迷子
泉鏡花 (Maigo) | ||
迷子
泉鏡花
お 孝 ( かう ) が 買物 ( かひもの ) に 出掛 ( でか ) ける 道 ( みち ) だ。 中里町 ( なかざとまち ) から 寺町 ( てらまち ) へ 行 ( ゆ ) かうとする 突當 ( つきあたり ) の 交番 ( かうばん ) に 人 ( ひと ) だかりがして 居 ( ゐ ) るので 通過 ( とほりす ) ぎてから 小戻 ( こもどり ) をして、 立停 ( たちどま ) つて、 少 ( すこ ) し 離 ( はな ) れた 處 ( ところ ) で 振返 ( ふりかへ ) つて 見 ( み ) た。
ちやうど 今 ( いま ) 雨 ( あめ ) が 晴 ( は ) れたんだけれど、 蛇 ( じや ) の 目 ( め ) の 傘 ( かさ ) を 半開 ( はんびらき ) にして、うつくしい 顏 ( かほ ) をかくして 立 ( た ) つて 居 ( ゐ ) る。 足駄 ( あしだ ) の 緒 ( を ) が 少 ( すこ ) し 弛 ( ゆる ) んで 居 ( ゐ ) るので、 足許 ( あしもと ) を 氣 ( き ) にして、 踏揃 ( ふみそろ ) へて、 袖 ( そで ) の 下 ( した ) へ 風呂敷 ( ふろしき ) を 入 ( い ) れて、 胸 ( むね ) をおさへて、 顏 ( かほ ) だけ 振向 ( ふりむ ) けて 見 ( み ) て 居 ( ゐ ) るので。 大方 ( おほかた ) 女 ( をんな ) の 身 ( み ) でそんなもの 見 ( み ) るのが 氣恥 ( きはづ ) かしいのであらう。
ことの 起原 ( おこり ) といふのは、 醉漢 ( ゑひどれ ) でも、 喧嘩 ( けんくわ ) でもない、 意趣斬 ( いしゆぎり ) でも、 竊盜 ( せつたう ) でも、 掏賊 ( すり ) でもない。 六 ( むつ ) ツばかりの 可愛 ( かはい ) いのが 迷兒 ( まひご ) になつた。
「 母樣 ( おつかさん ) は 何 ( ど ) うした、うむ、 母樣 ( おつかさん ) は、 母樣 ( おつかさん ) は。」と、 見張員 ( みはりゐん ) が 口早 ( くちばや ) に 尋 ( たづ ) ね 出 ( だ ) した。なきじやくりをしいしい、
「 内 ( うち ) に 居 ( ゐ ) るよ。」
巡査 ( じゆんさ ) は 交番 ( かうばん ) の 戸 ( と ) に 凭懸 ( よりかゝ ) つて、
「お 前 ( まへ ) 一人 ( ひとり ) で 來 ( き ) たのか、うむ、 一人 ( ひとり ) なんか。」
頷 ( うなづ ) いた。 仰向 ( あふむ ) いて 頷 ( うなづ ) いた。 其膝切 ( そのひざきり ) しかないものが、 突立 ( つツた ) つてる 大 ( だい ) の 男 ( をとこ ) の 顏 ( かほ ) を 見上 ( みあ ) げるのだもの。 仰向 ( あふむ ) いて 見 ( み ) ざるを 得 ( え ) ないので、 然 ( しか ) も、 一寸位 ( ちよつとぐらゐ ) では 眼 ( め ) が 屆 ( とゞ ) かない。 頤 ( おとがひ ) をすくつて、 身 ( み ) を 反 ( そら ) して、ふッさりとある 髮 ( かみ ) が 帶 ( おび ) の 結目 ( むすびめ ) に 觸 ( さは ) るまで、いたいけな 顏 ( かほ ) を 仰向 ( あふむ ) けた。 色 ( いろ ) の 白 ( しろ ) い、うつくしい 兒 ( こ ) だけれど、 左右 ( さいう ) とも 眼 ( め ) を 煩 ( わづら ) つて 居 ( ゐ ) る。 細 ( ほそ ) くあいた、 瞳 ( ひとみ ) が 赤 ( あか ) くなつて、 泣 ( な ) いたので 睫毛 ( まつげ ) が 濡 ( ぬ ) れてて、まばゆさうな、その 容子 ( ようす ) ッたらない、 可憐 ( かれん ) なんで、お 孝 ( かう ) は 近 ( ちか ) づいた。
