須磨 光る源氏の26歳春3月下旬から27歳春3月上巳日まで無位無官時代の都と須磨の物語 源氏物語 (Genji-monogatari) | ||
12. 須磨
光る源氏の26歳春3月下旬から27歳春3月上巳日まで無位無官時代の都と須磨の物語
- 源氏、須磨退去を決意 世の中、いとわづらはしく
- 左大臣邸に離京の挨拶 三月二十日あまりのほどになむ
- 二条院の人々との離別 殿におはしたれば、わが御方の人々も
- 花散里邸に離京の挨拶 花散里の心細げに思して
- 旅生活の準備と身辺整理 よろづのことどもしたためさせたまふ
- 藤壷に離京の挨拶 明日とて、暮には、院の御墓拝みたてまつりたまふ
- 桐壷院の御墓に離京の挨拶 月待ち出でて出でたまふ
- 東宮に離京の挨拶 明け果つるほどに帰りたまひて
- 離京の当日 その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮らし
1 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語
- 須磨の住居 おはすべき所は、行平の中納言の
- 京の人々へ手紙 やうやう事静まりゆくに、長雨のころ
- 伊勢の御息所へ手紙 まことや、騒がしかりしほどの紛れに
- 朧月夜尚侍参内する 尚侍の君は、人笑へにいみじう思しくづほるるを
2 光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語
- 須磨の秋 須磨には、いとど心尽くしの秋風に
- 配所の月を眺める 月のいとはなやかにさし出でたるに
- 筑紫五節と和歌贈答 そのころ、大弐は上りける
- 都の人々の生活 都には、月日過ぐるままに
- 須磨の生活 かの御住まひには、久しくなるままに
- 明石入道の娘 明石の浦は、ただはひ渡るほどなれば
3 光る源氏の物語 須磨の秋の物語
- 須磨で新年を迎える 須磨には、年返りて、日長くつれづれなるに
- 上巳の祓と嵐 弥生の朔日に出で来たる巳の日
4 光る源氏の物語 信仰生活と神の啓示の物語
世の中、いとわづらはしく、はしたなきことのみまされば、「せめて知らず顔にあり経ても、これよりまさることもや」と思しなりぬ。
「かの須磨は、昔こそ人の住みかなどもありけれ、今は、いと里離れ心すごくて、海人の家だにまれに」など聞きたまへど、「人しげく、ひたたけたらむ住まひは、いと本意なかるべし。さりとて、都を遠ざからむも、故郷おぼつかなかるべきを」、人悪くぞ思し乱るる。
よろづのこと、来し方行く末、思ひ続けたまふに、悲しきこといとさまざまなり。憂きものと思ひ捨てつる世も、今はと住み離れなむことを思すには、いと捨てがたきこと多かるなかにも、姫君の、明け暮れにそへては、思ひ嘆きたまへるさまの、心苦しうあはれなるを、「行きめぐりても、また逢ひ見むことをかならず」と、思さむにてだに、なほ一、二日のほど、よそよそに明かし暮らす折々だに、おぼつかなきものにおぼえ、女君も心細うのみ思ひたまへるを、「幾年そのほどと限りある道にもあらず、
かの花散里にも、おはし通ふことこそまれなれ、心細くあはれなる御ありさまを、この御蔭に隠れてものしたまへば、思し嘆きたるさまも、いとことわりなり。なほざりにても、ほのかに見たてまつり通ひたまひし所々、人知れぬ心をくだきたまふ人ぞ多かりける。
入道の宮よりも、「ものの聞こえや、またいかがとりなさむ」と、わが御ためつつましけれど、忍びつつ御とぶらひ常にあり。「昔、かやうに相思し、あはれをも見せたまはましかば」と、うち思ひ出でたまふにも、「さも、さまざまに、心をのみ尽くすべかりける人の御契りかな」と、つらく思ひきこえたまふ。
三月二十日あまりのほどになむ、都を離れたまひける。人にいつとしも知らせたまはず、ただいと近う仕うまつり馴れたる限り、七、八人ばかり御供にて、いとかすかに出で立ちたまふ。さるべき所々に、御文ばかりうち忍びたまひしにも、あはれと忍ばるばかり尽くいたまへるは、見どころもありぬべかりしかど、その折の、心地の紛れに、はかばかしうも聞き置かずなりにけり。
二、三日かねて、夜に隠れて、大殿に渡りたまへり。網代車のうちやつれたるにて、女車のやうにて隠ろへ
若君はいとうつくしうて、され走りおはしたり。
「久しきほどに、忘れぬこそ、あはれなれ」
とて、膝に据ゑたまへる御けしき、忍びがたげなり。
大臣、こなたに渡りたまひて、対面したまへり。
「つれづれに籠もらせたまへらむほど、何とはべらぬ昔物語も、参りて、聞こえさせむと思うたまへれど、身の病重きにより、朝廷にも仕うまつらず、位をもたてまつりてはべるに、私ざまには腰のべてなむと、ものの聞こえひがひがしかるべきを、今は世の中べき身にもはべらねど、いちはやき世のいと恐ろしうはべるなり。かかる御ことを見につけて、思うたまへらるる世の末にもはべるかな。天の下をさかさまになしても、思うたまへ寄らざりし御ありさまを見たまふれば、よろづいとあぢきなくなむ」
と聞こえたまひて、いたうしほたれたまふ。
「とあることも、かかることも、前の世の報いにこそはべるなれば、言ひもてゆけば、ただ、みづからのおこたりになむはべる。さして、かく、官爵を取られず、あさはかなることにかかづらひてだに、朝廷のかしこまりなる人の、うつしざまにて世の中にあり経るは、咎重きわざに人の国にもしはべるなるを、遠く放ちつかはすべき定めなどもはべるなるは、さま異なる罪に当たるべきにこそはべるなれ。濁りなき心にまかせて、つれなく過ぐしはべらむも、いと憚り多く、これより大きなる恥にのぞまぬさきに、世を逃れなむと思うたまへ立ちぬる」
など、こまやかに聞こえたまふ。
昔の御物語、院の御こと、思しのたまはせし御心ばへなど聞こえ出でたまひて、御直衣の袖もえ引き放ちたまはぬに、君も、え心強くもてなしたまはず。若君の何心なく紛れありきて、これかれに馴れきこえたまふを、いみじと思いたり。
