University of Virginia Library

Search this document 

曾根崎心中(お初天神記)

[語り]

實にや安樂世界より、今此娑婆に示現して、我等が爲の觀世音、仰ぐも高し高き屋に、 登りて民の賑ひを、契りおきてし難波津や、三ツづつ十ウと三ツの里、札所々々の靈 地靈佛、廻れば罪も夏の雲、熱くろしとて駕籠をはや、をりはの乞目三六の、十八九 なる顏世花、今咲出しの初花に、傘は被ずとも召さずとも、照日の神も男神、除けて 日負はよもあらじ。頼みありける巡禮道、西國三十三所にも向ふと聞ぞ有難き。一番 に天滿の大融寺。此御寺の名も古りし、昔の人も氣のとほるの、大臣の君が鹽竃の、 浦を都に堀江漕ぐ、汐汲舟の跡絶えず、今も弘誓の櫓拍子に、法の玉鉾ゑい/\。大 阪巡禮胸に木札の普陀落や、大江の岸に打つ波に、白む夜明の、鳥も二番に長福寺。 空に眩き久方の、光に映る我影の、あれ/\走れば走る。これ/\又留れば留る。振 のよしあし見る如く、心も嘸や神佛、照す鏡の神明宮。拜み廻りて法住寺。人の願ひ も我如く、誰をか戀の祈りぞと、仇の悋氣や法界寺。東は如何に大鏡寺。草の若芽も 春過て、遲れ咲なる菜種や罌粟の、露に憔るる夏の蟲。おのが妻戀ひ優しやすしや。 彼地へ飛つれ、此地へ飛連れ、彼地やこち風ひた/\/\、羽と羽とを袷の袖、染た 模樣を花かとて、肩にとまればおのづから、紋に揚羽の超泉寺。さて善道寺栗東寺。 天滿の札所殘りなく、其方にめぐる夕立の、雲の羽衣蝉の羽の、薄き手拭暑き日に、 貫く汗の玉造。稻荷の宮にまよふとの、闇はことはり御佛も、衆生の爲の親なれば、 是ぞ小長谷の興徳寺。四方に眺めの果しなく、西に船路の海深く、波の淡路に消えず も通ふ、沖の潮風身に染む鴎、汝も無常の烟に咽ぶ。色に焦れて死ふなら、しんぞ此 身は成次第。さて實に好いけいでん寺。縁に引れて又何時か、此處に高津の遍妙院。 菩提の種や上寺町の、長安寺より誓安寺。上りやすな/\、下りやちよこ/\、上り つ下りつ谷町筋を、歩みならはず行きならはねば、所體くづをれア、恥しの、森で裳 裾がはら/\/\、はつと翻るを打掻合せ、ゆるみし帯を引締め/\、しめて絆はれ 藤の棚。十七番に重願寺。これからいくつ生玉の、本誓寺ぞと伏拜む。珠數に繋がん 菩提寺や。はや天王寺に六時堂、七千餘巻の經堂に、經讀む鳥のときぞとて、餘所の 待宵きぬ%\も、思はで辛き鐘の聲、こん金堂に講堂や、萬燈院に灯す火は、影も耀 く蝋燭の、しん清水にしばしとて、軈て休らふ逢坂の、關の清水を汲上つ、手に掬び 上げ口嗽ぎ、無明の酒の醉さます、木々の下風ひや/\と、右の袖口左の袖へ、通る 烟管に燻る火も、道の慰み熱からず。吹て亂るる薄烟、空に消えては是も亦、行衞も 知らぬ相思草、人忍ぶ草道草に、日も傾きぬ急がんと、又立出る雲の脚。時雨の松の 下寺町に、信心深き眞光寺。覺らぬ身さへ大覺寺。さて金臺寺大蓮寺。廻り/\て是 ぞはや、三十番にみつ寺の、大慈大悲の頼みにて、かくる佛の御手の糸。白髪町とよ 黒髪は、戀に亂るる妄執の、夢を覺さんばくらうの、此處も稻荷の神社。佛神水波の しるしとて、甍竝べし新御靈に、拜みおさまるさしもぐさ。草のはす花世にまじり、 三十三に御身をかえ、色で導き情で教へ、戀を菩提の橋となし、渡して救ふ觀世音。 誓ひは妙に三重有難し。立迷ふ浮名を餘所に漏さじと、包む心の内本町。焦るる胸の 平野屋に、春を重ねし雛男。一ツなる口桃の酒、柳の髪もとく/\と、呼れて粹の名 取川。今は手代と埋木の、生醤油の袖したたるき、戀の奴に荷はせて、得意を廻り生 玉の、社にこそは著にけれ。出茶屋の床より女の聲、


[初]

「ありや徳さまではないかいの。コレ徳樣々々」


[語り]

と手をたたけば、徳兵衞合點して打頷き、



「コレ長藏、おれは後から往のほどに、其方は寺町の久本寺樣、長久寺樣、上町 から屋敷方廻つて而して内へ往や。徳兵衞も早戻ると言や。それ忘れずとも、安土町 の紺屋へ寄て錢取やや。道頓堀へ寄やんなや」


[語り]

と、影見ゆるまで見送り/\、簾を上て、



「コレお初じやないか。是は如何じや」


[語り]

