蛇くひ
泉鏡太郎 (Hebikui) | ||
蛇くひ
泉鏡太郎
西 ( にし ) は 神通川 ( じんつうがは ) の 堤防 ( ていばう ) を 以 ( もつ ) て 劃 ( かぎり ) とし、 東 ( ひがし ) は 町盡 ( まちはづれ ) の 樹林 ( じゆりん ) 境 ( さかひ ) を 爲 ( な ) し、 南 ( みなみ ) は 海 ( うみ ) に 到 ( いた ) りて 盡 ( つ ) き、 北 ( きた ) は 立山 ( りふざん ) の 麓 ( ふもと ) に 終 ( をは ) る。 此間 ( このあひだ ) 十 里 ( り ) 見通 ( みとほ ) しの 原野 ( げんや ) にして、 山水 ( さんすゐ ) の 佳景 ( かけい ) いふべからず。 其 ( その ) 川 ( かは ) 幅 ( はゞ ) 最 ( もつと ) も 廣 ( ひろ ) く、 町 ( まち ) に 最 ( もつと ) も 近 ( ちか ) く、 野 ( の ) の 稍 ( やゝ ) 狹 ( せま ) き 處 ( ところ ) を 郷 ( がう ) 屋敷田畝 ( やしきたんぼ ) と 稱 ( とな ) へて、 雲雀 ( ひばり ) の 巣獵 ( すあさり ) 、 野草 ( のぐさ ) 摘 ( つみ ) に 妙 ( めう ) なり。
此處 ( こゝ ) 往時 ( むかし ) 北越 ( ほくゑつ ) 名代 ( なだい ) の 健兒 ( けんじ ) 、 佐々 ( さつさ ) 成政 ( なりまさ ) の 別業 ( べつげふ ) の 舊跡 ( あと ) にして、 今 ( いま ) も 殘 ( のこ ) れる 築山 ( つきやま ) は 小富士 ( こふじ ) と 呼 ( よ ) びぬ。
傍 ( かたへ ) に一 本 ( ぽん ) 、 榎 ( えのき ) を 植 ( う ) ゆ、 年經 ( としふ ) る 大樹 ( たいじゆ ) 鬱蒼 ( うつさう ) と 繁茂 ( しげ ) りて、 晝 ( ひる ) も 梟 ( ふくろふ ) の 威 ( ゐ ) を 扶 ( たす ) けて 鴉 ( からす ) に 塒 ( ねぐら ) を 貸 ( か ) さず、 夜陰 ( やいん ) 人 ( ひと ) 靜 ( しづ ) まりて 一陣 ( いちぢん ) の 風 ( かぜ ) 枝 ( えだ ) を 拂 ( はら ) へば、 愁然 ( しうぜん ) たる 聲 ( こゑ ) ありておうおう[#「おうおう」に傍点]と 唸 ( うめ ) くが 如 ( ごと ) し。
されば 爰 ( こゝ ) に 忌 ( い ) むべく 恐 ( おそ ) るべきを(おう)に 譬 ( たと ) へて、 假 ( かり ) に( 應 ( おう ) )といへる 一種 ( いつしゆ ) 異樣 ( いやう ) の 乞食 ( こつじき ) ありて、 郷 ( がう ) 屋敷田畝 ( やしきたんぼ ) を 徘徊 ( はいくわい ) す。 驚破 ( すは ) 「 應 ( おう ) 」 來 ( きた ) れりと 叫 ( さけ ) ぶ 時 ( とき ) は、 幼童 ( えうどう ) 婦女子 ( ふぢよし ) は 遁隱 ( にげかく ) れ、 孩兒 ( がいじ ) も 怖 ( おそ ) れて 夜泣 ( よなき ) を 止 ( とゞ ) む。
「 應 ( おう ) 」は 普通 ( ふつう ) の 乞食 ( こつじき ) と 齊 ( ひと ) しく、 見 ( み ) る 影 ( かげ ) もなき 貧民 ( ひんみん ) なり。 頭髮 ( とうはつ ) は 婦人 ( をんな ) のごとく 長 ( なが ) く 伸 ( の ) びたるを 結 ( むす ) ばず、 肩 ( かた ) より 垂 ( た ) れて 踵 ( かゝと ) に 到 ( いた ) る。 跣足 ( せんそく ) にて 行歩 ( かうほ ) 甚 ( はなは ) だ 健 ( けん ) なり。 容顏 ( ようがん ) 隱險 ( いんけん ) の 氣 ( き ) を 帶 ( お ) び、 耳 ( みゝ ) 敏 ( さと ) く、 氣 ( き ) 鋭 ( するど ) し。 各自 ( おの/\ ) 一 條 ( でう ) の 杖 ( つゑ ) を 携 ( たづさ ) へ、 續々 ( ぞく/\ ) 市街 ( しがい ) に 入込 ( いりこ ) みて、 軒毎 ( のきごと ) に 食 ( しよく ) を 求 ( もと ) め、 與 ( あた ) へざれば 敢 ( あへ ) て 去 ( さ ) らず。
