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子供・子供・子供のモスクワ
宮本百合子

 さあ、ちょっと机のごたごたを片よせて、

(――コップは窓枠の前へでものせといてください。)

 モスクワ地図をひろげよう。

 市の西から東・南に向って大うねりにのたくっているのは、誰でも知っているモスクワ河。その河が二股にわかれた北河岸に、不規則な三角形の城壁でとりまかれた一区廓は、全世界のブルジョアとプロレタリアートに一種の感銘をもってその名をひびかしているところのクレムリン。

 この頃は城壁内の青草が茂って、ビザンチン式の古風な緑や茶色の尖塔はなかなか趣ある眺望だ。円屋根にひるがえる赤旗は、まわりを古風な建物がとりかこんでいるだけかえって新鮮で、光る白い雲の下で夏の歓びにあふれている。

 クレムリンの城壁が終ったところに細い通りがあって――

 ソラ! ここだ、労働宮というのは。

 モスクワ河岸をAの電車にのってぐるりと行くと左手に素晴らしく印象的な白い建物があったろう。あれが労働宮である。組織と計画の理性の明るさそのものでがっしり組んで来るような颯爽たる大建築の内部には、社会主義労働の全組織網が納っているのだ。

 ソヴェト全勤労者の祭日であるメーデーの前日からモスクワ市は一切酒類を売らせなかった。

 当日は全市電車がない。乗合自動車もない。赤旗と祝祭の飾りものの間に十数万の勤労者の跫音がとどろいた。インターナショナルの高い奏楽と、空から祝いをふりまきつつ分列する飛行機のうなりがモスクワ市をみたした。

 夜一時近く赤い広場は煌々たるイルミネーションと人出だ。朝から夕方までおびただしい人間の足の下にあった赤い広場の土はもうぽくぽくになっている。夜気の中でもそのほとぼりと亢奮がさめ切っていないところどころで、臨時施設の飲料水道の噴水があふれて、小さいぬかるみをこしらえている。新手な群集は子供や年寄づれで、ぞろぞろ河岸へ河岸へとねって行く。

  国立百貨店 グム の前、赤いプラカートの洪水だ。

 ――帝国主義とファシズムの犠牲者に階級の兄弟プロレタリアートからの挨拶を!

 また、

 ――世界革命、万歳※

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[1]

 レーニン廟は修繕中である。今は「レーニン留守」の感じを与える。ひろい板がこいの上は生産に従う労働者と農民の鮮やかなパノラマ式画でおおわれ、赤いイルミネーションが、こっち側の歩道を歩く群集からも読める。

 レーニニズムノ旗高ク

 五ヵ年計画ヲ四年デ!

 たなびく赤旗が強烈な夜の逆電光をうけとるといかに感動的な効果をもたらすか。昔の首斬台は一九三〇年のメーデーの夜そういう忘られぬ赤旗の美しさと労働者の力づよい群像で飾られている。ラジオ拡声機の大ラッパは広場じゅうへ活溌な行進曲を弾き出し、全景は赤い! 赤い!

 黒い壁となって河岸まで押し出した群集は、カーメンヌイ・モストのたもとで一時ホッと息をいれた。河風は涼しい。遠くで夜空を燃している光の家、労働宮のイルミネーションが夜の河面へとけ込んでいる。クレムリンの長い外壁は灯のけない暗闇だから、遠いそこだけが何とも云えず輝かしい。

 五色のイルミネーションは対岸のモスクワ市発電所にもあって、三百六十四日はむっつり暗いモスクワ河の水を色とりどりにチラつかせている。

 モスクワの群集はイルミネーションに対しては素朴である。群集の中から満足した笑いごえがし、或る者はそのまんま橋の欄干にもたれた。或るものは更に暗いクレムリンの外壁に沿って労働宮の方へ。

 ソヴキノが 照明燈 プロジェクトール をもやして労働宮とそこへ向う群集を撮影している。橋の下では二艘ボートが若い女をのせ、イルミネーションのとけ込んでいる辺だけ小さく漕いでいる。

 最近の二年間はすべてを変えた。ソヴェトの生産振興の為の五ヵ年計画は一一〇パーセントの全生産拡張プランとともに生活全線を社会主義再建設に向って勇敢にねじ向けてしまった。――

 が、そのことは又別に話すとして、地図にかえろう。我々はモスクワ市の環状ブルワールを見つけたい。

 一本はこれである。クレムリンを中心に一寸がたついたコムパスで大きく描いた円みたいな環状線。これは外の並木通りで、絞りをずっと縮めてゆくともう一本やっぱりクレムリンを遠巻きにして円く――そう! これが内の並木通りである。

  並木通新聞 ブリヴァールナヤ・ガゼータ という言葉がある。

 先年、モスクワ駐在の不幸な一日本海軍武官が神経の故障から何か個人的問題を起した。モスクワの或る新聞が社会面にそれを書いた。海軍武官はやがて日本の新聞もそれにならうであろうこと、それによって失われるであろう自分の名誉という強迫観念によって、古典的なサムライの手法をもって生命を絶った。当局者の一人がその時、事件に対するヨーロッパ人らしい意外の感じを外交的表現によって云った。――私共はあんな 並木通新聞 ブリヴァールナヤ・ガゼータ なんぞのぞいたこともないので――