と編笠を脱んとすれば、



「アヽ先づ矢張被て居さんせ。今日は田舎の客で、三十三番の觀音樣を廻りまし、 此處で晩まで日暮しに、酒にするじやと贅言て、物眞似聞にそれ其處へ。戻つて見れ ばむづかしい。駕籠も皆知んした衆。矢張笠を被て居さんせ。それは左樣じやが此頃 は、梨も礫もうたんせぬ。氣遣ひなれど内方の、首尾を知らねば便宜もならず。丹波 屋まではお百度ほど訪ぬれど、彼處へも音信もないとある。ハア誰やらがヲヽそれよ。 座頭の太市が友達衆に聞けば、在所へ往んしたといへども、つんと誠にならず。ほん に又餘りな。妾は如何ならふとも聞たうもないかいの。此方樣それでも濟もぞいの。 妾は病ひになるはいの。嘘なら是れ此痞を見さんせ」


[語り]

と、手を取て懷の、うち怨みたる口説泣。ほんの夫婦にかはらじな。男も泣て、


[徳]

「ヲヽ道理々々。去ながら言ふて苦にさせ、何せうぞいの。此中おれが憂苦勞、盆と 正月其上に、十夜お祓ひ煤掃を、一度にするとも斯うはあるまい。心の内はむしやく しやと、やみらみつちやの皮袋。銀事やら何じややら、譯は京へも上つて來る。能ふ も/\徳兵衞が命は續きの狂言に、したらば哀にあらふぞ」


[語り]

と、溜息ほつとつくばかり。



「ハテ輕口の段かいの。それ程に無い事をさへ妾にはなぜ言んせぬ。隱さんしたは仔 細があろ。何故打明て下んせぬ」


[語り]

と、膝に凭れてさめ%\と、涙は延紙を浸しけり。



「ハアテ泣やんな、恨みやるな。隱すではなけれども、言ふても埓の明ぬ事。さりな がら大概先づ濟よつたが、一伍一什を聞てたも。おれが旦那は主ながら現在の叔父甥 なれば、懇切にも預る、又身共も、奉公にこれほども油斷せず。商ひ物ももじひらが な違へた事のあらばこそ。此頃袷を仕樣と思ひ、堺筋で加賀一疋、旦那の名代でかひ がかる。是が一期に只た一度。此金もすはと言へば、著替賣ても損かけぬ、此正直を 見て取て、内儀の姪に二貫目附て夫婦にし、商賣させうといふ談合。去年からの事な れど、和女といふ人持て、何の心が移らうぞ。取りあへもせぬ其内に、在所の母は繼 母なるが、我に隱して親方と談合極め、二貫目の金を握て歸られしを、此うつそりが 夢にも知らず。後の月からもやくり出し、押て祝言させうとある。其處で俺も勃とし て、やあら聞えぬ旦那殿、私合點がいたさぬを、老婆を賺したたきつけ、餘りな成さ れやう。お内儀樣も聞えませぬ。今迄、樣に樣を付け崇まへた娘御に、金を付て申受 け、一生女房の機嫌取り、此徳兵衞が立ものか。嫌といふからは、死だ親父が蘇生り 申すとあつても否で御座ると、詞を過す返答に、親方も立腹せられ、おれが夫れも知 て居る。蜆川の天滿屋の初めとやらと腐り合ひ、嚊が姪を嫌ふよな。好い此上は最う 娘は遣ぬ。遣ぬからは金を立。四月七日までに屹度立て。商ひの勘定せよ。まくり出 して大阪の地はふませぬと怒らるる。それがしも男の我。ヲヽソレ畏つたと在所へ走 る。又此母といふ人が、此世が彼の世へ歸つても、握た銀を放さばこそ。京の五條の 醤油問屋、常々金の取遣すれば、これを頼みに上つて見ても、折りしも惡う銀もなし。 引返して在所へ行き、一在所の詫言にて、母より金を請取たり。追付返し勘定仕舞ひ、 さらりと埓が明くは明く。されども大阪に置れまい時には如何して逢れふぞ。假へば 骨を碎かれて、身はしやれ貝の蜆川、底の水屑とならば成れ。汝が身に放れ如何せう」


[語り]

と、咽び入てぞ泣居たる。お初も共に喘く涙、力をつけて押留め、



「さて/\いかい御苦勞。皆妾故と思ふから、嬉し悲しう忝し。さりながら、心慥に 思召せ。大阪を堰れさんしても、盗み家燒の身ではなし。如何してなりとも置く分は、 妾が心にあることなり。逢ふに逢れぬ其時は、此世ばかりの約束か。左樣した例しの 無ではなし。死ぬるをたかの死出の山。三途の川は堰く人も、せかるる人もあるまい」


[語り]

と、氣強う勇む詞の中、涙に咽て言させり。お初重ねて、



「七日といふても明日の事。とても渡す金なれば、早う戻して親方樣の、機嫌をも取 らんせ」


[語り]

といへば、



「ヲヽ左樣思ふて氣が急くが、和女も知た彼の油屋の九平次が、後の月の晦日、 只た一日要る事あり。三日の朝は返さうと、一命かけて頼むにより、七日までは要ら ぬ金。兄弟同士の友達の爲を思ひて、時貸に貸たるが、三日四日に便宜せず。昨日は 留守で逢もせず。今朝尋ねふと思ひしが、明日限に商ひの勘定も仕舞はんと、得意廻 りで打過たり。晩には行て埓明ふ。彼奴も男磨く奴。おれが難儀も知て居る。如才は あるまい。氣遣しやるな。ヤアお初」


[語り]

謡初瀬も遠し難波寺。名所多き鐘の音、つきぬや法の聲ならん。山寺の春の夕暮來て 見れば、先なは



「これ九平次、アヽ不敵千萬な。身共方へ不届して遊山どころではあるまいぞ。サア 今日埓明ふ」


[語り]

