オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||
十八
レエスも済み、 為 ( な ) すべきことを失ったようなぼくは、あなたのことを、やっと具体的に考える機会に 恵 ( めぐ ) まれた訳ですが、ぼくの心の 卑 ( いや ) しさからか、遠すぎるあなたの代りは、身近くのあてもない 享楽 ( きょうらく ) を求めて、 彷徨 ( さまよい ) あるき、なにかの幸福を 手掴 ( てづか ) みにしたい 焦慮 ( しょうりょ ) に、 身悶 ( みもだ ) えしながら、 遂々 ( とうとう ) 帰国の日まで過してしまいました。
帰国するまでに、約二週間はありましたから、その間、 羅府 ( ロスアンゼルス ) のブロオドウェイを、 或 ( ある ) いは、ロングビイチの下町を、 又 ( また ) はマウントロオの 養狐場 ( ようこじょう ) を、ただ訳もなく遊び歩いたのも、ひたすら手近な享楽で、眼の前に 蓋 ( ふた ) をしている気持でした。
夜、ロスアンゼルスからの帰りに、自動車を 停 ( と ) めさせ、 皆 ( みんな ) が 一斉 ( いっせい ) に降りたって、小便をしたとき、故国日本を 想 ( おも ) いだすような、 蛙 ( かえる ) の鳴声をきいたことも、 仄 ( ほの ) かに 憶 ( おぼ ) えています。或いは、海水浴場の近くで、六十 歳 ( さい ) 前後の老人夫婦から、十五歳位の少年少女のカップルに 至 ( いた ) るまで、ダンスを 愉 ( たの ) しんでいるホオルを 覗 ( のぞ ) いたことも、ダウンタアオンで五 仙 ( セント ) を 払 ( はら ) い、メリイゴオランドの木馬に 跨 ( また ) がったことも、ボオルを黒ん 坊 ( ニグロ )
にぶつけて、 亜米利加 ( アメリカ ) 美人を落したことも――。その黒ん坊が、意外にも日本人だったのです。 虎 ( とら ) さんが、ボオルを 握 ( にぎ ) って、モオションをつけると、いきなり黒ん坊が 鮮 ( あざ ) やかな日本語で、「 旦那 ( だんな ) はん、やんわり、 頼 ( たの ) みまっせ」と言い、ぼく達が、 驚 ( おどろ ) き 呆 ( あき ) れていると、「顔は黒う 塗 ( ぬ ) ってますが、心は同じ日本人でさア」その言葉の終らないうちに、虎さんの直球が、黒ん坊の額にはずみ、彼が 引繰 ( ひっく ) り返ると、そのはずみに 仕掛 ( しかけ ) が破れ、右上の 鳥籠 ( とりかご ) に 腰 ( こし ) かけていた亜米利加美人がばちゃんと、下のプウルに落ちこみました。
さては、射的場で、 兎 ( うさぎ ) を 撃 ( う ) ったことも、十仙出して本物のインディアンと 腕角力 ( うでずもう ) をしたことも、マジック・タアオンの鏡の部屋で――。
そうだ、マジック・タアオンで、起ったあなたについての 幻想 ( げんそう ) を書いてみましょう。
金十五仙なりを払って、 魔術 ( まじゅつ ) の街の入口の真暗い部屋に入り、その部屋をぬけると、長い 廊下 ( ろうか ) がありました。やはり、手探りしながら、歩く暗さで、 暫 ( しばら ) くゆくと、 突然 ( とつぜん ) 、足下の 床 ( ゆか ) が左右に 揺 ( ゆ ) れだし、しっかり 踏 ( ふ ) みしめて歩かぬと、転げそうでした。廊下の行詰りになった 壁 ( かべ ) をおすと、 薄暗 ( うすぐら ) い 寝室 ( しんしつ ) で、ランプがついていて、マントルピイスの上が白く光るので、近よってみると、人骨がばらばらにおいてあるのでした。子供だましみたいなので、 微笑 ( ほほえ ) みながら、次の部屋へのドアを開けると、戸口に一人のギャングが立ちはだかり、ピストルをつきつけています。こちらは 可笑 ( おか ) しくなってきて、ニヤニヤすると、向うも、毛色の変った、ジャップの少年なので、 気抜 ( きぬ ) けしたのか、ニヤッと笑いかえして 引込 ( ひっこ ) みました。