「過ぎはべりにし人を、世に思うたまへ忘るる世なくのみ、今に悲しびはべるを、この御ことになむ、もしはべる世ならましかば、いかやうに思ひ嘆きはべらまし。よくぞ短くて、かかる夢を見ずなりにけると、思うたまへ慰めはべる。幼くものしたまふが、かく齢過ぎぬるなかにとまりたまひて、なづさひきこえぬ月日や隔たりたまはむと思ひたまふるをなむ、よろづのことよりも、悲しうはべる。いにしへの人も、まことに犯しあるにてしも、かかることに当たらざりけり。なほさるべきにて、人の朝廷にもかかるたぐひ多うはべりけり。されど、言ひ出づる節ありてこそ、さることもはべりけれ、とざま、かうざまに、思ひたまへ寄らむかたなくなむ」
、多くの御物語聞こえたまふ。
三位中将も参りあひたまひて、大御酒など参りたまふに、夜更けぬれば、泊まりたまひて、人々御前にさぶらはせたまひて、物語などせさせたまふ。人よりはこよなう忍び思す中納言の君、悲しう思へるさまを、人知れずあはれと思す。人皆静まりぬるに、とりわきて語らひたまふ。これにより泊まりたまへるなるべし。
明けぬれば、夜深う出でたまふに、有明の月いとをかし。花の木どもやうやう盛り過ぎて、わづかなる木蔭の、いと白き庭に薄く霧りわたりたる、そこはかとなく霞みあひて、秋の夜のあはれにおほくたちまされり。隅の高欄におしかかりて、とばかり、眺めたまふ。
中納言の君、見たてまつり送らむとにや、妻戸おし開けてゐたり。
「また対面あらむことこそ、思へばいと難けれ。かかりける世を知らで、心やすくもありぬべかりし月ごろ、さしも急がで、隔てしよ」
などのたまへば、ものも聞こえず泣く。
若君の御乳母の宰相の君して、宮の御前より御消息聞こえたまへり。
「身づから聞こえまほしきを、かきくらす乱り心地ためらひはべるほどに、いと夜深う出でさせたまふなるも、さま変はりたる心地のみしはべるかな。心苦しき人のいぎたなきほどは、しばしもやすらはせたまはで」
と聞こえたまへれば、うち泣きたまひて、
「鳥辺山燃えし煙もまがふやと
海人の塩焼く浦見にぞ行く」
御返りともなくうち誦じたまひて、
「暁の別れは、かうのみや心尽くしなる。思ひ知りたまへる人もあらむかし」
とのたまへば、
「いつとなく、別れといふ文字こそうたてはべるなるなかにも、今朝はなほたぐひあるまじう思うたまへらるるほどかな」
と、鼻声にて、げに浅からず思へり。
「聞こえさせまほしきことも、返す返す思うたまへながら、ただに結ぼほれはべるほど、推し量らせたまへ。いぎたなき人は、見たまへむにつけても、なかなか、憂き世逃れがたう思うたまへられぬべければ、心強う思うたまへなして、急ぎまかではべり」
と聞こえたまふ。
出でたまふほどを、人々覗きて見たてまつる。
入り方の月いと明きに、いとどなまめかしうきよらにて、ものを思いたるさま、虎、狼だに泣きぬべし。まして、いはけなくおはせしほどより見たてまつりそめてし人々なれば、なき御ありさまをいみじと思ふ。
まことや、御返り、
「隔たらむ
煙となりし雲居ならでは」
取り添へて、あはれのみ尽きせず、出でたまひぬる名残、ゆゆしきまで泣きあへり。
殿におはしたれば、わが御方の人々も、まどろまざりけるけしきにて、所々に群れゐて、あさましとのみ世を思へるけしきなり。侍には、親しう仕まつる限りは、御供に参るべき心まうけして、私の別れ惜しむほどにや、人もなし。さらぬ人は、とぶらひ参るも重き咎めあり、わづらはしきことまされば、所狭く集ひし馬、車の方もなく、寂しきに、「世は憂きものなりけり」と、思し知らる。
台盤なども、かたへは塵ばみて、畳、所々引き返したり。「見るほどだにかかり。ましていかに荒れゆかむ」と思す。
西の対に渡りたまへれば、御格子も参らで、眺め明かしたまひければ、簀子などに、若き童女、所々に臥して、今ぞ起き騒ぐ。宿直姿どもをかしうてゐるを見たまふにも、心細う、「年月経ば、かかる人々も、えしもあり果てでや、行き散らむ」など、さしもあるまじき
「昨夜は、しかしかして夜更けにしかばなむ。例の思はずなるさまにや思しなしつる。かくてはべるほどだに御目離れずと思ふを、かく世を離るる際には、心苦しきことのおのづから多かりける、ひたやごもりにてやは。常なき世に、人にも情けなきものと果てむと、いとほしうてなむ」
と聞こえたまへば、
「かかる世を見るよりほかに、思はずなることは、何ごとにか」
とばかりのたまひて、いみじと思し入れたるさま、人よりことなるを、ことわりぞかし、父親王、いとおろかにもとより思しつきにけるに、まして、世の聞こえをわづらはしがりて、訪れきこえたまはず、御とぶらひにだに渡りたまはぬを、人の見るらむことも恥づかしく、なかなか知られたてまつらでやみなましを、継母の北の方などの、
「にはかなりし幸ひのあわたたしさ。あな、ゆゆしや。思ふ人、方々につけて別れたまふ人かな」
とのたまひけるを、さる便りありて漏り聞きたまふにも、いみじう心憂ければ、これよりも絶えて訪れきこえたまはず。また頼もしき人もなく、げにぞ、あはれなる御ありさまなる。
「なほ世に許されがたうて、年月を経ば、迎へたてまつらむ。ただ今は、人聞きのいとつきなかるべきなり。朝廷にかしこまりきこゆる人は、明らかなる月日の影をだに見ず、安らかに身を振る舞ふことも、いと罪重かなり。過ちなけれど、さるべきにこそかかることもあらめと思ふに、まして思ふ人具するは、例なきことなるを、ひたおもむきにものぐるほしき世にて、立ちまさることもありなむ」
など聞こえ知らせたまふ。
日たくるまで大殿籠もれり。帥宮、三位中将などおはしたり。対面したまはむとて、御直衣などたてまつる。
「位なき人は」
とて、直衣、なかなか、いとなつかしきを着たまひて、うちやつれたまへる、いとめでたし。御鬢かきたまふとて、鏡台に寄りたまへるに、面痩せたまへる影の、我ながらいとあてにきよらなれば、
「こよなうこそ、衰へにけれ。この影のやうにや痩せてはべる。あはれなるわざかな」
とのたまへば、女君、涙一目うけて、見おこせたまへる、いと忍びがたし。
「身はかくてさすらへぬとも君があたり
去らぬ鏡の影は離れじ」
と、聞こえたまへば、
「別れても影だにとまるものならば
鏡を見ても慰めてまし」
