彌次行
泉鏡花 (Yajiko) | ||
彌次行
泉鏡花
今 ( いま ) は 然 ( さ ) る 憂慮 ( きづかひ ) なし。 大塚 ( おほつか ) より 氷川 ( ひかは ) へ 下 ( お ) りる、たら/\ 坂 ( ざか ) は、 恰 ( あたか ) も 芳野世經氏宅 ( よしのせいけいしたく ) の 門 ( もん ) について 曲 ( まが ) る、 昔 ( むかし ) は 辻斬 ( つじぎり ) ありたり。こゝに 幽靈坂 ( いうれいざか ) 、 猫又坂 ( ねこまたざか ) 、くらがり 坂 ( ざか ) など 謂 ( い ) ふあり、 好事 ( かうず ) の 士 ( し ) は 尋 ( たづ ) ぬべし。 田圃 ( たんぼ ) には 赤蜻蛉 ( あかとんぼ ) 、 案山子 ( かゝし ) 、 鳴子 ( なるこ ) などいづれも 風情 ( ふぜい ) なり。 天 ( てん ) 麗 ( うらゝ ) かにして 其 ( その ) 幽靈坂 ( いうれいざか ) の 樹立 ( こだち ) の 中 ( なか ) に 鳥 ( とり ) の 聲 ( こゑ ) す。 句 ( く ) になるね、と 知 ( し ) つた 振 ( ふり ) をして 聲 ( こゑ ) を 懸 ( か ) くれば、 何 ( なに ) か 心得 ( こゝろえ ) たる 樣子 ( やうす ) にて 同行 ( どうかう ) の 北八 ( きたはち ) は 腕組 ( うでぐみ ) をして 少時 ( しばらく ) 默 ( だま ) る。
氷川神社 ( ひかはじんじや ) を 石段 ( いしだん ) の 下 ( した ) にて 拜 ( をが ) み、 此宮 ( このみや ) と 植物園 ( しよくぶつゑん ) の 竹藪 ( たけやぶ ) との 間 ( あひだ ) の 坂 ( さか ) を 上 ( のぼ ) りて 原町 ( はらまち ) へ 懸 ( かゝ ) れり。 路 ( みち ) の 彼方 ( あなた ) に 名代 ( なだい ) の 護謨 ( ごむ ) 製造所 ( せいざうしよ ) のあるあり。 職人 ( しよくにん ) 眞黒 ( まつくろ ) になつて 働 ( はたら ) く。 護謨 ( ごむ ) の 匂 ( にほひ ) 面 ( おもて ) を 打 ( う ) つ。 通 ( とほ ) り 拔 ( ぬ ) ければ 木犀 ( もくせい ) の 薫 ( かをり ) 高 ( たか ) き 横町 ( よこちやう ) なり。これより 白山 ( はくさん ) の 裏 ( うら ) に 出 ( い ) でて、 天外君 ( てんぐわいくん ) の 竹垣 ( たけがき ) の 前 ( まへ ) に 至 ( いた ) るまでは 我々 ( われ/\ ) 之 ( これ ) を 間道 ( かんだう ) と 稱 ( とな ) へて、 夜 ( よる ) は 犬 ( いぬ ) の 吠 ( ほ ) ゆる 難處 ( なんしよ ) なり。 件 ( くだん ) の 垣根 ( かきね ) を 差覗 ( さしのぞ ) きて、をぢさん 居 ( ゐ ) るか、と 聲 ( こゑ ) を 懸 ( か ) ける。 黄菊 ( きぎく ) を 活 ( い ) けたる 床 ( とこ ) の 間 ( ま ) の 見透 ( みとほ ) さるゝ 書齋 ( しよさい ) に 聲 ( こゑ ) あり、 居 ( ゐ ) る/\と。
やがて 着流 ( きなが ) し 懷手 ( ふところで ) にて、 冷 ( つめた ) さうな 縁側 ( えんがは ) に 立顯 ( たちあらは ) れ、 莞爾 ( につこ ) として 曰 ( いは ) く、 何處 ( どこ ) へ。あゝ 北八 ( きたはち ) の 野郎 ( やらう ) とそこいらまで。まあ、お 入 ( はひ ) り。いづれ、と 言 ( い ) つて 分 ( わか ) れ、 大乘寺 ( だいじようじ ) の 坂 ( さか ) を 上 ( のぼ ) り、 駒込 ( こまごめ ) に 出 ( い ) づ。
料理屋 ( れうりや ) 萬金 ( まんきん ) の 前 ( まへ ) を 左 ( ひだり ) へ 折 ( を ) れて 眞直 ( まつすぐ ) に、 追分 ( おひわけ ) を 右 ( みぎ ) に 見 ( み ) て、むかうへ 千駄木 ( せんだぎ ) に 至 ( いた ) る。
