縷紅新草
泉鏡花 (Ruko shinso) | ||
四
あれ見たか
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「あれあれ見たか、あれ見たか、二つ 蜻蛉 ( とんぼ ) が草の葉に、かやつり草に宿かりて……その唄を、工場で唱いましたってさ。唄が初路さんを殺したんです。
細い、かやつり草を、青く縁へとって、その片端、はんけちの雪のような 地 ( じ ) へ赤蜻蛉を二つ。」
お米の二つ折る指がしなって、 内端 ( うちは ) に襟をおさえたのである。
「一ツずつ、蜻蛉が別ならよかったんでしょうし、外の人の 考案 ( かんがえ ) で、あの方、ただ刺繍だけなら、何でもなかったと言うんです。どの道、うつくしいのと、仕事の上手なのに、 嫉 ( ねた ) み 猜 ( そね ) みから起った事です。何につけ、かにつけ、ゆがみ曲りに難癖をつけないではおきません。処を図案まで、あの方がなさいました。何から思いつきなすったんだか。――その赤蜻蛉の刺繍が、大層な評判だし、分けて輸出さきの西洋の気受けが、それは、 凄 ( すご ) い 勢 ( いきおい ) で、どしどし註文が来ました処から、外国まで、恥を 曝 ( さら ) すんだって、羽をみんな、手足にして、紅いのを縮緬のように唄い 囃 ( はや ) して、身肌を見せたと、騒ぐんでしょう。」
(巻初に記して 一粲 ( いっさん ) に供した俗謡には、二三行、
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脱落があるらしい、お米が 口誦 ( くしょう ) を 憚 ( はばか ) ったからである。)
「いやですわね、おじさん、蝶々や、蜻蛉は、あれは 衣服 ( きもの ) を着ているでしょうか。
――人目しのぶと思えども
羽はうすもの隠されぬ――
それも一つならまだしもだけれど、一つの尾に一つが続いて、すっと、あの、羽を八つ、静かに銀糸で縫ったんです、寝ていやしません、飛んでいるんですわね。ええ、それをですわ、
――世間、いなずま目が光る――
――恥を知らぬか、恥じないか――と 皆 ( みんな ) でわあわあ、さも初路さんが、そんな姿絵を、紅い毛、 碧 ( あお ) い目にまで、 露呈 ( あらわ ) に見せて、お宝を儲けたように、唱い立てられて見た日には、内気な、優しい、上品な、着ものの上から触られても、毒蛇の 牙形 ( はがた ) が 膚 ( はだ ) に 沁 ( し ) みる……雪に咲いた、白玉椿のお人柄、耳たぶの赤くなる、もうそれが、砕けるのです、散るのです。
遺書 ( かきおき ) にも、あったそうです。――ああ、恥かしいと思ったばかりに――」
「察しられる。思いやられる。お前さんも聞いていようか。むかし、正しい武家の 女性 ( にょしょう ) たちは、 拷問 ( ごうもん ) の 笞 ( しもと ) 、火水の責にも、断じて口を開かない時、ただ、 衣 ( きぬ ) を 褫 ( うば ) う、肌着を 剥 ( は ) ぐ、裸体にするというとともに、直ちに罪に落ちたというんだ。――そこへ掛けると……」
辻町は、かくも心弱い人のために、 西班牙 ( スペイン ) セビイラの煙草工場のお転婆を 羨 ( うらや ) んだ。
同時に、お米の母を思った。お京がもしその場に処したら、 対手 ( あいて ) の工女の顔に 象棋盤 ( しょうぎばん ) の目を切るかわりに、酢ながら 心太 ( ところてん ) を 打 ( ぶ ) ちまけたろう。
「そこへ掛けると平民の子はね。」
辻町は、うっかりいった。
「だって、平民だって、人の前で。」
「いいえ。」
「ええ、どうせ私は平民の子ですから。」
辻町は、その乳のわきの、青い若菜を、ふと思って、覚えず肩を縮めたのである。