次から、次へ、仕組んであるマジックも、ことさら 故意 ( わざ ) とらしくみえ、「つまんないの」と 呟 ( つぶや ) きながら、興味なく歩いている、ぼくの 瞳 ( ひとみ ) に、ふと映ったのは、薄暗い 片隅 ( かたすみ ) でなにもかも忘れ、ぴったり 抱擁 ( ほうよう ) しあっている、うら若い男女でした。こればかりは実物で、見ていてもこちらがへんになるくらい 熱烈 ( ねつれつ ) なながい 接吻 ( せっぷん ) をしています。これには、いちばん 駭 ( おどろ ) いて、部屋の 端 ( はし ) にあった階段を、むちゃくちゃに 駆 ( か ) けあがりました。二三十段も駆けあがり、次の一足を踏みだそうとすると、足に 触 ( ふ ) れるものがありません。階段だけで、二階の床がないのです。 慌 ( あわ ) てていたこととて、思わず眼下の暗黒のなかに、くらくらっと 陥 ( お ) ちかけたとき、足もとの階段が、独りでに、すうっと降りだしました。いっそ、地の底までもと思ったのに、着いたところは、又さっきの部屋で、男女二人は、まだ 抱 ( だ ) きあっていて、余計、 堪 ( たま ) らなく、飛びだそうとした 刹那 ( せつな ) 、ふいに、その若い二人が、 夢 ( ゆめ ) の中のあなたとぼくのように、 錯覚 ( さっかく ) され、もう一度、振りかえり、見定めるため近づいてみようかとさえ思ったことでした。
日本の選手一同、車を連ねて 聖林 ( ハリウッド ) 見物に行ったのもその 頃 ( ころ ) でした。
車は全部、在留 邦人 ( ほうじん ) の方々の 御好意 ( ごこうい ) で、提供して頂き、スマアトな中級車から、 豪奢 ( ごうしゃ ) な高級車ばかり。ぼくの乗せて頂いたのも、 華奢 ( きゃしゃ ) な 白塗 ( しろぬ ) りのリンカン・ジェフアで、車内に、ラジオも、シガレット・ライタアも 装備 ( そうび ) してある 豪勢 ( ごうせい ) さでした。
途中 ( とちゅう ) 、サンキスト・オレンジのたわわに実る陽光 眩 ( まば ) ゆい南カルホルニアの平野を 疾駆 ( しっく ) 、処々に働いている日本人農夫の 襤褸 ( ぼろ ) ながらも、平和に、尊い姿を 拝見 ( はいけん ) しました。
有名なパサデナの 邸宅街 ( ていたくがい ) を通り、 御殿 ( ごてん ) のような建物に、 貧富 ( ひんぷ ) の 懸隔 ( けんかく ) につき、考えさせられることも多かった。
聖林 ( ハリウッド ) に入ると、フォオド・シボレエを 自動車 ( カア ) ではなく 機械 ( マシン ) だと称する国だけあって、ぼく達の車も 見劣 ( みおと ) りするような 瀟洒 ( しょうしゃ ) な自動車が 一杯 ( いっぱい ) で、建物も 白堊 ( はくあ ) や銀色に塗られたのが多く、光り 耀 ( かがや ) くような街でした。ぼく達はフォックス 撮影所 ( スタディオ ) の前で降り、所内の見物からはじめました。セットに、山あり海あり、冬景色あり夏景色あり、汽船あり、汽車あり、 支那街 ( シナがい ) あり水の都ナポリありで、ぼくは歩いている中、なにか、サンボリストの詩みたいなものを感じ、ひどく興奮しました。
昼食を、所長さんの御招待で頂き、サアビスに 踊 ( おど ) ってくれたのが、当時のスタア、ロジタ・モレノ 嬢 ( じょう ) でした。まるで、人形のような 端正 ( たんせい ) さと、 牡鹿 ( めじか ) のような 溌刺 ( はつらつ ) さで、現実世界にこんな造り物のような、 艶 ( あで ) やかに 綺麗 ( きれい ) な女のひとも住むものかと、ぼくは 呆然 ( ぼうぜん ) 、口をあけて見ていました。最後に、ステップ、ウインク、投げキッスと、 三拍子 ( さんびょうし ) 、続けてやられたとき、その 濡 ( ぬ ) れたような 漆黒 ( しっこく ) の瞳が、 瞬間 ( しゅんかん ) 、 妖 ( あや ) しくうるんで光るばかりに 眩 ( まば ) ゆく、ぼくは前後不覚の 酔 ( よ ) い心地でした。
そのとき、やはり、心持ち 唇 ( くち ) をあけてみていた、あなたの小さい黄色い顔が、ちらっとぼくの 網膜 ( もうまく ) を 掠 ( かす ) めました。
帰りには、チャイニイズ・グロオマン劇場で、オニイルの奇妙な 幕間狂言 ( ストレンジ・インタアルウド )
という映画の 封切 ( ふうきり ) に招待されました。その時はもう、接吻の長さだけ気になる、ぼくは、 痴 ( うつ ) けさでした。 オリンポスの果実
田中英光 (Orinposu no kajitsu) | ||