  並木通り ブリヴァール を歩くと云うことがある。これはソヴェトで「 私の知り合い モイ・ズナコームイ 」という言葉と同様二重の意味をもっている。

 ホテルの台所である。正面に白樺薪で沸かすニッケルの大湯沸しが立っている。テーブルがある。まだ洗われない皿がそこに山と積んである。あたりは小ざっぱりしているがそれ等の皿の上をのぼったり下りたりして蠅がうんと這っていた。蠅は、電燈の下で皿がうごめくように黒くしずかに這いまわっている。

 そういうテーブルの片隅で、日本女が砂糖のかたまりを 胡桃 くるみ 割でわっていた。砂糖はパン、肉、茶、石鹸、石油などと一緒に人別手帳によって一ヵ月に一キロ半買うことができる。けれども、かたまりが大きくてそのまま茶のコップには入れられない。胡桃割は割るべき胡桃とともに今モスクワじゅうの金物屋から姿を消しているから、ホテルの台所で、ホテルにもたった一つのその道具をかりて、日本にはない砂糖わりという仕事にとりかかる。

(大体ソヴェトのホテル住人ぐらい、台所と、率直な家庭的関係を保っているものはあるまい。※

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[2]
英語の通訳、ドイツ語の通訳が玄関を飛び交うサヴォイやグランド・ホテルは例外である。そこは、ソヴェトのただ狭い客間である※
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[3]
。一九二八年代、どこのホテルの廊下ででも給仕男が大きな盆に茶や食物やをのっけ、汗だくで運んで行く恰好を見ることが出来た。むかし築地小劇場がたくみな模倣でゴーゴリの検察官を上演した。あの劇中でも金のないフレスタコフのあなぐら部屋へ靴の裏みたいなあぶり肉をそれでも給仕が運んで来たじゃあないか。あの通りだった。一杯十カペイキの茶でも 呼鈴 リン を鳴らされると、給仕男は手にふりまわすナフキンとともにエレヴェーターのない四階までのぼって来て、又降りて、盆にのっけて室まで届けなければならなかった。

 五ヵ年計画による社会主義建設に入るとともに、モスクワの人民栄養労働組合員達は、労力の合理化を実行した。一般のホテルでは室へ飲食物を運ぶことを全廃した。一九三〇年の給仕男はもう廊下で汗の匂いをかがれる存在ではない。食堂の周囲にだけ出没する。そして、八十近くある室と食堂、台所との間は別な者が歩くようになったのである)。――

 朝八時と十時の間。夜は九時から十一時前後、ホテルの黒猫は廊下のエナメル痰壺のわきに香箱をつくって種々雑多な色の靴とヤカンの行進を眺めていた。各々の足音が違うように大小恰好の違うヤカンを下げたホテルの住人が汽車から駅の湯沸所へ通うようにホテルの廊下を往来するのだ。日本女は空色エナメルの丸いヤカンをもっている。

 廊下を曲ったところにいつも ドア をあけっ放した一室がある。そこはホテルに働くものの為の休息室、食堂、職業組合のメストコム、党 細胞 ヤチェイカ で、一隅には赤布で飾った小図書部「 赤い隅 クラースヌイ・ウーゴル 」がある。文盲者率の最も高い人民栄養労働者が彼らの文化革命と社会主義建設を達成すべき細胞である。

 廊下を通る日本女の空色ヤカンは「 赤い隅 クラースヌイ・ウーゴル 」の赤い色をポッチリ鮮やかに映した。隣の出版従業員組合クラブからの赤旗の歌で響くこともある。

 砂糖をわりながら日本女は皿洗女としゃべった。皿洗女はやせた髪の黒い女で灰色の上っぱりを着て働きながらよく唄を唄う。

 ――あああ! もう直ぐいろんな実の時節だ。あなたの国でも桜ん坊や黒苺できますか? なんでもあるんでしょ? あっちでは。

 ――日本に黒苺あるかしら。――見たことなかった。――おいしいわね、黒苺。歯が真黒んなって閉口だけれど。

 ――砂糖さえたっぷり入れて煮ればね。

 ――一月いくら? 一キロ半? やっぱり。

 ――どっから 果実砂糖煮 ワレーニエ の分が出ます?――

 ――あなたんところでは今砂糖でも煙草でもみんな外国へ出して機械になるんだからね。オデッサの港には砂糖の山があるって。

 ――ほらね! そうして「五ヵ年計画を四年で」やりとげるのさ。ここんところ少しひもじい目も堪えとけば、あとでよくなる。

 皿洗女は、真面目なようなふざけたようなまたたきをして、首をふった。彼女は臨時雇いである。五十七ルーブリ貰っている。

 ――本雇いにして貰えばいいのに。

 ――事務所で室女中にしてくれるかもしれないって云ってたが、どうなるか。

 ――どこでも今人が足りなくて騒いでるじゃないの、集団農場や国営農場へとられちゃって。職業紹介所は空っぽですよ。

 ――事務員は払底しているんです。

 ニッケル大湯沸のクランクからバケツへ熱湯を注ぎながら皿洗女は云った。

 ――臨時でもなんでも、こうして働ければ結構ですさ。働いていりゃ 並木通り ブリヴァール あるきをしないですむから……ねえ。

 そのほか、

  並木通り ブリヴァール にはティモフェー・ティモフェーヴィッチという熊をつれた大道芸人がいた。

 三枚八十カペイキ、三十分の早とり写真屋。 菩提樹 リーパ の茂った樹かげに立てたペンキ画の背景の前の椅子で、赤い プラトーク をかぶった女が格子縞のスカートの皺をひっぱっている。