路 ( みち ) に 門 ( もん ) あり、 門内 ( もんない ) 兩側 ( りやうがは ) に 小松 ( こまつ ) をならべ 植 ( う ) ゑて、 奧深 ( おくふか ) く 住 ( すま ) へる 家 ( いへ ) なり。 主人 ( あるじ ) は、 巣鴨 ( すがも ) 邊 ( へん ) の 學校 ( がくかう ) の 教授 ( けうじゆ ) にて 知 ( し ) つた 人 ( ひと ) 。 北八 ( きたはち ) を 顧 ( かへり ) みて、 日曜 ( にちえう ) でないから 留守 ( るす ) だけれども、 氣 ( き ) の 利 ( き ) いた 小間使 ( こまづかひ ) が 居 ( ゐ ) るぜ、 一寸 ( ちよつと ) 寄 ( よ ) つて 茶 ( ちや ) を 呑 ( の ) まうかと 笑 ( わら ) ふ。およしよ、と 苦 ( にが ) い 顏 ( かほ ) をする。 即 ( すなは ) ちよして、 團子坂 ( だんござか ) に 赴 ( おもむ ) く。 坂 ( さか ) の 上 ( うへ ) の 煙草屋 ( たばこや ) にて 北八 ( きたはち ) 嗜 ( たし ) む 處 ( ところ ) のパイレートを 購 ( あがな ) ふ。 勿論 ( もちろん ) 身錢 ( みぜに ) なり。 此 ( こ ) の 舶來 ( はくらい ) 煙草 ( たばこ ) 此邊 ( このへん ) には 未 ( いま ) だ 之 ( こ ) れあり。 但 ( たゞ ) し 濕 ( しめ ) つて 味 ( あじはひ ) 可 ( か ) ならず。
坂 ( さか ) の 下 ( した ) は、 左右 ( さいう ) の 植木屋 ( うゑきや ) 、 屋外 ( をくぐわい ) に 足場 ( あしば ) を 設 ( まう ) け、 半纏着 ( はんてんぎ ) の 若衆 ( わかもの ) 蛛手 ( くもで ) に 搦 ( から ) んで、 造菊 ( つくりぎく ) の 支度最中 ( したくさいちう ) なりけり。 行 ( ゆ ) く/\フと 古道具屋 ( ふるだうぐや ) の 前 ( まへ ) に 立 ( た ) つ。 彌次 ( やじ ) 見 ( み ) て 曰 ( いは ) く、 茶棚 ( ちやだな ) はあんなのが 可 ( い ) いな。 入 ( い ) らつしやいまし、と 四十恰好 ( しじふかつかう ) の、 人柄 ( ひとがら ) なる 女房 ( にようばう ) 奧 ( おく ) より 出 ( い ) で、 坐 ( ざ ) して 慇懃 ( いんぎん ) に 挨拶 ( あいさつ ) する。 南無三 ( なむさん ) 聞 ( きこ ) えたかとぎよつとする。 爰 ( こゝ ) に 於 ( おい ) てか 北八 ( きたはち ) 大膽 ( だいたん ) に、おかみさん 彼 ( あ ) の 茶棚 ( ちやだな ) はいくら。 皆 ( みな ) 寒竹 ( かんちく ) でございます、はい、お 品 ( しな ) が 宜 ( よろ ) しうございます、 五圓六十錢 ( ごゑんろくじつせん ) に 願 ( ねが ) ひたう 存 ( ぞん ) じます。 兩人 ( りやうにん ) 顏 ( かほ ) を 見合 ( みあは ) せて 思入 ( おもひいれ ) あり。 北八 ( きたはち ) 心得 ( こゝろえ ) たる 顏 ( かほ ) はすれども、さすがにどぎまぎして 言 ( い ) はむと 欲 ( ほつ ) する 處 ( ところ ) を 知 ( し ) らず、おかみさん 歸 ( かへり ) にするよ。 唯々 ( はい/\ ) 。お 邪魔 ( じやま ) でしたと 兄 ( にい ) さんは 旨 ( うま ) いものなり。 虎口 ( ここう ) を 免 ( のが ) れたる 顏色 ( かほつき ) の、 何 ( ど ) うだ、 北八 ( きたはち ) 恐入 ( おそれい ) つたか。 餘計 ( よけい ) な 口 ( くち ) を 利 ( き ) くもんぢやないよ。
思 ( おも ) ひ 懸 ( が ) けず 又 ( また ) 露地 ( ろぢ ) の 口 ( くち ) に、 抱餘 ( かゝへあま ) る 松 ( まつ ) の 大木 ( たいぼく ) を 筒切 ( つゝぎり ) にせしよと 思 ( おも ) ふ、 張子 ( はりこ ) の 恐 ( おそろ ) しき 腕 ( かひな ) 一本 ( いつぽん ) 、 荷車 ( にぐるま ) に 積置 ( つみお ) いたり。 追 ( おつ ) て、 大江山 ( おほえやま ) はこれでござい、 入 ( い ) らはい/\と 言 ( い ) ふなるべし。
笠森稻荷 ( かさもりいなり ) のあたりを 通 ( とほ ) る。 路傍 ( みちばた ) のとある 駄菓子屋 ( だぐわしや ) の 奧 ( おく ) より、 中形 ( ちうがた ) の 浴衣 ( ゆかた ) に 繻子 ( しゆす ) の 帶 ( おび ) だらしなく、 島田 ( しまだ ) 、 襟白粉 ( えりおしろい ) 、 襷 ( たすき ) がけなるが、 緋褌 ( ひこん ) を 蹴返 ( けかへ ) し、ばた/\と 駈 ( か ) けて 出 ( い ) で、 一寸 ( ちよつと ) 、 煮豆屋 ( にまめや ) さん/\。 手 ( て ) には 小皿 ( こざら ) を 持 ( も ) ちたり。 四五軒 ( しごけん ) 行過 ( ゆきす ) ぎたる 威勢 ( ゐせい ) の 善 ( よ ) き 煮豆屋 ( にまめや ) 、 振返 ( ふりかへ ) りて、よう!と 言 ( い ) ふ。
