松翠深く蒼浪遙けき逗子より
泉鏡花 (Shosui fukaku seiro harukeki zushi yori) | ||
松翠深く蒼浪遙けき逗子より
泉鏡花
櫻山 ( さくらやま ) に 夏鶯 ( なつうぐひす ) 音 ( ね ) を 入 ( い ) れつゝ、 岩殿寺 ( いはとのでら ) の 青葉 ( あをば ) に 目白 ( めじろ ) 鳴 ( な ) く。なつかしや 御堂 ( みだう ) の 松翠 ( しようすゐ ) 愈々 ( いよ/\ ) 深 ( ふか ) く、 鳴鶴 ( なきつる ) ヶ 崎 ( さき ) の 浪 ( なみ ) 蒼 ( あを ) くして、 新宿 ( しんじゆく ) の 濱 ( はま ) 、 羅 ( うすもの ) の 雪 ( ゆき ) を 敷 ( し ) く。そよ/\と 風 ( かぜ ) の 渡 ( わた ) る 處 ( ところ ) 、 日盛 ( ひざか ) りも 蛙 ( かはづ ) の 聲 ( こゑ ) 高 ( たか ) らかなり。 夕涼 ( ゆふすゞ ) みには 脚 ( あし ) の 赤 ( あか ) き 蟹 ( かに ) も 出 ( い ) で、 目 ( め ) の 光 ( ひか ) る 鮹 ( たこ ) も 顯 ( あらは ) る。 撫子 ( なでしこ ) はまだ 早 ( はや ) し。 山百合 ( やまゆり ) は 香 ( か ) を 留 ( と ) めつ。 月見草 ( つきみさう ) は 露 ( つゆ ) ながら 多 ( おほ ) くは 別莊 ( べつさう ) に 圍 ( かこ ) はれたり。 野 ( の ) の 花 ( はな ) は 少 ( すくな ) けれど、よし 蘆垣 ( あしがき ) の 垣間見 ( かいまみ ) を 咎 ( とが ) むるもののなきが 嬉 ( うれ ) し。
田越 ( たごえ ) の 蘆間 ( あしま ) の 星 ( ほし ) の 空 ( そら ) 、 池田 ( いけだ ) の 里 ( さと ) の 小雨 ( こさめ ) の 螢 ( ほたる ) 、いづれも 名所 ( めいしよ ) に 數 ( かぞ ) へなん。 魚 ( さかな ) は 小鰺 ( こあぢ ) 最 ( もつと ) も 佳 ( よ ) し、 野郎 ( やらう ) の 口 ( くち ) よりをかしいが、 南瓜 ( かぼちや ) の 味 ( あぢ ) 拔群 ( ばつぐん ) 也 ( なり ) 。 近頃 ( ちかごろ ) 土地 ( とち ) の 名物 ( めいぶつ ) に 浪子饅頭 ( なみこまんぢう ) と 云 ( い ) ふものあり。 此處 ( こゝ ) の 中學 ( ちうがく ) あたりの 若殿輩 ( わかとのばら ) に、をかしき 其 ( その ) わけ 知 ( し ) らせぬが 可 ( よ ) かるべし、と 思 ( おも ) ふこそ 尚 ( なほ ) をかしけれ。
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