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錦染滝白糸
――其一幕――
泉鏡花

    場所。

  • 信州松本、村越の家

    人物。

  • 村越欣弥(新任検事)
  • 滝の白糸(水芸の太夫)
  • 撫子(南京出刃打の娘)
  • 高原七左衛門(旧藩士)
  • おその、おりく(ともに近所の娘)
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[1]
撫子 なでしこ 円髷 まるまげ 前垂 まえだれ がけ、床の間の 花籠 はなかご に、黄の小菊と白菊の大輪なるを つぼみ まじり投入れにしたるを なが め、手に 三本 みもと ばかり 常夏 とこなつ の花を持つ。
かたわら におりく。車屋の娘。
撫子

今日は――お客様がいらっしゃるッて事だから、籠も貸して頂けば、お庭の花まで御無心して、ほんとうに済みませんのね。


りく

内の背戸にありますと、ただの草ッ葉なんですけれど、奥さんがそうしてお けなさいますと、お 祭礼 まつり の時の 余所行 よそゆき のお 曠衣 はれ のように 綺麗 きれい ですわ。


撫子

この ほっそ りした、(一輪を ゆびさ す)絹糸のような白いのは、これは、何と云う名の菊なんですえ。


りく

何ですか、あの…… 糸咲 いとざき 々々ってお とっ さんがそう云いますよ。


撫子

ああ、糸咲……の白菊……そうですか。


りく

そして、あのその撫子はお活けなさいませんの。


撫子

おお、この花は撫子ですか。(手なる常夏を見る。)


りく

ええ、返り咲の花なんですよ。枯れた すすき の根に咲いて、珍しいから、と内でそう申しましてね。


撫子

その返り咲が うれし いから、どうせお流儀があるんじゃなし、綺麗でさえあれば い、 去嫌 さりぎら い構わずに、根〆《ねじめ》にしましょうと思ったけれど、白菊が糸咲で、私、常夏と覚えた花が、撫子と云うのでしたら、あの……ちょっと、台所の隅へでも、瓶に挿しましょう。


りく

そう、見つけて来ましょう。( つ。)


撫子

じっ と籠なると手の撫子とを 見較 みくら ぶ。)


りく

これじゃいかが。


撫子

ああ結構よ。(瓶にさす時水なし)あら水がない。


りく

んで来ましょう。


撫子

いいえ、撫子なんか、水がなくって沢山なの。


りく

まあ、どうして?


撫子

それはね、 南京流 なんきんりゅう の秘伝なの。ほほほ。(寂しく笑う。)


おその、 蓮葉 はすは に裏口より入る。駄菓子屋の娘。
その

奥様。


撫子

おや、おそのさん。


その

あの、奥様。お客様の 御馳走 ごちそう だって、 先刻 さっき 、お 台所 だいどこ で、魚のお料理をなさるのに、 小刀 ナイフ でこしらえていらしった事を、私、帰ってお 饒舌 しゃべり をしましたら、お っか さんが、まあ、何というお嬢様なんだろう。どんな御身分の方が、お慰みに、お 飯事 ままごと をなさるんでも、それでは御不自由、これを持って行って差上げな、とそう言いましてね。(言いつつ、 古手拭 ふるてぬぐい ほど く)いま研いだのを持って来ました。よく切れます……お使いなさいまし、お間に合せに。……(無遠慮に庖丁を 目前 めのさき に突出す。)


