畫の悲み
国木田独歩 (E no kanashimi) | ||
畫の悲み
国木田独歩
畫 ( ゑ ) を 好 ( す ) かぬ 小供 ( こども ) は 先 ( ま ) づ 少 ( すく ) ないとして 其中 ( そのうち ) にも 自分 ( じぶん ) は 小供 ( こども ) の 時 ( とき ) 、 何 ( なに ) よりも 畫 ( ゑ ) が 好 ( す ) きであつた。(と 岡本某 ( をかもとぼう ) が 語 ( かた ) りだした)。
好 ( す ) きこそ 物 ( もの ) の 上手 ( じやうず ) とやらで、 自分 ( じぶん ) も 他 ( た ) の 學課 ( がくゝわ ) の 中 ( うち ) 畫 ( ゑ ) では 同級生 ( どうきふせい ) の 中 ( うち ) 自分 ( じぶん ) に 及 ( およ ) ぶものがない。 畫 ( ゑ ) と 數學 ( すうがく ) となら、 憚 ( はゞか ) りながら 誰 ( たれ ) でも 來 ( こ ) いなんて、 自分 ( じぶん ) も 大 ( おほい ) に 得意 ( とくい ) がつて 居 ( ゐ ) たのである。しかし 得意 ( とくい ) といふことは 多少 ( たせう ) 競爭 ( きやうさう ) を 意味 ( いみ ) する。 自分 ( じぶん ) の 畫 ( ゑ ) の 好 ( す ) きなことは 全 ( まつた ) く 天性 ( てんせい ) といつても 可 ( よ ) からう、 自分 ( じぶん ) を 獨 ( ひとり ) で 置 ( お ) けば 畫 ( ゑ ) ばかり 書 ( か ) いて 居 ( ゐ ) たものだ。
獨 ( ひとり ) で 畫 ( ゑ ) を 書 ( か ) いて 居 ( ゐ ) るといへば 至極 ( しごく ) 温順 ( おとな ) しく 聞 ( きこ ) えるが、 其癖 ( そのくせ ) 自分 ( じぶん ) ほど 腕白者 ( わんぱくもの ) は 同級生 ( どうきふせい ) の 中 ( うち ) にないばかりか、 校長 ( かうちやう ) が 持 ( も ) て 餘 ( あま ) して 數々 ( しば/\ ) 退校 ( たいかう ) を 以 ( もつ ) て 嚇 ( おど ) したのでも 全校 ( ぜんかう ) 第 ( だい ) 一といふことが 分 ( わか ) る。
全校 ( ぜんかう ) 第 ( たい )
一 腕白 ( わんぱく ) でも 數學 ( すうがく ) でも。しかるに 天性 ( てんせい ) 好 ( す ) きな 畫 ( ゑ ) では 全校 ( ぜんかう ) 第 ( だい ) 一の 名譽 ( めいよ ) を 志村 ( しむら ) といふ 少年 ( せうねん ) に 奪 ( うば ) はれて 居 ( ゐ ) た。この 少年 ( せうねん ) は 數學 ( すうがく ) は 勿論 ( もちろん ) 、 其他 ( そのた ) の 學力 ( がくりよく ) も 全校 ( ぜんかう ) 生徒中 ( せいとちゆう ) 、 第 ( だい ) 二 流 ( りう ) 以下 ( いか ) であるが、 畫 ( ゑ ) の 天才 ( てんさい ) に 至 ( いた ) つては 全 ( まつた ) く 並 ( なら ) ぶものがないので、 僅 ( わづか ) に 壘 ( るゐ ) を 摩 ( ま ) さうかとも 言 ( い ) はれる 者 ( もの ) は 自分 ( じぶん ) 一 人 ( にん ) 、 其他 ( そのた ) は 悉 ( こと/″\ ) く 志村 ( しむら ) の 天才 ( てんさい ) を 崇 ( あが ) め 奉 ( たてまつ ) つて 居 ( ゐ ) るばかりであつた。ところが 自分 ( じぶん ) は 志村 ( しむら ) を 崇拜 ( すうはい ) しない、 今 ( いま ) に 見 ( み ) ろといふ 意氣込 ( いきごみ ) で 頻 ( しき ) りと 勵 ( は ) げんで 居 ( ゐ ) た。元來 ( ぐわんらい ) 志村 ( しむら ) は 自分 ( じぶん ) よりか 歳 ( とし ) も 兄 ( あに ) 、 級 ( きふ ) も一 年 ( ねん ) 上 ( うへ ) であつたが、 自分 ( じぶん ) は 學力 ( がくりよく ) 優等 ( いうとう ) といふので 自分 ( じぶん ) の 居 ( ゐ ) る 級 ( くらす ) と 志村 ( しむら ) の 居 ( ゐ ) る 級 ( くらす ) とを 同時 ( どうじ ) にやるべく 校長 ( かうちやう ) から 特別 ( とくべつ ) の 處置 ( しよち ) をせられるので 自然 ( しぜん ) 志村 ( しむら ) は 自分 ( じぶん ) の 競爭者 ( きやうさうしや ) となつて 居 ( ゐ ) た。