初 ( はじ ) めは 人皆 ( ひとみな ) 懊惱 ( うるさゝ ) に 堪 ( た ) へずして、 渠等 ( かれら ) を 罵 ( のゝし ) り 懲 ( こ ) らせしに、 爭 ( あらそ ) はずして 一旦 ( いつたん ) は 去 ( さ ) れども、 翌日 ( よくじつ ) 驚 ( おどろ ) く 可 ( べ ) き 報怨 ( しかへし ) を 蒙 ( かうむ ) りてより 後 ( のち ) は、 見 ( み ) す/\ 米錢 ( べいせん ) を 奪 ( うば ) はれけり。
渠等 ( かれら ) は 己 ( おのれ ) を 拒 ( こば ) みたる 者 ( もの ) の 店前 ( みせさき ) に 集 ( あつま ) り、 或 ( あるひ ) は 戸口 ( とぐち ) に 立並 ( たちなら ) び、 御繁昌 ( ごはんじやう ) の 旦那 ( だんな ) 吝 ( けち ) にして 食 ( しよく ) を 與 ( あた ) へず、 餓 ( う ) ゑて 食 ( くら ) ふものの 何 ( なに ) なるかを 見 ( み ) よ、と 叫 ( さけ ) びて、 袂 ( たもと ) を 深 ( さ ) ぐれば 畝々 ( うね/\ ) と 這出 ( はひい ) づる 蛇 ( くちなは ) を 掴 ( つか ) みて、 引斷 ( ひきちぎ ) りては 舌鼓 ( したうち ) して 咀嚼 ( そしやく ) し、 疊 ( たゝみ ) とも 言 ( い ) はず、 敷居 ( しきゐ ) ともいはず、 吐出 ( はきいだ ) しては 舐 ( ねぶ ) る 態 ( さま ) は、ちらと 見 ( み ) るだに 嘔吐 ( おうど ) を 催 ( もよほ ) し、 心弱 ( こゝろよわ ) き 婦女子 ( ふぢよし ) は 後三日 ( のちみつか ) の 食 ( しよく ) を 廢 ( はい ) して、 病 ( やまひ ) を 得 ( え ) ざるは 寡 ( すく ) なし。
凡 ( およ ) そ 幾百戸 ( いくひやくこ ) の 富家 ( ふか ) 、 豪商 ( がうしやう ) 、一 度 ( ど ) づゝ、 此 ( この ) 復讐 ( しかへし ) に 遭 ( あ ) はざるはなかりし。 渠等 ( かれら ) の 無頼 ( ぶらい ) なる 幾度 ( いくたび ) も 此 ( この ) 擧動 ( きよどう ) を 繰返 ( くりかへ ) すに 憚 ( はゞか ) る 者 ( もの ) ならねど、 衆 ( ひと ) は 其 ( その ) 乞 ( こ ) ふが 隨意 ( まゝ ) に 若干 ( じやくかん ) の 物品 ( もの ) を 投 ( とう ) じて、 其 ( その ) 惡戲 ( あくぎ ) を 演 ( えん ) ぜざらむことを 謝 ( しや ) するを 以 ( も ) て、 蛇食 ( へびくひ ) の 藝 ( げい ) は 暫時 ( ざんじ ) 休憩 ( きうけい ) を 呟 ( つぶや ) きぬ。