と、手を取て引留れば、九平次興覺顏になつて、



「何んの事ぞ徳兵衞、此連衆は町の衆。上鹽町へ伊勢講にて只今歸るが、酒も少し飲 で居る。利腕把て如何する事ぞ。麁相をするな」


[語り]

と笠を取れば、



「イヤ此徳兵衞は麁相はせぬ。後の月の二十八日、銀子二貫目時貸に此三日切に貸た る銀、それを返せといふ事」


[語り]

と、言せも果てず九平次、つらか/\と笑ひ、


[九]

「氣が違ふたか徳兵衞。われと數年語れども、一錢借た覺えもなし。聊爾な事を言懸 け、後悔するな」


[語り]

と振放せば、連も笠をはらりと脱ぐ。徳兵衞はつと色を變へ、


[徳]

「言ふな/\九平次。身が此度の大難儀、如何もならぬ銀なれども、晦日只た一日で、 身代立ぬと歎いたゆゑ、日來語るは此處らと思ひ、男づくで貸たぞよ。手形も要らぬ といふたれば、念の爲じや判しやうとおれに證文書かせ、お主が捺た判がある。左樣 いふな九平次」


[語り]

と、血眼になつて責蒐る。


[九]

「ムヽウ何じや。判とは何れ見たい」


[徳]

「ヲヽ見せいで置ふか」


[語り]

と、懷中の鼻紙入より取出し、


[徳]

「お町衆なら見知もあらふ。コリヤ是でも爭ふか」


[語り]

と、披いて見すれば、九平次横手を打ち、


[九]

「成程判はおれが判。エヽ徳兵衞、土に食付死ぬるとても、斯樣な事は爲ぬものじや。 此九平次は後の月の二十五日に、鼻紙袋を落して、印判共に失なふた。方々に張紙し て尋ぬれども知れぬゆゑ、此月からコレ此お町衆へもことはり、印判を替たはやい。 二十五日に落した判を八日に捺れうか。さては其方が拾ふて、手形を書て判を捺ゑ、 おれを強請て銀取ふとは、謀判よりも大罪人。こんな事をせうよりも盗みをせい徳兵 衞。エヽ首を斬せる奴なれど懇意甲斐に許して置く。銀になるなら仕て見よ」


[語り]

と、手形を顏へ打付け、はつたと白眼む顏付は、けんによもなげにしら/\し。徳兵 衞くわつと胸急て大聲上げ、


[徳]

「扨巧んだり/\。一杯食ふたか無念やな。ハテ何んとせう。此銀をのめ/\と、只 己に取られうか。斯う巧んだ事なれば、でんどへ出ても俺が負け。腕前で取て見せう。 コリヤ平野屋の徳兵衞じや。男ぢやが合點か。おのれが樣に友達を騙つて倒す男じや ない。サア來い」


[語り]

と掴付く。



「ヤア洒落な丁稚上りめ、投てくれん」


[語り]

と胸倉取り、撲合ひ捻合ひ敲き合ふ。お初は跣で飛で下り、


[初]

「あれ皆樣頼みます。妾が知たお人じやが、駕籠の衆は居やらぬか。あれ徳樣じや」


[語り]

と身をもがく。詮方なくも哀れなり。客は素より田舎者、


[客]

「怪我があつてはならぬぞ」


[語り]

と無體に駕籠に押入るる。



「いや先づ待て下さんせ。なふ悲しや」


[語り]

と泣聲ばかり、急げ/\と一散に駕籠を早めて歸りけり。徳兵衞は只一人、九平次は 五人連れ、四邊の茶屋より棒ずくめ、蓮池まで追出し、誰が蹈やら叩くやら、更に分 ちは無りけり。髪も解かれ帯も解け、彼方此方へ伏轉び、



「やれ九平次め畜生め。おのれ生て置ふか」


[語り]

と、よろぼび尋ね廻れども、逃て行衞も見えばこそ。其儘其處にどうと居り、大聲上 て涙を流し、



「孰れもの手前も面目なし恥しし。全く此徳兵衞が言かけしたるで更になし。日頃兄 弟同前に語りし奴が事といひ、一生の恩と歎きしゆゑ、明日七日此銀がなければ、我 等も死ねばならぬ命がはりの銀なれども、互の事と役に立ち、手形を我等が手で書せ、 印判捺て其判を、前方に落せしと町内へ披露して、却て今の逆ねだれ。口惜や無念や な。此如く踏叩かれ、男も立たず身もたたず。エヽ最前に掴付き、喰付てなりとも死 なんものを」


[語り]

と、大地を叩き切齒をなし、拳を握り歎きしは、道理とも笑止とも、思ひやられ て哀れなり。



「ハテ斯ういふても無益の事。此徳兵衞が正直の心の底の涼しさは、三日を過さず、 大阪 中へ申譯はして見せう」


[語り]

と、後に知らるる詞の端、


[徳]

「何れも御苦勞かけました。御免あれ」


[語り]

と一禮述べ、破れし編笠拾ひ着て、顏も傾く日影さへ、曇る涙に掻暮れ/\、悄 然歸る有樣は、目もあてられぬ三重戀風の、身に蜆川流れては、其空背貝現なき、色 の闇路を照せとて、夜毎に燈す燈火は、四季の螢よ雨夜の星か。夏も花見る梅田橋。 旅の鄙人、地の思ひ人、心々の譯の道、知るも迷へば知らぬも通ひ、新色里と賑はし し。無慙やな、天滿屋のお初は、内へ歸りても今日の事のみ氣にかかり、酒も飲れず 氣も濟ず、しく/\泣て居る處へ、隣りの娼や朋輩の鳥渡來ては、



