでしょうか」

 真顔で云った。それをきいたとき、皆は一様に口惜しいなかで思わず失笑したのであった。

 そばをたべたら、一時頃になった。百八の鐘を誰もききつけなかった。それがサエにはうれしかった。あの鐘があっちこっちで鳴り出すと、サエは子供のうちから落着かない変な気持になるのであった。

 もう元日だからサエのかえる前に皆でお 屠蘇 とそ もしようということになった。それを云い出したのはまさであった。

 まさが下からごまめやこぶ巻を入れた重箱を持ってあがって来る。うしろからおばあさんもついて上って来て、大きいチャブ台のまわりに皆がつめかけた。

「ここが八畳間だといいんだがね」

 佐太郎が云った。

「いいよ、あったかで……」

 普通のまちまちの形をした猪口が三つばかりあった。サエが、

「私につがして」

 そう云って屠蘇を入れた瀬戸物の銚子をとりあげた。

「おばあちゃん、そこんところへ結びつける蝶々みたいなもの、どこかにありましたね」

「さあ、……どこじゃか……あったねえ」

 だが、おばあさんもそんなことには大してかかわらず、猪口を両手にとって改った顔つきになりサエの方へ向いた。サエは何年ぶりかでお正月の屠蘇というものの酌をした。皆黙ってサエの手元に目をあつめた。屠蘇が猪口に一杯になり、おばあさんがそれを丁寧に一口すすって、

「マア、美味いわ」

と、若々しい声をあげると、急に陽気にざわめき立って、笑った。

 坐っている順に屠蘇をのんだ。

「去年のお正月は淋しかったねえ」

 まさがしみじみと云った。すると佐太郎が、

「大体、こんなことするの、われわれだってはじめてぐらいのもんじゃないか」

「そりゃ、そうだけれど……」

 サエは、銚子をチャブ台の上におきながらどこか熱っぽい輝きのある目つきをして、まさに、

「私うれしいわ、ここで賑やかにこんなことがやれたから――」

と云った。

「専吉さんがつかまったりして、わたしは、なおじゃんじゃんお正月でもしてやりたい気持でしょ? だのに、うちったら門松もないんだもの、癪だった……」

 親戚に不幸があったとかで、サエが二階をかりている家では、たった一軒だけ門松を立てていないのであった。まさは云わず語らずのうちに、サエの心持をくんでいてくれている。そのことをサエは無言のいろいろのことから感じているのであった。

 やがて、佐太郎が、照れたような子供らしい笑いかたで、

「もう一杯のんでいいかね」

と、まさに眉の濃い顔を向けた。

「いいけど、――あるかしら……あやしいね」

 サエがつまみにくそうに銚子のふたをとってなかをのぞいた。

「ある、ある!」

 弾んだ声を出した。

「もう一杯ぐらいずつあるわ」

味醂 みりん て、たかいもんだねえ、一合二十八銭もするよ」

「ふーむ」

 サエは、「こんどは専吉の分」そうはっきり心に思って、佐太郎の猪口に銚子をさした。「命があるように……」そう思って、まさやサワ子の猪口にも屠蘇を注ぐのであった。

 二杯目の猪口をチャブ台の上に大切そうにおろしながら、七十六になったおばあさんが嬉しそうに口元と肩とをすぼめ、

「今年はお鏡を、あのひとの前へも飾りましょうかね」

 恭々しく中指を立てて、むこうの壁際をさした。みんながそっちを見、一斉に何とも知れぬ笑声をあげた。そこの本箱の上には一尺ばかりのレーニンの鋳像が立っているのであった。

「そりゃ、いいや……」

 いかにも満悦そうに若い進が体をゆすって笑った。みんなが一どきに笑っているなかで、佐太郎が真面目に声を低めて、サエに囁いた。

「おばあさん……ああいうの、さっき俺があの人の人となりを説明してやったからなんだぜ」