撫子

(ゾッと肩をすくめ、 ひとみ を見据え、顔色かわる)おそのさん、その庖丁は かり ません。


その

ええ。


撫子

出刃は私に たた るんです。早く、しまって下さいな。


その

何でございますか、田舎もので、飛んだことをしましたわ。御免なさい、おりくさん、お わび をして頂戴な。


りく

お気に障りましたら、御勘弁下さいまし。


撫子

飛んでもない。お辞儀なんかしちゃあ 不可 いけ ません。おそのさん、おりくさん。


りく

いいえ、奥様、私たちを、そんな、様づけになんかなさらないで、奉公人同様に、りくや。


その

その、と呼棄てに、お目を掛けて下さいまし。


撫子

勿体 もったい ないわね、あなたがたはれっきとした町内の娘さんじゃありませんか。


りく

いいえ、私は車屋ですもの。


その

親仁 おやじ 日傭取 ひようとり の、駄菓子屋ですもの。


撫子

駄菓子屋さん立派、車屋さん結構よ。何の卑下する処があります。私はそれが 可羨 うらやま しい。 いぬ の子だか、猫の子だか、 掃溜 はきだめ ぐらいの小屋はあっても、縁の下なら宿なし同然。このお やしき へ来るまでは、私は、あれ、あの、菊の咲く、垣根さえ はばか って、この撫子と一所に倒れて、草の露に寝たんですよ。


りく

あら、あんな事を。


その

まあ……奥様。


撫子

その奥様と言われるのを、済まない済まない、勿体ない、と知っていながら、つい、浅はかに、一度が二度、三度めには かすか に返事をしていました。その罰が当ったんです。いまの庖丁が 可恐 おそろし い。私はね、 南京出刃打 なんきんでばうち の小屋者なんです。


娘二人顔を見合わす。
[撫子]

まないた の上で 切刻 きりきざ まれ、 はりつけ にもかかる処を、神様のような旦那様に救われました。その神様を、雪が積って、あの こま ヶ岳へあらわれる、清い気高い、白い駒、空におがんでいなければならないんだのに。女にうまれた一生の思出に、空耳でも、 僻耳 ひがみみ でも、奥さん、と言われたさに、いい気になって返事をして、 たしか に罰が当ったんです……ですが、この 円髷 まるまげ は言訳をするんじゃありませんけれど、そんな気なのではありません。一生涯 ほか へはお嫁入りをしない覚悟、私は尼になった気です。……(涙ぐみつつ)もう、今からは 怪我 けが にだって、奥さんなんぞとおっしゃるなよ。おりくさん、おそのさん、 あらた めてお詫をします。


りく

それでも、やっぱり奥さんですわ。ねえ、おそのさん。


その

ええ、そうよ。


撫子

いいえ、いま思知ったんです、まったく罰が当りますから、私を 可哀想 かわいそう だとお思いなすったら、このお邸のおさんどん、いくや、いくや、とおっしゃってね、豆腐屋、 薪屋 まきや の方角をお教えなすって下さいまし。何にも知らない 不束 ふつつか なものですから、 余所 よそ の女中に いじ められたり、毛色の変った 見世物 みせもの だと、 邸町 やしきまち の犬に えられましたら、せめて、 貴女方 あなたがた 御贔屓 ごひいき に、私を かば って下さいな、後生ですわ、ええ。


その

私どうしたら いでしょう――こんなもの、掃溜へ 打棄 うっちゃ って来るわ。(立つ。)


撫子

ああ、靴の音が。


りく

旦那様のお帰りですね。


村越欣弥 むらこしきんや 高原七左衛門 たかはらしちざえもん 。登場。道を譲る。
村越

ま、まあ、御老人。


七左

いや、まず……先生。


村越

先生は弱りました。( 忸怩 じくじ たり)では書生流です、御案内。


七左

その気象! その気象!


撫子。出迎えんとして、ちょっと髷に手を り、台所へ下らんとするおりくの手を無理に取って、並んで出迎う。
撫子

お帰り遊ばせ。


村越

お客様に途中で ったよ。


撫子

(一度あげたる顔を、黙ってまた 俯向 うつむ き、手をつく。)


七左。よう、という 顔色 かおつき にて、 兀頭 はげあたま の古帽を取って高く挙げ、 しわ だらけにて、ボタン二つ離れたる洋服の胸を反らす。太きニッケル製の時計の ひも がだらりとあり。
村越

さあ、どうぞ。


七左

御免、 真平 まっぴら 御免。


腰を かが め、 摺足 すりあし にて、撫子の前を通り、すすむる 蒲団 ふとん の座に、がっきと着く。
撫子

ようおいで遊ばしました。


七左

ははっ、奥さん。(と さかさ になる。)


