University of Virginia Library

第二十五

 其年も事なく暮れて、 ( ) くれば治承四年、 淨海 ( じようかい ) 暴虐 ( ばうぎやく ) は猶ほ ( ) まず、 殿 ( でん ) とは名のみ、 蜘手 ( くもで ) 結びこめぬばかりの 鳥羽殿 ( とばでん ) には、 去年 ( こぞ ) より法皇を 押籠 ( おしこ ) め奉るさへあるに、 明君 ( めいくん ) の聞え高き 主上 ( しゆじやう ) をば、何の ( つゝが ) もお ( ) さぬに、是非なくおろし參らせ、清盛の女が腹に生れし 春宮 ( とうぐう ) 今年 ( ことし ) 僅に三歳なるに御位を讓らせ給ふ。あはれ聞きも及ばぬ奇怪の讓位かなとおもはぬ人ぞなかりける。 一秋毎 ( ひとあきごと ) に細りゆく民の ( かまど ) に立つ烟、それさへ恨みと共に高くは ( のぼ ) らず。 野邊 ( のべ ) 草木 ( くさき ) にのみ春は歸れども、世はおしなべて秋の暮、 枯枝 ( かれえだ ) のみぞ多かりける。元より民の 疾苦 ( しつく ) を顧みるの入道ならねば、野に立てる怨聲を 何處 ( いづこ ) の風とも氣にかけず、或は嚴島行幸に一門の榮華を傾け盡し、或は新都の經營に 近畿 ( きんき ) の人心を騷がせて少しも意に介せず。世を恨み義に勇みし 源三位 ( げんざんみ ) 、數もなき白旗 殊勝 ( しゆしよう ) にも宇治川の 朝風 ( あさかぜ ) に飜へせしが、 ( もろ ) くも破れて空しく一族の 血汐 ( ちしほ ) 平等院 ( びやうどうゐん ) 夏草 ( なつくさ ) に染めたりしは、諸國源氏が 旗揚 ( はたあげ ) の先陣ならんとは、平家の人々いかで知るべき。 高倉 ( たかくら ) ( みや ) 宣旨 ( せんじ ) 木曾 ( きそ ) ( きた ) ( せき ) ( ひがし ) に普ねく渡りて、源氏 興復 ( こうふく ) の氣運漸く迫れる頃、入道は上下萬民の望みに ( そむ ) き、愈々都を攝津の福原に ( うつ ) し、天下の亂れ、國土の騷ぎを ( つゆ ) 顧みざるは、 抑々 ( そも/\ ) 之れ滅亡を速むるの天意か。平家の末はいよ/\遠からじと見えにけり。

  右兵衞佐 ( うひやうゑのすけ ) (頼朝)が 旗揚 ( はたあげ ) に、草木と共に靡きし 關八州 ( くわんはつしう ) 、心ある者は今更とも思はぬに、 大場 ( おほば ) の三郎が 早馬 ( はやうま ) ききて、夢かと驚きし平家の 殿原 ( とのばら ) こそ 不覺 ( ふかく ) なれ。 討手 ( うつて ) の大將、三位中將 維盛卿 ( これもりきやう ) 赤地 ( あかぢ ) の錦の 直垂 ( ひたゝれ ) 萌黄匂 ( もえぎにほひ ) の鎧は 天晴 ( あつぱれ ) 平門公子 ( へいもんこうし ) 容儀 ( ようぎ ) に風雅の銘を打つたれども、富士河の 水鳥 ( みづとり ) に立つ足もなき十萬騎は、關東武士の笑ひのみにあらず。前の ( ) を悟りて舊都に歸り、さては奈良 炎上 ( えんじやう ) 無道 ( むだう ) 餘忿 ( よふん ) ( ) らせども、源氏の勢は日に加はるばかり、覺束なき行末を夢に見て其年も打ち過ぎつ。治承五年の春を迎ふれば、世愈々亂れ、都に程なき信濃には、木曾の次郎が兵を起して、兵衞佐と 相應 ( あひおう ) じて其勢ひ 破竹 ( はちく ) の如し。 傾危 ( けいき ) の際、老いても一門の 支柱 ( しちゆう ) となれる入道相國は 折柄 ( をりから ) 怪しき病ひに死し、一門狼狽して爲す所を知らず。 墨股 ( すのまた ) の戰ひに少しく會稽の恥を ( すゝ ) ぎたれども、新中納言(知盛) 軍機 ( ぐんき ) ( しつ ) して必勝の機を ( はづ ) し、木曾の ( おさへ ) と頼みし ( じやう ) の四郎が 北陸 ( ほくりく ) の勇を ( こぞ ) りし四萬餘騎、 餘五將軍 ( よごしやうぐん ) 遺武 ( ゐぶ ) を負ひながら、 横田河原 ( よこたがはら ) の一戰に ( もろ ) くも敗れしに驚きて、今はとて平家最後の力を盡して北に打向ひし十五萬餘騎、一門の存亡を ( ) せし 倶利加羅 ( くりから ) 篠原 ( しのはら ) の二戰に、哀れや殘り少なに打ちなされ、 背疵 ( せきず ) ( かゝ ) へて、すごすご都に歸り來りし、 打漏 ( うちもら ) されの 見苦 ( みぐる ) しさ。木曾は愈々勢ひに乘りて、 明日 ( あす ) にも都に押寄せんず 風評 ( ふうひやう ) 、平家の人々は今は居ながら ( ) ける心地もなく、 ( ) りとて敵に向つて死する力もなし。木曾をだに ( さゝ ) へ得ざるに、關東の頼朝來らば如何にすべき、或は都を枕にして討死すべしと言へば、或は 西海 ( さいかい ) に走つて 再擧 ( さいきよ ) ( はか ) るべしと説き、一門の評議まち/\にして定まらず。前には邦家の ( きふ ) に當りながら、 ( うしろ ) には人心の赴く ( ところ ) 一ならず、何れ變らぬ亡國の 末路 ( まつろ ) なりけり。

 平和の時こそ、供花燒香に經を飜して、 利益平等 ( りやくびやうどう ) の世とも感ぜめ、祖先十代と己が半生の歴史とを ( きざ ) みたる 主家 ( しゆか ) の運命 ( ) ( ) なるを見ては、眼を過ぐる 雲煙 ( うんえん ) とは瀧口いかで看過するを得ん。人の噂に 味方 ( みかた ) 敗北 ( はいぼく ) を聞く ( ごと ) に、 無念 ( むねん ) さ、もどかしさに耐へ得ず、雙の腕を ( やく ) して 法體 ( ほつたい ) の今更變へ難きを恨むのみ。

 或日瀧口、 閼伽 ( あか ) ( みづ ) ( ) まんとて、まだ ( ) けやらぬ空に往生院を出でて、近き泉の方に行きしに、 ( みやこ ) 六波羅わたりと覺しき方に、一道の 火焔 ( くわえん ) ( てん ) ( こが ) して 立上 ( たちのぼ ) れり。そよとだに風なき夏の曉に、遠く望めば只々 朝紅 ( あさやけ ) とも見ゆべかんめり。 風靜 ( かぜしづか ) なるに、六波羅わたり斯かる大火を見るこそ ( いぶか ) しけれ。いづれ 唯事 ( たゞごと ) ならじと思へば何となく 心元 ( こゝろもと ) なく、水汲みて ( いそ ) ぎ坊に歸り、一杖一鉢、常の如く都をさして出で行きぬ。