University of Virginia Library

       三

「半助さん、半助さん。」

 すらすらと、井菊の広い帳場の障子へ、姿を見せたのはお桂さんである。

 あの奥の、花の座敷から来た途中は――この での北国だという――雪の廊下を通った事は言うまでもない。

 カチリ……

 ハッと手を挙げて、 珊瑚 さんご 六分珠 ろくぶだま をおさえながら、思わず にかわ についたように、足首からむずむずして、爪立ったなり 小褄 こづま を取って上げたのは、謙斎の話の舌とともに、 蛞蝓 なめくじ のあとを踏んだからで、スリッパを脱ぎ放しに釘でつけて、身ぶるいをして と抜いた。湯殿から蒸しかかる暖い霧も、そこで、さっと肩に消えて、池の欄干を伝う、 緋鯉 ひごい ひれ のこぼれかかる 真白 まっしろ な足袋はだしは、素足よりなお冷い。で……霞へ渡る 反橋 そりばし れば、そこへ島田に結った初々しい魂が、我身を抜けて、うしろ向きに、気もそぞろに走る影がして、ソッと肩をすぼめたなりに、両袖を合せつつ呼んだのである。

「半助さん……」ここで踊屋台を た、昼の姿は、鯉を遊ばせた うす もみじのさざ波であった。いまは、その跡を慕って 大鯰 おおなまず が池から しずく をひたひたと引いて襲う 気勢 けはい がある。

 謙斎の話は、あれからなお続いて、小一の顕われた夜泣松だが、土地の名所の一つとして、絵葉書で売るのとは場所が違う。それは港街道の 路傍 みちばた の小山の上に枝ぶりの佳いのを見立てたので。――真の夜泣松は、汽車から来る客たちのこの町へ入る本道に、古い石橋の際に土をあわれに って、石地蔵が、 苔蒸 こけむ し、且つ砕けて十三体。それぞれに、 しきみ 、線香を手向けたのがあって、十三塚と云う…… 一揆 いっき の頭目でもなし、戦死をした勇士でもない。きいても気の 滅入 めい る事は、むかし 大饑饉 おおききん の年、近郷から、湯の煙を慕って、 山谷 さんこく 這出 はいで て来た 老若男女 ろうにゃくなんにょ の、救われずに、菜色して餓死した骨を拾い集めて葬ったので、その塚に沿った松なればこそ、夜泣松と言うのである。――昼でも泣く。――仮装した小按摩の妄念は、その枝下、十三地蔵とは、間に水車の野川が横に流れて石橋の下へ落ちて、香都良川へ流込む水筋を、一つ また いだ処に、 黄昏 たそがれ から、もう提灯を つる して、 すそ も濡れそうに、ぐしゃりと しゃが んでいる。

 今度出来た、谷川に架けた新石橋は、ちょうど地蔵の 斜向 すじむか い。でその橋向うの大旅館の庭から、仮装は約束のごとく勢揃をして、温泉の町へ入ったが、――そう云ってはいかがだけれど、饑饉 どし の記念だから、行列が通るのに、四角な 行燈 あんどん も肩を円くして、地蔵前を 半輪 はんわ によけつつ通った。……そのあとへ、 人魂 ひとだま が一つ離れたように、提灯の松の下、小按摩の妄念は、列の中へ加わらずに孤影 ※然 けいぜん

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として残っている。……

 ぬしは分らない、仮装であるから。いずれ有志の一人と、仮装なかまで四五人も誘ったが、ちょっと手を 引張 ひっぱ っても、いやその手を引くのが不気味なほど、 しょう のものの身投げ按摩で、びくとも動かないでいる。……と言うのであった。

 ――これを云った謙斎は、しかし肝心な事を言いわすれた、あとで分ったが、誘うにも、同行を促すにも、なかまがこもごも声を掛けたのに、小按摩は、おくびほども口を利かない。「ぴい、ぷう。」舌のかわりに笛を。「ぴいぷう」とただ笛を吹いた。――

 半ば聞ずてにして、すっと袖の香とともに、花の座敷を抜けた夫人は、何よりも先にその真偽のほどを、――そんな事は遊びずきだし一番 あかる い――半助に、あらためて聞こうとした。懸念に処する、これがお桂のこの場合の第一の手段であったが。……

 居ない。

「おや、居ないの。」

 一層袖口を引いて襟冷く、少しこごみ腰に障子の 小間 こま から覗くと、鉄の大火鉢ばかり、誰も見えぬ。

「まあ。」

 式台わきの横口にこう、ひょこりと出るなり、モオニングのひょろりとしたのが、とまずシルクハットを取って高慢に 叩頭 おじぎ したのは……

「あら。」

  附髯 つけひげ をした料理番。並んで出たのは、玄関下足番の好男子で、近頃夢中になっているから思いついた、頭から顔一面、厚紙を貼って、 胡粉 ごふん つぶ した、不断女の子を悩ませる罪滅しに、 真赤 まっか に塗った顔なりに、すなわちハアトの ワン である。真赤な中へ、おどけて、舌を出しておじぎをした。

可厭 いや だ。……ちょいと、半助さんは。」

「あいつは、もう。」

 揃って二人ともまたおじぎをして、

「昼間っから行方知れずで。」

 と口々に云う処へ、チャンチキ、チャンチキ、どどどん、ヒューラが、直ぐそこへ。――女中の影がむらむらと帳場へ く、客たちもぞろぞろ出て来る。……血の道らしい年増の女中が、 裾長 すそなが にしょろしょろしつつ、トランプの顔を見て、目で 嬌態 しな をやって、眉をひそめながら肩でよれついたのと、 入交 いれまじ って、門際へどっと 駈出 かけだ す。