「なふ初樣、何も聞んせぬか。 徳樣は何やら仔細の惡い事ありて、たんと撲れさんしたと、聞たが眞か」


[語り]

といふもあり。



「ヤイ儕が客樣の咄ぢやが、踏れて死んしたげな」


[語り]

といふもあり。騙瞞をいふて縛られての、僞判して括られてのと、碌な事は一ツも 言はず、問ふに辛さの見舞なり。



「アヽいや最う言ふて下んすな。聞けば聞くほど胸痛み、妾から先へ死さうな。寧そ 死でのけたい」


[語り]

と、泣より外の事ぞなき。かかる處へ此里馴れぬ人體に、家來に提灯燈させて、此處 か其處かと立覗く。下女の玉立寄て、



「これ親父樣。どんなお顏が物好きぞ。若い衆と同じ樣にうろ/\せずと、先ア此方 へ入らしやんせ」


[語り]

と、引留れば、


[客]

「ムヽ天滿屋といふ茶屋は、此處ではないか」


[語り]

と尋ぬれば、



「アヽ成程々々お尋ねの天滿屋。十四五から三十までの、圓顏面長望み次第。戀知り の初樣とて、町一番のぼつとり者。お目にかけん」


[語り]

と縋付く。



「されば其初といふ女に用の事ある間、鳥渡呼出して」


[語り]

といふや否、



「ムヽさては最うお馴染か。幸ひ只今お暇あり。いざお入り」


[語り]

といひければ、



「イヤ/\左樣の者でなし。逢ふて一言いふ事あり。頼む」


[語り]

といへば、



「さてはお客のお連樣か。そんなら疾から言ふたが好い。コレお初樣、客樣のお連樣 が」


[語り]

と傳へれば、初は彼處に立出て、


[初]

「誰さんじや」


[語り]

と差覗けば、



「ムヽお初とはお身の事な。和女が内に居るからは、徳兵衞めも來て居る筈。此處へ 早う呼で下されい」



「イヽヱ徳樣は未だ見えませぬが、先づ此方樣は誰樣じや」



「ヲヽ身共は徳兵衞めが叔父親方平野屋久右衞門といふもの、和女を見るも恨めしい。 彼の正直な徳兵衞めをば、ぬつぺりとした顏をして、何の樣に瞞したやら。今日此頃 は平生の魂が入替り、錢金を湯水の樣に、夜々通ふのみならず、今日は晝から得意衆 へ、商ひに廻るといふて内を出て、今になりても歸らぬゆゑ、久右衞門が引ずりに參 つた。好い加減にして戻されよ。左なくばお爲が惡からふ」


[語り]

と、苦々しく言ければ、お初はじつと聲を沈め、


[初]

「さてはお前は旦那樣か。内方の入譯も咄で聞て居ますれば、妾が憎いはお道理。そ れ程の事辨へぬ妾でもなけれども、思ひ切るにもきられぬは、二人が因果と思召し、 堪忍して下さんせ。左樣した中の事なれば、再々見えはしますれど、よしない金は遣 はせませぬ。必ず恨みて下んすな。それに就ては、お前へ立る二貫目の銀も、御手に ありしをば友達の義理合にて、油屋の九平次めに用に達てやらんしたを、今日生玉で 逢んして、戻してくれとあつたれば、借らぬと諍ふのみならず、言懸するの、騙瞞の と、徳樣一人を四五人して、撲たり踏だり仕居たを、妾もお客と行合せ、喰付たうは 思へども、お客の手前を憚りて、樣子を見さして戻りしが、若や怪我は無つたかと、 是のみ案じ居まする」


[語り]

と、泣く泣く語れば、久右衞門大きに急て、


[久]

「ナニ九平次めが徳兵衞を踏たるとや。徳兵衞事は久右衞門が家來ながらも甥じやと は、誰知らぬ者ない處に、假し理にもせよ非にもせよ、彼の生玉のでんどにて、九平 次めに踏せては、此久右衞門が立ものか。最う徳兵衞にも逢ますまい。是から直に九 平次が宿へ踏込み、おのれ先づ掴付ても喰付ても、存分言で置うか」


[語り]

と、走り行くを引留め、



「お腹の立のは御尤。併し先には巧んだ事。此上麁相のある時は御損の上の恥になる。 何の道にも、徳樣が追付け是へ見える筈。逢ふて共々談合して、往て下さんせ」


[語り]

と言ひければ、



「ムヽすれば是非とも徳兵衞が、是へ來るに極つたか。然らば逢ての上の事。少時此 處を貸給へ」


[語り]

と、見世の先に腰懸れば、



「イヤノウ此處は商ひ見世、内へ入つて待しやんせ。お妻さま、お吉さま、此御客を ば小座敷へ通しまして」


[語り]

と聞よりも、



「あい」


[語り]

と答へて二人の妓、



「さア御座んせ」


[語り]

と取付けば、



「サア參れなら參らふが、これお初殿、構へて身共は金は拂はぬぞや。必ず念をつか ふた」


[語り]

と、言捨て奥にぞ入りにける。お初は見世につく% \と、物打案じ居る處へ、表を 見れば夜の編笠徳兵衞、思ひ詫たる忍び姿、ちらと見るより飛立ばかり。走り出んと 思へども、おうへには亭主夫婦、上り口に料理人、庭では下女がやくたいの、目が繁 ければ左もならず。



「アヽいかう氣が盡た。門見て來ふ」


[語り]