「 一體 ( いつたい ) 何處 ( どこ ) の 兒 ( こ ) でございませう。 方角 ( はうがく ) も 何 ( なに ) も 分 ( わか ) らなくなつたんだよ。 仕樣 ( しやう ) がないことね、ねえ、お 前 ( まへ ) さん。」
と 長屋 ( ながや ) ものがいひ 出 ( だ ) すと、すぐ 應 ( おう ) じて、
「ちつとも 此邊 ( このへん ) ぢやあ 見掛 ( みか ) けない 兒 ( こ ) ですからね、だつて、さう 遠方 ( ゑんぱう ) から 來 ( く ) るわけはなしさ、 誰方 ( どなた ) か 御存 ( ごぞん ) じぢやありませんか。」
誰 ( たれ ) も 知 ( し ) つたものは 居 ( ゐ ) ないらしい。
「え、お 前 ( まへ ) 、 巾着 ( きんちやく ) でも 着 ( つ ) けてありやしないのかね。」
と 一人 ( ひとり ) が 踞 ( つくば ) つて、 小 ( ちひ ) さいのが 腰 ( こし ) を 探 ( さぐ ) つたがない。ぼろを 着 ( き ) て 居 ( ゐ ) る、 汚 ( きたな ) い 衣服 ( きもの ) で、 眼垢 ( めあか ) を、アノせつせと 拭 ( ふ ) くらしい、 兩方 ( りやうはう ) の 袖 ( そで ) がひかつてゐた。
「 仕樣 ( しやう ) がないのね、 何 ( なん ) にもありやしないんですよ。」
傍 ( そば ) に 居 ( ゐ ) た 肥 ( ふと ) つたかみさんが 大 ( おほ ) きな 聲 ( こゑ ) で、
「 馬鹿 ( ばか ) にしてるよ、こんな 兒 ( こ ) にお 前 ( まへ ) さん、 札 ( ふだ ) をつけとかないつて 奴 ( やつ ) があるもんか。うつかりだよ、 眞個 ( ほんたう ) にさ。」
とがむしやらなものいひで、 叱 ( しか ) りつけたから 吃驚 ( びつくり ) して、わツといつて 泣 ( な ) き 出 ( だ ) した。 何 ( なに ) も 叱 ( しか ) りつけなくツたつてよささうなもんだけれど、 蓋 ( けだ ) し 敢 ( あへ ) てこの 兒 ( こ ) を 叱 ( しか ) つたのではない。 可愛 ( かはい ) さの 餘 ( あま ) り 其 ( その ) 不注意 ( ふちうい ) なこの 兒 ( こ ) の 親 ( おや ) が、 恐 ( おそろ ) しくかみさんの 癪 ( しやく ) にさはつたのだ。
「 泣 ( な ) くなよ、 困 ( こま ) つたもんだ。 泣 ( な ) くなつたら、 可 ( い ) いか、 泣 ( な ) いたつて 仕樣 ( しやう ) がない。」
また 一層 ( いつそう ) 聲 ( こゑ ) をあげて 泣 ( な ) き 出 ( だ ) した。
中 ( うち ) に 居 ( ゐ ) た 休息員 ( きうそくゐん ) は 帳簿 ( ちやうぼ ) を 閉 ( と ) ぢて、 筆 ( ふで ) を 片手 ( かたて ) に 持 ( も ) つたまゝで、 戸 ( と ) をあけて、
「 何處 ( どこ ) か 其處等 ( そこいら ) へ 連 ( つ ) れて 行 ( い ) つて 見 ( み ) たらば 何 ( ど ) うだね。」