  並木通り ブリヴァール 風景を眺めて昼間のベンチにいるのは9/10までいろんな髪と目の色をした女、及び籐の乳母車だった。

 ゲルツェン通りが並木通りと交叉するニキートスキー門のところにはチミリャーゼフの記念像がたっている。像の台石のまわりには、赤、紫、白、夏の草花が植えこまれている。一九一七年の「十月」ここで激しい市街戦があった。今年は、フント一ルーブルのトマト売が出ている。葡萄売も出ている。高いところでラジオ拡声ラッパが二十一度の明るい北方の夏空へギター合奏を流している。ソヴェト十三年の音と光だ。ずらりと並んだ乳母車のなかでは、いる、いる! それ等の音と光に向って薄桃色の臀、腹をむき出したおびただしい赤坊が眠ったり、唇を吸いこんだりしつつそろそろ未来の職業組合員手帳に向って息をしている。十九世紀の進化論者チミリャーゼフと夏の草花とに偏見なきソヴェトの赤坊の性を朗らかにむけながら。

 並木通りには 菩提樹 リーパ の葉のかずほど赤坊がいた。いや、モスクワ市内の事務所役所のひける四時、四時後、九時頃まではよたよた歩きをする年頃からはじまって小学校ぐらいまでの幼童幼女で並木通りは祭だ。その間を赤衛兵が散歩する。ピオニェールが赤いネクタイをひらひらさせて通る。もちろんいかさま野師もその間を歩いては行くのだが、目につくのは並木のはてまで子供、子供だ。アルバートのゴーゴリ坐像の膝があいているのが不思議ぐらいな賑いである。

 ソヴェト市民の大部分は日本と中国の区別を、地理的にも風俗史的にも頭の中にもっていない。日本が立憲政体であることを知っている位の啓蒙者は、次に諸君に向って必ず云うだろう。

 ――日本はそれに非常な人口だそうじゃないですか。年にどの位ずつ殖えますかね?

 ――七八十万です。

 ――アイヤイ、ヤイ! 何と沢山だ!

 が、真に驚くべきは生れる赤坊の数ではない筈である。何故ならソヴェトは最近年にほぼ三百万人――総人口に対する三分の率で小社会人を増殖しているのだから。おどろくべきは、日本に於て年七八十万人ずつの赤坊のいわば九十パーセントが、社会的に何の保護を持たぬプロレタリアートを母として何等の生存権を主張すべき手がかりを持たぬ嬰児としてこの世に送り出されつつあるという事実である。

 十月革命はこの一点だけでも人類としての歴史的使命を果した。СССРでは女性が市民、勤労者としての権利に於て男性と全く対等である上に、プラス、母として性の擁護を法律によって完全に与えられている。

 窓外はまだ零下十五度の 厳寒 マローズ である。凍った雪あかりが室内の白い壁にチラチラしている。

 窓枠が少し古びて、すき間風が入る。頭から白い毛糸肩掛をかぶった日本女が、唇の端から細いゴム管をたらしてねたまま横目で猫を見ていた。

 寝台の横には楕円形のテーブルが置いてある。首がガクつくのをガーゼで巻いてある真鍮の 呼鈴 ベル 、一緒に、アスパラガスに似た鉢植が緑の細かい葉をふっさり垂れていた。

 日本でも猫が葉っぱをたべたりするのかしらん。――

 床に黄色い透明な液体が底にたまった大コップがある。胆汁だ。 斑猫 ぶちねこ はそのコップをよけ、前肢をそろえ髭をあおむけ、そっと葉っぱを引っぱっては食っている。ふさふさした葉が揺れるだけだ。音もしない。日本女はもう二時間そうやって寝ている。

 猫はとうとうテーブルへとびあがった。これは日本女を不安にした。鉢植えの植物には薄青い芽が萌えたばかりである。そのみずみずしいのを猫は食いたいんだ、きっと。

 臥たまま手でテーブルをガタガタやった。 退 かぬ。ちょうどいい工合に病室の扉があいた。

 ――ああ、ターニャ!

 ――まだやってらっしゃるんですか。もう直き御飯ですよ。

 まぶしいような金髪で、赤い頬で、白衣をまくりあげた片腕いっぱいにうずたかくパンをかかえたまま、ターニャは猫をテーブルの上から追った。

 ――今日はどう? あんたのチビさんの御機嫌は。

 ――オイ! とてもさかんに体育運動をやってます。

 ターニャは笑って七ヵ月のたっぷりふくらんだ自分の腹を軽くたたきながら出て行った。

 一月半ばかり前、日本女がモスクワ第一大学附属病院へ入って来て間もない或る日だった。風呂に入れといって、背の高くない、身持ちの、ほっぺたが赤い一人の 保姆 ニャーニャ が車輪つき椅子をころがしこんで来た。日本女は体を動かすと同時に肝臓の痛みからボロボロ涙をこぼし、風呂には入れず、涙の間から身持ちの若い保姆の白衣のふくらがりをきつく印象された。

 それがターニャだった。

  保姆 ニャーニャ は通勤だ。六人が二十四時間を三交代の八時間勤務で働く。ターニャは夜の当直には来なかった。二十歳である。彼女の夫は国立音楽学校でバリトーンをやっている。ターニャは暇があると当直室の机へむき出しの腕をおっつけて代数を勉強した。毎晩六時から十一時まで彼女はブハーリンの名におけるモスクワ大学の 労働科 ラブファク で、革命がブルジョアの独占からプロレタリアートに向って解放した文化を吸収しているのだ。

 朝、床をぬれ雑巾でターニャが掃除している。いろんな問答をした。

 ――ターニャ、 労働科 ラブファク はもう何年ですむの?

