University of Virginia Library

第四十一段

五月五日、賀茂のくらべ馬を見侍りしに、車の前に雜人立ちへだてて見えざりしかば、 各おりて埒の際に寄りたれど、殊に人多く立ちこみて、分け入りぬべきやうもなし。 かゝる折に、むかひなるあふちの木に、法師の登りて、木のまたについゐて物見るあ り。とりつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目をさます事度々なり。これを 見る人、あざけりあざみて、「世のしれものかな。かく危き枝の上にて、やすき心あ りて睡るらんよ」といふに、我が心にふと思ひしまゝに、「我等が生死の到來、只今 にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮らす、愚なる事は、なほまさりたるもの を」といひたれば、前なる人ども、「誠にさにこそ候ひけれ。尤もおろかに候」とい ひて、皆後を見返りて、「こゝへ入らせ給へ」とて、所をさりてよび入れ侍りにき。

かほどのことわり、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの思ひかけぬ心地して、 胸に當りけるにや。人木石にあらねば、時にとりて物に感ずる事なきにあらず。