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12. 拾弐

或る晩末造が無縁坂から帰って見ると、お上さんがもう子供を寝かして、自分だけ 起きていた。いつも子供が寝ると、自分も一しょに横になっているのが、その晩は据 わって俯向加減になっていて、末造が蚊屋の中に這入って来たのを知っていながら、 振り向いても見ない。

末造の床は一番奥の壁際に、少し離れて取ってある。その枕元には座布団が敷いて、烟草盆と茶道具とが置いてある。末造は座布団の上に据わって、烟草を吸い附けながら、優しい声で云った。

「どうしたのだ。まだ寐ないでいるね」

お上さんは黙っている。

末造も再び譲歩しようとはしない。こっちから媾和を持ち出したに、彼が応ぜぬなら、それまでの事だと思って、わざと平気で烟草を呑んでいる。

「あなた今までどこにいたんです」お上さんは突然頭を持ち上げて、末造を見た。奉公人を置くようになってから、次第に詞を上品にしたのだが、差向いになると、ぞんざいになる。ようよう「あなた」だけが維持せられている。

末造は鋭い目で一目女房を見たが、なんとも云わない。何等かの知識を女房が得た らしいとは認めても、その知識の範囲を測り知ることが出来ぬので、なんとも云うこ とが出来ない。末造は妄りに語って、相手に材料を提供するような男ではない。

「もう何もかも分かっています」鋭い声である。そして末の方は泣声になり掛かって いる。

「変な事を言うなあ。何が分かったのだい」さも意外な事に遭遇したと云うような調 子で、声はいたわるように優しい。

「ひどいじゃありませんか。好くそんなにしらばっくれていられる事ね」夫の落ち着 いているのが、却って強い刺戟のように利くので、上さんは声が切れ切れになって、 湧いて来る涙を襦袢の袖でふいている。

「困るなあ。まあ、なんだかそう云って見ねえ。まるっきり見当が附かない」

「あら。そんな事を。今夜どこにいたのだか、わたしにそう云って下さいと云っているのに。あなた好くそんな真似が出来た事ね。わたしには商用があるのなんのと云って置いて、囲物なんぞを拵えて」鼻の低い赤ら顔が、涙でゆでたようになったのに、こわれた丸髷の鬢の毛が一握へばり附いている。潤んだ細い目を、無理に大きくみはって、末造の顔を見ていたが、ずっと傍へいざり寄って、金天狗の燃えさしを撮んでいた末造の手に、力一ぱいしがみ附いた。

「廃せ」と云って、末造はその手を振り放して、畳の上に散った烟草の燃えさしを揉 み消した。

お上さんはしゃくり上げながら、又末造の手にしがみ附いた。「どこにだって、あなたのような人があるでしょうか。いくらお金が出来たって、自分ばかり檀那顔をして、女房には着物一つ拵えてはくれずに、子供の世話をさせて置いて、好い気になって妾狂いをするなんて」

「廃せと云えば」末造は再び女房の手を振り放した。「子供が目を覚すじゃないか。 それに女中部屋にも聞える」翳めた声に力を入れて云ったのである。

末の子が寝返りをして、何か夢中で言ったので、お上さんも覚えず声を低うして、 「一体わたしどうすれば好いのでしょう」と云って、今度は末造の胸の所に顔を押し 附けて、しくしく泣いている。

「どうするにも及ばないのだ。お前が人が好いもんだから、人に焚き附けられたのだ。 妾だの、囲物だのって、誰がそんな事を言ったのだい」こう云いながら、末造はこわ れた丸髷のぶるぶる震えているのを見て、醜い女はなぜ似合わない丸髷を結いたがる ものだろうと、気楽な問題を考えた。そして丸髷の震動が次第に細かく刻むようにな ると同時に、どの子供にも十分の食料を供給した、大きい乳房が、懐炉を抱いたよう に水落の辺に押し附けられるのを末造は感じながら、「誰が言ったのだ」と繰り返し た。