柱隠れにゐ隠れて、涙を紛らはしたまへるさま、「なほ、ここら見るなかにたぐひなかりけり」と、思し知らるる人のなり。
親王は、あはれなる御物語聞こえたまひて、暮るるほどに帰りたまひぬ。
花散里の心細げに思して、常に聞こえたまふもことわりにて、「かの人も、今ひとたび見ずは、つらしとや思はむ」と思せば、その夜は、また出でたまふものから、いともの憂くて、いたう更かしておはしたれば、女御、
「かく数まへたまひて、立ち寄らせたまへること」
と、よろこびきこえたまふさま、書き続けむもうるさし。
いといみじう心細き御ありさま、ただ御蔭に隠れて過ぐいたまへる年月、いとど荒れまさらむほど思しやられて、殿の内、いとかすかなり。
月おぼろにさし出でて、池広く、山木深きわたり、心細げに見ゆるにも、住み離れたらむ巌のなか、思しやらる。
西面は、「かうしも渡りたまはずや」と、うち屈して思しけるに、あはれ添へたる月影の、なまめかしうしめやかなるに、うち振る舞ひたまへるにほひ、似るものなくて、いと忍びやかに入りたまへば、すこしゐざり出でて、やがて月を見ておはす。またここに御物語のほどに、明け方近うなりにけり。
「短か夜のほどや。かばかりの対面も、またはえしもやと思ふこそ、ことなしにて過ぐしつる年ごろも悔しう、来し方行く先のためしになるべき身にて、何となく心のどまる世なくこそありけれ」
と、過ぎにし方のことどものたまひて、鶏もしばしば鳴けば、世につつみて急ぎ出でたまふ。例の、月の入り果つるほど、よそへられて、あはれなり。女君の濃き御衣に映りて、げに、
「月影の宿れる袖はせばくとも
とめても見ばやあかぬ光を」
いみじと思いたるが、心苦しければ、かつは慰めきこえたまふ。
「行きめぐりつひにすむべき月影の
しばし雲らむ空な眺めそ
思へば、はかなしや。ただ、のみこそ、心を昏らすものなれ」
などのたまひて、明けぐれのほどに出でたまひぬ。
よろづのことどもしたためさせたまふ。親しう仕まつり、世になびかぬ限りの人々、殿の事とり行なふべき上下、定め置かせたまふ。御供に慕ひきこゆる限りは、また選り出でたまへり。
かの山里の御住みかの具は、えさらずとり使ひたまふべきものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべき書ども文集など入りたる箱、さては琴一つぞ持たせたまふ。所狭き御調度、はなやかなる御よそひなど、さらに具したまはず、
さぶらふ人々よりはじめ、よろづのこと、みな西の対に聞こえわたしたまふ。領じたまふ御荘、御牧よりはじめて、さるべき所々、券など、みなたてまつり置きたまふ。それよりほかの御倉町、納殿などいふことまで、少納言をはかばかしきものに見置きたまへれば、親しき家司ども具して、しろしめすべきさまどものたまひ預く。
わが御方の中務、中将などやうの人々、つれなき御もてなしながら、見たてまつるほどこそ慰めつれ、「何ごとにつけてか」と思へども、
「命ありてこの世にまた帰るやうもあらむを、待ちつけむと思はむ人は、こなたにさぶらへ」
とのたまひて、上下、皆参う上らせたまふ。
若君の御乳母たち、花散里なども、をかしきさまのはさるものにて、まめまめしき筋に思し寄らぬことなし。
尚侍の御もとに、わりなくして聞こえたまふ。
「問はせたまはぬも、ことわりに思ひたまへながら、今はと、世を思ひ果つる
逢ふ瀬なき涙の河に沈みしや
流るる澪の初めなりけむ
と思ひたまへ出づるのみなむ、罪逃れがたうはべりける」
道のほども危ふければ、こまかには聞こえたまはず。
女、いといみじうおぼえたまひて、忍びたまへど、御袖よりあまるも所狭うなむ。
「涙河浮かぶ水泡も消えぬべし
流れて後の瀬をも待たずて」
泣く泣く乱れ書きたまへる御手、いとをかしげなり。今ひとたび対面なくやと思すは、なほ口惜しけれど、思し返して、憂しと思しなすゆかり多うて、おぼろけならず忍びたまへば、いとあながちにも聞こえたまはずなりぬ。
明日とて、暮には、院の御墓拝みたてまつりたまふとて、北山へ詣でたまふ。暁かけて月出づるころなれば、まづ、入道の宮に参うでたまふ。近き御簾の前に御座参りて、御みづから聞こえさせたまふ。春宮の御事をいみじううしろめたきものに思ひきこえたまふ。
かたみに心深きどちの御物語は、よろづあはれまさりけむかし。なつかしうめでたき御けはひの昔に変はらぬに、つらかりし
「かく思ひかけぬ罪に当たりはべるも、思うたまへあはすることの一節になむ、空も恐ろしうはべる。惜しげなき身はなきになしても、宮の御世にだに、ことなくおはしまさば」
とのみ聞こえたまふぞ、ことわりなるや。
宮も、みな思し知らるることにしあれぼ、御心のみ動きて、聞こえやりたまはず。大将、よろづのことかき集め思し続けて、泣きたまへるけしき、いと尽きせずなまめきたり。
「御山に参りはべるを、御ことつてや」
と聞こえたまふに、とみにものも聞こえたまはず、わりなくためらひたまふ御けしきなり。
「見しはなくあるは悲しき世の果てを
背きしかひもなくなくぞ経る」
いみじき御心惑ひどもに、思し集むることどもも、えぞ続けさせたまはぬ。
「別れしに悲しきことは尽きにしを
またぞこの世の憂さはまされる」
月待ち出でて出でたまふ。御供にただ五、六人ばかり、下人もむつましき限りして、御馬にてぞおはする。さらなることなれど、ありし世の御ありきに異なり、皆いと悲しう思ふなり。なかに、かの御禊の日、仮の御随身にて仕うまつりし右近の将監の蔵人、得べきかうぶりもほど過ぎつるを、つひに御簡削られ、官も取られて、はしたなければ、御供に参るうちなり。
賀茂の下の御社を、かれと見渡すほど、ふと思ひ出でられて、下りて、御馬の口を取る。
「ひき連れて葵かざししそのかみを
思へばつらし賀茂の瑞垣」
と言ふを、「げに、いかに思ふらむ。人よりけにはなやかなりしものを」と思すも、心苦し。
君も、御馬より下りたまひて、御社のかた拝みたまふ。神にまかり申したまふ。
「憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ
名をば糺の神にまかせて」