 ――今二年目だからもう一年です。

 ――女何人ぐらいいる?

 ――少いですよ、たった九人。

 猫が好きな例の鉢植の植物へ吸のみから水をやりながらターニャは考えぶかい眼つきで云った。

 ――われわれんところでは、一般に云ってまだ女がどうしてもおくれてます。生産に働く労働婦人の間でも、高い資格を持ってる女の数は、男より低いんですもの。それに 労働科 ラブファク は大抵昼間働いてからだし、勉強も相当骨が折れるし、女はやり通せない場合もあるんです、家庭と子供を持ったりするとね。

 ――どう? あんたにはやり通す自信がある? そういう体で昼間働いて、夜また勉強する、時々辛いこともあるでしょう。

 ―― 何ともありません ニーチェヴォー 。辛いと思ったことは一遍だってない。 労働科 ラブファク ではほんとに勉強したいと思う者だけ勉強してるんです。ただ時々眠いことってったら! どうしたって目のあいてないことがあるんですよ、並んで順ぐり居眠りしてる恰好ったら! オイ! たまらない。

 ターニャは自分でふき出しながら、ほっぺたの上から金髪をかきのけた。

 ――でも、みんないい青年たちなんです。СССРに 労働科 ラブファク で勉強してる若い男がみんなで今(一九二八年)五万人ばかりいます。みんなソヴェト国家の為に何かする人間です。ルナチャルスキーが云ってたでしょう?「ソヴェト国家にとって最も必要なのは今 労働科 ラブファク で困難にうち克ちつつ学んでいる者達だ」って。

(ロシア共和国内だけの 労働科 ラブファク に於ける女学生数は一九二七年一五パーセントだった。

 全СССРで高等専門教育過程をふみつつある女性は二九・八パーセント(一九二七年)、世界文明国中第六位を占めている。日本は略第十一位だ。)

 また別な或る雪の日のこと。

 ひと仕事すんだターニャが日本女の室で、かけてのまだない安楽椅子に腰かけ、青リンゴをうまそうにかじっている。

 ――くたびれた?

 ――すこうし。

 二つめのリンゴにかぶりつきながらターニャはいかにもたのしそうに、たのしさから足でもぱたぱたやりたそうに云った。

 ――もうじき休暇になる!

 ソヴェト労働法は姙娠した労働婦人に出産前二ヵ月、出産後二ヵ月の給料全額つき休暇を与えるのだ。(知能労働婦人は前後三ヵ月、同じ条件で。)

 雑誌をかりに来てしゃべっていたエレーナが、年若い糖尿病患者の消耗性で輝やいた眼でターニャを見ながら、

 ――お産の仕度にいくら貰えるの? お前さん。

と訊いた。

 ――誰でも月給の半分まで。……でも九ヵ月牛乳代をくれるんです。

 ターニャは窓の前に立って裸の楡の木の枝々にドンドン降りつもる雪を眺めた。

 ――いいこと! 休暇になったら毎日毎日散歩しよう!

 散歩するという動詞にターニャは我知らず複数をつかった。そしてその調子の優しさが光のように室をながれた。

 彼女が、丸い体の重みで幾分踵をひくような歩きつきをしながら雪明りの室の中からそれより白い姿を消してしまうのを見送っていたエレーナが、急に背中をのばすような身ぶりをし、灰色の病衣を片手できつく自分の高い胸へかき合わせた。

 ――これが我らの時代だ!

 エレーナの心をふかく、つよく掴んで揺っているものがある。暗い燃える眼で刺すように日本女の黒い眼を見つめていたが、やがて、

 ――あなた子供もったことがありますか? と低い声できいた。

 ――いいえ、ない。

 ――私はもったことがある。

 ――…………。

 ――でもそれは一九一九年、飢饉の年でね。

 彼女は自分自身にむかって云うように云った。

 ――私を見た教授が、子供を生んで何で養うつもりかと云いました。我々に今必要なのは赤坊じゃない、革命の完成だ、って。――教授は白い髯のいい人だった、真面目な、ね。……我々はこんなことも生き抜いて来たんです。

 ターニャは日に日にゆっくり歩くようになり、あおい瞳や潤いある唇に張りきって重い大果物のような美しさを現した。寝たきりでいる視野の前に三尺だけひらいている廊下を横切って、金髪を輝かせながらゆっくりターニャの白いふくらんだ姿が通ると、日本女は真実、母になろうとする女の美と力とをおおうところなく感じた。

 ヨーロッパ文明はマリア以来の宗教的感傷をもって、東洋の文化は根づよい家族制度の伝統によって、いずれも母になろうとする女を或る程度まで聖なるものとした。だが、プロレタリアートの現実的な身持女が、何かの美感の対象となり得たことがかつてあるか?「身持ちの神さん」は、東西ともに既に古典的な貧の悲しき漫画材料だ。ブルジョア社会制度の下のプロレタリアート数千万の女性にとって、母性は彼女らにより生き易き権利を与えるどころか、明白に日々の労苦の門だ。生存そのものをさえおびやかしている。

 ターニャを見ろ!

