University of Virginia Library

建禮門院右京大夫集

家の集などいひて、歌よむ人こそかきとどむることなれ。これは、ゆめゆめさにはあらず。ただ、あは れにも、悲しくも、なにとなく忘れがたくおぼゆることどもの、そのをりをり、ふと心におぼえしを思ひ出 でらるるままに、我が目ひとつにみんとて書きおくなり。

われならで誰かあはれとみづぐきのあともし末の世に殘るとも

高倉の院の御位のころ、承安四年などいひし年にや、正月一日、中宮の御方へ、内の上、渡らせ給へり し、御ひきなほしの御姿、宮の御もののぐめしたりし御さまなどの、いつと申しながら、目もあやに見えさ せ給ひしを、物のとほりより見まゐらせて、心に思ひしこと、

雲の上にかかる月日のひかりみる身の契さへ嬉しとぞ思ふ

同じ春なりしにや、建春門院、内裏に暫しさぶらはせおはしまししが、この御方へいらせおはしまして、 八條二位殿御まゐりありしも御所にさぶらはせ給ひしを、みくしげ殿の御うしろより、おづおづちと見まゐ らせしかば、女院、むらさきのにほひの御衣、山吹の御うはぎ、櫻の御こうちき、あを色の御唐衣、蝶をい ろいろにおりたりしをめしたりしかば、いふ方なくめでたく、若くもおはします。宮は、つぼめる色の紅梅 の御ぞ、かば櫻の御うはぎ、柳の御こうちき、あか色の御から衣、みな櫻を織りたるめしたりし、にほひあ ひて、今更めづらしくいふ方なく見えさせ給ひしに、大かたの御所の御しつらひ、人人の姿、ことにかがや くばかり見えしをり、心にかくおぼえし。

春の花秋の月夜をおなじをりみる心地する雲のうへかな

頭中將さねむね、つねに中宮の御方へまゐりて、琵琶ひき、歌うたひあそびて、時時、ことひけなどい はれしを、ことざましにこそとのみ申してすぎしに、あるをり、ふみのやうにて、ただかくかきておこせた り。

松風のひびきもそへぬ獨ごとはさのみつれなきねをやつくさむ

返し

よのつねの松風ならばいかばかりあかぬしらべにねもかはさまし

おなじ人の、四月みあれのころ、藤壺にまゐりて物語せしをり、權のすけ維盛のとほりしを、呼びとど めて、このほどに、いづくにてまれ、心とけて遊ばんと思ふを、必ず申さんなどいひ契りて、少將は、とく たたれにしが、少したちのきて見やらるるほどに、たたれたりし、ふたあゐの色こき直衣、指貫、若かへで のきぬ、その頃のひとへ、つねのことなれど、色ことに見えて、けいごの姿、まことに繪物語にいひたてた るやうに美しくみえしを、中將の、あれがやうなるみざまにと、身を思はば、いかに命もをしくて、なかな かよしなからんなどいひて、

うらやましみとみる人のいかばかりなべてあふひを心かくらむ

ただいまの御心のうちも、さぞあらんかしといはるれば、もののはしにかきて、さしいづ。

なかなかに花の姿はよそにみてあふひとまではかけじとぞ思ふ

といひたれば、おぼしめしはなつしも、深きかたにて、心ぎよくやあると笑はれしも、さることと、を かしくぞありし。

故建春門院の御爲に、御手づから御經かかせおはしまして、内裏にて御八講おこなはれし五卷の日、女 院たち、后の宮宮、三條女御殿白河殿など、みな御ほう物たてまつらせ給ひし、そなたに縁ある殿上人、も ちてまゐりし氣色、おもしろくも、あはれにもありしに、中宮の御ほう物は、二枝を、宮のすけ、權亮など、 もたれたりしとおぼゆ。故女院、いらせ給ひておはしましし御方をとりはらひて、だうぢやうにしつらはれ たりしもあはれにて、

九重にみのりの花の匂ふけふや消えにし露もひかりそふらむ

近衞殿、二位中將と申すころ、隆房、重衡、維盛、資盛などの殿上人なりしを、引き具せさせ給ひて、 白河殿の女房たちさそひて、所所の花御覽じけるとて、またの日、花の枝のなべてならぬを、花みける人人 のなかよりとて、中宮の御方へまゐらせられたりしかば、

さそはれぬうさも忘れて一枝の花にぞめづる雲のうへ人

返し

隆房の少將
雲のうへに色そへよとて一枝を折りつる花のかひもあるかな
資盛の少將
もろともに尋ねてもみよ一枝の花に心のげにもうつらば

いつの年にか、月のあかかりし夜、うへの、御笛ふかせおはしまししが、殊に面白くきこえしを、めで まゐらすれば、かたくなはしきほどなると、この御かたにわたらせおはしましてのちに語りまゐらせさせ給 ひたりけるを、それは空ごとを申すぞとおほせごとあるとてありしかば、

さもこそは數ならざらめ一筋に心をさへもなきになすかな

とつぶやくを、大納言の君と申すは、三條内大臣の御むすめとぞ聞えし。その人の、かく申すと申させ 給へば、笑はせおはしまして、御扇のはしに書きつけさせ給ひたりし、

笛竹のうきねをこそは思ひしれ人の心をなきにやはなす

なにとなくよみし歌の中に、春たつ日

いつしかと氷とけゆくみかは水ゆく末とほきけさの初春
春きぬと唯うぐひすにつげつらむ竹の古巣は春も知らじを

鶯有慶音

長閑なる春にあふ夜のうれしさは竹のうちなる聲の色にも

對月待花

はや匂へ心をわけて夜もすがら月をみるにも花をしぞ思ふ

往事戀

あはれしりてたれか尋ねむつれもなき人を戀わび岩となるとも

仙家卯花

露深き山路の菊を友として卯花さへや千代も咲くべき

片思をはづる戀

おきつ波いはうつ磯のあはびがひ拾ひわびぬる名こそをしけれ

くもる夜の月

曇る夜をながめあかして今宵こそ千里にさゆる月をながむれ

夕べにすぐる野の花

心をば尾花が袖にとどめおきて駒にまかする野べの夕ぐれ

互に常に聞く戀

ありと聞かれ我も聞くしもつらきかなただ一筋になきになしなで

谷のほとりの鹿

谷ふかみ杉のこずゑをふく風に秋のをじかぞ聲かはすなる

ねざめの擣衣

うつおとに寢覺の袖ぞぬれまさる衣は何のゆゑとしらねど

名をかへて逢ふ戀

厭はれしうき名をさらに改めてあひみるしもぞつらさそひける

野亭夕べの夏草

ゆふされば夏野の草の片なびきすずみがてらにやすむ旅人

連夜の水鷄

荒れはててさすこともなき槇の戸を何と夜かれずたたく水鷄ぞ

われに契り人に契る戀

たのめおきし今宵はいかに待たれまし所たがへのふみ見ざりせば

稻荷の社の歌合に社頭のあしたの鶯

まろねして歸るあしたのしめのうちに心をとむる鶯のこゑ

松間の夕べの花

入日さす峰の櫻やさきぬらむ松のたえ間にたえぬ白雲

日中の戀

契りおきしほどは近くやなりぬらむしをれにけりな朝顏の花

夜ふかき春雨

ふくる夜の寢覺さびしき袖の上を音にもぬらす春の雨かな

遠き澤の春駒

はるかなる野澤にあるるはなれ駒かへさや道のほども知るらむ

くらき空の歸雁

花をこそ思ひもすてめ有明の月をもまたでかへる雁がね

曉のよぶ子どり

夜をのこす寢覺にたれをよぶ子鳥人もこたへぬしののめの空

山田のなはしろ

山里は門田の小田の苗代にやがてかけひの水まかせつつ

ふるき池の杜若

あせにけるすがたの池の杜若いく昔をかへだてきぬらむ

名所のすみれ

おぼつかなならびの岡は名のみして獨りすみれの花ぞ露けき

所所のやまぶき

我が宿のやへ山吹の夕ばえに井手のわたりもみる心地して

海のみちの春のくれ

いかりおろす波間にしづむ入日こそくれ行く春のすがたなりけれ

瀧の邊の殘りの雪

氷こそ春をしりけれたきつせのあたりの雪はなほぞのこれる

さわらび

紫の塵ばかりしておのづからところどころにもゆるさわらび

船のとまりの花

高砂の尾上の春をながむれば花こそ船のとまりなりけれ
友船もこぎはなれ行く聲すなり霞ふきとけよごのうら風

花落衣

さそひつる風は梢をすぎぬなり花は袂にちりかかりつつ

老人を戀ふ

つくもがみこひぬ人にも古はおも影にさへみえけるものを

雨中草花

すぎてゆく人はつらしな花すすきまねく眞袖に雨はふりきて

月依所明

名にたかき姨捨山のかひなれや月の光のことに見ゆらむ

關をへだてたる戀

戀ひわびてかく玉章の文字の關いつか越ゆべき契なるらむ

山家初雪

春の花秋の月にもおとらぬはみ山の里の雪のあけぼの

さいばらによする戀

みし人はかれがれになるあづまやに茂りのみます忘れ草かな

山家花を待つ

山里の花おそげなる梢よりまたぬ嵐のおとぞものうき

中宮の御方にさぶらふ人を、きんひらの中將のせちにいひしころ、物をのみ思ふよしを返す返すうれへ られしに、秋のはじめつかはしし。

秋きてはいとどいかにかしぐるらむ色深げなる人の言の葉

返し

時わかぬ袖の時雨に秋そひていかばかりなる色とかは知る

小松のおとどの菊合をし給ひしに、人にかはりて、

移しううる宿のあるじもこの花もともに老いせぬ秋ぞかさねむ

同じおとどの、大臣の大將にてよろこび申給ひしに、弟の右大將御伴し給へりし、いきほひゆゆしく見 えしかば、

いとどしく咲きそふ花の梢かな三笠の山に枝をつらねて

いづれの年やらむ、五節のほど、内裏に近き火のことありて、すでにあぶなかりしかば、南殿に腰輿ま うけて、大將をはじめ、衞府の司のけしきども、心心におもしろくみえしに、大方の世のさわぎも外にはか かることあらじと覺えしも、忘れがたし。宮は、御手車にて、行啓あるべしとぞきこえし。小松のおとど、 大將にて、直衣に矢おひて、中宮の御方へ參り給へりしことがらなど、いみじくおぼえき。

