University of Virginia Library

2. 帚木
光る源氏17歳夏の中将時代の物語

    1 雨夜の品定めの物語

  1. 長雨の時節 光る源氏と、名前だけはご大層だが
  2. 宮中の宿直所、光る源氏と頭中将 長雨の晴れ間ないころ
  3. 左馬頭、藤式部丞ら女性談義にに加わる 「成り上がっても、元々の相応しいはずの家柄でないのは
  4. 女性論、左馬頭の結論 「今は、ただもう、家柄にもよりません

    2 女性体験談

  1. 女性体験談(左馬頭、嫉妬深い女の物語) 「若いころ、まだ下級役人でございました時
  2. 左馬頭の体験談(浮気な女の物語) 「ところで、一方同じころ
  3. 頭中将の体験談(撫子の女の物語) 中将は、「わたしは、馬鹿な体験談をお話しましょう
  4. 式部丞の体験談(賢い女の物語) 「式部のところには、変わった話があろう

    3 空蝉の物語

  1. 天気晴れる やっと今日は天気も好くなった
  2. 紀伊守邸への方違へ 「あまりに急なことで」と迷惑がるが、誰も聞き入れない
  3. 空蝉の寝所に忍び込む 君は、気を落ち着けてお寝みになれず
  4. それから数日後 そうして、五六日が過ぎて

光る源氏と、名前だけはご大層だが、非難されなさる取り沙汰が多いというのに、ますます、このような好色沙汰を、後世にも聞き伝えて、軽薄な名を流すことになろうかと、隠していらっしゃった秘密事までを、語り伝えたという人のおしゃべりの意地の悪いことよ。とは言うものの、大変にひどく世間を気にし、まじめになさっていたので、艶っぽくおもしろい話はなくて、交野少将には、笑われなさったことであろうよ。
まだ中将などでいらっしゃった時は、内裏にばかりよく伺候していらっしゃって、大殿邸には途切れがちに退出なさる。「忍ぶの乱れ」かと、お疑い申すこともあったが、そんなふうに浮気っぽいありふれた思いつきの浮気などは、好きでないご性格で、時には、やむにやまれない予想を狂わせ気苦労の多い恋を、お心に思いつめなさる性癖が、はなはだ困ったことで、よろしくないご素行もないではなかった。
長雨の晴れ間ないころ、宮中の御物忌みが続いて、ますます長々と伺候なさるのを、大殿邸では気がかりで恨めしいとお思いになっていたが、すべてのご装束を何やかやと新しい様相に新調なさっては、ご子息の公達がひたすらこのご宿直所の宮仕えをお勤めになる。
宮がお生みになった中将は、中でも親しくお馴染み申されて、遊び事や戯れ事をも誰よりも気安く親密に振る舞っていた。右大臣が気を配ってお世話なさる住居には、この君もとても何となく気が進まずにいて、浮気っぽい好色人なのである。
実家でも、自分の部屋の装飾を眩しくして、君が出入りなさるのにいつもお供申し上げなさっては、昼も夜も、学問をも音楽をもご一緒にして、少しもひけをとらず、どこにでも親しくご一緒申し上げなさるうちに、自然と遠慮もなくなり、胸の中に思うことをも隠しきれず、お親しみ申されるのであった。
所在なく降り暮らして、しっとりした宵の雨に、殿上の間にもろくに人少なで、ご宿直所もいつもよりはのんびりとした気がするので、大殿油を近くに寄せて漢籍など御覧になる。近くの御厨子にあるさまざまな色彩の紙に書かれた手紙類を取り出して、中将がひどく見たがるので、
「差支えのないのを、少しは見せよう。不体裁なものがあってはいけないから」
と、お許しにならないので、
「その気を許して人に見られたら困るとお思いのこそ興味があります。普通のありふれたのは、つまらないわたしでも身分相応に、やりとりしては見ることもできましょう。それぞれが、恨めしい折々、心待ち顔でいるような夕暮などのが、見所がありましょう」
と怨み言をいうので、貴重な絶対にお隠しになられるはずのものなどは、このようになおざりな御厨子などにちょっと置いて散らかされるはずはなく、奥深く別にしまって置かれるはずのようだから、二流の気安いものであろう。少しずつ見て行くと、「よくもまあ、いろいろな手紙類がございますなあ」と言って、当て推量に「これはあの人か、あれはこの人か」などと、尋ねる中に言い当てるものもあり、外れているのをかってに推量して疑るのも、おかしいとお思いになるが、言葉少なに答えて何かと言い紛らわしては、お隠しになった。
「そなたこそ、たくさんお有りだろう。少し見たいね。そうしたら、この厨子も心よく開けよう」とおっしゃると、
「御覧になる値打のものは、ほとんどないしょう」などと申し上げなさるついでに、「女性で、これならばと難点を指摘できそうにない人は、めったにいないものだなあと、だんだん分かってまいりました。ただ表面だけの風情で、手紙をさらさらと書き、時節に相応しい返答を心得て、ちょっとするぐらいのは、分相応にまあまあ多くいると拝見しますが、それも本当にその方面のことを取り出して試みると、必ず外れない者は、本当にめったにないものですね。自分の得意なことばかりを、それぞれ得意になって、人を貶したりなどして、見ていられないことが多いです。
親などが側で大切に育て、将来性がある箱入娘時代は、ちょっとの才能の一端を聞き伝えて、関心を寄せることもあるようです。容貌が魅力的でおっとりしていて、若々しくて家事に紛れることのないうちは、ちょっとした芸事をも、人まねに一生懸命に稽古することもあるので、自然と一芸をもっともらしくできることもあります。
世話をする人は、劣った方面は隠して言わず、まあまあと言った方面をとりつくろって、本当らしく言うので、『それは、そうではあるまい』と、見ないでどうして推量し貶めることができましょう。本物かと付き合って行くうちに、がっかりしないというのは、ないでしょう」
と言って、嘆息している様子も気遅れするようなので、全部が全部というのではないが、ご自身でもなるほどとお思いになることがあるのであろうか、ちょっと笑みを浮かべて、
「その、生かじりの才能もない人は、いようか」とおっしゃると、
「さあ、それほどのような所には、誰が騙されて寄りつきましょうか。何の取柄がなくつまらない身分と、素晴らしいと思われるほどに優れたのとは、同じくらいございましょう。家柄が高く生まれれば、家人に大切に育てられて、人目に付かないことも多く、自然とその様子が格別でしょう。中の品にこそ、女の気質気質、めいめいの考え方や趣向も見えて、区別されることがそれぞれに多いでしょう。下の品という階層になると、格別関心もありませんね」
と言って、何でも知っている様子であるのも、興味が惹かれて、
「その身分身分とは、どのように。どれらを三つの階級に分け置くことができるのか。元の階層が高い生まれでありながら、今の身の上は落ちぶれ、位が低くて人並みでない人。また一方で普通の人で上達部などまで出世して、得意顔して邸の内を飾り、人に負けまいと思っている。その区別は、どのように付けたらよいのだろうか」
とお尋ねになっているところに、左馬頭や藤式部丞が御物忌に籠もろうとして参上した。当代の好色者で弁が達者なので、中将は待ち受けて、これらの品々の区別を議論を戦わす。まことに聞きにくい話が多かった。
「成り上がっても、元々の相応しいはずの家柄でないのは、世人の心証も、そうは言っても、やはり格別です。また、元は高貴な家筋であるが、世間を渡る手づるが少なく、時勢が変わって、声望も地に落ちてしまうと、気位だけは高くても思うようにならず、不体裁なことなどが生じてくるもののようですから、それぞれに分別して、中の品に置くのが適当でしょう。受領と言って、地方の政治に掛かり切りにあくせくして、階層の定まった中にも、また段階段階があって、中の品でかなりの者が、選び出すことができる時勢です。なまじっかの上達部よりも非参議の四位連中で、世間の信望もまんざらでなく、元々の生まれも卑しくない人が、あくせくせずに暮らしているのは、いかにもさっぱりした感じです。家の中で足りないものなどは、けっしてないのにまかせて、けちらずに眩しいほど大切に世話している娘などが、非難のしようがないほどに成長しているのもたくさんいるでしょう。宮仕えに出て来て、思いもかけない幸いを得た例などもたくさんあるものです」などと言うと、