と密と出、



「なふこれは如何ぞいの。此方樣の評判いろ/\に聞たゆゑ、其氣遣ひさ/\、狂氣 の樣になつて居たはいのう」


[語り]

と、笠の 内に顏さし入れ、聲を立ずの隱し泣き、あはれせつなき涙なり。男も涙にくれながら、


[徳]

「聞きやる通のたくみなれば、言ふ程おれが非に落る。其内四方八方の、首尾はぐわ らりと違ふて來る。最早今宵は過されず。とんと覺悟を極めた」


[語り]

と囁けば、内よりも、


[聲々]

「世間に惡い取沙汰ある。初樣内へ入らんせ」


[語り]

と、聲々に呼入る。



「ヲヽ/\あれじや。何も咄されぬ。妾が爲るやうに成んせ」


[語り]

と、裲襠の裾に隱し入れ、はふ/\仲戸の沓脱より忍ばせて、縁の下屋に密と入れ、 上り口に腰打懸け、烟草引寄せ吸付て、素知らぬ顏して居たりけり。斯る處へ九平次 は、惡口仲間二三人、座頭まじくらどつと來り、


[九]

「ヤア妓樣達、淋しさうに御座る。何と客になつてやらうかい。何と亭主久しいの」


[語り]

と、のさばり上れば、


主人

「それ煙草盆、お盃」


[語り]

と、ありべかかりに立騒ぐ。



「イヤ酒は置や、飲で來た。扨咄す事がある。これの初が一客平野屋の徳兵衞め が、身が落した印判拾ひ、二貫目の僞手形で騙ふとしたれども、理屈に詰つて上句に は、死なず甲斐な目に遭ふて一分は廢つた。向後此處らへ來るとも油斷しやるな。皆 に斯う語るのも徳兵衞めがうせ、まつかい樣にいふとても、必ず誠にしやるな。寄る 事も要らぬもの。何うで野江か飛田もの」


[語り]

と、誠しやかにいひちらす。縁の下には齒を喰しばり、身を慄はして腹の立るを、初 は是を知らせじと、足の先にて押沈め、押へ沈めし神妙さ。亭主は久しい客の事、是 非の返答なく、



「さらば何ぞお吸物」


[語り]

と、紛かしてぞ立にける。初は涙にくれながら、


[初]

「左のみ利根にいはぬもの。徳樣の御事、幾年馴染心根を、明し明せし中なるが、そ れは/\いとしぼげに、微塵譯は惡うなし。頼もし達が身のひしで、瞞されさんした ものなれども、證據なければ理も立たず。此上は徳樣も、死なねばならぬしななるが、 死ぬる覺悟が聞たい」


[語り]

と、獨語に擬へて、足で問へば打頷き、足首取て咽笛撫で、自害をするとぞ知ら せける。



「ヲヽ其筈々々。何時まで生ても同じ事、死で恥を雪がいでは」


[語り]

と、いへば九平次恟として、


[九]

「 お初は何を言るるぞ。何の徳兵衞が死ぬるものぞ。若亦死んだら其後は、おれが懇し てやらふ。和女も俺に惚てじやげな」


[語り]

といへば、



「こりや忝かろはいの。妾と懇さあんすと、此方も殺すが合點か。徳樣に離れて片時 も生て居やうか。其處な九平次のどうずりめ。阿呆口を叩いて人が聞ても不審が立つ。 どうで徳樣一所に死ぬる。妾も一所に死ぬるぞやいの」


[語り]

と、足にて突けば、縁の下には涙を流し、足を取て押戴き、膝に抱付き焦れ泣き、 女も色に包みかね、互ひに物は言ねども、膽と膽とに應へつつ、しめり泣にぞ泣居た る。人知らぬこそ哀れなれ。九平次も氣味惡く、


[九]

「相場が惡いおぢやいなふ。此處な妓衆は異な事で、俺捫が樣に金遣ふ大盡は嫌ひさ うな。阿佐屋へ寄て一杯して、ぐわら/\一分を撤散し、そしていんだら寢よからふ。 アヽ懷が重たうて歩きにくい」


[語り]

と、惡口だらけ言散し、喚いて外へ出けるを、お初は如何も堪られず、


[初]

「死にに行く身の道連れに、おのれ瞞して殺さう」


[語り]

と、心一つに思案して、ずつと立て引留め、



「只今言ふた惡口は、勤めする身の義理なれば、左のみ心にかけなさんすな。有樣い へば憎うない。こな男め」


[語り]

と縺るれば、九平次は振返り、


[九]

「こりや又味な挨拶じやが、そんなら俺捫に逢ふ心か」



「ハテさて愚鈍な男や」


[語り]

と、手を取り行けば連共は、


[連]

「九平次此處は引れまい。 今宵も明日も明後日も、揚詰の大々盡、お船がすはつた。我々は氣を通すぞ」


[語り]

と聲々に惡口いふて歸りける。亭主夫婦は悦びて、


[夫婦]

「サア九平次樣一時もはや/\二階へお越あれ。初もお側へはいつて寢や。早ふ 寢やや」


[語り]

といひければ、



「そんなら旦那樣、内儀樣、最ふお目にはかかりますまい。さらばで御座んす。内衆 もさらば/\」


[語り]

と餘所ながら、暇乞して閨へ入る。これ一生の別れとは、後にこそ知れ氣も注か ぬ、愚の心不便さよ。



「それ竈の下に念を入れ、肴を鼠に引するな」


[語り]