「まあ、もうちつと 斯 ( か ) うやつとかう、いまに 尋 ( たづ ) ねに 來 ( こ ) ようと 思 ( おも ) ふから。」
「それも 左樣 ( さう ) か。おい、 泣 ( な ) かんでも 可 ( い ) い、 泣 ( な ) かないで、 大人 ( おとな ) しくして 居 ( ゐ ) るとな、 直 ( す ) ぐ 母樣 ( おつかさん ) が 連 ( つ ) れに 來 ( く ) るんぢや。」
またアノ 可愛 ( かはい ) いふりをして、 頷 ( うなづ ) いて、 其 ( その ) まゝ 泣 ( な ) きやんで、ベソを 掻 ( か ) いて 居 ( ゐ ) る。
風 ( かぜ ) が 吹 ( ふ ) くたびに、 糖雨 ( こぬかあめ ) を 吹 ( ふ ) きつけて、ぞつとするほど 寒 ( さむ ) いので、がた/\ふるへるのを 見 ( み ) ると、お 孝 ( かう ) は 堪 ( たま ) らなかつた。
彌次馬 ( やじうま ) なんざ、こんな 不景氣 ( ふけいき ) な、 張合 ( はりあひ ) のない 處 ( ところ ) には 寄着 ( よりつき ) はしないので、むらがつてるものの 多 ( おほ ) くは 皆 ( みな ) このあたりの 廣場 ( ひろば ) でもつて、びしよ/\ 雨 ( あめ ) だから 凧 ( たこ ) を 引摺 ( ひきず ) つてた 小兒等 ( こどもら ) で。 泣 ( な ) くのがおもしろいから「やい、 泣 ( な ) いてらい!」なんて、 景氣 ( けいき ) のいゝことをいつて 見物 ( けんぶつ ) して 居 ( ゐ ) る。
子守 ( こもり ) がまた 澤山 ( たくさん ) 寄 ( よ ) つて 居 ( ゐ ) た。 其中 ( そのなか ) に 年嵩 ( としかさ ) な、 上品 ( じやうひん ) なのがお 守 ( もり ) をして 六 ( むつ ) つばかりの 女 ( むすめ ) の 兒 ( こ ) が 着附 ( きつけ ) 萬端 ( ばんたん ) 姫樣 ( ひいさま ) といはれる 格 ( かく ) で 一人 ( ひとり ) 居 ( ゐ ) た。その 飼犬 ( かひいぬ ) ではないらしいが、 毛色 ( けいろ ) の 好 ( い ) い、 耳 ( みゝ ) の 垂 ( た ) れた、すらつとしたのが、のつそり、うしろについてたが、 皆 ( みんな ) で、がや/\いつて、 迷兒 ( まひご ) にかゝりあつて、うつかりしてる 隙 ( ひま ) に、 房 ( ふつ ) さりと 結 ( むす ) んでさげた 其 ( その ) 姫樣 ( ひいさま ) の 帶 ( おび ) を 銜 ( くは ) へたり、 八 ( や ) ツ 口 ( くち ) をなめたりして、 落着 ( おちつ ) いた 風 ( ふう ) でじやれてゐるのを、 附添 ( つきそひ ) が、つと 見 ( み ) つけて、びツくりして、 叱 ( しつ ) ! といつて 追 ( お ) ひやつた。 其 ( それ ) は 可 ( い ) い、 其 ( それ ) は 可 ( い ) いけれど、 犬 ( いぬ ) だ。
悠々 ( いう/\ ) と 迷兒 ( まひご ) のうしろへいつて、 震 ( ふる ) へて 居 ( ゐ ) るものを、 肩 ( かた ) の 處 ( ところ ) ぺろりとなめた。のはうづに 大 ( おほ ) きな 犬 ( いぬ ) なので、 前足 ( まへあし ) を 突張 ( つツぱ ) つて 立 ( た ) つたから、 脊 ( せ ) は 小 ( ちつ ) ぽけな、いぢけた、 寒 ( さむ ) がりの、ぼろツ 兒 ( こ ) より 高 ( たか ) いので、いゝ 氣 ( き ) になつて、 垢染 ( あかじ ) みた 襟 ( えり ) の 處 ( ところ ) を 赤 ( あか ) い 舌 ( した ) の 長 ( なが ) いので、ぺろりとなめて、 分 ( わか ) つたやうな、 心得 ( こゝろえ ) てゐるやうな 顏 ( かほ ) で、 澄 ( すま ) した 風 ( ふう ) で、も 一 ( ひと ) つやつた。
