University of Virginia Library

第百六十七段

一道に携はる人、あらぬ道のむしろにのぞみて、「あはれ我が道ならましかば、かく よそに見侍らじものを」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、よにわろく覺ゆ るなり。知らぬ道の羨ましく覺えば、「あなうらやまし。などかならはざりけん」と いひてありなん。我が智をとり出でて人に爭ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あ るものの牙をかみ出だす類なり。

人としては、善に誇らず、物と爭はざるを徳とす。他に勝ることのあるは、大き なる失なり。品の高さにても、才藝の勝れたるにても、先祖の譽にても、人に勝れり と思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくのとがあり。 つゝしみて是を忘るべし。をこにも見え、人にもいひ消たれ、禍をも招くはたゞこの 慢心なり。一道にも誠に長じぬる人は、みづから明かに其の非を知る故に、志常に滿 たずして、終に物に伐る事なし。