鐵槌の音
泉鏡花 (Tettsui no oto) | ||
鐵槌の音
泉鏡花
天 ( てん ) 未 ( いまだ ) に 闇 ( くら ) し。 東方 ( とうはう ) 臥龍山 ( ぐわりうざん ) の 巓 ( いたゞき ) 少 ( すこ ) しく 白 ( しら ) みて、 旭日 ( きよくじつ ) 一帶 ( いつたい ) の 紅 ( こう ) を 潮 ( てう ) せり。 昧爽 ( まいさう ) 氣 ( き ) 清 ( きよ ) く、 神 ( しん ) 澄 ( す ) みて、 街衢 ( がいく ) 縱横 ( じうわう ) の 地平線 ( ちへいせん ) 、 皆 ( みな ) 眼眸 ( がんぼう ) の 裡 ( うち ) にあり。 然 ( しか ) して 國主 ( こくしゆ ) が 掌中 ( しやうちう ) の 民 ( たみ ) 十萬 ( じふまん ) 、 今 ( いま ) はた 何 ( なに ) をなしつゝあるか。
これより 旬日 ( じゆんじつ ) の 前 ( まへ ) までは、 前田 ( まへだ ) 加賀守 ( かがのかみ ) 治脩公 ( ちしうこう ) 、 毎朝 ( まいてう ) 缺 ( かゝ ) すことなく 旭 ( あさひ ) を 禮拜 ( らいはい ) なし 給 ( たま ) ふに、 唯 ( たゞ ) 見 ( み ) る 寂寞 ( せきばく ) たる 墓 ( はか ) の 下 ( した ) に、 金城 ( きんじやう ) の 蒼生 ( たみ ) 皆 ( みな ) 眠 ( ねむ ) りて、 彌望 ( びばう ) 、 極顧 ( きよくこ ) 、 活色 ( くわつしよく ) なく、 眼 ( め ) の 下 ( した ) 近 ( ちか ) き 鍛冶屋 ( かぢや ) にて、 鐵槌 ( てつつゐ ) 一打 ( いちだ ) の 聲 ( こゑ ) ありしのみ。
然 ( しか ) るに 家業 ( かげふ ) 出精 ( しゆつせい ) の 故 ( ゆゑ ) を 以 ( もつ ) て、これよりさき 特 ( とく ) に 一個 ( いつこ ) この 鍛冶屋 ( かぢや ) を 賞 ( しやう ) し 給 ( たま ) ひしより、 昧爽 ( まいさう ) に 於 ( お ) ける 市街 ( しがい ) の 現象 ( げんしやう ) 日 ( ひ ) を 追 ( お ) うて 趣 ( おもむき ) を 變 ( へん ) じ、 今日 ( けふ ) 此頃 ( このごろ ) に 到 ( いた ) りては、 鍛冶屋 ( かぢや ) の 丁々 ( てう/\ ) は 謂 ( い ) ふも 更 ( さら ) なり、 水 ( みづ ) 汲上 ( くみあ ) ぐる 釣瓶 ( つるべ ) の 音 ( おと ) 、 機 ( はた ) を 織 ( お ) る 音 ( おと ) 、 鐘 ( かね ) の 聲 ( こゑ ) 、 神樂 ( かぐら ) の 響 ( ひゞき ) 、 騷然 ( さうぜん ) 、 雜然 ( ざつぜん ) 、 業 ( げふ ) に 聲 ( こゑ ) ありて 默 ( もく ) するは 無 ( な ) く、 職 ( しよく ) に 音 ( おと ) ありて 聞 ( きこ ) えざるは 無 ( な ) きに 到 ( いた ) れり。 剩 ( あまつさ ) へ 野町 ( のまち ) 、 野田寺町 ( のだでらまち ) 、 地黄煎口 ( ぢくわうぜんぐち ) 、 或 ( あるひ ) は 鶴來往來 ( つるぎわうらい ) より、 野菜 ( やさい ) を 擔荷 ( にな ) ひて 百姓 ( ひやくしやう ) の 八百物市 ( やほものいち ) に 赴 ( おもむ ) く 者 ( もの ) 、 前後疾走 ( ぜんごしつそう ) 相望 ( あひのぞ ) みて、 氣競 ( きほひ ) の 懸聲 ( かけごゑ ) 勇 ( いさ ) ましく、 御物見下 ( おものみした ) を 通 ( とほ ) ること、 絡繹 ( らくえき ) として 織 ( お ) るが 如 ( ごと ) し。
治脩公 ( ちしうこう ) これを 御覽 ( ごらん ) じ、 思 ( おも ) はず 莞爾 ( につこ ) と、 打笑 ( うちゑ ) み 給 ( たま ) ふ。 時 ( とき ) に 炊烟 ( すゐえん ) 數千流 ( すうせんりう ) 。 爾時 ( そのとき ) 公 ( こう ) は 左右 ( さいう ) を 顧 ( かへり ) み、
「 見 ( み ) よ 我 ( わ ) が 黽勉 ( びんべん ) の 民 ( たみ ) は 他 ( ひと ) よりも 命 ( いのち ) 長 ( なが ) し。」
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