瀧口入道
高山樗牛 (Takiguchi nyudo) | ||
第十五
更闌 ( かうた ) けて、天地の間にそよとも音せぬ 後夜 ( ごや ) の靜けさ、やゝ傾きし 下弦 ( かげん ) の月を追うて、冴え澄める大空を渡る雁の影 遙 ( はる ) かなり。ふけ行く夜に奧も表も人定まりて、 築山 ( つきやま ) の 木影 ( こかげ ) に 鐵燈 ( かねとう ) の光のみ 侘 ( わび ) しげなる 御所 ( ごしよ ) の 裏局 ( うらつぼね ) 、女房曹司の室々も、今を盛りの 寢入花 ( ねいりばな ) 、 對屋 ( たいや ) を照せる燈の 火影 ( ほかげ ) に迷うて、妻戸を打つ蟲の音のみ高し。※
廊のあなたに、 蘭燈 ( らんとう ) 尚ほ 微 ( かすか ) なるは 誰 ( た ) が 部屋 ( へや ) ならん、主は 此 ( こ ) の 夜深 ( よふか ) きにまだ寢もやらで、獨り黒塗の小机に打ちもたれ、 首 ( かうべ ) を俯して物思はしげなり。 側 ( かたは ) らにある 衣桁 ( いかう ) には、 紅梅萌黄 ( こうばいもえぎ ) の 三衣 ( さんえ ) を打懸けて、 薫 ( た ) き 籠 ( こ ) めし移り 香 ( が ) に時ならぬ花を匂はせ、机の傍に据ゑ付けたる蒔繪の 架 ( たな ) には、色々の 歌集物語 ( かしふものがたり ) を載せ、柱には一面の古鏡を掛けて、 故 ( わざ ) とならぬ女の魂見えて床し。主が年の頃は十七八になりもやせん、身には薄色に草模樣を染めたる 小袿 ( こうちぎ ) を着け、 水際 ( みづぎは ) 立ちし 額 ( ひたひ ) より 丈 ( たけ ) にも餘らん 濡羽 ( ぬれは ) の 黒髮 ( くろかみ ) 、肩に 振分 ( ふりわ ) けて 後 ( うしろ ) に 下 ( さ ) げたる姿、優に氣高し。誰れ見ねども膝も 崩 ( くづ ) さず、時々鬢のほつれに 小波 ( さゞなみ ) を打たせて、吐く息の深げなるに、哀れは 此處 ( こゝ ) にも漏れずと見ゆ。主は 誰 ( た ) ぞ、是れぞ 中宮 ( ちゆうぐう ) が曹司横笛なる。其の振り 上 ( あ ) ぐる顏を見れば、 鬚眉 ( すうび ) の魂を 蕩 ( とろ ) かして此世の外ならで六尺の體を天地の間に置き所なきまでに狂はせし 傾國 ( けいこく ) の色、凄き迄に 美 ( うる ) はしく、何を悲しみてか眼に 湛 ( たゝ ) ゆる涙の 珠 ( たま ) 、 海棠 ( かいだう ) の雨も及ばず。膝の上に 半 ( なか ) ば 繰弘 ( くりひろ ) げたる文は何の哀れを籠めたるや、打ち見やる 眼元 ( めもと ) に無限の 情 ( なさけ ) を含み、果は恰も悲しみに堪へざるものの如く、ブル/\と身震ひして、丈もて顏を掩ひ、 泣音 ( なくね ) を忍樣いぢらし。
折から、 此方 ( こなた ) を 指 ( さ ) して近づく人の 跫音 ( あしおと ) に、横笛手早く文を 藏 ( をさ ) め、涙を拭ふ 隙 ( ひま ) もなく、忍びやかに、『横笛樣、まだ 御寢 ( ぎよしん ) ならずや』と言ひつゝ 部屋 ( へや ) の障子 徐 ( しづか ) に開きて入り來りしは、 冷泉 ( れいぜい ) と呼ぶ老女なりけり。横笛は見るより、 蕭 ( しを ) れし今までの 容姿 ( すがた ) 忽ち變り、 屹 ( きつ ) と 容 ( かたち ) を改め、言葉さへ 雄々 ( をゝ ) しく、『冷泉樣には、何の要事あれば 夜半 ( よは ) には來給ひし』、と咎むるが如く問ひ返せば、ホヽと打笑ひ、『横笛さま、心強きも程こそあれ、少しは 他 ( ひと ) の 情 ( なさけ ) を酌み給へや。