然 ( しか ) るに 全校 ( ぜんかう ) の 人氣 ( にんき ) 、 校長 ( かうちやう ) 教員 ( けうゐん ) を 始 ( はじ ) め 何百 ( なんびやく ) の 生徒 ( せいと ) の 人氣 ( にんき ) は、 温順 ( おとな ) しい 志村 ( しむら ) に 傾 ( かたむ ) いて 居 ( ゐ ) る、 志村 ( しむら ) は 色 ( いろ ) の 白 ( しろ ) い 柔和 ( にうわ ) な、 女 ( をんな ) にして 見 ( み ) たいやうな 少年 ( せうねん ) 、 自分 ( じぶん ) は 美少年 ( びせうねん ) ではあつたが、 亂暴 ( らんばう ) な 傲慢 ( がうまん ) な、 喧嘩好 ( けんくわず ) きの 少年 ( せうねん ) 、おまけに 何時 ( いつ ) も 級 ( くらす ) の一 番 ( ばん ) を 占 ( し ) めて 居 ( ゐ ) て、 試驗 ( しけん ) の 時 ( とき ) は 必 ( かな ) らず 最優等 ( さいゝうとう ) の 成績 ( せいせき ) を 得 ( う ) る 處 ( ところ ) から 教員 ( けうゐん ) は 自分 ( じぶん ) の 高慢 ( かうまん ) が 癪 ( しやく ) に 觸 ( さは ) り、 生徒 ( せいと ) は 自分 ( じぶん ) の 壓制 ( あつせい ) が 癪 ( しやく ) に 觸 ( さは ) り、 自分 ( じぶん ) にはどうしても 人氣 ( にんき ) が 薄 ( うす ) い。そこで 衆人 ( みんな ) の 心持 ( こゝろもち ) は、せめて 畫 ( ゑ ) でなりと 志村 ( しむら ) を 第 ( だい ) 一として、 岡本 ( をかもと ) の 鼻柱 ( はなばしら ) を 挫 ( くだ ) いてやれといふ 積 ( つもり ) であつた。 自分 ( じぶん ) はよく 此 ( この ) 消息 ( せうそく ) を 解 ( かい ) して 居 ( ゐ ) た。そして 心中 ( しんちゆう ) ひそかに 不平 ( ふへい ) でならぬのは 志村 ( しむら ) の 畫 ( ゑ ) 必 ( かなら ) ずしも 能 ( よ ) く 出來 ( でき ) て 居 ( ゐ ) ない 時 ( とき ) でも 校長 ( かうちやう ) をはじめ 衆人 ( みんな ) がこれを 激賞 ( げきしやう ) し、 自分 ( じぶん ) の 畫 ( ゑ ) は 確 ( たし ) かに 上出來 ( じやうでき ) であつても、さまで 賞 ( ほ ) めて 呉 ( く ) れ 手 ( て ) のないことである。 少年 ( こども ) ながらも 自分 ( じぶん ) は 人氣 ( にんき ) といふものを 惡 ( にく ) んで 居 ( ゐ ) た。
或日 ( あるひ ) 學校 ( がくかう ) で 生徒 ( せいと ) の 製作物 ( せいさくぶつ ) の 展覽會 ( てんらんくわい ) が 開 ( ひら ) かれた。 其 ( その ) 出品 ( しゆつぴん ) は 重 ( おも ) に 習字 ( しふじ ) 、 ※畫 ( づぐわ )
、 女子 ( ぢよし ) は 仕立物 ( したてもの ) 等 ( とう ) で、 生徒 ( せいと ) の 父兄姉妹 ( ふけいしまい ) は 朝 ( あさ ) からぞろ/\と 押 ( おし ) かける。 取 ( と ) りどりの 評判 ( ひやうばん ) 。 製作物 ( せいさくぶつ ) を 出 ( だ ) した 生徒 ( せいと ) は 氣 ( き ) が 氣 ( き ) でない、 皆 ( み ) なそは/\して 展覽室 ( てんらんしつ ) を 出 ( で ) たり 入 ( はひ ) つたりして 居 ( ゐ ) る 自分 ( じぶん ) も 此 ( この ) 展覽會 ( てんらんくわい ) に 出品 ( しゆつぴん ) する 積 ( つも ) りで 畫紙 ( ゑがみ ) 一 枚 ( まい ) に 大 ( おほ ) きく 馬 ( うま ) の 頭 ( あたま ) を 書 ( か ) いた。 馬 ( うま ) の 顏 ( かほ ) を 斜 ( はす ) に 見 ( み ) た 處 ( ところ ) で、 無論 ( むろん ) 少年 ( せうねん ) の 手 ( て ) には 餘 ( あま ) る 畫題 ( ぐわだい ) であるのを、 自分 ( じぶん ) は 此 ( この ) 一 擧 ( きよ ) に 由 ( よつ ) て 是非 ( ぜひ ) 志村 ( しむら ) に 打勝 ( うちかた ) うといふ 意氣込 ( いきごみ ) だから一 生懸命 ( しやうけんめい ) 、 學校 ( がくかう ) から 宅 ( たく ) に 歸 ( かへ ) ると一 室 ( しつ ) に 籠 ( こも ) つて 書 ( か ) く、 手本 ( てほん ) を 本 ( もと ) にして 生意氣 ( なまいき ) にも 實物 ( じつぶつ ) の 寫生 ( しやせい ) を 試 ( こゝろ ) み、 幸 ( さいは ) ひ 自分 ( じぶん ) の 宅 ( たく ) から一丁ばかり 離 ( はな ) れた 桑園 ( くはゞたけ ) の 中 ( なか ) に 借馬屋 ( しやくばや ) があるので、 幾度 ( いくたび ) となく 其處 ( そこ ) の 廐 ( うまや ) に 通 ( かよ ) つた。 