 日本女は自分の中に眠っている母性がそのために目覚まされ、同じよろこびで熱くうごくのをさえ感じた。彼女の全身をみたしている深い安心、母となろうとする曇りなき期待はどうだ! ターニャの輝きは、とりもなおさずソヴェト社会がどのようにプロレタリアートの母性を護っているかということの照りかえしでなくて何であろうか! と。

 労働婦人が姙娠して五ヵ月以上になっている時、労働法によって工場、事務所は彼女を失業させることを許されない。生後十ヵ月以内の嬰児をもっている場合も。(まして、四ヵ月の休暇期間は云うをまたない)

 相当の数、労働婦人のいる工場、製作所で 託児所 ヤースリ のないところはない。託児所は朝八時から五時まで。五時から十二時まで。或るところは無料で、或るところは親の収入に準じた実費で七歳までの子供を保護し、食事、沐浴、初等の社会的訓練を与えてくれるのである。乳児のある母には三時間毎に授乳時間を与えられる。朝子供をつれて出勤し、退け時まで、女医と保姆の手もとにある子について何の心配がいろう。

 子を産んでその男から捨てられるという悲劇もソヴェトでは女をセイヌ河や隅田川へは行かせない。 国民裁判所 ナロードヌイ・スード へ彼女を行かせるだけだ。民法は、事情によって父親が受ける月給の半額までの扶助料を子供が十八歳になる迄支払う義務を決定している。

 万一、男が更に非ソヴェト市民的で、扶助料支払いをいやがり、行衛をくらました時、例えばターニャはどうするか。彼女ひとりの収入ではとても子供の養育はしきれない。法律によって男の親が食糧品か金で子供を扶助する義務をもっている。その親もない場合。

 子供は、父と母とのどういう関係によって生れようともターニャ一人の子ではない。生れた以上ソヴェト社会の嫡出子だ。いざという場合はソヴェト国家がその陣営に加えられた幼い一員に対して社会的連帯責任を負う。「子供の家」は最後の網となって経済能力の弱い母の手から脱落しようとする子を社会の成員として受けとめるのである。

 女の中に予期された母性の経済的独立を保証する為、離婚法は、女に職業能力がない場合、一年間(その間に女が職業を習得する)生活保証すべき義務を夫に示している。

 合法的人工流産は、これ等数種の積極的条件の最後にあって、母性の擁護と秘密な罪悪の防止に役立てられている。

 金髪のターニャひとりが、何か彼女の特別な理由で、このように広汎な社会連帯の上に、彼女の若き勤労婦人としての独立、恋愛の自由、母性のよろこびを獲得しているのだろうか? そうではない。ソヴェト全勤労婦人がこの基礎に立っている。プロレタリアートの「十月」は母性と私有財産制のみっともない結びつきを革命的に截断し、がっちり社会主義社会連帯の間に母性を組みなおした。職業組合に属さぬ勤労婦人はない。生れて、彼を社会成員として受けいれる組織をもたぬ赤坊はない。

 これだけのことを知って、みなさん、さらに或る晴やかな夏の午後 並木通り ブリヴァール の楡の樹蔭をぶらぶら歩いて、そこに眠っている無数の赤坊を見なおそう。

 ソヴェトの赤坊だ。

 工場の交代時間、 託児所 ヤースリ からあふれる子供の歓声と母親の笑いごえをきけ。ソヴェトの子と母である。

(一九二八年から一九三三年にわたるソヴェト産業拡張五ヵ年計画は、プロレタリアート文化向上資金として三億五千万ルーブリを予定している。この資金の一部で五ヵ年計画完成後には労働者および下級勤人の子供百五十万人が学齢以前の保護を受けるようになるだろう。

  *一九二九年ほとんど千五百万人の子供がСССРにいた。

 勤労者によって構成されているソヴェト社会の実践上、この幼児保護教育の問題は重大な意味をもっている。

           
    一九二七―二八  一九三二―三三  増率 
幼稚園子供の竈  一〇七(千人)  二一七(千人)  一〇二・二パーセント 
子供の遊場  二〇三(千人)  五〇六(千人)  一四九・三パーセント 
固定託児所  一〇〇八  一五九七  五八・〇パーセント 
(ソヴェト共和国) 
児童健康保護医員          六三・一パーセント 

 この頃盛んに建つСССРの新住宅は多くの場合その中に、特に居住者の子供のための広場、室をわり出すことに注意している。家のあるその場所に 託児所 ヤースリ をもつ為だ。これは目的そのものが至極当を得ているばかりでなく、面白いことには二重の役割を演じつつある。元来家庭労働者とともに政治的には最も後にのこったものと認められていた家庭の主婦達が、この家屋の中まで進出して来た 託児所 ヤースリ を中心とし、集団的行動の必要に訓馴されて次第に個人主義的なものの考えかたの習慣から脱離しはじめたのである。)

 その教師には「しゃっちこばり」というあだながついていた。

 彼はいつも膝まである長靴をはいて来た。そして入って来ると、その長靴の踵をきっちり揃え、背のたかい腰をいんぎんにかがめ、下から何かをすくいあげるような手つきで握手をもとめる。

