University of Virginia Library

第二

  西八條殿 ( にしはちでうでん ) ( ゆら ) ぐ計りの喝采を跡にして、維盛・重景の 退 ( まか ) り出でし後に一個の 少女 ( をとめ ) こそ顯はれたれ。是ぞ此夜の舞の納めと聞えければ、人々 ( ひとみ ) を凝らして之を見れば、 年齒 ( とし ) は十六七、 精好 ( せいがう ) の緋の袴ふみしだき、 柳裏 ( やなぎ ) 五衣 ( いつゝぎぬ ) 打ち重ね、 ( たけ ) にも餘る緑の黒髮 ( うしろ ) にゆりかけたる樣は、舞子白拍子の 媚態 ( しな ) あるには似で、 閑雅 ( しとやか )

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※長 ( らふた ) たけて見えにける。 一曲 ( いつきよく ) 舞ひ納む 春鶯囀 ( しゆんあうてん ) 、細きは珊瑚を碎く一雨の曲、風に靡けるさゝがにの絲輕く、太きは 瀧津瀬 ( たきつせ ) の鳴り渡る千萬の聲、 落葉 ( おちば ) ( かげ ) 村雨 ( むらさめ ) ( ひゞき ) ( おも ) し。 綾羅 ( りようら ) の袂ゆたかに ( ひるがへ ) るは花に休める 女蝶 ( めてふ ) の翼か、 蓮歩 ( れんぽ ) ( ふし ) ( きふ ) なるは 蜻蛉 ( かげろふ ) の水に點ずるに似たり。折らば落ちん萩の露、 ( ひろ ) はば消えん 玉篠 ( たまざゝ ) の、あはれにも亦 ( あで ) やかなる其の姿。見る人
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※然 ( ぼうぜん ) として醉へるが如く、 布衣 ( ほい ) に立烏帽子せる 若殿原 ( わかとのばら ) は、あはれ 何處 ( いづこ ) ( ) 女子 ( むすめ ) ぞ、 花薫 ( はなかほ ) り月霞む宵の 手枕 ( たまくら ) に、君が 夢路 ( ゆめぢ ) に入らん人こそ世にも果報なる人なれなど、 袖褄 ( そでつま ) 引合ひてののしり合へるぞ 笑止 ( せうし ) なる。

 榮華の夢に昔を忘れ、細太刀の輕さに風雅の銘を打ちたる六波羅武士の腸をば一指の舞に ( とろか ) したる彼の少女の、滿座の 秋波 ( しうは ) に送られて 退 ( まか ) り出でしを此夜の宴の ( はて ) として、人々思ひ思ひに退出し、中宮もやがて 還御 ( くわんぎよ ) あり。跡には春の夜の朧月、殘り惜げに 欄干 ( おばしま ) ( ほとり )

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蛉※ ( さすら ) ふも 長閑 ( のど ) けしや。

 此夜、 三條大路 ( さんでうおほぢ ) を左に、 御所 ( ごしよ ) の裏手の 御溝端 ( みかはばた ) を辿り行く骨格 ( たくま ) しき一個の武士あり。月を負ひて其の顏は定かならねども、立烏帽子に 綾長 ( そばたか ) 布衣 ( ほい ) を着け、 蛭卷 ( ひるまき ) の太刀の 柄太 ( つかふと ) きを ( よこた ) へたる 夜目 ( よめ ) にも ( さはや ) かなる 出立 ( いでたち ) は、何れ六波羅わたりの 内人 ( うちびと ) と知られたり。御溝を ( はさ ) んで今を盛りたる櫻の色の見て ( ) しげなるに目もかけず、物思はしげに 小手叉 ( こまぬ ) きて、少しくうなだれたる頭の重げに見ゆるは、 太息 ( といき ) 吐く爲にやあらん。扨ても春の夜の 月花 ( つきはな ) に換へて何の哀れぞ。西八條の御宴より歸り ( みち ) なる ( さむらひ ) 一群二群 ( ひとむれふたむれ ) 、舞の評など樂げに 誰憚 ( たれはゞか ) らず罵り合ひて、果は高笑ひして打ち興ずるを、件の侍は折々耳 ( そばだ ) て、時に ( ひや ) やかに 打笑 ( うちゑ ) ( さま ) 、仔細ありげなり。中宮の御所をはや過ぎて、 垣越 ( かきごし ) 松影 ( まつかげ ) 月を漏らさで墨の如く暗き ( ほとり ) に至りて、 不圖 ( ふと ) 首を擧げて暫し 四邊 ( あたり ) を眺めしが、俄に心付きし如く早足に 元來 ( もとき ) し道に戻りける。西八條より還御せられたる中宮の 御輿 ( おんこし ) 、今しも宮門を入りしを見、 ( ) と本意なげに跡見送りて門前に 佇立 ( たゝず ) みける。 ( おく ) れ馳せの老女 ( いぶか ) しげに己れが 容子 ( ようす ) を打ち

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( みまも ) り居るに心付き、急ぎ立去らんとせしが、何思ひけん、つと 振向 ( ふりむき ) て、件の老女を呼止めぬ。

 何の御用と問はれて稍々、 躊躇 ( ためら ) ひしが、『 今宵 ( こよひ ) の御宴の ( はて ) に春鶯囀を舞はれし 女子 ( をなご ) は、何れ中宮の 御内 ( みうち ) ならんと見受けしが、名は何と言はるゝや』。老女は男の容姿を暫し眺め居たりしが 微笑 ( ほゝゑ ) みながら、『扨も笑止の事も有るものかな、西八條を出づる時、 色清 ( いろきよ ) げなる人の妾を捉へて同じ事を問はれしが、あれは 横笛 ( よこぶえ ) とて近き頃 御室 ( おむろ ) ( さと ) より 曹司 ( そうし ) しに見えし者なれば、知る人なきも ( ことわり ) にこそ、 御身 ( おんみ ) は名を聞いて何にし給ふ』。男はハツと顏赤らめて、『 ( すぐ ) れて舞の 上手 ( じやうず ) なれば』。答ふる言葉聞きも了らで、老女はホヽと意味ありげなる ( ゑみ ) を殘して門内に走り入りぬ。

『横笛、横笛』、件の武士は幾度か 獨語 ( ひとりご ) ちながら、 ( おもむろ ) に元來し方に歸り行きぬ。霞の底に響く 法性寺 ( ほふしやうじ ) の鐘の聲、 初更 ( しやかう ) を告ぐる頃にやあらん。御溝の 那方 ( あなた ) に長く曳ける我影に ( おどろ ) きて、傾く月を見返る男、 眉太 ( まゆふと ) 鼻隆 ( はなたか ) く、一見 凜々 ( りゝ ) しき勇士の相貌、月に笑めるか、花に ( わら ) ふか、あはれ ( まぶた ) ( あたり ) に一掬の微笑を帶びぬ。