雲の上はもゆる煙に立ちさわぐ人の氣色もめにとまるかな

やしまのおとどとかや、このごろ人はきこゆめる。その人の中納言ときこえしころ、五節の櫛こひきこ えたりしを、たぶとて、紅の薄樣に芦わけ小舟をむすびたる櫛さしたるが、なのめならぬに、かきて押しつ けられたりし。

芦分のさはる小舟にくれなゐの深き心をよするとを知れ

返し、白薄樣にて、

芦分けて心よせける小舟ともくれなゐ深き色にてぞ知る

なにとなくて、見聞くことに心うちやりてすぐしつつ、なべての人のやうにはあらじと思ひしを、朝ゆ ふ、女どちのやうにまじりゐてみかはす人も數多ありし中に、とりわきとかくいひしを、あるまじのことや と人の事を見聞きても思ひしかども、契りとかやはのがれがたくてや、思ひの外に物思はしきことそひて、 さまざま思ひみだれしころ、さとにて、はるかに西の方をながめやる、梢は、夕日の色しづみて、あはれな るに、またかきくらししぐるるを見るにも

夕日うつる梢の色のしぐるるに心もやがてかきくらすかな

秋の暮、おましのあたりに鳴きしきりぎりすの、聲なくなりて、外にはきこゆるに

とこなるる枕の下をふり捨てて秋をばしたふきりぎりすかな

つねよりも思ふことあるころ、尾花が袖の露けきをながめいだして

露のゐる尾花が袖をながむればたぐふ涙ぞやがてこぼるる
物思へなげけとなれるながめかなたのめぬ秋の夕暮の空

秋の月あかき夜

名にたかき二夜の外も秋はただいつもみがける月の色かな

橘を三つ、人の見よとてつかはしし返しに

心ありてみつとはなしに橘の匂をあやな袖にしめつる

かけはなれいへば、あながちにつらき限りにしもあらねど、なかなか目に近きは、またくやしくも恨め しくも、さまざま思ふこと多くて、年もかへりて、いつしかの春のけしきもうらやましく、鶯のおとづるる にも、

物思へば心の春も知らぬ身になに鶯のつげにきつらむ
とにかくに心をさらず思ふかなさてもと思へばさらにこそ思へ

うせにしせうとのために、阿彌陀經かくにも、

まよふべき闇路もやがてはれぬらむ書きおく文字の法の光に

内の御方の女房、宮の御方の女房、車あまたにて、近習の上達部、殿上人ぐして、花見あはれしに、な やむことありてまじらざりしを、花の枝に、紅の薄樣にかきてつけて、小侍從のとぞ。

さそはれぬ心のほどはつらけれど獨りみるべき花の色かは

風の氣ありしによりてなれば、返しに、かく聞えし。

風を厭ふ花のあたりはいかがとてよそながらこそ思ひやりつれ

花を見て

數ならぬうき身も人におとらぬは花みる春の心なりけり

大炊の御門の齋院、いまだ本院におはしまししころ、かの宮の中將の君のもとより、御垣のうちの花と て、折りてたびて、

しめのうちは身をもくだかず櫻花をしむ心を神にまかせて、

返し

しめの外も花としいはむ花はみな神にまかせてちらさずもがな

この中將の君に、清經の中將の物いふと聞きしを、ほどなく、同じ宮のうちなる人に思ひうつりぬと聞 きしかば、文のついでに

袖の露やいかがこぼるる芦垣を吹きわたるなる風のけしきに

返し

吹きわたる風につけても袖の露みだれそめにしことぞくやしき

とかく物おもはせし人の、殿上人なりしころ、父おとどの御ともに住吉にまうでて、歸りて、洲濱のか たの結びたるに、貝どもを色色にいれて、うへに、忘草をおきて、それに、花田の薄樣にかきて、結びつけ られたりし。

うらみてもかひしなければ住の江におふてふ草を尋ねてぞみる

返し、秋のことなりしかば、紅葉の薄樣に

住の江の草をば人の心にて我ぞかひなき身をうらみぬる

太皇太后宮より、おもしろき御繪どもを、中宮の御方へ參らせさせ給へりしなかに、昔父のもとに人の 手習して、言葉かかせし繪のまじりたる、いとあはれにて、

めぐりきて見るに袂をぬらすかな繪島にとめし水莖の跡

四月ばかり、したしき人に具して、山里にありしころ、時鳥のつねに鳴きしに、

都人まつらむものを時鳥なきふるしつるみ山べの里

花橘の、雨はるる風に匂ひしかば、

橘の花こそいとどかをるなれ風まぜにふる雨の夕暮

五月五日、宮の權太夫時忠のもとより、藥玉まきたる箱のふたに、菖蒲の薄樣しきて、同じ薄樣にかき て、なべてならず長き根を參らせて、

君が代にひきくらぶれば菖蒲草ながしてふ根もあかすぞありける

返し、花橘の薄樣にかく。

こころざし深くぞ見ゆる菖蒲草ながきためしにひける根なれば

歎くことありてこもりゐたりしころ、菖蒲の根おこせたる人に、

菖蒲ふく月日も思ひわかぬまに今日をいつかと君ぞ知らする

成親の大納言のむすめ、宮の權のすけのうへなりし人は、しるゆかりありしもとより、藥玉おこすとて

君に思ひ深きえにこそひきつれどあやめの草の根こそ淺けれ

返し

ひく人のなさけも深きえに生ふるあやめぞ袖にかけてかひある

硯のついでに手ならひに、

あはれなり身のうきにのみ根をとめて袂にかかる菖蒲と思へば

秋の末つ方、建春門院いらせおはしまして、久しくおなじ御所なり九月つくる日、ある還御なるべきに、 女官して、蘆手の下繪したるだんしに、たてぶみ、紅の薄樣にて、

歸り行く秋にさきだつなごりこそをしむ心のかぎりなりけれ

返し、うへ白き菊の薄樣にかきて、誰としらねば、女房の中へ、知盛の中將まゐられしにことづく。ま ことに、世のけしきなごりをしげにうちしぐれて、物あはれなれど

立ちかへる名殘をなにかをしむらむ千年の秋ののどかなる世に

三位中將維盛のうへのもとより、紅葉につけて、青紅葉の薄樣に、

君ゆゑにをしき軒端のもみぢをもをしからでこそかくたをりつれ

返し、くれなゐの薄樣に、

我ゆゑに君が折りける紅葉こそなべての色に色そへてみれ

忠度の朝臣、西山の紅葉見たるとて、なべてならぬ枝を折らせて、結びつけたる。

君に思ひ深きみ山のもみぢ葉を嵐のひまに折りぞ知らする

返し

おぼつかな折りこそしらね誰に思ひ深きみ山のもみぢなるらむ

みくしげ殿の、さとに久しくおはせしころ、弁の殿の、その御里へまゐりて歸りまゐられたりしに、な どかこのたよりにもおとづれはせぬとのたまひしかば、

なほざりに思ひしもせぬ言の葉を風の便にいかがちらさむ

春のころ、宮の、西八條に出でさせ給へりしほど、大かたにまゐる人はさることにて、御はらから、御 甥たちなど、みな番におりて、二三人は絶えずさぶらはれしに、花の盛に、月あかかりし夜、あたら夜をた だにやあかさむとて、權の佐朗詠し笛吹き、經正琵琶ひきみすの内にも琴かきあはせなど、面白くあそびし ほどに、内より、隆房の少將御使にて、文もちて參りたりしを、やがてよびて、さまざまのことどもつくし て、のちには、昔今の物語などして、明方までながめしに、花はちりちらず同じ匂ひにみわたされ、月も一 つに霞みあひつつ、やうやうしらむ山ぎは、いつといひながら、いふ方なくおもしろかりしを、御返りごと 給はりて、隆房のいでしに、ただにやはとて、扇のはしを折りて、書きてとらす。

かくまでの情つくさで大方の花と月とをただ見ましだに

少將、かたはらいたきまで詠じずんじて、硯こひて、この座なる人人、なにとも皆かけとて、我が扇に かく、

かたがたに忘らるまじき今宵をば誰も心にとどめてを思へ

權の佐は、歌もえよまぬものはいかに、といはれしを、なほせめられて、

心とむな思ひ出でそといはむだに今宵をいかがやすく忘れむ
經正の朝臣

嬉しくも今夜の友の數に入りてしのばれ忍ぶつまとなるべき

と申ししを、われしも、わきて忍ばるべきことと心やりたるなど、この人人の笑はれしかば、いつかさ は申したると陳ぜしも、をかしかりき。

また、月の前の戀、月の前の祝といふことを人のよませしに

つれもなき人ぞ情もしらせけるぬれずは袖に月を見ましや
千代の秋すむべき空の月もなほこよひの影やためしなるらむ

ゆかりある人の、風のけおこりたるをとぶらひたりし返しに、

情おくことの葉ごとに身にしみて涙の露ぞいとどこぼるる

服になりたる人とぶらふとて、

あはれとも思ひ知らなむ君ゆゑによそのなげきの露もふかきを

小松のおとどうせ給ひてのち、北方の御もとへ、十月ばかりにきこゆる。

かきくらす夜の雨にも色かはる袖の時雨を思ひこそやれ
とまるらむ古き枕に塵はゐて拂はぬ床を思ひこそやれ

返し

音づるる時雨は袖にあらそひてなくなくあかす夜半ぞ悲しき
みがきこし玉の夜床にちりつみて古き枕をみるぞ悲しき

成親の大納言、とほき所へくだられにしのち、院の京極殿の御もとへ、

いかばかり枕の下の氷るらむなべての袖もさゆるこのごろ
旅衣たちわかれにし跡の袖にもろき涙の露やひまなき

返し、京極殿

床のうへも袖も涙のつららゐてあかす思ひのやる方もなし
日にそへてあれ行く宿を思ひやれ人をしのぶの露にやつれて

安元といひしはじめの年の冬、臨時祭に、宮のうへの御つぼねへのぼらせ給ふ御ともに、さはることあ りてえ參らで、さしも心にしむかへりだちの御神樂も、え見ざりし、口をしくて、御硯の筥に、薄樣のはし にかきつけておく。