渠等 ( かれら ) 米錢 ( べいせん ) を 惠 ( めぐ ) まるゝ 時 ( とき ) は、「お 月樣 ( つきさま ) 幾 ( いく ) つ」と 一齊 ( いつせい ) に 叫 ( さけ ) び 連 ( つ ) れ、 後 ( あと ) をも 見 ( み ) ずして 走 ( はし ) り 去 ( さ ) るなり。ただ 貧家 ( ひんか ) を 訪 ( と ) ふことなし。 去 ( さ ) りながら 外面 ( おもて ) に 窮乏 ( きうばふ ) を 粧 ( よそほ ) ひ、 嚢中 ( なうちう ) 却 ( かへつ ) て 温 ( あたゝか ) なる 連中 ( れんぢう ) には、 頭 ( あたま ) から 此 ( この ) 一藝 ( いちげい ) を 演 ( えん ) じて、 其家 ( そこ ) の 女房 ( にようばう ) 娘等 ( むすめら ) が 色 ( いろ ) を 變 ( へん ) ずるにあらざれば、 決 ( けつ ) して 止 ( や ) むることなし。 法 ( はふ ) はいまだ 一個人 ( いつこじん ) の 食物 ( しよくもつ ) に 干渉 ( かんせふ ) せざる 以上 ( いじやう ) は、 警吏 ( けいり ) も 施 ( ほどこ ) すべき 手段 ( しゆだん ) なきを 如何 ( いかん ) せむ。
蝗 ( いなご ) 、 蛭 ( ひる ) 、 蛙 ( かへる ) 、 蜥蜴 ( とかげ ) の 如 ( ごど ) きは、 最 ( もつと ) も 喜 ( よろこ ) びて 食 ( しよく ) する 物 ( もの ) とす。 語 ( ご ) を 寄 ( よ ) す( 應 ( おう ) )よ、 願 ( ねが ) はくはせめて 糞汁 ( ふんじふ ) を 啜 ( すゝ ) ることを 休 ( や ) めよ。もし 之 ( これ ) を 味噌汁 ( みそしる ) と 酒落 ( しやれ ) て 用 ( もち ) ゐらるゝに 至 ( いた ) らば、十 萬石 ( まんごく ) の 稻 ( いね ) は 恐 ( おそ ) らく 立處 ( たちどころ ) に 枯 ( か ) れむ。
最 ( もつと ) も 饗膳 ( きやうぜん ) なりとて 珍重 ( ちんちよう ) するは、 長蟲 ( ながむし ) の 茹初 ( ゆでたて ) なり。 蛇 ( くちなは ) [#底本では(くちはな)のルビ]の 料理 ( れうり ) 鹽梅 ( あんばい ) を 潛 ( ひそ ) かに 見 ( み ) たる 人 ( ひと ) の 語 ( かた ) りけるは、( 應 ( おう ) )が 常住 ( じやうぢう ) の 居所 ( ゐどころ ) なる、 屋根 ( やね ) なき 褥 ( しとね ) なき 郷 ( がう ) 屋敷田畝 ( やしきたんぼ ) の 眞中 ( まんなか ) に、 銅 ( あかゞね ) にて 鑄 ( い ) たる 鼎 ( かなへ ) (に 類 ( るゐ ) す)を 裾 ( す ) ゑ、 先 ( ま ) づ 河水 ( かはみづ ) を 汲 ( く ) み 入 ( い ) るゝこと 八分目 ( はちぶんめ ) 餘 ( よ ) 、 用意 ( ようい ) 了 ( をは ) れば 直 ( たゞ ) ちに 走 ( はし ) りて、 一本榎 ( いつぽんえのき ) の 洞 ( うろ ) より 數十條 ( すうじふでう ) の 蛇 ( くちなは ) を 捕 ( とら ) へ 來 ( きた ) り、 投込 ( なげこ ) むと 同時 ( どうじ ) に 目 ( め ) の 緻密 ( こまか ) なる 笊 ( ざる ) を 蓋 ( おほ ) ひ、 上 ( うへ ) には 犇 ( ひし ) と 大石 ( たいせき ) を 置 ( お ) き、 枯草 ( こさう ) を 燻 ( ふす ) べて、 下 ( した ) より 爆※ ( ぱツ/\ )
と 火 ( ひ ) を 焚 ( た ) けば、 長蟲 ( ながむし ) は 苦悶 ( くもん ) に 堪 ( た ) へず 蜒轉※ ( のたうちまは ) り、 遁 ( のが ) れ 出 ( い ) でんと 吐 ( は ) き 出 ( いだ ) す 纖舌 ( せんぜつ ) 炎 ( ほのほ ) より 紅 ( あか ) く、 笊 ( ざる ) の 目 ( め ) より 突出 ( つきいだ ) す 頭 ( かしら ) を 握 ( にぎ ) り 持 ( も ) ちてぐツと 引 ( ひ ) けば、 脊骨 ( せぼね ) は 頭 ( かしら ) に 附 ( つ ) きたるまゝ、 外 ( そと ) へ 拔出 ( ぬけい ) づるを 棄 ( す ) てて、 屍 ( しかばね ) 傍 ( かたへ ) に 堆 ( うづたか ) く、 湯 ( ゆ ) の 中 ( なか ) に 煮 ( に ) えたる 肉 ( にく ) をむしや――むしや 喰 ( く ) らへる 樣 ( さま ) は、 身 ( み ) の 毛 ( け ) も 戰悚 ( よだ ) つばかりなりと。