University of Virginia Library

第三十二

 早ほの/″\と明けなんず春の ( あかつき ) 、峰の嶺、空の雲ならで、まだ照り染めぬ旭影。霞に ( とざ ) せる八つの谷間に ( よる ) 尚ほ 彷徨 ( さまよ ) ひて、梢を鳴らす清嵐に鳥の聲尚ほ眠れるが如し。 遠近 ( をちこち ) の僧院庵室に漸く聞ゆる經の聲、鈴の響、浮世離れし物音に曉の靜けさ 一入 ( ひとしほ ) 深し。まことや帝城を離れて二百里、郷里を去りて 無人生 ( むにんしやう ) 、同じ土ながら、さながら世を隔てたる高野山、眞言祕密の靈跡に感應の心も 轉々 ( うたゝ ) 澄みぬべし。

 竹苑椒房の音に變り、 ( やぶ ) ( くづ ) れたる僧庵に如何なる夜をや過し給へる、露深き枕邊に夕の夢を殘し置きて起出で給へる維盛卿。重景も共に立ち出でて、主や何處と打見やれば、此方の一間に瀧口入道、 終夜 ( よもすがら ) 思ひ煩ひて顏の色 ( たゞ ) ならず、肅然として佛壇に向ひ、眼を閉ぢて祈念の體、心細くも立ち上る一縷の香煙に身を包ませて、 爪繰 ( つまぐ ) る珠數の音 ( ) えたり。佛壇の正面には ( ) 内府の靈位を安置しあるに、維盛卿も重景も、是れはとばかりに拜伏し、共に祈念を ( ) らしける。

 軈て 看經 ( かんきん ) 終りて後、維盛卿は瀧口に向ひ、『扨も殊勝の事を見るものよ、今廣き日の本に、淨蓮大禪門の御靈位を設けて、朝夕の

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※向 ( ゑかう ) をなさんもの、瀧口、 ( そち ) ならで外に其人ありとも覺えざるぞ。思へば先君の被官内人、幾百人と其の數を知らざりしが、世の盛衰に ( ) れて、多くは身を浮草の西東、 ( もと ) の主人に弓引くものさへある中に、世を捨ててさへ昔を忘れぬ爾が殊勝さよ。其れには反して、世に落人の見る影もなき今の我身、草葉の蔭より先君の嘸かし腑甲斐なき者と思ひ給はん。世に望みなき維盛が心にかゝるは此事一つ』。言ひつゝ涙を拭ひ給ふ。

 瀧口は默然として居たりしが、暫くありて ( きつ ) ( おもて ) を擧げ、襟を正して維盛が前に恭しく兩手を突き、『 ( ) ほど先君の事 御心 ( おんこゝろ ) に懸けさせ給ふ程ならば、何とて斯かる落人にはならせ給ひしぞ』。意外の一言に維盛卿は膝押進めて、『ナ何と言ふ』。『御驚きは ( ) ることながら、御身の爲め、又御一門の爲め、御恨みの程を身一つに忍びて瀧口が申上ぐる事、一通り御聞きあれ。そも君は正しく平家の嫡流にてお ( ) さずや。今や御一門の 方々 ( かた/″\ ) 屋島の浦に在りて、生死を一にし、存亡を共にして、囘復の事叶はぬまでも、押寄する源氏に最後の一矢を酬いんと日夜肝膽を碎かるゝ事申すも中々の事に候へ。そも壽永の初め、 ( ) す敵の 旗影 ( はたかげ ) も見で都を落ちさせ給ひしさへ平家末代の恥辱なるに、せめて此上は、一門の將士、 御座船 ( ござぶね ) 枕にして屍を西海の波に浮ベてこそ、 天晴 ( あつぱれ ) 名門 ( めいもん ) の最後、潔しとこそ申すべけれ。然るを君には宗族故舊を波濤の上に振捨てて、妻子の情に迷はせられ、斯く見苦しき落人に成らせ給ひしぞ心外千萬なる。明日にも屋島沒落の曉に、御一門殘らず雄々しき最後を ( ) げ給ひけん時、君一人は如何にならせ給ふ御心に候や。若し又關東の手に捕はれ給ふ事のあらんには、君こそは妻子の愛に一門の義を捨てて、死すべき命を卑怯にも遁れ給ひしと世の口々に嘲られて、京鎌倉に立つ浮名をば君には風やいづこと聞き給はんずる御心に候や。申すも恐れある事ながら、御父重盛卿は智仁勇の三徳を ( そな ) へられし古今の 明器 ( めいき ) 。敵も味方も共に景慕する所なるに、君には其の正嫡と生れ給ひて、先君の譽を ( きずつ ) けん事、 口惜 ( くちを ) しくは ( おぼ ) さずや。本三位の卿の擒となりて京鎌倉に恥を ( さら ) せしこと、君には口惜しう見え給ふほどならば、何とて無官の大夫が 健氣 ( けなげ ) なる 討死 ( うちじに ) を譽とは思ひ給はぬ。あはれ君、先君の御事、一門の恥辱となる由を思ひ給はば、願くは一刻も早く屋島に歸り給へ、瀧口、君を宿し參らする庵も候はず。あゝ斯くつれなく 待遇 ( もてな ) し參らするも、故内府が御恩の萬分の一に答へん瀧口が微哀、詮ずる處、君の御爲を思へばなり。御恨みのほどもさこそと思ひ ( ) らるれども、今は言ひ解かん ( すべ ) もなし。何事も申さず、只々屋島に歸らせ給ひ、御一門と生死を共にし給へ』。

 忌まず、憚らず、涙ながらに諫むる瀧口入道。維盛卿は至極の道理に面目なげに差し ( うつぶ ) き、狩衣の御袖を絞りかねしが、言葉もなく、ツと次の室に立入り給ふ。跡見送りて瀧口は、其儘 岸破 ( がば ) と伏して男泣きに泣き沈みぬ。