「およそ、金持ちによるということだね」と言って、お笑いになるのを、
「他の人が言うように、意外なことをおっしゃる」と言って、中将は憎らしがる。
「元々の階層と、時勢の信望が兼ね揃い、高貴な家で内々の振る舞いや様子が劣っているのは、言うまでもないが、どうしてこう育てたのだろうと、残念に思われましょう。兼ね揃って優れているのも当たり前に、この女性こそは当然のことと思われて、珍しいことだと気持ちも動かないでしょう。わたくしごとき者の手の及ぶ範囲ではないので、上の上は措いておきましょう。
ところで、世の中で人に知られず寂しく荒れたような草深い家に、思いも寄らないいじらしいような女性がひっそり閉じ籠もっているのは、この上なく珍しく思われましょう。どうしてまあ、こんな人がいたのだろうと、想像していたことと違って、不思議に気持ちが引き付けられるものです。父親が年を取り、見苦しく太り過ぎ、兄弟の顔が憎々しげで、想像するにたいしたこともない家の奥に、とてもたいそう誇り高く、ちょっとした芸事でも、雅趣ありげに見えるようなのは、生かじりの才能であっても、どうして意外なことでおもしろくないことがありましょうか。特別に欠点のない方面の女性選びは実現難しいでしょうが、そうでないのので捨てたものでは」
と言って、式部を見やると、自分の妹たちがまあまあの評判であることを思っておっしゃるのか、と受け取ったのであろうか、何とも言わない。
「さてどんなものか、上の品と思う中でさえ難しい世の中なのに」と、君はお思いのようである。白いお召物で柔らかな物の上に、直衣だけを気楽な感じにお召しになって、紐なども結ばずに、寄り掛かっていらっしゃる燈影は、とても素晴らしく、女性として拝したい。この君のためには、上の上の女性を選び出しても、猶も満足でなさそうにお見えである。
さまざまな女性について議論し合っていって、
「通り一遍の仲として付き合っているには欠点がなくても、わが伴侶として信頼できる女性を選ぼうとするには、たくさんいる中でも、なかなか決め難いものですなあ。男性が朝廷にお仕えし、しっかりした世の重鎮と言えるような者でも、真の優れた政治家と言えるような人物を数え上げるとなると、難しいことでしょうよ。しかし、賢者と言っても、一人二人で世の中の政治を執り行えるものではないから、上の人は下の者に助けられ、下の者は上の人に従って、政治の事は広いものですから互いに譲り合って行くのでしょう。
狭い家の中の主婦とすべき女性一人を思案すると、できないでは済まされないいくつもの大事が、こまごまと多くあります。ああ思えばこうであったり、何かと食い違って、人並にもまあまあやって行けるような女性が少ないことによって、浮気心の勢いのままに、世の女性の有様をたくさん見比べようとの好奇心ではないが、ひたすら伴侶としたいばかりに、同じことなら、自分で力入れして直したり教えたりするような所がなく、気に入るような女性はいないものかと、選り好みしはじめた人は、決まらないものでしょう。
必ずしも自分の理想通りでないが、いったん見初めた約束だけを破りがたく思い止まっている人は、誠実であると見え、そうして、一緒にいる女性のためにも、心にくいものがあるのだろうと自然と推量されるものです。しかし、どうしてか、世の中の夫婦の有様をたくさん拝見して行くと、思いも及ばないたいして羨ましいと思われることもありませんね。公達の最上流の奥方選びには、なおさら、どれほどの方がご満足でしょうか。
容貌がこぎれいで、若々しいうちの、自分自身では塵もつけまいと身を振る舞い、手紙を書いても、おっとりと言葉選びをし、墨付きも淡く関心を持たせ持たせし、もう一度はっきりと見たいものだとじれったく待たせ、かすかな声を聞く程度に言い寄っても、息を殺して声小さく言葉少ななのが、とてもよく隠すものですなあ。艶っぽくて女らしいと見えると、度を越して情趣にこだわって、調子を合わせると浮づきます。これを、第一の難点と言うべきでしょう。
仕事の中で、疎かにできない夫の世話は、物の情趣を知り過ぎ、ちょっとした折の風情があり、趣味性に過度になるのはなくてもよいことだろうと思われますが、また一方で、仕事一点張りで、額髪を耳挟みがちに飾り気のない主婦で、ひたすら世帯じみた世話だけをして。朝夕の出勤や帰宅につけ、公事や私事での他人の振る舞いや、善いこと悪いことの、目にも耳ににも止まった有様を、無関心の人にわざわざ話して聞かせましょうか。親しい妻で理解してくれるような妻に語り合いたいものだと思い、つい微笑まれたり、涙ぐんだり、あるいはまた、無性に公憤をおぼえたり、胸の内に収めておけないことが多くあるのを、何で聞かせられようか、と思うと、ついそっぽを向きたくなって、人知れない思い出し笑いがこみ上げ、『ああ』とも、つい独り言を洩らすと、『何事ですか』などと、間抜けた顔で見上げるようなのは、どうして残念に思われないでしょうか。
ひたすら子供っぽくて柔軟な女を、いろいろと教え諭してはどうして妻としないでいられようか。心配なようでも、きっと直し甲斐のある気持ちがするでしょう。なるほど、一緒に生活するぶんには、そんなふうでもかわいらしさに欠点も許され世話をしてやれようが、離れていては必要な用事などを言いやり、時節に行なうような事柄の風流事にも実用事などにも、自分では判断ができず深い思慮がないのは、まことに残念で頼りにならない欠点が、やはり困ったものでしょう。普段はちょっと無愛想で親しみの持てない女性が、何かの事に思わぬでき映えを発揮するようなこともありますからね」
などと、到らない所のない論客も、結論を出しかねて大きく溜息をつく。
「今は、ただもう、家柄にもよりません。容貌はさらに問題ではありません。ひどく意に満たないひねくれた性格でさえなければ、ただひたすら実直で、落ち着いた心の様子がありそうな女性を、生涯の伴侶と考え置くのがよいです。それ以上の家柄のよさ気立てのよさが加わっていたなら、幸いと思い、少し足りないところがあっても、無理に期待し要求するまい。安心できて、のんびりとした性格さえはっきりしていれば、表面的な情趣は、自然と身に付けることができるものですからね。
思わせぶりにはにかんで見せて、怨み言をいうべきことをも見知らないふうに我慢して、表面は何げなく平静を装いながら、胸に収めかね思いあまった時には、何とも言いようのないほどの恐ろしい言葉や、哀切な和歌を詠み残し、思い出になるはずの形見を残して、深い山里や、辺鄙な海浜などに姿を隠してしまうのがいます。
子供でしたころ、女房などが物語を読んでいたのを聞いて、とても気の毒に悲しく、何と深く思いつめたことかと、涙までを落としました。今から思うと、とても軽薄で、わざとらしいことです。愛情の深い夫を残して、目の前に薄情なことがあろうとも、夫の気持ちを分からないかのように姿をくらまして、夫を慌てさせ、本心を見ようとするうちに、一生の後悔となるのは、大変つまらないことです。『深い考えだ』などと、褒め立てられて、気持ちが昂じてしまうと、そのまま尼になってしまいます。思い立った当座は、まことに気持ちも悟ったようで、世俗の生活を振り返ってみようなど思わない。『まあ、何とおいたわしい。こうもご決心されたとは』などと言ったように、知り合いの人が見舞いに来たり、すっかり嫌だとも諦めてない夫が聞きつけて涙を落とすと、召使いや、老女たちなどが、『殿のお気持ちは、愛情深かったのに。あたらお身を』などと言う。自分でも額髪を触って、手応えなく心細いので、泣顔になってしまう。堪えても涙がこぼれ出してしまうと、何かの時々には我慢もできず、後悔も多いようなので、仏もかえって未練がましいと、御覧になるでしょう。濁りに染まっている時よりも、生悟りでは、かえって悪道にさ迷うことになるに違いなく思われます。切っても切れない前世からの宿縁も浅くなく、尼にもさせず尋ね出したような仲も、そのまま連れ添うことになって、あのような時にもこのような時にも、見知らないふうをしているような夫婦仲こそ、宿縁も深く愛情も厚いと言えましょうに、自分も相手も、気掛かりだと気をつかわないでしょうか。