そら 又 ( また ) 化性 ( けしやう ) のものだと、 急足 ( いそぎあし ) に 谷中 ( やなか ) に 着 ( つ ) く。いつも 變 ( かは ) らぬ 景色 ( けしき ) ながら、 腕 ( うで ) と 島田 ( しまだ ) におびえし 擧句 ( あげく ) の、 心細 ( こゝろぼそ ) さいはむ 方 ( かた ) なし。
森 ( もり ) の 下 ( した ) の 徑 ( こみち ) を 行 ( ゆ ) けば、 土 ( つち ) 濡 ( ぬ ) れ、 落葉 ( おちば ) 濕 ( しめ ) れり。 白張 ( しらはり ) の 提灯 ( ちやうちん ) に、 薄 ( うす ) き 日影 ( ひかげ ) さすも 物淋 ( ものさび ) し。 苔 ( こけ ) 蒸 ( む ) し、 樒 ( しきみ ) 枯 ( か ) れたる 墓 ( はか ) に、 門 ( もん ) のみいかめしきもはかなしや。 印 ( しるし ) の 石 ( いし ) も 青 ( あを ) きあり、 白 ( しろ ) きあり、 質 ( しつ ) 滑 ( なめらか ) にして 斑 ( ふ ) のあるあり。あるが 中 ( なか ) に 神婢 ( しんぴ ) と 書 ( か ) いたるなにがしの 女 ( ぢよ ) が 耶蘇教徒 ( やそけうと ) の 十字形 ( じふじがた ) の 塚 ( つか ) は、 法 ( のり ) の 路 ( みち ) に 迷 ( まよ ) ひやせむ、 異國 ( いこく ) の 人 ( ひと ) の、 友 ( とも ) なきかと 哀 ( あはれ ) 深 ( ふか ) し。
竹 ( たけ ) の 埒 ( らち ) 結 ( ゆ ) ひたる 中 ( なか ) に、 三四人 ( さんよにん ) 土 ( つち ) をほり 居 ( ゐ ) るあたりにて、 路 ( みち ) も 分 ( わか ) らずなりしが、 洋服 ( やうふく ) 着 ( き ) たる 坊 ( ばう ) ちやん 二人 ( ふたり ) 、 學校 ( がくかう ) の 戻 ( もどり ) と 見 ( み ) ゆるがつか/\と 通 ( とほ ) るに 頼母 ( たのも ) しくなりて、 後 ( あと ) をつけ、やがて 木 ( こ ) の 間 ( ま ) に 立 ( た ) つ 湯氣 ( ゆげ ) を 見 ( み ) れば 掛茶屋 ( かけぢやや ) なりけり。
休 ( やす ) ましておくれ、と 腰 ( こし ) をかけて 一息 ( ひといき ) つく。 大分 ( だいぶ ) お 暖 ( あつたか ) でございますと、 婆 ( ばゞ ) は 銅 ( あかゞね ) の 大藥罐 ( おほやくわん ) の 茶 ( ちや ) をくれる。 床几 ( しやうぎ ) の 下 ( した ) に 俵 ( たはら ) を 敷 ( し ) けるに、 犬 ( いぬ ) の 子 ( こ ) 一匹 ( いつぴき ) 、 其日 ( そのひ ) の 朝 ( あさ ) より 目 ( め ) の 見 ( み ) ゆるものの 由 ( よし ) 、 漸 ( やつ ) と 食 ( しよく ) づきましたとて、 老年 ( としより ) の 餘念 ( よねん ) もなげなり。 折 ( をり ) から 子 ( こ ) を 背 ( せな ) に、 御新造 ( ごしんぞ ) 一人 ( いちにん ) 、 片手 ( かたて ) に 蝙蝠傘 ( かうもりがさ ) をさして、 片手 ( かたて ) に 風車 ( かざぐるま ) をまはして 見 ( み ) せながら、 此 ( こ ) の 前 ( まへ ) を 通 ( とほ ) り 行 ( ゆ ) きぬ。あすこが 踏切 ( ふみきり ) だ、 徐々 ( そろ/\ ) 出懸 ( でか ) けようと、 茶店 ( ちやてん ) を 辭 ( じ ) す。
何 ( ど ) うだ 北八 ( きたはち ) 、 線路 ( せんろ ) の 傍 ( わき ) の 彼 ( あ ) の 森 ( もり ) が 鶯花園 ( あうくわゑん ) だよ、 畫 ( ゑ ) に 描 ( か ) いた 天女 ( てんによ ) は 賣藥 ( ばいやく ) の 廣告 ( くわうこく ) だ、そんなものに、 見愡 ( みと ) れるな。おつと、また 其 ( その ) 古道具屋 ( ふるだうぐや ) は 高 ( たか ) さうだぜ、お 辭儀 ( じぎ ) をされると 六 ( むづ ) ヶしいぞ。いや、 何 ( なに ) か 申 ( まを ) す 内 ( うち ) に、ハヤこれは 笹 ( さゝ ) の 雪 ( ゆき ) に 着 ( つ ) いて 候 ( さふらふ ) が、 三時 ( さんじ ) すぎにて 店 ( みせ ) はしまひ、 交番 ( かうばん ) の 角 ( かど ) について 曲 ( まが ) る。この 流 ( ながれ ) に 人 ( ひと ) 集 ( つど ) ひ 葱 ( ねぎ ) を 洗 ( あら ) へり。 葱 ( ねぎ ) の 香 ( か ) の 小川 ( をがは ) に 流 ( なが ) れ、とばかりにて 句 ( く ) にはならざりしが、あゝ、もうちつとで 思 ( おも ) ふこといはぬは 腹 ( はら ) ふくるゝ 業 ( わざ ) よといへば、いま 一足 ( ひとあし ) 早 ( はや ) かりせば、 笹 ( さゝ ) の 雪 ( ゆき ) が 賣切 ( うりきれ ) にて 腹 ( はら ) ふくれぬ 事 ( こと ) よといふ。さあ、じぶくらずに、 歩行 ( ある ) いた/\。
