University of Virginia Library

三十

 諸書の載する所の壽阿彌の傳には、西村、江間、長島の三つの氏を列擧して、曾て其交互の關係に説き及ぼしたものが無かつた。わたくしは今淺井平八郎さんの もたら し來つた眞志屋文書に據つて、記載のもつれを解きほぐし、 あきら め得らるゝだけの事を明めようと努めた。次で金澤蒼夫さんを訪うて、系譜を けみ し談話を聽き、壽阿彌去後の眞志屋のなりゆきを追尋して、あらゆるトラヂシヨンの絲を斷ち つた維新の期に

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およ んだ。わたくしの言はむと欲する所のものは ほゞ こゝ に盡きた。

 然るに淺井、金澤兩家の遺物文書の中には、

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閲の際にわたくしの目に止まつたものも少く無い。左に其二三を録存することゝする。

 淺井氏のわたくしに示したものゝ中には、壽阿彌の筆跡と稱すべきものが少かつた。 袱紗 ふくさ に記した縁起、西山遺事の書後並に欄外書等は、自筆とは云ひながら はなは だ意を用ゐずして寫した細字に過ぎない。これに反してわたくしは遺物中に、小形の短册二葉を絲で ぢ合せたものゝあるのを見た。其一には「七十九のとしのくれに」と端書して「あすはみむ 八十 やそ のちまたの かど の松」と書し、下に一の壽字が署してある。今一葉には「 八十 やそ になりけるとしのはじめに」と端書して「今朝ぞ見る八十のちまたの門の松」と書し、下に「壽松」と署してある。

 此二句は 書估 しよこ 活東子が戲作者小傳に載せてゐるものと同じである。小傳には猶「月こよひ 枕團子 まくらだんご をのがれけり」と云ふ句もある。活東子は「或年の八月十五夜に、病重く既に終らむとせしに快くなりければ、月今宵云々と書いて孫に遣りけるとぞ」と云つてゐる。

 壽阿彌は嘉永元年八月二十九日に八十歳で歿したから、歳暮の句は弘化四年十二月 晦日 みそか の作、歳旦の句は嘉永元年正月 ついたち の作である。後者は死ぬべき年の元旦の作である。これより推せば、月今宵の句も同じ年の中秋に成つて、後十四日にして やまひ すみやか なるに至つたのではなからうか。活東子は月今宵の句を書いて孫に遣つたと云つてゐるが、壽阿彌には子もなければ孫もなかつただらう。別に「まごひこに別るゝことの」云々と云ふ狂歌が、壽阿彌の辭世として傳へられてゐるが、わたくしは取らない。

 月今宵は少くも 灑脱 しやだつ の趣のある句である。歳暮歳旦の句はこれに反して極て平凡である。しかし萬葉の 百足 もゝた らず八十のちまたを使つてゐるのが、壽阿彌の壽阿彌たる所であらう。

 短册の 手迹 しゆせき を見るに、壽阿彌は能書であつた。字に

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媚※ びぶ の態があつて、老人の書らしくは見えない。壽の一字を署したのは壽阿彌の省略であらう。壽松の號は他に所見が無い。