また、いいかげんに愛情も冷めてきた夫を恨んで、態度に表わして離縁するようなのは、これまたばかげたことです。愛情が他の女に移ることがあっても、結婚した当初の愛情をいとしく思うならば、生涯の伴侶と思っていることもきっとあるでしょうに、そのようなごたごたから、夫婦の仲まで切れてしまうのです。
総じて、どのようなことでも心穏やかに、嫉妬することは知っている様子にほのめかし、恨み言をいう場合にもかわいらしくそれとなく言えば、それによって、愛情も一段と増すことでしょう。一般に、自分の浮気心も妻の態度から収まりもするのです。あまりやたらに勝手にさせ放任しておくのも、気が楽でかわいらしいようだが、いつのまにか軽く見られるものです。繋がない舟の譬えもあり、まったく思慮がない。そうではございませんか」
と言うと、中将は頷く。
「今さし当たって、美しいとか気立てがよいと思って気に入っているような人が、不安な疑いがあるのは重大でしょう。自分の方には過失がなくて大目に見てやっていたら、気持ちを変えて添い遂げないこともないだろうと思われるが、そうとばかりも言えまい。ともかくも、夫婦仲がうまくいかないような場合は、気長にじっと堪えているより以外に、良い手段はないようですなあ」
と言って、自分の妹の姫君は、この結論に当てはまっていらっしゃると思うと、君が居眠りをして意見をさし挟みなさらないのを、物足りなくおもしろくないと思う。 七左馬頭がこの評定の博士になって、さらに弁じ立てていた。中将は、この弁論を最後まで聴こうと、熱心に相手にしていらっしゃった。
「いろいろのことに引き比べてお考えくだされ。木工の道の匠がいろいろの物を思いのままに作り出すのも、その場限りの趣向の物で、そうした型ときまりのないものは、見た目には洒落ているようだが、なるほどこういうふうにも作るのだと、時々に従って趣向を変えて、目新しいのに目が移って趣のあるものもあります。重大な物として、本当にれっきとした人の調度類で装飾とするのは、様式というようなのがあるものを立派に作り上げることは、やはり本当の名人は、違ったものだと見分けられるものでございます。
また、絵所に名人が多くいますが、墨描きに選ばれて、順々にまったく、優劣の判断はちょっと見ただけではつきません。けれども、人の見ることもできない蓬莱山や、荒海の恐ろしい魚の形や、唐国の猛々しい獣の形や、目に見えない鬼の顔などで、仰々しく描いた物は、想像のままに格別に目を驚かして、実物には似ていないでしょうが、それはそれでよいでしょう。
どこでも見かける山のたたずまいや、川の流れや、見なれた人家の有様は、なるほどと見えて、親しみやすくおだやかな方面などを心落ち着いた感じに配して、険しくない山の様子や、こんもりと俗塵を離れて幾重にも重ねたり、近くの垣根の中には、それぞれの心配りや配置などを、名人は大変筆力も格別で、未熟な者は及ばない点が多いようです。
文字を書いていることにつけても、深い素養はなくて、あちこちに点長に走り書きし、どことなく気取っているようなのは、ちょっと見ると才気がありひとかどのように見えますが、本当の書法で丹念に習得しているものは、表面的な筆法は隠れていますが、もう一度取り比べて見ると、やはり本物がいいものですな。
つまらない芸事でさえこうでございます。まして人の気持ち、折々に様子ぶっているような見た目の愛情は、信用がおけないものと存じております。その最初の例を、好色がましいお話ですが申し上げましょう」
と言って、にじり寄るので、君も目をお覚ましになる。中将はひどく本気になって、頬杖をついて向かい合いに座っていらっしゃる。法師が世の中の道理を説いて聞かせているような所の感じがするのも、もう一方ではおもしろいが、このような折には、それぞれがうちとけたお話などを隠しておくことができないのであった。

「若いころ、まだ下級役人でございました時、愛しいと思う女性がおりました。申し上げましたように、容貌などもたいして優れておりませんでしたので、若いうちの浮気心から、この女性を生涯の伴侶とも思い決めませんで、通い所とは思いながら、物足りなくて、何かとかかずらっておりましたところ、大変に嫉妬をいたしましたので、おもしろくなく、本当にこうでなくて、おっとりとしていたらと思う一方、あまりにひどく厳しく疑いましたのも煩わしくて、このようなつまらない男に愛想もつかさず、どうしてこう愛しているのだろうと、気の毒に思う時々もございまして、自然と浮気心も収められるというふうでもございました。
この女の性格は、もともと自分にはできないことでも、何とかして夫のためにはと、無理算段をし、不得手な方面をも、やはりつまらない女だと見られまいと努力しては、何かにつけて、熱心に世話をし、少しでも意に添わないことのないようにと思っていたうちに、気の勝った女だと思いましたが、何かと言うことをきくようになって柔らかくなってゆき、美しくない容貌についても、このわたしに嫌われやしまいかと、無理に化粧し、親しくない人に会ったならば、夫の面目が潰れやしまいかと、遠慮し恥じて、身嗜みに気をつけて生活しているうちに、性格も悪いというのではありませんでしたが、ただ、この憎らしい性質一つだけは、収まりませんでした。
その当時、思いましたことには、このようにむやみに慕い嫌われることを恐れている女のようだ、何とか懲りるほどの思いをさせて、脅かして、この方面も少しはまあまあになり、手に負えないことも止めさせようと思って、まことに辛いように思って別れてしまいそうな様子ならば、それほどわたしに連れ添う気持ちがあるならば懲りるだろうと存じまして、わざと薄情に冷淡を装って、いつものように怒って恨み言をいう折に、
『こんなに我が強いなら、どんなに夫婦の宿縁が深くとも、もう二度と逢うまい。最後と思うならば、このようなめちゃくちゃな邪推をするがよい。将来も長く連れ添おうと思うならば、辛いことがあっても、我慢してたいしたことのないように適当に思って。このような嫉妬心さえ消えたならば、愛しい女と思おう。人並みに出世もし、もう少し一人前になったら、他に並ぶ人がなくなるであろう』
などと、うまく教えたものよと存じまして、調子に乗って度を過ごして言いますと、少し微笑んで、
『万事に見栄えがしなく、一人前でないうちは我慢して、いつか一人前になろうかと待つ間は、まことに久しく思われても、嫌とは思いません。辛いお心を我慢して、心を入れ換えるのを見つけようとする、年月を重ねる当てにならない期待は、まことに辛くもありましょうから、お互いに別れるによい時期です』
と憎らしげに言うので、腹立たしくなって、憎々しげな言葉を興奮して言いますと、女も黙っていられない性格で、指一本を引っ張って噛みつきましたので、大げさに文句つけて、
『このような傷まで付いてしまったので、いよいよ役人生活もできるものでない。軽蔑なさるような官職で、ますますどのようにして出世して行けようか。出家しかない身のようだ』などと言い脅して、『それでは、今日という今日がお別れのようだ』と、この指を折り曲げて退出しました。
『あなたとの結婚生活を指折り数えてみますと
この一つだけがあなたの嫌な点なものか
恨むことはできますまい』
などと言いますと、そうは言うものの涙ぐんで、
『あなたの辛い仕打ちを胸の内に堪えてきましたが
今は別れる時なのでしょうか』
などと、言い争いましたが、本当は別れようとは存じませんままに、何日も過ぎるまで便りもやらず、浮かれ歩いていたところ、臨時の祭の調楽で、夜が更けてひどく霙が降る夜、めいめい退出して分かれる所で、思いめぐらすと、やはり自分の家と思える家は他にはなかったのでしたなあ。
内裏での宿直は気乗りがしないし、気取った女の家は何となく寒くないだろうか、と存じられましたので、どう思っているだろうかと、様子見がてら、雪をうち払いながら、何となく体裁が悪くきまりも悪く思われるが、いくらなんでも今夜はここのところの恨みも解けるだろう、と存じましたが、灯火を薄暗く壁の方に向け、柔らかな衣服の厚いのを、大きな伏籠にうち掛けて、引き上げておくはずの几帳の帷子などを引き上げてあって、今夜あたりはと、待っていた様子です。やはりそうであったよと、得意になりましたが、本人はいません。しかるべき女房連中だけが残っていて、『親御様の家に、今晩は行きましたが』と答えます。
