独身 (Dokushin) | ||
参
戸川は両手を火鉢に 翳 ( かざ ) して、背中を円くして話すのである。
「そりゃあ独身生活というものは、大抵の人間には無難にし遂げにくいには違ない。僕の同期生に宮沢という男がいた。その男の卒業して直ぐの任地が 新発田 ( しばた ) だったのだ。御承知のような土地柄だろう。裁判所の 近処 ( きんじょ ) に、小さい借屋をして、下女を一人使っていた。同僚が妻を持てと勧めても、どうしても持たない。なぜだろう、なぜだろうと云ううちに、いつかあれは 吝嗇 ( りんしょく ) なのだということに 極 ( き ) まってしまったそうだ。僕は書生の時から知っていたが、吝嗇ではなかった。意地強く金を 溜 ( た ) めようなどという風の男ではない。万事控目で踏み切ったことが出来ない。そこで判事試補の月給では妻子は養われないと、 一図 ( いちず ) に思っていたのだろう。土地が土地なので、丁度今夜のような雪の夜が幾日も幾日も続く。宮沢はひとり部屋に閉じ 籠 ( こも ) って本を読んでいる。下女は壁 一重 ( ひとえ ) 隔てた隣の部屋で縫物をしている。宮沢が 欠 ( あくび ) をする。下女が欠を 噬 ( か ) み殺す。そういう風で大分の間過ぎたのだそうだ。そのうちある晩 風雪 ( ふぶき ) になって、雨戸の外では風の音がひゅうひゅうとして、庭に植えてある竹がおりおり 箒 ( ほうき ) で掃くように戸を 摩 ( す ) る。十時頃に下女が茶を入れて持って来て、どうもひどい晩でございますねというような事を言って、暫くもじもじしていた。宮沢は自分が寂しくてたまらないので、下女もさぞ寂しかろうと思い 遣 ( や ) って、どうだね、 針 ( はり ) 為事 ( しごと ) をこっちへ持って来ては、 己 ( おれ ) は構わないからと云ったそうだ。そうすると下女が喜んで縫物を持って来て、部屋の隅の方で小さくなって為事をし始めた。それからは下女が、もうお客様もございますまいねと云って、おりおり縫物を持って、宮沢の部屋へ来るようになったのだ。」
富田は笑い出した。「戸川君。君は小説家だね。なかなか 旨 ( うま ) い。」
戸川も笑って頭を掻いた。「いや。実は宮沢が後悔して、僕にあんまり 精 ( くわ ) しく話したもんだから、僕の話もつい精しくなったのだ。跡は 端折 ( はしょ ) って話すよ。しかしも一つ具体的に話したい事がある。それはこうなのだ。下女がある晩、
隣の間へ引き下がってから、宮沢が寐られないでいると、壁を隔てて下女が溜息をしては寝返りをするのが聞える。暫く聞いていると、その溜息が段々大きくなって、苦痛のために 呻吟 ( しんぎん ) するというような風になったそうだ。そこで宮沢がつい、どうかしたのかいと云った。これだけ話してしまえば跡は本当に端折るよ。」富田は仰山な声をした。「おい。待ってくれ給え。ついでに跡も端折らないで話し給え。なかなか面白いから。」声を一倍大きくした。「おい。お竹さん。好く聞いて置くが 好 ( い ) いぜ。」
始終にやにや笑っていた主人の大野が顔を 蹙 ( しか ) めた。
戸川は話し続けた。「どうも富田君は 交 ( まぜ ) っ返すから困る。 兎 ( と ) に 角 ( かく ) それから下女が下女でなくなった。宮沢は直ぐに後悔した。職務が職務なのだから、発覚しては一大事だと思ったということは、僕にも察せられる。ところが、下女は今まで 包 ( つつ ) ましくしていたのが、次第にお化粧をする、派手な着物を着る。なんとなく人の目に立つ。宮沢は気が気でない。とうとう下女の親 許 ( もと ) へ出掛けて行って、いずれ妻にするからと云って、 一旦 ( いったん ) 引き取らせて手当を遣っていた。そのうちにどうかしようと思ったが、親許が 真面目 ( まじめ ) なので、どうすることも出来ない。宮沢は随分窮してはいたのだが、ひと算段をしてでも金で手を切ろうとした。しかし親許では極まった手当の 外 ( ほか ) のものはどうしても取らない。それが 心 ( しん ) から欲しくないのだから、手が附けられない。とうとうその下女を妻にして、今でもそのままになっている。今は東京で立派にしているのだが、なんにしろ教育の無い女の事だから、宮沢は何かに附けて困っているよ。」
富田は意地きたなげに、酒をちびちび飲みながら冷かした。「もうおしまいか。竜頭蛇尾だね。そんな話なら、誉めなけりゃあ好かった。」
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