槍ヶ嶽紀行
芥川龍之介 (Yarigatake ni nobotta ki) | ||
二
――山の 岨 ( そば ) を一つ曲ると、突然私たちの足もとから、何匹かの獣が走り去つた。
「畜生、鉄砲さへあれば、逃しはしないのだが。」
案内者は足を止めて、忌々しさうに舌打ちをしながら、路ばたの 橡 ( とち ) の大木を見上げた。
橡の若葉が重なり合つて、路の上の空を遮つた枝には、二匹の仔猿をつれた親猿が、静に私たちを見下してゐた。
私は物珍しい眼を挙げて、その三匹の猿が 徐 ( おもむろ ) に、
梢を伝つて行く姿を眺めた。が、猿は案内者にとつては、猿であるよりも先に獲物であつた。彼は立ち去り難いやうに、橡の梢を仰ぎながら、 礫 ( つぶて ) を拾つて投げたりした。「おい、行かう。」
私はかう彼を促した。彼はまだ猿を見返りながら、渋々又歩き出した。私は多少不快であつた。
路は次第に険しくなつた。が、馬が通ると見えて、馬糞が所々に落ちてゐた。さうしてその上には、 蛇 ( ぢや ) の 目 ( め ) 蝶 ( てう ) が、渋色の翅を合せた儘、何羽もぎつしり止まつてゐた。
「これが 徳本 ( とくがう ) の峠です」
案内者は私を顧みて云つた。
私は小さな雑嚢の外に、何も荷物のない体であつた。が、彼は食器や食糧の外にも、私の毛布や外套などを 堆 ( うづたか ) く肩に背負つてゐた。それにも関らず峠へかかると、
の距離は、だんだん遠く隔たり始めた。三十分の後、とうとう私はたつた一人、山路を喘いで行く旅人になつた。うす日に蒸された峠の空気は、無気味な静寂を孕んでゐた。馬糞にたかつてゐる蛇の目蝶と 蓙 ( ござ ) を
――それがこの急な路の上に、生きて動いてゐるすべてであつた。と思ふと鈍い翅音がして、青黒い一匹の馬蠅が、ぺたりと私の手の甲に止まつた。さうして其処を鋭く刺した。私は半ば 動顛 ( どうてん ) しながら、一打ちにその馬蠅を打ち殺した。「自然は私に敵意を持つてゐる。」――そんな迷信じみた心もちが一層私をわくわくさせた。
私は痛む手を抱へながら、無理やりに足を早め出した。……
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