とのたまふさま、ものめでする若き人にて、身にしみてあはれにめでたしと見たてまつる。
御山に詣うでたまひて、おはしましし御ありさま、ただ目の前のやうに思し出でらる。限りなきにても、世に亡くなりぬる人ぞ、言はむかたなく口惜しきわざなりける。よろづのことを泣く泣く申したまひても、そのことわりをあらはに承りたまはねば、「さばかり思しのたまはせしさまざまの御遺言は、いづちか消え失せにけむ」と、いふかひなし。
御墓は、道の草茂くなりて、分け入りたまふほど、いとど露けきに、月も隠れて、森の木立、木深く心すごし。帰り出でむ方もなき
「亡き影やいかが見るらむよそへつつ
眺むる月も雲隠れぬる」
明け果つるほどに帰りたまひて、春宮にも御消息聞こえたまふ。王命婦を御代はりにてさぶらはせたまへば、「その
」とて、「今日なむ、都離れはべる。また参りはべらずなりぬるなむ、あまたの憂へにまさりて思うたまへられはべる。よろづ推し量りて啓したまへ。
いつかまた春の都の花を見む
時失へる山賤にして」
桜の散りすきたる枝につけたまへり。「かくなむ」と御覧ぜさすれば、幼き御心地にもまめだちておはします。
「御返りいかがものしはべらむ」
と啓すれば、
「しばし見ぬだに恋しきものを、遠くはましていかに、と言へかし」
とのたまはす。「ものはかなの御返りや」と、あはれに見たてまつる。あぢきなきことに御心をくだきたまひし昔のこと、折々の御ありさま、思ひ続けらるるにも、もの思ひなくて我も人も過ぐいたまひつべかりける世を、心と思し嘆きけるを悔しう、わが心ひとつにかからむことのやうにぞおぼゆる。御返りは、
「さらに聞こえさせやりはべらず。御前には啓しはべりぬ。心細げに思し召したる御けしきもいみじくなむ」
と、そこはかとなく、心の乱れけるなるべし。
「は憂けれどゆく春は
花の都を立ち帰り見よ
時しあらば」
と聞こえて、名残もあはれなる物語をしつつ、一宮のうち、忍びて泣きあへり。
一目も見たてまつれる人は、かく思しくづほれぬる御ありさまを、嘆き惜しみきこえぬ人なし。まして、常に参り馴れたりしは、知り及びたまふまじき長女、御厠人まで、ありがたき御顧みの下なりつるを、「しばしにても、見たてまつらぬほどや経む」と、思ひ嘆きけり。
おほかたの世の人も、誰かはよろしく思ひきこえむ。七つになりたまひし、帝の御前に夜昼さぶらひたまひて、奏したまふことのならぬはなかりしかば、この御いたはりにかからぬ人なく、御徳をよろこばぬやはありし。やむごとなき上達部、弁官などのなかにも多かり。それより下は数知らぬを、思ひ知らぬにはあらねど、さしあたりて、いちはやき世を思ひ憚りて、参り寄るもなし。世ゆすりて惜しみ、下に朝廷をそしり、恨みたてまつれど、「身を捨ててとぶらひ参らむにも、何のかひかは」と思ふにや、かかる折は人悪ろく、恨めしき人多く、「世の中はあぢきなきものかな」とのみ、よろづにつけて思す。
その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮らしたまひて、例の、夜深く出でたまふ。狩の御衣など、旅の
、いたくやつしたまひて、「月出でにけりな。なほすこし出でて、見だに送りたまへかし。いかに聞こゆべきこと多くつもりにけりとおぼえむとすらむ。一日、二日たまさかに隔たる折だに、あやしういぶせき心地するものを」
とて、御簾巻き上げて、端にいざなひきこえたまへば、女君、泣き沈み、ためらひて、ゐざり出でたまへる、月影に、いみじうをかしげにてゐたまへり。「わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」と、うしろめたく悲しけれど、思し入りたるに、いとどしかるべければ、
「生ける世の別れを知らで契りつつ
命を人に限りけるかな
はかなし」
など、あさはかに聞こえなしたまへば、
「惜しからぬ命に代へて目の前の
別れをしばしとどめてしがな」
「げに、さぞ思さるらむ」と、いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。
道すがら、面影につと添ひて、胸もふたがりながら、御舟に乗りたまひぬ。日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ申の時ばかりに、かの浦に着きたまひぬ。かりそめの道にても、かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづらかなり。大江殿と言ひける所は、いたう荒れて、松ばかりぞしるしなる。
「唐国に名を残しける人よりも
行方知られぬ家居をやせむ」
渚に寄る波のかつ返るを見たまひて、「
「故郷を峰の霞は隔つれど
眺むる空は同じ雲居か」
つらからぬものなくなむ。
おはすべき所は、行平の中納言の、「
」侘びける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。垣のさまよりはじめて、めづらかに見たまふ。茅屋ども、葦葺ける廊めく屋など、をかしうしつらひなしたり。所につけたる御住まひ、やう変はりて、「かからぬ折ならば、をかしうもありなまし」と、昔の御心のすさび思し出づ。
近き所々の御荘の司召して、さるべきことどもなど、良清朝臣、親しき家司にて、仰せ行なふもあはれなり。時の間に、いと見所ありてしなさせたまふ。水深う遣りなし、植木どもなどして、今はと静まりたまふ心地、うつつならず。国の守も親しき殿人なれば、忍びて心寄せ仕うまつる。かかる旅所ともなう、人騒がしけれども、はかばかしう物をものたまひあはすべき人しなければ、知らぬ国の心地して、いと埋れいたく、「いかで年月を過ぐさまし」と思しやらる。
やうやう事静まりゆくに、長雨のころになりて、京のことも思しやらるるに、恋しき人多く、女君の思したりしさま、春宮の御事、若君の何心もなく紛れたまひしなどをはじめ、ここかしこ思ひやりきこえたまふ。
京へ人出だし立てたまふ。二条院へたてまつりたまふと、入道の宮のとは、書きもやりたまはず、昏されたまへり。宮には、
「松島の海人の苫屋もいかならむ