撫子

(手を つか えたるまま、つつと 退 すさ る。)


村越

父、母の御懇意。伯父さん同然な方だ。――高原さん……それは 余所 よそ の娘です。


七左

(高らかに笑う)はッはッはッ、いずれ、そりゃ、そりゃ、いずれ、はッはッはッはッ。一度は余所の娘御には相違ないてな。いや、 ばばあ どのも、かげながら伝え聞いて申しておる。村越の御子息が、 のあたり立身出世は格別じゃ、が、 就中 なかんずく えら いのはこの働きじゃ。万一この手廻しがのうてみさっしゃい、団子 かじ るにも、 蕎麦 そば を食うにも、以来、欣弥さんの嫁御の事で胸が つま る。しかる処へ、 奥方連 おくがたづれ のお乗込みは、これは学問修業より、 槍先 やりさき の功名、と とな えて い、とこう云うてな。


この間に、おりく茶を運ぶ、がぶりとのむ。
[七左]

 はッはッはッはッ。


撫子弱っている。
村越

(額に手を当て)いや、召使い……なんですよ。


七左

いずれそりゃ、そりゃいずれ、はッはッはッ、若いものの言う事は きま っておる。――奥方、気にせまい。いずれそりゃ、 田鼠化為鶉 でんそかしてうずらとなる 雀入海中為蛤 すずめかいちゅうにいってはまぐりとなる 、とあってな、召つかいから奥方になる。――老人田舎もののしょうがには、山の芋を 穿 って うなぎ とする法を飲込んでいるて。 拙者 せっしゃ 、足軽ではござれども、( 真面目 まじめ に)松本の藩士、士族でえす。刀に掛けても、 おっ つけ 表向 おもてむき の奥方にいたす、はッはッはッ、――これ げまい。


撫子、欣弥の目くばせに、 一室 ひとま にかくる。
[七左]

欣弥さんはお奉行様じゃ、むむ、奥方にあらず、 御台所 みだいどころ と申そうかな。


撫子

お支度が。(――いい よし 知らせる。)


村越

さあ、 小父 おじ さん、とにかくあちらで。何からお話を申して いか……なにしろまあ、 那室 あちら へ。


七左

いずれ、そりゃ、はッはッはッ、御馳走には預るのじゃ、はッはッはッ。遠慮は 不沙汰 ぶさた 、いや、しからば、よいとまかせのやっとこな。(と云って立つ。村越に続いて 一室 ひとま らんとして、床の間の菊を見る)や、や、これは潔く さわやか じゃ。御主人の気象によく似ておる。


欣弥、 莞爾 にっこり して撫子の顔を見て、その心づかいを喜び謝す。撫子嬉しそうに胸を抱く。
二人続いて入る、この一室 ふすま 、障子にて見物の席より見えず。
七左

(襖の うち にて)ここはまた 掛花活 かけばないけ 山茶花 さざんか とある…… あか いが特に奥方じゃな、はッはッはッ。


撫子、勝手に立つ。 いれ かわりて、 膳部 ぜんぶ 二調、おりく、おその二人にて運び、やがて引返す。
撫子、 銚子 ちょうし 杯洗 はいせん を盆にして出で、床なる白菊を と見て、 空瓶 あきびん の常夏に、膝をつき、ときの間にしぼみしを かなし さま にて、ソと息を掛く。また杯洗を見て、花を挿直し、 猪口 ちょく にて水を ぎ入れつつ、ほろりとする。
村越

(手を たた く。)


撫子

はい、はい。(と軽く立ち、襖に入る。)


七左、程もあらせず、銚子を 引攫 ひッつか んで載せたるままに、 一人前 ひとりまえ の膳を両手に捧げて、ぬい、と出づ。
村越

あき れたる さま して続く)小父さん、小父さん、どうなすった……どうなさるんです。おいくさん、お前 粗相 そそう をしやしないかい。


七左

呵々 からから と笑う)はッはッはッ。慌てまい。うろたえまい。騒ぐまい。 信濃国東筑摩郡 しなののくにひがしちくまこおり 松本中が粗相をしても、腹を立てる わし ではない。証拠を見せよう。それこれじゃ、( 萌黄 もえぎ 古びて茶となりたるに大紋の着いたる大風呂敷を拡げて、膳を包む)――お銚子は提げて持って くわさ。


村越

小父さん!