気持ちをそそるような和歌も詠まず、思わせぶりな手紙も書き残さず、もっぱらそっけなく無愛想であったので、拍子抜けした気がして、口やかましく許さなかったのも、自分を嫌になってくれ、と思う気持ちがあったからだろうかと、そのようには存じられなかったのですが、おもしろくないままそう思ったのですが、着るべき物が、いつもより念を入れた色合いや、仕立て方がとても素晴らしくて、やはり離別した後までも、気を配って世話してくれていたのでした。
そうは言っても、すっかり愛想をつかすようなことはあるまいと存じまして、いろいろと言ってみましたが、別れるでもなくと、探し出させようと行方を晦ますのでもなく、きまり悪くないように返事をしいし、ただ『以前のような心のままでは、とても我慢できません。改心して落ち着くならば、また一緒に暮らしましょう』などと言いましたが、そうは言っても思い切れまいと存じましたので、少し懲らしめようという気持ちから、『そのように改めよう』とも言わず、ひどく強情を張って見せていたところ、とてもひどく思い嘆いて、亡くなってしまいましたので、冗談も言えないように存じられました。
一途に生涯頼みとするような女性としては、あの程度で確かに良いと思い出さずにはいられません。ちょっとした風流事でも実生活上の大事でも、相談してもしがいがなくはなく、龍田姫と言っても不似合いでなく、織姫の腕前にも劣らないその方面の技術をもっていて、行き届いていたのでした」
と言って、とてもしみじみと思い出している。中将が、
「その織姫の技量はひとまずおいても、永い夫婦の契りだけにはあやかりたいものだったね。なるほど、その龍田姫の錦の染色の腕前には、誰も及ぶ者はいないだろうね。ちょっとした、花や紅葉といっても、季節の色合いが相応しくなく、はっきりとしていないのは、何の見映えもなく、台なしになってしまうものだ。そうだからこそ、難しいものだと決定しかねるのですな」
と、話をはずまされる。
「ところで、一方同じころ、通っていました女は、人品も優れ気の働かせ方もまことに嗜みがあると思われるように、素早く歌を詠み、すらすらと書き、掻いつま弾く琴の音、その手つき口つきがみな確かであると、見聞きしておりました。見た目にも無難でしたので、先程の嫉妬深い女を気の置けない通い所にして、時々隠れて逢っていました間は、格段に気に入っておりました。今の女が亡くなって後は、どうしましょう、かわいそうだとは思いながらも死んでしまったものは仕方がないので、頻繁に通うようになってみますと、少し派手で婀娜っぽく風流めかしていることは、気に入らないところがあったので、頼りにできる女とは思わずに、途絶えがちにばかり通っていましたら、こっそり心を通じている男がいたらしいのです。
神無月の時節ごろ、月の美しかった夜に、内裏から退出いたしますに、ある殿上人が来合わせて、わたしの車に同乗していましたので、大納言殿の家へ行って泊まろうとすると、この人が言うことには、『今宵は、わたしを待っているだろう女が、妙に気にかかるよ』と言って、先程の女の家は、ちょうど通り道に当たっていたので、荒れた築地塀の崩れから池の水に月の光が映っていて、月でさえ泊まるこの宿をこのまま通り過ぎてしまうのも惜しくて、下りたのです。
以前から心を交わしていたのでしょうか、この男はとてもそわそわして、門近くの廊の簀子のような所に腰を掛けて、暫く月を見ています。菊は一面にとても色美しく変色しており、風に勢いづいた紅葉が散り乱れているのなど、美しいものだなあと実に思われました。
懐にあった横笛を取り出して吹き鳴らし、「蔭もよし」などと合い間合い間に謡うと、よい音のする和琴を、調子が調えてあるので、きちんと合奏していたところは、悪くはありませんでした。律の調子は、女性がもの柔らかく掻き鳴らして、簾の内側から聞こえて来るのも、今はやりの楽の音なので、清く澄んでいる月に似合わないでもない。男はひどく感心して、御簾の側に歩み寄って、
『庭の紅葉を、踏み分けた跡がないですね』などと嫌がらせを言います。菊を手折って、
『琴の音色も月も素晴らしいお宅ですが
薄情な方を引き止めることができなかったようですね
悪いことを言ったかしら』などと言って、『もう一曲、喜んで聞きたいという人がいる時、弾き惜しみなさいますな』などと、ひどく色っぽく言いかけますと、女は、声をとても気取って出して、
『冷たい木枯らしに合うようなあなたの笛の音を
引きとどめる術をわたしは持ち合わせていません』
と色っぽく振る舞い合います。憎らしくなってきたのも知らずに、今度は、筝の琴を盤渉調に調えて、今はやりに掻き鳴らす爪音は、才能が無いではないが、目を覆いたい気持ちが致しました。ただ時々に言葉を交わす宮仕え人などで、どこまでも色っぽく風流なのは、そうであっても付き合うには興味もありましょう。時々であっても、通い妻として生涯の伴侶と致しますには、頼りなく派手すぎると嫌気がさして、その夜のことに口実をつくって、通うのをやめてしまいました。
この二つの例を考え合わすに、若い時の考えでさえも、やはりそのように派手な女の例は、とても不安で頼りなく思われました。今から以後は、いっそうそのようにばかり思われることでしょう。お心のままに、手折るとこぼれ落ちてしまいそうな萩の露や、拾ったと思うと消えてしまう玉笹の上の霰などのような、しゃれていてか弱く風流なのばかりが、興味深くお思いでしょうが、今はそうであっても、七年のうちにお分かりになるでしょう。わたくしめごとき、卑賎の者の忠告ですが、色っぽくなよなよとした女性にはお気をつけなさいませ。間違いを起こして、相手の男の愚かな評判までも立ててしまうものです」
と、忠告する。中将は例によってうなずく。君は少し微笑んで、そういうものだろうとお思いのようである。
「どちらの話にしても、体裁の悪くみっともないご体験談だね」
と言って、皆でどっと笑い興じられる。
中将は、
「わたしは、馬鹿な体験談をお話しましょう」と言って、「ごくこっそりと通い始めた女で、そうした関係を長く続けてもよさそうな様子だったので、長続きのすることとは存じられませんでしたが、馴れ親しんで行くにつれて、愛しいと思われましたので、途絶えがちながらも忘れられない女と存じておりましたが、それほどの仲になると、頼りにしている様子にも見えました。頼りにするとなると、恨めしく思っていることもあるだろうと、我ながら思われる折々もありましたが、見知らぬふうをして、久しく通って行かないのを、こういうたまにしか来ない男とも思っていないで、ただ朝夕にいつも心に掛けているという態度に見えて、いじらしく思えたので、ずっと頼りにしているようにと言ったこともあったのでした。
親もなく、とても心細い様子で、それならわたしこそをと、何かにつけて頼りにしている様子もいじらしげでした。このようにおっとりしていることに安心して、長い間通って行かないでいたころ、わたしの妻の辺りから、思慮のない辛いことを、ある手づるがあってそれとなく言わせたことを、後になって聞いたのでした。
そのような辛いことがあったとも知らず、心中では忘れていないとはいうものの、便りなども出さずに長い間おりましたところ、すっかり悲観して不安だったので、幼い子供もいたので思い悩んで、撫子の花を折って、送って寄こしました」と言って涙ぐんでいる。
「それで、その手紙には」とお尋ねになると、
「いや、格別なことはありませんでしたよ。
『たとえ山家の垣根は荒れていても
時々はかわいがってやってください撫子の花を』
思い出したままに行きましたところ、いつものように無心なようでいながら、ひどく物思い顔で、荒れた家の露のしっとり濡れているのを眺めて、虫の鳴く音と競うかの様子は、昔物語めいて、感じられました。
『庭に咲く花はいずれも皆美しいが