一寸 ( ちよつと ) 伺 ( うかゞ ) ひます。 此路 ( このみち ) を 眞直 ( まつすぐ ) に 參 ( まゐ ) りますと、 左樣 ( さやう ) 三河島 ( みかはしま ) と、 路 ( みち ) を 行 ( ゆ ) く 人 ( ひと ) に 教 ( をし ) へられて、おや/\と、 引返 ( ひきかへ ) し、 白壁 ( しらかべ ) の 見 ( み ) ゆる 土藏 ( どざう ) をあてに 他 ( た ) の 畦 ( あぜ ) を 突切 ( つツき ) るに、ちよろ/\ 水 ( みづ ) のある 中 ( なか ) に 紫 ( むらさき ) の 花 ( はな ) の 咲 ( さ ) いたる 草 ( くさ ) あり。 綺麗 ( きれい ) といひて 見返勝 ( みかへりがち ) 、のんきにうしろ 歩行 ( あるき ) をすれば、 得 ( え ) ならぬ 臭 ( にほひ ) 、 細 ( ほそ ) き 道 ( みち ) を、 肥料室 ( こやしむろ ) の 挾撃 ( はさみうち ) なり。 目 ( め ) を 眠 ( ねむ ) つて 吶喊 ( とつかん ) す。 既 ( すで ) にして 三島神社 ( みしまじんじや ) の 角 ( かど ) なり。
亡 ( なく ) なつた 一葉女史 ( いちえふぢよし ) が、たけくらべといふ 本 ( ほん ) に、 狂氣街道 ( きちがひかいだう ) といつたのは 是 ( これ ) から 前 ( さき ) ださうだ、うつかりするな、 恐 ( おそろ ) しいよ、と 固 ( かた ) く 北八 ( きたはち ) を 警戒 ( けいかい ) す。
やあ 汚 ( きたね ) え 溝 ( どぶ ) だ。 恐 ( おそろ ) しい 石灰 ( いしばひ ) だ。 酷 ( ひど ) い 道 ( みち ) だ。 三階 ( さんがい ) があるぜ、 浴衣 ( ゆかた ) ばかしの 土用干 ( どようぼし ) か、 夜具 ( やぐ ) の 裏 ( うら ) が 眞赤 ( まつか ) な、 何 ( なん ) だ 棧橋 ( さんばし ) が 突立 ( つツた ) つてら。 叱 ( しつ ) ! 默 ( だま ) つて/\と、 目 ( め ) くばせして、 衣紋坂 ( えもんざか ) より 土手 ( どて ) に 出 ( い ) でしが、 幸 ( さいは ) ひ 神田 ( かんだ ) の 伯父 ( をぢ ) に 逢 ( あ ) はず、 客待 ( きやくまち ) の 車 ( くるま ) と、 烈 ( はげ ) しい 人通 ( ひとどほり ) の 眞晝間 ( まつぴるま ) 、 露店 ( ほしみせ ) の 白 ( しろ ) い 西瓜 ( すゐくわ ) 、 埃 ( ほこり ) だらけの 金鍔燒 ( きんつばやき ) 、おでんの 屋臺 ( やたい ) の 中 ( なか ) を 拔 ( ぬ ) けて 柳 ( やなぎ ) の 下 ( した ) をさつ/\と 行 ( ゆ ) く。 實 ( じつ ) は 土手 ( どて ) の 道哲 ( だうてつ ) に 結縁 ( けちえん ) して 艷福 ( えんぷく ) を 祈 ( いの ) らばやと 存 ( ぞん ) ぜしが、まともに 西日 ( にしび ) を 受 ( う ) けたれば、 顏 ( かほ ) がほてつて 我慢 ( がまん ) ならず、 土手 ( どて ) を 行 ( ゆ ) くこと 纔 ( わづか ) にして、 日蔭 ( ひかげ ) の 田町 ( たまち ) へ 遁 ( に ) げて 下 ( お ) りて、さあ、よし。 北八 ( きたはち ) 大丈夫 ( だいぢやうぶ ) だ、と 立直 ( たちなほ ) つて 悠然 ( いうぜん ) となる。 此邊 ( このあたり ) 小 ( こ ) ぢんまりとしたる 商賣 ( あきなひや ) の 軒 ( のき ) ならび、しもたやと 見 ( み ) るは、 産婆 ( さんば ) 、 人相見 ( にんさうみ ) 、お 手紙 ( てがみ ) したゝめ 處 ( どころ ) なり。 一軒 ( いつけん ) 、 煮染屋 ( にしめや ) の 前 ( まへ ) に 立 ( た ) ちて、 買物 ( かひもの ) をして 居 ( ゐ ) た 中年増 ( ちうどしま ) の 大丸髷 ( おほまるまげ ) 、 紙 ( かみ ) あまた 積 ( つ ) んだる 腕車 ( くるま ) を 推 ( お ) して、 小僧 ( こぞう ) 三人 ( さんにん ) 向 ( むか ) うより 來懸 ( きかゝ ) りしが、 私語 ( しご ) して 曰 ( いは ) く、 見 ( み ) ねえ、 年明 ( ねんあけ ) だと。