輪廓 ( りんくわく ) といひ、 陰影 ( いんえい ) と 云 ( い ) ひ、 運筆 ( うんぴつ ) といひ、 自分 ( じぶん ) は 確 ( たしか ) にこれまで 自分 ( じぶん ) の 書 ( か ) いたものは 勿論 ( もちろん ) 、 志村 ( しむら ) が 書 ( か ) いたものゝ 中 ( うち ) でこれに 比 ( くら ) ぶべき 出來 ( でき ) はないと 自信 ( じしん ) して、これならば 必 ( かなら ) ず 志村 ( しむら ) に 勝 ( か ) つ、いかに 不公平 ( ふこうへい ) な 教員 ( けうゐん ) や 生徒 ( せいと ) でも、 今度 ( こんど ) こそ 自分 ( じぶん ) の 實力 ( じつりよく ) に 壓倒 ( あつたう ) さるゝだらうと、 大勝利 ( だいしようり ) を 豫期 ( よき ) して 出品 ( しゆつぴん ) した。出品 ( しゆつぴん ) の 製作 ( せいさく ) は 皆 ( みん ) な 自宅 ( じたく ) で 書 ( か ) くのだから、 何人 ( なにぴと ) も 誰 ( たれ ) が 何 ( なに ) を 書 ( か ) くのか 知 ( し ) らない、 又 ( また ) 互 ( たがひ ) に 祕密 ( ひみつ ) にして 居 ( ゐ ) た 殊 ( こと ) に 志村 ( しむら ) と 自分 ( じぶん ) は 互 ( たがひ ) の 畫題 ( ぐわだい ) を 最 ( もつと ) も 祕密 ( ひみつ ) にして 知 ( し ) らさないやうにして 居 ( ゐ ) た。であるから 自分 ( じぶん ) は 馬 ( うま ) を 書 ( か ) きながらも 志村 ( しむら ) は 何 ( なに ) を 書 ( か ) いて 居 ( ゐ ) るかといふ 問 ( とひ ) を 常 ( つね ) に 懷 ( いだ ) いて 居 ( ゐ ) たのである。
さて 展覽會 ( てんらんくわい ) の 當日 ( たうじつ ) 、 恐 ( おそ ) らく 全校 ( ぜんかう ) 數百 ( すうひやく ) の 生徒中 ( せいとちゆう ) 尤 ( もつと ) も 胸 ( むね ) を 轟 ( とゞろ ) かして、 展覽室 ( てんらんしつ ) に 入 ( い ) つた 者 ( もの ) は 自分 ( じぶん ) であらう。 ※畫室 ( づぐわしつ )
は 既 ( すで ) に 生徒 ( せいと ) 及 ( およ ) び 生徒 ( せいと ) の 父兄姉妹 ( ふけいしまい ) で 充滿 ( いつぱい ) になつて 居 ( ゐ ) る。そして二 枚 ( まい ) の 大畫 ( たいぐわ ) ( 今日 ( けふ ) の 所謂 ( いはゆ ) る 大作 ( たいさく ) )が 並 ( なら ) べて 掲 ( かゝ ) げてある 前 ( まへ ) は 最 ( もつと ) も 見物人 ( けんぶつにん ) が 集 ( たか ) つて 居 ( ゐ ) る二 枚 ( まい ) の 大畫 ( たいぐわ ) は 言 ( い ) はずとも 志村 ( しむら ) の 作 ( さく ) と 自分 ( じぶん ) の 作 ( さく ) 。一 見 ( けん ) 自分 ( じぶん ) は 先 ( ま ) づ 荒膽 ( あらぎも ) を 拔 ( ぬ ) かれてしまつた。 志村 ( しむら ) の 畫題 ( ぐわだい ) はコロンブスの 肖像 ( せうざう ) ならんとは! 而 ( しか ) もチヨークで 書 ( か ) いてある。 元來 ( ぐわんらい ) 學校 ( がくかう ) では 鉛筆畫 ( えんぴつぐわ ) ばかりで、チヨーク 畫 ( ぐわ ) は 教 ( をし ) へない。 自分 ( じぶん ) もチヨークで 畫 ( か ) くなど 思 ( おも ) ひもつかんことであるから、 畫 ( ゑ ) の 善惡 ( よしあし ) は 兔 ( と ) も 角 ( かく ) 、 先 ( ま ) づ 此 ( この ) 一 事 ( じ ) で 自分 ( じぶん ) は 驚 ( おどろ ) いてしまつた。