やはり常夏の花が一番美しく思われます』
大和撫子のことはさておいて、まず『塵をだに』などと、親の機嫌を取ります。
『露に濡れている常夏に
さらに激しい風の吹きつける秋までが来ました』
とさりげなく言いつくろって、本気で恨んでいるようにも見えません。涙をもらし落としても、とても恥ずかしく気兼ねして取り繕い隠して、薄情を恨めしく思っているということを知られるのが、とてもたまらないらしいことのように思っていたので、気楽に構えて、再び通わずにいましたうちに、跡形なく姿を晦まして、いなくなってしまいました。
まだ生きていれば、みじめな生活をしていることでしょう。愛しいと思っていましたころに、うるさいくらいにまとわり付くような様子に見えたならば、こういうふうには行方不明にはさせなかったものを。こんなにも途絶えはせずに、通い妻の一人として末永く関係を保つこともあったでしょうに。あの、撫子がかわいらしうございましたので、何とか捜し出したいものだと思っておりますが、今でも行方が知れません。
これがおっしゃられた頼りない女の例でしょう。平気をよそおって辛いと思っているのも知らないで、愛し続けていたのも、無益な片思いでした。今はだんだん忘れかけて行くころになって、あの女は女で忘れられず、時折自分のせいで胸を焦がす夕べもあるであろうと思われます。この女は、永続きしそうにない頼りない例でしたなあ。
それだから、あの嫉妬深い女も、思い出される女としては忘れ難いけれども、実際に結婚生活を続けて行くのにはうるさいし、悪くすると、嫌になることもありましょうよ。琴が素晴らしい才能だったという女も、浮気な欠点は重大でしょう。この頼りない女も、疑いが出て来ましょうから、どちらが良いとも結局は決定しがたいのだ。男女の仲は、ただこのように、それぞれに優劣をつけるのは難しいでしょう。このそれぞれの良いところばかりを身に備えて、非難される点を持たない女は、どこにいましょうか。吉祥天女に思いをかけようとすれば、抹香臭く、人間離れして、また、おもしろくないでしょう」と言って、皆笑った。
「式部のところには、変わった話があろう。少しずつ、話して聞かせよ」と催促される。
「下の下のわたくしめごとき者には、何の、お聞きあそばす話がありましょう」
と言うが、頭の君が、真面目に「早く早く」とご催促されるので、何をお話し申そうかと思案したが、
「まだ文章生でございました時、賢い女性の例を拝見しました。先程、左馬頭が申されましたように、公事をも相談し、私生活の面での心がけも考え廻らすこと深く、漢学の才能はなまじっかの博士が恥ずかしくなる程で、万事口出すことは何もございませんでした。
それは、ある博士のもとで学問などを致そうと思って、通っておりましたころに、主人の娘が多くいるとお聞き致しまして、ちょっとした折に言い寄りましたところ、父親が聞きつけて、盃を持って来て、『我が両つの途歌ふを聴け』と謡いかけてきましたが、少しも結婚してもよいと思って通っていませんでしたので、あの父親の気持ちに気兼ねして、そうは言うもののかかずらっていましたところ、とても情け深く世話をし、閨房の語らいにも、身に学問がつき、朝廷に仕えるのに役立つ学問的なことを教えて、とても見事に手紙文にも仮名文字というものをを書き交ぜず、本格的に表現しますので、ついつい別れることができずに、その女を先生として、下手な漢詩文を作ることなどを習いましたので、今でもその恩は忘れませんが、慕わしい妻として頼りにするには、無学のわたしは、どことなく劣った振る舞いなど見られましょうから、恥ずかしく思われました。まして、あなた様方の御ためには、しっかりして手ぬかりのない奥方様は、何の必要がおありあそばしましょうか。つまらない、残念だ、と一方では思いながらも、自分の気に入り、宿縁もあるようなので、男という者は、他愛のないもののようでございます」
と申し上げるので、後を言わせようと、「それにしてもまあ、何と興味ある女だろうか」と、おだてなさるのを、そうとは知りながらも、鼻のあたりをおかしなかっこうさせて語り続ける。
「そうして、ずいぶん長く行きませんでしたころ、何かのついでに立ち寄りましたところ、いつものくつろいだ所にはおりませんで、不愉快な物を隔てて逢います。嫉妬しているのかと、ばかばかしくもあり、また、ちょうど良い機会と存じましたが、この賢い女という者は、軽々しい嫉妬をするはずもなく、男女の仲を心得て恨み言を言いませんでした。
声もせかせかと言うことには、
『数月来、風邪が重いのに堪え兼ねて、極熱の薬草を服して、大変に臭いので、面会は御遠慮申し上げます。直接にでなくても、しかるべき雑用などは承りましょう』
と、いかにも殊勝にもっともらしく言います。返事には何と言えようか。ただ、『承知しました』とだけ言って、立ち去ります時に、物足りなく思ったのでしょうか、
『この臭いが消えた時に、お立ち寄り下さい』と声高に言うのを、聞き捨てるのも気の毒ですが、しばしの間でもためらっている場合でもありませんので、ほんとに、その臭いまでが、ぷんぷんと漂って来るのも堪りませんので、逃げ腰になって、
『蜘蛛の動きでわたしの来ることがわかっているはずの夕暮に
昼間が過ぎるまでまで待てと言うのがわかりません
どのような口実ですか』
と、言い終わらず逃げ出しましたところ、追いかけて、
『逢うことが一夜も置かずに逢っている夫婦仲ならば
昼間逢ったからとてどうして恥ずかしいことがありましょうか』
さすがに返歌は素早うございました」
と、ゆっくりと申し上げるので、公達は興醒めに思って、「嘘だ」と言ってお笑いになる。
「どこにそのような女がいようか。のんびりと鬼と向かい合っていたほうがましだ。気持ちが悪い話」
と爪弾きして、「何とも評しようがない」と、式部を軽蔑し非難して、
「もう少しましな話を申せ」とお責めになるが、
「これ以上珍しい話がございましょうか」と言って、澄ましている。
「すべて男も女も未熟者は、少し知っている方面のことをすっかり見せようと思っているのが、困ったものです。 三史五経といった学問的な方面を、本格的に理解するというのは、好感の持てないことですが、どうして女だからといって、世の中の公私の事々につけて、まったく知りませんできませんと言っていられましょうか。本格的に勉強しなくても、少しでも才能のあるような人は、耳から目から入って来ることが、自然に多いはずです。
そのようなことから、漢字を走り書きし、お互いに書かないはずの女どうしの手紙文に、半分以上書き交ぜているのは、ああ何と厭味な、この人が女らしかったらなあと思われます。気持ちの上ではそんなにも思わないでしょうが、自然とごつごつした声に読まれ読まれして、わざとらしく感じられます。上流の中にも多く見られることです。
和歌を詠むことを鼻にかけている人が、そのまま和歌のとりことなって、趣のある古歌を初句から取り込み取り込みして、相応しからぬ折々に、それを詠みかけて来ますのは、不愉快なことです。返歌しないと人情がないし、出来ない人は体裁が悪いでしょう。
しかるべき節会などで、五月の節会に急いで参内する朝に、落ち着いて分別などしていられない時に、素晴らしい根にかこつけてきたり、重陽の節会の宴会のために、難しい漢詩の趣向を思いめぐらしていて暇のない折に、菊の露にかこつけたような、相応しからぬことに付き合わせ、そういう場合ではなくとも自然となるほどと、後から考えればおもしろくもしみじみともあるはずのものが、その場合には相応しくなく、目にも止まらないのを、察しもせずに詠んで寄こすのは、かえって気がきかないように思われます。
万事につけて、どうしてそうするのか、そうしなくとも、と思われる折々に、時々、分別できない心では、気取ったり風流めかしたりしないほうが無難でしょう。
総じて、心の中では知っていることでも、知らない顔をして、言いたいことも、一つ二つは言わないでおくのが良いというものでしょう」
と言うにつけても、君は、お一方の御様子を、胸の中に思い続けていらっしゃる。この結論に足りないことまた出過ぎたところもない方でいらっしゃるなあと、比類ないことにつけても、ますます胸がいっぱいになる。