路 ( みち ) に 太郎稻荷 ( たらういなり ) あり、 奉納 ( ほうなふ ) の 手拭 ( てぬぐひ ) 堂 ( だう ) を 蔽 ( おほ ) ふ、 小 ( ちさ ) き 鳥居 ( とりゐ ) 夥多 ( おびたゞ ) し。 此處 ( こゝ ) 彼處 ( かしこ ) 露地 ( ろぢ ) の 日 ( ひ ) あたりに 手習草紙 ( てならひざうし ) を 干 ( ほ ) したるが 到 ( いた ) る 處 ( ところ ) に 見 ( み ) ゆ、 最 ( いと ) もしをらし。それより 待乳山 ( まつちやま ) の 聖天 ( しやうでん ) に 詣 ( まう ) づ。
本堂 ( ほんだう ) に 額 ( ぬかづ ) き 果 ( は ) てて、 衝 ( つ ) と 立 ( た ) ちて 階 ( きざはし ) の 方 ( かた ) に 歩 ( あゆ ) み 出 ( い ) でたるは、 年紀 ( とし ) はやう/\ 二十 ( はたち ) ばかりと 覺 ( おぼ ) しき 美人 ( びじん ) 、 眉 ( まゆ ) を 拂 ( はら ) ひ、 鐵漿 ( かね ) をつけたり。 前垂 ( まへだれ ) がけの 半纏着 ( はんてんぎ ) 、 跣足 ( はだし ) に 駒下駄 ( こまげた ) を 穿 ( は ) かむとして、 階下 ( かいか ) につい 居 ( ゐ ) る 下足番 ( げそくばん ) の 親仁 ( おやぢ ) の 伸 ( のび ) をする 手 ( て ) に、 一寸 ( ちよつと ) 握 ( にぎ ) らせ 行 ( ゆ ) く。 親仁 ( おやぢ ) は 高々 ( たか/″\ ) と 押戴 ( おしいたゞ ) き、 毎度 ( まいど ) 何 ( ど ) うも、といふ。 境内 ( けいだい ) の 敷石 ( しきいし ) の 上 ( うへ ) を 行 ( ゆ ) きつ 戻 ( もど ) りつ、 別 ( べつ ) にお 百度 ( ひやくど ) を 踏 ( ふ ) み 居 ( ゐ ) るは 男女 ( なんによ ) 二人 ( ふたり ) なり。 女 ( をんな ) は 年紀 ( とし ) 四十ばかり。 黒縮緬 ( くろちりめん ) の 一 ( ひと ) ツ 紋 ( もん ) の 羽織 ( はおり ) を 着 ( き ) て 足袋 ( たび ) 跣足 ( はだし ) 、 男 ( をとこ ) は 盲縞 ( めくらじま ) の 腹掛 ( はらがけ ) 、 股引 ( もゝひき ) 、 彩 ( いろどり ) ある 七福神 ( しちふくじん ) の 模樣 ( もやう ) を 織 ( お ) りたる 丈長 ( たけなが ) き 刺子 ( さしこ ) を 着 ( き ) たり。これは 素跣足 ( すはだし ) 、 入交 ( いりちが ) ひになり、 引違 ( ひきちが ) ひ、 立交 ( たちかは ) りて 二人 ( ふたり ) とも 傍目 ( わきめ ) も 觸 ( ふ ) らず。おい 邪魔 ( じやま ) になると 惡 ( わる ) いよと 北八 ( きたはち ) を 促 ( うなが ) し、 道 ( みち ) を 開 ( ひら ) いて、 見晴 ( みはらし ) に 上 ( のぼ ) る。 名 ( な ) にし 負 ( お ) ふ 今戸 ( いまど ) あたり、 船 ( ふね ) は 水 ( みづ ) の 上 ( うへ ) を 音 ( おと ) もせず、 人 ( ひと ) の 家 ( いへ ) の 瓦屋根 ( かはらやね ) の 間 ( あひだ ) を 行交 ( ゆきか ) ふ 樣 ( さま ) 手 ( て ) に 取 ( と ) るばかり。 水 ( みづ ) も 青 ( あを ) く 天 ( てん ) も 青 ( あを ) し。 白帆 ( しらほ ) あちこち、 處々 ( ところ/″\ ) 煙突 ( えんとつ ) の 煙 ( けむり ) たなびけり、 振 ( ふり ) さけ 見 ( み ) れば 雲 ( くも ) もなきに、 傍 ( かたはら ) には 大樹 ( たいじゆ ) 蒼空 ( あをぞら ) を 蔽 ( おほ ) ひて 物 ( もの ) ぐらく、 呪 ( のろひ ) の 釘 ( くぎ ) もあるべき 幹 ( みき ) なり。おなじ 臺 ( だい ) に 向顱巻 ( むかうはちまき ) したる 子守女 ( こもりをんな ) 三人 ( さんにん ) あり。 身體 ( からだ ) を 搖 ( ゆす ) り、 下駄 ( げた ) にて 板敷 ( いたじき ) を 踏鳴 ( ふみな ) らす 音 ( おと ) おどろ/\し。 其 ( その ) まゝ 渡場 ( わたしば ) を 志 ( こゝろざ ) す、 石段 ( いしだん ) の 中途 ( ちうと ) にて 行逢 ( ゆきあ ) ひしは、 日傘 ( ひがさ ) さしたる、十二ばかりの 友禪縮緬 ( いうぜんちりめん ) 、 踊子 ( をどりこ ) か。