七左

慌てまい、はッはッはッ。奥方もさて 狼狽 うろた えまい。騒ぐまい。膳は おっ て返す。 狂人 きちがい じみたと思わりょうが、決してそうでない。実は、 婆々 ばば どのの言うことに――やや 親仁 おやじ どのや、ぬしは信濃国東筑摩郡松本中での 長尻 ながちり ぞい……というて奥方、農産会に出た 糸瓜 へちま ではござらぬぞ。三杯飲めば 一時 いっとき じゃ。今の 時間 とき で二時間かかる。 わか い人たち二人の処、向後はともあれ、今日ばかりは一杯でなしに、一口 んだら直ぐに帰って、意気な親仁になれと云う。の、婆々どののたっての頼みじゃ。田鼠化為鶉、親仁、すなわち意気となる。はッはッはッ。いや。 当家 こちら のお 母堂様 ふくろさま も御存じじゃった、親仁こういう事が大好きじゃ、 ひら 一番 ひとつ らせてくれ。


村越

(ともに笑う)かえってお心任せが可いでしょう。しかし、ちょうど 使 つかい のものもあります、お恥かしい御膳ですが、あとから持たせて差上げます。


撫子

あの、赤の御飯を添えまして。


七左

過分でござる。お言葉に従いますわ。時に久しぶりで、ちょっと、おふくろ様に 御挨拶 ごあいさつ を申したい。


村越

仏壇がまだ調いません、 位牌 いはい だけを。


七左

はあ、 香花 こうげ 、お 茶湯 ちゃとう 、御殊勝でえす。達者でござったらばなあ。


村越

(涙ぐむ。)


七左

おふくろどの、 ぬし がような後生の 好人 いいひと は、 可厭 いや でも極楽。……百味の 飲食 おんじき はす うてな に居すくまっては、ここに(胃をたたく)もたれて うない。ちと、腹ごなしに 娑婆 しゃば へ出て来て、嫁御にかき餅でも焼いてやらしゃれ。(目をこすりつつ撫子を見る)さて、ついでに わし の意気になった処を見され、 御同行 ごどうぎょう の婆々どのの丹精じゃ。その婆々どのから、くれぐれも、よろしゅうとな。いやしからば。


村越

(送り出す)是非 近々 ちかぢか に。


七左

おんでもない。晩にも出直す。や、今度は 長尻 ながちり 長左衛門じゃぞ。奥方、農産会に出た、大糸瓜の事ではない、はッはッはッ。(出て く。)


村越座に帰る。
撫子

びん に手をあて、 しお れて伏す)旦那様、済みません。


村越

お互の中にさえ何事もなければ、 円髷 まげ も島田も構うものか。


この間に七左衛門花道の半ばへ く、白糸出づ。
白糸

(行違い、ちょっと小腰)あ、もし、旦那。


七左

ほう、 わし かの。


白糸

少々伺いとう存じます。


七左

はいはい。ああ何なりとも聞くが い。信濃国東筑摩郡松本中は でござる。


白糸

あの、新聞で、お名前を見て参ったのでございますが、この御近処に、村越さんとおっしゃる方のお 住居 すまい を、貴方、御存じではございませんか。


七左

おお、 弥兵衛 やへえ どの御子息欣弥どの。はあ、新聞に出ておりますか。田鼠化為鶉、 馬丁 べっとう すなわち奉行となる。信濃国東筑摩郡松本中の評判じゃ。 唯今 ただいま 、その邸から出て来た処よの。それ、そこに見えるわ、あ、あれじゃ。


