瀧口入道
高山樗牛 (Takiguchi nyudo) | ||
第二十九
世移り 人失 ( ひとう ) せぬれば、都は今は 故郷 ( ふるさと ) ならず、滿目奮山川、 眺 ( なが ) むる我も元の身なれども、變り果てし盛衰に、憂き事のみぞ多かる世は、嵯峨の里も樂しからず、高野山に上りて早や 三年 ( みとせ ) 、山遠く谷深ければ、入りにし跡を 訪 ( と ) ふ人とてあらざれば、松風ならで世に友もなき庵室に、夜に入りて 訪 ( おとづ ) れし其人を誰れと思ひきや、小松の三位中將維盛卿にて、それに從へるは足助二郎重景ならんとは。夢かとばかり驚きながら、 扶 ( たす ) け參らせて 一間 ( ひとま ) に 招 ( せう ) じ、身は 遙 ( はるか ) に席を隔てて 拜伏 ( はいふく ) しぬ。思ひ懸けぬ對面に 左右 ( とかう ) の言葉もなく、 先 ( さき ) だつものは涙なり。瀧口つらつら 御容姿 ( おんありさま ) を見上ぐれば、沒落以來、 幾 ( いく ) その艱苦を忍び給ひけん、御顏痩せ衰へ、青總の髮 疏 ( あらゝ ) かに、紅玉の 膚 ( はだへ ) 色消え、平門第一の美男と唱はれし昔の樣子、 何 ( いづ ) こにと疑はるゝばかり、年にもあらで老い給ひし御面に、 故 ( こ ) 内府の俤あるも哀れなり。『こは 現 ( うつゝ ) とも覺え候はぬものかな。扨も屋島をば何として 遁 ( のが ) れ出でさせ給ひけん。當今 天 ( あめ ) が下は源氏の 勢 ( せい ) に 充 ( み ) ちぬるに、そも 何地 ( いづち ) を指しての 御旅路 ( おんたびぢ ) にて候やらん』。維盛卿は涙を拭ひ、『さればとよ、一門沒落の時は我も 人竝 ( ひとなみ ) に都を立ち出でて西國に 下 ( くだ ) りしが、行くも歸るも水の上、風に漂ふ 波枕 ( なみまくら ) に 此三年 ( このみとせ ) の春秋は安き夢とてはなかりしぞや。或はよるべなき門司の沖に、磯の千鳥とともに泣き明かし、或は須磨を追はれて明石の浦に 昔人 ( むかしびと ) の風雅を羨み、重ね重ねし 憂事 ( うきこと ) の 數 ( かず ) 、 堪 ( た ) へ忍ぶ身にも忍び難きは、都に殘せし妻子が事、波の上に起居する身のせん 術 ( すべ ) なければ、此の年月は心にもなき疎遠に打過ぎつ。嘸や我を恨み居らんと思へば 彌増 ( いやま ) す 懷 ( なつか ) しさ。 兎 ( と ) ても亡びんうたかたの身にしあれば、息ある内に、 最愛 ( いと ) しき者を見もし見られもせんと 辛 ( から ) くも思ひ 決 ( さだ ) め、重景一人 伴 ( ともな ) ひ、夜に 紛 ( まぎ ) れて屋島を 逃 ( のが ) れ、數々の 憂 ( う ) き目を見て、阿波の結城の浦より名も恐ろしき 鳴門 ( なると ) の沖を漕ぎ過ぎて、 辛 ( やうや ) く此地までは來つるぞや。憐れと思へ瀧口』。打ち 萎 ( しを ) れし御有樣、重景も瀧口も只々袂を絞るばかりなり。瀧口、『 優 ( いう ) に哀れなる御述懷、覺えず法衣を 沾 ( うるほ ) し申しぬ。 然 ( さ ) るにても如何なれば都へは行き給はで、此山には上り給ひし』。維盛卿は太息 吐 ( つ ) き給ひ、『 然 ( さ ) ればなり、都に直に歸りたき心は山山なれども、 熟々 ( つら/\ ) 思へば、斯かる 體 ( てい ) にて關東武士の充てる都の中に入らんは、捕はれに行くも同じこと、先には本三位の卿(重衡)の一の谷にて擒となり、 生恥 ( いきはぢ ) を京鎌倉に 曝 ( さら ) せしさへあるに、我れ平家の嫡流として名もなき武士の手にかゝらん事、如何にも口惜しく、妻子の愛は燃ゆるばかりに 切 ( せつ ) なれども、心に心を爭ひて辛く此山に上りしなり。高野に汝あること風の 便 ( たより ) に聞きしゆゑ、汝を頼みて戒を受け、 樣 ( さま ) を變へ、其上にて心安く都にも入り、妻子にも遇はばやとこそ思ふなれ』。
瀧口は 首 ( かうべ ) を 床 ( ゆか ) に附けしまゝ、暫し 泪 ( なみだ ) に 咽 ( むせ ) び居たりしが、『都は君が三代の故郷なるに、樣を變へでは御名も唱へられぬ世の變遷こそ是非なけれ。思へば 故 ( こ ) 内府の思顧の侍、其數を知らざる内に、世を捨てし瀧口の 此期 ( このご ) に及びて君の御役に立たん事、 生前 ( しやうぜん ) の 面目 ( めんぼく ) 此上 ( このうへ ) や候べき。故内府の鴻恩に 比 ( くら ) べては高野の山も高からず、熊野の海も深からず、いづれ世に用なき此身なれば、よしや一命を召され候とも苦しからず。あゝ斯かる身は枯れても折れても 野末 ( のづゑ ) の 朽木 ( くちき ) 、 素 ( もと ) より物の數ならず。只々 金枝玉葉 ( きんしぎよくえふ ) の御身として、定めなき世の 波風 ( なみかぜ ) に 漂 ( たゞよ ) ひ給ふこと、御痛はしう存じ候』。言ひつゝ涙をはら/\と流せば、維盛卿も、重景も、昔の身の上思ひ出でて、泣くより外に言葉もなし。
瀧口入道
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