第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
二の二
秋の夕日 天安川 ( あまやすがわ ) に流れて、川に臨める 某亭 ( なにがしてい ) の障子を 金色 ( こんじき ) に染めぬ。二階は貴衆両院議員の有志が懇親会とやら抜けるほどの騒ぎに引きかえて、下の小座敷は 婢 ( おんな ) も寄せずただ 二人 ( ふたり ) 話しもて 杯 ( さかずき ) をあぐるは山木とかの田崎と呼ばれたる男なり。
この田崎は、武男が父の代より執事の役を務めて、今もほど近きわが 家 ( や ) より日々川島家に通いては、何くれと 忠実 ( まめやか ) に世話をなしつ。如才なく切って回す力量なきかわりには、主家の収入をぬすみてわがふところを肥やす気づかいなきがこの男の取り柄と、武男が父は常に言いぬ。されば川島 未亡人 ( いんきょ ) にも武男にも浅からぬ信任を受けて、今度も 未亡人 ( いんきょ ) の命によりてはるばる佐世保に主人の負傷をば見舞いしなり。
山木は持ったる杯を下に置き、額のあたりをなでながら「実は何ですて、わたしも 帰京 ( かえり ) はしても一日泊まりですぐとまた 広島 ( ここ ) に引き返すというようなわけで、そんな事も耳に入らなかッたですが。それでは何ですね、あれから浪子さんもよほどわるかッたのですね。なるほどどうもちっとひどかったね。しかしともかくも川島家のためだから仕方がないといったようなもので。はあそうですか、近ごろはまた少しはいい方で、なるほど、逗子に保養に行っていなさるかね。しかしあの病気ばかりはいくらよく見えてもどうせ死病だて。ところで武男――いや若旦那はまだ 怒 ( おこ ) っていなさるかね」
椀 ( わん ) の 蓋 ( ふた ) をとれば 松茸 ( まつだけ ) の香の立ち上りて 鯛 ( たい ) の 脂 ( あぶら ) の 珠 ( たま ) と浮かめるをうまげに吸いつつ、田崎は 髯 ( ひげ ) 押しぬぐいて
「さあ、そこですがな。それはもうもとをいえば何もお家のためでしかたもないといったものの、なあ山木 君 ( さん ) 、旦那の留守に何も相談なしにやっておしまいなさるというは、御隠居も少し御気随が過ぎたというものでな。実はわたしも旦那のお帰りまでお待ちなさるようにと申し上げて見たのじゃが、あのお気質で、いったんこうと言い出しなすった事は 否応 ( いやおう ) なしにやり遂げるお方だから、とうとうあの通りになったンで。これは旦那がおもしろく思いなさらぬももっともじゃとわたしは思うくらい。それに困った人はあの 千々岩 ( ちぢわ ) さん――たしかもう 清国 ( あっち ) に 渡 ( い ) ったように聞いたですが」
山木はじろりとあなたの顔を見つつ「千々岩! はああの男はこのあいだ 出征 ( でかけ ) たが、なまじっか顔を知られた報いで、ここに 滞在中 ( いるうち ) もたびたび無心にやって来て困ったよ。 顔 ( つら ) の皮の厚い男でね。 戦争 ( いくさ ) で死ぬかもしれんから 香奠 ( こうでん ) と思って 餞別 ( せんべつ ) をくれろ、その代わり 生命 ( いのち ) があったらきっと 金鵄 ( きんし ) 勲章をとって来るなんかいって、百両ばかり踏んだくって行ったて。ははははは、ところで武男 君 ( さん ) は 負傷 ( けが ) がよくなったら、ひとまず 帰京 ( かえり ) なさるかね」
「さあ、御自身はよくなり次第すぐまた戦地に出かけるつもりでいなさるようですがね」
「相変わらず元気な事を言いなさる。が、田崎 君 ( さん ) 、一度は 帰京 ( かえ ) って御隠居と仲直りをなさらんといけないじゃあるまいか。どれほど気に入っていなすったか知らんが、浪子さんといえばもはや縁の切れたもので、その上 健康 ( たっしゃ ) な 方 ( かた ) でもあることか、死病にとりつかれている人を、まさかあらためて呼び取りなさるという事もできまいし、まあ過ぎた事は仕方がないとして、早く親子仲直りをしなさらんじゃなるまい、とわたしは思うが。なあ、田崎 君 ( さん ) 」
田崎は打ち案じ顔に「旦那はあの通り 正直 ( まっすぐ ) なお方だから、よし御隠居の方がわるいにもしろ、自分の仕打ちもよくなかったとそう思っていなさる様子でね。それに今度わたしがお見舞に行ったンでまあ御隠居のお心も通ったというものだから、仲直りも何もありやしないが、しかし――」
「 戦争中 ( いくささなか ) の縁談もおかしいが、とにかく早く奥様を 迎 ( よ ) びなさるのだね。どうです、旦那は御隠居と仲直りはしても、やっぱり浪子さんは忘れなさるまいか。若い者は最初のうちはよく強情を張るが、しかし新しい人が来て見るとやはりかわゆくなるものでね」
「いやそのことは御隠居も考えておいでなさるようだが、しかし――」
「むずかしかろうというのかね」
「さあ、旦那があんな 一途 ( いちず ) な 方 ( かた ) だから、そこはどうとも」
「しかしお家のため、旦那のためだから、なあ田崎 君 ( さん ) 」
話はしばし途切れつ。二階には演説や終わりつらん、拍手の音盛んに聞こゆ。障子の夕日やや薄れて、ラッパの 響 ( おと ) 耳に冷ややかなり。
山木は杯を清めて、あらためて田崎にさしつつ
「時に田崎 君 ( さん ) 、娘がお世話になっているが、困ったやつで、どうです、御隠居のお気には入りますまいな」
浪子が去られしより、一月あまりたちて、山木は親しく川島 未亡人 ( いんきょ ) の薫陶を受けさすべく行儀見習いの名をもって、娘お 豊 ( とよ ) を川島家に入れ置きしなりき。
田崎はほほえみぬ。何か思い 出 ( い ) でたるなるべし。
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