朝倉やかへすがへすぞ恨みつるかざしの花のをりしらぬ身を

里なりし女房の、藤壺の御前の紅葉ゆかしきよし申したりしを、ちり過ぎにしかば、結びたる紅葉をつ かはす枝にかきてつく。

吹く風も枝にのどけき御代なればちらぬもみぢの色をこそみれ

宮の、六波羅殿にしばし出でさせ給ひて、いらせ給ひし行啓のいだし車に參りたりし人の、その夜の月 おもしろかりしを、登花殿の方などにて、人人具して見て、その曉にいでて、つとめて、よべの月に心はさ ながらとまりて、と申したりしかば、

雲の上をいそぎ出でにし月なれば外に心はすむと知りにき

兼光の中納言の、職事なりしころ、むくを六つつみておこせたるにいかがいふべきと、播磨の内侍のい はれしかば、

六の道をいとふ心のむくいには佛の國にゆかざらめやは

雪の深くつもりたりしあした、さとにて、荒れたる庭を見いだして今日こむ人をとながめつつ、薄柳の 衣、紅梅のうすぎぬなど着てゐたりしに、枯野の織物の狩衣、すはうのきぬ、紫の織 物の指貫きてただひきあけて入りきたりしおもかげ、我ありさまには似ず、いとなまめかしく見えしなど、 つねに忘れがたくおぼえて、年月おほくつもりぬれど、心には近きも、かへすがへすむづかし。

年月のつもりはててもそのをりの雪のあしたはなほぞ戀しき

山里なるところにありしをり、えんなる有明におきいでて、前近きすいがいに咲きたりし朝顏に、ただ 時のまの盛こそあはれなれとて見しことも、ただ今の心地するを、人をも、花はげにさこそ思ひけめ。なべ てはかなきためしにだにあらざりけるをと、思ひつづけらるることのみさまざまなり、

身の上をげに知らでこそ朝顏の花をほどなき物といひけめ
有明の月に朝顏みしをりも忘れがたきをいかで忘れむ

せうとなりし法師の、ことに頼みたりしが、山深くおこなひて、都へも出でざりしころ、雪の降りしに、

いかばかり山路の雪のふかからむ都の空もかきくらすころ

冬の夜、月あかきに、賀茂に詣でて、

神垣や松のあらしも音さえて霜にしもおく冬の夜の月

人の心の思ふやうにもなかりしかば、すべて、しられずしらぬ昔になしはててあらむなど思ひしころ、

つねよりも面影にたつゆふべかな今やかぎりと思ひなるにも
よしさらばさてやまばやと思ふより心よわさのまたまさるかな

同じことをとかく思ひて、月のあかき夜、はしつ方にながめいだしたるに、むら雲はるるにやと見ゆる にも、

みるままに雲は晴れ行く月影も心にかかる人ゆゑになほ

いと久しくおとづれざりしころ、夜ふかくねざめて、とかく物を思ふに、おぼえず涙やこぼれにけむ、 つとめて見れば、花田の薄樣の枕ことのほかに、かへりたれば、

移り香もおつる涙にすすがれて形見にすべき色だにもなし

心ならず宮に參らずなりにし頃、れいの月をながめてあかすに、見てもあかざりし御面影の、あさまし く、かくても經にけりと、かきくらし戀ひしく思ひ參らせて、

戀ひわぶる心をやみにくらさせて秋のみやまに月はすむらむ

そのころ、塵つもりたる琴を、ひかで多くの月日へにけりとみるにもあはれにて、宮にて、つねに近く さぶらふ人人の、笛にあはせなどあそびしこと、いみじうこひし。

をりをりのその笛竹もおとたえてすさびしことの行方しられず

宮の、御産など、めでたく聞き參らせしにも、ただ涙を友にてすぐるに、皇子うまれさせおはしまして、 春宮だちなどきこえしにも、思ひつづけられし。

雲のよそに聞くぞかなしき昔ならば立ちまじらまし春のみやこを

隣に、庭火の笛の音するにも、年年、内侍所の御神樂に、維盛の少將、やすみちの中將などのおもしろ かりし音どもまづ思ひ出でらる

聞くからにいとど昔の戀ひしくて庭火の笛のねにぞなきぬる

おほやけの御かしこまりにて、遠く行く人、そこそこによべはとまるなど聞きしかば、そのゆかりある 人のもとへ、

ふしなれぬ野路のしの原いかならむ思ひやるだに露けきものを

しりたる人の、さまかへたるが、こむといひておともせぬに、

たのめつつこぬ僞の積るかなまことの道に入りし人さへ

すびつのはたに、ごきに水の入りたるがありけるに、月のさし入りてうつりたる、わりなくて、

めづらしやつきに月こそ宿りぬれ雲井の雲よ立ちなかくしそ

なにごともへだてなくと申し契りたりし人のもとへ、思ひの外に身の思ひそひてのち、さすがにかくこ そともまたきこえにくきを、いかに聞き給ふらむとおぼえしかば、

夏衣ひとへに頼むかひもなくへだてけりとは思はざらなむ
さきの世の契にまくるならひをも君はさりとも思ひしるらむ
はじめつ方は、なべてあることともおぼえず、いみじう物のつつましくて、朝夕みか はすかたへの人々も、まして男たちも、知られなばいかにとのみ悲しくおぼえしかば、手習にせられし。
ちらすなよちらさばいかにつらからむしのぶの里にしのぶことの葉
こひ路には迷ひいらじと思ひしをうき契にもひかれぬるかな
いくよしもあらじと思ふ方にのみ慰むれどもなほぞ悲しき

そのかみ、思もかけぬところにて、世人よりも色このむときく人、よしあるさまの物語しつつ、夜もふ けぬるに、近く人のあるけはひのしるかりけるにや、ころは卯月の十日なりけるに、月の光もほのぼのにて、 けしきもみえじなどいひしに、人につたへて、

思ひわくかたもなぎさによる波のいとかく袖をぬらすべしやは

と申したりし返事、

思ひわかで何と渚の浪ならばぬるらむ袖のゆゑもあらじを
もしほくむあまの袖にぞ沖つ浪心をよせてくだくとは見し

また返し

君にのみわきて心のよる波はあまの磯屋に立ちもとまらず

すずろぐさなりしをつてにて、まことしく申しわたりしかど、世のつねの有さまは、すべてあらじとの み思ひしかば、心づよくてすぎしを、この思ひのほかなることを、早いとよくききにけり。さて後そのよし ほのめかして、

うらやましいかなる風の情にかたくもの煙うちなびきけむ

返し

消えぬべき煙の末はうら風に靡きもせずてただよふものを

また同じことをいひて、

あはれのみ深くかくべき我をおきて誰に心をかはすなるらむ

返し

人わかずあはれをかはすあだ人に情しりてもみえじとぞ思ふ

祭の日、おなじ人、

行末を神にかけてもいのるかなあふひてふ名をあらましにして

返し

諸かづらその名をかけていのるとも神の心にうけじとぞおもふ

かやうにて、何ごともさてあらで、かへすがへすくやしきこと思ひしころ、

こえぬれは悔しかりける逢坂をなにゆゑにかはふみはじめけむ

車おこせつつ、人のもとへゆきなどせしに、ぬしつよく定まるべしなど聞きしころ、なれぬる枕に、硯 の見えしを引きよせて、かきつくる。

たれが香に思ひうつると忘るなよ夜な夜な馴れし枕ばかりは

かへりてのち、見つけたりけるとて、やがてあれより、

心にも袖にもあまるうつり香を枕にのみや契りおくべき

同じころ、夜床にて郭公を聞きたりしに、獨ねざめに、まだかはらぬ聲にてすぎしを、そのつとめて、 ふみのありし返事のついでに、

諸共にことかたらひし曙にかはらざりつる時鳥かな

返しに、我しも思ひいでつるをなど、さしもあらじとおぼゆることどもをいひて、

思ひ出でてねざめし床のあはれをも行きて告げける郭公かな

またしばし音せで、文のこまごまとありし返り言に、何とやらん、いたく心のみだれて、ただみえし橘 を、一枝つつみてやりたりしにえこそ心えねとて、

昔思ふ匂ひか何ぞ小車にいれしたぐひの身にもあらぬに

返し

わびつつもかさねし袖の移り香に思ひよそへて折りし橘

たえま久しくて、思ひ出でたるに、ただやあらましとかへすがへす思ひしかど、心よわくて行きたりし に、車よりおるるを見て、世にはありけるかと申ししを聞く心地に、ふとおぼえし、