須磨の浦人しほたるるころ
いつとはべらぬなかにも、来し方行く先かきくらし、『
尚侍の御もとに、例の、中納言の君の私事のやうにて、中なるに、
「つれづれと過ぎにし方の思うたまへ出でらるるにつけても、
のゆかしきを
塩焼く海人やいかが思はむ」
さまざま書き尽くしたまふ言の葉、思ひやるべし。
、宰相の乳母にも、仕うまつるべきことなど書きつかはす。
京には、この御文、所々に見たまひつつ、御心乱れたまふ人々のみ多かり。二条院の君は、そのままに起きも上がりたまはず、尽きせぬさまに思しこがるれば、さぶらふ人々もこしらへわびつつ、心細う思ひあへり。
もてならしたまひし御調度ども、弾きならしたまひし御琴、脱ぎ捨てたまへる御衣の匂ひなどにつけても、今はと世になからむ人のやうにのみ思したれば、かつはゆゆしうて、少納言は、僧都に御祈りのことなど聞こゆ。二方に御修法などせさせたまふ。かつは、「思し嘆く御心静めたまひて、思ひなき世にあらせたてまつりたまへ」と、心苦しきままに祈り申したまふ。
旅の御宿直物など、調じてたてまつりたまふ。かとりの御直衣、指貫、さま変はりたる心地するもいみじきに、「去らぬ鏡」とのたまひし面影の、げに身に添ひたまへるもかひなし。
出で入りたまひし方、
入道宮にも、春宮の御事により思し嘆くさま、いとさらなり。御宿世のほどを思すには、いかが浅く思されむ。年ごろはただものの聞こえなどのつつましさに、「すこし情けあるけしき見せば、それにつけて人のとがめ出づることもこそ」
、ひとへに思し忍びつつ、あはれをも多う御覧じ過ぐし、すくすくしうもてなしたまひしを、「かばかり憂き世の人言なれど、かけてもこの方には言ひ出づることなくて止みぬるばかりの、人の御おもむけも、あながちなりし心の引く方にまかせず、かつはめやすくもて隠しつるぞかし」。あはれに恋しうも、いかが思し出でざらむ。御返りも、すこしこまやかにて、「このころは、いとど、
塩垂るることをやくにて松島に
年ふる海人も嘆きをぞつむ」
尚侍君の御返りには、
「浦にたく海人だにつつむ恋なれば
くゆる煙よ行く方ぞなき
さらなることどもは、えなむ」
とばかり、いささか書きて、中納言の君の中にあり。思し嘆くさまなど、いみじう言ひたり。あはれと思ひきこえたまふ節々もあれば、うち泣かれたまひぬ。
姫君の御文は、心ことにこまかなりし御返りなれば、あはれなること多くて、
「浦人の潮くむ袖に比べ見よ
波路へだつる夜の衣を」
ものの色、したまへるさまなど、いときよらなり。何ごとも
大殿の若君の御事などあるにも、いと悲しけれど、「おのづから逢ひ見てむ。頼もしき人々ものしたまへば、うしろめたうはあらず」と、思しなさるるは、なかなか、ぬにやあらむ。
まことや、騒がしかりしほどの紛れに漏らしてけり。かの伊勢の宮へも御使ありけり。かれよりも、ふりはへ尋ね参れり。浅からぬ
書きたまへり。言の葉、筆づかひなどは、人よりことになまめかしく、いたり深う見えたり。「なほうつつとは思ひたまへられぬ御住ひをうけたまはるも、明けぬ夜の心惑ひかとなむ。さりとも、年月隔てたまはじと、思ひやりきこえさするにも、罪深き身のみこそ、また聞こえさせむこともはるかなるべけれ。
うきめかる伊勢をの海人を思ひやれ
藻塩垂るてふ須磨の浦にて
よろづに思ひたまへ乱るる世のありさまも、なほいかになり果つべきにか」
と多かり。
「伊勢島や潮干の潟に漁りても
いふかひなきは我が身なりけり」
ものをあはれと思しけるままに、うち置きうち置き書きたまへる、白き唐の紙、四、五枚ばかりを巻き、墨つきなど見所あり。
「あはれに思ひきこえし人を、ひとふし憂しと思ひきこえし心あやまりに、かの御息所も思ひ倦じて別れたまひにし」と思せば、今にいとほしうかたじけなきものに思ひきこえたまふ。折からの御文、いとあはれなれば、御使さへむつましうて、二、三日据ゑさせたまひて、かしこの物語などせさせて聞こしめす。
若やかにけしきある侍の人なりけり。かくあはれなる御住まひなれば、かやうの人もおのづからもの遠からで、ほの見たてまつる御さま、容貌を、いみじうめでたし、と涙落しをりけり。御返り書きたまふ、言の葉、思ひやるべし。
「かく世を離るべき身と、思ひたまへましかば、同じくは慕ひきこえましものを、などなむ。つれづれと、心細きままに、
にも
うきめは刈らで乗らましものを
海人がつむなげきのなかに塩垂れて
いつまで須磨の浦に眺めむ
聞こえさせむことの、いつともはべらぬこそ、尽きせぬ心地しはべれ」
などぞありける。かやうに、いづこにもおぼつかなからず聞こえかはしたまふ。
花散里も、悲しと思しけるままに書き集めたまへる御心、御心見たまふ、をかしきも目なれぬ心地して、いづれもうち見つつ慰めたまへど、もの思ひのもよほしぐさなめり。
「荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ
しげくも露のかかる袖かな」
とあるを、「げに、葎よりほかの後見もなきさまにておはすらむ」と思しやりて、「長雨に築地所々崩れてなむ」と聞きたまへば、京の家司のもとに仰せつかはして、近き国々の御荘の者などもよほさせて、仕うまつるべき由のたまはす。
尚侍の君は、人笑へにいみじう思しくづほるるを、大臣いとかなしうしたまふ君にて、せちに、宮にも内裏にも奏したまひければ、「限りある女御、御息所にもおはせず、公ざまの宮仕へ」と思し直り、また、「かの憎かりしゆゑこそ、いかめしきことも出で来しか」。許されたまひて、参りたまふべきにつけても、なほ心に染みにし方ぞ、あはれにおぼえたまける。
七月になりて参りたまふ。いみじかりし御思ひの名残なれば、人のそしりもしろしめされず、例の、主上につとさぶらはせたまひて、よろづに怨み、かつはあはれに契らせたまふ。
御さま容貌もいとなまめかしうきよらなれど、思ひ出づることのみ多かる心のうちぞ、かたじけなき。御遊びのついでに、
「その人のなきこそ、いとさうざうしけれ。いかにましてさ思ふ人多からむ。何ごとも光なき心地するかな」とのたまはせて、「院の思しのたまはせし御心を違へつるかな。罪得らむかし」
