独身 (Dokushin) | ||
五
富田は目を据えて主人を見た。
「またお講釈だ。ちょいと話をしている間にでも、おや、また教えられたなと思う。あれが苦痛だね。」 一寸 ( ちょっと ) 顔を 蹙 ( しか ) めて話し続けた。
「なるほど酒は 御馳走 ( ごちそう ) になる。しかしお 肴 ( さかな ) が饂飩と来ては閉口する。お負にお講釈まで聞せられては溜まらない。」
主人はにやにや笑っている。「一体仏法なぞを攻撃しはじめたのは 誰 ( たれ ) だろう。」
「いや。説法さえ 廃 ( よ ) して貰われれば、僕も 謗法 ( ぼうほう ) はしない。だがね、君、独身生活を攻撃することは廃さないよ。 箕村 ( みのむら ) の処なんぞへ行くと、お肴が違う。お梅さんが床の間の前に据わって、富田に馳走をせいと 儼然 ( げんぜん ) として御託宣があるのだ。そうすると山海の美味が前に並ぶのだ。」
「分からないね。箕村というのは誰だい。それにお梅さんという人はどうしてそんなに 息張 ( いば ) っているのだい。」
「そりゃ息張っていますとも。床の間の前へ行って据わると、それ、御託宣だと云うので、箕村は遥か下がって平伏するのだ。」
「箕村というのは誰だい。」
「箕村ですか。あの長浜へ出る処に小児科病院を開いている男です。前の細君が病気で亡くなって忌中でいると、ある日大きな 鯛 ( たい ) を持って来て置いて行ったものがあったそうだ。箕村がひどく驚いて、近所を聞き廻ったり何かして騒ぐと、その時はまだ女中でいたお梅さんが平気で、これはお 稲荷 ( いなり ) 様 ( さま ) の下さった鯛だと云って、直ぐに料理をして、 否唯 ( いやおう ) なしに箕村に食わせたそうだ。それが不思議の始で、おりおり稲荷の託宣がある。梅と婚礼をせいと云う託宣なんぞも、やっぱりお梅さんが言い渡して置いて、箕村が婚礼の支度をすると、お梅さんは驚いた顔をして、お 娵 ( よめ ) さんはどちらからお 出 ( いで ) なさいますと云ったそうだ。僕は神慮に 称 ( かな ) っていると見えて、富田に馳走をせいと云う託宣があるのだ。」
「怪しい女だね」と戸川が 嘴 ( くちばし ) を 容 ( い ) れた。
「なに。御馳走になるから云うのではないが、なかなか 好 ( い ) い細君だよ。入院している子供は皆 懐 ( なつ ) いている。好く世話をして 遣 ( や ) るそうだ。ただおりおり御託宣があるのだ。」
寧国寺さんは、主人と顔を見合せて、不断の微笑を浮べて聞いていたが、「お休なさい」と云って、ついと起った。見送りに立つ 暇 ( いとま ) もない。
この坊さんはいつでも 飄然 ( ひょうぜん ) として来て飄然として去るのである。
風の音がひゅうと云う。竹が 薬缶 ( やかん ) を持って、 急須 ( きゅうす ) に湯を差しに来て、「上はすっかり晴れました」と云った。
「もうお互に帰ろうじゃないか」と戸川が云った。
富田は幅の広い顔に幅の広い笑を見せた。「ところが、まだなかなか帰られないよ。独身生活を berufsmaessig ( ベルウフスメエシヒ ) に遣っている先生の退却した 迹 ( あと ) で、最後の突撃を加えなけりゃあならないからな。箕村だってそうだ。僕は 何故 ( なにゆえ ) にお稲荷さんが、特に女中をしていたお梅さんを 抜擢 ( ばってき ) したかということまで、神慮に立ち入って究めることは 敢 ( あえ ) てしない。しかし兎に角第二の細君が直ぐに出来たのは、箕村のために幸福であった。箕村は一日も不自由をしない。箕村のお客たる僕なんぞも不自由をしない。主人が幸福なら、客も幸福だ。」
主人の 無頓着 ( むとんじゃく ) らしい顔には、富田がいくら 管 ( くだ ) を巻いてもやはり微笑の影が消えない。
戸川は主人に 目食 ( めく ) わせをした。「いや。大変遅くなった。もうお 暇 ( いとま ) をします。」
そして起ちそうにして起たずに、 頻 ( しき ) りに富田を促すのである。「さあ。君も行こうじゃないか。もう分かっているよ。分かっているよ。」
戸川はとうとう引き 摩 ( ず ) るようにして富田を連れ出した。
富田は少しよろけながら玄関へ出て、大声にどなっている。「おい。お竹さん。もう一本熱いのを貰うはずだが、こん度の晩まで預けて置くよ。」
主人は送りに出て、戸川に 囁 ( ささや ) いた。「車を呼びに遣ろうか。」
「なに。どうせ同じ道ですから、僕が門まで一しょに行きます。さようなら。」
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