その 上 ( うへ ) ならず、 馬 ( うま ) の 頭 ( あたま ) と 髭髯面 ( しぜんめん ) を 被 ( おほ ) ふ 堂々 ( だう/\ ) たるコロンブスの 肖像 ( せうざう ) とは、一 見 ( けん ) まるで 比 ( くら ) べ 者 ( もの ) にならんのである。 且 ( か ) つ 鉛筆 ( えんぴつ ) の 色 ( いろ ) はどんなに 巧 ( たく ) みに 書 ( か ) いても 到底 ( たうてい ) チヨークの 色 ( いろ ) には 及 ( およ ) ばない。 畫題 ( ぐわだい ) といひ 色彩 ( しきさい ) といひ、 自分 ( じぶん ) のは 要 ( えう ) するに 少年 ( せうねん ) が 書 ( か ) いた 畫 ( ぐわ ) 、 志村 ( しむら ) のは 本物 ( ほんもの ) である。 技術 ( ぎじゆつ ) の 巧拙 ( かうせつ ) は 問 ( と ) ふ 處 ( ところ ) でない、 掲 ( かゝ ) げて 以 ( もつ ) て 衆人 ( しゆうじん ) の 展覽 ( てんらん ) に 供 ( きよう ) すべき 製作 ( せいさく ) としては、いかに 我慢強 ( がまんづよ ) い 自分 ( じぶん ) も 自分 ( じぶん ) の 方 ( はう ) が 佳 ( い ) いとは 言 ( い ) へなかつた。さなきだに 志村 ( しむら ) 崇拜 ( すうはい ) の 連中 ( れんちゆう ) は、これを 見 ( み ) て 歡呼 ( くわんこ ) して 居 ( ゐ ) る。『 馬 ( うま ) も 佳 ( い ) いがコロンブスは 如何 ( どう ) だ!』などいふ 聲 ( こゑ ) が 彼處 ( あつち ) でも 此處 ( こつち ) でもする。
自分 ( じぶん ) は 學校 ( がくかう ) の 門 ( もん ) を 走 ( はし ) り 出 ( で ) た。そして 家 ( うち ) には 歸 ( かへ ) らず、 直 ( す ) ぐ 田甫 ( たんぼ ) へ 出 ( で ) た。 止 ( と ) めやうと 思 ( おも ) ふても 涙 ( なみだ ) が 止 ( と ) まらない。 口惜 ( くやし ) いやら 情 ( なさ ) けないやら、 前後夢中 ( ぜんごむちゆう ) で 川 ( かは ) の 岸 ( きし ) まで 走 ( はし ) つて、 川原 ( かはら ) の 草 ( くさ ) の 中 ( うち ) に 打倒 ( ぶつたふ ) れてしまつた。
足 ( あし ) をばた/\やつて 大聲 ( おほごゑ ) を 上 ( あ ) げて 泣 ( な ) いて、それで 飽 ( あ ) き 足 ( た ) らず 起上 ( おきあが ) つて 其處 ( そこ ) らの 石 ( いし ) を 拾 ( ひろ ) ひ、四方八方
に 投 ( な ) げ 付 ( つ ) けて 居 ( ゐ ) た。かう 暴 ( あば ) れて 居 ( ゐ ) るうちにも 自分 ( じぶん ) は、 彼奴 ( きやつ ) 何時 ( いつ ) の 間 ( ま ) にチヨーク 畫 ( ぐわ ) を 習 ( なら ) つたらう、 何人 ( だれ ) が 彼奴 ( きやつ ) に 教 ( をし ) へたらうと 其 ( そ ) ればかり 思 ( おも ) ひ 續 ( つゞ ) けた。
泣 ( な ) いたのと 暴 ( あば ) れたので 幾干 ( いくら ) か 胸 ( むね ) がすくと 共 ( とも ) に、 次第 ( しだい ) に 疲 ( つか ) れて 來 ( き ) たので、いつか 其處 ( そこ ) に 臥 ( ね ) てしまひ、 自分 ( じぶん ) は 蒼々 ( さう/\ ) たる 大空 ( おほぞら ) を 見上 ( みあ ) げて 居 ( ゐ ) ると、 川瀬 ( かはせ ) の 音 ( おと ) が 淙々 ( そう/\ ) として 聞 ( きこ ) える。 若草 ( わかくさ ) を 薙 ( な ) いで 來 ( く ) る 風 ( かぜ ) が、 得 ( え ) ならぬ 春 ( はる ) の 香 ( か ) を 送 ( おく ) つて 面 ( かほ ) を 掠 ( かす ) める。 佳 ( い ) い 心持 ( こゝろもち ) になつて、 自分 ( じぶん ) は 暫時 ( しばら ) くぢつとして 居 ( ゐ ) たが、 突然 ( とつぜん ) 、さうだ 自分 ( じぶん ) もチヨークで 畫 ( か ) いて 見 ( み ) やう、さうだといふ一 念 ( ねん ) に 打 ( う ) たれたので、 其儘 ( そのまゝ ) 飛 ( と ) び 起 ( お ) き 急 ( いそ ) いで 宅 ( うち ) に 歸 ( か ) へり、 父 ( ちゝ ) の 許 ( ゆるし ) を 得 ( え ) て、 直 ( す ) ぐチヨークを 買 ( か ) ひ 整 ( とゝの ) へ 畫板 ( ぐわばん ) を 提 ( ひつさ ) げ 直 ( す ) ぐ 又 ( また ) 外 ( そと ) に 飛 ( と ) び 出 ( だ ) した。
