University of Virginia Library

   第四

 物の哀れも是れよりぞ知る、戀ほど世に怪しきものはあらじ。稽古の窓に向つて 三諦止觀 ( さんたいしくわん ) の月を樂める身も、一 ( てう ) 折りかへす 花染 ( はなぞめ ) ( ) 幾年 ( いくとせ ) 行業 ( かうげふ ) を捨てし人、 百夜 ( もゝよ ) ( しぢ ) 端書 ( はしがき ) につれなき君を怨みわびて、亂れ ( くるし ) 忍草 ( しのぶぐさ ) の露と消えにし人、さては相見ての後のたゞちの短きに、戀ひ悲みし永の月日を恨みて三 ( ) ( ぱつ ) ( あだ ) なる ( なさけ ) を觀ぜし人、 ( おも ) へば ( いづ ) れか戀の ( やつこ ) に非ざるべき。戀や、 秋萩 ( あきはぎ ) 葉末 ( はずゑ ) に置ける露のごと、 ( あだ ) なれども、中に寫せる月影は ( まどか ) なる望とも見られぬべく、今の 憂身 ( うきみ ) をつらしと ( かこ ) てども、戀せぬ前の 越方 ( こしかた ) は何を樂みに暮らしけんと思へば、涙は此身の命なりけり。 夕旦 ( ゆふべあした ) の鐘の聲も 餘所 ( よそ ) ならぬ哀れに響く 今日 ( けふ ) は、過ぎし 春秋 ( はるあき ) 今更 ( いまさら ) 心なきに驚かれ、鳥の聲、蟲の ( ) にも心 ( なに ) となう動きて、我にもあらで ( なさけ ) の外に行末もなし。戀せる今を ( まよひ ) と觀れば、悟れる昔の慕ふべくも思はれず、悟れる今を戀と觀れば、昔の迷こそ中々に樂しけれ。戀ほど世に ( いぶか ) しきものはあらじ。そも人、何を望み何を 目的 ( めあて ) に渡りぐるしき 戀路 ( こひぢ ) を辿るぞ。我も自ら知らず、只々朧げながら夢と ( うつゝ ) の境を歩む身に、ましてや何れを戀の始終と思ひ分たんや。そも戀てふもの、 ( いづ ) こより來り何こをさして去る、人の心の隈は ( うつ ) すべき鏡なければ何れ思案の外なんめり。

 いかなれば齋藤瀧口、 今更 ( いまさら ) 武骨者の銘打つたる 鐵卷 ( くろがね ) をよそにし、負ふにやさしき横笛の名に ( ) める。いかなれば時頼、常にもあらで夜を ( をか ) して中宮の 御所 ( ごしよ ) には忍べる。吁々いつしか戀の淵に落ちけるなり。

 西八條の花見の席に、中宮の曹司横笛を一目見て時頼は、世には斯かる 氣高 ( けだか ) き美しき 女子 ( をなご ) も有るもの哉と心 ( ひそか ) に駭きしが、雲を ( とゞ ) め雲を

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( めぐら ) ( たへ ) なる舞の 手振 ( てぶり ) を見もて行くうち、 胸怪 ( むねあや ) しう轟き、心何となく安からざる如く、二十三年の今まで絶えて ( おぼえ ) なき異樣の感情 ( くも ) の如く湧き出でて、例へば ( なぎさ ) を閉ぢし池の氷の 春風 ( はるかぜ ) ( ) けたらんが如く、若しくは滿身の力をはりつめし 手足 ( てあし ) 節々 ( ふし/″\ ) 一時に ( ゆる ) みしが如く、茫然として行衞も知らぬ 通路 ( かよひぢ ) を我ながら踏み迷へる思して、果は ( まひ ) 終り ( がく ) 收まりしにも心付かず、軈て席を 退 ( まか ) り出でて何處ともなく出で行きしが、あはれ横笛とは時頼其夜初めて覺えし女子の名なりけり。

  日來 ( ひごろ ) 快濶にして物に鬱する事などの夢にもなかりし時頼の氣風 何時 ( いつ ) しか變りて、 ( うれ ) はしげに思ひ ( わづら ) ふ朝夕の樣 ( ただ ) ならず、 紅色 ( あかみ ) を帶びしつや/\しき頬の色少しく蒼ざめて、常にも似で物言ふ事も稀になり、 太息 ( といき ) の數のみぞ唯ゝ増さりける。果は 濡羽 ( ぬれは ) 厚鬢 ( あつびん ) 水櫛當 ( みづぐしあて ) て、 筈長 ( はずなが ) 大束 ( おほたぶさ ) に今樣の 大紋 ( だいもん ) 布衣 ( ほい ) は平生の氣象に似もやらずと、時頼を知れる人、訝しく思はぬはなかりけり。