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大詰 福島逆櫓の場

  • 役名==船頭、權四郎。
  • 同娘、およし。
  • 木曾駒若丸。
  • 船頭、又六。
  • 同、富藏。
  • 同、九郎作。
  • 隼人娘お筆。
  • 秩父庄司重忠。
  • 船頭、松右衞門 實ハ樋口次郎兼光。
本舞臺、常足の二重、眞中納戸口、上手佛壇、下手茶壁、上の方九尺の屋體、障子たて切り、いつもの所門口、この外、大樹の松、爰に講中三人、坊主一人、鉦を叩き、百姓大勢、百萬遍の珠數を繰つて居る見得、在郷唄、浪の音にて、幕明く。
皆々

南無阿彌陀ン佛/\。


[ト書]

ト皆々、珠數を繰り終ひ


坊主

ヤレ/\、皆の衆、お氣の毒に、よう念佛申してやらしやつた。サア/\、一服のまつしやれ。


講一

モウ/\、構はつしやるな。さつきお芳どのが迎ひに見えたゆゑ、念佛申して進ぜやうと思ふて、ナウ、皆の衆。


講二

念佛仲間が誘ひ合ひ、連れ立つて來ました。


講三

ふだん世話になる爰のうち、他人の樣には思ひませぬわいの。


坊主

ソレ/\、かうやつて回向して進ぜるは、人の事ぢやござらぬ、わが身のためでござるわいの。


皆々

いかさま、さうでござるなう。


[ト書]

ト合ひ方になり、奧より權四郎、木綿やつし形。お芳、世話女房にて、重箱を抱へ、子役の手を引き、出て來り


權四

オヽ、皆の衆、御苦勞でござつた。コレ、娘、つまらぬ物なれど、それ進ぜてくれ。


よし

サア/\、皆さん、美味しうはなけれども、たんと上つて下さりませ。


[ト書]

ト重箱を前へ出す。


皆々

モウ/\、構はつしやるな/\。


よし

何もお構ひ申しはいたしませぬわいな。


權四

サア/\、お構ひなしに、やらんせ/\。


皆々

そんなら馳走になりませう。


[ト書]

ト皆々、捨せりふにて、茶を呑む事あつて


坊主

時に親父どん、今日はどの佛さまの


皆々

志しの日でござるの。


權四

サア、今日の佛は、こなた衆も懇ろな、この娘が前の連合ひ、この槌松のほんの父が、三年の祥月命日に當つたゆゑ、澁茶を焚きました。たんと呑んでゆつくりして下され。常ならば箸でも取らせまする筈なれど、知つての通り足弱な娘や孫を引連れ、巡禮の長道中、物費りの後ゆゑなんにもしませぬ。とは云へ娘、もう何もないか。


よし

なんぞと申したら、人手はなし、この子はせがむ、ほんの心ばかりをば上つて、御回向お頼み申します。


[唄]

[utaChushin] あられ混りの煎り豆に、花香持たせて汲み出せば


[ト書]

ト盆の上へ茶碗を載せ、茶を汲んで出す。


講一

もう三年になりますか。アヽ、月日に關守り据ゑざればぢや。今の松右衞門どのは、聟入りしてまだ間もないゆゑ、しみ%\と附合はねば知らぬけれど


講二

死なしやつたこの槌松の父御は、誠によい人であつたわいの。


講三

それに尋ねたいは、別の事でもないが、この槌松を連れて巡禮に出らるゝ迄は、肥え太つて年よりも背が大柄で、病ひ氣もない頑丈造り


坊主

ほんの赤松はしらかしたやうに、外を内と遊びやるを見ては、あやかりものぢやと羨んだ子が、なんとして又色白に痩せこけて、思ひなしか顏の樣子も變つて、背も低う弱々として、外へとては出ず、これが巡禮した奇特と云ふやうな事で


皆々

ござるかいの。


權四

さればその事、こりや前の槌松ぢやござらぬ。違うた譯。思ひ出すも、ナウ、恐ろしや。マア、皆の衆、聞いて下され。ナア、娘よ、幾日の夜やらであつたな。


よし

ハテ、二十八日の


權四

オヽ、それ/\、まだ後の月の二十八日、三井寺の札を納めて、大津の八町に泊る夜、何かは知らず御上意ぢや、捕つた捕つたと大勢の侍ひが、これ見さつしやれ話しするさへ身が震ひます。ほんの世話に云ふ狼狽へては子を逆さま、どう負ふたやら娘が手を引いたやら、走つたやら、飛んだやら、やう/\毒蛇の口を遁れ、逃げて行く先は又狼谷の水音、松吹く風も後から追つ手の來る樣に思はれ、さても命はあるものかな。眞暗な夜に四里足らずの山道を、息一つつかばこそ、水一口呑まばこそ、命から%\伏見へ出て始めて脊に負ふた子の顏見れば南無三寶、相宿の襖越し、宵に話しもした和郎が連れた子と、取り違へたに極まつた。大儀ながら一走り行て、元々へ取り替へて來てくれと、娘はせがむ、オヽ、尤も、取り戻して來うと思ふ程先の怖さ。いつかな/\、一足も行かれる事ぢやない。今には限らぬ、取り返す折があらう。先の和郎も子を取り違へ、人の子ぢやとて粗末にはして置かぬ筈、この子さへ大事に育てゝ置いたら、三十三所の觀世音のお力、枯れたる木にも花さへ咲くぢやないか。一先づうちへ戻つて、潰した肝を癒やしてからの上の事と、晝船に飛び乘つて戻るうちも、乳呑まうと泣く。持ち合はせたを幸ひに、娘が乳を呑ませたら、それなりに月日も立ち、名も知らねば呼びつけた、槌松よ槌松よと云や、我が名と心得爺よ/\と、馴れ馴染むいたいたしさ。今ではほんの槌松めも同然に、可愛うござるわいの。


[唄]

[utaChushin] 云ふ聲も、咽喉につまらす老心、娘も共に涙ぐみ


よし

時の災難とは云ひ乍ら、縁あればこそこの子が手鹽にかゝり、他人がましうする事か、母樣々々と、この乳を呑みもすりや、呑ましもすれ、馴染めばわが子も同じ事、この子が憎いではないけれども、今日の佛の手前もありならう事ならちつとも早う、元々へ取り戻したうござりまする。