ありけりといふにつらさのまさるかななきになしつつすぐしつるほど

夢にいつもいつも見えしを、心の通ふにはあらじを、あやしうこそと申したる返事に、

通ひける心のほどは夜を重ね見ゆらむ夢に思ひあはせよ

返し

げにもその心のほどや見えつらむ夢にもつらきけしきなりつる

人のむすめをいふ人に、五月すぎてと契りけるを、心いられして、忍びていりにけりと聞く人のもとへ、 人にかはりて、

みな月をまてとちぎりしわか草を結びそめぬと聞くは誠か

せんなきことをのみ思ふころ、いかでかかからずもがなと思へど、かひなきも心うくて、

思ひかへす道を知らばや戀の山は山しげ山わけいりし身の

いづ方にか、經の聲ほのかに聞えたるも、いたく世の中しみじみともの悲しくおぼえて、

まよひ入りし戀路くやしき折にしもすすめがほなる法の聲かな

父おとどの御ともに、熊野へ參りたると聞きしを、歸りてもしばし音なければ、

忘るとはきくともいかが三熊野の浦の濱ゆふうらみかさねむ

と思ふも、いと人わろし。ひととせ、難波のかたより歸りては、やがて音づれたりしものをなどおぼえ て、

沖つ波かへれば音はせしものをいかなる袖のうらによるらむ

常に向ひたる方は、常磐木どもこぐらく、杜のやうにて、空もあきらかにみえぬも、慰む方なし。

ながむべき空もさだかに見えぬまで繁きなげきも悲しかりけり

東は長樂寺の山の上みやられたるに、したしかりし人、とかくせし山の峰、そとばの見ゆるも哀なるに、 ながめいだせば、やがてかきくらして、山も見えず、雲のおほひたるも、いたく物がなし。

ながめいづるそなたの山の梢さへただともすればかき曇るらむ

雲の上もかけはなれ、そののちもなほときどきおとづれし人をも、頼むとしはなけれども、さすがに武 藏あぶみとかやにてすぐるに、なかなかあぢきなきことのみまされば、あらぬ世の心地して、こころみんと、 ほかへまかるに、反故どもとりしたたむるに、いかならむ世までも絶ゆまじきよし、かへすがへすいひたる 言の葉のはしにかきつけし、

流れてとたのめしかども水莖のかきたえぬべき跡の悲しさ

宮にさぶらふ人の、常にいひかはすが、さてもその人は、この頃はいかにといひたる返事のついでに、

雲の上をよそになりにしうき身には吹きかふ風の音もきこえず

治承などのころなりしにや、豐のあかりのころ、上西門院女房、物見に車二つばかりにて參られたりし、 とりどりに見えしなかに、小宰相殿といひし人の、びん額のかかりまで、ことに目とまりしを、年ごろ心に かけていひける人の、通盛の朝臣にとられて、歎くと聞きし、げに思ふもことわりとおぼえしかば、その人 のもとへ、

さこそげに君なげくらめ心そめし山の紅葉を人に折られて

返し

何かげに人の折りけるもみぢ葉を心うつして思ひそめけむ

など申しし折は、ただあだこととこそ思ひしを、それゆゑ底の藻屑とまでなりにし、あはれのためしな さ。よそにて歎きし人にをられなましかば、さはあらざらまし。かへすがへすためしなかりける契の深さも、 はかなさも、いはむ方なし。大方の身のやうも、つく方なきにそへて、心のうちもいつとなく物のみ悲しく て眺めし頃、秋にもややなりぬ。風の音はさらぬだに身にしむに、譬へん方なく眺められて、星合の空、み るももののみ哀なり。

つくづくとなげきすぐして星合の空をかはらずまたながめつる

西山なるところに住みし頃、遙かなるほど、事しげき身の暇なさにことづけて、やや久しく音づれず、 かれたる花のありしに、ふと、

とはれぬはいくかぞとだに數へぬに花の姿ぞしらせがほなる

この花は、十日あまりのほどにみえしに、折りてもたりし枝を、簾にさして出でにしなりけり。

あはれにもつらくも物ぞ思はるるのがれざりける世世の契に

前なる垣ほに、葛はひかかり、小笹うちなびくに、

山里は玉まく葛のうらみえて小篠が原にあきのはつ風

月の夜、れいの思ひ出でずもなくて、

おもかげを心にこめてながむれば忍びがたくもすめる月かな

冬になりて、枯野の荻に時雨はしたなくすぎて、ぬれ色のすさまじきに、春よりさきに下めぐみたる若 葉の、ろくしやう色なるが、ときどき見えたるに、露は、秋思ひ出でられて、おきわたしたり。

霜さゆる枯野の荻の露の色秋のなごりをともに忍ぶや

なにとなく、ねやのさむしろうち拂ひつつ、思ふことのみあれば、

夕さればあらましごとの面影に枕のちりをうち拂ひつつ
あくがるる心は人にそひぬらむ身のうさのみぞやる方もなき

宮にさぶらひし雅頼の中納言のむすめ帥殿といひしが、物いひをかしく、にくからぬ心さまして、なに ごとも、申しかはしなどせしが、秋のころ山里にて、ゆあむるとて、久しくこもりゐられたりしに、ことの ついでに申しつかはす。

ましばふくねやの板間にもる月を霜とやはらふ秋の山里
めづらしくわが思ひやる鹿の音をあくまできくや秋の山里
いとどしく露やおきそふかきくらし雨ふるころの秋の山里
うらやましほたきりくべていかばかりみゆわかすらむ秋の山里
椎ひろふ賤も道にや迷ふらむ霧たちこむる秋の山里
くりもゑみをかしかるらむと思ふにもいでやゆかしや秋の山里
心ざしならばさだめて我がためにあるらんものを秋の山里
このごろはかうじ橘なりまじり木の葉もみづや秋の山里
鶉ふす門田のなるこ引きなれて歸らまうきや秋の山里
歸りきてそのみるばかり語らなむゆかしかりつる秋の山里

返しも、たはぶれごとのやうなりしを、ほど經て忘れぬ。

冬ふかきころ、わづかに霜がれの菊の中に、あたらしく咲きたる花を折りて、ゆかりある人の司召に歎 くことありしが、いひおこせたりし。

霜がれの下枝にまじる菊みればわが行末もたのもしきかな

と申したる返事に、

花といへば移ろふ色もあるときく君が匂ひは久しかるべし

上臈だちて近くみし人の、とりわきなかよきやうなりしに、わが物申す人のこのかみなりしは、御ゆか りの上に、やがて宮人にて、ことに常にさぶらひし人の、しのびて心かはして、かたみに思はぬにしもあら じとみえしかど、世のならひにて、女かたは物おもはしげなりしを、まほならねど心えたりしかば、ちと、 けしきしらせまほしくて、男のもとへつかはす。

よそにても契あはれにみる人をつらきめみせばいかにうからむ
立ちかへる名殘こそとはいはずとも枕もいかに君を待つらむ
おきて行く人のなごりやをしあけの月影しろし道芝の露

返りごと、あいなのさかしらや、さるはかやうのことも、つきなき身には、ことばもなきをとて、

我がおもひ人の心をおしはかりなにとさまざま君なげくらむ
枕にも人にも心思ひつけてなごりやなにと君ぞいひなす
あけがたの月を袂にやどしつつかへさの袖はわれぞ露けき

宮のまうのぼらせ給ふ御供して歸りたる人人、物がたりせしほどに火も消えぬれど、すびつの埋火ばか りかきおこして、同じ心なるどち四人ばかり、さまざまの心のうちども、かたへは殘さずなどいひしかど、 思ひ思ひに下むせぶことは、まほにもいひやらぬしも、我が心にも知られつつ、あはれにぞおぼえし。

思ふどちよはの埋火かきおこし闇のうつつにまとゐをぞする
誰もその心の底は數數にいひいでねどもしるくぞありける

などおもひつづくるほどに、宮のすけの、内の御方の番にさぶらひけるとて入りきて、例のあだごとも、 まことしきことも、さまざまをかしきやうにいひて、我も人もなのめならず笑ひつつ、はては、恐ろしき物 がたりどもをしておどされしかば、まめやかにみな、汗になりつつ、今は聞かじ、のちにといひしかど、な ほなほいはれしかば、はては衣をひきかづきて、きかじとて、ねてのち心に思ひしこと、

あだごとにただいふ人の物語それだに心まどひぬるかな
鬼をげに見ぬだにいたく恐ろしき後の世をこそ思ひしりぬれ

この人もよしなしごとをいひて、草のゆかりをなにか思ひはなつ、ただ同じことと思へと、つねにいは れしかば、

ぬれそめし袖だにあるを同じ野の露をばさのみいかがわくべき

とぞ思ひしを、大方には、にくからずいひかはして、いつまでもかやうにだにあらむといはれしかば、

忘れじの契たがはぬ世なりせば頼みやせまし君が一こと

いへば同じことをのみかへすがへす思ひて、あはれあはれわが心に物を忘ればやと、常は思ふがかひな ければ、

さることのありしかとだに思はじと思ひかけてもけたれざりけり

なにとなきことを、我も人もいひし折、思はぬ物のいひはづしをして、それをとか くいはれしも、後に思へばあはれに悲しく、

なにとなきことの葉ごとに耳とめて恨みしことも忘られぬかな

母なりし人の、さまかへてうせにしが、ことに心ざし深くと、人にもいひおきなどせられし、五月のは じめなくなりにしのちは、よろづ思ふばかりなくて、あかしくらししに、四十九日にもなりて、着られたり しきぬ、ころもけさなどとりいでて、こもり僧にとらせ、あせう上人にたてまつりなどせしに、きぬのしは までも、着られたりしをりにかはらで面影、いとどすすむ悲しさに、

きなれける衣の袖のをりめまでただその人をみる心地して

思ひなしもいとど心ぼそくて、かなしきことのみまさりて、

あはれてふ人もなき世に殘り居ていかになるべきわが身なるらむ

高倉院かくれさせ給ひぬと聞きしころ、見馴れまゐらせし代のことかすかずおぼえて、およばぬ御こと ながらも、限りなく悲しく、なにごともげに末の世にあまりたる御ことやなど、人の申すにも、

