University of Virginia Library

第二百四十一段

望月の圓かなる事は、暫くも住せず、やがて缺けぬ。心とゞめぬ人は、一夜の中に、 さまでかはるさまも見えぬにやあらん。病の重るも、住する隙なくして、死期既に近 し。されども、いまだ病急ならず、死におもむかざる程は、常住平生の念に習ひて、 生の中に多くの事を成じて後、閑かに道を修せんと思ふほどに、病をうけて死門に臨 む時、所願一事も成ぜず、いふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、此の度若したちな ほりて命を全くせば、夜を日につぎて、此の事彼の事怠らず成じてんと、願ひを起す らめど、やがて重りぬれば、我にもあらず、取り亂して果てぬ。此のたぐひのみこそ あらめ。此の事、まづ人々いそぎ心におくべし。

所願を成じて後、暇ありて道にむかはんとせば、所願盡くべからず。如幻の生の中に、 何事をか成さん。すべて所願皆妄想なり。所願心にきたらば、妄信迷亂すと知りて、 一事をも爲すべからず。直に萬事を放下して道にむかふ時、さはりなく、所作なくて、 心身ながくしづかなり。