University of Virginia Library

 数年前のことであった。志賀直哉氏が何かの場合に、自分は思想としてのマルクス主義に反対はしないが、その中で働いている人間をいきなり尊敬することは出来ない、という意味を語ったのを間接にきいた。

 いかにも志賀氏らしい言葉であると、当時私は面白く思った。そういう一見はっきりした潔癖性、この人生における座の構えによって、その構えを可能にしている土台のある限り、志賀氏のリアリズムは「万暦赤絵」の境地に安坐するであろう。そう思ったのであった。

「強者連盟」の梅雄の生活感情を読み、「新しき塩」で魚住の云っていることを読むと私の記憶には志賀直哉氏の言葉まで甦って来る。そして、一つの声を加えるのである。

 石坂洋次郎氏の「麦死なず」を流れる感情も根柢に於ては、ここに血脈をひいている。「麦死なず」に対する批評に向って反駁的、勝者的気分で書かれている同氏の「悪作家より」(改造・十月号)でその気分は極めて率直と云えば率直、高飛車と云えば高飛車に云われているのである。

 石坂氏のように、さア、返事はどうだというような気持も、主観的には壮快なるものがあるかもしれない。だが、今日の文学が、過去の或る期間においては十分云い切る自信を与えられなかった作者自身のうちに在るそういう社会感情の一面を開放しつつあるという現象は、果して今日の作家の、より高い、人間的・文化的自由の獲得を意味しているのであろうか。

「左翼文学が今日沈潜期にあることを思って喧嘩すぎての棒ちぎりといった疚しさを抱かせられたが」云々と、石坂氏は対象を或る種の左翼的作家、或は思想運動者の上にだけ置いて物を云っているように見える。けれども日本の左翼運動の歴史的な退潮の原因は単にそういう一群の生活の裡にのみ在ったのであり、又敗北の結果は単にその一群の生活の上にだけ降りかかって終るものであろうか。

 今日作家が一般的に、こういう面でのみ闊達であり得るということについては、慶賀すべきか、或は憤ってしかるべきことなのであろうか。

 大森義太郎氏の「思想と生活」(文芸)には、「麦死なず」に対する批判的感想として、正しい思想はよしんば各個人の実生活における態度と一致していないでも、思想そのものとして、実生活と一致している低俗な思想より価値が高いということを、主張されている。これは、「麦死なず」に於て、五十嵐が牧野を酷評するモメントを、その意識的思想と実際の生活感情の乖離においていることに対して、のべられているのである。

 石坂氏の「悪作家より」とこの大森氏の感想文とをあわせ読み、私は、日本における左翼運動が、世界独特な高揚と敗北の過程をとっている、その一般的な歴史的素因の複雑さを、裏からはっきりと、透して見せられたように感じた。何故なら、石坂氏が一プロレタリア作家牧野に最大限の階級的完全性を要求しているその感情こそ、裏をかえせば、とりもなおさず、嘗てプロレタリア作家が少なからずそれによって非難をうけて来た人間の観念化を来らしめたその感情なのであるから。そして、大森氏によって指摘されているこの一種の現実歪曲の根源はと見れば、それは微妙にも当の大森氏が立派な思想は生活とはなれていてもそれとして人々を益すると云っている、微塵悪意のない、だがそこから実際には沢山の抽象論、機械的解釈を発生させる ひび の間から、立ちのぼって来ているのである。