「あやまった。いや、しかし、千五百石の女※
、昔ものがたり以上に、あわれにはかない。そうして清らかだ。」「中将姫のようでしたって、白羽二重の上へ 辷 ( すべ ) ると、あの方、白い指が消えました。露が光るように、針の 尖 ( さき ) を伝って、薄い胸から紅い糸が揺れて染まって、また 縢 ( かが ) って、銀の糸がきらきらと、何枚か、幾つの蜻蛉が、すいすいと浮いて写る。――(私が 傍 ( そば ) に見ていました)って、鼻ひしゃげのその頃の工女が、 茄子 ( なす ) の古漬のような口を開けて、 老 ( い ) い年で話すんです。その女だって、その臭い口で声を張って唱ったんだと思うと、聞いていて、 口惜 ( くや ) しい、 睨 ( にら ) んでやりたいようですわ。――でも自害をなさいました、後一年ばかり、 一時 ( ひところ ) はこの土地で湯屋でも道端でも唄って、お気の弱いのをたっとむまでも、初路さんの刺繍を恥かしい事にいいましたとさ。
――あれあれ見たか、あれ見たか――、銀の羽がそのまま手足で、二つ蜻蛉が何とかですもの。」
「一体また二つの蜻蛉がなぜ変だろう。 見聞 ( みきき ) が狭い、知らないんだよ。土地の人は――そういう私だって、近頃まで、つい気がつかずに居たんだがね。
手紙のついでで知っておいでだろうが、私の住んでいる処と、京橋の築地までは、そうだね、ここから、ずっと見て、向うの海まではあるだろう。今度、 当地 ( こちら ) へ来がけに、歯が 疼 ( いた ) んで、 馴染 ( なじみ ) の 歯科医 ( はいしゃ ) へ行ったとお思い。その築地は、というと、用たしで、歯科医は大廻りに赤坂なんだよ。途中、四谷新宿へ突抜けの 麹町 ( こうじまち ) の大通りから 三宅坂 ( みやけざか ) 、日比谷、……銀座へ出る……歌舞伎座の前を 真直 ( まっすぐ ) に、 目的 ( めあて ) の 明石町 ( あかしちょう ) までと 饒舌 ( しゃべ ) ってもいい加減の間、町 充満 ( いっぱい ) 、屋根一面、 上下 ( うえした ) 、左右、縦も横も、 微紅 ( うすあか ) い光る雨に、花吹雪を浮かせたように、羽が透き、身が染って、数限りもない赤蜻蛉の、大流れを 漲 ( みなぎ ) らして飛ぶのが、行違ったり、 卍 ( まんじ ) に舞乱れたりするんじゃあない、上へ 斜 ( ななめ ) 、下へ斜、右へ斜、左へ斜といった形で、おなじ方向を真北へさして、見当は浅草、 千住 ( せんじゅ ) 、それから先はどこまでだか、ほとんど想像にも及びません。――明石町は昼の 不知火 ( しらぬい ) 、隅田川の水の影が映ったよ。
で、急いで明石町から 引返 ( ひっかえ ) して、赤坂の方へ向うと、また、おなじように飛んでいる。群れて 行 ( ゆ ) く。 歯科医 ( はいしゃ ) で、椅子に掛けた。窓の外を、この時は、幾分か、その数はまばらに見えたが、それでも、千や二千じゃない、二階の窓をすれすれの処に向う家の 廂 ( ひさし ) 見当、ちょうど電信、電話線の高さを飛ぶ。それより、高くもない。ずっと低くもない。どれも、おなじくらいな空を通るんだがね、計り知られないその大群は、層を厚く、密度を 濃 ( こまや ) かにしたのじゃなくって、薄く透通る。その一つ一つの薄い羽のようにさ。
何の事はない、見た処、東京の低い空を、 淡紅 ( とき ) 一面の 紗 ( しゃ ) を張って、銀の霞に包んだようだ。 聳立 ( そびえた ) った、洋館、高い林、森なぞは、さながら、夕日の 紅 ( べに ) を巻いた白浪の上の 巌 ( いわ ) の島と云った 態 ( かたち ) だ。
つい口へ出た。(蜻蛉が大層飛んでいますね。) 歯医師 ( はいしゃ ) が(はあ、早朝からですよ。)と云ったがね。その時は四時過ぎです。