とて、涙ぐませたまふに、え念じたまはず。
「世の中こそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれ、と思ひ知るままに、久しく世にあらむものとなむ、さらに思はぬ。さもなりなむに、いかが思さるべき。近きほどの別れに思ひ落とされむこそ、ねたけれ。
と、いとなつかしき御さまにて、ものをまことにあはれと思し入りてのたまはするにつけて、ほろほろとこぼれ出づれば、
「さりや。いづれに落つるにか」
とのたまはす。
「今まで御子たちのなきこそ、さうざうしけれ。春宮を院ののたまはせしさまに思へど、よからぬことども出で来めれば、心苦しう」
など、世を御心のほかにまつりごちなしたまふ人々のあるに、若き御心の、強きところなきほどにて、いとほしと思したることも多かり。
須磨には、いとど
に、海はすこし遠けれど、行平中納言の、「」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覚まして、四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、になりにけり。琴をすこしかき鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさしたまひて、
「恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は
らむ」
と歌ひたまへるに、人々おどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。
「げに、いかに思ふらむ。我が身ひとつにより、親、兄弟、片時立ち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひあへる」と思すに、いみじくて、「いとかく思ひ沈むさまを、心細しと思ふらむ」と思せば、昼は何くれとうちのたまひ紛らはし、つれづれなるままに、色々の紙を継ぎつつ、手習ひをしたまひ、めづらしきさまなる唐の綾などに、さまざまの絵どもを描きすさびたまへる屏風の面どもなど、いとめでたく見所あり。
人々の語り聞こえし海山のありさまを、遥かに思しやりしを、御目に近くては、げに及ばぬ磯のたたずまひ、描き集めたまへり。
「このころの上手にすめる千枝、常則などを召して、作り絵仕うまつらせばや」
と、心もとながりあへり。なつかしうめでたき御さまに、世のもの思ひ忘れて、近う馴れ仕うまつるをうれしきことにて、四、五人ばかりぞ、つとさぶらひける。
前栽の花、色々咲き乱れ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊に出でたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうきよらなること、所からは、ましてこの世のものと見えたまはず。白き綾のなよよかなる、紫苑色などたてまつりて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れたまへる御さまにて、
「釈迦牟尼仏の弟子」
と名のりて、ゆるるかに読みたまへる、また世に知らず聞こゆ。
沖より舟どもの歌ひののしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。ほのかに、ただ小さき鳥の浮かべると見やらるるも、心細げなるに、にを、うち眺めたまひて、涙こぼるるをかき払ひたまへる御手つき、黒き御数珠に映えたまへる、故郷の女恋しき人々、心みな慰みにけり。
「初雁は恋しき人の列なれや
旅の空飛ぶ声の悲しき」
とのたまへば、良清、
「かきつらね昔のことぞ思ほゆる
雁はその世の友ならねども」
民部大輔、
「心から常世を捨てて鳴く雁を
雲のよそにも思ひけるかな」
前右近将督、
「常世出でて旅の空なる雁がねも
列に遅れぬほどぞ慰む
友まどはしては、いかにはべらまし」
と言ふ。親の常陸になりて、下りしにも誘はれで、参れるなりけり。下には思ひくだくべかめれど、ほこりかにもてなして、つれなきさまにしありく。
月のいとはなやかにさし出でたるに、「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、殿上の御遊び恋しく、「所々眺めたまふらむかし」と思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。
「
と誦じたまへる、例の涙もとどめられず。入道の宮の、「霧や隔つる」とのたまはせしほど、言はむ方なく恋しく、折々のこと思ひ出でたまふに、よよと、泣かれたまふ。
「夜更けはべりぬ」
と聞こゆれど、なほ入りたまはず。
「見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ
月の都は遥かなれども」
その夜、主上のいとなつかしう昔物語などしたまひし御さまの、院に似たてまつりたまへりしも、恋しく思で出できこえたまひて、
「」
と誦じつつ入りたまひぬ。御衣はまことに身を放たず、かたはらに置きたまへり。
「憂しとのみひとへにものは思ほえで
左右にも濡るる袖かな」
そのころ、大弐は上りける。いかめしく類広く、娘がちにて所狭かりければ、北の方は舟にて上る。浦づたひに逍遥しつつ来るに、他よりもおもしろきわたりなれば、心とまるに、「大将かくておはす」と聞けば、あいなう、好いたる若き娘たちは、舟の内さへ恥づかしう、心懸想せらる。まして、五節の君は、綱手引き過ぐるも口惜しきに、琴の声、風につきて遥かに聞こゆるに、所のさま、人の御ほど、物の音の心細さ、取り集め、心ある限りみな泣きにけり。
帥、御消息聞こえたり。
「いと遥かなるほどよりまかり上りては、まづいつしかさぶらひて、都の御物語もとこそ、思ひたまへはべりつれ、思ひの外に、かくておはしましける御宿をまかり過ぎはべる、かたじけなう悲しうもはべるかな。あひ知りてはべる人々、さるべきこれかれ、参で来向ひてあまたはべれば、所狭さを思ひたまへ憚りはべることどもはべりて、えさぶらはぬこと。ことさらに参りはべらむ」