どういう結論に達するというでもなく、最後は聞き苦しい話に落ちて、夜をお明かしになった。

やっと今日は天気も好くなった。こうしてばかり籠っていらっしゃるのも、大殿のお気持ちが気の毒なので、退出なさった。
邸内の有様や、姫君の様子も、端麗で気高く、くずれたところがなく、やはり、この女君は、あの、人々が捨て置き難く取り上げた実直な妻として信頼できるだろう、とお思いになる一方では、度を過ぎて端麗なご様子で、打ち解けにくく気づまりな感じにとり澄ましていらっしゃるのが物足りなくて、中納言の君や中務といった、人並み優れている若い女房たちに、冗談などをおっしゃりおっしゃりして、暑さにお召し物もくつろげていらっしゃるお姿を、素晴らしく美しい、と思い申し上げている。
大臣もお渡りになって、くつろいでいらっしゃるので、御几帳を間に立ててお座りになって、お話を申し上げなさるのを、「暑いのに」と苦い顔をなさるので、女房たちは笑う。「お静かに」と制して、脇息に寄り掛かっていらっしゃる。いかにも大君らしい鷹揚なお振る舞いであるよ。
暗くなるころに、
「今宵は、天一神が、内裏からこちらの方角へは方塞がりになっております」と申し上げる。
「そうですわ。普通は、お避けになる方角ですわ」
「二条院も同じ方角であるし、どこに方違えをしようか。とても気分が悪いのに」
と言って横になっていらっしゃる。「大変に具合悪いことである」と誰彼となく申し上げる。
「紀伊守で、親しくお仕えいたしております者が、中川の辺りにある家に、最近水を引き入れて、涼しい木蔭がございます」と申し上げる。
「とても良い考えである。気分が悪いから、牛車のままで入って行かれる所を」
とおっしゃる。内密の方違えのお邸は、たくさんあるに違いないのであるが、長いご無沙汰の後にいらっしゃったのに、方角が悪いからといって、期待を裏切って他へ行ったとお思いになるのは、気の毒だと思われたのであろう。紀伊守に御用を言い付けると、お引き受けは致したものの、引き下がって、
「伊予守の朝臣の家に、慎み事がございまして、女房たちが来ている時なので、狭い家でございますので、失礼に当たる事がありはしないか」
と、心中に困惑しているのをお聞きになって、
「そうした人が近くにいるのが嬉しいのだ。女気のない旅寝は、何となく不気味な心地がするから。すぐ、その几帳の後ろに」とおっしゃるので、
「なるほど、適当なご座所で」と言って、使いの者を走らせる。とてもこっそりと、格別に大げさでない所をと、急いでお出になるので、大臣にもご挨拶なさらず、お供にも親しい者ばかり連れておいでになった。
「あまりに急なことで」と迷惑がるが、誰も聞き入れない。寝殿の東面をきれいに片づけさせて、急拵えのご座所を設けた。遣水の趣向などは、それなりに趣深く作ってある。田舎家風の柴垣を廻らして、前栽など気を配って植えてある。風が涼しくて、どこからともない微かな虫の声々が聞こえ、螢がたくさん飛び交って、趣のある有様である。
人々は渡殿から湧き出ている泉に臨んで座って、酒を飲む。主人もご馳走の準備に走り回っている間、君はゆったりとお眺めになって、あの、中の品の例に挙げていたのは、きっとこういう家の女性なのだろう、とお思い出しになる。
高い望みをもっていたようにお耳になさっていた娘なので、関心を持って耳を澄ましていらっしゃると、この西面に人のいる様子がする。衣ずれの音がさらさらとして、若い女の声々が愛らしい。そうは言っても小声で、笑ったりなどする様子は、わざとらしい。格子を上げてあるが、守が、「不用意な」と小言を言って下ろしてしまったので、火を燈している明りが、襖障子の上から漏れているので、そっとお近寄りになって、「見えるだろうか」とお思いになるが、隙間もないので、少しの間お聞きになっていると、この近い母屋の方に集っているのであろう、ひそひそ話している内容をお聞きになると、ご自分の噂話のようである。
「とてもたいそう真面目ぶって。まだお若いのに、高貴な北の方が定まっていらっしゃるとは、なんとつまらないのでしょう」
「でも、人の知らない所では、ずいぶんよく、隠れて通っていらっしゃるということですよ」
などと噂しているのにつけ、胸の内にあることばかりが気にかかっていらっしゃるので、まっさきにどきりとして、「このような噂話の折にも、人が言い洩らすようなことを、聞きつけるような事が起こったら」などとご心配なさる。
別段のこともないので、途中まで聞いてお止めになった。式部卿宮の姫君に、朝顔の花を差し上げなさった時の和歌などを、少し文句を違えて語るのが聞こえる。「ゆったりと和歌を口にすることよ、やはり見劣りすることだろう」とお思いになる。
守が出て来て、燈籠を掛け添え、灯火を明るく掻き立てたりして、お菓子程度を差し上げた。
「帷帳の準備も、いかがなっておるか。そうした方面の趣向もなくては、興醒めなもてなしであろう」とおっしゃると、
「はて、何がお気に召しますやら、わかりませんので」と、恐縮して控えている。端の方のご座所に、うたた寝といったふうに横におなりになると、人々も静かになった。
主人の子供たちが、かわいらしい様子でいる。その子供で、童殿上している間に見慣れていらっしゃっるのもいる。伊予介の子もいる。大勢いる中で、とても感じが上品で、十二、三歳くらいになるのもいる。
「どの子が誰の子か」などと、お尋ねになると、
「この子は、故衛門督の末の子で、大変にかわいがっておりましたが、まだ幼いうちに先立たれまして、姉につながる縁で、こうしてここにいるわけでございます。学問などもできそうで、悪くはありませんが、童殿上なども考えておりますが、すらすらとはできませんようです」と申し上げると、
「気の毒なことだ。この子の姉君が、そなたの継母か」
「さようでございます」と申し上げると、
「年に似合わない継母を、持ったことだなあ。主上におかれてもお耳にお忘れにならず、『宮仕えに差し上げると、ちらと奏上したことは、その後どうなったのか』と、いつであったか仰せられた。人の世とは無常なものだ」と、とても大人びておっしゃる。
「思いがけず、こうしているのでございます。男女の仲と言うものは、所詮、そのようなものばかりで。今も昔も、どうなるか分からないものでございます。中でも、女の運命は定めないのが、哀れでございます」などと、申し上げるのを途中で止める。
「伊予介は、大事にしているか。主君と思っているだろうな」
「どう致しまして。内々の主君として世話しておりますようで。好色がましいことだと、わたくしめをはじめとして、納得できないほどでございます」などと申し上げる。
「そうは言っても、そなたたちのような相応しく当世風の人に、譲るであろうか。あの介は、なかなか風流心があって、気取っているからな」などと、お話なさって、
「で、どこに」
「皆、下屋に下がらせましたが。まだ下がりきらないでいるかも知れません」と申し上げる。
酔いが回って、供人は皆、簀子に臥せって静かになった。
君は、気を落ち着けてお寝みになれず、空しい一人寝だと思われるとお目も覚めて、この北の襖障子の向こう側に人のいる様子がするので、「ここが、話に出た女が隠れている所であろうか、どんなであろうか」とご関心をもって、静かに起き上がって立ち聞きなさると、先程の子供の声で、
「もしもし。どこにいらっしゃいますか」
と、かすれた声で、かわいらしく言うと、
「ここに寝ています。お客様はお寝みになりましたか。どんなにお近かろうかと心配していましたが、でも、遠そうだわね」
と言う。寝ていた声で取り繕わないのが、とてもよく似ていたので、姉だなとお聞きになった。
「廂の間にお寝みになりました。噂に聞いていたお姿を拝見いたしましたが、噂通りにご立派でした」と、ひそひそ声で言う。
「昼間であったら、覗いて拝見できたのにね」
と眠そうに言って、顔を引き入れた声がする。「惜しいな、気を入れてもっと聞いてくれたら」と残念にお思いになる。
「わたしは、端に寝ましょう。ああ、疲れた」