[唄]

[utaChushin] 語るを聞いて皆の者。


講一

それで疑ひ晴れました。大願立てゝの西國廻り、現世未來の觀音さまのお引合せ。


講二

あつちから槌松を連れて、やがて尋ねて見えませうわいの。


講三

必らずきな/\思はぬがよいぞや。


坊主

時に皆の衆、あんまりお茶呑んで、結句腹も晝下り、もうお暇しやうではござらぬか。


權四

マア、よいぢやないかい。


よし

ゆつくりと話して行て下されませ。


講一

イヤ/\、その話しは又明日の事。


皆々

もうお暇いたしませう。


權四

それなればたつてとも云ふまい、どうぞ又遊びに來て下んせ。


よし

マア、お靜かにお出でなされませ。


講三

コレ、お芳どの、松右衞門が歸られたら


皆々

よう云うて下されや。


よし

有難うござりまする。


皆々

そんなら親仁殿。


權四

大きに御苦勞でござりました。


皆々

サア、行きませう。


[唄]

[utaChushin] 打ち連れ出づる向うより


[ト書]

ト濱唄になり、向うより松右衞門、どてら形、草履を穿き、櫓の先に蓑、竹笠を括りつけ、擔ぎ出て來り、花道にて皆々に行き合ひ


坊主

オヽ、松右衞門どの、今戻らつしやつたか。今日はこなたのお留守へ上り


皆々

大きに馳走になりました。


松右

こりや皆お歸りか。今日は前の聟殿の三年忌、うちに居て共々御馳走申す筈を、遁がれぬ用事で罷り出で、近頃の亭主振り、まそつとゆるりとなされませ。


講一

イヤモウ、ゆるりくわんすの底叩きました。


講二

餘り茶には福がある。呑んでお休み


皆々

なされませ。


松右

そんなら皆の衆。


皆々

又明日逢ひませう。


[唄]

[utaChushin] わが家/\へ立ち歸る。


[ト書]

ト皆々向うへ入る。松右衞門、舞臺へ來る。門口を明け


松右

親父樣、今歸りましてござります。


[ト書]

ト云ひながら内へ入る。


權四

オヽ、聟どのか、イヤ、御苦勞々々。


よし

こちの人、戻りやしやんしたか。大層遲うござんしたなア。


松右

イヤモウ、早う戻つて、茶事の間に合ふ樣、釜の下でも焚かうと氣が急いても、相手が急かぬ大名のゆつたり、遲なはつた。嘸お草臥れ、女房ども、大儀であつたの。


よし

なんの大儀の事はない。お前こそ嘸おひもじからう。ぼんよ、父樣がお歸りなされたかと、なぜお側へ行きやらぬ。ドレ、飯上げうか。


[唄]

[utaChushin] と立ち上る。


松右

コレ/\、女房、飯なればまだ欲しうない。よい時分には云ふわえ。


よし

そんなら、よい時分に云はしやんせ。


權四

それはさうと聟どの、今日のお召しはどんな事ぢや。なんぞ氣にかゝる事ぢやないか。


松右

イヤ、お案じなさるる事ぢやござりませぬが、併し親父樣、大名のうちにも梶原さまは、取り分け念者であると申す、その譯は私しが、掻いつまんでお話し申しませう。


[ト書]

ト合ひ方になり


[松右]

今日お召しに寄つて、船頭松右衞門參上と奧へ云うて行き、やゝ暫らくして御家老の彼の番場の忠太さまがお出でなされ、先達て差上げた彼の逆櫓の事書き、一々尋ねる程に、問ひころしたそのうへで、その通り申し上げよ。暫らく待てと申しまして、マア、三時も待たせて置いて、殿が直ぐにお逢ひなさるゝ、これへお出でなさるゝと、その重々しさ、物云ひの堅苦しさ、船頭松右衞門とはおのれよな、軍術逞しき義經へ、この景時がよつく存ぜしと云ふ逆艪の大事、おろそかに聞き受け難し。おのれ船に逆艪を立てゝの軍さ調練したる事やある。それ聞かんと問ひかけられ、この度親父樣に習うて、逆艪と云ふ事初めて知つた松右衞門、返答に困るまいか、難儀せまいか、ほつとせしが分別いたし ハア、御意ではござれども、賣船の船頭風情、軍さと云ふものは夢に見た事もござらぬ、逆艪の事はわれらが家に傳へ、よく存じ罷りありと申して、間に合ひを申したれば、ムヽヽさもありなん。然らば汝覺えある船頭を語らひ、今宵密かに逆艪を立て、船の駈引き手練して、そのうへ知らせよ、事成就せば御大將のお召し船の船頭は汝たるべしと直きのお詞、その嬉しさに始めの術なさ打ち忘れ、あたふたと歸りがけ、日吉丸の船頭又六、灘吉丸の九郎作、明神丸の富藏、こいらは梶原さまのお船の船頭、幸ひ三人を相手にして、日暮れから逆艪の稽古にこつちへ參る筈。お教へなされた手際を見せつけ、立身出世はたつた今。これと申すも御指南のお庇、忝ない。坊主よ、喜べ。結構なおべゞを着て、持ち遊びに飽かせうぞ。それは勿論知れた事。女房ども、親父樣、喜んで下さりませ。


[唄]

[utaChushin] 語る聟より聞く嬉しさ。


權四

イヤサ、不器用な奴は、千年萬年教へても埓明かぬ。滿更素人のわり樣が、入り聟にわせられて、一年も立つや立たず、天下さまのお船の船頭するやうになると云ふは、俺が教へたばかりぢやない。その身の器用がする事で、おじやらしますで目出度い目出度い。聟殿の草臥れ休め、娘、十二文持つて走らぬかい。


松右

イヤ/\、御酒も歸りがけに、九郎作が所で下された。一生覺えぬ大名の附合ひ、膝はめりつき氣骨は折れる、播磨灘で南風に逢うた樣な目にあうて、頭痛まじり草臥れたと云ふ段ではない。暮れまでは間もあらう。親父樣、御ゆるされませ。トロトロと一寐入り。コレ、見や、お芳、坊主めが眠るは幸ひ、父が添へ乳をしてやらうか。