帰途 ( かえり ) に、赤坂見附で、同じことを、運転手に云うと、(今は少くなりました。こんなもんじゃありません。今朝六時頃、この見附を、客人で通りました時は、上下、左右すれ違うとサワサワと音がします。青空、青山、正面の雪の富士山の雲の下まで裾野を 蔽 ( おお ) うといいます 紫雲英 ( げんげ ) のように、いっぱいです。赤蜻蛉に乗せられて、車が浮いて困ってしまいました。こんな経験ははじめてです。)と 更 ( あらた ) めて 吃驚 ( びっくり ) したように言うんだね。私も、その日ほど 夥 ( おびただ ) しいのは始めてだったけれど、赤蜻蛉の群の一日都会に 漲 ( みなぎ ) るのは、秋、おなじ頃、ほとんど毎年と云ってもいい。子供のうちから大好きなんだけれど、これに気のついたのは、――うっかりじゃないか――この八九年以来なんだが、月はかわりません。きっと十月、中の十日から 二十日 ( はつか ) の間、三年つづいて十七日というのを、手帳につけて覚えています。季節、天気というものは、そんなに模様の変らないものと見えて、いつの年も秋の長雨、しけつづき、また大あらしのあった 翌朝 ( あくるあさ ) 、からりと、嘘のように青空になると、待ってたように、しずめたり浮いたり、風に、すらすらすらすらと、薄い 紅 ( あか ) い霧をほぐして通る。
――この辺は、どうだろう。」
「え。」
話にききとれていたせいではあるまい、お米の顔は 緋葉 ( もみじ ) の蔭にほんのりしていた。
「……もう 晩 ( おそ ) いんでしょう、今日は一つも見えませんわ。前の月の命日に 参詣 ( おまいり ) をしました時、山門を出て……あら、このいい日和にむら雨かと思いました。赤蜻蛉の羽がまるで銀の雨の降るように見えたんです。」
「一ツずつかね。」
「ひとツずつ?」
「ニツずつではなかったかい。」
「さあ、それはどうですか、ちょっと私気がつきません。」
「気がつくまい、そうだろう。それを言いたかったんだ、いまの蜻蛉の群の話は。それがね、残らず、二つだよ、比翼なんだよ。その 刺繍 ( ししゅう ) の姿と、おなじに、これを見て土地の人は、初路さんを殺したように、どんな唄を唱うだろう。
みだらだの、風儀を乱すの、恥を 曝 ( さら ) すのといって、どうする気だろう。浪で洗えますか、火で焼けますか、地震だって壊せやしない。天を 蔽 ( おお ) い地に 漲 ( みなぎ ) る、といった処で、 颶風 ( はやて ) があれば消えるだろう。 儚 ( はかな ) いものではあるけれども――ああ、その儚さを一人で身に受けたのは初路さんだね。」
「ええ、ですから、ですから、おじさん、そのお慰めかたがた……今では時世がかわりました。供養のために、初路さんの 手技 ( てわざ ) を 称 ( ほ ) め 賛 ( たた ) えようと、それで、「糸塚」という記念の碑を。」
「…………」
「もう、出来かかっているんです。図取は新聞にも出ていました。台石の上へ、見事な白い石で大きな糸枠を据えるんです。刻んだ糸を巻いて、 丹 ( に ) で染めるんだっていうんですわ。」
「そこで、「友禅の碑」と、 対 ( つい ) するのか。しかし、いや、とにかく、悪い事ではない。場所は、位置は。」
「さあ、行って見ましょう。半分うえ出来ているようです。門を入って、直きの場所です。」
辻町は、あの、孟蘭盆の 切籠燈 ( きりこ ) に対する、寺の会釈を伝えて、お京が 渠 ( かれ ) に戯れた 紅糸 ( べにいと ) を思って、ものに手繰られるように、提灯とともにふらりと立った。
縷紅新草
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