 日本女は二人で一室に住んでいた。二年近くモスクワではそうして暮して来た。「しゃっちこばり」の、静脈の浮いた手を握ると、一人の日本女はドアの内側から外套をはずし、それを着て外へ出る仕度をした。「しゃっちこばり」は、室の中央のテーブルの傍に立ってそれを見ている。

 ――どうしてお出になるんですか、ちっとも貴方は邪魔なさいませんよ。それどころか、一緒に勉強出来て一層愉快ではありませんか。全く無駄な遠慮です。

 どっちみち、日本女は室から出る。一時間半三ルーブリを、もう一人の日本女が最も有益に利用出来るためである。

 モスクワ河が凍って、その上を絶間なく人や馬橇が通っていた。氷の穴から釣糸を垂れている者がある。黒い外套の裾からいろんな色の木綿更紗のスカートを出した女達が五六人かたまって厚い氷をわり、洗濯ものを籠から出してはゆすいでいた。何かの染色がとけて氷の中の水は緑っぽく見えた。

 岸に上って見渡すと氷の上にある人間の姿はどれも黒く小さく、遠くにちらほらスケートしているものの顔だけぽっつり薔薇色である。発電所の煙突からは黒い太い煙が真直上った。

 日本女は凍ったモスクワ河の景色を眺めてから、元へ戻り、或る一つの建物の入口を開けた。

 床がしき石張で、古代ロシア風のふくれた円柱や重い 迫持 せりもち が正面階段のまわりにある。

 事務室と書いてある戸をあけた。本。本。女。女。そして本! 中央児童図書館なのだ。児童文学は、ソヴェトの問題となってから久しい。そして、それはまだ解決されず、雑誌『ピオニェール』の編輯局が中心となり、作家と小さい読者との懇談会を開いたりした。

 ――ここでは、子供たちに本を読ますと同時に、いろいろ研究的な仕事をやっているんです。

 監督の、おだやかな三十四五の婦人党員が説明した。

 ――御承知の通り我々のソヴェト文化はまだ極めて若いんですし、我々の参考とすべき経験というものが、先にない。すべて新しい。これは大変よいことだが、困難もあるんです。ここの第一の仕事は、ソヴェトの子供にどういう本を読ませるべきかという研究です。幼稚園・小学校で、どんなお話をきかせ、本をよませ、四十箇所もある子供の図書館はどんな本を買うべきかここが中心になって研究し、決定するんです。

 彼女は日本女を本棚の方へ案内しながら云った。

 ――今ここにいる女の人たちは大抵小学校の先生たちですよ。地方からも出て来て研究して行きます。

 特別な本棚が一つ傍にあった。赤、黄、緑、紫、黒の紙片をはりつけた子供の為の本が棚わきに並べてある。それは毎週一度ずつ開かれる詮衡委員会が新刊児童文学につけた成績表である。

 ――赤いのが一番いい部です。紫、黒のになると他の図書館へは買いません。緑のは、私共自身にはっきりわからないのです。果して子供が面白がるか、理解するか、若しかすると私共はよくないと思っても、子供自身が何か発見するかもしれませんからね、一応与えて見るんです。

 ――アリョーシャの『三人の肥大漢』は何色を貰いました? 今芸術座が上演しているし、本も随分贅沢な出版だったが――

 若いパプツチキ(同伴者)の作家で、彼の小説の「 感情の結社 ザーゴヴォルチューフストヴォ 」がワフタンゴフ劇場に上演され、小説も劇も評判された。

 ――ああ、見ましたか? あなたも。

 監督は笑った。

 ――何色だったか……あれは大人のおとぎばなしですよ、菓子の中から革命が擡頭したりするファンタジーは、少し困りますよ。

 いま赤色をはられているのは、絵本だった。東洋、西洋、地球上のいろんな民族のプロレタリアートが独特の服装、風景、方法で、その民族独特の生産に従っているところを、明快な彩色画で説明したものである。綿花を栽培し、織物工場で働く耳輪だけ大きい痩せたインド人の後に、ヘルメット帽をかぶり、鼻眼鏡を光らしたイギリス人がいた。

 ソヴェトの子供は、幼稚園で、或は小学校で、自然界と人間社会との関係を、日常のあらゆるいきた労作の中から直接学びとる。今、もう雪の底に春が匂いかけている。春大人は何をするか? 子供たちは大人をどう助けるか?(一年生の教課プログラム)

 田舎では種蒔だ。

 市の公園へは渡り鳥が来る季節である。公園の樹の梢へつるす鳥の巣箱を小学校の子供は手工でこしらえる仕度をし、中央児童図書館では、一つの本棚が五ヵ年計画、集団農場、国営農場、その他一般農作と春の動植物についての本でおきかえられた。

 ――これが我々に一番骨の折れる、大切な仕事なんです。ソヴェトの子供は大人と同じ社会の中に生活している。ただ理解が単純だというだけの違いです。彼等は五ヵ年計画についても集団農場についても知らなければならず、また熱心に知りたがるんです。複雑な今日の実際問題を簡単に、具体的にどう説明するか……。問題は迅速に次々移って行きますしね、例えばソヴェト選挙の時にはまたそれに応じた本を見出してやらなければなりません。

 ソヴェトではいかに文字が実際生活の理解、建設に必須な武器かということは、一ヵ月この驚くべく前進的で柔軟性に富んだ多面な新社会の中に生活して見れば忽ちわかる。

 たとえば日本女は小説を書くのが本職である。だから、未来に於てソヴェトの芸術が生れるだろう畑に興味を感じ、「鎌と槌」鉄工場の工場新聞出版室内の文芸研究部へ出かけたとする。

 袋をかぶせたタイプライターが一台ある。二脚のテーブルといくつかの椅子があって、鋳型職場、旋盤からの若者が四五人八時間の働きを終って楽に坐っている。初歩の文芸部員たちは多くの場合詩人である。

 ――今日は誰が読むね。

 マップからの指導者が、煙草をふかしつつ一同を見渡す。

 ――君か?