 夫人も、つい誘われて かど へ立った。

  高張 たかはり 弓張 ゆみはり が門の左右へ、掛渡した 酸漿提灯 ほおずきぢょうちん も、 ぱっ と光が増したのである。

  桶屋 おけや たこ は、もう うな って先へ飛んだろう。馬二頭が、鼻あらしを霜夜にふつふつと吹いて く囃子屋台を 真中 まんなか に、 磽※ こうかく

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たる石ころ みち を、坂なりに、大師 みち のいろはの辻のあたりから、次第さがりに人なだれを打って来た。弁慶の 長刀 なぎなた 山鉾 やまぼこ のように、見える、見える。 御曹子 おんぞうし は高足駄、おなじような桃太郎、義士の数が三人ばかり。五人男が七人居て、 かり がねが三羽揃った。……チャンチキ、チャンチキ、ヒューラと はや して、がったり、がくり、列も、もう乱れ がち で、昼の編笠をてこ舞に早がわりの 芸妓 げいしゃ だちも、 微酔 ほろよい のいい機嫌。青い ひげ も、白い顔も、 べに を塗ったのも、一斉にうたうのは どじょう すくいの 安来節 やすぎぶし である。中にぶッぶッぶッぶッと 喇叭 らっぱ ばかり鳴すのは、――これはどこかの新聞でも見た――自動車のつくりものを、腰にはめて くのである。

 時に、井菊屋はほとんど一方の町はずれにあるから、村方へこぼれた 祝場 いわいば を廻り すま して、行列は、これから 川向 かわむこう の演芸館へ繰込むのの、いまちょうど 退汐時 ひきしおどき 。人は一倍群ったが、向側が 崖沿 がけぞい の石垣で、用水の ながれ が急激に走るから、 されて ふみ はずす うれい があるので、群集は残らず井菊屋の片側に人垣を築いたため、 背後 うしろ の方の片袖の姿斜めな夫人の目には、山から星まじりに、祭屋台が、人の波に乗って、赤く、光って流れた。

 その影も、 ともしび も、犬が三匹ばかり、まごまご 殿 しんがり しながらついて、川端の酸漿提灯の中へぞろぞろと黒くなって紛れたあとは、 たたず んで見送る井菊屋の人たちばかり。早や内へ入るものがあって、急に寂しくなったと思うと、一足 おく れて、暗い坂から、―― 異形 いぎょう なものが下りて来た。

  疣々 いぼいぼ 打った 鉄棒 かなぼう をさし にな いに、桶屋も 籠屋 かごや も手伝ったろう。 張抜 はりぬき らしい 真黒 まっくろ 大釜 おおがま を、 ふた なしに担いだ、 牛頭 ごず 馬頭 めず の青鬼、赤鬼。青鬼が前へ、赤鬼が 後棒 あとぼう で、 可恐 おそろ しい面を かぶ った。縫いぐるみに相違ないが、あたりが暗くなるまで真に迫った。……大釜の底にはめらめらと 真赤 まっか な炎を彩って もや している。

 青鬼が、

「ぼうぼう、ぼうぼう、」

 赤鬼が、

「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」

 と陰気な合言葉で、国境の連山を、黒雲に 背負 しょ って あらわ れた。

 青鬼が、

「ぼうぼう、ぼうぼう、」

 赤鬼が、

「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」

 よくない 洒落 しゃれ だ。――が、訳がある。……前に一度、この 温泉町 ゆのまち で、桜の さかり に、仮装会を催した事があった。その時、墓を出た 骸骨 がいこつ を装って、 出歯 でっぱ をむきながら、 卒堵婆 そとば を杖について、ひょろひょろ、ひょろひょろと行列のあとの暗がりを縫って 歩行 ある いて、女 小児 こども おび えさせて、それが一等賞になったから。……

 地獄の釜も、按摩の 怨念 おんねん も、それから思着いたものだと思う。一国の美術家でさえ模倣を る、いわんや村の 若衆 わかしゅ においてをや、よくない真似をしたのである。

「ぼうぼう、ぼうぼう。」

「ぐらッぐらッ、ぐらッぐらッ。」

「あら、半助だわ。」

 と、ひとりの若い女中が言った。

 石を、青と赤い かかと で踏んで抜けた二頭の鬼が、 うしろ から、前を引いて、ずしずしずしと小戻りして、 人立 ひとだち の薄さに、植込の 常磐木 ときわぎ の影もあらわな、夫人の前へ寄って来た。

 赤鬼が最も著しい 造声 つくりごえ で、

牛頭 ごず よ、牛頭よ、青牛よ。」

「もうー、」

 と牛の声で応じたのである。

「やい、十三塚にけつかる、小按摩な。」

「もう。」

「これから行って、釜へ 打込 ぶちこ め。」

「もう。」

「そりゃ―― あゆ べい。」

「もう。」

「ああ、待って。」

 お桂さんは袖を投げて 一歩 ひとあし して、

「待って下さいな。」

 と釜のふちを白い手で留めたと思うと、

「お 熱々 つつ 。」

 と 退 すさ って耳を おさ えた。わきあけも、襟も、乱るる姿は、 電燭 でんき の霜に、 冬牡丹 ふゆぼたん の葉ながらくずるるようであった。