と、見世をあげつ門鎖つ、寢より早く高鼾。如何なる夢も短夜の、八つになるの は程もなし。初は白無垢死扮裝、戀路の闇の黒小袖、上に打かけさし足し、二階の口 より差覗けば、男は下屋に顏出し、招き頷き指さして、心に物をいはすれば、梯子の 下に下女寢たり。吊行燈の火は明し、如何はせんと案ぜしが、椶櫚箒に扇子を付け、 箱梯子の二つ目より、煽ぎ消せども消えかぬる、身も手も伸しはたと消せば、梯子よ りどうと落ち、行燈消えて暗がりに、下女はうんと寢返りし、二人は胴を慄はして、 尋ね廻る危さよ。亭主奥にて目を覺し、


[亭主]

「今のは何じや。女子ども、有明の火も消えた。起て燈せ」


[語り]

と起されて、下女は睡そに目を擦/\、素裸體にて起出、


[下女]

「燧火箱が見えぬ」


[語り]

と、探り歩くを障らじと、彼方此方へ這絆はるる玉葛、苦しき闇のうつつなや。 やう/\二人手を取合せ、門口まで密と出、懸鎰外せしが車戸の音訝しく開兼し折か ら、下女は燧火をはた/\と、打つ音に紛らかし、丁と打ば密と開け、かち/\打て ばそろ/\開け、合せ/\て身を縮め、袖と袖とを槇の戸や、虎の尾を踏む心地して、 二人續いて突と出、顏を見合せ、「アヽ嬉し」と、互ひに息をほつとつき、



「さるにても九平次めを殺して退きよと思ふたに、此方らに心の急くままに、生て置 たが悔しさよ」


[語り]

と、お初は涙に振返れば、



「アヽなふそれも迷ひなり。斯う死ぬる身の約束ぞ。人にも世にも恨みなし。急 ぎ給へ」


[語り]

と手を引て、彼處を走り出て行く。斯とは知らずやうやうと、下女は火燈し、


[下女]

「これはさて、門の戸が開てある。皆氣の注かぬ」


[語り]

と懸鎰を、しめて寢間へぞ入にける。少時くあつて男一人、驚忙しく走り來り、天滿 屋の戸を打敲き、


[茂]

「油屋九平次樣、急用ありて手代茂兵衞が參つた。言次で給はれ」


[語り]

と、呼はる聲、九平次が寐耳へ入て打驚き、梯子忙しく下けるを、後に續いて久右衞 門、聞くとも知らず戸を押開け、



「ムヽ茂兵衞か。何の用にて周章だしい。何うぞ/\」


[語り]

といひければ、



「サレバ今日、町次の判形觸れて參りしゆゑ、お前のお歸り知れぬと思ひ、懸硯 の二重目な印判持て參りしに、お宿老殿が仰せられしは、此印判は、先月の二十五日 に落したとて、町々に貼紙せし其印判が、懸硯にあつたとは呑込まぬ。何分にも九平 次に、逢ふて容子を聞かんまま、急いで呼に遣はせと、内へ人橋かかるゆゑ、方々尋 ね參りし」


[語り]

と、いへば九平次聲顫はし、


[九]

「ヤレ行過た出洒張者。おのれにかかり九平次が、最う一分が廢つたり。其印判を失 ふたと、いふばつかりで徳兵衞めに預つた二貫目を、とう/\砂に仕おほせたに、内 にあつたと知られては、銀を取らるるのみならず、如何も言譯立たぬ事。こりやマア 何としたもの」


[語り]

と頭掻ても濟ぬ事。



「道々思案して見よ」


[語り]

と、出んとするを久右衞門、腕を取て引戻し、


[久]

「九平次待れい用がある。遣らぬ/\」


[語り]

とせりかける。九平次恟としたりしが、騒がぬ振にて、


[九]

「これや久右殿飲つけぬ茶屋酒過ての醉狂か。さもあれ男の利腕を取るは、如何ぞ」


[語り]

と突除くれば、久右衞門聲を上げ、


[久]

「アヽいふまい/\。樣子は篤と聞拔た。甥を踏だる返報に、此の合口を振舞ん」


[語り]

と、ずばと拔けば二人の者、「やれ狼籍者、人殺し」と聲々に呼はれば、亭主、女房、 男共、駈寄て取捲けば、久右衞門聲を沈め、


[久]

「卒爾召されな各々、全く狼籍者ならず」


[語り]

と、彼處にどうと押直り、



「コリヤ兩人の奴輩、久右衞門が暇やるまで、一寸でもにじつたら胴腹ゑぐるぞ」


[語り]

と、睨つけられて二人の者、もじ/\として居たりけり。久右衞門亭主に對ひ、



「身共は平野屋久右衞門とて、徳兵衞が親方、誠は叔父と甥との中、商賣方にも 精を出し、心ざまもたまかなゆゑ、身共は子とて持ませず、女房が姪と嫁せ後繼せん と相談極め、敷金として二貫目を、はや親里へ遣はせしに、徳兵衞めは此内の初と、 兎や角契約の義理が立たぬといふ事か、さし極りし談合を打破りて得心せず。其處も 身共が料簡して、若氣は誰しもあるならひ、それ程思ふ中ならば、行々は我思案にて 夫婦にせんと心底に、思ふも甥の不便さゆゑ。女房は姪を嫌はれしと、やけ腹立に打 當て、二貫目の銀取て來い。戻せ/\とせつかれて、此程在所へ參りしが、二貫目の 銀在所から、成程取て歸りしを、陰から聞けば女房へは一錢も戻さぬゆゑ、遣ひ捨た の、げじいたのと、わすらるるのを苦にしてか、今朝町へ出て暮るまで、待てども/ \歸らぬゆゑ、面目なさに家出をも、したかと思ふ不便さに、一分立て取らせん爲、 女房に隱し、二貫目の銀をば密と懷中し、此處へ來りてお初に逢ひ、咄を聞けば九平 次めが、今日生玉にて徳兵衞を、散々に打擲したるよし。はら腸が煮返り、二三度も 駈出しを、お初がたつて袖に縋り、兎角に一應徳兵衞に逢せんといはれしゆゑ、うつ ら/\と小座敷に、ねぶりをとぎに居たりしに、非道は天命、只今彼奴が駈來り、九 平次に咄した事、後の證據に各/\も、篤くと聞て居て下され。月次の判形に、懸硯 の二重目の印判持て參りしに、お宿老殿が仰せられしは、此印判は、先月二十五日に 紛失したといふ判が、内にあるのは訝しいと、人橋かけて呼に來ると、サアおのれ斯 うは言はなんだか」