よし

オヽ、さうかいな。コレ、坊よ、父樣と行てねんねしや。オヽ、誰がよ/\。


[唄]

[utaChushin] ねん/\ころりと掻き抱き、納戸のうちにぞ入りにける。


[ト書]

トお芳、子役を抱いて、松右衞門に渡す。松右衞門、受取り、叩き乍ら奧へ入る。


權四

娘、裾になんぞ置いてやれ、出世する大事の體、風引かすな。祝うて船玉さまへ燈明も灯せ。お神酒も上げたい、酒買うて來てくれぬかい。


よし

イエ、買ふまでもない。これをお供へなされませ。


[唄]

[utaChushin] 棚から下ろす難波燒き


[ト書]

ト棚から燗銚子を取り、權四郎の前へ置く。


權四

ちろりと用意があつたなう。


[唄]

[utaChushin] 老の洒落ごと輕口も。神慮は重き一對の、徳利に餘る親心。妻は火打ちの石の火に、夫の威光輝くと、油煙も細き燈明に、心を照らす正直の、神や光りを添へぬらん。


[ト書]

トこのうち權四郎、神棚へ神酒を供へ、お芳、火を持ち燈明を上げる事なぞ、よろしく


[唄]

[utaChushin] 妻戀ふ鹿の果てならで、難儀硯の海山と、苦勞摺墨うき事を、數かくお筆が身の行くへ、いつまで果てし難波潟、福島に來て事問へば、門に印しのそんじよそこと、松を目當てに尋ね寄り


[ト書]

トこのうち向うよりお筆、屋敷風の形、菅笠を持ち、風呂敷を脊負ひ、出て來り、直ぐに舞臺へ來り


ふで

ハイ、御免なされませ。船頭松右衞門さまはこなたでござりまするか。お名をしるべに遙々と、尋ねて參つたもの、お逢ひなされて下さらば、忝なうござりまする。


[唄]

[utaChushin] 物ごしのしとやかさ。


よし

ハイ/\、どなたか、松右衞門ならこちらでござりまする。お入りなされませ。


[ト書]

ト門口を明け、お筆を見て、思ひ入れあつて、ぴつしやり締め、權四郎の寢てゐる側へ行き


[よし]

モシ、父さん、來たわいな/\/\。


[ト書]

トこれにて權四郎、驚き、目を覺し


權四

來た/\とは、何が來たのぢや。


よし

何が所ぢやない。來たわいな/\。


權四

なんぢや、津浪でも來たのか。


よし

イヽエイナ、松右衞門に逢ひたいと云うて、若い女子が來たわいな/\。


權四

エヽ、何をぬかす。又悋氣さらすな。コリヤ、嗜め嗜め。


よし

それぢやと云うて、大方碌な事ぢやないわいなア。


權四

コリヤ、松右衞門に逢はうと云うて來た女中、譯も聞かずに、もし姉でも、コリヤ、悋氣さらすか。マア、なんであらうと、とつくり樣子を聞いての上。


[ト書]

ト門口を明け、思ひ入れあつて


[權四]

松右衞門は内に居りまするが、どこからござつたかは知らぬが、マア/\、内へ入らつしやれ/\。


ふで

左樣なら、御免なされて下さりませ。


[唄]

[utaChushin] 笠解き捨てゝ内に入り


[ト書]

ト内へ入り、下手に住ひ


[權四]

左樣ならばあなたが松右衞門どのか。お近附きでもなければ、お顏を見知らうやうはなけれども


權四

なけれども……なりや、なぜござつた。


ふで

サア、何が知るべにならうやら、攝州福島松右衞門、一子槌松と書いた笈摺が縁となつて


權四

ヤア、そんならこなたは大津の八町で


よし

又あとの月二十八日の夜


ふで

ハイ、お子さまを取り替へたものでござりまする。


權四

道理こそ、見たやうな顏ぢやと思うた。コレ、お芳、喜べ、槌松を取り替へた人ぢやといやい。此方からも行くへをお尋ねて、元々へ取り戻す筈なれど、何を證據に尋ねて行く手がゝりもなく、泣いてばかり居りました。その代りには取り替へたそつちの子供、鵜の毛で突いた程も怪我させず、蟲腹一つ病みもせず、娘が乳が澤山ゆゑ、食物はあしらひばかり、乳一度餘した事はござらぬわいの。


よし

ほんに風一度引かさばこそ、親子が大事にかけたに附けても、此方の息子めもさぞ御厄介、お世話でござりましたらうに、よう連れて來て下さりました。


權四

コレ、槌松よ、わが内を忘れたか。なぜ入らぬぞよ。


ふで

イエ、門にではござりませぬ。


權四

ヤア、連れの衆が後から連れてお出でなさるゝか。さぞ御厄介、忝なうござる。ハテ、早う逢ひたいな。娘お禮を申しやいの。


よし

父さん、忙しない。このお禮が、ちやつきりちやつと、つい云うて濟む事かいな。申しこの槌松は、なぜ遲い事ぢやぞいなア。


[ト書]

ト立つて、門口を明けて見る。


權四

これはしたり、娘、不遠慮な、立つたり居たり、どうしたものぢや。ようお禮を申さぬかい。


よし

ハイ/\、大きに有難うござりまする。


[ト書]

ト又立つて、門口を覗く。


權四

アヽ、この孫は、何をして遲いのぢや。


[ト書]

ト同じく見る。


よし

父さん、お前こそ立つたり居たり。ちやつとお禮を云はしやんせいなア。


權四

オヽ、さうぢや。これは大きに有難うござりまする。


[唄]

[utaChushin] 立替り入替り、門を覗きつ禮云ひつ、そゞろ喜ぶ親子の風情、お筆が胸に燒き金刺し、今更なんと返答も、泣くに泣かれず差し俯向き、暫し詞もなかりしが、


[ト書]

トこのうち權四郎、お芳、代り/\に門口を覗き、喜ぶこなし、お筆は始終術なき思ひ入れ、じつと差し俯向きゐて


ふで

お願ひ申さねば叶はぬ譯あつて、恥を包み面目を忍びて尋ね參りしが、そのやうにお喜びなされては、氣が後れて物が申されませぬ。マア、下にゐて下さりませ。


[唄]

[utaChushin] 涙ながらに押し鎭め


[ふで]