この 時 ( とき ) まで 自分 ( じぶん ) はチヨークを 持 ( も ) つたことが 無 ( な ) い。どういふ 風 ( ふう ) に 書 ( か ) くものやら 全然 ( まるで ) 不案内 ( ふあんない ) であつたがチヨークで 書 ( か ) いた 畫 ( ゑ ) を 見 ( み ) たことは 度々 ( たび/\ ) あり、たゞこれまで 自分 ( じぶん ) で 書 ( か ) かないのは 到底 ( たうてい ) 未 ( ま ) だ 自分 ( じぶん ) どもの 力 ( ちから ) に 及 ( およ ) ばぬものとあきらめて 居 ( ゐ ) たからなので、 志村 ( しむら ) があの 位 ( くら ) ゐ 書 ( か ) けるなら 自分 ( じぶん ) も 幾干 ( いくら ) か 出來 ( でき ) るだらうと 思 ( おも ) つたのである。
再 ( ふたゝ ) び 先 ( さき ) の 川邊 ( かはゞた ) へ 出 ( で ) た。そして 先 ( ま ) づ 自分 ( じぶん ) の 思 ( おも ) ひついた 畫題 ( ぐわだい ) は 水車 ( みづぐるま ) 、この 水車 ( みづぐるま ) は 其以前 ( そのいぜん ) 鉛筆 ( えんぴつ ) で 書 ( か ) いたことがあるので、チヨークの 手始 ( てはじ ) めに 今 ( いま ) 一 度 ( ど ) これを 寫生 ( しやせい ) してやらうと、 堤 ( つゝみ ) を 辿 ( たど ) つて 上流 ( じやうりう ) の 方 ( はう ) へと、 足 ( あし ) を 向 ( む ) けた。
水車 ( みづぐるま ) は 川向 ( かはむかふ ) にあつて 其 ( その ) 古 ( ふる ) めかしい 處 ( ところ ) 、 木立 ( こだち ) の 繁 ( しげ ) みに 半 ( なか ) ば 被 ( おほ ) はれて 居 ( ゐ ) る 案排 ( あんばい ) 、 蔦葛 ( つたかづら ) が 這 ( は ) ひ 纏 ( まと ) ふて 居 ( ゐ ) る 具合 ( ぐあひ ) 、 少年心 ( こどもごころ ) にも 面白 ( おもしろ ) い 畫題 ( ぐわだい ) と 心得 ( こゝろえ ) て 居 ( ゐ ) たのである。これを 對岸 ( たいがん ) から 寫 ( うつ ) すので、 自分 ( じぶん ) は 堤 ( つゝみ ) を 下 ( お ) りて 川原 ( かはら ) の 草原 ( くさはら ) に 出 ( で ) ると、 今 ( いま ) まで 川柳 ( かはやぎ ) の 蔭 ( かげ ) で 見 ( み ) えなかつたが、 一人 ( ひとり ) の 少年 ( せうねん ) が 草 ( くさ ) の 中 ( うち ) に 坐 ( すわ ) つて 頻 ( しき ) りに 水車 ( みづぐるま ) を 寫生 ( しやせい ) して 居 ( ゐ ) るのを 見 ( み ) つけた。 自分 ( じぶん ) と 少年 ( せうねん ) とは四五十 間 ( けん ) 隔 ( へだ ) たつて 居 ( ゐ ) たが 自分 ( じぶん ) は一 見 ( けん ) して 志村 ( しむら ) であることを 知 ( し ) つた。 彼 ( かれ ) は一 心 ( しん ) になつて 居 ( ゐ ) るので 自分 ( じぶん ) の 近 ( ちかづ ) いたのに 氣 ( き ) もつかぬらしかつた。
おや/\、 彼奴 ( きやつ ) が 來 ( き ) て 居 ( ゐ ) る、どうして 彼奴 ( きやつ ) は 自分 ( じぶん ) の 先 ( さき ) へ 先 ( さき ) へと 廻 ( ま ) はるだらう、 忌 ( い ) ま/\しい 奴 ( やつ ) だと 大 ( おほい ) に 癪 ( しやく ) に 觸 ( さは ) つたが、さりとて 引返 ( ひきか ) へすのは 猶 ( な ) ほ 慊 ( いや ) だし、 如何 ( どう ) して 呉 ( く ) れやうと、 其儘 ( そのまゝ ) 突立 ( つゝた ) つて 志村 ( しむら ) の 方 ( はう ) を 見 ( み ) て 居 ( ゐ ) た。