( 應 ( おう ) )とは 殘忍 ( ざんにん ) なる 乞丐 ( きつかい ) の 聚合 ( しうがふ ) せる 一團體 ( いちだんたい ) の 名 ( な ) なることは、 此一 ( このいち ) を 推 ( お ) しても 知 ( し ) る 可 ( べ ) きのみ。 生 ( い ) ける 犬 ( いぬ ) を 屠 ( ほふ ) りて 鮮血 ( せんけつ ) を 啜 ( すゝ ) ること、 美 ( うつく ) しく 咲 ( さ ) ける 花 ( はな ) を 蹂躙 ( じうりん ) すること、 玲瓏 ( れいろう ) たる 月 ( つき ) に 向 ( むか ) うて 馬糞 ( ばふん ) を 擲 ( なげう ) つことの 如 ( ごと ) きは、 言 ( い ) はずして 知 ( し ) るベきのみ。
然 ( しか ) れども 此 ( こ ) の 白晝 ( はくちう ) 横行 ( わうぎやう ) の 惡魔 ( あくま ) は、 四時 ( しじ ) 恆 ( つね ) に 在 ( あ ) る 者 ( もの ) にはあらず。 或 ( あるひ ) は 週 ( しう ) を 隔 ( へだ ) てて 歸 ( かへ ) り、 或 ( あるひ ) は 月 ( つき ) をおきて 來 ( きた ) る。 其 ( その ) 去 ( さ ) る 時 ( とき ) 來 ( きた ) る 時 ( とき ) 、 進退 ( しんたい ) 常 ( つね ) に 頗 ( すこぶ ) る 奇 ( き ) なり。
一 人 ( にん ) 榎 ( えのき ) の 下 ( もと ) に 立 ( た ) ちて、「お 月樣 ( つきさま ) 幾 ( いく ) つ」と 叫 ( さけ ) ぶ 時 ( とき ) は、 幾多 ( いくた ) の( 應 ( おう ) ) 等 ( ら ) 同音 ( どうおん ) に「お 十三 ( じふさん ) 七 ( なゝ ) つ」と 和 ( わ ) して、 飛禽 ( ひきん ) の 翅 ( つばさ ) か、 走獸 ( そうじう ) の 脚 ( あし ) か、 一躍 ( いちやく ) 疾走 ( しつそう ) して 忽 ( たちま ) ち 見 ( み ) えず。 彼 ( かの ) 堆 ( うづたか ) く 積 ( つ ) める 蛇 ( くちなは ) の 屍 ( しかばね ) も、 彼等 ( かれら ) 將 ( まさ ) に 去 ( さ ) らむとするに 際 ( さい ) しては、 穴 ( あな ) を 穿 ( うが ) ちて 盡 ( こと/″\ ) く 埋 ( うづ ) むるなり。さても 清風 ( せいふう ) 吹 ( ふ ) きて 不淨 ( ふじやう ) を 掃 ( はら ) へば、 山野 ( さんや ) 一點 ( いつてん ) の 妖氛 ( えうふん ) をも 止 ( とゞ ) めず。 或時 ( あるとき ) は 日 ( ひ ) の 出 ( い ) づる 立山 ( りふざん ) の 方 ( かた ) より、 或時 ( あるとき ) は 神通川 ( じんつうがは ) を 日沒 ( につぼつ ) の 海 ( うみ ) より 溯 ( さかのぼ ) り、 榎 ( えのき ) の 木蔭 ( こかげ ) に 會合 ( くわいがふ ) して、お 月樣 ( つきさま ) と 呼 ( よ ) び、お 十三 ( じふさん ) と 和 ( わ ) し、パラリと 散 ( ち ) つて 三々五々 ( さん/\ごゞ ) 、 彼 ( かの ) 杖 ( つゑ ) の 響 ( ひゞ ) く 處 ( ところ ) 妖氛 ( えうふん ) 人 ( ひと ) を 襲 ( おそ ) ひ、 變幻 ( へんげん ) 出沒 ( しゆつぼつ ) 極 ( きはま ) りなし。