など聞こえたり。子の筑前守ぞ参れる。この殿の、蔵人になし顧みたまひし人なれば、いとも悲し。いみじと思へども、また見る人々のあれば、聞こえを思ひて、しばしもえ立ち止まらず。
「都離れて後、昔親しかりし人々、あひ見ること難うのみなりにたるに、かくわざと立ち寄りものしたること」
とのたまふ。御返りもさやうになむ。
守、泣く泣く帰りて、おはする御ありさま語る。帥よりはじめ、迎への人々、まがまがしう泣き満ちたり。五節は、とかくして聞こえたり。
「琴の音に弾きとめらるる綱手縄
たゆたふ心君知るらめや
好き好きしさも、
と聞こえたり。ほほ笑みて見たまふ、いと恥づかしげなり。
「心ありて引き手の綱のたゆたはば
うち過ぎましや須磨の浦波
思はざりしはや」
とあり。駅の長に句詩取らする人もありけるを、まして、落ちとまりぬべくなむおぼえける。
都には、月日過ぐるままに、帝を初めたてまつりて、恋ひきこゆる折ふし多かり。春宮は、まして、常に思し出でつつ忍びて泣きたまふ。見たてまつる御乳母、まして命婦の君は、いみじうあはれに見たてまつる。
入道の宮は、春宮の御ことをゆゆしうのみ思ししに、大将もかくさすらへたまひぬるを、いみじう思し嘆かる。
御兄弟の親王たち、むつましう聞こえたまひし上達部など、初めつ方はとぶらひきこえたまふなどありき。あはれなる文を作り交はし、それにつけても、世の中にのみめでられたまへば、后の宮聞こしめして、いみじうのたまひけり。
「朝廷の勘事なる人は、心に任せてこの世のあぢはひをだに知ること難うこそあなれ。おもしろき家居して、世の中を誹りもどきて、かの鹿を馬と言ひけむ人のひがめるやうに追従する」
など、悪しきことども聞こえければ、わづらはしとて、消息聞こえたまふ人なし。
二条院の姫君は、ほど経るままに、思し慰む折なし。東の対にさぶらひし人々も、みな渡り参りし初めは、「などかさしもあらむ」と思ひしかど、見たてまつり馴るるままに、なつかしうをかしき御ありさま、まめやかなる御心ばへも、思ひやり深うあはれなれば、まかで散るもなし。なべてならぬ際の人々には、ほの見えなどしたまふ。「そこらのなかにすぐれたる御心ざしもことわりなりけり」と見たてまつる。
かの御住まひには、久しくなるままに、え念じ過ぐすまじうおぼえたまへど、「我が身だにあさましき宿世とおぼゆる住まひに、いかでかは、うち具しては、つきなからむ」さまを思ひ返したまふ。所につけて、よろづのことさま変はり、見たまへ知らぬ下人のうへをも、見たまひ慣らはぬ御心地に、めざましうかたじけなう、みづから思さる。煙のいと近く時々立ち来るを、「これや
ならむ」と思しわたるは、おはします後の山に、柴といふものふすぶるなりけり。めづらかにて、「山賤の庵に焚けるしばしばも
言問ひ来なむ恋ふる里人」
冬になりて雪降り荒れたるころ、空のけしきもことにすごく眺めたまひて、琴を弾きすさびたまひて、良清に歌うたはせ、大輔、横笛吹きて、遊びたまふ。心とどめてあはれなる手など弾きたまへるに、他物の声どもはやめて、涙をのごひあへり。
昔、胡の国に遣しけむ女を思しやりて、「ましていかなりけむ。この世に我が思ひきこゆる人などをさやうに放ちやりたらむこと」など思ふも、あらむことのやうに
「」
と誦じたまふ。
月いと明うさし入りて、はかなき旅の御座所、奥まで隈なし。床の上に夜深き空も見ゆ。入り方の月影、すごく見ゆるに、
「」
と、ひとりごちたまて、
「いづ方の雲路に我もなむ
月の見るらむことも恥づかし」
とたまひて、例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く。
「友千鳥諸声に鳴く暁は
ひとり寝覚の床も頼もし」
また起きたる人もなければ、返す返すひとりごちて臥したまへり。
夜深く御手水参り、などしたまふも、めづらしきことのやうに、めでたうのみおぼえたまへば、え見たてまつり捨てず、家にあからさまにもえ出でざりけり。
明石の浦は、ただはひ渡るほどなれば、良清の朝臣、かの入道の娘を思ひ出でて、文など遣りけれど、返り事もせず、父入道ぞ、
「聞こゆべきことなむ。あからさまに対面もがな」
と言ひけれど、「うけひかざらむものゆゑ、行きかかりて、むなしく帰らむ後手もをこなるべし」と、屈じいたうて行かず。
世に知らず心高く思へるに、国の内は
「桐壷の更衣の御腹の、源氏の光る君こそ、朝廷の御かしこまりにて、須磨の浦にものしたまふなれ。吾子の御宿世にて、おぼえぬことのあるなり。いかでかかるついでに、この君にをたてまつらむ」
と言ふ。母、
「あな、かたはや。京の人の語るを聞けば、やむごとなき御妻ども、いと多く持ちたまひて、そのあまり、忍び忍び帝の御妻さへあやまちたまひて、かくも騒がれたまふなる人は、まさにかくあやしき山賤を、心とどめたまひてむや」
と言ふ。腹立ちて、
「え知りたまはじ。思ふ心ことなり。さる心をしたまへ。ついでして、ここにもおはしまさせむ」
と、心をやりて言ふもかたくなしく見ゆ。まばゆきまでしつらひかしづきけり。母君、
「などか、めでたくとも、ものの初めに、罪に当たりて流されておはしたらむ人をしも思ひかけむ。さても心をとどめたまふべくはこそあらめ、たはぶれにてもあるまじきことなり」
と言ふを、いといたくつぶやく。
「罪に当たることは、唐土にも我が朝廷にも、かく世にすぐれ、何ごとも人にことになりぬる人の、かならずあることなり。いかにものしたまふ君ぞ。故母御息所は、おのが叔父にものしたまひし按察使大納言の御娘なり。いとかうざくなる名をとりて、宮仕へに出だしたまへりしに、国王すぐれて時めかしたまふこと、並びなかりけるほどに、人の嫉み重くて亡せたまひにしかど、この君のとまりたまへる、いとめでたしかし。女は心高くつかふべきものなり。おのれ、かかる田舎人なりとて、思し捨てじ」
など言ひゐたり。
この娘、すぐれたる容貌ならねど、なつかしうあてはかに、心ばせあるさまなどぞ、げに、やむごとなき人に劣るまじかりける。身のありさまを、口惜しきものに思ひ知りて、