振返 ( ふりかへ ) れば 聖天 ( しやうでん ) の 森 ( もり ) 、 待乳 ( まつち ) 沈 ( しづ ) んで 梢 ( こずゑ ) 乘込 ( のりこ ) む 三谷堀 ( さんやぼり ) は、 此處 ( こゝ ) だ、 此處 ( こゝ ) だ、と 今戸 ( いまど ) の 渡 ( わたし ) に 至 ( いた ) る。
出 ( で ) ますよ、さあ 早 ( はや ) く/\。 彌次 ( やじ ) 舷端 ( ふなばた ) にしがみついてしやがむ。 北八 ( きたはち ) 悠然 ( いうぜん ) とパイレートをくゆらす。 乘合 ( のりあひ ) 十四五人 ( じふしごにん ) 、 最後 ( さいご ) に 腕車 ( わんしや ) を 乘 ( の ) せる。 船 ( ふね ) 少 ( すこ ) し 右 ( みぎ ) へ 傾 ( かたむ ) く、はツと 思 ( おも ) ふと 少 ( すこ ) し 蒼 ( あを ) くなる。 丁 ( とん ) と 棹 ( さを ) をつく、ゆらりと 漕出 ( こぎだ ) す。
船頭 ( せんどう ) さん、 渡場 ( わたしば ) で 一番 ( いちばん ) 川幅 ( かははゞ ) の 廣 ( ひろ ) いのは 何處 ( どこ ) だい。 先 ( ま ) づ 此處 ( こゝ ) だね。 何町位 ( なんちやうぐらゐ ) あるねといふ。 唾 ( つば ) 乾 ( かわ ) きて 齒 ( は ) の 根 ( ね ) も 合 ( あ ) はず、 煙管 ( きせる ) は 出 ( だ ) したが 手 ( て ) が 震 ( ふる ) へる。 北八 ( きたはち ) は、にやり/\、 中流 ( ちうりう ) に 至 ( いた ) る 頃 ( ころほ ) ひ 一錢蒸汽 ( いつせんじようき ) の 餘波 ( よは ) 來 ( きた ) る、ぴツたり 突伏 ( つツぷ ) して 了 ( しま ) ふ。 危 ( あぶね ) えといふは 船頭 ( せんどう ) の 聲 ( こゑ ) 、ヒヤアと 肝 ( きも ) を 冷 ( ひや ) す。 圖 ( はか ) らざりき、 急 ( せ ) かずに/\と 二 ( に ) の 句 ( く ) を 續 ( つゞ ) けるのを 聞 ( き ) いて、 目 ( め ) を 開 ( ひら ) けば 向島 ( むかうじま ) なり。それより 百花園 ( ひやくくわゑん ) に 遊 ( あそ ) ぶ。 黄昏 ( たそがれ ) たり。
萩 ( はぎ ) 暮 ( く ) れて 薄 ( すゝき ) まばゆき 夕日 ( ゆふひ ) かな
言 ( い ) ひつくすべくもあらず、 秋草 ( あきぐさ ) の 種々 ( くさ/″\ ) 數 ( かぞ ) ふべくもあらじかし。 北八 ( きたはち ) が 此作 ( このさく ) の 如 ( ごと ) きは、 園内 ( ゑんない ) に 散 ( ちら ) ばつたる 石碑 ( せきひ ) 短册 ( たんじやく ) の 句 ( く ) と 一般 ( いつぱん ) 、 難澁 ( なんじふ ) 千萬 ( せんばん ) に 存 ( ぞん ) ずるなり。
床几 ( しやうぎ ) に 休 ( いこ ) ひ 打眺 ( うちなが ) むれば、 客 ( きやく ) 幾組 ( いくくみ ) 、 高帽 ( たかばう ) の 天窓 ( あたま ) 、 羽織 ( はおり ) の 肩 ( かた ) 、 紫 ( むらさき ) の 袖 ( そで ) 、 紅 ( くれなゐ ) の 裙 ( すそ ) 、 薄 ( すゝき ) に 見 ( み ) え、 萩 ( はぎ ) に 隱 ( かく ) れ、 刈萱 ( かるかや ) に 搦 ( から ) み、 葛 ( くず ) に 絡 ( まと ) ひ、 芙蓉 ( ふよう ) にそよぎ、 靡 ( なび ) き 亂 ( みだ ) れ、 花 ( はな ) を 出 ( い ) づる 人 ( ひと ) 、 花 ( はな ) に 入 ( い ) る 人 ( ひと ) 、 花 ( はな ) をめぐる 人 ( ひと ) 、 皆 ( みな ) 此花 ( このはな ) より 生 ( うま ) れ 出 ( い ) でて、 立去 ( たちさ ) りあへず、 舞 ( ま ) ひありく、 人 ( ひと ) の 蝶 ( てふ ) とも 謂 ( い ) ひつべう。
