逗子だより
泉鏡花 (Zushi dayori) | ||
逗子だより
泉鏡花
夜 ( よる ) は、はや 秋 ( あき ) の 螢 ( ほたる ) なるべし、 風 ( かぜ ) に 稻葉 ( いなば ) のそよぐ 中 ( なか ) を、 影 ( かげ ) 淡 ( あは ) くはら/\とこぼるゝ 状 ( さま ) あはれなり。
月影 ( つきかげ ) は、 夕顏 ( ゆふがほ ) のをかくしく 縋 ( すが ) れる 四 ( よ ) ツ 目 ( め ) 垣 ( がき ) 一重 ( ひとへ ) 隔 ( へだ ) てたる 裏山 ( うらやま ) の 雜木 ( ざふき ) の 中 ( なか ) よりさして、 浴衣 ( ゆかた ) の 袖 ( そで ) に 照添 ( てりそ ) ふも 風情 ( ふぜい ) なり。
山續 ( やまつゞ ) きに 石段 ( いしだん ) 高 ( たか ) く、 木下闇 ( こしたやみ ) 苔蒸 ( こけむ ) したる 岡 ( をか ) の 上 ( うへ ) に 御堂 ( みだう ) あり、 觀世音 ( くわんぜおん ) おはします、 寺 ( てら ) の 名 ( な ) を 觀藏院 ( くわんざうゐん ) といふ。 崖 ( がけ ) の 下 ( した ) 、 葎 ( むぐら ) 生 ( お ) ひ 茂 ( しげ ) りて、 星影 ( ほしかげ ) の 晝 ( ひる ) も 見 ( み ) ゆべくおどろ/\しければ、 同宿 ( どうしゆく ) の 人 ( ひと ) たち 渾名 ( あだな ) して 龍 ( りう ) ヶ 谷 ( たに ) といふ。
店借 ( たながり ) の 此 ( こ ) の 住居 ( すまひ ) は、 船越街道 ( ふなこしかいだう ) より 右 ( みぎ ) にだら/\のぼりの 處 ( ところ ) にあれば、 櫻 ( さくら ) ヶ 岡 ( をか ) といふべくや。
これより、「 爺 ( ぢゞ ) や 茶屋 ( ぢやや ) 」「 箱根 ( はこね ) 」「 原口 ( はらぐち ) の 瀧 ( たき ) 」「 南瓜軒 ( なんくわけん ) 」「 下櫻山 ( しもさくらやま ) 」を 經 ( へ ) て、 倒富士 ( さかさふじ ) 田越橋 ( たごえばし ) の 袂 ( たもと ) を 行 ( ゆ ) けば、 直 ( すぐ ) にボートを 見 ( み ) 、 眞帆 ( まほ ) 片帆 ( かたほ ) を 望 ( のぞ ) む。
爺 ( ぢゞ ) や 茶屋 ( ぢやや ) は、 翁 ( おきな ) ひとり 居 ( ゐ ) て、 燒酎 ( せうちう ) 、 油 ( あぶら ) 、 蚊遣 ( かやり ) の 類 ( るゐ ) を 鬻 ( ひさ ) ぐ、 故 ( ゆゑ ) に 云 ( い ) ふ。
原口 ( はらぐち ) の 瀧 ( たき ) 、いはれあり、 去 ( さん ) ぬる 八日 ( やうか ) 大雨 ( たいう ) の 暗夜 ( あんや ) 、十 時 ( じ ) を 過 ( す ) ぎて 春鴻子 ( しゆんこうし ) 來 ( きた ) る、 俥 ( くるま ) より 出 ( い ) づるに、 顏 ( かほ ) の 色 ( いろ ) 慘 ( いたま ) しく 濡 ( ぬ ) れ 漬 ( ひた ) りて、 路 ( みち ) なる 大瀧 ( おほたき ) 恐 ( おそろ ) しかりきと。
翌日 ( よくじつ ) 、 雨 ( あめ ) の 晴間 ( はれま ) を 海 ( うみ ) に 行 ( ゆ ) く、 箱根 ( はこね ) のあなたに、 砂道 ( すなみち ) を 横切 ( よこぎ ) りて、 用水 ( ようすゐ ) のちよろ/\と 蟹 ( かに ) の 渡 ( わた ) る 處 ( ところ ) あり。 雨 ( あめ ) に 嵩増 ( かさま ) し 流 ( なが ) れたるを、 平家 ( へいけ ) の 落人 ( おちうど ) 悽 ( すさま ) じき 瀑 ( たき ) と 錯 ( あやま ) りけるなり。 因 ( よ ) りて 名 ( な ) づく、 又 ( また ) 夜雨 ( よさめ ) の 瀧 ( たき ) 。
此瀧 ( このたき ) を 過 ( す ) ぎて 小一町 ( こいつちやう ) 、 道 ( みち ) のほとり、 山 ( やま ) の 根 ( ね ) の 巖 ( いは ) に 清水 ( しみづ ) 滴 ( したゝ ) り、三 體 ( たい ) の 地藏尊 ( ぢざうそん ) を 安置 ( あんち ) して、 幽徑 ( いうけい ) 磽※ ( げうかく )(※=「石+角」、第3水準1-89-6、338-6) たり。 戲 ( たはむ ) れに 箱根々々 ( はこね/\ ) と 呼 ( よ ) びしが、 人 ( ひと ) あり、 櫻山 ( さくらやま ) に 向 ( むか ) ひ 合 ( あ ) へる 池子山 ( いけごやま ) の 奧 ( おく ) 、 神武寺 ( じんむじ ) の 邊 ( あたり ) より、 萬兩 ( まんりやう ) の 實 ( み ) の 房 ( ふさ ) やかに 附 ( つ ) いたるを 一本 ( ひともと ) 得 ( え ) て 歸 ( かへ ) りて、 此草 ( このくさ ) 幹 ( みき ) の 高 ( たか ) きこと一 丈 ( ぢやう ) 、 蓋 ( けだ ) し 百年 ( ハコネ ) 以來 ( いらい ) のもの 也 ( なり ) と 誇 ( ほこ ) る、 其 ( そ ) のをのこ 國訛 ( くになまり ) にや、 百年 ( ひやくねん ) といふが 百年々々 ( ハコネ/\ ) と 聞 ( きこ ) ゆるもをかしく 今 ( いま ) は 名所 ( めいしよ ) となりぬ。
嗚呼 ( をこ ) なる 哉 ( かな ) 、 吾等 ( われら ) 晝寢 ( ひるね ) してもあるべきを、かくてつれ/″\を 過 ( すご ) すにこそ。
臺所 ( だいどころ ) より 富士 ( ふじ ) 見 ( み ) ゆ。 露 ( つゆ ) の 木槿 ( むくげ ) ほの 紅 ( あか ) う、 茅屋 ( かやや ) のあちこち 黒 ( くろ ) き 中 ( なか ) に、 狐火 ( きつねび ) かとばかり 灯 ( ともしび ) の 色 ( いろ ) 沈 ( しづ ) みて、 池子 ( いけご ) の 麓 ( ふもと ) 砧 ( きぬた ) 打 ( う ) つ 折 ( をり ) から、 妹 ( いも ) がり 行 ( ゆ ) くらん 遠畦 ( とほあぜ ) の 在郷唄 ( ざいがううた ) 、 盆 ( ぼん ) 過 ( す ) ぎてよりあはれさ 更 ( さら ) にまされり。
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