迷兒 ( まひご ) は 悲 ( かなし ) さが 充滿 ( いつぱい ) なので、そんなことには 氣 ( き ) がつきやしないんだらう、 巡査 ( じゆんさ ) にすかされて、 泣 ( な ) いちやあ 母樣 ( おつかさん ) が 來 ( き ) てくれないのとばかり 思 ( おも ) ひ 込 ( こ ) んだので、 無理 ( むり ) に 堪 ( こら ) へてうしろを 振返 ( ふりかへ ) つて 見 ( み ) ようといふ 元氣 ( げんき ) もないが、むず/\するので 考 ( かんが ) へるやうに、 小首 ( こくび ) をふつて、 促 ( うなが ) す 處 ( ところ ) ある 如 ( ごと ) く、はれぼつたい 眼 ( め ) で、 巡査 ( じゆんさ ) を 見上 ( みあ ) げた。
犬 ( いぬ ) はまたなめた。 其舌 ( そのした ) の 鹽梅 ( あんばい ) といつたらない、いやにべろ/\して 頗 ( すこぶ ) るをかしいので、 見物 ( けんぶつ ) が 一齊 ( いつせい ) に 笑 ( わら ) つた。 巡査 ( じゆんさ ) も 苦笑 ( にがわらひ ) をして、
「おい。」とさういつた。
お 孝 ( かう ) は 堪 ( たま ) らなかつた。かはいさうで/\かはいさうでならないのを、 他 ( ほか ) に 多勢 ( おほぜい ) 見 ( み ) て 居 ( ゐ ) るものを、 女 ( をんな ) の 身 ( み ) で、とさう 思 ( おも ) つて、うつちやつては 行 ( ゆ ) きたくなし、さればツて 見 ( み ) ても 居 ( ゐ ) られず、ほんとに 何 ( ど ) うしようかと 思 ( おも ) つて、はツ/\したんだから、 此時 ( このとき ) もう 堪 ( たま ) らなくなつたんだ。
いきなり 前 ( まへ ) へ 出 ( で ) て、 顏 ( かほ ) を 赤 ( あか ) くして、
「 私 ( わたし ) が、あの、さがしますから。」
と、 口 ( くち ) の 中 ( うち ) でいふとすぐ 抱 ( だ ) いた。 下駄 ( げた ) の 泥 ( どろ ) が 帶 ( おび ) にべつたりとついたのも 構 ( かま ) はないで、 抱 ( だ ) きあげて、 引占 ( ひきし ) めると、 肩 ( かた ) の 處 ( ところ ) へかじりついた。
ぐるツと 取卷 ( とりま ) かれて 恥 ( はづか ) しいので、アタフタし、 駈 ( か ) け 出 ( だ ) したい 位 ( くらゐ ) 急足 ( いそぎあし ) で 踏出 ( ふみだ ) すと、おもいもの 抱 ( だ ) いた 上 ( うへ ) に、 落着 ( おちつ ) かないからなりふりを 失 ( うしな ) つた。
穿物 ( はきもの ) の 緒 ( を ) が 弛 ( ゆる ) んで 居 ( ゐ ) たので 踏返 ( ふみかへ ) してばつたり 横 ( よこ ) に 轉 ( ころ ) ぶと 姿 ( すがた ) が 亂 ( みだ ) れる。
皆 ( みんな ) で 哄 ( どつ ) と 笑 ( わら ) つた。お 孝 ( かう ) は 泣 ( な ) き 出 ( だ ) した。
迷子
泉鏡花 (Maigo) | ||