雲の上に行末とほく見し月のひかり消えぬと聞くぞ悲しき

中宮の御心のうち、おしはかりまゐらせて、いかばかりと悲し。

かげならべ照る日の光かくれつつひとりや月のかきくらすらむ

壽永元暦のころの世のさわぎは、夢とも、まぼろしとも、あはれとも、なにとも、すべてすべていふべ ききはにもなかりしかば、よろづいかなりしとだに思ひわかれず、なかなか思ひもいでじとのみぞいままで もおぼゆる。見し人人の都別ると聞きし秋ざまのこと、とかくいひても思ひても、心も詞もおよばれず。ま ことのきはは、われも人も、かねていつと知る人なかりしかば、ただいはむ方なき夢とのみぞ、近くも遠く も、見聞く人皆まよはれし。大方の世さわがしくて、心ぼそきやうにきこえたりしころなどは、藏人頭にて、 殊に心のひまなかりしうへ、あたりなりし人も、あいなきことなりなどいふこともありて、更にまた、あり しよりけにしのびなどして、おのづから、とかくためらひてぞ物いひなどせし折折も、ただ大方のことぐさ にも、かかる世のさわぎになりぬれば、はかなき數に唯今にてもならむことは、うたがひなきことなり。さ らばさすがに、つゆばかりの哀はかけてんや。たとひ何と思はずとも、かやうにきこえ馴れても、年月とい ふばかりにしもなりぬるなさけに、道の光をかならず思ひやれ、もし命たとひ今しばしなどありとも、すべ て今は心を昔の身とは思はじと、思ひしたためてなむある。そのゆゑは、物をあはれとも、何のなごり、そ の人のことなど思ひたちなば思ふかぎりもおよぶまじ、心よわさも、いかなるべしとも身ながらおぼえねば、 なにごともおもひ捨てて、人のもとへ、さてもなどいひて文やることなども、いづこの浦よりもせじと思ひ とりたるを、なほざりにてきこえぬなどなおぼしそ、よろづただいまより、身をかへたると思ひなりぬるを、 なほともすればもとの心になりぬべきなん、いとくちをしき、といひしことの、げにさることと聞きしも何 とかいはれむ。ただ涙の外は言の葉もなかりしを、つひに秋のはじめつ方、夢のうちの夢を聞きし心地、何 にかはたとへむ。さすが心あるかぎり、この哀をいひ思はぬ人はなけれど、かつ見る人人も、わが心の友は 誰かあらむとおぼえしかば、人にもいはれず、つくづくと思ひつづけて、胸にもあまれば、佛に向ひ奉りて、 泣きくらすより外のことなし。されど、げに命は限あるのみにあらず、さまかふることだにも、身を思ふや うに心に任せで、一人走り出など、はたえせぬままに、さてあらるるが、かへすがへす心うくて、

又ためしたぐひも知らぬ憂きことを見てもさてある身ぞうとましき

いはむ方なき心地にて秋ふかく成り行くけしきに、まして堪へてあるべき心地もせず、月のあかき夜、 空のけしき、雲のたたずまひ、風のおと、ことに悲しきをながめつつ、行方もなき旅の空、いかなる心地な らむとのみ、かきくらさる。

いづこにていかなることを思ひつつ今宵の月に袖しぼるらむ

夜のあけ日のくれ、なにごとを見聞くにも、片時おもひたゆむことは、いかにしてかあらむ、さればい かにしてか、せめては今ひとたび、かく思ふことをもいはむなど思ふも、かなふまじき悲しさ、ここかしこ とうきたるさまなど、傳へ聞くもすべていはむ方なし

いはばやと思ふことのみ多かるもさてむなしくやつひになりなむ

おそろしきもののふども、いくらもくだる。なにかと聞くにも、いかなることをいつ聞かむと、悲しく、 心うく、泣く泣く寢たる夢につねに見しままの直衣姿にて、風のおびただしく吹くところに、いと物思はし げにうちながめてあると見て、さわぐ心に、やがてさめたる心地、いふべき方なし。ただ今も、げにさても やあるらむと思ひやられて、

波風のあらきさわぎに漂ひてさこそはやすき空なかるらめ

あまりさわがしき心地のなごりにや、身もぬるみて、心地もわびしければ、さらばなくなりなばやとお ぼゆ。

うき上のなほうきはてを聞かぬさきにこの世の外によしならばなれ

と思へど、さもなきつれなさも心うし。

あらるべき心地もせぬになほ堪へて今日までふるぞ悲しかりける

かへる年の春、ゆかりある人の物まゐりすとてさそひしかば、何ごとも物うけれど、尊きかたのことな れば、思ひおこしてまゐりぬ。歸さに、梅の花なのめならずおもしろきところあるとて、人の立ち入りしか ば、具せられて行きたるに、まことに世のつねならぬ花のけしきなり。そのところのあるじなるひじりの、 人に物いふを聞けば、年年この花をしめゆひて請ひ給ひし人なくて、今年はいたづらに咲きちり侍る、あは れにといふを、たれぞと問ふめれば、その人としもたしかなる名をいふに、かきみだり悲しき心のうちに、

思うこと心の友に語らはむ馴れける人を花もしのばば

その頃、あさましく恐ろしくきこえしことどもに、近く見し人人むなしくなりたる、數おほくて、あら ぬ姿にてわたさるる、なにかと心うく、いはん方なきことどもきこえて、たれたれなど、人のいひしもため しなくて、

哀さはこれは誠か猶もただ夢にやあらむとこそおぼゆれ

重衡の三位中將の、うき身になりて、都にしばしと聞きし頃、ことにことに、昔近かりし人人の中にも、 朝夕馴れて、をかしきことをいひ、又はかなきことにも、人のためには、びんぎに心しらひありなどして、 ありがたかりしを、いかなりけるむくいぞと、心うし。見たる人の、御顏はかはらで、目もあてられぬなど といふが、心うく悲しさいはん方なし。

朝夕に見なれすぐししその昔かかるべしとは思ひてもみず

かへすがへす心のうちおしはかられて、

まだしなぬこの世のうちに身をかへて何心地してあけ暮すらむ

又、維盛の三位中將、熊野にて身をなげてとて、人のいひあはれがりし、いづれも、今の世を見聞くに も、げにすぐれたりしなど思ひ出でらるるあたりなれど、きはことにありがたかりしかたちようい、まこと に昔今見る中に、例もなかりしぞかし。されば折折には、めでぬ人やはありし。法住寺殿の御賀に、青海波 まひての折などは、光源氏のためしも思ひ出でらるるなどこそ、人人いひしか。花のにほひもげにけおされ ぬべくなど、聞えしぞかし。その折折のおもかげはさることにて、見馴れしあはれ、いづれもといひながら なほことにおぼゆ。同じことと思へと、折折はいはれしを、さこそさやはといらへしかば、されどあるとい はれしことなど、かずかず悲しともいふばかりなし。

春の花色によそへし面影のむなしき波のしたにくちぬる
悲しくもかかるうきめをみ熊野の浦わの波に身をしづめける

ことに同じゆかりは、思ひとる方のつよかりける、うきことはさなれども、この三位中將と、清經の中 將と、心とかくなりぬるなど、さまざま人のいひあつかふにも、のこりて、いかに心よわくやいとどおぼゆ らむなど、さまざま思へど、かねていひしことにてや、また何とか思ふらむ。たよりにつけて、言の葉一つ もきかず、ただ都いでての冬、はつかなるたよりにつけて、申ししやうに、今は身をかへたると思ふを、誰 もさ思ひて、後の世をとへ、とばかりありしかば、たしかなるたよりも知らず、わざとは又かなはで、これ よりも、いふ方なく思ひやらるる心のうちをも、えいひやらぬに、このゆかりのくさは、かくのみ皆聞きし ころ、あだならぬたよりにて、つたふべきことありしかば、かへすがへす、かくまでもきこえじと思へど、 などいひて、

さまざまに心亂れてもしほ草かきあつむべき心地だにせず
おなじ世となほ思ふこそ悲しけれあるがあるにもあらぬこの世に

このはらからたちのことなどいひて、

思ふことを思ひやるにぞ思ひくだく思ひにそへていとど悲しき

など申したりし返事、さすがに嬉しきよしいひて、今はただ身のうへも、今日明日のことなれば、かへ すがへす思ひとぢめぬる心地にてなむ、まめやかにこのたびばかりぞ申しもすべきとて、

思ひたち思ひきりても立歸りさすがに思ふことぞおほかる
今はすべて何の情もあはれをも見もせじ聞きもせじとこそ思へ

さきだちぬる人人のことなどいひて、

あるほどがあるにもあらぬうちに猶かく憂きことをみるぞ悲しき

とありしをみし心地、ましていふ方なし。

またの年の春ぞ、まことにこの世の外に聞きはてにし。そのほどのことは、ましてなにとかいはむ。皆 かねて思ひしことなれど、ただほれぼれとのみおぼゆ。あまりにせきやらぬ涙も、かつはみる人人にもつつ ましければ、何とか人は思ふらめど、心地のわびしきとて引きがづきて、ねくらしてのみぞ、心のままに泣 きすぐす。いかで物を忘れんと思へど、あやにくに面影は身にそひ、言の葉ごとに聞く心地して、身をせめ て、悲しきこといひつくすべき方なし。ただかぎりある命にて、はかなくなどきくことをだにこそ、悲しき ことにいひ思へ。これは何をかためしにせむと、かへすがへすおぼえて、

なべて世のはかなきことを悲しとはかかる夢みぬ人やいひけむ

ほど經て人のもとより、さてもこのあはれ、いかばかりか、といひたれば、なべてのことのやうにとお ぼえて、

悲しともまたあはれとも世の常にいふべきことにあらばこそあらめ

さても今日までながらふる世のならひ心うく、明けぬくれぬとしつつ、さすがにうつし心もまじり、物 をとかく思ひつづくるままに、かなしさもなをまさる心地す。はかなくあはれなりける契のほども我身ひと つのことにはあらず、同じゆかりの夢みる人は、知るも知らぬもさすが多くこそなれど、さしあたりては、 ためしなくのみおぼゆ。昔も今も、ただのどかなるかぎりある別こそあれ、かくうきことはいつかはありけ るとのみ思ふもさることにて、ただとかく、さすが思ひなれにしことのみ忘れがたさ、いかでいかで今は忘 れむとのみ思へど、かなはぬも悲しうて、