 白いさっぱりしたシャツの胸を闊達にひろげて着たちぢれ毛のコムソモールは、ちょっと顔を赧らめ、

 ――いや。

と云った。

 ――何にもないんです。

 ――ポケットの中を見せ給え。

 どっと笑う。

 ――さあ、どうしたんだ? アーシャ! じゃあ、君読んだ、読んだ!

 ――なおしてないし……自信ないんです。

 ――ここに自信なんぞ持ってる奴は一人もいないよ。

 笑い声の中に立ち上って、がっちりした体にコバルト色シャツのアーシャが、抑揚は本もののプロレタリアート詩人らしい弾力で、原稿を読みあげる。

「きられる鉄片の火花と音楽。さまざまな形で社会主義建設の骨格になり輪となり、起重機となり、鋲となる鉄の美しい力、 篤志労働団 ウダールニク はその間から叫ぶ。―― 生産経済 プロフィン プランを百パーセントに!  篤志労働団 ウダールニク は叫ぶ。――いや。 生産経済 プロフィン プランを一二〇パーセントまで! と。そして、新しい輝くトルクシブの軌道はトルキスタンの砂漠をシベリアへ向って走り、北と南の生産を結びつけた。」

 題材の掴まえかたの必然を文学的に理解するだけにも、日本女は先ずСССРの中心問題である生産拡張五ヵ年計画を吸収してなければならぬ。それを獲得するにはどうするか? 彼女は少くとも読まなければならぬ。統計表と数字とで一杯なパンフレットを。絶対にそれは読まねばならぬのだ。若し散歩した時ソヴェト広場にある、電燈入り地図の意味を知りたいと思うなら。

 СССРで一九二六年に五千七十七万千九百九十七人(四九・六パーセント)あった文盲者が一九三〇年には既に四千三百万人前後に減り、五ヵ年計画完成後は都会七パーセント、村落二〇・六パーセントまで減少するということはきわめて自然なことだ。生活そのものが、文字はパン切符と全く同じに必要で、手にある鋤ややすりと同じ社会の道具だということを教えている。ソヴェトでは大人もこうして育つのである。

 ――ところで小学校の上級生ぐらいの子供は主にどんな本をよみますか?

 ――第一参考書類、技術的なもの、次は文学です。

 ――現代の作家では誰が愛されます?

 ――さあ……。勿論グラトコフや、リベディンスキー、セラフィモヴィッチなんか読まれているが――

 女党員は、考えた後、

 ――近頃は古典を非常によみます。

と云った。

 ――トルストイ、ゴーゴリ、なんかですか?

 ――プーシュキンなどもです、レルモントフも出る。

 ――国内戦を主題としたものは、一般に子供にどう受けいれられていますかしらん。

 ――特に、若いものによませるために書かれた国内戦、革命に関する文学は、一つ、共通な大きな誤謬を犯していたことを我々は感じています。それは、革命の事業を全然機械的に見ている点です。「赤」はやたらに強くて、正義のかたまりで、賢く、成功の外何も知らず、「白」はいつも卑怯で、馬鹿で、革命は玩具みたいに雑作なく完成するものみたいに扱われている。大した間違いです。革命の現実をまるでゆがめている。もっと有機的に、苦痛、困難、失敗の繰返しのうちから根気よく勝ちとった革命が描かれなければならないんです。第一、そんな赤白物語、つまりませんよ、読んだって!

 彼女は快活に笑った。階段を二階へのぼりながら、彼女は日本の児童のための雑誌、本の印刷が非常にいいと褒めた。

 ――技術的に実に進歩してます。でも、露骨に内容に歴史的要素を沢山とり入れていますね、この頁に、すっかりヨーロッパ風のよそおいをした日本の子供がラジオ組立てで遊んでいる画があると、直ぐ次に、封建時代のサムライが出て来る。日本の子供はひんぱんにそうやって封建時代へ逆転させられることを何とも感じないんでしょうか。まだ……。

 二階の読書室の赤布で飾った本台の前で、十一二歳の少年少女数人がさかんに本をあさっている。

 ――アニュータ! 別なの下さい。

 ――どうして? あんたまだそれを読みきってないよ。

 コムソモールカのよそおいをした若い図書掛がその少年に云った。

 ――本はすっかり読み終る癖をつけなさい。

 ――つまんないんだ。北極冒険のことでも書いたの下さい。

 グランド・ピアノの置いてある、プラカートと 棕梠 しゅろ の鉢で飾られた集会の広間がある。奥の空室で年かさのピオニェール少女が二人、色紙を切りぬいてボールへはりつけ、何か飾ものをこしらえていた。

 ――モスクワは御承知の住宅難で、多くの子供は学校が退けてから落付いているところがないんです。親は留守だし。みんなここへ来ます。ここはここでいろんなクルジョークがあって、この壁新聞もそこで出してます。