「誰だって好いじゃありませんか。本当なんだから」乳房の圧はいよいよ加わって来 る。

「本当でないから、誰でも好くはないのだ。誰だかそう云え」

「それは言ったってかまいませんとも。魚金のお上さんなの」

「なにまるで狸が物を言うようで、分かりゃあしない。むにゃむにゃのむにゃむにゃ さんなのとはなんだい」

お上さんは顔を末造の胸から離して、悔やしそうに笑った。「魚金のお上さんだと、そう云っているじゃありませんか」

「うん。あいつか。おお方そんな事だろうと思った」末造は優しい目をして、女房の 逆上したような顔を見ながら、徐かに金天狗に火を附けた。「新聞屋なんかが好く社 会の制裁だのなんのと云うが、己はその社会の制裁と云う奴を見た事がねえ。どうか したら、あの金棒引なんかが、その制裁と云う奴かも知れねえ。近所中のおせっかい をしやがる。あんな奴の言う事を真に受けてたまるものか。己が今本当の事を云って 聞して遣るから、好く聞いていろ」

お上さんの頭は霧が掛かったように、ぼうっとしているが、もしや騙されるのではあるまいかと云う猜疑だけは醒めている。それでも熱心に末造の顔を見て謹聴している。今社会の制裁と云うことを言われた時もそうであるが、いつでも末造が新聞で読んだ、むずかしい詞を使って何か言うと、お上さんは気おくれがして、分からぬなりに屈服してしまうのである。

末造は折々烟草を呑んで烟を吹きながら、矢張女房の顔を暗示するようにじっと見て、こんな事を言っている。「それ、お前も知っているだろう。まだ大学があっちにあった頃、好く内に来た吉田さんと云うのがいたなあ。あの金縁目金を掛けて、べらべらした着物を着ていた人よ。あれが千葉の病院へ行っているが、まだ己の方の勘定が二年や三年じゃあ埒が明かねえんだ。あの吉田さんが寄宿舎にいた時から出来ていた女で、こないだまで七曲りの店を借りて入れてあったのだ。最初は月々極まって為送りをしていたところが、今年になってから手紙もよこさなけりゃ、金もよこさねえ。そこで女が先方へ掛け合ってくれろと云って己に頼んだのだ。どうして己を知っているかと思うだろうが、吉田さんは度々己の内へ来ると人の目に附いて困るからと云って、己を七曲の内へ呼んで書換の話なんぞをした事がある。その時から女が己を知っていたのだ。己も随分迷惑な話だが、序だから掛け合って遣ったよ。ところがなかなか埒は明かねえ。女はしつっこく頼む。己は飛んだ奴に引っ掛かったと思って持て扱っているのだ。お負に小綺麗な所で店賃の安い所へ越したいから、世話をしてくれろと云うので、切通しの質屋の隠居のいた跡へ、面倒を見て越させて遣った。それやこれやで、こないだからちょいちょい寄って、烟草を二三服呑んだ事があるもんだから、近所の奴がかれこれ言やあがるのだろう。隣は女の子を集めて、為立物の師匠をしていると云うのだから、口はうるさいやな。あんな所に女を囲って置く馬鹿があるものか」こんな事を言って、末造はさげすんだように笑った。

お上さんは小さい目を赫かして、熱心に聞いていたが、この時甘えたような調子でこう云った。「それはお前さんの云う通りかも知れないけれど、そんな女の所へ度々行くうちには、どうなるか知れたものじゃありやしない。どうせお金で自由になるような女だもの」お上さんはいつか「あなた」を忘れている。

「馬鹿言え。己がお前と云うものがあるのに、外の女に手を出すような人間かい。こ れまでだって、女をどうしたと云うことが、只の一度でもあったかい。もうお互に焼 餅喧嘩をする年でもあるめえ。好い加減にしろ」末造は存外容易に弁解が功を奏した と思って、心中に凱歌を歌っている。

「だってお前さんのようにしている人を、女は好くものだから、わたしゃあ心配さ」

「へん。あが仏尊しと云う奴だ」

「どう云うわけなの」

「己のような男を好いてくれるのは、お前ばかりだと云うことよ。なんだ。もう一時 を過ぎている。寝よう寝よう」