ためしなきかかる別になほとまる面影ばかり身にそふぞうき
いかで今はかひなきことを歎かずて物忘れする心にもがな
忘れむと思ひてもまたたちかへりなごりなからむことぞ悲しき

ただ胸にせき、涙にあまる思ひのみなるも、何のかひぞと悲しうてのちの世をば必ず思ひやれといひし ものを、さこそ其のきはも心あわただしかりけめ。またおのづから殘りて、跡とふ人もさすがあるらめど、 よろづあたりの人も世にかくろへて、何ごとも道ひろからじなど、身ひとつのことに思ひなされて、悲しけ れば、思ひおこして、ほうぐえりいだして、料紙にすかせて、經かき、又さながらうたせて、文字の見ゆる がまばたゆれば、裏にもものおしかくして、手づから地藏六體すみがきにかきまゐらせなど、さまざま心ざ しばかりとぶらふも、また人目つつましければ、うとき人には知らせず、心ひとつにいとなむ悲しさも、な ほ堪へがたし。

すくふなる誓頼みてうつしおくかならず六の道しるべせよ

など、泣く泣く思ひ念じて、あせう上人の御もとへ申しつけて、供養せさせ奉る。さすが積りにけるほ うぐなれば、多くて、尊勝陀羅尼、何くれさらぬことも多くかかせなどするに、なかなか見じと思へど、さ すがに見ゆる筆の跡も、言の葉も、かからでだに、昔の跡は涙のかかる習ひなるを、目もくれ心も消えつつ、 いはん方なし。その折、とありし、かかりしをり、わがいひしことのあひしらひ、なにかと見ゆるが、かき 返すやうにおぼゆれば、一つも殘さず、皆さやうにしたたむるにも、見るもかひなしとかや、源氏の物語に あること、思ひ出でらるるも、何の心ありてとつれなくおぼゆ。

悲しさはいとどもよほす水ぐきの跡はなかなか消えねとぞ思ふ
かばかりの思ひに堪へてつれもなく猶ながらふる玉の緒もうし

夏深き頃、常にゐたる方の遣戸は、谷の方にて、見おろしたれば、竹の葉は強き日によられたるやうに て、まことに土さへさけて見ゆる世のけしきにも、わが袖ひめやと、又かきくらさるるに、ひぐらしは、繁 き梢にかしがましきまでなきくらすも、友なる心地して、

こととはむなれもや物を思ふらむ諸共になく夏のひぐらし

なぐさむこともなきままには、佛にのみむかひ奉るも、さすがに幼なくより頼みきこえしかど、うき身 功もひしることのみありて、又かくためしなき物を思ふも、いかなるゆゑぞと、神も佛も恨めしくさへなり て、

さりともと頼む佛もめぐまねばのちの世までを思ふ悲しさ
行方なく我身もさらばあくがれむ跡とどむべきうき世ならぬに

北山の邊によしあるところのありしを、はかなくなりにし人の領ずるところにて、花のさかり、秋の野 べなど見には、常に通ひしかば誰も見し折もありしを、あるひじりの物になりてと聞きしを、ゆかりあるこ とありしかば、せめてのことに、忍びてわたりて見れば、面影はさきだちて、又かきくらさるるさまぞ、い ふ方なき。みがきつくろはれし庭も、淺茅が原、よもぎが杣になりて、むぐらも苔もしげりつつ、ありしけ しきにもあらぬに、うゑし小萩はしげりあひて、北南の庭にみだれふしたり。藤袴うちかをり、ひとむら薄 も、まことに蟲の音しげき野べとみえしに、車よせておりしつま戸のもとにて、ただひとりながむるに、さ まざま思ひいづることなど、いふもなかなかなり。れいのものもおぼえぬやうにかきみだる心のうちながら、

露きえし跡は野原となりはててありしにも似ずあれはてにけり
跡をだに形見にみむと思ひしをさてしもいとど悲しさぞそふ

東の庭に、柳櫻の同じたけなるをまぜて、あまた植ゑならべたりしを、一年の春、もろともに見しこと も、ただ今の心地するに、梢ばかりは、さながらあるも、心うくかなしくて、

うゑてみし人はかれぬる跡になほのこる梢を見るも露けし
我身もし春まであらば尋ねみむ花もその世のことな忘れそ

また物へまかりし道に、昔のあとの煙になりにしが、いしずゑばかり殘りたるに、草ふかくて、秋の花 ところどころにさき出でて、露うちこぼれつつ、蟲の聲聲みだれあひてきこゆるもかなしく、行きすぐべき 心地もせねば、しばし車をとどめて見るも、いつをかぎりにかとおぼえて、

又さらにうき故郷をかへりみて心とどむることもはかなし

ただ同じことをのみ、はるる世もなく思ひつつ、たえぬ命はさすがにありふるに、うきことのみ聞きか さぬるさま、いふ方なし。

定めなき世とはいへどもかくばかりうきためしこそ又なかりけれ

女院、大原におはしますとばかりは聞きまゐらすれど、さるべき人に知られでは參るべきやうもなかり しを、深き心をしるべにて、わりなくたづねまゐる。やうやう近づくままに、山道のけしきより、まづ涙は さきだちて、いふかたなき御いほりのさま、御すまひ、ことがら、すべて目も見あげられず、昔の御ありさ ま見まゐらせざらむだに、大方のことがら、いかがこともなのめならむ。まして、夢うつつともいふ方なし。 秋深き山おろし、近き梢にひびきあひて、筧の水の音づれ、鹿の聲、虫の音、いづくものことなれど、ため しなき悲しさなり。都ぞ春の錦をたちかさねて、さぶらひし人人六十よ人ありしかど、みわするるさまに衰 へはてたる墨染の姿してわづかに三四人ばかりぞさぶらはるる。その人人にも、さてもやとばかりぞ、我も 人もいひ出でたりし。むせぶ涙におぼほれて、すべて、こともつづけられず。

今や夢昔やゆめと迷はれていかに思へどうつつともなき
あふぎみし昔の雲の上の月かかるみ山の陰ぞかなしき

花のにほひ、月のひかりにたとへても、ひとかたにはあかざりし御おもかげ、あらぬかとのみたどらる るに、かかる御ことを見ながらなにの思ひ出なき都へ、さればなにとて歸るらむと、うとましく心うし。

山深くとどめおきぬるわが心やがてすむべきしるべともなれ

何ごとにつけても、世にただ、なくもならばやとのみおぼえて、

歎きわびなからましかばと思ふまでの身ぞ我ながら悲しかりける

なぐさむことは、いかにしてかあらむなれば、あらぬところ尋ねがてら、遠く思ひたつことあるにも、 まづ思ひいづることありて、

歸るべき道は心にまかせても旅だつほどはなほあはれなり
都をばいとひても又なごりあるをましてと物を思ひ出でつる

こころざしのところは、ひえ坂本のわたりなり。雪はかきくらしふりたるに、都は遙かにへだたりぬる 心地して、なにの思ひいでにかと心ぼそし。夜ふくるほどに、雁の一つら、此のゐたる上をすぐるおとのす るも、まづあはれとのみ聞きて、すずろにしほしほとぞなかるる。

うきことは所がらかとのがるれどいづくもかりの宿ときこゆる

關ひとつこそこえぬるは、いくほどならじを、梢にひびく嵐のおとも、都よりはことの外にはげしきに、

關こえていく雲井までへだてねど都には似ぬ山おろしかな

つくづくとおこなひて、ただ一すぢにみし人の後の世とのみ祈らるるにも、なほかひなきことのみ、思 はじとてもまたいかがは。

そともを立ち出でて見れば、橘の木に、雪の深く積りたるを見るにも、いつの年ぞや、大内にて、雪の いと高く積りたりしあした、とのゐ姿のなえばめる直衣にて、この木に降りかかりたりし雪を、さながら折 りて持ちたりしを、など、それをしも折られけるにかと申ししかば、我が立ちならす方の木なれば、契なつ かしくてと、いひし折、ただ今とおぼえて、悲しきことぞいふ方なき。

立ちなれしみかきのうちの橘も雪と消えにし人やこふらむ

と、まづ思ひやらる。この見る木は、葉のみしげりて色もさびし。

こととはむ五月ならでも橘に昔の袖の香は殘るやと

風にしたがひて、鳴子のおとのするも、すずろにものがなし。

ありし世にあらずなるこの音きけば過ぎにしことぞいとど悲しき

はるかに都の方をながむれば、はるばるとへだたりたる雲井にも、

我心うきたるままにながむればいづくを雲のはてとしもなし

十二月一日ごろなりしやらむ、夜に入りて、雨とも雪ともなくうちちりて、むら雲さわがしく、ひとへ に曇りはてぬものから、むらむら星うちきらしたり。ひきかづき臥したるきぬを、ふけぬるほど、うし二つ ばかりにやとおもふほどに、ひきのけて、空を見あげたれば、ことに晴れて、あさぎ色なるに、ひかりこと ごとしき星の大きなるが、むらもなく出でたる、なのめならずおもしろく、はなだの紙に、箔をうちちらし たるによう似たり。こよひはじめて見そめたる心地す。さきざきも星月夜み馴れたることなれど、これはを りからにや、ことなる心地するにつけても、ただ物のみおぼゆ。