彼 ( かれ ) は 熱心 ( ねつしん ) に 書 ( か ) いて 居 ( ゐ ) る 草 ( くさ ) の 上 ( うへ ) に 腰 ( こし ) から 上 ( うへ ) が 出 ( で ) て、 其 ( その ) 立 ( た ) てた 膝 ( ひざ ) に 畫板 ( ぐわばん ) が 寄掛 ( よりか ) けてある、そして 川柳 ( かはやぎ ) の 影 ( かげ ) が 後 ( うしろ ) から 彼 ( かれ ) の 全身 ( ぜんしん ) を 被 ( おほ ) ひ、たゞ 其 ( その ) 白 ( しろ ) い 顏 ( かほ ) の 邊 ( あたり ) から 肩先 ( かたさき ) へかけて 楊 ( やなぎ ) を 洩 ( も ) れた 薄 ( うす ) い 光 ( ひかり ) が 穩 ( おだや ) かに 落 ( お ) ちて 居 ( ゐ ) る。これは 面白 ( おもし ) ろい、 彼奴 ( きやつ ) を 寫 ( うつ ) してやらうと、 自分 ( じぶん ) は 其儘 ( そのまゝ ) 其處 ( そこ ) に 腰 ( こし ) を 下 ( おろ ) して、 志村 ( しむら ) 其人 ( そのひと ) の 寫生 ( しやせい ) に 取 ( と ) りかゝつた。それでも 感心 ( かんしん ) なことには、 畫板 ( ぐわばん ) に 向 ( むか ) うと 最早 ( もはや ) 志村 ( しむら ) もいま/\しい 奴 ( やつ ) など 思 ( おも ) ふ 心 ( こゝろ ) は 消 ( き ) えて 書 ( か ) く 方 ( はう ) に 全 ( まつた ) く 心 ( こゝろ ) を 奪 ( と ) られてしまつた。
彼 ( かれ ) は 頭 ( かしら ) を 上 ( あ ) げては 水車 ( みづぐるま ) を 見 ( み ) 、 又 ( また ) 畫板 ( ゑばん ) に 向 ( むか ) ふ、そして 折 ( を ) り/\ 左 ( さ ) も 愉快 ( ゆくわい ) らしい 微笑 ( びせう ) を 頬 ( ほゝ ) に 浮 ( うか ) べて 居 ( ゐ ) た 彼 ( かれ ) が 微笑 ( びせう ) する 毎 ( ごと ) に、 自分 ( じぶん ) も 我知 ( われし ) らず 微笑 ( びせう ) せざるを 得 ( え ) なかつた。
さうする 中 ( うち ) に、 志村 ( しむら ) は 突然 ( とつぜん ) 起 ( た ) ち 上 ( あ ) がつて、 其拍子 ( そのひやうし ) に 自分 ( じぶん ) の 方 ( はう ) を 向 ( む ) いた、そして 何 ( なん ) にも 言 ( い ) ひ 難 ( がた ) き 柔和 ( にうわ ) な 顏 ( かほ ) をして、につこり
と 笑 ( わら ) つた。 自分 ( じぶん ) も 思 ( おも ) はず 笑 ( わら ) つた。『 君 ( きみ ) は 何 ( なに ) を 書 ( か ) いて 居 ( ゐ ) るのだ、』と 聞 ( き ) くから、
『 君 ( きみ ) を 寫生 ( しやせい ) して 居 ( ゐ ) たのだ。』
『 僕 ( ぼく ) は 最早 ( もはや ) 水車 ( みづぐるま ) を 書 ( か ) いてしまつたよ。』
『さうか、 僕 ( ぼく ) は 未 ( ま ) だ 出來 ( でき ) ないのだ。』
『さうか、』と 言 ( い ) つて 志村 ( しむら ) は 其儘 ( そのまゝ ) 再 ( ふたゝ ) び 腰 ( こし ) を 下 ( お ) ろし、もとの 姿勢 ( しせい ) になつて、
『 書 ( か ) き 給 ( たま ) へ、 僕 ( ぼく ) は 其間 ( そのま ) にこれを 直 ( なほ ) すから。』
自分 ( じぶん ) は 畫 ( か ) き 初 ( はじ ) めたが、 畫 ( か ) いて 居 ( ゐ ) るうち、 彼 ( かれ ) を 忌 ( い ) ま/\しいと 思 ( おも ) つた 心 ( こゝろ ) は 全 ( まつた ) く 消 ( き ) えてしまひ、 却 ( かへつ ) て 彼 ( かれ ) が 可愛 ( かあい ) くなつて 來 ( き ) た。 其 ( その ) うちに 書 ( か ) き 終 ( をは ) つたので、
『 出來 ( でき ) た、 出來 ( でき ) た!』と 叫 ( さけ ) ぶと、 志村 ( しむら ) は 自分 ( じぶん ) の 傍 ( そば ) に 來 ( きた ) り、
『をや 君 ( きみ ) はチヨークで 書 ( か ) いたね。』
『 初 ( はじ ) めてだから 全然 ( まるで ) 畫 ( ゑ ) にならん、 君 ( きみ ) はチヨーク 畫 ( ぐわ ) を 誰 ( だれ ) に 習 ( なら ) つた。』
『そら 先達 ( せんだつて ) 東京 ( とうきやう ) から 歸 ( かへ ) つて 來 ( き ) た 奧野 ( おくの ) さんに 習 ( なら ) つた 然 ( しか ) し 未 ( ま ) だ 習 ( なら ) ひたてだから 何 ( なん ) にも 書 ( か ) けない。』