改め申すも味氣なきその夜の騒ぎ、手ばしかう逃げ隱れなされたあなた方は巡禮の功徳、此方は一人の病人、男とてはあるに甲斐なき老人ゆゑ、逃げるにも隱るゝにも心に任せず、取り違へたそのお子は


[ト書]

ト云ひ兼ねる思ひ入れ。兩人はお筆の側へ差し寄つて氣の急くこなし。


兩人

その子はどういたしました。


ふで

サア、そのお子は


兩人

その子は


ふで

その夜敢なく


兩人

エヽヽ。


ふで

お成りなされましたわいなア。


[唄]

[utaChushin] 聞いて恟り。こは何ゆゑにと、餘りの事に泣きもせず、仰天するこそ道理なり。


[ト書]

トお筆は泣き伏す。兩人、顏見合め、呆れし思ひ入れ。


[ふで]

人の身の仇なりと、兼ねては聞けど、その夜の悲しさ、ようも今日まで存へし、言譯ながらの物語り、聞いて恨みを晴らして下さりませ。


[ト書]

ト合ひ方になり、門口を明け、あたりを見廻し、戸を締め、こなしあつて


[ふで]

高うは云はれぬ事ながら、連れの女中と申すはわたしの御主人。騒ぎの紛れ、取り違へしとは思ひも寄らず、若君は猶大切とわたしが抱き、御病人の女中は親が手を引き一度は旅籠屋の


[唄]

[utaChushin] 憂き目は遁れ出たれども、追ひかける武士の大勢、氣は樊[kai ]と防いでも、何を云ふも老人の、云ひ甲斐なく討ち死し


[ふで]

若君は奪ひ取られ、氣も狂亂のやうになつて、大事の若君取り返さんと駈け廻る。


[唄]

[utaChushin] 月なき夜半の葉隱れに、尋ね廻る笹垣の蔭


[ふで]

サア、爰にこそ若君ありと、取り上げ見れば


[唄]

[utaChushin] 悲しやお首が。


[ふで]

もうなかつたわいなア。よく/\見れば若君ならぬ、證據はこの笈摺、騒ぎの紛れ取り違へしか、さては若君のお命に恙なかりしかと、一度は安堵いたせしが、代りを戻さねば取り返されぬ若君樣。人の大事の子を殺し、何を代りに若君を取り戻さう、悲しい事をしやつたと、それを苦に病み主君の女中も、その座で儚なくなり給ひ


[唄]

[utaChushin] 悲しみやら苦しみやら私し一人、背たら負うたる身の因果。


[ふで]

この笈摺を知るべにて尋ね參りしは、お果てなされたお子の事は諦めて、此方の若君を戻して下さるやうとのお願ひ。大事にかけてお世話なされたとの物語り、聞くにつけても面目ないやら悲しいやら、味氣なき身の上を、思ひやつてたべ、親子御樣。


[唄]

[utaChushin] かつぱと伏して泣きければ、父は聲こそ立てねども、涙をはなに咬み交ぜて、咽喉につまればむせ返り、身も浮くやうに泣きければ、娘は心も亂るゝばかり、空しき笈摺手に取つて


よし

コレ、槌松よ。


[唄]

[utaChushin] かう成るは昨夜の夢にまざ/\と


[よし]

前の父樣に抱かれて、天王寺參りしやると見たは、日こそ多けれ、父御の三年祥月なり


[唄]

[utaChushin] 命日の今日の日に便り聞く、告げでこそありつらん。


[よし]

それとは知らぬ凡夫の淺間しさ。今日は連れて來るか、明日は戻りやるかと、待つてばつかりゐたものを、大きな災難に逢うて笈摺に書いた詮もない。


[唄]

[utaChushin] これがなんの二世安樂。


[よし]

順禮も當てにはならぬ。


[唄]

[utaChushin] 觀音さまも不甲斐ない、恨めしや懷しや。


[よし]

あはれこのことが、夢であつてくれよかし。


[唄]

[utaChushin] 顏に袖當て抱き締めて、聲をばかりに身悶へし、前後不覺に泣きゐたる。


[ト書]

トおよし、よろしくあつて、權四郎、涙を拭ひ


權四

娘、吠えまい。泣けば槌松が戻るか。よまい言云や再び坊主に逢はれるか。兼ねて愚痴なぞ云ふなと俺が云ふを、なんと聞いて居る。


[唄]

[utaChushin] と云ふ詞に縋りつき


ふで

ソレ/\、かう申す私しも女子ぢやが、愚痴では濟まぬ。爺樣の仰しやる通り、いか程お歎きなされたとて、槌松さまのお歸りなさると云ふではなし、さつぱりと諦めて、此方の若君をお戻しなされて下さつたら、有難いとも忝ないとも、喜ぶわたしがその心はどこへ行かう、皆槌松さまの未來のためには、佛千體寺千軒、千部萬部の經陀羅尼、千僧萬僧の供養なされたよりは、それは/\遙かに勝つた御供養になりまする。


權四

エヽ、默れ/\、默れアがれ。がやがやと頤叩くな。コリヤ、恥を知れやい、恥を知れやい。わが子をわが育てるには、少々の怪我させても、不調法があつても、親だけで濟めどもな、人の子には義理もあり、情もある。主君の若君のとお云やるからは、それ知らぬ滿更の、賤しい人でもなさゝうな。この親仁は親代々、梶柄取つてその日暮らしの身なれども、お天道さまが正直、大事にかけて置いたそつちの子、見せうか。イヤ、見せまい。見やつたら目玉がでんぐり返らうぞ。人の子を勞るは、こつちの子を勞つて貰ふ代り、大てい大事にかけたと思ふかい。そんなら又なぜ尋ねて來ぬと、へらず口ぬかさうが、尋ねて行かうにも何も手懸りはなし、そつちには笈摺に所書きがある、今日は連れて來て取り替へるか、明日は連れて來て下さるか、逢うたらなんと禮云はうと明けても暮れても待つてばかり。コレ、この屏風を見居れ、可愛や槌松が下向に買はうと云うたを聞き入れず、無理に買うて三井寺三界持ち歩るいて、嬉しがつた鬼の念佛、外法どのゝ頭へ梯子さへて月代剃る大津畫、藤の花のおやまも買ひ居らず、外法どのゝ繪を買うたは、あのやうに髮の白髮になるまで、長生きし居る瑞相、又鬼のやうに達者で、金持ち世界の人を餓鬼のやうに、這ひかゞまし居らう吉左右ぢや。めでたう戻り見居つたら、さぞ喜ばうと貼つて置いて待つてゐたに、思へば梯子は