「イヤ/\左樣は言ひませぬ」



「ナント實正言はぬか」


[語り]

と、合口を差付れば、



「アヽ成程左樣に言ひました」



「それをば聞くと此和郎が、顏色が違ふて、其印判を落したといふたばかりに徳 兵衞めに、二貫目といふ銀をまんまと砂にしてのけたと、先づ此樣に吐さぬか」


[語り]

と、合口喉に閃せば、



「はて左樣言ふたにして欲しか、左樣いふにしてやろ」


[語り]

と、そろ/\立て退く處を、久右衞門大聲上げ、


[久]

「やれ盗人め生掏め。假し二貫目の銀子にて、おのれが身代立たぬなら、成程銀 はおのれに遣る。彼のひがいすな小男を、おのれが大きなくはびらで、能ふも/\踏 居たな。殊に所も所柄、彼の生玉のでんどにて、額に毛拔も當る身が、頬恥掻て何ん として、人中へは出られぬ筈。戻らぬこそ道理なれ。自害をしたか、淵川へ身を投た には極つた。命の敵金の仇。憎いとも無念ともおのれが頭のぎり/\から、爪先まで 斬刻んでも、是が腹が癒るものか」


[語り]

と、掴付き掻しやなぐり、撲ど叩けど世の中の、理に勝つ力あらざれば、兎角う も言はず九平次は、うぢ/\してこそ居たりけれ。亭主は見兼ね立寄て、


[亭主]

「成程お前の御尤。併ながら、徳樣のお聲を最前聞ました。お初も此處へ出ぬか らは、未だ御座るに極た。御機嫌直しに呼ませ」


[語り]

と、小座敷、奥の間、彼處、此處、尋ねても居ず。二階から下女の玉は走下り、


[玉]

「お二人とも見えませぬ。お初樣の寢所に書た物が御座した。これを見たまへ」


[語り]

と差出せば、亭主取上げ


[亭主]

「南無三寶、二人の者が書置じや、もはや心中に出たものぞ。やれ男ども、女ど も、手別をして追蒐よ。未だ其處らには居ぬ事か。ふところ探せ棚探せ。探せ/\」


[語り]

と聲々に、騒ぎ惑へば久右衞門、九平次を引捕へ、


[久]

「徳兵衞が敵、おのれをば代官殿へ連て行き、只今思ひ知らすべし。それともに 先づ各々は、片時も早く駈付て、最後を留て給はれ」


[語り]

と、頼む身よりも頼まるる、此方は大事の奉公人、殺すといふは正眞の、生た金 をば盗人に、甥御恨めしつれなしと、互ひに泣いつ泣惑ひ、其方彼方へ走行く、哀れ さ辛さ淺ましさ。後に燵火の石の火の、命の末こそ三重短かけれ。


道行血死期の霜
[語り]

此世の名殘夜も名殘、死に行く身を譬ふれば、仇しが原の道の霜、一足づつに消て行 く、夢の夢こそ哀れなれ。


[徳]

あれ數ふれば曉の、七ツの時が六ツ鳴りて、殘る一ツが今生の、鐘の響きの聞納め、


[初]

寂滅爲樂と響くなり。


[語り]

鐘ばかりかは草も木も、空も名殘と瞰上れば、雲心なき水の面、北斗は冴て影映る、 星の妹脊の天の川、


[徳]

梅田の橋を鵲の橋と契りて何時までも、我と和女は夫婦星、


[初]

必ず添ふ


[語り]

と縋寄り、二人が中に降る涙、河の水嵩も増るべし。向ふの二階は何屋とも、覺 束情最中にて、未だ寢ぬ火影聲高く、今茲の心中善惡の言の葉草や繁るらん。聞くに 心も呉織、


[徳]

綾なや昨日今日までも、餘所に言ひしが明日よりは、我も噂の數に入り、世に謡はれ ん謠はれん。謠はば謠へ、


[語り]

謠ふを聞けば、「どうで女房にや持やさんすまい。いらぬものじやと思へども、實に 思へども歎けども、身も世も思ふ儘ならず。何時を今日とて今日が日まで、心の舒し 夜半もなく、思はぬ色に苦しみに、如何した事の縁じややら。忘るる暇はないわいな。 それに振捨て行ふとは、遣やしませぬぞ手にかけて、殺して置て行んせな。放ちはや らじと泣ければ」


[初]

「唄も多きに彼の唄を、時こそあれ今宵しも、


[徳]

謠ふは誰そや聞くは我。


[二人]

過にし人も我々も、一ツ思ひ」


[語り]

と縋付き、聲も惜まず泣居たり。平常は左もあれ此夜半は、せめて暫は長からで、心 も夏の夜のならひ、命追ゆる鶏の聲。


[徳]