と言って、灯心を引き出したりしているのであろう。女君は、ちょうどこの襖障子口の斜め向こう側に臥しているのであろう。
「中将の君はどこですか。誰もいないようで、何となく恐い」
と言うらしい、すると、長押の下の方で、女房たちは臥したまま答えているようである。
「下屋に、お湯を使いに下りていますが。『すぐに参ります』とのことでございます」と言う。
皆寝静まった様子なので、掛金を試しに開けて御覧になると、向こう側からは鎖してないのであった。几帳を襖障子口に立てて、灯火はほの暗いが、御覧になると唐櫃のような物どもを置いてあるので、ごたごたした中を、掻き分けて入ってお行きになると、ただ一人だけでとても小柄な感じで臥せっていた。何となく煩わしく感じるが、上に掛けてある衣を押しのけるまで、呼んでいた女房だと思っていた。
「中将をお呼びでしたので。人知れずお慕いしておりました、その甲斐があった気がしまして」
とおっしゃるのを、すぐには誰とも分からず、魔物にでも襲われたような気がして、「きゃっ」と脅えたが、顔に衣が触れて、声にもならない。
「突然のことで、一時の戯れ心とお思いになるのも、ごもっともですが、長年、恋い慕っていました気持ちを、聞いていただきたいと思って。このような機会を待ち受けていたのも、決していい加減な気持ちからではないと、お思いになって下さい」
と、とても優しくおっしゃって、鬼神も手荒なことはできないような態度なので、ぶしつけに「ここに、変な人が」とも、大声が出せない。気分は辛く、あってはならない事だと思うと、情けなくなって、
「お人違いでございましょう」と言うのもやっとである。
消え入らんばかりにとり乱した様子は、まことにいたいたしく可憐なので、いい女だと御覧になって、
「間違えるはずもない真心を、理解しても下さらずはぐらかしなさいますね。好色めいた振る舞いは、決して致しません。気持ちを少し申し上げたいのです」
と言って、とても小柄なので、抱き上げて襖障子からお出になる時、探していた中将らしい女房が来合わせた。
「これ、これ」とおっしゃると、不思議に思って手探りして行くと、大変に薫物の香があたり一面に匂っていて、顔にまで匂いかかって来るような感じがするので、気がついた。意外なことで、これはどうしたことかと、おろおろしないではいられないが、何とも申し上げようもない。普通の男ならば、手荒に引き放すこともできようが、それでさえ大勢の人が知ったらどうであろうか。胸がどきどきして、後からついて来たが、平然として、奥のご座所にお入りになった。
襖障子を引き閉てて、「明朝、お迎えに参られよ」とおっしゃると、女は、この女房がどう思うかまでが、死ぬほど耐えられないので、汗びっしょりになって、とても悩ましい様子でいる、気の毒であるが、例によって、どこから出てくる言葉であろうか、愛情がわかるほどに、優しく優しく、言葉を尽くしておっしゃるようだが、依然として、まことに情けないので、
「真実のこととは思われません。しがない身の上ですが、お貶みなさったお気持ちのほどを、どうして浅い気持ちと存じ上げずにいられましょうか。まことに、このような身分の女には、それなりの生き方がございます」
と言って、このように無体なことをなさっているのを、深く思いやりがなく嫌なことだと思い込んでいる様子も、なるほど気の毒で、気後れがするほど立派な態度なので、
「おっしゃる身分身分の違いを、まだ知りません、初めての事です。かえって、普通の人と同じように思っていらっしゃるのが残念です。自然とお聞きになっているようなこともありましょう。むやみな好色心は、まったく持ち合わせておりませんものを。前世からの因縁でしょうか、本当に、このように軽蔑され申すのも、当然な惑乱を、自分でも不思議なほどで」
などと、真面目になっていろいろとおっしゃるが、まことに類ないご立派さで、ますます打ち解け申し上げることが辛く思われるので、無愛想な気にくわない女だとお見受け申されようとも、そうしたつまらない女として押し通そうと思って、ただそっけなく身を処していた。人柄がおとなしい性質なうえに、無理に気強く張りつめているので、しなやかな竹のような感じがして、さすがに手折れそうにもない。
本当に辛く嫌なので、無理無体なお気持ちを、何とも言いようがないと思って、泣いている様子など、まことに哀れである。気の毒ではあるが、逢わなかったら心残りであろう、とお思いになる。気持ちの晴らしようもなく、情けないと思っているので、
「どうして、こうお嫌いになるのですか。思いがけない逢瀬こそ、前世からの因縁だとお思いなさい。むやみに男女の仲を知らない者のように、泣いていらっしゃるのが、とても辛い」と、恨み言をいわれて、
「とてもこのような情けない身の運命が定まらない、昔のままのわが身で、このようなお気持ちを頂戴したのならば、とんでもない身勝手な希望ですが、愛していただける時もあろううかと存じて慰めることもできましょうに。とてもこのような、一時の仮寝のことを思いますと、どうしようもなく心惑いされてならないのです。たとえ、こうとなりましても、逢ったと言わないで下さいまし」
と言って、悲しんでいる様子は、まことに道理である。並々ならず行く末を約束し慰めなさる言葉は、きっと多いことであろう。
鶏も鳴いた。人々が起き出して、
「ひどく、寝過ごしてしまった」
「お車を引き出せ」
などと言っているようだ。守も起き出して来て、
「女性などの方違えならばともかく。暗いうちからお急きあそばさずとも」
などと言っているのも聞こえる。
君は、再びこのような機会があろうこともとても難しいし、わざわざとは、どうしてできようか、お手紙などもを通わすことはとても無理なことをお思いになると、ひどく胸が痛む。奥の中将の君も出て来て、とても困っているので、お放しになっても、再びお引き留めになっては、
「どのようにして、お便りを差し上げられようか。何とも言いようのない、お気持ちの冷たさといい、慕わしさといい、深く刻みこまれた思い出は、いろいろと珍しいことであったね」
と言って、お泣きになる様子は、とても優美である。 鶏もしきりに鳴くので、気もせかされて、
「あなたの冷たい態度に恨み言を十分に言わないうちに夜もしらみかけ
鶏までがあわただしく鳴いてわたしを起こそうとするのでしょうか」
女は、わが身の上を思うと、まことに不似合いで眩しい気持ちがして、素晴らしいお持てなしも、何とも感じぜず、平生はとても生真面目過ぎて嫌な男だと侮っている伊予国の方角が思いやられて、夢に現われやしないかと思うと、何となく恐ろしくて気がひける。
「わが身の辛さを嘆いても嘆き足りないうちに明ける夜は
鶏の鳴く音に併せて、わたしも泣かれてなりません」
ずんずんと明るくなるので、襖障子口までお送りになる。邸の内も外も騒がしいので、引き閉てて、お別れになる時、心細い気がして、「隔てる関」のように思われた。
御直衣などをお召しになって、南面の高欄で少しの間眺めていらっしゃる。西面の格子を忙しく上げて、女房たちが覗き見しているようである。簀子の中央に立ててある小障子の上から、わずかにお見えになるお姿を、身に感じ入っている好色な女もいるようである。
月は有明で、光を押さえた明るさだが、輪郭ははっきりと見えて、かえって趣のある曙の空である。無心なはずの空の様子も、ただ、見る人によって美しくもぞっとするようにも見えるのであった。人に言われぬお心には、とても胸痛く、文を通わす手立てさえないのをと、後髪引かれる思いでお出になった。
お邸にお帰りになっても、すぐにもお寝みになれない。再び逢える手立てのないのが、自分以上に、あの、女が悩んでいるであろう心の中は、どんなであろうかと、気の毒にご想像なさる。「特に優れた所はないが、見苦しくなく身嗜みもとりつくろっていた中の品であったな。何でもよく知っている人の言ったことは、なるほどであった」とうなずかれるのであった。
最近は、大殿邸にばかりいらっしゃる。やはり、すっかりあれきりなので、思い悩んでいるであろうことが、気の毒にお心にかかって、心苦しく思い悩みなさって、紀伊守をお召しになる。