されば 郷 ( がう ) 屋敷田畝 ( やしきたんぼ ) は 市民 ( しみん ) のために 天工 ( てんこう ) の 公園 ( こうゑん ) なれども、 隱然 ( いんぜん ) ( 應 ( おう ) )が 支配 ( しはい ) する 所 ( ところ ) となりて、 猶 ( なほ ) 餅 ( もち ) に 黴菌 ( かび ) あるごとく、 薔薇 ( しやうび ) に 刺 ( とげ ) あるごとく、 渠等 ( かれら ) が 居 ( きよ ) を 恣 ( ほしいまゝ ) にする 間 ( あひだ ) は、一 人 ( にん ) も 此 ( この ) 惜 ( をし ) むべき 共樂 ( きようらく ) の 園 ( その ) に 赴 ( おもむ ) く 者 ( もの ) なし。 其 ( その ) 去 ( さ ) つて 暫時 ( ざんじ ) 來 ( きた ) らざる 間 ( あひだ ) を 窺 ( うかゞ ) うて、 老若 ( らうにやく ) 爭 ( あらそ ) うて 散策 ( さんさく ) 野遊 ( やいう ) を 試 ( こゝろ ) む。
さりながら 應 ( おう ) が 影 ( かげ ) をも 止 ( とゞ ) めざる 時 ( とき ) だに、 厭 ( いと ) ふべき 蛇喰 ( へびくひ ) を 思 ( おも ) ひ 出 ( いだ ) さしめて、 折角 ( せつかく ) の 愉快 ( ゆくわい ) も 打消 ( うちけ ) され、 掃愁 ( さうしう ) の 酒 ( さけ ) も 醒 ( さ ) むるは、 各自 ( かくじ ) が 伴 ( ともな ) ひ 行 ( ゆ ) く 幼 ( をさな ) き 者 ( もの ) の 唱歌 ( しやうか ) なり。
草 ( くさ ) を 摘 ( つ ) みつつ 歌 ( うた ) ふを 聞 ( き ) けば、
拾乎 ( ひらを ) 、 拾乎 ( ひらを ) 、 豆 ( まめ ) 拾乎 ( ひらを ) 、
鬼 ( おに ) の 來 ( こ ) ぬ 間 ( ま ) に 豆 ( まめ ) 拾乎 ( ひらを ) 。
古老 ( こらう ) は 眉 ( まゆ ) を 顰 ( ひそ ) め、 壯者 ( さうしや ) は 腕 ( うで ) を 扼 ( やく ) し、 嗚呼 ( あゝ ) 、 兒等 ( こら ) 不祥 ( ふしやう ) なり。 輟 ( や ) めよ、 輟 ( や ) めよ、 何 ( なん ) ぞ 君 ( きみ ) が 代 ( よ ) を 細石 ( さゞれいし ) に 壽 ( ことぶ ) かざる!
などと 小言 ( こごと ) をおつしやるけれど、 拾 ( ひろ ) はにやならぬ、いんまの 間 ( ま ) 。
斯 ( か ) くの 如 ( ごと ) く 言消 ( いひけ ) して 更 ( さら ) に 又 ( また ) 、
拾乎 ( ひらを ) 、 拾乎 ( ひらを ) 、 豆 ( まめ ) 拾乎 ( ひらを ) 、
鬼 ( おに ) の 來 ( こ ) ぬ 間 ( ま ) に 豆 ( まめ ) 拾乎 ( ひらを ) 。
と 唱 ( とな ) へ 出 ( いだ ) す 節 ( ふし ) は 泣 ( な ) くがごとく、 怨 ( うら ) むがごとく、いつも( 應 ( おう ) )の 來 ( きた ) りて 市街 ( しがい ) を 横行 ( わうかう ) するに 從 ( したが ) うて、 件 ( くだん ) の 童謠 ( どうえう ) 東西 ( とうざい ) に 湧 ( わ ) き、 南北 ( なんぼく ) に 和 ( わ ) し、 言語 ( ごんご ) に 斷 ( た ) えたる 不快 ( ふくわい ) 嫌惡 ( けんを ) の 情 ( じやう ) を 喚起 ( よびおこ ) して、 市人 ( いちびと ) の 耳 ( みゝ ) を 掩 ( おほ ) はざるなし。
