University of Virginia Library

第百四十二段

心なしと見ゆる者も、

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よき一言はいふものなり。
ある荒 夷の恐しげなるが、かたへにあひて「御子はおはすや」と問ひしに、「ひとりももち 侍らず」と答へしかば、「さては、物のあはれはしり給はじ。情なき御心にぞものし 給ふらんと、いとおそろし。子故にこそ、萬のあはれは思ひ知らるれ」といひたりし、 さもありぬべき事なり。恩愛の道ならでは、かゝるものの心に慈悲ありなんや。孝養 の心なき者も、子持ちてこそ親の志はおもひ知るなれ。

世を捨てたる人の、萬にするすみなるが、なべてほだし多かる人の、萬にへつら ひ、望深きを見て、無下に思ひ腐すは僻事なり。其の人の心になりて思へば、誠に悲 しからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、 盗人をいましめ、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の饑ゑず寒からぬやうに、世をば 行はまほしきなり。人恒の産なき時は恒の心なし。人きはまりて盗みす。世をさまら ずして凍餒の苦しみあらば、とがの者絶ゆべからず。人を苦しめ法をおかさしめて、 それを罪なはん事、不便のわざなり。

さて、いかゞして人を惠むべきとならば、上のおごり費す所をやめ、民を撫で、 農をすゝめば、下に利あらん事疑ひ有るべからず。衣食尋常なるうへに僻事せん人を ぞ、まことの盗人とはいふべき。

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NKBT reads よき一言いふものなり。.