[唄]

[utaChushin] 外法頭の下り坂。


[權四]

鬼の側に這ひつくばふ、餓鬼になつて、お念佛で助かるやうに成り居つたか。思へば思ひ廻す程、身も世もあられぬ、大それた目に遭はせたなア。それになんぢや、思ひ諦めて、若君を戻して下され。エヽ、町人でこそあれ、孫が敵、首にして戻してやるワ。


[唄]

[utaChushin] と突つ立ち上がる。なう悲しやと、取り附くお筆を押し退け刎ね退け、納戸の障子さつと明ければ、こはいかに松右衞門、若君を小脇に掻ひ込み、刀ぽつ込み力士立ち。お筆驚き


[ト書]

ト權四郎、行かうとする。お筆、留める。トヾ權四郎上手の障子を明ける。うちに松右衞門、刀を差し、子役を抱き、立ち身、皆々驚く。お筆、松右衞門を見て


ふで

ヤア、こなたは樋口


松右

コリヤ/\、女、樋口とはなんの囈言。アヽ、最前歸りがけ樋の口で、ちらりと見た女中よな。若君は身が手に入れた。氣遣ひなし。ナ、云うてよければ身が名乘る。ナ、イヤサ、樋の口を樋口なぞとは、必らず粗相云ふまいぞ。


[唄]

[utaChushin] と目混ぜで知らせば打ち頷く。鎭まる女、聞かぬ親父。


權四

松右衞門、出かした。先刻にからのもやくやで、寐られはせまい。定めて聞いたであらう。そちが爲にも子の敵。その小びつちよ、ずた/\に切り刻んで、女めに渡してやれ。


松右

イヤ、さうは致すまい。


權四

なぜ致すまいぢや。


松右

サア、それは


權四

それはとは水臭い。云いでも知れたおのれが胤を分けぬ、槌松が敵ぢやに依つて致さぬな。もう破れかぶれぢや。俺が云ふやうにせぬからは、親でも子でもない。娘、そこら駈け廻つて、若い奴等を呼んで來い。


[唄]

[utaChushin] 呼んで來いと氣を急いたり。


松右

ヤレ、待て女房、人を集めるまでもなし。親父樣、どうあつても槌松が敵、この子を存分になさるゝか。


權四

くどい。


松右

ハテ、是非もなし。この上はわが名も語り、仔細を明かした上の事。


[唄]

[utaChushin] 若君をお筆に抱かせ、上座に直し


[ト書]

ト子役をお筆に渡し、門口を明け、あたりを窺ひ、元の座へ直り、思ひ入れあつて、


[松右]

權四郎、頭が高い。


權四

何ぬかす。


松右

イヤサ、頭が高い。天地に轟き鳴雷の如く、お姿は見奉らずとも、定めて音にも聞きつらん、これこそは旭將軍、木曾義仲公の御公達駒若君、かく申す某は、樋口の次郎兼光なるワ。


[唄]

[utaChushin] 云ふに親子は荒肝取られ、仰天するこそ道理なり。


[ト書]

ト權四郎、お芳、恟りして、下に居る。


[唄]

[utaChushin] 樋口お筆に打ち向ひ


[松右]

さて/\女の甲斐々々しく、後日まで御先途を見屆ける神妙さ。山吹御前も思ひ寄らぬ御最期。御身が父の隼人も敢なく討ち死したりとな。力落し思ひやる。それにつけてもかくてある樋口が身の上、さぞ不審。若君のためには大伯父ながら、多田の藏人行家と云ふ無道人、誅伐せよとの御意を受け、河内の國へ出陣の跡、鎌倉勢を引受け粟津の一戰、誤りなきお身をむざ/\と、御生害遂げ給ひし、我が君の御最期の鬱憤、直ちに駈け入り一軍さとは存ぜしかど、思へば重き主君の仇、手段を以て範頼義經を討ち取り、亡君に手向け奉らんと、この家へ入り聟、逆艫を云ひ立て、早梶原に近附き、義經が乘船の船頭は松右衞門と極まる。追つゝけ本意を遂ぐる時節致來。あら嬉しやと思ふうちも、若君の御在所はいづく、いかがならせ給ふと


[唄]

[utaChushin] 心苦しき折も折


[松右]

最前よりの物語り、障子越しに聞くにつけ、見れば見る程面やつれ給へども、紛ひもなき駒若君。さては思ひ設けず、願はずして、所こそあれ日こそあれ、その夜一緒に泊り合せ、取り違へられても助かり給ふ、若君の御運の強さ、ハヽア。また


[唄]

[utaChushin] 殺されし槌松は、樋口が假の子と呼ばれ


[松右]

御身代りに立つたるは、二心なき某が忠心天の冥利に叶ひしか、ハアヽこれも誰が庇、親父樣、お前樣のお庇。子ならぬわれを子になされ、親ならぬわれを親とする。槌松が恩もあり、又義理もあり、餘所外の子と取り違へての敵なれば、あなたが御堪忍なされうが、女房がよしにと申さうが、その敵安穩に置くべきか。


[唄]

[utaChushin] 親父樣の御歎き、われも不愍さ身にせまれども


[松右]

相手に取れぬ主君の若君、弓矢取る身の上には、願うてもなきお身代り、爺、親の名を揚げた槌松、その名を揚げた元はと云へば、私しを子となされし、親父樣の御高恩。


[唄]

[utaChushin] 千尋の海蘇命路の山、それさへ御恩はなか/\較べ難けれど


[松右]

またそのうへの大恩ある主君の若君、孫の敵とて爺樣に切らされうか。


[唄]

[utaChushin] わが手にかけて主殺しの、惡名が取られうか。


[松右]

花は三吉野人は武士、末世に殘る


[唄]

[utaChushin] 名こそ恥かしけれ。


[松右]

