University of Virginia Library

第五十九段

大事を思ひたゝん人は、去りがたく、心にかゝらん事の本意を遂げずして、さながら 捨つべきなり。「しばし此の事はてて」、「おなじくはかの事沙汰しおきて」、「し かじかの事、人の嘲やあらん、行末難なくしたゝめまうけて」、「年來もあればこそ あれ、其の事待たん、ほどあらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、えさ らぬ事のみいとゞ重なりて、事の盡くる限もなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほ やう人を見るに、少し心あるきはは、皆此のあらましにてぞ一期は過ぐめる。

ちかき火などに逃ぐる人は、しばしとやいふ。身を助けんとすれば、恥をも顧みず、 財をも捨てて逃れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の來る事は、水火のせむ るよりも速に、逃れがたきものを、其の時、老いたる親、幼き子、君の恩、人の情、 捨てがたしとて捨てざらんや。