老い枯れし老婆の御身に嫌はるゝは、 可惜 ( あたら ) 武士 ( ものゝふ ) の 戀死 ( こひじに ) せん 命 ( いのち ) を思へば物の數ならず、 然 ( さ ) るにても 昨夜 ( よべ ) の返事、如何に遊ばすやら』。『幾度申しても御返事は同じこと、あな 蒼蠅 ( うるさ ) き人や』。 慚 ( はづか ) しげに 面 ( おもて ) を 赧 ( あか ) らむる常の樣子と打つて變りし、さてもすげなき 捨言葉 ( すてことば ) に、冷泉 訝 ( いぶか ) しくは思へども、 流石 ( さすが ) は 巧者 ( しれもの ) 、氣を 外 ( そら ) さず、『其の御心の強さに、 彌増 ( いやま ) す思ひに堪へ難き重景さま、世に時めく身にて、 霜枯 ( しもがれ ) の 夜毎 ( よごと ) に只一人、 憂身 ( うきみ ) をやつさるゝも戀なればこそ、横笛樣、 御身 ( おんみ ) はそを哀れとは 思 ( おぼ ) さずか。 若氣 ( わかげ ) の一 徹 ( てつ ) は吾れ人ともに思ひ返しのなきもの、 可惜 ( あたら ) 丈夫 ( ますらを ) の 焦 ( こが ) れ 死 ( じに ) しても御身は見殺しにせらるゝ氣か、さりとは 情 ( つれ ) なの御心や』。横笛はさも 懶 ( ものう ) げに、『左樣の事は横笛の知らぬこと』。『またしてもうたてき事のみ、恥かしと思ひ給うての事か。年 弱 ( わか ) き内は誰しも同じながら、斯くては戀は 果 ( は ) てざるものぞ。 女子 ( をなご ) の 盛 ( さか ) りは 十年 ( ととせ ) とはなきものになるに、 此上 ( こよ ) なき 機會 ( をり ) を取り 外 ( はづ ) して、 卒塔婆小町 ( そとばこまち ) の 故事 ( ふるごと ) も有る世の中。重景樣は御家と謂ひ、器量と謂ひ、何不足なき好き縁なるに、何とて斯くは 否 ( いな ) み給ふぞ。扨は瀧口殿が事思ひ給うての事か、武骨一 途 ( づ ) の瀧口殿、文武兩道に 秀 ( ひい ) で給へる重景殿に 較 ( くら ) ぶべくも非ず。 況 ( ま ) してや瀧口殿は何思ひ立ちてや、世を捨て給ひしと專ら評判高きをば、御身は未だ聞き給はずや。 世捨人 ( よすてびと ) に情も義理も 要 ( い ) らばこそ、花も 實 ( み ) もある重景殿に只々一言の 色善 ( いろよ ) き 返 ( かへ ) り 言 ( ごと ) をし給へや。 軈 ( やが ) て兵衞にも昇り給はんず重景殿、御身が行末は如何に幸ならん。未だ 浮世 ( うきよ ) 慣 ( な ) れぬ御身なれば、思ひ煩らひ給ふも 理 ( ことわり ) なれども、 六十路 ( むそぢ ) に近き此の老婆、いかで 爲惡 ( ためあ ) しき事を申すべき、聞分け給ひしかや』。
顏差し 覗 ( のぞ ) きて 猫撫聲 ( ねこなでごゑ ) 、『や、や』と 媚 ( こ ) びるが如く 笑 ( ゑみ ) を含みて袖を引けば、今まで 應 ( いらへ ) えもせず 俯 ( うつむ ) き居たりし横笛は、引かれし袖を切るが如く打ち拂ひ、忽ち 柳眉 ( りうび ) を 逆立 ( さかだ ) て、 言葉 ( ことば ) 鋭 ( するど ) く、『 無禮 ( なめげ ) にはお 在 ( は ) さずや冷泉さま、榮華の爲に身を賣る遊女舞妓と横笛を思ひ給うてか。但しは此の横笛を飽くまで不義淫奔に 陷 ( おとしい ) れんとせらるゝにや。又しても問ひもせぬ人の批判、且つは深夜に道ならぬ 媒介 ( なかだち ) 、横笛迷惑の至り、御歸りあれ冷泉樣。但し高聲擧げて 宿直 ( とのゐ ) の 侍 ( さむらひ ) を呼び起し申さんや』。
瀧口入道
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