「あの、先日の故中納言の子は、下さらないか。かわいらしげに見えたが。身近に使う者としたい。主上にも、わたしが差し上げたい」とおっしゃると、
「とても恐れ多いお言葉でございます。姉に当たる人に仰せ言を伝えてみましょう」
と、申し上げるにつけても、どきりとなさるが、
「その姉君は、そなたの弟をお持ちか」
「いえ、おりません。この二年ほどは、こうして暮らしておりますが、父親の意向と違ったと嘆いて、気も進まないでいるように、聞いております」
「気の毒なことよ。まあまあの評判の人だった。本当に、器量が良いか」
「悪くはございませんでしょう。離れて疎遠に致しておりますので、世間の言い草のとおり、親しくしておりません」と申し上げる。
そうして、五六日が過ぎて、この子を連れて参った。きめこまやかに美しいというのではないが、優美な姿をしていて、貴人と見えた。招き寄せて、とても親しくお話をなさる。子供心に、とても素晴らしく嬉しく思う。姉君のことも詳しくお尋ねになる。答えられることはお答え申し上げなどして、こちらが恥ずかしくなるほどきちんとかしこまっているので、ちょっと言い出しにくい。けれど、とても上手にお話なさる。
このようなことであったかと、ぼんやりと分かるのも、意外なことではあるが、子供心に深くも考えない。お手紙を持って来たので、女は、あまりのことに涙が出てしまった。弟がどう思っていることだろうかと気恥ずかしくて、そうは言っても、お手紙で顔を隠すように広げた。とてもたくさん書き連ねてあって、
「夢が現実となったあの夜以来、再び逢える夜があろうかと嘆いているうちに
目までが合わさらないで眠れない夜を幾日も送っています
寝れる夜がないので」
などと、見たこともないほどの、素晴らしいご筆跡も、目も涙に曇って、不本意な運命がさらにつきまとう身の上を思い続けて臥せってしまわれた。
翌日、小君をお召しになっていたので、参上しますと言って、お返事を催促する。
「このようなお手紙を見るような人はいません、と申し上げなさい」
とおっしゃると、にこっと微笑んで、
「間違うはずなくおっしゃったのに。どうして、そのように申し上げられましょうか」
と言うので、小癪に思い、すっかりおっしゃられ、知らせてしまったのだ、と思うと、辛く思われること、この上ない。
「いいえ、ませた口をきくものではありませんよ。それなら、もう参上してはいけません」と不機嫌になられたが、
「お召しになるのに、どうして」と言って、参上した。
紀伊守は、好色心をもってこの継母の様子をもったいない人と思って、何かとおもねっていたので、この子をも大切にして、連れて歩く。
君は、お召しになって、
「昨日一日中待っていたのに。やはり、わたしほどには思ってくれないようだね」
とお恨みになると、顔を赤らめて畏まっている。
「どこに」とおっしゃると、「これこれしかじかです」と申し上げるので、
「だめだね。呆れた」と言って、またもお与えになった。
「おまえは知らないのだね。あの伊予の老人よりは、先に関係していたのだよ。けれど、頼りなく弱々しいといって、不恰好な夫をもって、このように馬鹿になさるらしい。そうであっても、おまえはわたしの子でいてくれよ。あの頼りにしている人は、老い先短いですからね」
とおっしゃると、「そうであったのかも知れない。大変なことだな」と思っている。「かわいいい」とお思いになる。
この子を連れて歩きなさって、内裏にも連れて参上などなさる。ご自分の御匣殿にお命じになって、装束なども調達させ、本当の親のように面倒見なさる。
お手紙はいつもある。けれど、この子もとても幼く、うっかり落としでもしたら、軽々しい浮名まで背負い込み、風評も相応しくなく思うと、幸せも自分の身に合ってこそと思って、心を許したお返事も申し上げない。ほのかに拝見したご様子や態度は、「本当に、並々の人ではなく素晴らしかった」と、お思い出し申さずにはいられないが、「お気持ちにお応え申しても、今さら何になることだろうか」などと、思い返すのであった。
君は、お忘れになる時の間もなく、心苦しくも恋しくもお思い出しになる。悩んでいた様子などのいじらしさも、払い除けようもなく思い続けていらっしゃる。軽々しくひそかに隠れてお立ち寄りなさるのも、人目の多い所で、不都合な振る舞いを見せはしまいかと、相手にも気の毒である、とお困りになる。
例によって、内裏に何日もいらっしゃるころ、都合のよい方違えの日をお待ちになる。急に退出なさるふりをして、途中からお越しになった。
紀伊守は驚いて、先日の遣水を光栄に思い、恐縮しお礼申し上げる。小君に、昼から、「こうしようと思っている」とお約束なさっていた。朝に夕に連れ従えていらっしゃったので、今宵も、まっさきにお召しになっている。
女も、そのようなお手紙があったので、人目をごまかしなさるお気持ちのほどは、浅いものとは思われないが、そうだからといって、気を許して、みっともない様をお見せ申すのも、つまらなく、夢のようにして過ぎてしまった嘆きを、さらにまた味わおうとするのかと、思い乱れて、やはりこうしてお待ち受け申し上げることが気恥ずかしいので、小君が出て行った後で、
「とても近いので、気が引けます。気分が悪いので、こっそりと肩腰を叩かせたりしたいので、少し離れた所で」
と言って、渡殿に、中将といったのが部屋を持っている隠れ処に、移って行った。
そのつもりで、供人たちを早く寝かせて、お便りなさるが、小君は尋ね当てられない。すべての場所を探し歩いて、渡殿に入りこんで、やっとのことで探し当てた。ほんとうにあんまりなひどい、と思って、
「どんなにか、役立たずな者と、お思いでしょう」と、泣きそうに言うと、
「このような、不埒な考えは、持っていいものですか。子供がこのような事を取り次ぐのは、ひどく悪いことと言うのに」ときつく言って、「『気分がすぐれないので、女房たちを側に置いて揉ませております』とお伝え申し上げなさい。変だと皆が思うでしょう」
とつっぱねたが、心中では、「ほんとうに、このように身分の定まってしまった身の上でなく、亡くなった親の御面影のある邸にいたままで、たまさかにでもお待ち申し上げるならば、喜んでそうしたいところであるが。無理にお気持ちを分からないふうを装って無視したのも、どんなにか身の程知らぬ者のようにお思いになるだろう」と、心に決めたものの、胸が痛くて、やはり心が乱れる。「どっちみち、今はどうにもならない運命なのだから、非常識な気にくわない女で、押しとおそう」と思い諦めた。
君は、どのように手筈を調えるかと、まだ小さいので不安に思いながら横になって待っていらっしゃると、だめである旨を申し上げるので、意外にも珍しく強情なために、「わが身までがまことに恥ずかしくなってしまった」と、とても気の毒なご様子である。しばらくは何もおっしゃらず、ひどく嘆息なさって、辛いとお思いになった。
「近づけば消えるという帚木のような、あなたの心も知らないで
園原への道に、空しく迷ったことです
申し上げるすべもありません」
と詠んで贈られた。女も、やはり、まどろむこともできなかったので、
「しがない境遇に生きるわたしですから
帚木のようにあなたの前から姿を消すのです」
とお答え申し上げた。
小君が、とてもお気の毒に思って眠けを忘れてうろうろと行き来するのを、女房たちが不思議に思うだろう、と心配なさる。
例によって、供人たちは眠りこけているが、お一方はぼうっと白けた感じで思い続けていらっしゃるが、他の女と違った気の強さが、やはり消えるどころかはっきり現れている、と悔しく、こういう女であったから心惹かれたのだと、一方ではお思いになるものの、癪にさわり情けないので、ええいどうともなれとお思いになるが、そうともお諦めきれず、
「隠れている所に、それでも連れて行け」とおっしゃるが、
「とてもむさ苦しい所に籠もっていて、女房が大勢いますようなので。恐れ多くて」
と申し上げる。気の毒にと思っていた。
「それでは、おまえだけは、わたしを裏切るでないぞ」
とおっしゃって、お側に寝かせなさった。お若く優しいご様子を、嬉しく素晴らしいと思っているので、あの薄情な女よりも、かえってかわいく思われなさったというそうである。