童謠 ( どうえう ) は( 應 ( おう ) )が 始 ( はじ ) めて 來 ( きた ) りし 稍 ( やゝ ) 以前 ( いぜん ) より、 何處 ( いづこ ) より 傳 ( つた ) へたりとも 知 ( し ) らず 流行 ( りうかう ) せるものにして、 爾來 ( じらい ) 父母※兄 ( ふぼしけい ) が 誑 ( だま ) しつ、 賺 ( すか ) しつ 制 ( せい ) すれども、 頑 ( ぐわん ) として 少 ( すこ ) しも 肯 ( き ) かざりき。
都人士 ( とじんし ) もし 此事 ( このこと ) を 疑 ( うたが ) はば、 請 ( こ ) ふ 直 ( たゞ ) ちに 來 ( きた ) れ。 上野 ( うへの ) の 汽車 ( きしや ) 最後 ( さいご ) の 停車場 ( ステエシヨン ) に 達 ( たつ ) すれば、 碓氷峠 ( うすひたうげ ) の 馬車 ( ばしや ) に 搖 ( ゆ ) られ、 再 ( ふたゝ ) び 汽車 ( きしや ) にて 直江津 ( なほえつ ) に 達 ( たつ ) し、 海路 ( かいろ ) 一文字 ( いちもんじ ) に 伏木 ( ふしき ) に 至 ( いた ) れば、 腕車 ( わんしや ) 十 錢 ( せん ) 富山 ( とやま ) に 赴 ( おもむ ) き、 四十物町 ( あへものちやう ) を 通 ( とほ ) り 拔 ( ぬ ) けて、 町盡 ( まちはづれ ) の 杜 ( もり ) を 潛 ( くゞ ) らば、 洋々 ( やう/\ ) たる 大河 ( たいが ) と 共 ( とも ) に 漠々 ( ばく/\ ) たる 原野 ( げんや ) を 見 ( み ) む。 其處 ( そこ ) に 長髮 ( ちやうはつ ) 敝衣 ( へいい ) の 怪物 ( くわいぶつ ) を 見 ( み ) とめなば、 寸時 ( すんじ ) も 早 ( はや ) く 踵 ( くびす ) を 囘 ( かへ ) されよ。もし 幸 ( さいはひ ) に 市民 ( しみん ) に 逢 ( あ ) はば、 進 ( すゝ ) んで 低聲 ( ていせい ) に( 應 ( おう ) )は?と 聞 ( き ) け、 彼 ( かれ ) の 變 ( へん ) ずる 顏色 ( がんしよく ) は 口 ( くち ) より 先 ( さき ) に 答 ( こたへ ) をなさむ。
無意 ( むい ) 無心 ( むしん ) なる 幼童 ( えうどう ) は 天使 ( てんし ) なりとかや。げにもさきに 童謠 ( どうえう ) ありてより( 應 ( おう ) )の 來 ( きた ) るに 一月 ( ひとつき ) を 措 ( お ) かざりし。 然 ( しか ) るに 今 ( いま ) は 此歌 ( このうた ) 稀々 ( まれ/\ ) になりて、 更 ( さら ) にまた 奇異 ( きい ) なる 謠 ( うた ) は、
屋敷田畝 ( やしきたんぼ ) に 光 ( ひか ) る 物 ( もの ) ア 何 ( なん ) ぢや、
蟲 ( むし ) か、 螢 ( ほたる ) か、 螢 ( ほたる ) の 蟲 ( むし ) か、
蟲 ( むし ) でないのぢや、 目 ( め ) の 玉 ( たま ) ぢや。
頃日 ( けいじつ ) 至 ( いた ) る 處 ( ところ ) の 辻 ( つじ ) にこの 聲 ( こゑ ) を 聞 ( き ) かざるなし。
目 ( め ) の 玉 ( たま ) 、 目 ( め ) の 玉 ( たま ) ! 赫奕 ( かくやく ) たる 此 ( こ ) の 明星 ( みやうじやう ) の 持主 ( もちぬし ) なる、( 應 ( おう ) )の 巨魁 ( きよくわい ) が 出現 ( しゆつげん ) の 機 ( き ) 熟 ( じゆく ) して、 天公 ( てんこう ) 其 ( そ ) の 使者 ( ししや ) の 口 ( くち ) を 藉 ( か ) りて、 豫 ( あらかじ ) め 引 ( いん ) をなすものならむか。
蛇くひ
泉鏡太郎 (Hebikui) | ||