『コロンブスは 佳 ( よ ) く 出來 ( でき ) て 居 ( ゐ ) たね、 僕 ( ぼく ) は 驚 ( おどろ ) いちやツた。』
それから 二人 ( ふたり ) は 連立 ( つれだ ) つて 學校 ( がくかう ) へ 行 ( い ) つた。 此以後 ( このいご ) 自分 ( じぶん ) と 志村 ( しむら ) は 全 ( まつた ) く 仲 ( なか ) が 善 ( よ ) くなり、 自分 ( じぶん ) は 心 ( こゝろ ) から 志村 ( しむら ) の 天才 ( てんさい ) に 服 ( ふく ) し、 志村 ( しむら ) もまた 元來 ( ぐわんらい ) が 温順 ( おとな ) しい 少年 ( せうねん ) であるから、 自分 ( じぶん ) を 又無 ( またな ) き 朋友 ( ほういう ) として 親 ( した ) しんで 呉 ( く ) れた。二人
で 畫板 ( ゑばん ) を 携 ( たづさ ) へ 野山 ( のやま ) を 寫生 ( しやせい ) して 歩 ( ある ) いたことも 幾度 ( いくど ) か 知 ( し ) れない。間 ( ま ) もなく 自分 ( じぶん ) も 志村 ( しむら ) も 中學校 ( ちゆうがくかう ) に 入 ( い ) ることゝなり、 故郷 ( こきやう ) の 村落 ( そんらく ) を 離 ( はな ) れて、 縣 ( けん ) の 中央 ( ちゆうわう ) なる 某町 ( ぼうまち ) に 寄留 ( きりう ) することゝなつた。 中學 ( ちゆうがく ) に 入 ( い ) つても二人
は 畫 ( ゑ ) を 書 ( か ) くことを 何 ( なに ) よりの 樂 ( たのしみ ) にして、 以前 ( いぜん ) と 同 ( おな ) じく 相伴 ( あひともな ) ふて 寫生 ( しやせい ) に 出掛 ( でか ) けて 居 ( ゐ ) た。此 ( この ) 某町 ( ぼうまち ) から 我村落 ( わがそんらく ) まで七 里 ( り ) 、 若 ( も ) し 車道 ( しやだう ) をゆけば十三 里 ( り ) の 大迂廻 ( おほまはり ) になるので 我々 ( われ/\ ) は 中學校 ( ちゆうがくかう ) の 寄宿舍 ( きしゆくしや ) から 村落 ( そんらく ) に 歸 ( かへ ) る 時 ( とき ) 、 決 ( けつ ) して 車 ( くるま ) に 乘 ( の ) らず、 夏 ( なつ ) と 冬 ( ふゆ ) の 定期休業 ( ていききうげふ ) 毎 ( ごと ) に 必 ( かなら ) ず、 此 ( この ) 七 里 ( り ) の 途 ( みち ) を 草鞋 ( わらぢ ) がけで 歩 ( ある ) いたものである。
七 里 ( り ) の 途 ( みち ) はたゞ 山 ( やま ) ばかり、 坂 ( さか ) あり、 谷 ( たに ) あり、 溪流 ( けいりう ) あり、 淵 ( ふち ) あり、 瀧 ( たき ) あり、 村落 ( そんらく ) あり、 兒童 ( じどう ) あり、 林 ( はやし ) あり、 森 ( もり ) あり、 寄宿舍 ( きしゆくしや ) の 門 ( もん ) を 朝早 ( あさはや ) く 出 ( で ) て 日 ( ひ ) の 暮 ( くれ ) に 家 ( うち ) に 着 ( つ ) くまでの 間 ( あひだ ) 、 自分 ( じぶん ) は 此等 ( これら ) の 形 ( かたち ) 、 色 ( いろ ) 、 光 ( ひかり ) 、 趣 ( おもむ ) きを 如何 ( どう ) いふ 風 ( ふう ) に 畫 ( か ) いたら、 自分 ( じぶん ) の 心 ( こゝろ ) を 夢 ( ゆめ ) のやうに 鎖 ( と ) ざして 居 ( ゐ ) る 謎 ( なぞ ) を 解 ( と ) くことが 出來 ( でき ) るかと、それのみに 心 ( こゝろ ) を 奪 ( と ) られて 歩 ( ある ) いた。 志村 ( しむら ) も 同 ( おな ) じ 心 ( こゝろ ) 、 後 ( あと ) になり 先 ( さき ) になり、 二人 ( ふたり ) で 歩 ( ある ) いて 居 ( ゐ ) ると、 時々 ( とき/″\ ) は 路傍 ( ろばう ) に 腰 ( こし ) を 下 ( お ) ろして 鉛筆 ( えんぴつ ) の 寫生 ( しやせい ) を 試 ( こゝろ ) み、 彼 ( かれ ) が 起 ( た ) たずば 我 ( われ ) も 起 ( た ) たず、 我 ( われ ) 筆 ( ふで ) をやめずんば 彼 ( かれ ) も 止 ( や ) めないと 云 ( い ) ふ 風 ( ふう ) で、 思 ( おも ) はず 時 ( とき ) が 經 ( た ) ち、 驚 ( おど ) ろいて 二人 ( ふたり ) とも、 次 ( つぎ ) の一 里 ( り ) を 駈足 ( かけあし ) で 飛 ( と ) んだこともあつた。
