University of Virginia Library

 エリカ・マンの「胡椒小屋」は四年間、オランダ、スイス、オーストリヤ、チェコ、ベルギー等を巡業し、いたるところで喝采をえた。小粒ながらも胡椒のきいたその移動演劇は、ナチスにとっては小柄な蜂のように邪魔であった。エリカは、舞台のうえにいていくたびか狙撃された。が、無事に千回以上の公演をつづけたが、一九三六年、解散させられた。チューリッヒで、「公安妨害」の口実で公演禁止されたのをはじめとして、ナチス外交官が出さきの外国でまでエリカの活動を妨害して、とうとう、それを解散させてしまったのであった。この時分に、エリカ・マンはイギリスの詩人ウイスタン・オーデンと結婚した。スペイン人民戦線軍に従軍したオーデンは進歩的な作家で、のちには中国の抗日戦にも参加し、「戦線への旅」という作品がある。

 スペインの内乱とともにヨーロッパはますます戦争の危険にせまられた。エリカ・マンは、一九三六年、アメリカへゆき、スペイン救済の必要と、ナチス・ドイツが、戦争の温床であることを警告した。第二次大戦が勃発してから、エリカ・マンの反ナチ闘争と民主主義のためのたたかいはいっそう広汎におこなわれ、「生への逃亡」ではドイツの亡命知識人の物語を描いた。これらの人々がなにゆえにドイツを去らなければならなかったか、ということについて劇的に描かれた物語である。

 大戦直後に刊行された「もう一つのドイツ」も弟クラウスとの共著であるが、ここには、ナチス・ドイツ以外のもう一つのドイツのあることを訴えたものであった。ドイツの国民性を解剖し、ワイマール共和国の功罪を論じ、一知識人の日記の形でナチス運動の発展のあとをたどり、ナチス以外のドイツが、ヒトラー打倒のためにどうたたかっているかを訴えた。「野蛮人の学校」では、ナチス治下の教育が、どんなにドイツの少年たちを毒しているかをあからまさにしたもので、映画化され、世界に深甚な影響をあたえた。エリカ・マンはまた子供のための冒険物語「シュトッフェルの海外旅行」をも書いているそうである。

 ナチス・ドイツの絶滅した今日、エリカ・マンはふたたび故国のドイツの土をふんでいるであろう。が、行動性にとみ、民主精神に燃える彼女に、敗れはてたドイツの姿はどううつっているであろう。ことばにつくせない犠牲をはらったドイツの民主主義のために、エリカ・マンの美しいエネルギーは、まだまだ休む暇はあたえられていないのである。

 ふかい犠牲をはらった民主主義への道と書かれている内山氏の紹介の文章をよむとき、私たちの魂にひびく共感がある。ほんとうに! 私たちの日本が、民主主義の黎明のためについやした犠牲は、なんと巨大なものであったろう。かぞえつくせない青春がきずつけられ、殺戮された。知性もうちひしがれた。民主の夜あけがきたとき、すぐその理性の足で立って、嬉々と行進しはじめられなかったほど日本の知性は、うちひしがれていたのであった。

 日本にエリカ・マンはありえなかった。けれども、いまやっと、人間の基本的人権の確立がいわれるようになったとき、日本の知識階級の若い女性たちは、自分たちめいめいの運命の開花の問題として民主主義社会建設の課題を、どのように真剣にとりあげはじめているであろうか。自分の才能の達成と、愛の達成そのもののために、民主社会の諸条件がどんなに必須なものであるかを、どのように理解しはじめているだろうか。

「キュリー夫人伝」を書いて、日本にもしたしまれているキュリー夫人の二女エヴ・キュリーは、一九四三年に「戦士のあいだを旅して」という旅行記をニューヨークから出版した。それがさいきん「戦塵の旅」という題で、ソヴェト同盟旅行の部分だけ翻訳出版された。一九四一年十一月より五ヵ月ばかり、連合軍側の戦時特派員という資格で、アフリカ、近東、ソヴェト同盟、インド、中国を訪問し、ファシズム、ナチズムに対して民主主義をまもろうとする国々のたたかいの姿を報道した。「ポーランドに生れ、フランスに眠るわが母マリー・スマロドオスカ・キュリー」という献辞のついたこの旅行記は、日本語に翻訳されている部分だけでも、ふかい感興をうごかされ、エヴの公平な理解力と人間としての善意にうたれる。

 エリカ・マンの各国巡業、エヴの戦時中の旅行。それらはどれもすべて、民主主義と、平和と、民族自立のための旅行であった。侵略に抗する世界の善意としての旅行者であった。

 東京裁判のラジオをきいている私たちの心の苦痛はいかばかりであろう。私たちは、世界の女性に向って叫びたいとおもわないだろうか。私たち日本人がすべてこういう兇暴な本性をもっているとはおもわないでください! と。日本にあふれている寡婦の涙をおもってください! と。けれども、同時に私たちは、身の毛のよだつおもいで省みずにいられないとおもう。日本の半封建の権力は、なんと文化そのものを美しさにおいて無力な、血なまぐさいものにしていたのだろうか、と。

 日本の婦人作家が幾人か、戦時中、海をわたって、彼女たちにとってはじめての海外旅行をし、他国の人々に接触した。そのとき、それらの人々のおかれた役割はなんであったろう。侵略の銃につけられた花束であったというのだろうか。それとも、故国にとりのこされている無数の妻や母たちに、女のあたしたちも行くところ、と侵略の容易さや、いつわられた雄々しさのうらづけをするためであったろうか。客観的に歴史のうえにみたとき、これらの旅行者は決してエリカ・マンや、エヴ・キュリーのような善意の旅行者ではありえなかった。

 婦人の知性は、洗われ、きよらかにされ、明日の生命をあたえられなければならないとおもう。去年の春の選挙に婦人代議士がどっさり出て、そのことは、知識階級の婦人たちをかえって失望させもした。そして、その騒々しさからは幾歩か身をはなしておいて、政治的には発展せず、政治屋ふうになった一部の婦人のうごきを眺めている気分も感じられる。

 けれども、私たちは、自分の身につける肌着が清潔であるか、ないかという責任を、誰にゆだねているだろう。わたしたち自身が自分の身のしまつはしている。そうだとすれば、どうして自分の一生の価値のため、そのゆたかさと多様な希望の実現をもたらす生きかたとして民主的方法の確立のために、素直になり、まじめにならないでいられよう。私たちの心情には一つの熱望がある。それは日本の女性の真の心を、世界の女性につたえたいおもいである。だが、それには世界に通じることばがなければならない。「民主的日本の女性から」という生きたことばが確立されなければならない。

〔一九四七年二月〕