白糸

ああ、嬉しい、あの、そして、欣弥さんは御機嫌でございますか。


七左

壮健 たっしゃ とも、機嫌は今日のお天気でえす。早う行って逢いなさい。


白糸

難有 ありがと う、飛んだお邪魔を――あ、旦那。


七左

はいはい。


白糸

それから、あの、ちょっと伺いとう存じますが、欣弥さんは、唯今、御家内はお 幾人 いくたり


七左

二人じゃが、の。


白糸

お二人……お女中と……


七左

はッはッはッ、いずれそのお女中には違いない。はッはッはッ。


白糸

(ふと気にして)どんなお方。


七左

どんなにも、こんなにも、松本中での、あでやかな奥方じゃ。


白糸

うち が違やしませんか。


七左

村越弥兵衛どの御子息欣弥殿。何が違う。


白糸

おや、それじゃ私の 生霊 いきりょう が行ってるのかしら。


七左

ええ……変なことを言う。


白糸

見て下さい、私とは――違いますか。


七左

いや、この方が、床の間に けた白菊かな。


白糸

え。


七左

まずおいで。(別れつつ)はあてな、 別嬪 べっぴん 二人二千石、功名々々。( 繻子 しゅす 洋傘 こうもり を立てて入る。)


白糸

(二三度 ※徊 ていかい

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して、格子にかかる)御免なさい。


これよりさき、撫子、膳、風呂敷など台所へ。欣弥は一室に り、撫子、 通盆 かよいぼん を持って ひと しく入る。
その

(取次ぐ)はい。


白糸

(じろりと、その 髪容 かみかたち なが む)村越さんのお 住居 すまい はこちらで?


その

はい、どちらから。


白糸

不案内のものですから、お邸が間違いますと失礼です。この村越様は、旦那様のお名は何とおっしゃいますえ。


その

はい、お名……


云いかけて 引込 ひっこ むと、 うかが いいたる、おりくに顔を合せる。
りく

私、知っててよ。(かわって出づ)いらっしゃいまし。


白糸

おや。(と軽く)


りく

あの、お たず ねになりました、旦那様のお名は、欣弥様でございますの。


白糸

はあ、そしてお 年紀 とし は……お幾つ。


りく

あのう、二十八九くらい。


白糸

くらいでは 不可 いけ ませんよ。おんなじお名でおんなじ年くらいでも……の、あの、あるの、とないの、とは大変、大変な違いなんですから。


りく

あの、何の、あるのと、ないのと、なんです。


白糸


りく

何の、あるのと、ないの、とですの?


白糸

ひげ


りく

ほほほ、生やしていらっしゃるわ。


白糸

また、それでも、違うと 不可 いけな い。くらいでなし、ちゃんと、お年紀を伺いとうござんすね。


りく

へい。


けげんな顔して引込むと、また窺いいたる、おその、と一所に笑い出して、二人ばたばたと行って襖際へ……声をきき知る表情にて、 と出づる欣弥を見るや、どぎまぎして勝手へ引込む。
村越。つつと出で、そこに、横を向いて立ったる白糸を一目見て、思わず手を取る。不意にハッと驚くを、そのまま 引立 ひった つるがごとくにして座敷に来り、手を離し、 どう
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とすわり、一あしよろめいて柱に る白糸と顔を見合せ、思わずともに、はらはらと泣く。撫子、襖際に出で、ばったり通盆を落し、はっと座ると一所に、白糸もトンと座につき、三人ひとしく会釈す。
欣弥、不器用に あわただ しく 座蒲団 ざぶとん を直して、 下座 しもざ に来り、無理に白糸を 上座 じょうざ に直し、膝を正し、きちんと手をつく。
欣弥

一別以来、三年、一千有余日、欣弥、身体、 髪膚 はっぷ 、食あり生命あるも、 いつ にもって、貴女の御恩……


白糸

(耳にも らず、撫子を見詰む。)


撫子

(身を すべ らして、欣弥のうしろにちぢみ、 ひと しく手を く。)


白糸

(横を向く。)