爾來 ( じらい ) 數年 ( すねん ) 、 志村 ( しむら ) は 故 ( ゆゑ ) ありて 中學校 ( ちゆうがくかう ) を 退 ( しりぞ ) いて 村落 ( そんらく ) に 歸 ( かへ ) り、 自分 ( じぶん ) は 國 ( くに ) を 去 ( さ ) つて 東京 ( とうきやう ) に 遊學 ( いうがく ) することゝなり、いつしか 二人 ( ふたり ) の 間 ( あひだ ) には 音信 ( おんしん ) もなくなつて、 忽 ( たちま ) ち又四五年
經 ( た ) つてしまつた。 東京 ( とうきやう ) に 出 ( で ) てから、 自分 ( じぶん ) は 畫 ( ゑ ) を 思 ( おも ) ひつゝも 畫 ( ゑ ) を 自 ( みづか ) ら 書 ( か ) かなくなり、たゞ 都會 ( とくわい ) の 大家 ( たいか ) の 名作 ( めいさく ) を 見 ( み ) て、 僅 ( わづか ) に 自分 ( じぶん ) の 畫心 ( ゑごころ ) を 滿足 ( まんぞく ) さして 居 ( ゐ ) たのである。處 ( ところ ) が 自分 ( じぶん ) の二十の 時 ( とき ) であつた、 久 ( ひさ ) しぶりで 故郷 ( こきやう ) の 村落 ( そんらく ) に 歸 ( かへ ) つた。 宅 ( たく ) の 物置 ( ものおき ) に 曾 ( かつ ) て 自分 ( じぶん ) が 持 ( もち ) あるいた 畫板 ( ゑばん ) が 有 ( あ ) つたの
見 ( み ) つけ、 同時 ( どうじ ) に 志村 ( しむら ) のことを 思 ( おも ) ひだしたので、 早速 ( さつそく ) 人 ( ひと ) に 聞 ( き ) いて 見 ( み ) ると、 驚 ( おどろ ) くまいことか、 彼 ( かれ ) は十七の 歳 ( とし ) 病死 ( びやうし ) したとのことである。自分 ( じぶん ) は 久 ( ひさ ) しぶりで 畫板 ( ゑばん ) と 鉛筆 ( えんぴつ ) を 提 ( ひつさ ) げて 家 ( いへ ) を 出 ( で ) た。 故郷 ( こきやう ) の 風景 ( ふうけい ) は 舊 ( もと ) の 通 ( とほ ) りである、 然 ( しか ) し 自分 ( じぶん ) は 最早 ( もはや ) 以前 ( いぜん ) の 少年 ( せうねん ) ではない、 自分 ( じぶん ) はたゞ 幾歳 ( いくつ ) かの 年 ( とし ) を 増 ( ま ) したばかりでなく、 幸 ( かう ) か 不幸 ( ふかう ) か、 人生 ( じんせい ) の 問題 ( もんだい ) になやまされ、 生死 ( せいし ) の 問題 ( もんだい ) に 深入 ( ふかい ) りし、 等 ( ひと ) しく 自然 ( しぜん ) に 對 ( たい ) しても 以前 ( いぜん ) の 心 ( こゝろ ) には 全 ( まつた ) く 趣 ( おもむき ) を 變 ( か ) へて 居 ( ゐ ) たのである。 言 ( い ) ひ 難 ( がた ) き 暗愁 ( あんしう ) は 暫時 ( しばらく ) も 自分 ( じぶん ) を 安 ( やす ) めない。
時 ( とき ) は 夏 ( なつ ) の 最中 ( もなか ) 自分 ( じぶん ) はたゞ 畫板 ( ゑばん ) を 提 ( ひつさ ) げたといふばかり、 何 ( なに ) を 書 ( か ) いて 見 ( み ) る 氣 ( き ) にもならん、 獨 ( ひと ) りぶら/\と 野末 ( のずゑ ) に 出 ( で ) た。 曾 ( かつ ) て 志村 ( しむら ) と 共 ( とも ) に 能 ( よ ) く 寫生 ( しやせい ) に 出 ( で ) た 野末 ( のずゑ ) に。
闇 ( やみ ) にも 歡 ( よろこ ) びあり、 光 ( ひかり ) にも 悲 ( かなしみ ) あり 麥藁帽 ( むぎわらばう ) の 廂 ( ひさし ) を 傾 ( かたむ ) けて、 彼方 ( かなた ) の 丘 ( をか ) 、 此方 ( こなた ) の 林 ( はやし ) を 望 ( のぞ ) めば、まじ/\と 照 ( て ) る 日 ( ひ ) に 輝 ( かゞや ) いて 眩 ( まば ) ゆきばかりの 景色 ( けしき ) 。 自分 ( じぶん ) は 思 ( おも ) はず 泣 ( な ) いた。
畫の悲み
国木田独歩 (E no kanashimi) | ||