御立腹の數々やお歎きの段々、申し上げ樣はなけれども親となり子となり、夫婦となるその縁に、繋がる定まりと思し召し、若君の御先途を見屆け、まだこのうへに私しが武士道を立てさせて下さらば、生々世々の御厚恩


[唄]

[utaChushin] 聞き分けてたべ親父樣と、身をへりくだり詞をあがめ、忠義に凝つたる樋口が風情、兼平巴が頭を踏まへ、木曾に仕へし四天王、その隨一の武夫と、世に名を取りしも理はりなり。


[ト書]

トこれにて權四郎はハタと手を打ち


權四

さうぢや、侍ひを子に持てば、俺も侍ひ。わが子の主人は俺のためにも御主人。ハアヽ、サア、聟殿、お手上げられい。もうもう船玉冥利、再び丸額になつて、かしきする法もあれ、恨みも殘らぬ悔みもせぬ。泣きもせぬ。娘、精出して、早う又槌松を生んでくれ。


松右

扨ては御得心參りしか。ハア、有難う存じまする。


[唄]

[utaChushin] 忝なや嬉しやと、互ひの心ほどけ合ひ、千里の灘の浮かれ船、港見つけし如くにて、悦び合ふこそ道理なり。


[唄]

[utaChushin] お筆も嬉しく若君を、樋口の次郎に手渡して


[ト書]

トお筆、松右衞門に子役を渡し下手に來りし手を支へ


ふで

かくて在する上からは、若君には氣遣ひなし。浮き沈みは世の習ひ、わたしが妹はこの津の國に、勤め奉公すると聞く、それが行くへも尋ねたし、又大津で討たれし父の敵、討つて佛へ手向けたし、何やら彼やら事繁き身の上なれば、最早お暇いたしまする。


[唄]

[utaChushin] 早お暇と立ち上れば


松右

然らば兎も角も勝手次第。


權四

これはしたり聟殿、せめて二三日の足休め。


よし

父さんの仰しやる通り、かう心が溶け合へば、結句今ではお名殘り惜しい。せめて今宵は一宿を


ふで

有難うはござりますれど、只今お聞きの通りの仕儀なれば、わたしが身にはお構ひなく、若君樣のお身の上、よろしうお願ひ申しまする。


權四

なんの、頼むの頼まるゝのと云ふ仲かいの。


よし

本意を遂げたら又重ねて


ふで

左樣ならばお二人樣。


よし

隨分御無事で


ふで

おさらばでござりまする。


[唄]

[utaChushin] さらば/\と門送り、見送る袂見返る袖、お筆は別れて出でゝ行く。


[ト書]

トお筆、思ひ入れあつて、向うへ入る。


權四

さて/\、武家に育つた女中は又格別。娘、今からあれ見習へよ。


[ト書]

ト件の笈摺に目を附け


[權四]

こりや爰に七面倒な笈摺がある。どうぞへ捨てゝ仕舞へ。


松右

親父樣、そりやあんまりな思ひ切りやう。せめて佛前へ直し香華取り、逆さまながら、御回向なされておやりなされませ。


權四

侍ひの親になつて、未練なと、人が笑ひはせまいかの


松右

なんの誰れが笑ひませうぞいの。わしは奧へ行つて最前の三人の、來るのを待つて居りませうわえ。


[唄]

[utaChushin] 納戸へこそは入りにける。


權四

アヽ、嬉しや/\。ありやうは俺や先刻にから、さうしたかつたわえ/\。コリヤ、娘、納戸の佛壇へ灯をともせ。


よし

アイ/\。


[唄]

[utaChushin] 手に取り上ぐる笈摺の


權四

千年も生かさうと思うたに、たつた三つで、南無阿彌陀佛/\。槌松精靈頓生菩提。


兩人

南無阿彌陀佛/\。


[唄]

[utaChushin] 見れば見かはす顏と顏、共に涙に暮れの鐘、打ち連れ一間へ入りにける。


[ト書]

トお芳、權四郎、笈摺を持ち、愁ひのこなしにて、奧へ入る。ゴン。


[唄]

[utaChushin] はや約束の黄昏時、又六さきに連れ立つて、富藏九郎作三人連れ、門口から容赦なく


[ト書]

トこのうち浪の音になり、又六、富藏、九郎作、船頭の拵へ、櫂を持ち、出て來り


三人

松右衞門どの/\、内にか外にかお宿にか、約束違へず


富藏

富藏


九郎

九郎作


又六

又六


三人

逆艪の稽古に參つた/\。


[唄]

[utaChushin] と呼ばはれば


[ト書]

ト奧にて


松右

オヽ、それ待つてゐた。


[唄]

[utaChushin] 身輕に拵へ飛んで出で


[ト書]

ト奧より松右衞門、厚司形にて出て


[松右]

皆の衆、御大儀々々。まだ早いに依つて、マア、こちへ入つて、莨でも參らぬか。


三人

イヤ/\、大事の急用、一精出して、後での莨。マア、しゆつぽりと、やりませう/\。


松右

そんなら船場へ。


三人

サア、行かうかい。


[唄]

[utaChushin] 皆川岸へ


[ト書]

ト浪の音になり、松右衞門先に、三人、奧へ入る。跡知らせにつき、この道具ぶん廻す。


本舞臺、三間の間、後淺黄幕、前側浪手摺り、二段に飾り、舞臺前雨落ち、小高き浪手摺りを出し、浪の音にて、道具留まる。
[ト書]

ト浪の音打ち上げ


[唄]

[utaChushin] 繋げる手舟の渡海造り、とも綱切り捨て飛び乘り/\


[ト書]

ト浪の音になり、上手より松右衞門、眞中に三人、船を漕ぎながら、よき所まで船を押し出す


三人

松右どの/\、船で妻子を養ひながら、ついに逆艪と云ふ事は


松右

オヽ、知らぬ筈/\。何事も俺次第ぢや。教へてやらう。船と陸とは又格別。コレ、ともの艪を、さう立てて、これを逆艪と云ふわいやい。


三人

ハテナウ。


[唄]

[utaChushin] 惣じて陸の働きは、敵も味方も馬の上、働きかけんと思へば駈け、引かんと思へば引く事も、自由げに見ゆれども


松右

知つての通り潮につれ


[唄]

[utaChushin] 風に誘はれ、艪拍子立てゝ押す時は、おも楫。


三人

オヽイ。


[唄]