欣弥

暑いにつけ、寒いにつけ、雨にも、風にも、一刻もお忘れ申した事はない。しかし何より、お すこやか で……


白糸、横を向きつつ、一室の膳に目をつける。気をかえ 煙草 たばこ を飲まんとす。火鉢に火なし。
白糸

火ぐらいおこしておきなさいなね、芝居をしていないでさ。


欣弥

(顔を上げながら、万感胸に 交々 こもごも 、口 きっ し、もの云うあたわず。)


撫子

あわただ しく立ち、一室なる火鉢を取って出づ。さしよりて)太夫さん。


白糸

私は……今日は見物さ。


欣弥

おい、お茶を上げないかい。何は、何は、何か、菓子は。


撫子

(立つ。)


白糸

そんなに、何も、お客あつかい。敬して何とかってしなくっても うござんす。お茶のお給仕なら私がするわ。


勝手に くふり、 さっ と羽織を脱ぎかく。
欣弥

飛んでもない、まあ、どうか、どうか、それに。


白糸

ああ、女中のお 目見得 めみえ がいけないそうだ。それじゃ、私帰ります。失礼。


欣弥

(笑う)何を云うのだ、帰ると云ってどこへ帰る。あの時、長野の月の橋で、――一生、もう、決して他人ではないと誓ったじゃないか。―― 此家 ここ へ来てくれた以上は、門も、屋根も、押入も、畳も、その火鉢も、 みんな ねえ さんのものじゃないか。


白糸

おや、姉さんとなりましたよ。誰かに おそわ ったね。だあれかも、またいまのようなうまい口に――欣さん、門も、屋根も押入も……そして、 貴女 あなた は、誰のもの?


欣弥

(無言。)


白糸

失礼!(立つ。)


欣弥

大恩人じゃないか、どうすれば い。お友さん。


白糸

恩人なんか、真ッ平です。私は女中になりたいの。


欣弥

そんな、そんな無理なことを。


撫子

太夫さん。(間)姉さん、貴女は何か思違いをなすってね。


白糸

ええ、お勝手を働こうと思違いをして来ました。(投げたように)お目見得に、落第か、失礼。


欣弥

ええ、とにかく、まあ、母に逢って下さい、お 位牌 いはい に逢っておくれ。 撮写 うつす のは嫌だ、と云って写真はくれず、母はね、いまわの際まで、お友さん、姉さま、と云ってお前に逢いたがった。(声くもる)そして、 うつつ に、 夢心 ゆめごこち に、言いあてたお前の顔が、 色艶 いろつや から、目鼻立まで、そっくりじゃないか。さあ。(位牌を捧げ、台に据う。)


白糸

衣紋 えもん を直し、しめやかに手を つか う)お初に……(おなじく声を曇らしながら、また、同じように涙ぐみて、うしろについ居る撫子を見て、ツツと位牌を取り、胸にしかと抱いて、居直って)お 姑様 しゅうとさん 、おっかさん、たとい欣さんには見棄てられても、貴女にばかりは だき ついて甘えてみとうござんした。おっかさん、私ゃ苦労をしましたよ。……御修業中の欣さんに心配を掛けてはならないと何にも言わずにいたんです。 やつ れた顔を見て下さい。お友、可哀想に、ふびんな、とたった 一言 ひとこと 。貴女がおっしゃって下さいまし。お位牌を抱けば本望です。(もとへ直す)手も清めないで、失礼な、堪忍して下さいまし。心が乱れて 不可 いけ ません。またお目にかかります。いいえ、留めないで。いいえ、差当った用がござんす。


思切りよくフイと くを、撫子 あわただ しく すが って とど む。白糸、美しき風のごとく格子を出でてハタと とざ す。撫子指を打って悩む。
欣弥

(続いて)私は、 おれ は、 おんな の後へは 駈出 かけだ せない、早く。


撫子

(ややひぞる。)


欣弥

早く、さあ早く。


撫子

かど を出で、花道にて袖を取る)太夫さん……姉さん。


白糸

お放し!


撫子

いいえ。


大正五(一九一六)年二月