月をこそながめ馴れしか星の夜の深き哀を今宵知りぬる

日吉へ參るに、雪はかきくらし、輿の前板にこちたく積りて、通夜したる曙に、やどへ出づる道すがら、 すだれをあげたれば、袖にもふところにも、横雪にて、入りて、袖の上は、拂へどもやがてむらむら氷るが、 面白きにも、なにごとも、見せばやと思ふ人のなき、あはれなり。

何ごとを祈りかすべきわが袖の氷はとけむ方もあらじを

いたく心ぼそき旅のすまひに、友まつ雪きえやらで、かつがつあまぎる空をながめつつ、

さらでだにふりにしことの悲しきに雪かきくらす空はながめじ

夜もすがらながむるに、かきくもり、又はれのき、一方ならぬ雲のけしきにも、

大空は晴れも曇りも定めなき身のうきことぞいつもかはらぬ

そともの鳴子のおとなひも、さびしさそふ心地して、大方の四方のこずゑ、野べのけしきも、年のくれ なれば、皆かれ野にて、吹きはらひたる、なにとなくなごりなき世のけしきも、思ひよそへらるることおほ し。

秋すぎてなるこは風に殘りけり何のなごりも人の世ぞなき

わづかなる谷川の氷は、むすびながら、さすが心ぼそき音は、たえだえきこゆるに、思ふことのみあり て、

谷川はこの葉とぢまぜ氷れどもしたには絶えぬ水の音かな

まだ夜をこめて都へ出づる道は、志賀の浦なるに、入江にこほりしつつ、よせくる浪のかへらぬ心地し て、雪つもりて見わたしたれば白妙なり。

うらやまし志賀の浦ぢの氷とぢかへらぬ波もまたかへりなむ

うみのおもては、ふか緑にくろぐろとおそろしげに荒れたるに、ほどなき見わたしのむかひに、うるは しき舟路にて、空はあなたのはたにひとつにて、雲路にこぎ消ゆる小舟のよそめに、波風あらくなつかしか らぬけしきにて、木草もなき濱べに、堪へがたく風はつよきに、いかにぞ、波にいりにし人の、かかるわた りにもあると、思ひの外に聞きたらば、いかに住みうきわたりなりとも、とどまりこそせめとさへあんぜら れて、

戀ひしのぶ人にあふみの海ならばあらき波にも立ちまじらまし

む月のなかば過ぐるころ、なにとなく春のけしきうらうらと霞みわたりたるに、高倉院の中納言典侍と きこえし人、今のうちにさぶらはるるが、逢はんとありしかば、昔のこと知れる人もなつかしくてその日を 待つほどに、さしあふことありて、とどまりぬ。こよひにてあらましと思ふ夜、あれたる家の軒端より月さ し入りて、梅かをりつつえんなるに、ながめあかして、つとめて申しやる。

あはれいかに今朝はなごりをながめまし昨日のくれの誠なりせば

返し

思へたださぞあらましのなごりだに昨日も今日も有明の空

ことなることなき物がたりを人のするに、思ひいでらるることありて、すずろに涙のこぼれそめて、と どめがたくながるれば、

うきことのいつもそふ身は何としも思ひあへでも涙おちけり

二月十五日、涅槃會とて人の參りしに、さそはれてまゐりぬ。おこなひうちして、思ひつづくれば、釋 迦佛の入滅せさせ給ひけむ折のこと、僧などの語るを聞くにも、何もただ物の哀のことにおぼえて涙とどめ がたくおぼゆるも、さほどのことはいつも聞きしかど、此頃きくはいたくしみじみとおぼえて物がなしく、 涙のとまらぬも、ながらふまじきわが世のほどにやと、それは歎かしからずおぼゆ。

世のなかの常なきことのためしとて空がくれせし月にぞありける

殷富門院、皇后宮と申ししころ、その御方にさぶらふ上臈の、しるよしありて、きこえかはししが、行 きあひて、ひぐらし物語りして歸り給ひぬるなごり、雨うちふりて、物あはれなり。この人も、ことにわが 思ふ同じすぢなることをおもふ人なりしかば、なつかしくもあり、さまざまそれも戀しく思ひ出でられて、 申しやる。

いかにせむながめかねぬる名殘かなさらぬだにこそ雨の夕暮

返し

ながめわぶる雨の夕べにあはれまたふりにしことをいひあはせばや

四月廿三日、あけはなるるほど、雨すこしふりたるに、東の方の空に、郭公の初音なきわたる、めづら しくあはれに聞くにも、

あけがたに初音聞きつる時鳥しでの山路のことをとはばや
あらずなるうき世のはてに時鳥いかで鳴くねのかはらざるらむ

五月二日は、昔の母の忌日なり。心地なやましかりしかど、手などあらひて、念佛申し、經よむ法師よ びて、經よませて、聽問するにも、又こん年のいとなみは、えせぬこともやと思ふにも、さすがあはれにて、 袖もまたぬれぬ。

別れにし年月日にはあふこともこればかりやと思ふ悲しさ

やよひの廿日あまりの頃、はかなかりし人の、水のあわとなりける日なれば、れいの心ひとつに、とか く思ひいとなむにも、わがなからむ後、誰かこれほども思ひやらむ、かく思ひしことと、思ひいづべき人も なきが、堪へがたく悲しくて、しくしくと泣くより外のことぞなき。我身のなくならむよりも、これがおぼ ゆるに、

いかにせむわが後の世はさてもなほ昔の今日をとふ人もがな

よもの梢も、庭のけしきも、皆ここちよげにて、あをみどりなるに何となき小鳥どものさへづる聲聲も、 思ふことなげなるにも、まづ涙にかきくらされて、

晴れわたる空のけしきも鳥のねもうらやましくぞ心ゆくめる
つきもせずうきことをのみ思ふ身は晴れたる空もかきくらしつつ

年年、七夕に歌よみてまゐらせしを、思ひいづるばかり、せうせうこれもかきつく。

七夕のけふは嬉しさつつむらむあすの袖こそかねてしらるれ
鐘の音も八こゑの鳥も心あれな今宵ばかりは物わすれして
契りけむゆゑは知らねど七夕の年に一夜ぞなほもどかしき
聲のあやは音ばかりしてはたおりの露のぬきをや星にかすらむ
さまざまに思ひやりつつよそながらながめかねぬる星合のそら
天の河漕ぎはなれ行く舟のうちのあかぬ涙の色をしぞおもふ
きかばやな二つの星の物語たらひの水にうつらましかば
世世ふとも絶えむものかは七夕にあさひく糸のながき契は
おしなべて草むらごとにおく露のいもの葉のしも今日にあふらむ
人かずに今日はかさましから衣涙にくちぬ袂なりせば
ひこ星の行合の空をながめてもまつこともなき我ぞ悲しき
年をまたぬ袖だにぬれししののめに思ひこそやれ天の羽衣
あはれとや思ひもすると七夕に身のなげきをも愁へつるかな
七夕のいはの枕はこよひこそ涙かからぬたえまなるらめ
いく返り行きかへるらむ七夕のくれいそぐまの心づかひは
ひこ星のあひみる今日は何ゆゑに鳥のわたらぬ水結ぶらむ
あはれとや七夕つめも思ふらむ逢ふ瀬もまたぬわが契をば
七夕に今日やかすらむ野邊ごとに亂れ織るなる蟲のころもは
いとふらむ心も知らず七夕に涙の袖を人なみにかす
何ごとをまづかたるらむ彦星の天の河原に岩まくらして
たなばたのあかぬ別の涙にや雲のころもも露けかるらむ
何ごともかはりはてぬる世の中に契りたがへぬほし合のそら
けふくれば草葉にかくる糸よりも長き契は絶えむ物かは
心とぞ稀に契りしなかなれば恨みもせじな逢はぬたえまを
あはれともかつは見よとて七夕に涙さながらぬきてかしつる
天の川けふの逢瀬はよそなれど暮れ行く空をなほも待つかな
うらやまし戀に堪へたる星なれや年に一夜と契る心は
あひに逢ひてまだむつ言もつきじ夜にうたて明け行く天の戸ぞうき
うちはらふ袖や露けき岩枕苔のちりのみふかくつもりて
曇るさへうれしかるらむ彦星の心のうちをおもひこそやれ
よひの間に入りぬる月の影までもあかぬ恨やふかきたなばた
七夕の契なげきし身のはては逢瀬をよそに聞きわたりつつ
ながむれば心もつきて星合の空にみちぬる身のおもひかな
露けさは秋の野邊にもまさるらし立ちわかれ行く天の羽ごろも
彦星の思ふ心は夜ふかくていかに明けぬる天の戸ならむ
七夕のあひみる宵の秋風よ物思ふ袖の露はらはなむ
秋ごとに別れしころと思ひ出づる心のうちを星はしるらむ
七夕に心かはしてなげけともかかる思ひをえしもかたらぬ
世の中は見しにもあらずなりぬるにおもがはりせぬ星合のそら
かさねてもなほや露けきほどもなく袖わかるべき天の羽ごろも
思ふことかけどつきせぬかぢの葉の今日にあひぬる故を知らばや
よしかさじかかるうき身の衣手は棚機つめにいまれもぞする
かくばかりかきて手向くるうたかたを二つの星のいかがみるらむ
何となく夜半のあはれに袖ぬれてながめぞかぬる星あひのそら
えぞしらぬ忍ぶゆゑなき彦星も稀に契りてなげく心を
なげきても逢ふ瀬をたのむ天の川このわたりこそ悲しかりけれ
かきつけばなほもつつまし思ひなげく心の内を星よ知らなむ
引く糸のただ一筋にこひこひてこよひ逢ふ瀬もうらやまれつつ
たぐひなきなげきに沈む人ぞとてこの言の葉を星やいまはむ
よしやまた慰めかはせ七夕よかかる思ひに迷ふこころを