[utaChushin] とり楫の風波を考へて、船に過ちある時は、八萬奈落も憂き目を見、いとし可愛の


松右

妻子にも、再び逢はれぬぢやないかいの。


三人

いかにも/\その通り。


松右

サア、憂き目を見まいためのこの逆艪。サア、ともの艪を押立て/\。


[唄]

[utaChushin] おつと心得ヤツシツシ/\、三段ばかり漕ぎ出だす。


[ト書]

ト三人、艪櫂を取つて、船を漕ぐ事あつて


[唄]

[utaChushin] すきを窺ひ富藏九郎作、櫂おつ取り、松右衞門が諸肘打ち倒さんと、左右よりはつしと打つ。心得たりと跳り越え、空を打たせて三人を、川の深みへ投げ込んだり


[ト書]

トよろしく立廻りあつて、トヾ三人を、川の中へ打ち込み、きつと見得。知らせにて、淺黄幕をふりかむせる。直ぐに浪の音、ばた/\にて、向ふより、船頭大勢いづれも柿の筒ツぽう、銘々櫂を持ち出て來り


船一

なんと聞いたか。權四郎の聟の松右衞門と云ふ奴は誠は木曾の郎等樋口の次郎兼光と云ふこと。


船二

鎌倉方には疾く御存じにて、梶原さまより仰せを受けたる我れ/\。


船三

今宵逆艪の稽古に事寄せ、又六、富藏、九郎作が、船の中にて押つ取り卷き


船四

一手になつて討ち取る手段。搦め捕るか討ち取るか、手柄次第で褒美はずつしり。


船五

必らずともに拔かるまいぞ。


皆々

合點だ。


[ト書]

トこの時上手より、以前の三人、出て來り


又六

コレ/\、皆の衆、爰にゐたか。梶原樣のお指圖で、松右衞門めを船中で、この三人が討つて取らうと思ひの外


富藏

却てきやつめにぼひまくられ、揚げ句の果てが三人とも川の中へぶち込まれ


九郎

死ぬ苦しみで水底を、やう/\くゞつて三人が、命から%\逃げて來た。


皆々

ヤア、そいつは大變。さうして松右衞門めは


又六

船を漕ぎつけ、慥かに陸へ上る樣子。


富藏

それゆゑわいらと一つになり


九郎

取り逃がさぬ樣手分けをして


又六

手柄は仕勝ち


三人

ぬかるまいぞ。


皆々

合點だ。


[ト書]

ト皆々、上手へ入る。知らせにつき、淺黄幕切つて落す。


本舞臺、三間、眞中、莫大なる誂への松の大樹、後ろ海の遠見、この前砂地の浪手摺り、日覆ひより吊り枝、芦原、上下浪の音にて、道具納まる。
[ト書]

ト直ぐに早笛、ばた/\になり、三階立廻り連中、皆皆見事に返つて出ると續いて松右衞門、大童になり、大碇を持ち、大勢を相手に一寸立廻り、きつと見得。


松右

コリヤ、わいらは、なんとするのだ。


又六

ヤア、なんとするとは知れた事、我れこそ木曾義仲の郎等、樋口の次郎兼光と云ふ事


富藏

梶原さまがよく御存じ。それゆゑ逆艪の稽古に事よせ


九郎

搦め來れと我れ/\への仰せつけられ。サア、尋常に


皆々

腕廻せ。


[唄]

[utaChushin] 腕を廻せと罵つたり。樋口、から/\と打ち笑ひ


松右

ヤア、小賢しいうぢ蟲めら、いかにもうぬ等が推量の通り、名乘つて聞かせる。耳をさらつてよつく聞け。


[唄]

[utaChushin] 旭將軍木曾義仲の身内に於いて、四天王の隨一と呼ばれたる


[松右]

樋口の次郎兼光なるワ。


皆々

扨てこそな。


松右

うぬら如きが搦めんとは、眞物ついたる一番碇、蟻の引くに異ならず、ならば手柄に搦めて見ろエヽ。


[唄]

[utaChushin] 大手を擴げて待ちかけたり。


[ト書]

トどん/\になり、一寸立廻つて、きつと見得。誂への鳴り物になり、色々仕ぬきの立廻りあつて、トヾ皆皆逃げて入る。松右衞門、花道よき所にて、きつと見得。この時遠寄せを打ち込む、これと一時に船頭兩人、捕つたとかゝるを、一寸立廻り、きつと見得。


[唄]

[utaChushin] これ屈強の物見の松。


[ト書]

ト大小入りの合ひ方になり、松右衞門、兩人を投げ退け、舞臺へ戻り、松へ昇り


[唄]

[utaChushin] 四方を屹と見渡せば


松右

北は海老江長柄の地。


[唄]

[utaChushin] 東は川崎天滿村。


[松右]

南は津村三津の濱。


[唄]

[utaChushin] 西は源氏の陣所々々、皆人ならぬ所もなく


[松右]

扨てはわれを取り卷くと覺えたり。ナニ、小賢しい。


[唄]

[utaChushin] と飛んで下り


[ト書]

ト松右衞門、飛んで、下り、こなしあつて


[松右]

女房々々。


[ト書]

ト浪の音になり、上手よりお芳、刀を持ち、出て來り刀を松右衞門に渡す。


よし

モシ、こちの人、父さんは納戸の壁をこぼつて、どつちへやら行かしやんしたわいなア。


松右

ナニ、壁を破つて、扨ては訴人にうせたな。槌松が仇を忘れかね、それで失せたか、チエ、樋口ほどの武夫が船玉の誓言に氣を奪はれ、心を許し飼ひ犬に手を咬まれたか。エヽ、殘念やなア。


[唄]

[utaChushin] 拳を握り齒を鳴らし、しほれぬ眼に泣く涙、磨き立てたる鏡の面、水をそゝぐが如くなり。


よし

お腹立ちは斷りながら、父樣に限つて、よもやそのやうな事はござんすまい。


[唄]

[utaChushin] 云ひ宥むる折こそあれ、武威輝く高張り提灯、畠山庄司重忠、權四郎に案内させて見えければ、娘はそれと見るよりも、


[ト書]

