鷭狩
泉鏡花 (Bangari) | ||
六
「 貴方 ( あなた ) 、ちょっと……お話がございます。」
――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。――
「へい、旦那御機嫌よう。」と三人ばかり座敷へ出ると、……「遅いじゃねえか。」とその御機嫌が大不機嫌。「 先刻 ( さっき ) お勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。」――「 撃 ( ぶ ) つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。」と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖の 面 ( おもて ) がほんのりと青ずんだ。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。
早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧を 曳 ( ひ ) いて動いた。船である。
睡眠 ( ねむり ) は覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、 寿 ( いのちなが ) かれ、鷭よ。
雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。
お澄が入って来た――が、すぐに顔が見られなかった。首筋の骨が 硬 ( こわ ) ばったのである。
「貴方、ちょっと……お話がございます。」
お澄が 静 ( しずか ) にそう言うと、からからと 釣 ( つり ) を手繰って、露台の 硝子戸 ( がらすど ) に、青い幕を深く 蔽 ( おお ) うた。
閨 ( ねや ) の障子はまだ暗い。
「何とも申しようがない。」
雪は
※ ( どう ) となって手を 支 ( つ ) いた。「私は 懺悔 ( ざんげ ) をする、皆嘘だ。―― 画工 ( えかき ) は画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。 自棄 ( やけ ) まぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、 位牌 ( いはい ) に面目のあるような男じゃない。――その 大革鞄 ( おおかばん ) も 借 ( かり ) ものです。
樊※ ( はんかい ) の盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭を 画 ( か ) いたのは事実です。 女郎屋 ( じょろや ) の亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪を 結 ( い ) わせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船を 漕 ( こ ) がせて、湖の鷭を 狙撃 ( ねらいうち ) に撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが 奴等 ( やつら ) の口うつしに言うらしい、その三頭も 癪 ( しゃく ) に障った。なにしろ、私の 画 ( え ) が 突刎 ( つっぱ ) ねられたように 口惜 ( くやし ) かった。 嫉妬 ( ねたみ ) だ、そねみだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思って 堪 ( こら ) えてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。――無論、私が志を得たら……」「貴方。」
とお澄がきっぱり言った。
「身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野の 薊 ( あざみ ) です。 路傍 ( みちばた ) の 塵 ( ちり ) なんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。」
「その、その、その事だよ……実は。」
「いいえ、ほかのものは要りません。ただ 一品 ( ひとしな ) 。」
「ただ一品。」
「貴方の小指を切って下さい。」
「…………」
「澄に、小指を下さいまし。」
少からず不良性を帯びたらしいまでの若者が、わなわなと震えながら、
「親が、 両親 ( ふたおや ) があるんだよ。」
「私にもございますわ。」
と 凜 ( りん ) と言った。
拳 ( こぶし ) を握って、 屹 ( きっ ) と見て、
「お澄さん、 剃刀 ( かみそり ) を持っているか。」
「はい。」
「いや、―― 食切 ( くいき ) ってくれ、その 皓歯 ( しらは ) で。……潔くあなたに上げます。」
やがて、唇にふくまれた時は、かえって 稚児 ( おさなご ) が乳を吸うような思いがしたが、あとの 疼痛 ( いたみ ) は鋭かった。
渠 ( かれ ) は大夜具を頭から 引被 ( ひっかぶ ) った。
「看病をいたしますよ。」
お澄は、胸白く、下じめの 他 ( ほか ) に血が 浸 ( にじ ) む。…… 繻子 ( しゅす ) の帯がするすると鳴った。
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