このたびばかりにやとのみ思ひても、又かく數つもれば、

いつまでか七つの歌を書きつけむ知らばや告げよ天つ彦星

若かりしほどより、身をようなきものに思ひとりにしかば、ただ心より外の命のあらるるだにもいとは しきに、まして人に知らるべきこととは、かけても思はざりしを、さるべき人人、さりがたくいひはからふ ことありて、おもひの外に、年經てのち、また九重のうちを見し身の契、かへすがへす定めなく、わが心の うちも、つれなくすぞろはし。藤壺の方ざまなど見るにも、昔すみなれしことのみ思ひ出でられて悲しきに、 御しつらひも、世のしきも、かはりたることなきに、ただわが心のうちばかり、くだけまさるかなしさ、月 の隈なきを眺めて、おぼえぬこともなく、かきくらさる。昔かろらかなるうへ人などにて見し人人、おもお もしき上達部にてあるにも、とぞあらまし、かくぞあらましなど、思ひつづけられて、ありしよりもけに、 心のうちは、やらむ方もなく悲しきこと、なににかは似む。高倉院の御氣色に、いとよう似まゐらせさせお はしましたる上の御さまにも、かずならぬ心ひとつにたへがたくきし方こひしく、月を見て、

今はただしひてわするるいにしへを思ひいでよとすめる月かな

五節のころ、霜夜の有明に、宮の御方のゑんすゐにて、白うすやうの聲などのきこゆるにも、年年聞き なれしこと、まづおぼえざらむや。

霜にさゆる白うすやうの聲きけばありし雲居ぞまづおぼえける

とにかくに、物のみ思ひつづけられて見出だしたるに、まだらなる犬の、竹の台のもとなどしありくが、 昔、うちの御方にありしが、御使などにまゐりたるをりをり、呼びて袖うちきせなどせしかば、見知りて、 馴れむつれ、尾をはたらかしなどせしに、いとようおぼえたる、みるもすずろにあはれなり。

犬はなほ姿も見しにかよひけり人のけしきぞありしにも似ぬ

その世のこと、見し人、知りたるも、おのづからありもやすらめど語らふよしもなし。ただ心のうちば かりに思ひつづけらるるが、晴るる方なく悲しくて、

わが思ふ心に似たる友もがなそよやとだにも語りあはせむ

五月五日、さうぶのみこしたてたる御階のあたり、軒のけしきも、見し世にかはらぬにも、

菖蒲ふく軒端も見しにかはらぬをうきねのかかる袖ぞ悲しき

人のうれへ申すことのあるを、さるべき人の申し沙汰するを聞けば後白河院の御時、おほせ下されける などとて、さめやらぬ夢と思ふ人の、藏人頭にて書きたりけるとて、その名をきくにも、いかがあはれのこ ともなのめならむ。

水の泡と消えにし人の名ばかりをさすがにとめて聞くも悲しき
面影もその名もさらば消えもせで聞きみるごとに心まどはす
うかりける夢の契の身をさらでさむる世もなき歎のみする

隆房の中納言の、歎くことありて、こもりゐたるもとへ、こればかりは、昔のこともおのづからいひな どする人なれば、とぶらひ申すとて、五月五日に、

つきもせぬうきねは袖にかけながらそよの涙を思ひやるかな

返し

かけなるるうきねにつけて思ひやれあやめも知らでくらす心を

大宮入道内大臣うせられたりしころ、公經の中納言もかきこもりて五節などにもまゐられざりしに、白 き薄樣のいろいろの櫛をかきたるにかきて、人のつかはししにかはりて、

迷ふらむ心の闇をおもふかな豐のあかりのさやかなるころ

返し、薄にびの薄樣に、

かきこもる闇もよそにぞなりぬべき豐の明りにほのめかされて

親宗の中納言うせて後、昔もちかくみし人にてあはれなれば、親長のもとへ、九月つくるころ、申しや る。空のけしきもうちしぐれてさまざまのあはれも、ことにしのびがたければ、色なる人の袖の上もおしは かられて、

くらき雨の窓うつ音にねざめして人のおもひを思ひこそやれ
つゆけさのなげく姿にまがふらむ花の上まで思ひこそやれ
露きえし庭の草葉はうら枯れて繁きなげきを思ひこそやれ
わびしらにましらだになくよるの雨に人の心を思ひこそやれ
君がこと歎き歎きのはてはてはうちながめつつ思ひこそやれ
又もこむ秋のくれをば惜しまじなかへらぬ道の別だにこそ

返し

親長
板びさし時雨ばかりは音づれて人め稀なる宿ぞかなしき
うゑ置きし主はかれつついろいろの花咲く庭をみるぞかなしき
はれ間なきうれへの雲にいつとなく涙の雨のふるぞかなしき
秋の庭はらはぬ宿に跡絶えて苔のみふかくなるぞかなしき
夜もすがら歎きあかせる曉にましの一聲きくぞかなしき
くちなしの花色衣ぬぎかへてふぢの袂になるぞかなしき
思ふらんよその歎もあるものをとふ言の葉をみるぞかなしき
くれぬともまたも逢ふべき秋にだに人の別をなすよしもがな

九月十三夜、ことわりのままに晴れたりしに、親長の、もののさたなどひまなくして、うち案じたるけ しきもなくて、きとひきそばめはかなき物のはしに書きて、若き人人大盤所にありし中を、かきわけかきわ け、うしろの方によりて、ふところよりとりいでて、たびたりし、

名にしおふ夜を長月の十日あまり君みよとてや月もさやけき

返し。これも物のはしに、

名にたかき夜を長月の月はよしうき身にみえば曇りもぞする

みちむねの宰相中將の、つねにまゐりて、女官など尋ぬるも、はるかに、えしもふとまゐらず、つねに 女房にげさんせまほしき、いかがすべきといはれしかば、此みすの前にて、うちしはぶかせ給へ、いつも聞 きつけんずるよし申せば、まことしからずといはるれば、ただここもとに立ちさらで、よるひるさぶらふぞ といひてのち、つゆもまだひぬほどにまゐりて、立たれにけりと聞けば、めしつぎして、いづくへも追ひつ けとて、走らかす。

荻の葉にあらぬ身なれば音もせでみるをもみぬと思ふなるべし

久我へいかれにけるを、やがて尋ねて、ふみはさしおきて歸りにけるに、さぶらひして追はせけれど、 あなかしこ、返事とるなとをしへたれば、鳥羽殿の南の門まで追ひけれど、うばらからたちにかかりて、や ぶににげて、ちからぐるまのありけるにまぎれぬるといへば、よしとて、ありしのち、さるふみ見ずとあら がひ、又まゐりたりしかども、人なきみすのうちは、しるかりしかば、立ちにきといへば、またはたらかで 見しかども、あまり物さわがしくこそ立ち給ひしか、などいひしろひつつ、五節のほどにもなりぬ。その後 も、このことをのみいであらそふ人人あるに、豐のあかりの節會の夜、さえかへりたる有明にまゐられたり しけしき優なりしを、ほどなくはかなくなられにし、あはれさ、あへなくて、その夜の有明、雲のけしきま で、かたみなるよし、人人つねに申し出づるに、

思ひ出づる心もげにぞつきはつる名殘とどめし有明の月

など思ひても又

限りありてつくる命はいかがせむ昔の夢ぞなほたぐひなき
露と消え煙ともなる人はなほはかなき跡をながめもすらむ
思ひ出づることのみぞただためしなきなべてはかなき人を聞くにも

建仁三年の年、霜月の廿日あまりいくかの日やらん、五條三位俊成入道の、九十に滿つと聞かせおはし まして、院より賀たまはするにおくり物の、法服の裝束の袈裟に、歌おかるべしとて、師光入道女宮内卿の 殿に歌はめされて、紫の糸にて、院の仰言にて、おきてまゐらせたりし。

ながらへてけさぞ嬉しき老の波八千代をかけて君につかへむ

とありしが、給はりたらん人の歌にてや、今すこしよかりぬべく、心のうちにおぼえしかども、其のま まにおくべきとなれば、おきてしを、けさぞのぞ文字、つかへむのむ文字を、やと、よとになるべかりける とて、にはかに其の夜になりて、二條殿へ、きと參るべきよし、おほせごととて、範光の中納言の車とてあ れば、まゐりて、文字ふたつおきなほして、やがて賀もゆかしく、夜もすがらさぶらひて見しに、昔のこと おぼえて、いみじく道の面目なのめならずおぼえしかば、つとめて入道のもとへ其のよし申しつかはすとて、

君ぞなほ今日よりもまたかぞふべきここのかへりの十のゆく末

返しに、かたじけなき召に候へば、はうはうまゐりて、人目いかばかり見ぐるしくと思ひしに、かやう によろこびいはれたる、なほむかしのことも、物のゆゑも、知ると知らぬとは、まことに同じからずこそと て、

龜山の九かへりの千年をも君が御代にぞそへゆづるべき

かへすがへす憂きより外の思出なき身ながら、年はつもりて、いたづらに明し暮らすほどに、思ひ出で らるることどもを、すこしづつ書きつけたるなり。おのづから人の、さることやなどいふには、いたく思ふ ままのこと、かはゆくもおぼえて、せうせうをぞ、書きて見せし。これはただ、わが目ひとつに見むとて、 書きつけたるを、後に見て、

くだきける思ひのほかの悲しさもかきあつめてぞさらに知らるる

老の後、民部卿定家の、歌をあつむることありとて、書きおきたる物やと、尋ねられたるだにも、人か ずに思ひ出ていはれたる、なさけありがたくおぼゆるに、いつの名をとか思ふと問はれたる、思ひやりのい みじうおぼえて、猶ただ、へだてはてにし昔のことの忘れがたければ、その世のままになど申すとて、

言の葉のもし世にちらば忍ばしき昔の名こそとめまほしけれ

返し

民部卿定家
同じくは心とめけるいにしへのその名をさらば世世にのこさむ

とありしなむ、嬉しくおぼえし。