などと 落雁 ( らくがん ) を 噛 ( かじ ) つて 居 ( ゐ ) る。 處 ( ところ ) へ! 供 ( とも ) を 二人 ( ふたり ) つれて、 車夫體 ( しやふてい ) の 壯佼 ( わかもの ) にでつぷりと 肥 ( こ ) えた 親仁 ( おやぢ ) の、 唇 ( くちびる ) がべろ/\として 無花果 ( いちじゆく ) の 裂 ( さ ) けたる 如 ( ごと ) き、 眦 ( めじり ) の 下 ( さが ) れる、 頬 ( ほゝ ) の 肉 ( にく ) 掴 ( つか ) むほどあるのを 負 ( お ) はして、 六十 ( ろくじふ ) 有餘 ( いうよ ) の 媼 ( おうな ) 、 身 ( み ) の 丈 ( たけ ) 拔群 ( ばつくん ) にして、 眼 ( まなこ ) 鋭 ( するど ) く 鼻 ( はな ) の 上 ( うへ ) の 皺 ( しわ ) に 惡相 ( あくさう ) を 刻 ( きざ ) み 齒 ( は ) の 揃 ( そろ ) へる 水々 ( みづ/\ ) しきが、 小紋 ( こもん ) 縮緬 ( ちりめん ) のりうたる 着附 ( きつけ ) 、 金時計 ( きんどけい ) をさげて、 片手 ( かたて ) に 裳 ( もすそ ) をつまみ 上 ( あ ) げ、さすがに 茶澁 ( ちやしぶ ) の 出 ( で ) た 脛 ( はぎ ) に、 淺葱 ( あさぎ ) 縮緬 ( ちりめん ) を 搦 ( から ) ませながら、 片手 ( かたて ) に 銀 ( ぎん ) の 鎖 ( くさり ) を 握 ( にぎ ) り、これに 渦毛 ( うづけ ) の 斑 ( ぶち ) の 艷々 ( つや/\ ) しき 狆 ( ちん ) を 繋 ( つな ) いで、ぐい/\と 手綱 ( たづな ) のやうに 捌 ( さば ) いて 來 ( き ) しが、 太 ( ふと ) い 聲 ( こゑ ) して、 何 ( ど ) うぢや 未 ( ま ) だ 歩行 ( ある ) くか、と 言 ( い ) ふ/\ 人 ( ひと ) も 無 ( な ) げにさつさつと 縱横 ( じうわう ) に 濶歩 ( くわつぽ ) する。 人 ( ひと ) に 負 ( おぶ ) はして 連 ( つ ) れた 親仁 ( おやぢ ) は、 腰 ( こし ) の 拔 ( ぬ ) けたる 夫 ( をつと ) なるべし。 驚破 ( すは ) 秋草 ( あきぐさ ) に、あやかしのついて 候 ( さふらふ ) ぞ、と 身構 ( みがまへ ) したるほどこそあれ、 安下宿 ( やすげしゆく ) の 娘 ( むすめ ) と 書生 ( しよせい ) として、 出來合 ( できあひ ) らしき 夫婦 ( ふうふ ) の 來 ( きた ) りしが、 當歳 ( たうさい ) ばかりの 嬰兒 ( あかんぼ ) を、 男 ( をとこ ) が、 小手 ( こて ) のやうに 白 ( しろ ) シヤツを 鎧 ( よろ ) へる 手 ( て ) に、 高々 ( たか/″\ ) と 抱 ( いだ ) いて、 大童 ( おほわらは ) 。それ 鼬 ( いたち ) の 道 ( みち ) を 切 ( き ) る 時 ( とき ) 押 ( お ) して 進 ( すゝ ) めば 禍 ( わざはひ ) あり、 山 ( やま ) に 櫛 ( くし ) の 落 ( お ) ちたる 時 ( とき ) 、 之 ( これ ) を 避 ( さ ) けざれば 身 ( み ) を 損 ( そこな ) ふ。 兩頭 ( りやうとう ) の 蛇 ( へび ) を 見 ( み ) たるものは 死 ( し ) し、 路 ( みち ) に 小兒 ( こども ) を 抱 ( だ ) いた 亭主 ( ていしゆ ) を 見 ( み ) れば、 壽 ( ことぶき ) 長 ( なが ) からずとしてある 也 ( なり ) 。ああ 情 ( なさけ ) ない 目 ( め ) を 見 ( み ) せられる、 鶴龜々々 ( つるかめ/\ ) と 北八 ( きたはち ) と 共 ( とも ) に 寒 ( さむ ) くなる。 人 ( ひと ) の 難儀 ( なんぎ ) も 構 ( かま ) はばこそ、 瓢箪棚 ( へうたんだな ) の 下 ( した ) に 陣取 ( ぢんど ) りて、 坊 ( ばう ) やは 何處 ( どこ ) だ、 母 ( かあ ) ちやんには、 見 ( み ) えないよう、あばよといへ、ほら 此處 ( こゝ ) だ、ほらほらはゝはゝゝおほゝゝと 高笑 ( たかわらひ ) 。 弓矢八幡 ( ゆみやはちまん ) もう 堪 ( たま ) らぬ。よい/\の、 犬 ( いぬ ) の、 婆 ( ばゞ ) の、 金時計 ( きんどけい ) の、 淺葱 ( あさぎ ) の 褌 ( ふんどし ) の、 其上 ( そのうへ ) に、 子抱 ( こかゝへ ) の 亭主 ( ていしゆ ) と 來 ( き ) た 日 ( ひ ) には、こりや 何時 ( いつ ) までも 見 ( み ) せられたら、 目 ( め ) が 眩 ( くら ) まうも 知 ( し ) れぬぞと、あたふた 百花園 ( ひやくくわゑん ) を 遁 ( に ) げて 出 ( で ) る。