トこのうち向ふより、軍兵二人、高張りを持ち、續いて軍兵二人、この後より重忠、鎧、陣羽織の拵へ、軍兵大勢、誂への繩を持ち、ずつと後より權四郎、腰をかがめ、子役を脊負ひ、出て來り、お芳、權四郎を見て


[よし]

コレ、父さん、恨めしい。


[唄]

[utaChushin] と云はせもあへず


權四

訴人の恨みか、云ふな/\。俺が訴人せいでも、松右衞門を樋口の次郎と云ふ事は、梶原さまがよく御存じ。それゆゑ富藏や九郎作に、搦め捕らさうとなされたぢやないか。そればかりぢやない。四方八方を取り圍んで、樋口が命は籠の鳥、なんぼ助けうと思うても助からぬ。俺が秩父さまへ訴人したは、槌松めが事。


よし

サア、その槌松が事を云うて、松右衞門どのが腹立てゝござんすわいな。


權四

なんの腹立てる事がある。親子と云ふ名につながれて、孫めが親と一緒にあつち者になり居らうかと、それが悲しさに、あれは樋口が子ではござりませぬ。死んだ前の入り聟のな、松右衞門が子でな、合點が行たか。ほんの親子でないからは、訴人いたした代り、孫めが命お助けなされと願うたれば、段々聞こし召し分けられ、天下晴れて孫めが命は、オヽ、慮外乍らこの爺が助けた。それになんぢや、樋口が腹立つた。ヤイ、おのれが子でもない、主君でもない、大事の/\俺が孫を、一緒に殺して侍ひが立つか。コレ、われがその大きな眼には、爺が心は見えまいが、恨めしいとぬかす、われが結句恨めしいわえ。


[唄]

[utaChushin] 氣をせき上げて曇り聲。オヽ、よう訴人なされた、有難しとも過分とも、云はぬ詞は云ふ百倍、嬉し涙に暮れけるが、ずつと立つて重忠の、側近くさし寄つて


[ト書]

ト松右衞門、重忠の側へ行き


松右

天晴れ御邊が梶原ならば、太刀の目釘の續かん程切り死をせんなれども、粟津の軍、妹巴が身の上まで、志しありと聞く。情に刃向ふ刃はなし、腹十文字に掻き切つて、首を御邊に參らせん。


[唄]

[utaChushin] 云はせも果てず


重忠

ヤア、樋口、死首取つて手柄にする重忠ならず。とても叶はぬと覺悟あらば、尋常に繩かゝられよ。


松右

ハヽヽヽヽ、運盡きて腹切るは勇士の習ひ。繩かゝれとはこの樋口に、生恥かゝせん結構よな。仁義ある重忠の詞とも覺えず。


重忠

いやとよ、樋口、木曾どのゝ御うちに四天王の隨一と呼ばれ、亡君の仇を報はんため、權四郎が聟となつて弓矢に勝れる艪櫂を取つて、大將の船をくつがへし、鏖しにせん謀、恐ろしくも頼母し。晋の豫讓は主の智伯が仇を報ぜんと、御邊が如く姿をやつし、敵裏子を覗ふ。その志しを深く感じ、着たる衣服を脱いで豫讓に與へ、その衣を切らせて彼れが忠義を立てさせしは、敵乍らも裏子が情。木曾どの反逆ならざるは、書置に現はれ、御最期は今更悔むに甲斐なし、主人に科なき樋口の次郎、全く恥を與ふるにあらず、忠臣武勇を惜み給ふ、大將義經の心を察し、重忠が繩かくる。


[唄]

[utaChushin] つゝと寄つて樋口が腕、捩ぢ上ぐればにつこと笑ひ


松右

關八州に隱れなき、勇力の重忠どの、力量には劣らぬ樋口、取られし腕もぎ放すは安けれど、智仁兼備の力には及ばぬ及ばぬ。兎も角も計らはれよ。


[唄]

[utaChushin] 右手の腕を押し廻せば


重忠

ヤア、愚か/\。忠義厚き樋口どのゝ力に、重忠如きが及ばんや。大手の大將範頼公、搦め手の大將源義經公、兩大將の御仁政、文武二つの力を以ていましむるこの繩。樋口、捕つた。


[唄]

[utaChushin] かくるもかゝるも勇者と勇者、仁義に搦むる高手小手。


[ト書]

ト松右衞門に繩をかける。


[重忠]

コリヤ女、樋口どのゝ血こそ分けねど、槌松とやらんにとつくりと、暇乞ひを


[唄]

[utaChushin] とありければ、お芳は泣く子を抱き上げ


よし

これなう暫し、假初にも親子となりしこの世の別れ、よう顏見せて下さりませ。


[唄]

[utaChushin] 差し寄すれば


松右

ハア、槌松の暇乞ひとは、四相を悟る重忠どのゝ御情。コリヤ、槌松よ、父と云はずに暇乞ひ


子役

樋口、さらば。


[唄]

[utaChushin] 誰が教へねど呼ぶ子鳥、われは名殘りも鴛鴦の、番ひ離るゝ憂き思ひ。


よし

コレ、申しこちの人、なんぼ武士の習ひぢやとて、連添ふわたしに一言の、暇乞ひさへなされぬは、そりやあんまりぢや、胴慾ぢや、わたしやなんぼうでもやらぬやらぬ。


[唄]

[utaChushin] やらぬ/\と縋り附く。


權四

娘、吠えるな。なんぼやらん/\と、商賣の船唄で留めても留まらぬ、アヽ、悲しや。たとへ死んでも地獄へはやらん、極樂へやる、弘誓の船唄、思ひ切つてやつてのけよ。[utaChushin] 汐の滿干にこの子が出來たとな、孫の身の上案じるな、爺が預かりのんゑい/\、われが代りに大事に育てゝゑいよほんをんほゝんほ


[唄]

[utaChushin] ほんになんたる因果ぞと、正體もなくどうと伏し、涙にむせぶ腰折れ松。


重忠

餘所の千歳は知らねども


松右

わが身に辛き有爲無常。


權四

老は止り


よし

若きは行く。


重忠

世は逆さまの


皆々

逆艪の松。


[唄]

[utaChushin] 朽ちぬその名を福島に、枝葉を今に殘しける。


[ト書]

ト皆々、よろしく居並び


段切りにて
ひやうし幕
ひらがな盛衰記(終り)