 四つの、樹や鳥の絵で装飾された室が、別に学齢までの幼児のために設備されてある。小さい清潔な白塗の椅子テーブルが、水鉢の上で芽をふきかけているいろんな球根ののった窓のまわりに配列されている。今ここに子供はいない。

 ――お母さんが少し長い時間買物にでも出かけなければならない。すると、ここへよって小さい子供をあずけてゆきます。

 ――本ものの幼稚園の仕事ですね。

 ――母親と子供のためにこれは必要だし、我々にも必要なんです。――子供のための仕事は生きてる子供対手でなしには一歩だって進み得ませんからね。多くのおかあさんがここへ来て始めて子供のために買うべき絵本の見わけかた、質問の答えかた、お話しのしかたを知りましたよ。

┌───────────────┐
│子供をぶつな※
[_]
[4]
      │

│  ぶつ前に子供の友に相談しろ│
└───────────────┘

 モスクワ市中の壁や広告塔に近頃そういうプラカートがしきりに見えた。

 ――親も近頃は社会教育について違った考えかたをするようになって来ました。然し我々のところにもまだまだ足りない点がうんとある。やって見る。子供がよしあしを決める。それによって我々は修正しさらに前進する。

 監督は再び少年少女達の横をしずかに通りすぎながら、日本女にねばりづよい熱情をもってささやいた。

 ――御覧なさい、彼らはほんとにソヴェトの新人間です。なんと彼らが育つことか!

 幼児が図書館にいる時間の割り当てが表にしてかかげられてあった。

         
掃除  一・一%  かけっこ  一・五% 
木積  四・三%  切ぬき  四・五% 
おもちゃ遊び  四・八%  弁当時間  五・五% 
絵をかく  一〇・三%  唱歌  八・〇% 
集団遊戯  一〇・三%  お話をよんで貰う  一二・〇% 

 内容がこうしてかわるばかりではない。モスクワ市は外観もいちじるしく変化した。外の 並木道 ブリヴァール をこした市の外廓には、新工場のポンド式ガラス屋根の反射とともに、新労働者住宅のさっぱりしたコンクリート壁が、若い街路樹のかなたに、赤い プラトーク をかぶった通行人を浮きあがらしている。

 モスクワ河の岸に一区画を占める大建築が進行中だ。黒い足場の間に人は夜業する照明燈の蒼白い強い光線を見、行き違う鉄骨の複雑な影のこい錯綜から、これは巨大な何かが地からもり上って来るのを、人間がたかってある一定の大いさまでおしつけ、まとめて、熱心にかためようと働いていると云う感じを受ける。全ソヴェト同盟中央執行委員会の建物だ。クレムリンを博物館とすべきための造営である。

 その他、何になるのかわからない大きな建築工事がいたるところにある。板がこいから空へつき出した起重機の頂に赤旗をひるがえしながら煉瓦、石灰の俵、トラクターの重いわだちがかたちをくずした泥の中で興味ぶかい未完成の姿を現している。

 だが、モスクワそのものを、本当にソヴェトの首都にふさわしい社会主義都市に根柢からかえることは可能だろうか? モスクワはモスクワとして、歴史的な美しい寺院のいろいろな円屋根を真白い 厳寒 マローズ の中にきらめかせればよい。そして、ストラスナーヤ僧院の城砦風な正面外壁へ、シルク・ハットをかぶった怪物的キャピタリストに五色の手綱で操縦される 法王 ポープ と天使と僧侶との諷刺人形をつり上げ、ステッキをついた外国の散歩者の目をみはらせればよい。――ところで、

 一寸、――この小地図を見る気はないか。

[_]
[5]

 勿論モスクワでもミンスクでもない。雑誌『ピオニェール』が子供たちから「私達はどう暮そう」という題で募集した社会主義的都市計画の一つである。

 社会主義的都市建設はСССРに於て計画から実現の時代に移っている。ウラル・ドンバッスその他、新興生産中心地ではすでにいくつかの新都市が生れた。そこにモスクワより合理的な生活の新様式があるのだが、このユージュ君のプランは、面白い。ソヴェトの少年が、かの集団的生活、家庭に於ける生活の実際経験から、社会主義的生活の理想のためにどんな都会を要求したか。

 この「赤い星」形の樹木でかこまれた工業的都会は農村とどう連絡しているかを、市民の生産的社会労働の核をなす種々な工場が、その性質にしたがって或るものは川岸に、或るものは住宅近く配置されている点を注意してほしい。ユージュ君は託児所について特別関心をはらっている。大人の為の労働者クラブは住宅区域の内に、ピオニェールのクラブ、学校、子供の遊び場その他は東側の二隅に、すっかり分離されている。

 大人の生活と子供の生活との間のある間隔の欲望、これは現在ソヴェトの意識ある若い時代共通の望みだ。ソヴェトである程度以上年齢の差ある大人と子供は大人子供というより、根本的に世界観の違った旧人間と新人間の差である場合が多い。彼らは社会主義国家の働きてとして健康な集団生活の中で必要な訓練を安らかにうけることを望んでいる。

 ああ、それからユージュ君にはもう一つ望みがある。それは広い学校の建物が、紫外光線ガラスではられていることである。

「紫外光線ガラスは」彼は云ってる。「太陽の人間の体にとって有利な光線を透す。だから、きっと子供たちは衰弱しなくなるだろう」と。

〔一九三〇年十月〕