白髯 ( しらひげ ) の 土手 ( どて ) へ 上 ( あが ) るが 疾 ( はや ) いか、さあ 助 ( たす ) からぬぞ。 二人乘 ( ににんのり ) 、 小官員 ( こくわんゐん ) と 見 ( み ) えた 御夫婦 ( ごふうふ ) が 合乘 ( あひのり ) 也 ( なり ) 。ソレを 猜 ( そね ) みは 仕 ( つかまつ ) らじ。 妬 ( や ) きはいたさじ、 何 ( なん ) とも 申 ( まを ) さじ。 然 ( さ ) りながら、 然 ( さ ) りながら、 同一 ( おなじ ) く 子持 ( こもち ) でこれが 又 ( また ) 、 野郎 ( やらう ) が 膝 ( ひざ ) にぞ 抱 ( だ ) いたりける。
わツといつて 駈 ( か ) け 拔 ( ぬ ) けて、 後 ( あと ) をも 見 ( み ) ずに 五六町 ( ごろくちやう ) 、 彌次 ( やじ ) さん、 北八 ( きたはち ) 、と 顏 ( かほ ) を 見合 ( みあ ) はせ、 互 ( たがひ ) に 無事 ( ぶじ ) を 祝 ( しゆく ) し 合 ( あ ) ひ、まあ、ともかくも 橋 ( はし ) を 越 ( こ ) さう、 腹 ( はら ) も 丁度 ( ちやうど ) 北山 ( きたやま ) だ、 筑波 ( つくば ) おろしも 寒 ( さむ ) うなつたと、 急足 ( いそぎあし ) になつて 來 ( く ) る。 言問 ( こととひ ) の 曲角 ( まがりかど ) で、 天道 ( てんだう ) 是 ( ぜ ) か 非 ( ひ ) か、 又 ( また ) 一組 ( ひとくみ ) 、 之 ( これ ) は 又 ( また ) 念入 ( ねんいり ) な、 旦那樣 ( だんなさま ) は 洋服 ( やうふく ) の 高帽子 ( たかばうし ) で、 而 ( そ ) して 若樣 ( わかさま ) をお 抱 ( だ ) き 遊 ( あそ ) ばし、 奧樣 ( おくさま ) は 深張 ( ふかばり ) の 蝙蝠傘 ( かうもりがさ ) 澄 ( すま ) して 押並 ( おしなら ) ぶ 後 ( あと ) から、はれやれお 乳 ( ち ) の 人 ( ひと ) がついて 手 ( て ) ぶらなり。えゝ! 日本 ( につぽん ) といふ 國 ( くに ) は、 男 ( をとこ ) が 子 ( こ ) を 抱 ( だ ) いて 歩行 ( ある ) く 處 ( ところ ) か、もう 叶 ( かな ) はぬこりやならぬ。 殺 ( ころ ) さば 殺 ( ころ ) せ、とべツたり 尻餅 ( しりもち ) 。
旦那 ( だんな ) お 相乘 ( あひのり ) 參 ( まゐ ) りませう、と 折 ( をり ) よく 來懸 ( きかゝ ) つた 二人乘 ( ににんのり ) に 這 ( は ) ふやうにして 二人 ( ふたり ) 乘込 ( のりこ ) み、 淺草 ( あさくさ ) まで 急 ( いそ ) いでくんな。 安 ( やす ) い 料理屋 ( れうりや ) で 縁起 ( えんぎ ) 直 ( なほ ) しに 一杯 ( いつぱい ) 飮 ( の ) む。 此處 ( こゝ ) で 電燈 ( でんとう ) がついて 夕飯 ( ゆふめし ) を 認 ( したゝ ) め、やゝ 人心地 ( ひとごこち ) になる。 小庭 ( こには ) を 隔 ( へだ ) てた 奧座敷 ( おくざしき ) で 男女 ( なんによ ) 打交 ( うちまじ ) りのひそ/\ 話 ( ばなし ) 、 本所 ( ほんじよ ) も、あの 餘 ( あんま ) り 奧 ( おく ) の 方 ( はう ) ぢやあ 私 ( わたし ) 厭 ( いや ) アよ、と 若 ( わか ) い 聲 ( こゑ ) の 媚 ( なま ) めかしさ。 旦那 ( だんな ) 業平橋 ( なりひらばし ) の 邊 ( あたり ) が 可 ( よ ) うございますよ。おほゝ、と 老 ( ふ ) けた 聲 ( こゑ ) の 恐 ( おそろ ) しさ。 圍者 ( かこひもの ) の 相談 ( さうだん ) とおぼしけれど、 懲 ( こ ) りて 詮議 ( せんぎ ) に 及 ( およ ) ばず。まだ 此方 ( こつち ) が 助 ( たすか ) りさうだと 一笑 ( いつせう ) しつゝ 歸途 ( きと ) に 就 ( つ ) く。 噫 ( あゝ ) 此行 ( このかう ) 、 氷川 ( ひかは ) の 宮 ( みや ) を 拜 ( はい ) するより、 谷中 ( やなか ) を 過 ( す ) ぎ、 根岸 ( ねぎし ) を 歩行 ( ある ) き、 土手 ( どて ) より 今戸 ( いまど ) に 出 ( い ) で、 向島 ( むかうじま ) に 至 ( いた ) り、 淺草 ( あさくさ ) を 經 ( へ ) て 歸 ( かへ ) る。 半日 ( はんにち ) の 散策 ( さんさく ) 、 神祇 ( しんぎ ) あり、 釋教 ( しやくけう ) あり、 戀 ( こひ ) あり、 無常 ( むじやう ) あり、 景 ( けい ) あり、 人 ( ひと ) あり、 從 ( したが ) うて 又 ( また ) 情 ( じやう ) あり、 錢 ( ぜに ) の 少 ( すくな ) きをいかにせむ。
彌次行
泉鏡花 (Yajiko) | ||