「高き人は、我を何の数にも思さじ。ほどにつけたる世をばさらに見じ。命長くて、思ふ人々に後れなば、尼にもなりなむ、海の底にも入りなむ」
などぞ思ひける。
父君、所狭く思ひかしづきて、年に二たび、住吉に詣でさせけり。神の御しるしをぞ、人知れず頼み思ひける。
須磨には、年返りて、日長くつれづれなるに、植ゑし若木の桜ほのかに咲き初めて、空のけしきうららかなるに、よろづのこと思し出でられて、うち泣きたまふ折多かり。
二月二十日あまり、去にし年、京を別れし時、心苦しかりし人々の御ありさまなど、いと恋しく、「南殿の桜、盛りになりぬらむ。一年の花の宴に、院の御けしき、内裏の主上のいときよらになまめいて、わが作れる句を誦じたまひし」も、思ひ出できこえたまふ。
「いつとなく大宮人の恋しきに
いとつれづれなるに、大殿の三位中将は、今は宰相になりて、人柄のいとよければ、時世のおぼえ重くてものしたまへど、世の中あはれにあぢきなく、ものの折ごとに恋しくおぼえたまへば、「ことの聞こえありて罪に当たるともいかがはせむ」と思しなして、にはかに参うでたまふ。
うち見るより、めづらしううれしきにも、ぞこぼれける。
住まひたまへるさま、言はむかたなく唐めいたり。所のさま、絵に描きたらむやうなるに、、おろそかなるものから、めづらかにをかし。
山賤めきて、ゆるし色の黄がちなるに、青鈍の狩衣、指貫、うちやつれて、ことさらに田舎びもてなしたまへるしも、いみじう、見るに笑まれてきよらなり。
取り使ひたまへる調度も、かりそめにしなして、御座所もあらはに見入れらる。碁、双六盤、調度、弾棊の具など、田舎わざにしなして、念誦の具、行なひ勤めたまひけりと見えたり。もの参れるなど、ことさら所につけ、興ありてしなしたり。
海人ども漁りして、貝つ物持て、召し出でて御覧ず。浦に年経るさまなど問はせたまふに、さまざま安げなき身の愁へを申す。そこはかとなくさへづるも、「心の行方は同じこと。何か異なる」と、あはれに見たまふ。御衣どもなどかづけさせたまふを、生けるかひありと思へり。御馬ども近う立てて、見やりなる倉か何ぞなる稲取り出でて飼ふなど、めづらしう見たまふ。
「」すこし歌ひて、月ごろの御物語、泣きみ笑ひみ、
「若君の何とも世を思さでものしたまふ悲しさを、大臣の明け暮れにつけて思し嘆く」
など語りたまふに、堪へがたく思したり。尽きすべくもあらねば、なかなか片端もえまねばず。
夜もすがらまどろまず、文作り明かしたまふ。さ言ひながらも、聞こえをつつみて、急ぎ帰りたまふ。いとなかなかなり。御土器参りて、
「」
と、諸声に誦じたまふ。御供の人も涙を流す。、はつかなる別れ惜しむべかめり。
朝ぼらけの空に雁連れて渡る。主人の君、
「故郷をいづれの春か行きて見む
うらやましきは帰る雁がね」
宰相、さらに立ち出でむ心地せで、
「あかなくに雁の常世を立ち別れ
花の都に道や惑はむ」
さるべき都の苞など、由あるさまにてあり。主人の君、かくかたじけなき御送りにとて、黒駒たてまつりたまふ。
「ゆゆしう思されぬべけれど、べければなむ」
と申したまふ。世にありがたげなる御馬のさまなり。
「形見に偲びたまへ」
とて、いみじき笛の名ありけるなどばかり、人咎めつべきことは、かたみにえしたまはず。
日やうやうさし上がりて、心あわたたしければ、顧みのみしつつ出でたまふを、見送りたまふけしき、いとなかなかなり。
「いつまた対面は」
と申したまふに、主人、
「雲近く飛び交ふ鶴も空に見よ
我は春日の曇りなき身ぞ
かつは頼まれながら、かくなりぬる人、昔のかしこき人だに、はかばかしう世にまたまじらふこと難くはべりければ、何か、都のさかひをまた見むとなむ思ひはべらぬ」
などのたまふ。宰相、
「たづかなき雲居にひとり音をぞ鳴く
翼並べし友を恋ひつつ
かたじけなく馴れきこえはべりて、思ひたまへらるる折多く」
など、しめやかにもあらで帰りたまひぬる名残、いとど悲しう眺め暮らしたまふ。
弥生の朔日に出で来たる巳の日、
「今日なむ、かく思すことある人は、御禊したまふべき」
と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓へせさせたまふ。舟にことことしき人形乗せて流すを見たまふに、よそへられて、
「知らざりし大海の原に流れ来て
ひとかたにやはものは悲しき」
とて、ゐたまへる御さま、さる晴れに出でて、言ふよしなく見えたまふ。
海の面うらうらと凪ぎわたりて、行方も知らぬに、来し方行く先思し続けられて、
「八百よろづ神もあはれと思ふらむ
犯せる罪のそれとなければ」
とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかき暮れぬ。御祓へもし果てず、立ち騒ぎたり。
「かかる目は見ずもあるかな」
「風などは吹くも、けしきづきてこそあれ。あさましうめづらかなり」
と惑ふに、なほ止まず鳴りみちて、雨の脚当たる所、徹りぬべく、はらめき落つ。「かくて世は尽きぬるにや」と、心細く思ひ惑ふに、君は、のどやかに経うち誦じておはす。
暮れぬれば、雷すこし鳴り止みて、風ぞ、夜も吹く。
「多く立てつる願の力なるべし」
「今しばし、かくあらば、波に引かれて入りぬべかりけり」
「高潮といふものになむ、とりあへず人そこなはるるとは聞けど、いと、かかることは、まだ知らず」
と言ひあへり。
暁方、みなうち休みたり。いささか寝入りたまへれば、そのさまとも見えぬ人来て、
「など、宮より召しあるには参りたまはぬ」
とて、たどりありくと見るに、おどろきて、「さは、海の中の龍王の、いといたうものめでするものにて、見入れたるなりけり」と思すに、いとものむつかしう、この住まひ堪へがたく思しなりぬ。
出典
校訂
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--?
須磨 光る源氏の26歳春3月下旬から27歳春3月上巳日まで無位無官時代の都と須磨の物語 源氏物語 (Genji-monogatari) | ||