明なばうしや天神の、森で死ん


[語り]

と手を引て、梅田堤の小夜鴉、


[徳]

明日は我身を餌食ぞや。



「誠に今歳は此方樣も、二十五歳の厄の年、妾も十九の厄年とて、思ひ合ふたる厄祟 り、縁の深さの驗しかや。神や佛にかけ置きし、現世の願を今此處で、未來へ囘向し 後の世も、猶しも一ツ蓮ぞや」


[語り]

と、爪繰る珠數の百八に、涙の玉の數添て、盡せぬ哀れ盡る道、心も空も影暗く、風 しん/\たる曽根崎の、森にぞ辿り着にける。彼處にか此處にかと、拂へば草に散る 露の、我より先にまづ消て、定めなき世は稻妻か、それかあらぬか。



「アヽ怖、今のは何といふものやらん」



「ヲヽあれこそは人魂よ、今宵死するは、我のみとこそ思ひしに、先立つ人もありし よな。誰にもせよ、死出の山の伴ひぞや。南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛」の聲の中、 「あはれ悲しや、又こそ魂の世を去りしは。南無阿彌陀佛」


[語り]

と稱ふれば、女は愚に涙ぐみ、


[初]

「今宵は人の死ぬる夜かや。淺ましさよ」


[語り]

と涙ぐむ。男涙を潸然と流し、


[徳]

「二ツ連飛ぶ人魂を、餘所の上と思ふかや。正しう御身と我魂よ」



「なに喃ふ二人の魂とや。はや我々は死したる身か」



「ヲヽ常ならば、結びとめん繋ぎとめんと歎かまし。今は最期を急ぐ身の、魂の 所在を一所に栖まん。道を迷ふな違ふな」


[語り]

と、抱き寄せ肌を寄せ、かつぱと伏て泣居たる、二人の心不便なる。涙の糸の結び松、 椶櫚の一樹の相生を、連理の契に擬へ、露の憂身の置處、


[徳]

「サア此處に極めん」


[語り]

と、上着の帯を徳兵衞も、初も涙の染小袖、脱で懸たる椶櫚の葉の、其玉箒今ぞ實に、 浮世の塵を掃ふらん。初は袖より剃刀出し、


[初]

「若も道にて追手のかかり、割れ/\になるとても、浮名は棄じと心懸け、剃刀用意 いたせしが、望みの通り一所で死ぬる此嬉しさ」


[語り]

といひければ、



「ヲヽ神妙頼母し。左程に心落付くからは、最期も案ずる事はなし。さりながら今際 の時の苦患にて、死姿見苦しといはれんも口惜し。此二本の連理の木に身體をきつと 結ひつけ、潔う死ぬまいか。世に類なき死樣の手本とならん」



「如何にも」


[語り]

と、淺ましや淺黄染、かかれとてやは抱え帯、兩方へ引張て、剃刀取てサラ/\と、


[初]

帯は裂けても主樣と、妾が間はよもさけじ


[語り]

と、どうど座を組み二重三重、動がぬ樣に慥と締め、



「能ふ締つたか」



「ヲヲ締ました」


[語り]

と、女は夫の姿を見、男は女の體を見て、


[二人]

「這は情なき身の果ぞや」


[語り]

と、わつと泣入るばかりなり。


[徳]

「アヽ歎じ」


[語り]

と、徳兵衞顏振上て手を合せ、


[徳]

「我幼少にて誠の父母に離れ、叔父といひ親方の苦勞となりて人となり、恩を送らず 此儘に、亡き跡までも兎や角と、御難儀かけん勿體なや。罪を許して下されかし、冥 土に在す父母には、追付御目にかかるべし。迎へ玉へ」


[語り]

と泣ければ、お初も同じく手を合せ、


[初]

「此方樣は羨しや、冥土の親御に逢んとある。妾が父樣母樣は、健で此世の人なれば、 何時逢ふ事のあるべきぞ。便は此春聞たれども、逢たは去年の初秋の、初が心中取沙 汰の、明日は在所へ聞えなば、幾許かは歎きをかけん。親達へも兄弟へも、是から此 世の暇乞。せめて心が通じなば、夢にも見えてくれよかし。懷しの母さまや。名殘惜 の父樣や」


[語り]

と、しやくり上げ/\、聲も惜まず泣きければ、夫もわつと叫び入り、流涕憧るる心 意氣、ことわりせめて哀れなれ。



「何時まで言ふて詮もなし。はや/\殺して/\」


[語り]

と、最後を急げば


[徳]

「心得たり」


[語り]

と、脇差するりと拔放し、



「サア只今ぞ。南無阿彌陀々々々々々」


[語り]

と、いへども有繋此年月、愛し可愛と締て寢し、肌に刃あてられふかと、眼も暗み手 も顫ひ、弱る心を引直し、取直しても猶顫ひ、突くとはすれど切先は、彼方へ外れ此 方へ反れ、二三度閃く劍の刃、「あつ」とばかりに喉笛に、ぐつと通るか、


[徳]

南無阿彌陀、南無阿彌陀、南無阿彌陀佛


[語り]

とくり通し、繰通す腕先も、弱るを見れば兩手を伸べ、斷末魔の四苦八苦、哀れとい ふも餘りあり。



「我とても後れうか。息は一度に引取らん」


[語り]

と、剃刀取つて喉咽に突立、柄も折れよ刃も碎けと、えぐりくり/\目も眩めき、苦 しむ息も曉の、知死期につれて絶果たり。誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え、 取傳へ、貴賤群集の回向の種、未來成佛疑ひなき戀の、手本となりにけり。